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742年 天宝元載 李白は、道教の道士でした。玄宗
皇帝の妹も熱心な道教信者で、李白の道士仲間で官
職についたものがおり、その上、賀知章が皇帝に薦めたと
いう絶対的なコネクションにより、特別職の宮廷詩人にな
ります。実質1年半で、酒の上の無礼で長安を追放され
ます。天宝3載(744年)のことです。 宦官の高力士を辱
めたのが理由となっていますが、実際には裏で李林甫が
行ったのです。
その後、李林甫は朝廷を私物化していくのですが、王
維は、座禅と罔川荘に力を注ぎます。
750年 天宝9載王維52歳で母を亡くします。
752年 天宝11載11月李林甫が病死します。
それまで李林甫にうまく取り入っていた楊
国息、右相となり、18年間の圧制も今
度は楊貴妃一族に取って代わります。
楊国忠が宰相になってから安史の乱が起こる755年天
宝十四載十一月までの三年間は、楊貴妃一族が全盛
を謳歌した時代ですが、王維のもう川荘はその間に完成
に近づいていきました。
王維はそのころに門下省の給事中(正五品上)に昇進
していますが、王維には妻も子もなく、 母も亡くなり、
弟妹もそれぞれ身を立てていたでしょうから、王維の収入
はすべて罔川荘の経営に注ぎこまれました。
『罔川集』二十首は罔川荘の完成された姿を示してい
ますので、詩集が成ったのも
天宝の末年、つまり安史の乱の起こる直前であったと思
われます。
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