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  韓愈の生涯  

1-6 最初の挫折




1-6 最初の挫折

 貞元三年(787)、意は初めて試験場に入った。進士の試験など、「勉強しなくても合格できる」つもりであったが、結果は彼の自信を裏切って、落第であった。翌年、翌々年と続けさまに三度受験して、三度とも落ちた。
 そのころのことを、後年(といっても七年か八年後であるが)の愈は次のように述懐する。

複誌賦(並序)
愈既從隴西公平?州,其明年七月,有負薪之疾,退休於居,作《複誌賦》。其辭曰:
居悒悒之無解兮,獨長思而永歎。豈朝食之不飽兮,寧冬裘之不完。
昔餘之既有知兮,誠坎軻而艱難。當?行之未複兮,從伯氏以南遷。
?大江之驚波兮,過洞庭之漫漫。至曲江而乃息兮,逾南紀之連山。
嗟日月其幾何兮,攜孤?而北旋。?中原之有事兮,將就食於江之南。
始專專於講習兮,非古訓為無所用其心。窺前靈之逸跡兮,超孤舉而幽尋。
既識路又疾驅兮,孰知餘力之不任。考古人之所佩兮,?時俗之所服。
忽忘身之不肖兮,謂青紫其可拾。自知者為明兮,故吾之所以為惑。
擇吉日餘西征兮,亦既造夫京師。君之門不可徑而入兮,遂從試於有司。
惟名利之都府兮,羌?人之所馳。競乘時而附勢兮,紛變化其難推。
全純愚以靖處兮,將與彼而異宜。欲奔走以及事兮,顧初心而自非。
朝騁?乎書林兮,夕?翔乎藝苑。諒卻?以圖前兮,不浸近而逾遠。
哀白日之不與吾謀兮,至今十年其猶初。豈不登名於一科兮,曾不補其遺餘。
進既不獲其誌願兮,退將遁而窮居。排國門而東出兮,慨餘行之舒舒。
時憑高以回顧兮,涕泣下之交如。?洛師而悵望兮,聊浮遊以躊?。
假大龜以視兆兮,求幽貞之所廬。甘潛伏以老死兮,不顯著其名譽。
非夫子之洵美兮,吾何為乎浚之都。小人之懷惠兮,猶知獻其至愚。
固餘異於牛馬兮,寧止乎飲水而求芻。伏門下而默默兮,竟?年以康?。
時乘間以獲進兮,顏垂歡而愉愉。仰盛コ以安窮兮,又何忠之能輸。
昔餘之約吾心兮,誰無施而有獲。疾貪佞之?濁兮K曰吾其既勞而後食。
懲此誌之不修兮,愛此言之不可忘。情?悵以自失兮,心無歸之茫茫。
苟不?得其如斯兮,孰與不食而高翔。抱關之阨陋兮,有肆誌之揚揚。
伊尹之樂於?畝兮,焉富貴之能當。恐誓言之不固兮,斯自訟以成章。
往者不可複兮,冀來今之可望。

擇吉日餘西征兮,亦既造夫京師。君之門不可徑而入兮,遂從試於有司。
惟名利之都府兮,羌?人之所馳。競乘時而附勢兮,紛變化其難推。
全純愚以靖處兮,將與彼而異宜。欲奔走以及事兮,顧初心而自非。
吉日を西征に択び、亦既に夫の京師に造る。
君の門はただちにして入るべからず、遂に試に有司に従ふ。
惟れ名利の都府、禿衆人の馳する所、競つて時に乗じて勢に附き。
紛として変化して其れ推り難し、全く純愚にして以て靖処し、将に彼と宜を異にせんとす。
奔走して以て事に及ばんと欲するも、初心を顧みて自ら非とす。
     ・・・・・・・・・・・・
 「西征」とは西への旅のことで、江南から上京したことをさす。地理的には、長安は江南の西北にあたるが、当時は西と称するのか通例であった。しかし、上京してもすぐ朝廷(君之門)に入ることはできないから、役人(有司)のところへ行って試験を受けた。ところが科拳は名声と利益が存在する場なので、衆人がここへ向けて馳せ参じる。そして誰もが時勢に迎合し、本心はともかく、さまざまに飾って変化を示す。その中で自分は純愚であり、何ひとつ運動もせず(靖処)、一般の受験生とは違った態度をとることにした。ときには自分も大官たちの間を奔走し、うまく立ちはたらこうと思わないでもなかったが、わが初心を反省し、それを誤ったことと判断した。

 ここで愈は、抽象的にではあるが、科挙に合格できさえすれば手段は選ばないとして狂奔する受験生たちの姿を描き出した。しかし、かりに意が自分も狂奔するつもりになったとしても、彼に有効な手づるがなかったことは、前に述べたとおりである。実力もないくせに、縁故のおかげで科挙に合格した連中は、いくらもあったに違いない。だが一方では、縁故もなく、運動もしないから合格できないのだとは、落第書生の言いわけとしては常套的なので、額面どおりには信用しかねる。
 正確な統計はないし、作ることも不可能なのだが、唐一代を通じ、学者・文人として名の残ったほどの人で、科拳を一回で通過したのは、そう多くはないはすである。たいていは一度や二度、落第の悲哀を味わっている。中には杜甫のように、最後まで合格できなかった人物もあった。どうやら科拳には受験技術が必要であり、また、あまりに個性の強い答案は、それが採点官の個性と一致するというよほどの偶然かない限り、排除される傾向にあったと思われる。

 落第した時の愈の答案は残っていないので、正確な判定はできない。しかし、まだ若かった彼は、実カさえあれば合格でき、合格すれば末は宰相の地位も期待できるという科拳制度の「たてまえ」を信じ、十分な自信を持って上京したのであろう。ただ、その「実力」なるものの基準か、もっぱら主観的な採点法である以上、試験官と受験生の間で一致するとは限らない。だから自信があっても落第する現象が起るのだが、そこに気かつかなければ、縁故を求めて狂奔する他の受験生たちの姿ばかりが目につくこととなる。


 このころ(あるいは馬燧の援助を受ける直前になるかもしれない)の作と推定される「出門」と題する詩がある。現存する意の詩の中で、ごく初期の作に属するが、その中には「……古人腿に死せりと獣ぴ/書上に遺辞有り/巻を開いて読包祭猷へば/千載も榔期するが貳し/門をかづれば祖弓道有り/我が道は未だ夷らかならず/且らく此の中に息はん/天命は吾を欺かじ」という句かある。ここに見られる「古人」への傾斜が、やがて彼の古文への主張につながるはずであるが、この時期には、まだ明瞭な意識としては存在しなかったであろう。ただ、いにしえを信じ、「古人」との一体感を持つことが、彼の自信の根拠になっていたと想像されるが、これは科挙においては、あまり有利でない。当時の科挙は、むしろ斬新な着意・警抜な表現を重んじたと思われるからである。答案として書いた詩の、一句の警抜さゆえにめでたく合格したなどという逸話が、少なからず伝えられている。
 愈の自信は動かないにしても、三度も落第したのでは、さすがに周囲の目に気がねもあったであろう。援劫してくれる馬燧にも、そう甘えてはいられない。三度目に落ちた翌年、貞元六年(七九〇)に彼は都を出て、江南の家へ引きあげた。
 その旅の途中、鄭州(河南)まで来たところで、意は近くの滑州に本拠をおく節度使の買耽にあてて手紙を書いた。この《外集? 卷2-1上賈滑州書》賈滑州に上る書)が、現存する彼の文章で制作時期を明らを捧げる)の礼を獣ひヽ叙かに鮒択七し所の文一十五章を整頓jy以て貧とがしてヽ然る耐貳の意をかにし得るもののうち、おそらく最も早い作品であろう。
 その手紙は、「愈は儒服する者なれば、敢て他の術を用て進むを干めず、又古の費を執る(礼物此に喩す」という書き出しで始まる。それから自己紹介に移り、「愈は年二十有三、書を読み文を学ぶこと十五年、言行は敢て古人に戻らず」と述べてから、現在の窮状を訴え、転じて買耽の徳をたたえて、その部下となりたい希望を明らかにし、目下旅行の途中なので、とりあえす下僕にこの乎紙を持たせ、旅館で待機しているから、十五章の文を読んで自分の志のあるところを察してほしい、自分を採用してくれるのもくれないのも、ひとえにあなたの裁量に待つ、と述べて結ぶ。
 節度使は自分の管轄する地方の軍政のため、「募府」を構成し、幕僚を置く。幕僚の人事はすベて節度使の権限内にあり、節度使が人選をして朝廷に届け出れば、朝廷は異議なく認め、辞令を交付することになっていた。つまり任命権は朝廷にあるが、選考の権限は節度使に委譲されていたのである。そこで、節度使は科拳に合格したか否かという形式的な資格に拘束されず、自分が認めた人材を自由に推挙し、役人とすることができる。
 どこの節度使も、幕府に人材を集めたがっていた。ただ、よほど親しければ別だが、人材が容易に判定できるものではない。縁故者だけで幕府をかためる手段もあるが、あまり露骨に過ぎれば、かえって人材が寄りつかなくなる。そこで、節度使の判断の基準に、やはり科挙が利用された。もっとも、科挙に合格して出世=Iスに乗った連中は、朝廷の官僚となることを当然に希望するので、募府などには来てくれない。来てくれるのは、郷貢の進士であるが進士の試験に落第したとか、進士の試験は通ったが次の吏部で落第したとか(このことにっいてはまた後に述べる)いった、要するに落第生である。
 落第生の方でも、何年でも浪人して合格を目ざす連中もあったが、生活の問題もあるので、浪人を続けるうちにどこかで見切りをつけざるを得ない。ところが、受験勉強一本で進んで来た身が、いまさら農業などの力仕事ができるわけもなし、商人になるのは、士の身分にある者の恥とするところである。やはり身についた学問と文筆を生かして職を得なければならない、となったとき、最も有利なのが節度使の幕下に入ることであった。
 募僚となれば、もちろん俸給がもらえるが、それだけではない。節度使になるほどの人物は、原則として有力者である(盛唐のころまでは、たとえば安禄山のように、異民族出身の武将を節度使とすることが多かった。しかし、愈の生きた中唐の時代では、もう事情が変っている)。何かのはずみで朝廷に入り、高い地位につくかもしれない。そのとき、慕僚として手腕を示していれば、連れて行ってもらえる。そして朝廷の官僚に推薦される可能性もあるわけで、科拳の落第生が合格者と肩をならべ、あるいはその上位につくことも、運がよければの話だが、ないとはいえなかった。
意秘自分を買耽に売りこんで、募僚にしてもらいたいと思ったのである。肘訟でも贈れば効果は大きいはずだが、プライドが許さないし、第一それだけの金もない。そこで自分は「儒服する者」だからと、大上段にかまえ、十五首の文を呈上した。受験生が都の大官に対するのと、同じ手を使ったことになる。相乎はたぷん、韓愈などという姓名は聞いたこともなかろうが、自分の心意気はこの文で察してくれというのである。
 ただ、この種の手紙は、当時通行の朕文という、調子がよく、装飾の多い文体で書くのが常識であった。愈の文章は、多少その点に配慮したらしい痕跡はあるが、絣文の形式を整えてはいない。
後年になって彼が力説した古文の文体としては、まだ絣文の感じか残っているものの、古文の萌芽はすでに見えている。総体に修飾を抑制して簡潔化した、達意の文章になっているのである。
 これを読んだ買耽がどう感じたかは、記録が残っていない。買耽が読んだかどうかも疑わしいのであって、無名の青年からの乎紙に、節度使が一々目を通すとは、まず考えられないであろう。通常は幕僚が読み、必要があれば節度使へ差出す。その過程で、愈の手紙はたぶん紙屑籍に投げこまれたと見てよさそうである。節度使の幕下には自薦他薦の者がいくらも押しかけて来たはすで、よほどのことがなければ、取り上げてもらえるはずがない。
 愈の自薦状は、文体も常識的ではなく、内容にも泣訴嘆願といった調子は乏しいので、つまり風変りな乎紙だったに違いない。その風変りがおもしろいと言ってくれる募僚がいてくれればよかったのだが、いなければ問題にもなるまい。結局、買耽からの反応はなかった。鄭州の旅館で、愈は返事を待ちわびていたのであろうが、先方から何も言って来なければ、手の打ちようがない。彼はついにあきらめて、江南へと失意の旅を続けた。

《昌黎先生集/卷2-25烽火》

烽火
登高望烽火,誰謂塞塵飛。
王城富且樂,曷不事光輝。
勿言日已暮,相見恐行稀。
願君熟念此,秉燭夜中歸。
我歌寧自感,乃獨?霑衣。
(烽火)
重陽の節句で高い山に登って遠く故郷を臨んだ時、烽火が紅く見えた。無論遠い国境での事だろうが、その塞の戦塵がここまで飛んでくるのだろうかと誰が言うのだろう。
ここはむかし、王城があったところで、豪富を極め、且つ、歓楽で満ちていたところなのだ。どうして、自分の力で出来るだけ栄華を極め、光華なことをできるものではないだろう。
ところで、日がくれれば帰らねばならないから、暮れたなどとは言わぬ方がいいが、朝になれば、互いに酒を酌み交わして楽しむことできないかもしれない。
願わくば、君はこの事を考えてみてくれ、夜になっても構わない、燭をとって夜中になってかえればよいから、ここでは、ともし火を掲げて、飲み尽くし、遊びをつくすべきなのだ。
私がこうして歌っても、考えてみればここでどんなに楽しんでみても、兵乱がいつ起こるかもしれないし、このまま科挙に及第しないかもしれない。そう考えれば、自然感慨を免れず、涙は溢れて衣を濡らしていくのだ。
(烽火)
登高 烽火を望み,誰か謂う 塞塵飛ぶ。
王城 富み且つ樂み,曷【なん】ぞ 光輝を事せざる。
言う勿れ 日已に暮ると,相見る 恐らくは行く稀れならん。
願わくば君 熟【つらつ】ら 此を念い,燭を秉って夜中に歸れ。
我が歌 寧ろ自ら感ずるならんや,乃ち 獨り ? 衣を霑す。





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