紀頌之の韓愈詩文研究のサイト


  韓愈の生涯  

1-2 父 の 死




1-2 父 の 死


 韓仲卿の生年は明らかでない。したがって、愈が父の何歳の時の子であるかも、知ることができない。
 仲卿は銅範県の尉から、武昌県今に昇進した。そして善政を布いたらしく、都陽県今に転任した後、武昌の人々は仲卿の徳をたたえ、碑を立てて長く記念とした。碑文を書いたのが李白であり、《武昌宰韓君去思頌碑并序(卷二九(二)一六七○)》(武昌の宰韓君の去思頌の碑)と題する文章は、以下である。

 
武昌宰韓君去思頌碑并序
(卷二九(二)一六七○) 757年-052 李白57歳


 仲尼,大聖也,宰中都而四方取則;子賤,大賢也,宰單父人到餘今而思之。
乃知コ之休明不在位之高下,其或繼之者得非韓君乎?君名仲卿,南陽人也。  昔延陵知晉國之政必分於韓。獻子雖不能遏屠岸之誅,存孤嗣趙,太史公稱天下陰コ也。其賢才羅生,列侯十世,不亦宜哉!七代祖茂,後魏尚書令安定王。五代祖鈞,金部尚書。曾祖ラ,銀青光祿大夫雅州刺史。祖泰,曹州司馬。
考睿素,朝散大夫桂州都督府長史。分茅納言,剖符佐郡,奕葉明コ,休有烈光。君乃    長史之元子也。妣有?錢氏。及長史即世,夫人早孀,弘聖善之規,成名四子,文伯孟軻二母之儔歟!少卿,當塗縣丞,感(既木)重諾,死節於義。雲卿,文章冠世,拜監察御史,朝廷呼為子房。紳卿,尉高郵,才名振耀,幼負美譽。

 君自?州銅?尉調補武昌令。未下車,人懼之;既下車,人ス之。惠如春風,三月大化。姦吏束手,豪宗側目。有爨玉者,三江之巨,白額且去,清琴高張。兼操刀永興,二邑同化。時鑿齒磨牙而兩京,宋城易子而炊骨。?楚轉輸,蒼生熬然,而此邦晏如,襁負雲集。
 居未二載,?口三倍其初。銅鐵曾青未擇地而出。太冶鼓鑄,如天降神。既烹且爍,數盈萬億,公私其ョ之。官?請託之求,吏無絲毫之犯。
 本道採訪大使皇甫公?聞而賢之,擢佐?軒,多所弘益。尚書右丞崔公禹稱之于朝,相國崔公渙特奏授?陽令,兼攝數縣,所謂投刃而皆?,為其政而則理成,去若始至,人多懷恩。新宰王公名庭?,巖然太華,?然洪河。含章可貞,幹蠱有立。接武比コ,絃歌連聲。服美前政,聞諸耆老,與邑中賢者胡思泰一十五人,及諸寮吏,式歌且舞,願揚韓公之遺美,白彩謠刻石而作頌曰:
 峨峨楚山,浩浩漢水。?金之車,大?天子。武昌鼎據,實為帝里。時艱世訛,薄俗如燬。韓君作宰,撫茲遺人。滂汪王澤,猶鴻得春。和風潛暢,惠化如神。刻石萬古,永思清塵。


 ここで、李白の証言とは、この文章の中に書かれたものをさす。

 文章の内容は、このような碑文の通例として、仲卿の徳をたたえる言葉に満ちている。転任して去った後まで土地の人々に慕われたとは、よほど善政を施したように見えるが、同様の例は、べつに珍しくはない。李白の文集には、もう一つ、別の人のための《虞城縣令李公去思頌碑并序(卷二九(二)一六七七)》(從郁賢皓《謫仙詩豪李白 》?)も収められており、この種の碑を立てることが一つの慣例ともなっていたことが推測できる。そのほか、県令がよそへ転任するとき、住民が名残りを惜しみ、車を引きとめていつまでも離さなかったなどという話は、歴代の人物の伝記の中に、いくらでも発見できる。あまりに多すぎて、中国では歴代にわたって善歌を施した県今ばかり出現したような印象さえ受けるのであり、それにしては農民の一揆などが発生したのがふしぎだと思われる。

 もっとも、すべての県令が「去思頌碑」を立ててもらったわけではないので、それを立てられた仲卿は、よい県今の一人であったといえよう。ただ、一県の中には士農工商が住んでおり、県介の善政がそのうちのどこを主要な対象としていたかは、なお疑問として残る。そして李白の名文にもかかわらず、そこにつらねられた讃辞を、すべて額面どおりに受けとるわけには当然の事としてゆかない。

 李白にしても、仲卿と特に個人的な交際があったのではないらしいことが、文章の中から推測できる。仲卿をたたえる言葉はあっても、李白自身の見た仲卿という書き方は、どこにも見あたらない。いわばこれは、李白にとって、一種の頼まれ原稿だったのであろう。
 それも無理のないことで、李白は武昌県の住民ではない。放浪の旅を常とした彼の足跡を、年月に緊けて正確にたどることは困難だが、李白の年譜研究の近ごろの成果では、彼は至徳二年二月永王リンの軍が破れ、彭澤から武昌に逃げ、近隣を逃走し、758年恩赦を受け、乾元二年(759)の冬から翌上元元年(760)の春まで、武昌を訪れ、滞在したことが、ほぼ確実として推定される。安禄山の乱の時、彼が反乱軍とされた永王の軍隊に加わっていた罪を問われ、夜郎へ流される途中に書いたともいわれるが、罪人に碑文の執筆を依頼することは、まず考えられないのであろう。乾元二年の李白は、恩赦にあって引き返し、長江の川筋を遊歴していたので、至徳二年の春夏のころ依頼されたものとされる。

 だから李白は、旅さきで、そこの県令の「去思頌碑」を書いてくれと頼まれたのである。このような場合、相応の原稿料がもらえるのは当然であり、逃走中の李白は、たぶん潤沢な旅費も持ちあわせていなかったであろうから、原稿を依頼されればことわるどころか、渡りに船といった感じだったに違いない。そして仲卿の転任は、乾元元年の春であるから、その前年ということである。せいぜい半年足らずの間しか武昌に滞在しなかった李白ではあるが、見事な文章で書きあげたのである。それも仲卿の縣令としての執政をほとんど見ることなしに、碑文を書いたのである。

 武昌から南陽に去り、さらに秘書郎として都へ召された仲卿の履歴については、資料か一つもないので、正確な日づけはわからない。なぜこの点を問題にするのかというのは、韓愈の生地がどこかという疑問が生ずるからである。韓愈自身は、この点については何も語っていない。

 結論から先にいえば、韓愈が生まれたのは父が秘書郎の時代、場所は勤務地の長安である。韓愈がまだ三歳の大暦五年(七七〇)、仲卿か死んだのであるから、758年に代宗の即位の年に長安に秘書郎への転任し、上元元年として、韓愈の生まれた大暦三年までそこにいたとすれば、秘書郎の在任期間が三年になり、通常の在任期間である。そのほか、生誕のもう一つの候補地としては、韓氏の郷里である南陽という説もあった。その場合は、単身赴任をしたことになるが、当時の状況ではありうることであるが、韓愈自身に記録がないので確認するものがない。

 ここで、当時の地方官の生態につき、多少の筆をついやしておかねばならぬ。県令とか県丞とか、高級官僚(その中では末席の方に属するが)の地位につく人物が、商人や零細な農民の中から出ることは、まずないと言ってよい。たいがいは郷里に多少の土地・田畑を持ち、小作人を置いて農業生産に従事させ、一家の生計の全部または一部をそれに依存する。あるいは、代々役人が続いた家では、たとえばどこかの県令に在任中、適当な土地を物色して手に入れ、小規模ながら荘園として、家計の本拠をそちらに移すこともあり、宋代まで降ると、むしろこの方が多くなったように見うけられる。役人の俸給だけでは、よほどの高位高官に昇進するか、またはよほどあくどい手段で賄賂を取らない限り、一家巻属を養うには不足なのである。

 そこで、一家の主人は地方官として各地を転々とし、あるいは都に上って朝廷の役人となる。しかし、持っている土地は誰かが管理し、小作人などを監督して、収入をあげなければならぬ。大豪族ならば、家令のような者をおいて、その任に当らせることもできよう。しかし、かつがつ一家の生計を充足させる程度の地主ならば、専門の管理者に委任するほどのこともないし、人件費のむだ使いにもなってしまう。
 この場合、管理の任に当るのは、一家の主婦であることが多い。役人の主婦の仕事は、決して炊事や洗濯ではなく、農業生産を管理し運営し、一家を養う収入をあげることである。亭主の俸給など、あてにはしない。だが、そうなると主婦は亭主の任地まで同行することが不可能なので、亭主は常に単身赴任となる。それでは日常生活に不便を生するし、高級官僚の体面に傷がつく恐れもあろう。そこで、身のまわりの世話をする女性が必要となるが、これが二号・三号の夫人となることは、容易に推察できよう。

 人情には古今を通じて変らぬところがあって、亭主が任地で二号を持ったとやきもちを焼いた本妻の話は、決して少なくない。しかし、感情問題を別とすれば、亭主が妾を何人持とうと、本妻の座がゆらぐものではなかった。亭主の身のまわりの世話などは、貧乏人ならば別だが、かりにも高級官僚の地位にある人の本妻がみすから手を下すべきものではない。彼女には、亭主の俸給以外の仝収入・支出を管理する貴任があり、場合によっては、その額の方が俸給よりも多い。そして、それは彼女の権利でもあるわけで、妾かいくら亭主にかわいがられていても、そこに口を出すのは筋違いであった。妻妾同居は、中国では珍しくないことであるが、その場合、妾は本妻の指揮の下に、機織りなどをさせられるのである。日本の昔のお妾さんのような、黒板塀に見越しの松の小ぎれいな家をあてがわれて、猫を抱きながら旦那が来るのを待つ、のんきな生活を期待することはできない。
 したがって、多くの役人は妻子を任地まで連れて行かない。連れて行くのは、若い役人か(母親がまだ主婦の座を占めていて、嫁には権限も責任もないからである。ただし、母親が主婦見習として、嫁を家に残らせることもあった)、大地主で家計は家今まかせの場合かである。息子だけは、ある程度の年齢に達すると、役人としての訓練のため、父親が任地へ連れて行くこともあったが、これは当面の問題と関係がない。
 さてそこで、韓仲郷の家計の本拠地はどこにあったか。それはまた、韓愈の母親がどこにいて、どこで韓愈を生んだかという疑問と関連する。自分の母について、韓愈はやはり何も語っていない。
 後にもう一度書くが、韓愈の長兄の会は、大暦十三年(七七八)、四十二歳で死んだ。この時韓愈は十一歳だから、韓会は韓愈よりも三十一歳の年長である。これほど年齢の離れた兄弟が同じ母親を持つのは、ありえないことではないか、常識的には考えにくい。母親が違うとすれば、韓仲卿が韓会を生んだ妻と死別したというような事情があって、後妻を迎え、その腹から韓愈が生まれたか、あるいは仲郷が晩年に妾を持ち、それが韓愈の生母となったかの、どちらかが想像できよう。そのいずれかによって、韓愈の生地も変るはずであるが、現在わかる資料の限りでは、結論を出すことができない。

 ただ、愈には李氏という乳母があった。乳母として韓の家に雇われたが、そのまま再婚もせず、家族の一員として生涯を送り、韓愈が後年、河南県令にまで出世したのを見とどけて死んだ。韓愈はよほどこの乳母に感謝していたらしく、墓を作って、《昌黎先生集/卷35-7乳母墓銘》まで書いている。その中に、「愈は生まれて未だ再周月ならざるに孤にして、怯侍を失へり」という句がある。「恬侍を失ふ」とは両親を亡くすことで、彼は生まれてから満二か月以内に両親を亡くして孤児になったというのである。そのために乳母は韓愈を見捨てるに忍びす、世話をしてやっているうちに再婚の機を逸し、韓の家で生涯を送ることになったという説明が続く。
 しかし、後に書くように、韓愈の父は彼が三歳の時に死んだ。これは韓愈があちこちに書き残しているので、動かすことのできぬ事実である。とすれば、満一了月以内に両親を亡くしたという記述はおかしい。愈の文集の旧注には、ここの記述は事実と反するので、「未詳」と書いてある。
 ただ、「情侍」の本来の語義にはあまりこだわらず、多少粗雑な書き方と見れば、ここは単に「母を亡くした」だけのことと解釈できないこともない。乳母の自分に対する献身をたたえる文章なのだから、母親のことが中心になり、母を失った赤ん坊を見かねて、乳母が親身に世話をしたことが強調されるのはごく自然であり、父親の方はこの際考慮の外にあったとしても、べつにふしぎではない。そうだとすれば、愈の母親は、たぶん産後に病気を得て、亡くなったのであろう。
 しかも、続いて大暦五年(七七〇)、愈が三歳の時、父の仲郷も病死した。享年は不明だが、その三年前に子供を作っているのだから、これも常識的に考えれば、さほどの高齢ではなかったであろう。そして、病気のために職を辞したらしい形跡もないので、秘書郎に在職中、病気で死んだのかと思われる。秘書郎は高い官職でもないし、一般の行政官と違って、役得もない。たぶん平素の蓄えも多くはなかったと思われる上に、三歳の幼児が残された。遺族たちは、たちまち生計に窮したことであろう。
 仲卿亡きあとの韓氏を支えるのは、もちろん長男の会の役目であった。会はこのとき三十四歳、すでに妻子もあり、職名はわからないが、役人にもなっていた。韓氏一族を支えるに十分なほどの収入があったとは思えないが、それでも一族は、会の腕一本に頼るほかはなかったのである。








   ページの先頭へ  


15の漢詩総合サイト
















漢文委員会


紀 頌之