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  韓愈の生涯  

6-4-(1)平淮西碑について






■平淮西碑 (韓碑)・と論佛骨表に関する韓愈の年譜
西暦 皇帝
元号
韓愈行跡・作品・時事
815 憲宗 元和 10年
48
5月、「淮西の事宜を論ずる状」を上奏し、淮西の乱に断固たる措置を求める。夏、「順宗実録」を撰進。*「盆地五首」*「児に示す」作。
816
11
49
正月20日、中書舎人に転任。緋魚袋を賜わる。5月18日、太子右庶士に降任。*「張籍を調(あざけ)る」作
817
12
50
7月29日、裴度、淮西宣慰招討処置使となるに伴い、兼御史中丞、彰義軍行軍司馬となる。8月、滝関を出、本隊より離れて?州に急行し、宣武軍節度使韓弘の協力をとりつける。10月、敵の本拠、蔡州を間道づたいに突くことを願うも、唐ケ随節度使李愬に先をこされる。11月28日、蔡州を発して長安へ向かう。12月16日、長安へ帰る。21日、刑部侍郎に転任。*「裴相公の東征して途に女几山の下を経たりの作に和し奉る」作
818
13
51
正月、「淮西を平らぐる碑」 を上るも、李愬の訴えにより、碑文は磨り消される。4月、鄭余慶、詳定礼楽使となり、推薦されて副使をつとめる。*「独り釣る四首」
819
14
52
正月14日、「仏骨を論ずる表」を上り、極刑に処せられるところを、裴度らのとりなしで、潮州刺史に左遷となる。3月25日、潮州に着任。10月24日、?州刺史に転任。*「左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す」*「滝吏」*「始興江口に過る感懐」*「柳柳州の蝦蟇を食うに答う」*「?州に量移せらる張端公詩を以て相賀す因って之に酬ゆ」  *二月二日、潮州への旅の途次、四女?、死没。7月、大赦。
820
15
53
正月八日袁州に量移され着任。九月二十二日、國子祭酒に転任。十二月末、長安に還る。除官赴闕至江州寄鄂岳李大夫・送侯喜・詠燈花同侯十一・題秀禪師房・將至韶州,先寄張端公使君借圖經・韶州留別張端公使君・次石頭驛寄江西王十中丞閣老・遊西林寺題蕭二兄郎中舊堂自袁州還京,行次安陸,先寄隨州周員外・題廣昌館・寄隨州周員外・酒中留上襄陽李相公・
賀張十八祕書得裴司空馬・《祭柳子厚文》
821
16
54

822
17
55









韓愈《平淮西碑》訳注解説 全26回  
1
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#0>U中唐詩743 
2
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#1>U中唐詩744
3
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#2>U中唐詩745
4
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#3>U中唐詩746
5
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#4>U中唐詩747
6
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#5>U中唐詩748
7
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#6>U中唐詩749
8
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#7>U中唐詩750
9
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#8>U中唐詩751
10
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#9>U中唐詩752
11
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#10>U中唐詩753
12
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#11>U中唐詩754
13
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#12>U中唐詩755
14
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#13>U中唐詩756
15
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#14>U中唐詩757
16
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#15>U中唐詩758
17
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#16>U中唐詩759
18
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#17>U中唐詩760
19
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#18>U中唐詩761
20
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#19>U中唐詩762
21
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#20>U中唐詩763
22
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#21>U中唐詩764
23
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#22>U中唐詩765
24
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#23>U中唐詩766
25
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#24-1>U中唐詩767
26
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#24-2>U中唐詩767






平淮西碑 原文 韓愈
#1
天以唐克肖其コ,聖子神孫,
繼繼承承,於千萬年,敬戒不怠,
全付所覆,四海九州,罔有?外,悉主悉臣。
高祖太宗,既除既治;
#2
高宗中睿,休養生息;
至於玄宗,受報收功,極熾而豐,物?地大,?牙其間;
肅宗代宗,コ祖順考,以勤以容,大慝適去。
?莠不?,相臣將臣,文恬武嬉,習熟見聞,以為當然。


#3
睿聖文武皇帝,既受羣臣朝,乃考圖數貢,
曰:「嗚呼!天既全付予有家,今傳次在予,
予不能事事,其何以見於郊廟?」
羣臣震懾,奔走率職。明年,平夏;
又明年,平蜀;又明年,平江東;
又明年,平澤?遂定易定,
致魏、博、貝、衛、?、相,無不從志。
皇帝曰:「不可究武,予其少息。」

#4
九年,蔡將死。蔡人立其子元濟以請,不許。
遂燒舞陽,犯葉襄城;以動東都,放兵四劫。
皇帝?問于朝,一二臣外,
皆曰:「蔡帥之不廷授,于今五十年,傳三姓四將;
其樹本堅,兵利卒頑,不與他等。因撫而有,順且無事。」
大官臆决唱聲,萬口和附,?為一談,牢不可破。
皇帝曰:「惟天惟祖宗所以付任予者,
庶其在此,予何敢不力。況一二臣同,不為無助。」

#5
曰:「光顏,汝為陳、許帥,維是河東、魏博、
?陽三軍之在行者,汝皆將之。」
曰:「重胤,汝故有河陽、懷,今益以汝,維是朔方、義成、陝、益、鳳翔、延、
慶七軍之在行者,汝皆將之。」
曰:「弘,汝以卒萬二千屬而子公武往討之。」
曰:「文通,汝守壽,維是宣武、淮南、宣歙、
浙西四軍之行于壽者,汝皆將之。」
#6
曰:「道古,汝其觀察鄂岳。」
曰:「愬,汝帥唐、ケ、隨,各以其兵進戰。」
曰:「度,汝長御史,其往視師。」
曰:「度,惟汝予同,汝遂相予,以賞罰用命不用命。」
曰:「弘,汝其以節都統諸軍。」
曰:「守謙,汝出入左右,汝惟近臣,共往撫師。」
#7
曰:「度,汝其往,衣服飲食予士,無寒無飢。
以既厥事,遂生蔡人。
賜汝節斧,通天御帶,衛卒三百。
凡茲廷臣,汝擇自從,惟其賢能,
無憚大吏。庚申,予其臨門送汝。」
曰:「御史,予閔士大夫戰甚苦,
自今以往,非郊廟祠祀,其無用樂。」

#8
顏、胤、武,合攻其北,大戰十六,
得柵城縣二十三,降人卒四萬。
道古,攻其東南,八戰,降萬三千,
再入申,破其外城。文通,戰其東,
十餘遇,降萬二千。
愬,入其西,得賊將,
輙釋不殺,用其策,戰比有功。
#9
十二年八月,丞相度至師,都統弘責戰益急,
顏、胤、武合戰益用命,
元濟盡?其?,曲以備。
十月壬申,愬用所得賊將,
自文城因天大雪,疾馳百二十里,
用夜半到蔡,破其門,
取元濟以獻,盡得其屬人卒。辛巳,
丞相度入蔡,以皇帝命赦其人。
淮西平,大饗賚功,
師還之日,因以其食賜蔡人。
凡蔡卒三萬五千,其不樂為兵,
願歸為農者十九,悉縱之。斬元濟京師。

#10
冊功:弘加侍中;愬,為左僕射,帥山南東道;
顏、胤皆加司空;公武以散騎常侍,帥?坊丹延;
道古進大夫;文通加散騎常侍。
丞相度朝京師,道封晉國公,
進階金紫光祿大夫,以舊官相,
而以其副ハ為工部尚書,領蔡任。
既還奏,羣臣請紀聖功,被之金石。
皇帝以命臣愈。臣愈再拜稽首而獻文曰:

#11
唐承天命,遂臣萬邦。
孰居近土,襲盜以狂。
往在玄宗,崇極而?。
河北悍驕,河南附起。
四聖不宥,?興師征。
#12
有不能尅,益戍以兵。
夫耕不食,婦織不裳。
輸之以車,為卒賜糧。
外多失朝,曠不嶽狩。
百隸怠官,事亡其舊。

#13
帝時繼位,顧瞻咨嗟。惟汝文武,孰恤予家。
既斬?蜀,旋取山東。魏將首義,六州降從。
淮蔡不順,自以為強。提兵叫讙,欲事故常。
#14
始命討之,遂連姦鄰。陰遣刺客,來賊相臣。
方戰未利,?驚京師。羣公上言,莫若惠來。
帝為不聞,與神為謀。乃相同コ,以訖天誅。
#15
乃敕顏胤,愬武古通,咸統於弘,各奏汝功。
三方分攻,五萬其師。大軍北乘,厥數倍之。
常兵時曲,軍士蠢蠢。既翦陵雲,蔡卒大窘。
#16
勝之邵陵,?城來降。自夏入秋,復屯相望。
兵頓不勵,告功不時。帝哀征夫,命相往釐。
士飽而歌,馬騰於槽。
#17
試之新城,賊遇敗逃。盡抽其有,聚以防我。
西師躍入,道無留者。??蔡城,其?千里。
既入而有,莫不順俟。

#18
帝有恩言,相度來宣:誅止其魁,釋其下人。
蔡之卒夫,投甲呼舞;蔡之婦女,迎門笑語。
蔡人告飢,船粟往哺;蔡人告寒,賜以助z。
#19
始時蔡人,禁不往來;今相從戲,里門夜開。
始時蔡人,進戰退戮;今?而起,左?右粥。
為之擇人,以收餘憊;選吏賜牛,教而不?。
#20
蔡人有言,始迷不知。今乃大覺,羞前之為。
蔡人有言,天子明聖;不順族誅,順保性命。
汝不吾信,視此蔡方;孰為不順,往斧其吭。
#21
凡叛有數,聲勢相倚;吾強不支,汝弱奚恃;
其告而長,而父而兄;奔走偕來,同我太平

#22
淮蔡為亂,天子伐之,既伐而飢,天子活之,
使議伐蔡,卿士莫隨,既伐四年,小大並疑,
不赦不疑,由天子明,凡此蔡功,惟斷乃成,
既定淮蔡,四夷畢來。遂開明堂,坐以治之。



平淮西碑 (韓碑)李商隠
#1
元和天子神武姿、彼何人哉軒與義。
誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷
淮西有賊五十載、封狼生??生羆。
不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。
#2
帝得聖和相日度、賊斫不死~扶持。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不?。
#3
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
古者世稱大手筆、此事不?於職司。
當仁自古有不讓、言訖?頷天子頤。
公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
文成破體書在紙、清晨再拝鋪丹?。
#4
表日臣愈昧死上、詠~聖功書之碑。
碑高三丈字如斗、負以霊鼇蟠以?。
句奇語重喩者少、讒之天子言其私。
長縄百尺?碑倒、?砂大石相磨治。
#5
公之斯文若元気、先時己入人肝脾。
湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
鳴呼聖皇及聖相、相與?赫流淳熙。
公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。
#1
唐元和の中興の時期、憲宗皇帝は、はなはだ秀れた勇武ある身ごなしのお方と評された。人人が理想の皇帝としてあがめる伏義と軒轅に代表される有徳の統治者三皇五帝も、憲宗皇帝を前にしては、何はどの人物と思われるであろう。
憲宗はそれまで歴代の意の威信を傷つけた藩鋲と節度使の勝手気ままなのさばりを、まず鎮圧して、先帝の恥を灌ごうと誓いをたて、また、四方の異民族の参勤を、朝廷で謁見させるため夷狄討征の決意をもされたのだ。
これまで、淮西の節度使は、凡そ五十年間、朝命を無視して、私利をのみ謀る奸臣から乱臣賊子と化していた。粛宗皇帝の時より、李希烈・陳仙奇・呉少誠・呉少陽・呉元?と、配される節度使に交替はあっても、それは、狼が大虎にかわり、虎が羆を生んだということなのだ。
本当の盗賊、野獣であるなら、山河深く隠れて住むものだが、堂々と平地、町家に依拠し、その権力をふるっている。長い戈、するどい矛をずらりと軍列を整えていたのだ、だからその地域においては、太陽すらまねきかえせるほどの資力、勢力をたくわえていたのである。
#2
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。
#3
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。
#4
かくて官府に奉る上奏文を韓愈はかきあげた、それは、「臣韓愈、昧死して上る次第であります」から始まり、「このたびの戦勝の功、即ち天子有徳の証拠である功績を、かくの如く碑文に詠いあげる。」と献上したのであった。
碑石の高さは三丈もあり、その字はまた斗の如く大きなものだった。礎石には神秘な巨亀のかたちが刻まれ、また書に威厳をそえる模様とし周囲にみずちをめぐらしていた。
その一句一句は、常識を超えた独特の表現であり、一語一語がおごそかで重く、そのため、その卓越した表現力を理解できるものが少なかったのだ。特に、李愬の一族は不満をもったようで、よく理解ができないのに、その文章が高が文人ごときの私情にかたよっていると天子に讒言を申しでた。
立されていた百尺もある碑石は長い縄でしばられ倒されてしまったのだった。その上にあらい磨き砂をまいて、碑文を磨滅させてしまい、別の文章をはりなおすということになったのである。
#5
しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその?赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。








平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#1>U中唐詩744 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2704

814年元和九年に呉少陽が死ぬと、その部下は勝手に少陽の子元済を立てて、朝廷の任命を請うて来た。朝廷は許さなかったので遂に叛いた。憲宗は裴度の意見を用いて之を討つことに決した。裴度は淮西宣慰処置使、兼彰義軍節度使となったが、韓愈を行軍司馬に任じた。
淮水西方の土地、蔡の地を淮西という。この地方の賊が平定すると、韓愈は裴度に随って朝廷に帰り、功を以て刑部侍即を授けられ、「准西を平ぐる碑」を作れとの詔を受けた。これは韓愈一生の最も重大な作品で、苦心努力の結晶であった。彼の代表作の中でも有数のものである。主旨は惟西の平定によって、憲宗の天下支配が成ったことを頌するのである。

平淮西碑 #1
(淮西を平定したことを記念する碑。)
天以唐克肖其コ,聖子神孫,
天は、唐王朝が、天の徳性により困難に勝つことでもって、神のようにすぐれた子孫がうまれる。
繼繼承承,於千萬年,敬戒不怠,
そしてそれが、千万年にも次々相継ぎ、そして次々相承けて、敬しみ戒めて怠らず勤めるのである。
全付所覆,四海九州,
天の覆うところの四方の地のはての海いたるまで、その中の九州をすべて唐に与えられたのである。
罔有?外,悉主悉臣。
漢民族と、異民族内外の区別がなく、唐は悉くその君主となり、人々は悉く臣下となった。
高祖太宗,既除既治;
高祖を継いだ、太宗は、すでに逆賊を除き、すでに天下を手中に治めたのである。
#2
高宗中睿,休養生息;
至於玄宗,受報收功,
極熾而豐,物?地大,?牙其間;
肅宗代宗,コ祖順考,
以勤以容,大慝適去。
?莠不?,相臣將臣,
文恬武嬉,習熟見聞,以為當然。
平淮西碑 #1
天以って 唐の克く其のコに肖て,聖子 神孫,
繼繼 承承して,千萬年に於て,敬戒 不怠らざるを,
覆う所を全付する,四海九州,
?外有る罔し,悉く主 悉く臣たり。
高祖 太宗,既に除き既に治む;











『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #1
天以唐克肖其コ,聖子神孫,
繼繼承承,於千萬年,敬戒不怠,
全付所覆,四海九州,
罔有?外,悉主悉臣。
高祖太宗,既除既治;


(下し文)
#1
天以って 唐の克く其のコに肖て,聖子 神孫,
繼繼 承承して,千萬年に於て,敬戒 不怠らざるを,
覆う所を全付する,四海九州,
?外有る罔し,悉く主 悉く臣たり。
高祖 太宗,既に除き既に治む;


(現代語訳)
(淮西を平定したことを記念する碑。)
天は、唐王朝が、天の徳性により困難に勝つことでもって、神のようにすぐれた子孫がうまれる。
そしてそれが、千万年にも次々相継ぎ、そして次々相承けて、敬しみ戒めて怠らず勤めるのである。
天の覆うところの四方の地のはての海いたるまで、その中の九州をすべて唐に与えられたのである。
漢民族と、異民族内外の区別がなく、唐は悉くその君主となり、人々は悉く臣下となった。
高祖を継いだ、太宗は、すでに逆賊を除き、すでに天下を手中に治めたのである。

(訳注)
平淮西碑 #1
(淮西を平定したことを記念する碑。)

天以唐克肖其コ,聖子神孫,
天は、唐王朝が、天の徳性により困難に勝つことでもって、神のようにすぐれた子孫がうまれる。
○肖 肖る【あやか・る】1 影響を受けて同様の状態になる。感化されてそれと同じようになる。ふつう、よい状態になりたい意に用いられる。2 影響を受けて変化する。動揺する。
○其徳 天の徳性。万物を覆い育てる徳。恩恵。

繼繼承承,於千萬年,敬戒不怠,
そしてそれが、千万年にも次々相継ぎ、そして次々相承けて、敬しみ戒めて怠らず勤めるのである。
〇継継承承 継承を重ねて丁重にいう。

全付所覆,四海九州,
天の覆うところの四方の地のはての海いたるまで、その中の九州をすべて唐に与えられたのである。

罔有?外,悉主悉臣。
漢民族と、異民族内外の区別がなく、唐は悉くその君主となり、人々は悉く臣下となった。

高祖太宗,既除既治;
高祖を継いだ、太宗は、すでに逆賊を除き、すでに天下を手中に治めたのである。









平淮西碑 #1
天以唐克肖其コ,聖子神孫,
繼繼承承,於千萬年,敬戒不怠,
全付所覆,四海九州,
罔有?外,悉主悉臣。
高祖太宗,既除既治;
(淮西を平定したことを記念する碑。)
天は、唐王朝が、天の徳性により困難に勝つことでもって、神のようにすぐれた子孫がうまれる。
そしてそれが、千万年にも次々相継ぎ、そして次々相承けて、敬しみ戒めて怠らず勤めるのである。
天の覆うところの四方の地のはての海いたるまで、その中の九州をすべて唐に与えられたのである。
漢民族と、異民族内外の区別がなく、唐は悉くその君主となり、人々は悉く臣下となった。
高祖を継いだ、太宗は、すでに逆賊を除き、すでに天下を手中に治めたのである。
#2
高宗中睿,休養生息;
至於玄宗,受報收功,
極熾而豐,物?地大,?牙其間;
肅宗代宗,コ祖順考,
以勤以容,大慝適去。
?莠不?,相臣將臣,
文恬武嬉,習熟見聞,以為當然。
高宗・中宗・睿宗は、人民を休め、養い、生きて殖えさせたのである。
玄宗に至って、祖宗善政の報いを受け治策の結果を手に収めた。
極めて盛んな勢いがあり豊かな御代となって、物産は多く土地は広大であったが、其の間にひこはえの芽のようなよくない者が出て来た。
粛宗・代宗・わが君の祖父徳宗・父順宗は、治安に勤めて賊を討たれた。
降将を赦して受け容れたりされた。その結果大悪人は今ちょうど去ったのである。
害草のような小賊はまだ草斬り去らないでいるし、大臣や大将などは、
皆文官は安んじ武官は楽しんで、見開くことに馴れ知りつくしていて、当然のことと考えている。
平淮西碑 #1
天以って 唐の克く其のコに肖て,聖子 神孫,
繼繼 承承して,千萬年に於て,敬戒 不怠らざるを,
覆う所を全付する,四海九州,
?外有る罔し,悉く主 悉く臣たり。
高祖 太宗,既に除き既に治む;
#2
高宗・中・睿,休養 生息し;
玄宗に至って,報を受けを功を收め,
極めて熾【さか】んにして豐かに,物?【おお】くして地大にして,其の間に?牙す;
肅宗【しゅくそう】・代宗【だいそう】,コ祖【とくそ】・順考【じゅんこう】,
以って勤め以って容る,大慝【だいとく】適去。
?莠【ちゅうい】?【くさき】らず,相臣【そうしん】將臣【しょうしん】,
文恬【ぶんてん】武嬉【ぶき】,見聞に習熟して,以って當然と為す。


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #2
高宗中睿,休養生息;
至於玄宗,受報收功,
極熾而豐,物?地大,?牙其間;
肅宗代宗,コ祖順考,
以勤以容,大慝適去。
?莠不?,相臣將臣,
文恬武嬉,習熟見聞,以為當然。


(下し文) #2
高宗・中・睿,休養 生息し;
玄宗に至って,報を受けを功を收め,
極めて熾【さか】んにして豐かに,物?【おお】くして地大にして,其の間に?牙す;
肅宗【しゅくそう】・代宗【だいそう】,コ祖【とくそ】・順考【じゅんこう】,
以って勤め以って容る,大慝【だいとく】適去。
?莠【ちゅうい】?【くさき】らず,相臣【そうしん】將臣【しょうしん】,
文恬【ぶんてん】武嬉【ぶき】,見聞に習熟して,以って當然と為す。

(現代語訳)
高宗・中宗・睿宗は、人民を休め、養い、生きて殖えさせたのである。
玄宗に至って、祖宗善政の報いを受け治策の結果を手に収めた。
極めて盛んな勢いがあり豊かな御代となって、物産は多く土地は広大であったが、其の間にひこはえの芽のようなよくない者が出て来た。
粛宗・代宗・わが君の祖父徳宗・父順宗は、治安に勤めて賊を討たれた。
降将を赦して受け容れたりされた。その結果大悪人は今ちょうど去ったのである。
害草のような小賊はまだ草斬り去らないでいるし、大臣や大将などは、
皆文官は安んじ武官は楽しんで、見開くことに馴れ知りつくしていて、当然のことと考えている。

(訳注) #2
高宗中睿,休養生息;
高宗・中宗・睿宗は、人民を休め、養い、生きて殖えさせたのである。
○生息 生活の意味。生きて殖える。息は蕃息。ふえる。

至於玄宗,受報收功,
玄宗に至って、祖宗善政の報いを受け治策の結果を手に収めた。

極熾而豐,物?地大,?牙其間;
極めて盛んな勢いがあり豊かな御代となって、物産は多く土地は広大であったが、其の間にひこはえの芽のようなよくない者が出て来た。
○?牙 ?は木のひこはえ。斬ったあとに横から生ずる芽。よけいなもの。節度使の専横、安史の乱などをさす。

肅宗代宗,コ祖順考,
粛宗・代宗・わが君の祖父徳宗・父順宗は、治安に勤めて賊を討たれた。
○徳祖 今上の祖父である徳宗。
○順考 考は亡父。今上の亡父である順宗のこと。

以勤以容,大慝適去。
降将を赦して受け容れたりされた。その結果大悪人は今ちょうど去ったのである。
〇以勤以容 努力して賊を平らげたり、降服したものをゆるし容れる。
〇大悪 大悪人。安篠山・史思明・朱壮・李希烈等。

?莠不?,相臣將臣,
害草のような小賊はまだ草斬り去らないでいるし、大臣や大将などは、
○娘募 穀物を害する悪い草。治安を害する賊の部下に喩える。税はいぬあわ。秀はほぐさ、稲に似た悪草。
○挿 くさざる。音カウ。田の葦を斬り取る。

文恬武嬉,習熟見聞,以為當然。
皆文官は安んじ武官は楽しんで、見開くことに馴れ知りつくしていて、当然のことと考えている。
○文惜武嬉 文官は安心し、武人は楽しんで、国家の禍根を考えない。
○習熟 なれてよく知っている。









平淮西碑 #1
(淮西を平定したことを記念する碑。)
天以唐克肖其コ,聖子神孫,
繼繼承承,於千萬年,敬戒不怠,
全付所覆,四海九州,
罔有?外,悉主悉臣。
高祖太宗,既除既治;
天は、唐王朝が、天の徳性により困難に勝つことでもって、神のようにすぐれた子孫がうまれる。
そしてそれが、千万年にも次々相継ぎ、そして次々相承けて、敬しみ戒めて怠らず勤めるのである。
天の覆うところの四方の地のはての海いたるまで、その中の九州をすべて唐に与えられたのである。
漢民族と、異民族内外の区別がなく、唐は悉くその君主となり、人々は悉く臣下となった。
高祖を継いだ、太宗は、すでに逆賊を除き、すでに天下を手中に治めたのである。
#2
高宗中睿,休養生息;
至於玄宗,受報收功,
極熾而豐,物?地大,?牙其間;
肅宗代宗,コ祖順考,
以勤以容,大慝適去。
?莠不?,相臣將臣,
文恬武嬉,習熟見聞,以為當然。
高宗・中宗・睿宗は、人民を休め、養い、生きて殖えさせたのである。
玄宗に至って、祖宗善政の報いを受け治策の結果を手に収めた。
極めて盛んな勢いがあり豊かな御代となって、物産は多く土地は広大であったが、其の間にひこはえの芽のようなよくない者が出て来た。
粛宗・代宗・わが君の祖父徳宗・父順宗は、治安に勤めて賊を討たれた。
降将を赦して受け容れたりされた。その結果大悪人は今ちょうど去ったのである。
害草のような小賊はまだ草斬り去らないでいるし、大臣や大将などは、
皆文官は安んじ武官は楽しんで、見開くことに馴れ知りつくしていて、当然のことと考えている。

平淮西碑 #1
天以って 唐の克く其のコに肖て,聖子 神孫,
繼繼 承承して,千萬年に於て,敬戒 不怠らざるを,
覆う所を全付する,四海九州,
?外有る罔し,悉く主 悉く臣たり。
高祖 太宗,既に除き既に治む;
#2
高宗・中・睿,休養 生息し;
玄宗に至って,報を受けを功を收め,
極めて熾【さか】んにして豐かに,物?【おお】くして地大にして,其の間に?牙す;
肅宗【しゅくそう】・代宗【だいそう】,コ祖【とくそ】・順考【じゅんこう】,
以って勤め以って容る,大慝【だいとく】適去。
?莠【ちゅうい】?【くさき】らず,相臣【そうしん】將臣【しょうしん】,
文恬【ぶんてん】武嬉【ぶき】,見聞に習熟して,以って當然と為す。
#3
睿聖文武皇帝,既受羣臣朝,乃考圖數貢,
今上、睿聖文武皇帝は、すでに群臣の朝参を受けられ、そこで領地の広さを考え、貢ぎ物の量を数える。
曰:「嗚呼!天既全付予有家,今傳次在予,
そして、いわれた、「ああ、天はすでに天下をわが家に全て与えられた。今順次に伝えて私の身に在る。
予不能事事,其何以見於郊廟?」
ところで私が自分の仕事を第一の仕事とすることができないならば、一体どうして郊の祭りに天に対し、大廟の祭りに祖先に対してまみえることができようか、と。
羣臣震懾,奔走率職。明年,平夏;
これを聞いて群臣は震え恐れ奔走して各自の職務に従って努力をした。そして明年は夏州を平らげた。
又明年,平蜀;又明年,平江東;
またその翌年にには蜀の成都を平らげ、またその翌年には江東地方を平らげるのである。
又明年,平澤?遂定易定,
またその翌年には、沢州・苗州の地を平らげ、そのまま易州・定州を平定した。
致魏、博、貝、衛、?、相,無不從志。
魏州・博州を服従させ、貝・衛・?・相の四州も、わが方の志に従わないものはなかった。
皇帝曰:「不可究武,予其少息。」
皇帝はいわれた、「武力を極度まで用いてはならない。私はそれこそしばらく休息しょう」と。
#3
睿聖【えいせい】文武皇帝,既に羣臣の朝を受け,乃ち圖を考へ貢を數えて,
曰く:「嗚呼!天 既に予の有家に全付して,今 次を傳えて予に在り,
予 事を事する能わずんば,其れ何を以って郊廟に見【まみ】えんと?」
羣臣 震懾【しんしょう】し,奔走して職に率【したが】う。明年,夏を平げ;
又 明年,蜀を平ぐ;又 明年,平江東をげ;
又 明年,澤【たく】・?【ろ】を平げ遂に易・定を定め,
魏、博を致し、貝【ばい】、衛【えい】、?【せん】、相【そう】まで,志に從わざる無し。
皇帝曰く:「武を究む可からず,予 其れ少【しばら】く息わんと。」
 


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文)
睿聖文武皇帝,既受羣臣朝,乃考圖數貢,
曰:「嗚呼!天既全付予有家,今傳次在予,
予不能事事,其何以見於郊廟?」
羣臣震懾,奔走率職。明年,平夏;
又明年,平蜀;又明年,平江東;
又明年,平澤?遂定易定,
致魏、博、貝、衛、?、相,無不從志。
皇帝曰:「不可究武,予其少息。」

(下し文)
睿聖【えいせい】文武皇帝,既に羣臣の朝を受け,乃ち圖を考へ貢を數えて,
曰く:「嗚呼!天 既に予の有家に全付して,今 次を傳えて予に在り,
予 事を事する能わずんば,其れ何を以って郊廟に見【まみ】えんと?」
羣臣 震懾【しんしょう】し,奔走して職に率【したが】う。明年,夏を平げ;
又 明年,蜀を平ぐ;又 明年,平江東をげ;
又 明年,澤【たく】・?【ろ】を平げ遂に易・定を定め,
魏、博を致し、貝【ばい】、衛【えい】、?【せん】、相【そう】まで,志に從わざる無し。
皇帝曰く:「武を究む可からず,予 其れ少【しばら】く息わんと。」

(現代語訳)
今上、睿聖文武皇帝は、すでに群臣の朝参を受けられ、そこで領地の広さを考え、貢ぎ物の量を数える。
そして、いわれた、「ああ、天はすでに天下をわが家に全て与えられた。今順次に伝えて私の身に在る。
ところで私が自分の仕事を第一の仕事とすることができないならば、一体どうして郊の祭りに天に対し、大廟の祭りに祖先に対してまみえることができようか、と。
これを聞いて群臣は震え恐れ奔走して各自の職務に従って努力をした。そして明年は夏州を平らげた。
またその翌年にには蜀の成都を平らげ、またその翌年には江東地方を平らげるのである。
またその翌年には、沢州・苗州の地を平らげ、そのまま易州・定州を平定した。
魏州・博州を服従させ、貝・衛・?・相の四州も、わが方の志に従わないものはなかった。
皇帝はいわれた、「武力を極度まで用いてはならない。私はそれこそしばらく休息しょう」と。

(訳注)
睿聖文武皇帝,既受羣臣朝,乃考圖數貢,
今上、睿聖文武皇帝は、すでに群臣の朝参を受けられ、そこで領地の広さを考え、貢ぎ物の量を数える。
○容聖文武皇帝 憲宗に対して元和三年に群臣が奉った尊号。
○朝 朝参。朝拝。天子に拝謁すること。
○考図 地図を考える。領土を考察する。
○数頁 朝廷に地方からの献上物、租税などを数え計る。

曰:「嗚呼!天既全付予有家,今傳次在予,
そして、いわれた、「ああ、天はすでに天下をわが家に全て与えられた。今順次に伝えて私の身に在る。
○有家 有は助字、家、唐の家、姓は李。
○伝次在予 順番に伝えてわが身にその天下がある。

予不能事事,其何以見於郊廟?」
ところで私が自分の仕事を第一の仕事とすることができないならば、一体どうして郊の祭りに天に対し、大廟の祭りに祖先に対してまみえることができようか」と。
○事事 仕事を第一の仕事として努める。
○郊廟 郊の祭りは天地の祭り、天子が冬至の日に天を南郊に祀り、夏至の日に地を北邦に祭る。廟は大廟の祭り、祖先を祭る。

羣臣震懾,奔走率職。明年,平夏;
これを聞いて群臣は震え恐れ奔走して各自の職務に従って努力をした。そして明年は夏州を平らげた。
○震懾 震え恐れる。畏れかしこむ。
○率職 自分の職務に従う。
○平夏 夏州を平らげる。元和元年、東州留後揚恵琳を討伐した。

又明年,平蜀;又明年,平江東;
またその翌年にには蜀の成都を平らげ、またその翌年には江東地方を平らげるのである。
○平蜀 蜀の成都を平らげて劉閥を抱にする。
○平江東 二年鎮海の節度使李錨が叛いたので討って之を斬った。長江下流を江東といぅ。

又明年,平澤?遂定易定,
またその翌年には、沢州・苗州の地を平らげ、そのまま易州・定州を平定した。
○澤? 沢州・?州、山河省の地名。盛従史の拠った所。
○易定 河北の易州・定州。張茂昭の拠った所。
 
致魏、博、貝、衛、?、相,無不從志。
魏州・博州を服従させ、貝・衛・?・相の四州も、わが方の志に従わないものはなかった。
○貌博 魂州■博州、田興の拠った所。
○貝衛海相 この四州も田興の支配下にあった所。

皇帝曰:「不可究武,予其少息。」
皇帝はいわれた、「武力を極度まで用いてはならない。私はそれこそしばらく休息しょう」と。
○不可究武 武力を窮極まで用いてはならない。
○少息 しばらく息(押)む。









平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#4>U中唐詩747 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2719

814年元和九年に呉少陽が死ぬと、その部下は勝手に少陽の子元済を立てて、朝廷の任命を請うて来た。朝廷は許さなかったので遂に叛いた。憲宗は裴度の意見を用いて之を討つことに決した。裴度は淮西宣慰処置使、兼彰義軍節度使となったが、韓愈を行軍司馬に任じた。
淮水西方の土地、蔡の地を淮西という。この地方の賊が平定すると、韓愈は裴度に随って朝廷に帰り、功を以て刑部侍即を授けられ、「准西を平ぐる碑」を作れとの詔を受けた。これは韓愈一生の最も重大な作品で、苦心努力の結晶であった。彼の代表作の中でも有数のものである。主旨は惟西の平定によって、憲宗の天下支配が成ったことを頌するのである。













平淮西碑 原文
#1
天以唐克肖其コ,聖子神孫,
繼繼承承,於千萬年,敬戒不怠,
全付所覆,四海九州,罔有?外,悉主悉臣。
高祖太宗,既除既治;
#2
高宗中睿,休養生息;
至於玄宗,受報收功,極熾而豐,物?地大,?牙其間;
肅宗代宗,コ祖順考,以勤以容,大慝適去。
?莠不?,相臣將臣,文恬武嬉,習熟見聞,以為當然。

#3
睿聖文武皇帝,既受羣臣朝,乃考圖數貢,
曰:「嗚呼!天既全付予有家,今傳次在予,
予不能事事,其何以見於郊廟?」
羣臣震懾,奔走率職。明年,平夏;
又明年,平蜀;又明年,平江東;
又明年,平澤?遂定易定,
致魏、博、貝、衛、?、相,無不從志。
皇帝曰:「不可究武,予其少息。」

#4
九年,蔡將死。蔡人立其子元濟以請,不許。
元和九年(814)に蔡州の将が死んだ。蔡の人々はその子の元済を世襲させようと立てて、その承認を朝廷に請うたが許されなかった。
遂燒舞陽,犯葉襄城;
そのまま乱を起こして、舞陽を焼き、葉県・襄陽の城を犯して、
以動東都,放兵四劫。
東都洛陽をおびやかし、兵を方々に出して四方の州を劫かした。
皇帝?問于朝,一二臣外,
皇帝は朝廷において、臣下一人びとりに問われた。一人、二人の臣の外にして。
皆曰:「蔡帥之不廷授,
皆はいった、「蔡の主将が、朝廷から授けて任命しなくなって、
于今五十年,傳三姓四將;
勝手に立つようになって、今まで五十年の問に、将の姓は三たび変わり、人は四人に伝えている。
其樹本堅,兵利卒頑,不與他等。
その樹の根本を植えること固くし、兵器は鋭く充実し、士卒は頑なに強くて言うことを聴かない。他の潘鎮とは同じでないのである。
因撫而有,順且無事。」
それをそのままにして手なずけて保有すれば、穏順でまた無事にすむであろう」と。
大官臆决唱聲,萬口和附,
大官の人が自分の推量できめて、唱えて言い張ると、すべての人はそれに口を合わせて付き従い、
?為一談,牢不可破。
併せて、一つの口から出た談のようになって、固くて破ることができないのである。
皇帝曰:「惟天惟祖宗所以付任予者,
皇帝はいわれた、「それこそ天や祖宗が、私に与え任命されたわけがある。
庶其在此,予何敢不力。
それは全くこの事にあるのであろう。私はどうして努力しないでおれよう。
況一二臣同,不為無助。」
まして一、二の臣が私と同意見で討伐に賛成であることは、私にとって助けが無いのではないから、なおさらである」と。

#5
曰:「光顏,汝為陳、許帥,維是河東、魏博、
?陽三軍之在行者,汝皆將之。」
曰:「重胤,汝故有河陽、懷,今益以汝,維是朔方、義成、陝、益、鳳翔、延、
慶七軍之在行者,汝皆將之。」
曰:「弘,汝以卒萬二千屬而子公武往討之。」
曰:「文通,汝守壽,維是宣武、淮南、宣歙、
浙西四軍之行于壽者,汝皆將之。」
#6
曰:「道古,汝其觀察鄂岳。」
曰:「愬,汝帥唐、ケ、隨,各以其兵進戰。」
曰:「度,汝長御史,其往視師。」
曰:「度,惟汝予同,汝遂相予,以賞罰用命不用命。」
曰:「弘,汝其以節都統諸軍。」
曰:「守謙,汝出入左右,汝惟近臣,共往撫師。」
#7
曰:「度,汝其往,衣服飲食予士,無寒無飢。
以既厥事,遂生蔡人。
賜汝節斧,通天御帶,衛卒三百。
凡茲廷臣,汝擇自從,惟其賢能,
無憚大吏。庚申,予其臨門送汝。」
曰:「御史,予閔士大夫戰甚苦,
自今以往,非郊廟祠祀,其無用樂。」



『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #4
九年,蔡將死。蔡人立其子元濟以請,不許。
遂燒舞陽,犯葉襄城;以動東都,放兵四劫。
皇帝?問于朝,一二臣外,
皆曰:「蔡帥之不廷授,于今五十年,傳三姓四將;
其樹本堅,兵利卒頑,不與他等。
因撫而有,順且無事。」
大官臆决唱聲,萬口和附,
?為一談,牢不可破。
皇帝曰:「惟天惟祖宗所以付任予者,
庶其在此,予何敢不力。
況一二臣同,不為無助。」

(下し文) #4
九年,蔡の將 死す。蔡の人 其の子元濟を立てて以って請い,許さず。
遂に舞陽を燒き,葉・襄の城を犯し;以って東都を動し,兵を放つて四劫【しきょう】す。
皇帝 朝に?問す,一二の臣の外,
皆曰く:「蔡帥の廷授せざるは,今に於いて五十年,三姓 四將に傳う;
其の樹 本と堅く,兵利に卒頑に,他と等しからず。因って撫して有せば,順にして且つ無事なり。」と。
大官 臆决【おくけつ】して唱聲すれば,萬口 和附し,?【あわせ】て一談と為る,牢として破る可からず。
皇帝曰く:「惟れ 天惟れ祖宗 予に付任する所以の者は,
庶わくば其れ此に在らん,予 何んぞ敢て力めざらん。況んや一二の臣同じく,助け無しと為さざるをや。」

(現代語訳)
元和九年(814)に蔡州の将が死んだ。蔡の人々はその子の元済を世襲させようと立てて、その承認を朝廷に請うたが許されなかった。
そのまま乱を起こして、舞陽を焼き、葉県・襄陽の城を犯して、東都洛陽をおびやかし、兵を方々に出して四方の州を劫かした。
皇帝は朝廷において、臣下一人びとりに問われた。一人、二人の臣の外にして。
皆はいった、「蔡の主将が、朝廷から授けて任命しなくなって、勝手に立つようになって、今まで五十年の問に、将の姓は三たび変わり、人は四人に伝えている。
その樹の根本を植えること固くし、兵器は鋭く充実し、士卒は頑なに強くて言うことを聴かない。他の潘鎮とは同じでないのである。
それをそのままにして手なずけて保有すれば、穏順でまた無事にすむであろう」と。
大官の人が自分の推量できめて、唱えて言い張ると、すべての人はそれに口を合わせて付き従い、併せて、一つの口から出た談のようになって、固くて破ることができないのである。
皇帝はいわれた、「それこそ天や祖宗が、私に与え任命されたわけがある。
それは全くこの事にあるのであろう。私はどうして努力しないでおれよう。
まして一、二の臣が私と同意見で討伐に賛成であることは、私にとって助けが無いのではないから、なおさらである」と。

(訳注)#4
九年,蔡將死。蔡人立其子元濟以請,不許。
元和九年(814)に蔡州の将が死んだ。蔡の人々はその子の元済を世襲させようと立てて、その承認を朝廷に請うたが許されなかった。
O蔡将 蔡州の節度使呉少陽。

遂燒舞陽,犯葉襄城;以動東都,放兵四劫。
そのまま乱を起こして、舞陽を焼き、葉県・襄陽の城を犯して、東都洛陽をおびやかし、兵を方々に出して四方の州を劫かした。
○舞陽・葉・襄 河南省南部の都市。
○動 動揺させる。脅かす。
〇四劫 四方をおびやかす。

皇帝?問于朝,一二臣外,
皇帝は朝廷において、臣下一人びとりに問われた。一人、二人の臣の外にして。
○歴間 順次に、一人一人に質問する。

皆曰:「蔡帥之不廷授,于今五十年,傳三姓四將;
皆はいった、「蔡の主将が、朝廷から授けて任命しなくなって、勝手に立つようになって、今まで五十年の問に、将の姓は三たび変わり、人は四人に伝えている。
〇三姓四将 李忠臣・陳奇・呉少陽の三姓と、李忠臣・李希烈・呉少誠・呉少陽の四将。

其樹本堅,兵利卒頑,不與他等。
その樹の根本を植えること固くし、兵器は鋭く充実し、士卒は頑なに強くて言うことを聴かない。他の潘鎮とは同じでないのである。
○他 他の潘鎮。唐から北宋代まで存在した地方組織の名称である。節度使や観察使などを頂点とし、地方軍と地方財政を統括した。節度使そのものを指すことも多い。辺境統治、節度使と潘鎮、都護府。唐は太宗の時代に大幅に領土を広げ、その領土を都護府・羈縻政策・府兵制・鎮兵の制度をもって維持していた。鎮兵には蕃将蕃兵が多く用いられ、主に西北方面の辺境防衛のために置かれたが、玄宗時代になると、従来の府兵制が上手く行かなくなり、辺境以外にも藩鎮が設置された。

因撫而有,順且無事。」
それをそのままにして手なずけて保有すれば、穏順でまた無事にすむであろう」と。
〇因撫而有 そのままに手なずけて保有する。

大官臆决唱聲,萬口和附,?為一談,牢不可破。
大官の人が自分の推量できめて、唱えて言い張ると、すべての人はそれに口を合わせて付き従い、併せて、一つの口から出た談のようになって、固くて破ることができないのである。
○臆決 臆は胸、推測で物事をきめる。確証なくきめる意。
○唱声 発言して主張する。唱は伯、となえる。声は大声でいう。
○和付 付和雷同に同じく、一緒になっていう。
○牢 固い形容。

皇帝曰:「惟天惟祖宗所以付任予者,
皇帝はいわれた、「それこそ天や祖宗が、私に与え任命されたわけがある。
○付任 与えて任命する。天子の職に任命されたこと。

庶其在此,予何敢不力。
それは全くこの事にあるのであろう。私はどうして努力しないでおれよう。
○庶 こひねがはくはと読むが、意味は庶をちかしと読む時と同じ。殆ど全く=・のようである。

況一二臣同,不為無助。」
まして一、二の臣が私と同意見で討伐に賛成であることは、私にとって助けが無いのではないから、なおさらである」と。
〇一二臣 裴度・李吉甫・武元衡らの主戦論者。










#5
曰:「光顏,汝為陳、許帥,
天子はまたいわれた、「光顔よ、お前は陳州・許州の主将となれ。
維是河東、魏博、?陽三軍之在行者,汝皆將之。」
ここに河東と魏と博二州および?陽の三軍の派遣される者は、汝が皆その将となれ。」と。
曰:「重胤,汝故有河陽、懷,今益以汝,
またいわれた、「重胤よ、お前は、以前河陽や懷州の軍を支配していたが、それに今汝州を増加する。
維是朔方、義成、陝、益、鳳翔、延、慶七軍之在行者,汝皆將之。」
まず、ここに朔方・義・成・陝・益・鳳翔・延慶の七軍の派遣部隊にあるものは、お前がこれに将となれ。」と。
曰:「弘,汝以卒萬二千屬而子公武往討之。」
続いていわれた、「弘よ、お前は士卒一万二千を率いて、お前の子の公武の手勢として付け、往って討伐せよ。」と。
曰:「文通,汝守壽,
またいわれた、「文通よ、お前は寿州に鎮守府長官となれ」
維是宣武、淮南、宣歙、浙西四軍之行于壽者,汝皆將之。」
それで、「ここに宣武・准南・宣歙・浙西の四軍の中で寿州に行く者は、お前が皆これに将となれ。」と。

#6
曰:「道古,汝其觀察鄂岳。」
曰:「愬,汝帥唐、ケ、隨,各以其兵進戰。」
曰:「度,汝長御史,其往視師。」
曰:「度,惟汝予同,汝遂相予,以賞罰用命不用命。」
曰:「弘,汝其以節都統諸軍。」
曰:「守謙,汝出入左右,汝惟近臣,共往撫師。」
#7
曰:「度,汝其往,衣服飲食予士,無寒無飢。
以既厥事,遂生蔡人。
賜汝節斧,通天御帶,衛卒三百。
凡茲廷臣,汝擇自從,惟其賢能,
無憚大吏。庚申,予其臨門送汝。」
曰:「御史,予閔士大夫戰甚苦,
自今以往,非郊廟祠祀,其無用樂。」
#5
曰く:「光顏,汝 陳、許の帥と為れ。
維れ是れ河東、魏博、?陽【かんよう】三軍の行在る者,汝 皆 之に將たれ と。」
曰く:「重胤【じゅういん】,汝 故【もと】河陽、懷を有【たも】つ。
今 益すに汝【じょ】を以ってす。
維れ是れ 朔方、義・成、陝、益、鳳翔、延慶の七軍の行に在る者,汝 皆 之に將たれ。」と。
曰く:「弘,汝 卒萬二千を以て而【なんじ】が子公武に屬し 往いて之を討て。」と。
曰く:「文通,汝 壽を守れ。
維れ是れ 宣武【せんぶ】、淮南【わいなん】、宣歙【せんきゅう】、浙西【せつせい】四軍の壽に行く者,汝 皆 之に將たれ。」と。
『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #5
曰:「光顏,汝為陳許帥。
維是河東、魏博、?陽三軍之在行者,汝皆將之。」
曰:「重胤,汝故有河陽、懷。
今益以汝。
維是朔方、義成、陝、益、鳳翔、延慶七軍之在行者,汝皆將之。」
曰:「弘,汝以卒萬二千屬而子公武往討之。」
曰:「文通,汝守壽。
維是宣武、淮南、宣歙、浙西四軍之行于壽者,汝皆將之。」

(下し文) #5
曰く:「光顏,汝 陳、許の帥と為れ。
維れ是れ河東、魏博、?陽【かんよう】三軍の行在る者,汝 皆 之に將たれ と。」
曰く:「重胤【じゅういん】,汝 故【もと】河陽、懷を有【たも】つ。
今 益すに汝【じょ】を以ってす。
維れ是れ 朔方、義・成、陝、益、鳳翔、延慶の七軍の行に在る者,汝 皆 之に將たれ。」と。
曰く:「弘,汝 卒萬二千を以て而【なんじ】が子公武に屬し 往いて之を討て。」と。
曰く:「文通,汝 壽を守れ,維れ是れ 宣武【せんぶ】、淮南【わいなん】、宣歙【せんきゅう】、浙西【せつせい】四軍の壽に行く者,汝 皆 之に將たれ。」と。

(現代語訳)
天子はまたいわれた、「光顔よ、お前は陳州・許州の主将となれ。
ここに河東と魏と博二州および?陽の三軍の派遣される者は、汝が皆その将となれ。」と。
またいわれた、「重胤よ、お前は、以前河陽や懷州の軍を支配していたが、それに今汝州を増加する。
まず、ここに朔方・義・成・陝・益・鳳翔・延慶の七軍の派遣部隊にあるものは、お前がこれに将となれ。」と。
続いていわれた、「弘よ、お前は士卒一万二千を率いて、お前の子の公武の手勢として付け、往って討伐せよ。」と。
またいわれた、「文通よ、お前は寿州に鎮守府長官となれ」
それで、「ここに宣武・准南・宣歙・浙西の四軍の中で寿州に行く者は、お前が皆これに将となれ。」と。

(訳注)
曰:「光顏,汝為陳、許帥。
天子はまたいわれた、「光顔よ、お前は陳州・許州の主将となれ。
○光顔 姓は李、陳州の刺史で、忠試写の都知兵馬使。

維是河東、魏博、?陽三軍之在行者,汝皆將之。」
ここに河東と魏と博二州および?陽の三軍の派遣される者は、汝が皆その将となれ。」と。
〇在行 行は派遣隊。派遣軍の中にある。

曰:「重胤,汝故有河陽、懷,今益以汝,
またいわれた、「重胤よ、お前は、以前河陽や懷州の軍を支配していたが、それに今汝州を増加する。
○重胤 烏重胤、河陽軍と懐・汝二州の節度使。

維是朔方、義成、陝、益、鳳翔、延慶七軍之在行者,汝皆將之。」
まず、ここに朔方・義・成・陝・益・鳳翔・延慶の七軍の派遣部隊にあるものは、お前がこれに将となれ。」と。

曰:「弘,汝以卒萬二千屬而子公武往討之。」
続いていわれた、「弘よ、お前は士卒一万二千を率いて、お前の子の公武の手勢として付け、往って討伐せよ。」と。
○弘 姓は韓。椎田軍の帥。
〇而子 汝子に同じ。

曰:「文通,汝守壽,
またいわれた、「文通よ、お前は寿州に鎮守府長官となれ」
○文通 姓は李、寿州の団練使。

維是宣武、淮南、宣歙、浙西四軍之行于壽者,汝皆將之。」
それで、「ここに宣武・准南・宣歙・浙西の四軍の中で寿州に行く者は、お前が皆これに将となれ。」と。







#5
曰:「光顏,汝為陳、許帥,
天子はまたいわれた、「光顔よ、お前は陳州・許州の主将となれ。
維是河東、魏博、?陽三軍之在行者,汝皆將之。」
ここに河東と魏と博二州および?陽の三軍の派遣される者は、汝が皆その将となれ。」と。
曰:「重胤,汝故有河陽、懷,今益以汝,
またいわれた、「重胤よ、お前は、以前河陽や懷州の軍を支配していたが、それに今汝州を増加する。
維是朔方、義成、陝、益、鳳翔、延、慶七軍之在行者,汝皆將之。」
まず、ここに朔方・義・成・陝・益・鳳翔・延慶の七軍の派遣部隊にあるものは、お前がこれに将となれ。」と。
曰:「弘,汝以卒萬二千屬而子公武往討之。」
続いていわれた、「弘よ、お前は士卒一万二千を率いて、お前の子の公武の手勢として付け、往って討伐せよ。」と。
曰:「文通,汝守壽,
またいわれた、「文通よ、お前は寿州に鎮守府長官となれ」
維是宣武、淮南、宣歙、浙西四軍之行于壽者,汝皆將之。」
それで、「ここに宣武・准南・宣歙・浙西の四軍の中で寿州に行く者は、お前が皆これに将となれ。」と。
#6
曰:「道古,汝其觀察鄂岳。」
またいわれた、「道古よ、お前は、鄂州・岳州の地方の観察使となれ。」と。
曰:「愬,汝帥唐、ケ、隨,各以其兵進戰。」
またいわれた、「愬よ、お前は唐・ケ・随に主将として、各々其の兵を率いて進み戦え。」と。
曰:「度,汝長御史,其往視師。」
またいわれた、「度よ、お前は御史の長として、往って軍隊を監視せよ。」と。
曰:「度,惟汝予同,汝遂相予,以賞罰用命不用命。」
またいわれた、「度よ、それこそお前は私と同じ意見であるから、お前はそのまま私の宰相として、命令を用いる著と命令に従わない者とを、賞したり罰したりせよ。」と。
曰:「弘,汝其以節都統諸軍。」
またいわれた、「弘よ、お前は天子から賜った、将軍の節旄を持って諸軍の都統となれ。」と。
曰:「守謙,汝出入左右,汝惟近臣,共往撫師。」
またいわれた、「守謙よ、お前は私の左右に出入する、お前こそ近臣である。往って軍隊を慰問せよ。」と。

#7
曰:「度,汝其往,衣服飲食予士,無寒無飢。
以既厥事,遂生蔡人。
賜汝節斧,通天御帶,衛卒三百。
凡茲廷臣,汝擇自從,惟其賢能,
無憚大吏。庚申,予其臨門送汝。」
曰:「御史,予閔士大夫戰甚苦,
自今以往,非郊廟祠祀,其無用樂。」
#5
曰く:「光顏,汝 陳、許の帥と為れ。
維れ是れ河東、魏博、?陽【かんよう】三軍の行在る者,汝 皆 之に將たれ と。」
曰く:「重胤【じゅういん】,汝 故【もと】河陽、懷を有【たも】つ。
今 益すに汝【じょ】を以ってす。
維れ是れ 朔方、義・成、陝、益、鳳翔、延慶の七軍の行に在る者,汝 皆 之に將たれ。」と。
曰く:「弘,汝 卒萬二千を以て而【なんじ】が子公武に屬し 往いて之を討て。」と。
曰く:「文通,汝 壽を守れ。
維れ是れ 宣武【せんぶ】、淮南【わいなん】、宣歙【せんきゅう】、浙西【せつせい】四軍の壽に行く者,汝 皆 之に將たれ。」と。
#6
曰く:「道古,汝 其れ鄂・岳に觀察たれ。」と。
曰く:「愬【そ】,汝 唐、ケ、隨に帥たれ。
各の其の兵を以て進み戰え。」と。
曰く:「度,汝 御史に長として,其れ往いて師を視よ。」と。
曰く:「度,惟れ 汝 予と同じ,汝 遂に予に相として,以て命を用うると命を用いざるとを賞罰せよ。」と。
曰く:「弘,汝 其れが節を以て諸軍に都統たれ。」と。
曰く:「守謙,汝 左右に出入す。
汝 惟れ近臣なり,共に往いて師を撫せよ。」と。


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文)
曰:「道古,汝其觀察鄂岳。」
曰:「愬,汝帥唐、ケ、隨,各以其兵進戰。」
曰:「度,汝長御史,其往視師。」
曰:「度,惟汝予同,汝遂相予,以賞罰用命不用命。」
曰:「弘,汝其以節都統諸軍。」
曰:「守謙,汝出入左右,汝惟近臣,共往撫師。」

(下し文) #6
曰く:「道古,汝 其れ鄂・岳に觀察たれ。」と。
曰く:「愬【そ】,汝 唐、ケ、隨に帥たれ。
各の其の兵を以て進み戰え。」と。
曰く:「度,汝 御史に長として,其れ往いて師を視よ。」と。
曰く:「度,惟れ 汝 予と同じ,汝 遂に予に相として,以て命を用うると命を用いざるとを賞罰せよ。」と。
曰く:「弘,汝 其れが節を以て諸軍に都統たれ。」と。
曰く:「守謙,汝 左右に出入す。
汝 惟れ近臣なり,共に往いて師を撫せよ。」と。

(現代語訳)
またいわれた、「道古よ、お前は、鄂州・岳州の地方の観察使となれ。」と。
またいわれた、「愬よ、お前は唐・ケ・随に主将として、各々其の兵を率いて進み戦え。」と。
またいわれた、「度よ、お前は御史の長として、往って軍隊を監視せよ。」と。
またいわれた、「度よ、それこそお前は私と同じ意見であるから、お前はそのまま私の宰相として、命令を用いる著と命令に従わない者とを、賞したり罰したりせよ。」と。
またいわれた、「弘よ、お前は天子から賜った、将軍の節旄を持って諸軍の都統となれ。」と。
またいわれた、「守謙よ、お前は私の左右に出入する、お前こそ近臣である。往って軍隊を慰問せよ。」と。

(訳注)
曰:「道古,汝其觀察鄂岳。」
またいわれた、「道古よ、お前は、鄂州・岳州の地方の観察使となれ。」と。
○道古 姓は李。郡州・岳州の団結使。

曰:「愬,汝帥唐、ケ、隨,各以其兵進戰。」
またいわれた、「愬よ、お前は唐・ケ・随に主将として、各々其の兵を率いて進み戦え。」と。
○愬 姓は李、唐・罫・随の節度使U

曰:「度,汝長御史,其往視師。」
またいわれた、「度よ、お前は御史の長として、往って軍隊を監視せよ。」と。
〇度 姓は裳、韓愈の上官。

曰:「度,惟汝予同,汝遂相予,以賞罰用命不用命。」
またいわれた、「度よ、それこそお前は私と同じ意見であるから、お前はそのまま私の宰相として、命令を用いる著と命令に従わない者とを、賞したり罰したりせよ。」と。

曰:「弘,汝其以節都統諸軍。」
またいわれた、「弘よ、お前は天子から賜った、将軍の節旄を持って諸軍の都統となれ。」と。
○郡統 講軍の総司令官。唐では大臣が都統となり、諸道の軍を総管し、或いは三遷を領し、また玉造を領する。古代の方正、牧伯の任。

曰:「守謙,汝出入左右,汝惟近臣,共往撫師。」
またいわれた、「守謙よ、お前は私の左右に出入する、お前こそ近臣である。往って軍隊を慰問せよ。」と。
〇守謙 姓は梁、知枢密から宣慰監軍となった。








#5
曰:「光顏,汝為陳、許帥,
天子はまたいわれた、「光顔よ、お前は陳州・許州の主将となれ。
維是河東、魏博、?陽三軍之在行者,汝皆將之。」
ここに河東と魏と博二州および?陽の三軍の派遣される者は、汝が皆その将となれ。」と。
曰:「重胤,汝故有河陽、懷,今益以汝,
またいわれた、「重胤よ、お前は、以前河陽や懷州の軍を支配していたが、それに今汝州を増加する。
維是朔方、義成、陝、益、鳳翔、延、慶七軍之在行者,汝皆將之。」
まず、ここに朔方・義・成・陝・益・鳳翔・延慶の七軍の派遣部隊にあるものは、お前がこれに将となれ。」と。
曰:「弘,汝以卒萬二千屬而子公武往討之。」
続いていわれた、「弘よ、お前は士卒一万二千を率いて、お前の子の公武の手勢として付け、往って討伐せよ。」と。
曰:「文通,汝守壽,
またいわれた、「文通よ、お前は寿州に鎮守府長官となれ」
維是宣武、淮南、宣歙、浙西四軍之行于壽者,汝皆將之。」
それで、「ここに宣武・准南・宣歙・浙西の四軍の中で寿州に行く者は、お前が皆これに将となれ。」と。
#6
曰:「道古,汝其觀察鄂岳。」
またいわれた、「道古よ、お前は、鄂州・岳州の地方の観察使となれ。」と。
曰:「愬,汝帥唐、ケ、隨,各以其兵進戰。」
またいわれた、「愬よ、お前は唐・ケ・随に主将として、各々其の兵を率いて進み戦え。」と。
曰:「度,汝長御史,其往視師。」
またいわれた、「度よ、お前は御史の長として、往って軍隊を監視せよ。」と。
曰:「度,惟汝予同,汝遂相予,以賞罰用命不用命。」
またいわれた、「度よ、それこそお前は私と同じ意見であるから、お前はそのまま私の宰相として、命令を用いる著と命令に従わない者とを、賞したり罰したりせよ。」と。
曰:「弘,汝其以節都統諸軍。」
またいわれた、「弘よ、お前は天子から賜った、将軍の節旄を持って諸軍の都統となれ。」と。
曰:「守謙,汝出入左右,汝惟近臣,共往撫師。」
またいわれた、「守謙よ、お前は私の左右に出入する、お前こそ近臣である。往って軍隊を慰問せよ。」と。

#7
曰:「度,汝其往,衣服飲食予士,無寒無飢。
また、いわれた、「度よ、お前は是非とも往って、私の士卒に、衣服を給し飲食をさせ、寒さに苦しみ、飢えることがないようにしせよ。
以既厥事,遂生蔡人。
それでもって自分の仕事を成功させて、ついには秦の人々を生きて行けるようにせよ。
賜汝節斧,通天御帶,衛卒三百。
お前に将軍のしるしに、節旄と斧及び通天の御帯、衛兵三百人を賜る。
凡茲廷臣,汝擇自從,惟其賢能,
およそこの朝廷の群臣のうちから、お前が択んで自分の従者にせよ。ただ賢徳と才能だけを問題として択ぶのである。
無憚大吏。庚申,予其臨門送汝。」
大吏であってもはばかることはない。庚申の日には、私は、ぜひ宮門でお前の出陣を見送るであろう。」と。
曰:「御史,予閔士大夫戰甚苦,
またいわれた、「御史よ、私は士大夫の戦争が、甚だ苦しいのを気の毒に思っている。
自今以往,非郊廟祠祀,其無用樂。」
今から後は、郊廟の祭祀でなければ、ふだんはそれこそ音楽などは用いてはならない。」と。
#5
曰く:「光顏,汝 陳、許の帥と為れ。
維れ是れ河東、魏博、?陽【かんよう】三軍の行在る者,汝 皆 之に將たれ と。」
曰く:「重胤【じゅういん】,汝 故【もと】河陽、懷を有【たも】つ。
今 益すに汝【じょ】を以ってす。
維れ是れ 朔方、義・成、陝、益、鳳翔、延慶の七軍の行に在る者,汝 皆 之に將たれ。」と。
曰く:「弘,汝 卒萬二千を以て而【なんじ】が子公武に屬し 往いて之を討て。」と。
曰く:「文通,汝 壽を守れ。
維れ是れ 宣武【せんぶ】、淮南【わいなん】、宣歙【せんきゅう】、浙西【せつせい】四軍の壽に行く者,汝 皆 之に將たれ。」と。
#6
曰く:「道古,汝 其れ鄂・岳に觀察たれ。」と。
曰く:「愬【そ】,汝 唐、ケ、隨に帥たれ。
各の其の兵を以て進み戰え。」と。
曰く:「度,汝 御史に長として,其れ往いて師を視よ。」と。
曰く:「度,惟れ 汝 予と同じ,汝 遂に予に相として,以て命を用うると命を用いざるとを賞罰せよ。」と。
曰く:「弘,汝 其れが節を以て諸軍に都統たれ。」と。
曰く:「守謙,汝 左右に出入す。
汝 惟れ近臣なり,共に往いて師を撫せよ。」と。
#7
曰く:「度,汝 其れ往いて,予が士に衣服飲食せしめ,寒えること無く飢うること無し。
以て厥の事を既え,遂に蔡人を生せよ。
汝に節斧,通天の御帶,衛卒三百を賜う。
凡そ茲の廷臣,汝 擇【えら】んで自ら從えよ,惟だ其れ賢能のみ。
大吏を憚【はばか】る無かれ。庚申に,予 其れ門に臨んで汝を送らんと。」
曰く:「御史,予 士大夫の戰い甚だ苦しむを閔【あわ】れむ,
今より以往【いおう】,郊廟【こうびょう】の祠祀【しし】に非らざれば,其れ樂を用うる無れ。」

『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #7
曰:「度,汝其往,衣服飲食予士,無寒無飢。
以既厥事,遂生蔡人。
賜汝節斧,通天御帶,衛卒三百。
凡茲廷臣,汝擇自從,惟其賢能,
無憚大吏。庚申,予其臨門送汝。」
曰:「御史,予閔士大夫戰甚苦,
自今以往,非郊廟祠祀,其無用樂。」

(下し文)
曰く:「度,汝 其れ往いて,予が士に衣服飲食せしめ,寒えること無く飢うること無し。
以て厥の事を既え,遂に蔡人を生せよ。
汝に節斧,通天の御帶,衛卒三百を賜う。
凡そ茲の廷臣,汝 擇【えら】んで自ら從えよ,惟だ其れ賢能のみ。
大吏を憚【はばか】る無かれ。庚申に,予 其れ門に臨んで汝を送らんと。」
曰く:「御史,予 士大夫の戰い甚だ苦しむを閔【あわ】れむ,
今より以往【いおう】,郊廟【こうびょう】の祠祀【しし】に非らざれば,其れ樂を用うる無れ。」

(現代語訳)
また、いわれた、「度よ、お前は是非とも往って、私の士卒に、衣服を給し飲食をさせ、寒さに苦しみ、飢えることがないようにしせよ。
それでもって自分の仕事を成功させて、ついには秦の人々を生きて行けるようにせよ。
お前に将軍のしるしに、節旄と斧及び通天の御帯、衛兵三百人を賜る。
およそこの朝廷の群臣のうちから、お前が択んで自分の従者にせよ。ただ賢徳と才能だけを問題として択ぶのである。
大吏であってもはばかることはない。庚申の日には、私は、ぜひ宮門でお前の出陣を見送るであろう。」と。
またいわれた、「御史よ、私は士大夫の戦争が、甚だ苦しいのを気の毒に思っている。
今から後は、郊廟の祭祀でなければ、ふだんはそれこそ音楽などは用いてはならない。」と。

(訳注)#7
曰:「度,汝其往,衣服飲食予士,無寒無飢。
また、いわれた、「度よ、お前は是非とも往って、私の士卒に、衣服を給し飲食をさせ、寒さに苦しみ、飢えることがないようにしせよ。

以既厥事,遂生蔡人。
それでもって自分の仕事を成功させて、ついには秦の人々を生きて行けるようにせよ。
○既膜事 その討伐の仕事を成就させる。既は終わる。

賜汝節斧,通天御帶,衛卒三百。
お前に将軍のしるしに、節旄と斧及び通天の御帯、衛兵三百人を賜る。
○節斧 天子から将軍に任命の際に賜る節権と斧まさかり。から隼の毛で飾った旄と、斧、まさかりの処刑用具。
○通天御帯 天子の用いる犀の皮の帯。

凡茲廷臣,汝擇自從,惟其賢能,
およそこの朝廷の群臣のうちから、お前が択んで自分の従者にせよ。ただ賢徳と才能だけを問題として択ぶのである。

無憚大吏。庚申,予其臨門送汝。」
大吏であってもはばかることはない。庚申の日には、私は、ぜひ宮門でお前の出陣を見送るであろう。」と。
○庚申(かのえさる、こうしん)は、干支の一つ。干支の組み合わせの57番目。庚申の日には庚申待(庚申講)が行われた。
○門 通化門のこと。

曰:「御史,予閔士大夫戰甚苦,
またいわれた、「御史よ、私は士大夫の戦争が、甚だ苦しいのを気の毒に思っている。
○閔 あわれむ。
○御史 秦、前漢以降の官職名。 前漢においては、副宰相である御史大夫に所属し、定員45人であった。そのうち15名は侍御史と呼ばれて殿中におり、二人の丞(副官)のうちの一人である御史中丞に統率された。残りに30人は御史大夫の役所に居た。

自今以往,非郊廟祠祀,其無用樂。」
今から後は、郊廟の祭祀でなければ、ふだんはそれこそ音楽などは用いてはならない。」と。
○郊廟 皇帝祭祀は秦の始皇帝に始まる。漢代には祭祀制度として整えられ、周以来の「天子」と、始皇帝以来の「皇帝」が祭祀制度においても使い分けられていた。皇帝祭祀は、史書では郊廟としてあらわれており、皇帝の祖先を祭る宗廟で行われるものと、都の郊外で行われる郊祀に分けられる。また、郊祀は天の主宰神への祭祀である南郊と、地の自然神への祭祀である北郊とに大きく分けられる。






#8
顏、胤、武,合攻其北,
李光顏・烏重胤・韓公武の軍は連合して敵の北を攻めた。
大戰十六,得柵城縣二十三,降人卒四萬。
大戦は十六度あり、柵や城、県など、二十三を手に入れ、士卒四万を投降させた。
道古,攻其東南,八戰,降萬三千,
李道古は敵の東南を攻め、八度戦って、一万三千人を投降させた。
再入申,破其外城。
そして再び中の地に入り、その外城を破った。
文通,戰其東,十餘遇,降萬二千。
李文通は敵の東側で戦うこと十回以上もあり、一万二千を投降させた。
愬,入其西,得賊將,
李愬は敵の西に攻め入り、賊将を捕らえた。
輙釋不殺,用其策,戰比有功。
それでもそのつど釈放して殺さずに、それを策として用いて、戦いは此の策で功があったのである。
顏、胤、武,合して其の北を攻む。
大戰十六,柵城縣二十三を得,人卒四萬を降す。
道古,其の東南を攻め,八たび戰って,萬三千を降し,
再び申に入れて,破其の外城をる。
文通,其の東に戰うこと,十餘遇,萬二千を降す。
愬,其の西に入りて,賊の將を得る,
輙わち釋して殺さず,
其の策を用いて,戰い比に功有り。


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #8
顏、胤、武,合攻其北,大戰十六,
得柵城縣二十三,降人卒四萬。
道古,攻其東南,八戰,降萬三千,
再入申,破其外城。文通,戰其東,
十餘遇,降萬二千。
愬,入其西,得賊將,
輙釋不殺,用其策,戰比有功。

(下し文)
顏、胤、武,合して其の北を攻む。
大戰十六,柵城縣二十三を得,人卒四萬を降す。
道古,其の東南を攻め,八たび戰って,萬三千を降し,
再び申に入れて,破其の外城をる。
文通,其の東に戰うこと,十餘遇,萬二千を降す。
愬,其の西に入りて,賊の將を得る,
輙わち釋して殺さず,
其の策を用いて,戰い比に功有り。

(現代語訳)
李光顏・烏重胤・韓公武の軍は連合して敵の北を攻めた。
大戦は十六度あり、柵や城、県など、二十三を手に入れ、士卒四万を投降させた。
李道古は敵の東南を攻め、八度戦って、一万三千人を投降させた。
そして再び中の地に入り、その外城を破った。
李文通は敵の東側で戦うこと十回以上もあり、一万二千を投降させた。
李愬は敵の西に攻め入り、賊将を捕らえた。
それでもそのつど釈放して殺さずに、それを策として用いて、戦いは此の策で功があったのである。

(訳注)#8
顏、胤、武,合攻其北,
李光顏・烏重胤・韓公武の軍は連合して敵の北を攻めた。

大戰十六,得柵城縣二十三,降人卒四萬。
大戦は十六度あり、柵や城、県など、二十三を手に入れ、士卒四万を投降させた。
○柵城縣 木材を結んで防洗とした堡壘の柵・城壁のある都市、県庁のある大都市。

道古,攻其東南,八戰,降萬三千,
李道古は敵の東南を攻め、八度戦って、一万三千人を投降させた。

再入申,破其外城。
そして再び中の地に入り、その外城を破った。

文通,戰其東,十餘遇,降萬二千。
李文通は敵の東側で戦うこと十回以上もあり、一万二千を投降させた。

愬,入其西,得賊將,
李愬は敵の西に攻め入り、賊将を捕らえた。

輙釋不殺,用其策,戰比有功。
それでもそのつど釈放して殺さずに、それを策として用いて、戦いは此の策で功があったのである。







#8
顏、胤、武,合攻其北,
李光顏・烏重胤・韓公武の軍は連合して敵の北を攻めた。
大戰十六,得柵城縣二十三,降人卒四萬。
大戦は十六度あり、柵や城、県など、二十三を手に入れ、士卒四万を投降させた。
道古,攻其東南,八戰,降萬三千,
李道古は敵の東南を攻め、八度戦って、一万三千人を投降させた。
再入申,破其外城。文通,戰其東,
そして再び中の地に入り、その外城を破った。
十餘遇,降萬二千。
李文通は敵の東側で戦うこと十回以上もあり、一万二千を投降させた。
愬,入其西,得賊將,
李愬は敵の西に攻め入り、賊将を捕らえた。
輙釋不殺,用其策,戰比有功。
それでもそのつど釈放して殺さずに、それを策として用いて、戦いは此の策で功があったのである。

顏、胤、武,合して其の北を攻む。
大戰十六,柵城縣二十三を得,人卒四萬を降す。
道古,其の東南を攻め,八たび戰って,萬三千を降し,
再び申に入れて,破其の外城をる。
文通,其の東に戰うこと,十餘遇,萬二千を降す。
愬,其の西に入りて,賊の將を得る,
輙わち釋して殺さず,
其の策を用いて,戰い比に功有り。

#9
十二年八月,丞相度至師,都統弘責戰益急,
十二年八月、丞相裴度は軍陣に到着した。都統韓弘は戦うように将士に責めることが益々きびしくなっていった。
顏、胤、武合戰益用命,
李光顏・烏重胤・韓公武の軍は連合してその命令を実行した。
元濟盡?其?,曲以備。
そこで呉元済は、その軍勢全部を河南の曲に集めて、それに備えた。
十月壬申,愬用所得賊將,
十月壬申の日に、李愬はその得た所の賊将を用いた。
自文城因天大雪,疾馳百二十里,
文城から天が大いに雪を降らしたのにつけこんで、百二十里を速く馳せたのである。
用夜半到蔡,破其門,
夜半に蔡に到着、城門を打ち破って元済を捕らえた。
取元濟以獻,盡得其屬人卒。
これを朝廷に献じ、ことごとくその配下の士卒を得た。

十二年八月、丞相度師に至る。
都統弘 戦を責むること益【ますま】す急なり。
顏・胤・武 合して、戦って益【ますま】す命を用ふ。
元済 盡く其の衆を、曲に?て以て備ふ。
十月壬申、愬得る所の賊将を用ひ、
文城よりし、天大いに雪ふるに因りて、疾く馳すること百二十里、
夜半を用って蔡に到り、其の門を破り、
元臍を取って以て献じ、
盡く其の属せる人卒を得たり。
#10
辛巳,丞相度入蔡,以皇帝命赦其人。
淮西平,大饗賚功,
師還之日,因以其食賜蔡人。
凡蔡卒三萬五千,其不樂為兵,
願歸為農者十九,悉縱之。斬元濟京師。

#11
冊功:弘加侍中;愬,為左僕射,帥山南東道;
顏、胤皆加司空;公武以散騎常侍,帥?坊丹延;
道古進大夫;文通加散騎常侍。
丞相度朝京師,道封晉國公,
進階金紫光祿大夫,以舊官相,
而以其副ハ為工部尚書,領蔡任。
既還奏,羣臣請紀聖功,被之金石。
皇帝以命臣愈。臣愈再拜稽首而獻文曰:












『平淮西碑』#9 現代語訳と訳註
(本文)
十二年八月,丞相度至師,都統弘責戰益急,
顏、胤、武合戰益用命,
元濟盡?其?,曲以備。
十月壬申,愬用所得賊將,
自文城因天大雪,疾馳百二十里,
用夜半到蔡,破其門,
取元濟以獻,盡得其屬人卒。


(下し文)
十二年八月、丞相度師に至る。
都統弘 戦を責むること益【ますま】す急なり。
顏・胤・武 合して、戦って益【ますま】す命を用ふ。
元済 盡く其の衆を、曲に?て以て備ふ。
十月壬申、愬得る所の賊将を用ひ、
文城よりし、天大いに雪ふるに因りて、疾く馳すること百二十里、
夜半を用って蔡に到り、其の門を破り、
元臍を取って以て献じ、
盡く其の属せる人卒を得たり。


(現代語訳)
十二年八月、丞相裴度は軍陣に到着した。都統韓弘は戦うように将士に責めることが益々きびしくなっていった。
李光顏・烏重胤・韓公武の軍は連合してその命令を実行した。
そこで呉元済は、その軍勢全部を河南の曲に集めて、それに備えた。
十月壬申の日に、李愬はその得た所の賊将を用いた。
文城から天が大いに雪を降らしたのにつけこんで、百二十里を速く馳せたのである。
夜半に蔡に到着、城門を打ち破って元済を捕らえた。
これを朝廷に献じ、ことごとくその配下の士卒を得た。


(訳注) #9
十二年八月,丞相度至師,都統弘責戰益急,
十二年八月、丞相裴度は軍陣に到着した。都統韓弘は戦うように将士に責めることが益々きびしくなっていった。
○師 軍の陣。
○責戦 戦いの責任を追求する。督戦と同じ。

顏、胤、武合戰益用命,
李光顏・烏重胤・韓公武の軍は連合してその命令を実行した。

元濟盡?其?,曲以備。
そこで呉元済は、その軍勢全部を河南の曲に集めて、それに備えた。
〇滴山 河のまがって流れる場

十月壬申,愬用所得賊將,
十月壬申の日に、李愬はその得た所の賊将を用いた。
○所得賊将 李柘を指す。

自文城因天大雪,疾馳百二十里,
文城から天が大いに雪を降らしたのにつけこんで、百二十里を速く馳せたのである。

用夜半到蔡,破其門,
夜半に蔡に到着、城門を打ち破って元済を捕らえた。

取元濟以獻,盡得其屬人卒。
これを朝廷に献じ、ことごとくその配下の士卒を得た。








#10
辛巳,丞相度入蔡,以皇帝命赦其人。
淮西平,大饗賚功,
師還之日,因以其食賜蔡人。
凡蔡卒三萬五千,其不樂為兵,
願歸為農者十九,悉縱之。斬元濟京師。
辛巳の日に、丞相裴度は蔡に入り、皇帝の命を以て、敵の配下であった者を赦した。
淮西はここに平定した。そこで大宴会を戦功ある者に賜った。
軍が還った日、これまで通りにその配下の人々を蔡の人に賜った。
しかし、すべて蔡の士卒三万五千、その中で兵となるのをねがうことはないのである。
帰って農夫となりたいという者が、十のうち九あったので、ことごとくこれを自由にし、呉元済は長安の都で斬ったのである。

辛巳、丞相度蔡に入り、皇帝の命を以て、其の人を赦す。
淮西平ぐ。大饗して功に賚【たま】ふ。
師 還るの日、因りて其の食を以て蔡人に賜ふ。
凡そ蔡の卒三萬五千、其の兵 爲ることを樂【なが】はず、
歸りて農爲らんことを願ふ者 十に九、悉く之を縦【ゆる】して、元濟を京師に斬る。


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文)#10
辛巳,丞相度入蔡,以皇帝命赦其人。
淮西平,大饗賚功,
師還之日,因以其食賜蔡人。
凡蔡卒三萬五千,其不樂為兵,
願歸為農者十九,悉縱之。斬元濟京師。

(下し文) #10
辛巳、丞相度蔡に入り、皇帝の命を以て、其の人を赦す。
淮西平ぐ。大饗して功に賚【たま】ふ。
師 還るの日、因りて其の食を以て蔡人に賜ふ。
凡そ蔡の卒三萬五千、其の兵 爲ることを樂【なが】はず、
歸りて農爲らんことを願ふ者 十に九、悉く之を縦【ゆる】して、元濟を京師に斬る。


(現代語訳)
辛巳の日に、丞相裴度は蔡に入り、皇帝の命を以て、敵の配下であった者を赦した。
淮西はここに平定した。そこで大宴会を戦功ある者に賜った。
軍が還った日、これまで通りにその配下の人々を蔡の人に賜った。
しかし、すべて蔡の士卒三万五千、その中で兵となるのをねがうことはないのである。
帰って農夫となりたいという者が、十のうち九あったので、ことごとくこれを自由にし、呉元済は長安の都で斬ったのである。


(訳注) #10
辛巳,丞相度入蔡,以皇帝命赦其人。
辛巳の日に、丞相裴度は蔡に入り、皇帝の命を以て、敵の配下であった者を赦した。
・辛巳 (かのとみ、しんし)は、干支の一つ。干支の組み合わせの18番目。

淮西平,大饗賚功,
淮西はここに平定した。そこで大宴会を戦功ある者に賜った。
〇大饗:台饗 大いに宴会を催す。
○賚功 戦功に対して慰労の宴を賜る。賚は賜。

師還之日,因以其食賜蔡人。
軍が還った日、これまで通りにその配下の人々を蔡の人に賜った。

凡蔡卒三萬五千,其不樂為兵,
しかし、すべて蔡の士卒三万五千、その中で兵となるのをねがうことはないのである。
○楽 音ガウ、このむ、ねがう。

願歸為農者十九,悉縱之。斬元濟京師。
帰って農夫となりたいという者が、十のうち九あったので、ことごとくこれを自由にし、呉元済は長安の都で斬ったのである。







#11
唐承天命,遂臣萬邦。
まず、唐王朝は天の命令を受けて、遂に万国を臣下としたのである。
孰居近土,襲盜以狂。
誰が近畿地方の土地に居て、襲い盗み、狂った行動をするものか。
往在玄宗,崇極而?。
昔は玄宗皇帝の「開元の治」といわれるものの高く隆盛を極めてのち、崩れ乱れた。
河北悍驕,河南附起。
河北の地では猛く驕った者たちが叛き、河南はそれに追随して起こった。
四聖不宥,?興師征。
その後の四聖帝はこれらをゆるさず、度々軍を強化し謀反・反乱を征伐されたのだ。
#12
有不能尅,益戍以兵。
夫耕不食,婦織不裳。
輸之以車,為卒賜糧。
外多失朝,曠不嶽狩。
百隸怠官,事亡其舊。

#11
唐天命を承けて、蓮に萬邦【ばんほう】を臣とす。
孰【たれ】か近土に居て、襲盗【しゅうとう】して以て狂する。
往在玄宗、崇極りて?る。
河北悍驕【かんきょう】にして、河南附いて起る。
四聖【しせい】宥さず、屡【しばし】ば師を興して征す。
#12
克つ能はざること有り、益【ますま】す 戍るに兵を以てす。
夫 耕して食せず、婦 織りて裳あらず。
之を輸【いた】すに率を以てし、卒の島に糧を賜ふ。
外多くほ朝するを失し、味しく嶽狩【がくしゅ】せず。
百隷【ひゃくれい】官に怠りて、事其の善を亡ふ。


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #11
唐承天命,遂臣萬邦。
孰居近土,襲盜以狂。
往在玄宗,崇極而?。
河北悍驕,河南附起。
四聖不宥,?興師征。

(下し文) #11
唐天命を承けて、蓮に萬邦【ばんほう】を臣とす。
孰【たれ】か近土に居て、襲盗【しゅうとう】して以て狂する。
往在玄宗、崇極りて?る。
河北悍驕【かんきょう】にして、河南附いて起る。
四聖【しせい】宥さず、屡【しばし】ば師を興して征す。

(現代語訳)
まず、唐王朝は天の命令を受けて、遂に万国を臣下としたのである。
誰が近畿地方の土地に居て、襲い盗み、狂った行動をするものか。
昔は玄宗皇帝の「開元の治」といわれるものの高く隆盛を極めてのち、崩れ乱れた。
河北の地では猛く驕った者たちが叛き、河南はそれに追随して起こった。
その後の四聖帝はこれらをゆるさず、度々軍を強化し謀反・反乱を征伐されたのだ。

(訳注) #11
唐承天命,遂臣萬邦。
まず、唐王朝は天の命令を受けて、遂に万国を臣下としたのである。

孰居近土,襲盜以狂。
誰が近畿地方の土地に居て、襲い盗み、狂った行動をするものか。
○近土 近畿地方。

往在玄宗,崇極而?。
昔は玄宗皇帝の「開元の治」といわれるものの高く隆盛を極めてのち、崩れ乱れた。
○崇極而? 玄宗の「開元の治」といわれる太平と、これまでの最高の生産旅に達して、政治経済が極まり、後、755年11月5日天宝十四年の安禄山の乱が起こった。崇は高、隆盛のこと。?は崩れ壊れる。

河北悍驕,河南附起。
河北の地では猛く驕った者たちが叛き、河南はそれに追随して起こった。
○河北 黄河下流の北側。黄河の北に位置し、黄海に面する。西側には太行山脈、北には燕山山脈がそびえ、華北平原が広がる。黄河以外の主要な河川には、海河や?河などがある。
北京市・天津市を取り囲むように位置し、北部は遼寧省・内蒙古自治区と接し、西部は山西省、南部は山東省・河南省と接している。
○悍驕 心たけくおごる。悍【おぞま】しい 1 いかにも嫌な感じがする。ぞっとするほど、いとわしい。2 我(が)が強い。強情だ。

四聖不宥,?興師征。
その後の四聖帝はこれらをゆるさず、度々軍を強化し謀反・反乱を征伐されたのだ。
〇四聖 粛∵代・徳・順の四宗っ聖は聖天子。







#11
唐承天命,遂臣萬邦。
まず、唐王朝は天の命令を受けて、遂に万国を臣下としたのである。
孰居近土,襲盜以狂。
誰が近畿地方の土地に居て、襲い盗み、狂った行動をするものか。
往在玄宗,崇極而?。
昔は玄宗皇帝の「開元の治」といわれるものの高く隆盛を極めてのち、崩れ乱れた。
河北悍驕,河南附起。
河北の地では猛く驕った者たちが叛き、河南はそれに追随して起こった。
四聖不宥,?興師征。
その後の四聖帝はこれらをゆるさず、度々軍を強化し謀反・反乱を征伐されたのだ。
#12
有不能尅,益戍以兵。
根強くて叛乱を克服することができないところがあって、益々守るために兵を派遣したのだ。
夫耕不食,婦織不裳。
そこでは男が耕作をしても食う物もなく、女が織物を生産しても袴にする布もないいわゆる「不毛の地」となっていた。
輸之以車,為卒賜糧。
それらをすべて車で運び、守備の士卒のために食糧を賜った。
外多失朝,曠不嶽狩。
遠くの潘鎮、節度使たちの多くは入朝して臣下の礼を取ることをしなくなり、ここ久しく、天子の四岳の地方を巡狩されることがなかったのである。
百隸怠官,事亡其舊。
百官・官吏は官職に勤めず怠り、政事はその旧の形を亡ってしまった。

#11
唐天命を承けて、蓮に萬邦【ばんほう】を臣とす。
孰【たれ】か近土に居て、襲盗【しゅうとう】して以て狂する。
往在玄宗、崇極りて?る。
河北悍驕【かんきょう】にして、河南附いて起る。
四聖【しせい】宥さず、屡【しばし】ば師を興して征す。
#12
克つ能はざること有り、益【ますま】す 戍るに兵を以てす。
夫 耕して食せず、婦 織りて裳あらず。
之を輸【いた】すに率を以てし、卒の島に糧を賜ふ。
外多くほ朝するを失し、味しく嶽狩【がくしゅ】せず。
百隷【ひゃくれい】官に怠りて、事其の善を亡ふ。


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #12
有不能尅,益戍以兵。
夫耕不食,婦織不裳。
輸之以車,為卒賜糧。
外多失朝,曠不嶽狩。
百隸怠官,事亡其舊。


(下し文) #12
克つ能はざること有り、益【ますま】す 戍るに兵を以てす。
夫 耕して食せず、婦 織りて裳あらず。
之を輸【いた】すに率を以てし、卒の島に糧を賜ふ。
外多くほ朝するを失し、味しく嶽狩【がくしゅ】せず。
百隷【ひゃくれい】官に怠りて、事其の善を亡ふ。


(現代語訳)
根強くて叛乱を克服することができないところがあって、益々守るために兵を派遣したのだ。
そこでは男が耕作をしても食う物もなく、女が織物を生産しても袴にする布もないいわゆる「不毛の地」となっていた。
それらをすべて車で運び、守備の士卒のために食糧を賜った。
遠くの潘鎮、節度使たちの多くは入朝して臣下の礼を取ることをしなくなり、ここ久しく、天子の四岳の地方を巡狩されることがなかったのである。
百官・官吏は官職に勤めず怠り、政事はその旧の形を亡ってしまった。


(訳注)#12
有不能尅,益戍以兵。
根強くて叛乱を克服することができないところがあって、益々守るために兵を派遣したのだ。
○尅 うちかつ。こくふくする

夫耕不食,婦織不裳。
そこでは男が耕作をしても食う物もなく、女が織物を生産しても袴にする布もないいわゆる「不毛の地」となっていた。
★重税、収奪をして、強兵制をしていた事を云う。

輸之以車,為卒賜糧。
それらをすべて車で運び、守備の士卒のために食糧を賜った。

外多失朝,曠不嶽狩。
遠くの潘鎮、節度使たちの多くは入朝して臣下の礼を取ることをしなくなり、ここ久しく、天子の四岳の地方を巡狩されることがなかったのである。
○外 外藩、国境に近い所の節度使
○失朝 入朝の礼を失う。
○瞞 むなしい、久しい意∪絶えて久しい。
○岳狩 古代の天子は四方に諸侯を巡り、その守る職を視察した、これを巡狩(守)という。四岳は四方の諸侯の長。

百隸怠官,事亡其舊。
百官・官吏は官職に勤めず怠り、政事はその旧の形を亡ってしまった。











唐承天命,遂臣萬邦。
まず、唐王朝は天の命令を受けて、遂に万国を臣下としたのである。
孰居近土,襲盜以狂。
誰が近畿地方の土地に居て、襲い盗み、狂った行動をするものか。
往在玄宗,崇極而?。
昔は玄宗皇帝の「開元の治」といわれるものの高く隆盛を極めてのち、崩れ乱れた。
河北悍驕,河南附起。
河北の地では猛く驕った者たちが叛き、河南はそれに追随して起こった。
四聖不宥,?興師征。
その後の四聖帝はこれらをゆるさず、度々軍を強化し謀反・反乱を征伐されたのだ。
#12
有不能尅,益戍以兵。
根強くて叛乱を克服することができないところがあって、益々守るために兵を派遣したのだ。
夫耕不食,婦織不裳。
そこでは男が耕作をしても食う物もなく、女が織物を生産しても袴にする布もないいわゆる「不毛の地」となっていた。
輸之以車,為卒賜糧。
それらをすべて車で運び、守備の士卒のために食糧を賜った。
外多失朝,曠不嶽狩。
遠くの潘鎮、節度使たちの多くは入朝して臣下の礼を取ることをしなくなり、ここ久しく、天子の四岳の地方を巡狩されることがなかったのである。
百隸怠官,事亡其舊。
百官・官吏は官職に勤めず怠り、政事はその旧の形を亡ってしまった。

#11
唐天命を承けて、蓮に萬邦【ばんほう】を臣とす。
孰【たれ】か近土に居て、襲盗【しゅうとう】して以て狂する。
往在玄宗、崇極りて?る。
河北悍驕【かんきょう】にして、河南附いて起る。
四聖【しせい】宥さず、屡【しばし】ば師を興して征す。
#12
克つ能はざること有り、益【ますま】す 戍るに兵を以てす。
夫 耕して食せず、婦 織りて裳あらず。
之を輸【いた】すに率を以てし、卒の島に糧を賜ふ。
外多くほ朝するを失し、味しく嶽狩【がくしゅ】せず。
百隷【ひゃくれい】官に怠りて、事其の善を亡ふ。

#13
帝時繼位,顧瞻咨嗟。
皇帝はその時、位を継いで、この状況に顧み仰ぎ溜息をついて嗟かれた。
惟汝文武,孰恤予家。
「これお前たち文武の臣よ。誰がわが唐の王家を憂えるだろうか、」と。
既斬?蜀,旋取山東。
やがて呉及び蜀の地を平定し、また山東を取った。
魏將首義,六州降從。
魏の将は大義の先頭として服し、六つの州は降り従った。
淮蔡不順,自以為強。
ところが淮西・蔡州の地は順わなかった、自らが強いと思っていたのだ。
提兵叫讙,欲事故常。
彼は兵を引き連れて叫びさわいだ、そして、古くからの慣わしを固守して朝廷を無視しようとした。
#13
帝 時に位を繼いで,顧瞻【こせん】咨嗟【しさ】す。
惟れ汝文武,孰か予が家を恤【うれ】うると。
既に?蜀を斬り,旋【ま】た山東を取る。
魏將 義を首【はじ】め,六州【りくしゅう】降從【こうじゅう】す。
淮・蔡 順【したが】わず,自ら以て強と為す。
兵を提げて叫讙【きょうかん】し,故常【こじょう】を事とせんと欲す。
#14
始命討之,遂連姦鄰。陰遣刺客,來賊相臣。
方戰未利,?驚京師。羣公上言,莫若惠來。
帝為不聞,與神為謀。乃相同コ,以訖天誅。
#15
乃敕顏胤,愬武古通,咸統於弘,各奏汝功。
三方分攻,五萬其師。大軍北乘,厥數倍之。
常兵時曲,軍士蠢蠢。既翦陵雲,蔡卒大窘。
#16
勝之邵陵,?城來降。自夏入秋,復屯相望。
兵頓不勵,告功不時。帝哀征夫,命相往釐。
士飽而歌,馬騰於槽。
#17
試之新城,賊遇敗逃。盡抽其有,聚以防我。
西師躍入,道無留者。??蔡城,其?千里。
既入而有,莫不順俟。


『平淮西碑』#13 現代語訳と訳註
(本文)
帝時繼位,顧瞻咨嗟。惟汝文武,孰恤予家。
既斬?蜀,旋取山東。魏將首義,六州降從。
淮蔡不順,自以為強。提兵叫讙,欲事故常。


(下し文) #13
帝 時に位を繼いで,顧瞻【こせん】咨嗟【しさ】す。
惟れ汝文武,孰か予が家を恤【うれ】うると。
既に?蜀を斬り,旋【ま】た山東を取る。
魏將 義を首【はじ】め,六州【りくしゅう】降從【こうじゅう】す。
淮・蔡 順【したが】わず,自ら以て強と為す。
兵を提げて叫讙【きょうかん】し,故常【こじょう】を事とせんと欲す。


(現代語訳)
皇帝はその時、位を継いで、この状況に顧み仰ぎ溜息をついて嗟かれた。
「これお前たち文武の臣よ。誰がわが唐の王家を憂えるだろうか、」と。
やがて呉及び蜀の地を平定し、また山東を取った。
魏の将は大義の先頭として服し、六つの州は降り従った。
ところが淮西・蔡州の地は順わなかった、自らが強いと思っていたのだ。
彼は兵を引き連れて叫びさわいだ、そして、古くからの慣わしを固守して朝廷を無視しようとした。


(訳注) #13
帝時繼位,顧瞻咨嗟。
皇帝はその時、位を継いで、この状況に顧み仰ぎ溜息をついて嗟かれた。
〇顧瞻 顧は四方を見廻す。瞻は見上げ仰ぐ。
○咨嗟 ため息をついてなげく。

惟汝文武,孰恤予家。
「これお前たち文武の臣よ。誰がわが唐の王家を憂えるだろうか、」と。
○予家 居家、わが王家。

既斬?蜀,旋取山東。
やがて呉及び蜀の地を平定し、また山東を取った。
○旋 また。

魏將首義,六州降從。
魏の将は大義の先頭として服し、六つの州は降り従った。
○魏將 魏・博の将田弘正。

淮蔡不順,自以為強。
ところが淮西・蔡州の地は順わなかった、自らが強いと思っていたのだ。

提兵叫讙,欲事故常。
彼は兵を引き連れて叫びさわいだ、そして、古くからの慣わしを固守して朝廷を無視しようとした。
○叫讙 さけび騒ぐ。
○故常 古くからの常例。勝手に将を立てて朝廷に請うこと。








#13
帝時繼位,顧瞻咨嗟。
皇帝はその時、位を継いで、この状況に顧み仰ぎ溜息をついて嗟かれた。
惟汝文武,孰恤予家。
「これお前たち文武の臣よ。誰がわが唐の王家を憂えるだろうか、」と。
既斬?蜀,旋取山東。
やがて呉及び蜀の地を平定し、また山東を取った。
魏將首義,六州降從。
魏の将は大義の先頭として服し、六つの州は降り従った。
淮蔡不順,自以為強。
ところが淮西・蔡州の地は順わなかった、自らが強いと思っていたのだ。
提兵叫讙,欲事故常。
彼は兵を引き連れて叫びさわいだ、そして、古くからの慣わしを固守して朝廷を無視しようとした。
#13
帝 時に位を繼いで,顧瞻【こせん】咨嗟【しさ】す。
惟れ汝文武,孰か予が家を恤【うれ】うると。
既に?蜀を斬り,旋【ま】た山東を取る。
魏將 義を首【はじ】め,六州【りくしゅう】降從【こうじゅう】す。
淮・蔡 順【したが】わず,自ら以て強と為す。
兵を提げて叫讙【きょうかん】し,故常【こじょう】を事とせんと欲す。
#14
始命討之,遂連姦鄰。
そこで、皇帝は命じてこれを討たせられた。追い詰められた彼らはついに邪な近隣の州と連合するのである。
陰遣刺客,來賊相臣。
ひそかに暗殺者を派遣して闇討ちを図るのである。朝廷の重臣宰相武元衡を殺し、裴度を傷害した。
方戰未利,?驚京師。
戦いがまだ勝利でない最中に、さっと広まり、長安の都を驚かしたのである。
羣公上言,莫若惠來。
諸侯の公卿は天子に申し上げた、敵に恵んで懐かせるのに越したことはない、と。
帝為不聞,與神為謀。
皇帝はこの非戦論を聞かぬふりをされたのであり、そこで、神霊と討伐の謀をなされたのである。
乃相同コ,以訖天誅。
ところが宰相も天子と同じ徳ある人であったから、それ故、天意を以て賊を誅する「天誅の戦い」を遂行したのであった。
#14
始めて命じて之を討しめ,遂に姦鄰【かんりん】を連ぬ。
陰に刺客【せきかく】を遣して,來って相臣【そうしん】を賊【そこな】う。
戰は未だ利あらざるに方りて,? 京師を驚かす。
羣公 上言して,惠み來すにしくは莫し。
帝 不聞かざる為【まね】して,神と謀を為す。
乃ち相いコを同じうして,以て天誅を訖う。
#15
乃敕顏胤,愬武古通,咸統於弘,各奏汝功。
三方分攻,五萬其師。大軍北乘,厥數倍之。
常兵時曲,軍士蠢蠢。既翦陵雲,蔡卒大窘。
#16
勝之邵陵,?城來降。自夏入秋,復屯相望。
兵頓不勵,告功不時。帝哀征夫,命相往釐。
士飽而歌,馬騰於槽。
#17
試之新城,賊遇敗逃。盡抽其有,聚以防我。
西師躍入,道無留者。??蔡城,其?千里。
既入而有,莫不順俟。























『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #14
始命討之,遂連姦鄰。
陰遣刺客,來賊相臣。
方戰未利,?驚京師。
羣公上言,莫若惠來。
帝為不聞,與神為謀。
乃相同コ,以訖天誅。


(下し文) #14
始めて命じて之を討しめ,遂に姦鄰【かんりん】を連ぬ。
陰に刺客【せきかく】を遣して,來って相臣【そうしん】を賊【そこな】う。
戰は未だ利あらざるに方りて,? 京師を驚かす。
羣公 上言して,惠み來すにしくは莫し。
帝 不聞かざる為【まね】して,神と謀を為す。
乃ち相いコを同じうして,以て天誅を訖う。


(現代語訳)
そこで、皇帝は命じてこれを討たせられた。追い詰められた彼らはついに邪な近隣の州と連合するのである。
ひそかに暗殺者を派遣して闇討ちを図るのである。朝廷の重臣宰相武元衡を殺し、裴度を傷害した。
戦いがまだ勝利でない最中に、さっと広まり、長安の都を驚かしたのである。
諸侯の公卿は天子に申し上げた、敵に恵んで懐かせるのに越したことはない、と。
皇帝はこの非戦論を聞かぬふりをされたのであり、そこで、神霊と討伐の謀をなされたのである。
ところが宰相も天子と同じ徳ある人であったから、それ故、天意を以て賊を誅する「天誅の戦い」を遂行したのであった。


(訳注) #14
始命討之,遂連姦鄰。
そこで、皇帝は命じてこれを討たせられた。追い詰められた彼らはついに邪な近隣の州と連合するのである。

陰遣刺客,來賊相臣。
ひそかに暗殺者を派遣して闇討ちを図るのである。朝廷の重臣宰相武元衡を殺し、裴度を傷害した。
○刺客 【セキカク】と読む一般に「シカク」と読むのはよくない。刺し殺すときは「セキ」の音。
〇賊相臣 大臣を害する。?州青州の両州の主将李師道が刺客を派遣して武元衡を殺し、裴度を傷害した。この武元衝について韓愈・薛濤が唱和している。
續嘉陵驛詩獻武相國 薛濤 唐五代詞・宋詩 薛濤-201-67-#61  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2552
上川主武元衡相國二首 其一 薛濤 唐五代詞・宋詩 薛濤-202-68-#62  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2557
上川主武元衡相國二首 其二 薛濤 唐五代詞・宋詩 薛濤-203-69-#63  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2562
題嘉陵驛 武元衡 唐五代詞・宋詩 -204-70-#64  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2567
贈歌人 武元衝 薛濤関連 唐五代詞・宋詩 薛濤-205-71-#65  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2572
聽歌 武元衝 薛濤 唐五代詞・宋詩 薛濤-206-72-#66  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2577
摩訶池宴 薛濤 唐五代詞・宋詩 薛濤-207-73-#67  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2582
摩訶池贈蕭中丞 薛濤 唐五代詞・宋詩 薛濤-208-74-#68  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2587

方戰未利,?驚京師。
戦いがまだ勝利でない最中に、さっと広まり、長安の都を驚かしたのである。

羣公上言,莫若惠來。
諸侯の公卿は天子に申し上げた、敵に恵んで懐かせるのに越したことはない、と。
○惠來 恩恵を施して来て懐くようにする。

帝為不聞,與神為謀。
皇帝はこの非戦論を聞かぬふりをされたのであり、そこで、神霊と討伐の謀をなされたのである。
○帝為不聞 聞かないふりをする。非戦論者の意見を無視し、戦うことを命ずる。

乃相同コ,以訖天誅。
ところが宰相も天子と同じ徳ある人であったから、それ故、天意を以て賊を誅する「天誅の戦い」を遂行したのであった。
○乃相同徳 ところが宰相は夫子と人格性質が同じで主戦論であった。







#13
帝時繼位,顧瞻咨嗟。
皇帝はその時、位を継いで、この状況に顧み仰ぎ溜息をついて嗟かれた。
惟汝文武,孰恤予家。
「これお前たち文武の臣よ。誰がわが唐の王家を憂えるだろうか、」と。
既斬?蜀,旋取山東。
やがて呉及び蜀の地を平定し、また山東を取った。
魏將首義,六州降從。
魏の将は大義の先頭として服し、六つの州は降り従った。
淮蔡不順,自以為強。
ところが淮西・蔡州の地は順わなかった、自らが強いと思っていたのだ。
提兵叫讙,欲事故常。
彼は兵を引き連れて叫びさわいだ、そして、古くからの慣わしを固守して朝廷を無視しようとした。
#13
帝 時に位を繼いで,顧瞻【こせん】咨嗟【しさ】す。
惟れ汝文武,孰か予が家を恤【うれ】うると。
既に?蜀を斬り,旋【ま】た山東を取る。
魏將 義を首【はじ】め,六州【りくしゅう】降從【こうじゅう】す。
淮・蔡 順【したが】わず,自ら以て強と為す。
兵を提げて叫讙【きょうかん】し,故常【こじょう】を事とせんと欲す。
#14
始命討之,遂連姦鄰。
そこで、皇帝は命じてこれを討たせられた。追い詰められた彼らはついに邪な近隣の州と連合するのである。
陰遣刺客,來賊相臣。
ひそかに暗殺者を派遣して闇討ちを図るのである。朝廷の重臣宰相武元衡を殺し、裴度を傷害した。
方戰未利,?驚京師。
戦いがまだ勝利でない最中に、さっと広まり、長安の都を驚かしたのである。
羣公上言,莫若惠來。
諸侯の公卿は天子に申し上げた、敵に恵んで懐かせるのに越したことはない、と。
帝為不聞,與神為謀。
皇帝はこの非戦論を聞かぬふりをされたのであり、そこで、神霊と討伐の謀をなされたのである。
乃相同コ,以訖天誅。
ところが宰相も天子と同じ徳ある人であったから、それ故、天意を以て賊を誅する「天誅の戦い」を遂行したのであった。
#14
始めて命じて之を討しめ,遂に姦鄰【かんりん】を連ぬ。
陰に刺客【せきかく】を遣して,來って相臣【そうしん】を賊【そこな】う。
戰は未だ利あらざるに方りて,? 京師を驚かす。
羣公 上言して,惠み來すにしくは莫し。
帝 不聞かざる為【まね】して,神と謀を為す。
乃ち相いコを同じうして,以て天誅を訖う。
#15
乃敕顏胤,愬武古通,
そこで李光顏・烏重胤・韓公武・李道古鄂岳觀察使・壽州刺史李文通の諸将に勅令された。
咸統於弘,各奏汝功。
すべて都統韓弘に統率させ、おのおの汝らの功を挙げさせた。
三方分攻,五萬其師。
そして三方からわかれて攻めたのは、五万のその軍であった。
大軍北乘,厥數倍之。
そうして大軍が北から攻め込んだのである。その数は三路の軍の倍にもなっていた。
常兵時曲,軍士蠢蠢。
以前にも時曲に戦った時、敵の軍はうごめき動揺するだけであった。
既翦陵雲,蔡卒大窘。
やがてわが師が陵雲を乗り従えるに及んで、蔡の兵卒は大いに苦しむだけになった。

始めて命じて之を討しめ,遂に姦鄰【かんりん】を連ぬ。
陰に刺客【せきかく】を遣して,來って相臣【そうしん】を賊【そこな】う。
戰は未だ利あらざるに方りて,? 京師を驚かす。
羣公 上言して,惠み來すにしくは莫し。
帝 不聞かざる為【まね】して,神と謀を為す。
乃ち相いコを同じうして,以て天誅を訖う。


#16
勝之邵陵,?城來降。自夏入秋,復屯相望。
兵頓不勵,告功不時。帝哀征夫,命相往釐。
士飽而歌,馬騰於槽。
#17
試之新城,賊遇敗逃。盡抽其有,聚以防我。
西師躍入,道無留者。??蔡城,其?千里。
既入而有,莫不順俟。

『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #15
乃敕顏胤,愬武古通,
咸統於弘,各奏汝功。
三方分攻,五萬其師。
大軍北乘,厥數倍之。
常兵時曲,軍士蠢蠢。
既翦陵雲,蔡卒大窘。

(下し文)
乃ち顔・胤・憩・武・古・通に赦す。
成【みな】弘に統【す】べて、各【おのお】の汝の功を奏せしむ。
三方分ち攻む、五萬の其の師。
大軍北より乗じ、厥の數 之に倍す。
常【かつ】て時曲に兵し、軍士蠢蠢【しゅんしゅん】たり。
既に陵雲を翦【き】り、蔡の卒大いに窘【くるし】む。

(現代語訳)
そこで李光顏・烏重胤・韓公武・李道古鄂岳觀察使・壽州刺史李文通の諸将に勅令された。
すべて都統韓弘に統率させ、おのおの汝らの功を挙げさせた。
そして三方からわかれて攻めたのは、五万のその軍であった。
そうして大軍が北から攻め込んだのである。その数は三路の軍の倍にもなっていた。
以前にも時曲に戦った時、敵の軍はうごめき動揺するだけであった。
やがてわが師が陵雲を乗り従えるに及んで、蔡の兵卒は大いに苦しむだけになった。


(訳注) #15
乃敕顏胤,愬武古通,
そこで李光顏・烏重胤・韓公武・李道古鄂岳觀察使・壽州刺史李文通の諸将に勅令された。
李光顏・烏重胤・韓公武ほかの軍と連合した。
顏:李光顏。
胤:烏重胤。
愬:李愬、
武:韓弘子公武、
古:李道古即曹王?子,時代柳公綽為鄂岳觀察使。
通:壽州刺史李文通。

咸統於弘,各奏汝功。
すべて都統韓弘に統率させ、おのおの汝らの功を挙げさせた。

三方分攻,五萬其師。
そして三方からわかれて攻めたのは、五万のその軍であった。


大軍北乘,厥數倍之。
そうして大軍が北から攻め込んだのである。その数は三路の軍の倍にもなっていた。
○北乗 北から攻撃する。
○厥 「遂連姦鄰」三路の軍。

常兵時曲,軍士蠢蠢。
以前にも時曲に戦った時、敵の軍はうごめき動揺するだけであった。
○常兵時曲 かつて時曲で戦った。常は嘗に通用。時曲は時水(汝水)の曲(:川の淵)。
○薫蒸 虫のうごめくように動揺した。軍の統率が無く右往左往するばかりの様子。

既翦陵雲,蔡卒大窘。
やがてわが師が陵雲を乗り従えるに及んで、蔡の兵卒は大いに苦しむだけになった。
○蔡卒大窘 李光顏と烏重胤の軍が陵雲の柵(塞)を抜いたことで戦いにはならず苦しんだ。





#13
帝時繼位,顧瞻咨嗟。
皇帝はその時、位を継いで、この状況に顧み仰ぎ溜息をついて嗟かれた。
惟汝文武,孰恤予家。
「これお前たち文武の臣よ。誰がわが唐の王家を憂えるだろうか、」と。
既斬?蜀,旋取山東。
やがて呉及び蜀の地を平定し、また山東を取った。
魏將首義,六州降從。
魏の将は大義の先頭として服し、六つの州は降り従った。
淮蔡不順,自以為強。
ところが淮西・蔡州の地は順わなかった、自らが強いと思っていたのだ。
提兵叫讙,欲事故常。
彼は兵を引き連れて叫びさわいだ、そして、古くからの慣わしを固守して朝廷を無視しようとした。
#13
帝 時に位を繼いで,顧瞻【こせん】咨嗟【しさ】す。
惟れ汝文武,孰か予が家を恤【うれ】うると。
既に?蜀を斬り,旋【ま】た山東を取る。
魏將 義を首【はじ】め,六州【りくしゅう】降從【こうじゅう】す。
淮・蔡 順【したが】わず,自ら以て強と為す。
兵を提げて叫讙【きょうかん】し,故常【こじょう】を事とせんと欲す。
#14
始命討之,遂連姦鄰。
そこで、皇帝は命じてこれを討たせられた。追い詰められた彼らはついに邪な近隣の州と連合するのである。
陰遣刺客,來賊相臣。
ひそかに暗殺者を派遣して闇討ちを図るのである。朝廷の重臣宰相武元衡を殺し、裴度を傷害した。
方戰未利,?驚京師。
戦いがまだ勝利でない最中に、さっと広まり、長安の都を驚かしたのである。
羣公上言,莫若惠來。
諸侯の公卿は天子に申し上げた、敵に恵んで懐かせるのに越したことはない、と。
帝為不聞,與神為謀。
皇帝はこの非戦論を聞かぬふりをされたのであり、そこで、神霊と討伐の謀をなされたのである。
乃相同コ,以訖天誅。
ところが宰相も天子と同じ徳ある人であったから、それ故、天意を以て賊を誅する「天誅の戦い」を遂行したのであった。
#14
始めて命じて之を討しめ,遂に姦鄰【かんりん】を連ぬ。
陰に刺客【せきかく】を遣して,來って相臣【そうしん】を賊【そこな】う。
戰は未だ利あらざるに方りて,? 京師を驚かす。
羣公 上言して,惠み來すにしくは莫し。
帝 不聞かざる為【まね】して,神と謀を為す。
乃ち相いコを同じうして,以て天誅を訖う。
#15
乃敕顏胤,愬武古通,
そこで李光顏・烏重胤・韓公武・李道古鄂岳觀察使・壽州刺史李文通の諸将に勅令された。
咸統於弘,各奏汝功。
すべて都統韓弘に統率させ、おのおの汝らの功を挙げさせた。
三方分攻,五萬其師。
そして三方からわかれて攻めたのは、五万のその軍であった。
大軍北乘,厥數倍之。
そうして大軍が北から攻め込んだのである。その数は三路の軍の倍にもなっていた。
常兵時曲,軍士蠢蠢。
以前にも時曲に戦った時、敵の軍はうごめき動揺するだけであった。
既翦陵雲,蔡卒大窘。
やがてわが師が陵雲を乗り従えるに及んで、蔡の兵卒は大いに苦しむだけになった。

始めて命じて之を討しめ,遂に姦鄰【かんりん】を連ぬ。
陰に刺客【せきかく】を遣して,來って相臣【そうしん】を賊【そこな】う。
戰は未だ利あらざるに方りて,? 京師を驚かす。
羣公 上言して,惠み來すにしくは莫し。
帝 不聞かざる為【まね】して,神と謀を為す。
乃ち相いコを同じうして,以て天誅を訖う。

#16
勝之邵陵,?城來降。
これに邵陵で勝ち、?城の軍は降参して来た。
自夏入秋,復屯相望。
夏から秋に入るころには、易の復の卦の善に復る運と屯の卦の物の発生の運とが相継いで来るという幸運続きであった。
兵頓不勵,告功不時。
ところがその後、兵の勢いはとどまり励み進まなくて、功を告げるのに時が定まらなかった。
帝哀征夫,命相往釐。
帝は遠征の兵士たちを哀れみ、宰相に命じて往って物を腸せられた。
士飽而歌,馬騰於槽。
士は十分に食って勇み歌い、馬は飼糟の上で躍り上がって元気づいたのである。
之に邵陵に勝ち、?城【えんじょう】来り降る。
夏より秋に入り、復屯【ふくちゅん】相い望み、
兵頓【とど】まって励まず、功を告ぐるに時あらず。
帝 征夫を哀みて、相に命じて往いて釐【おさ】めしむ。
士 飽いて歌い,馬 槽に騰る。

#17
試之新城,賊遇敗逃。盡抽其有,聚以防我。
西師躍入,道無留者。??蔡城,其?千里。
既入而有,莫不順俟。


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #16
勝之邵陵,?城來降。自夏入秋,復屯相望。
兵頓不勵,告功不時。帝哀征夫,命相往釐。
士飽而歌,馬騰於槽。


(下し文)
之に邵陵に勝ち、?城【えんじょう】来り降る。
夏より秋に入り、復屯【ふくちゅん】相い望み、
兵頓【とど】まって励まず、功を告ぐるに時あらず。
帝 征夫を哀みて、相に命じて往いて釐【おさ】めしむ。
士 飽いて歌い,馬 槽に騰る。

(現代語訳)
これに邵陵で勝ち、?城の軍は降参して来た。
夏から秋に入るころには、易の復の卦の善に復る運と屯の卦の物の発生の運とが相継いで来るという幸運続きであった。
ところがその後、兵の勢いはとどまり励み進まなくて、功を告げるのに時が定まらなかった。
帝は遠征の兵士たちを哀れみ、宰相に命じて往って物を腸せられた。
士は十分に食って勇み歌い、馬は飼糟の上で躍り上がって元気づいたのである。


(訳注) #16
勝之邵陵,?城來降。
これに邵陵で勝ち、?城の軍は降参して来た。
○?城來降 ケ懐金が?城の兵を以て光・顏に降ったこと。

自夏入秋,復屯相望。
夏から秋に入るころには、易の復の卦の善に復る運と屯の卦の物の発生の運とが相継いで来るという幸運続きであった。
○復屯相望 復は『易』の卦名。震下坤上、反る意を表す卦。善に帰ることで吉、屯の卦は零下坎上、物の始めて生ずる義。復と屯とが隣り合い相続いているとは、好い運勢が続いているの意。

兵頓不勵,告功不時。
ところがその後、兵の勢いはとどまり励み進まなくて、功を告げるのに時が定まらなかった。
○不時 不定時。時が定まらず、不順調。

帝哀征夫,命相往釐。
帝は遠征の兵士たちを哀れみ、宰相に命じて往って物を腸せられた。
○釐 賚【たまもの】と同じく衣服食糧を賜う

士飽而歌,馬騰於槽。
士は十分に食って勇み歌い、馬は飼糟の上で躍り上がって元気づいたのである。
○士飽而歌 食糧が十分で、元気に歌い、勇気が出たさま。







#22
淮蔡為亂,天子伐之,
准西・蔡州が叛乱を為したが、天子はこれを征伐された。
既伐而飢,天子活之,
すでにこれを征伐してのち蔡の地が飢饉であった。天子は之に食糧を送って活性化された。
使議伐蔡,卿士莫隨,
始めに蔡征伐をすることを議したときには、諸卿や士夫に天子に賛成して随うものがなかった。
既伐四年,小大並疑,
既に征伐されて四年経つけれど、大小の官吏のものたちは皆成功を疑った。
#23
不赦不疑,由天子明,
しかしこれを赦さないし、これを疑いはしない。それでも遂に征伐できたのは、天子の明智によるものである。
凡此蔡功,惟斷乃成,
凡そこの蔡の戦い功力あり、ただ天子の決断がなされたことによってはじめて成就したのである。
既定淮蔡,四夷畢來。
既に淮・蔡を平定したことで、四方の異民族たちもことごとく来朝することになったのだ。
遂開明堂,坐以治之。
遂に朝廷の政教を行う明堂を開いて、天子はそこに坐して政治を聴かれるであろう。


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #23
不赦不疑,由天子明,
凡此蔡功,惟斷乃成,
既定淮蔡,四夷畢來。
遂開明堂,坐以治之。


(下し文) #23
赦さず疑わずは,天子の明に由る,
凡そ此の蔡の功,惟だ斷にして乃ち成る,
既に淮・蔡を定む,四夷 畢【ことごと】く來る。
遂に明堂を開いて,坐して以て之を治む。


(現代語訳)
しかしこれを赦さないし、これを疑いはしない。それでも遂に征伐できたのは、天子の明智によるものである。
凡そこの蔡の戦い功力あり、ただ天子の決断がなされたことによってはじめて成就したのである。
既に淮・蔡を平定したことで、四方の異民族たちもことごとく来朝することになったのだ。
遂に朝廷の政教を行う明堂を開いて、天子はそこに坐して政治を聴かれるであろう。


(訳注) #23
不赦不疑,由天子明。
しかしこれを赦さないし、これを疑いはしない。それでも遂に征伐できたのは、天子の明智によるものである。

凡此蔡功,惟斷乃成。
凡そこの蔡の戦い功力あり、ただ天子の決断がなされたことによってはじめて成就したのである。

既定淮蔡,四夷畢來。
既に淮・蔡を平定したことで、四方の異民族たちもことごとく来朝することになったのだ。
〇四夷 東夷・西戎・南蛮・北狄の異民族。

遂開明堂,坐以治之。
遂に朝廷の政教を行う明堂を開いて、天子はそこに坐して政治を聴かれるであろう。
○明堂 古代に天子が諸侯を朝参させた殿堂の名。『孟子』梁惠王篇に「明宝は王者の重なり」とある。天子が政治を聴く所で、陽に向かって建て、八窓を開く。故に明という。


李商隠の『韓碑』にこの事件の朝廷のようすがよくわかる。
平淮西碑 (韓碑)李商隠
#1
元和天子神武姿、彼何人哉軒與義。
誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷
淮西有賊五十載、封狼生??生羆。
不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。

#2
帝得聖和相日度、賊斫不死~扶持。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不?。

#3
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。

#1
唐元和の中興の時期、憲宗皇帝は、はなはだ秀れた勇武ある身ごなしのお方と評された。人人が理想の皇帝としてあがめる伏義と軒轅に代表される有徳の統治者三皇五帝も、憲宗皇帝を前にしては、何はどの人物と思われるであろう。
憲宗はそれまで歴代の意の威信を傷つけた藩鋲と節度使の勝手気ままなのさばりを、まず鎮圧して、先帝の恥を灌ごうと誓いをたて、また、四方の異民族の参勤を、朝廷で謁見させるため夷狄討征の決意をもされたのだ。
これまで、淮西の節度使は、凡そ五十年間、朝命を無視して、私利をのみ謀る奸臣から乱臣賊子と化していた。粛宗皇帝の時より、李希烈・陳仙奇・呉少誠・呉少陽・呉元?と、配される節度使に交替はあっても、それは、狼が大虎にかわり、虎が羆を生んだということなのだ。
本当の盗賊、野獣であるなら、山河深く隠れて住むものだが、堂々と平地、町家に依拠し、その権力をふるっている。長い戈、するどい矛をずらりと軍列を整えていたのだ、だからその地域においては、太陽すらまねきかえせるほどの資力、勢力をたくわえていたのである。
#2
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。
#3
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。






#16
勝之邵陵,?城來降。
これに邵陵で勝ち、?城の軍は降参して来た。
自夏入秋,復屯相望。
夏から秋に入るころには、易の復の卦の善に復る運と屯の卦の物の発生の運とが相継いで来るという幸運続きであった。
兵頓不勵,告功不時。
ところがその後、兵の勢いはとどまり励み進まなくて、功を告げるのに時が定まらなかった。
帝哀征夫,命相往釐。
帝は遠征の兵士たちを哀れみ、宰相に命じて往って物を腸せられた。
士飽而歌,馬騰於槽。
士は十分に食って勇み歌い、馬は飼糟の上で躍り上がって元気づいたのである。
之に邵陵に勝ち、?城【えんじょう】来り降る。
夏より秋に入り、復屯【ふくちゅん】相い望み、
兵頓【とど】まって励まず、功を告ぐるに時あらず。
帝 征夫を哀みて、相に命じて往いて釐【おさ】めしむ。
士 飽いて歌い,馬 槽に騰る。
#17
試之新城,賊遇敗逃。
試みにこの兵を新城攻略にに用いた、賊はこれに遇って敗れ逃亡したのである。
盡抽其有,聚以防我。
そこでその所有の軍兵をことごとく抽抜し、これをあつめてわが軍を防いだ。
西師躍入,道無留者。
西方からの軍は躍り込んでこれを討ったところ、道にこれを防ぎ留める者がなかった。
??蔡城,其?千里。
昼夜休む間もなく悪事を働いた蔡の城、その領域は千里四方であったのだ。
既入而有,莫不順俟。
すでにわが手に入って保有し、人々は順いわが軍を待たないものはなかった。
之を新城に試みれば、賊 遇ひて敗逃す。
盡く其の有を抽き、衆めて以て我を防ぐ。
西師躍り入り、道に留むる者無し。
??【がくがく】たる蔡城、其の?【きょう】千里、既に入りて有【たも】つ。順俟【じゅんし】せざる莫し。


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #17
試之新城,賊遇敗逃。盡抽其有,聚以防我。
西師躍入,道無留者。??蔡城,其?千里。
既入而有,莫不順俟。


(下し文)
之を新城に試みれば、賊 遇ひて敗逃す。
盡く其の有を抽き、衆めて以て我を防ぐ。
西師躍り入り、道に留むる者無し。
??【がくがく】たる蔡城、其の?【きょう】千里、既に入りて有【たも】つ。順俟【じゅんし】せざる莫し。

(現代語訳)
試みにこの兵を新城攻略にに用いた、賊はこれに遇って敗れ逃亡したのである。
そこでその所有の軍兵をことごとく抽抜し、これをあつめてわが軍を防いだ。
西方からの軍は躍り込んでこれを討ったところ、道にこれを防ぎ留める者がなかった。
昼夜休む間もなく悪事を働いた蔡の城、その領域は千里四方であったのだ。
すでにわが手に入って保有し、人々は順いわが軍を待たないものはなかった。


(訳注) #17
試之新城,賊遇敗逃。
試みにこの兵を新城攻略にに用いた、賊はこれに遇って敗れ逃亡したのである。

盡抽其有,聚以防我。
そこでその所有の軍兵をことごとく抽抜し、これをあつめてわが軍を防いだ。

西師躍入,道無留者。
西方からの軍は躍り込んでこれを討ったところ、道にこれを防ぎ留める者がなかった。

??蔡城,其?千里。
昼夜休む間もなく悪事を働いた蔡の城、その領域は千里四方であったのだ。
○?? 休むことなく悪事をする形容。『書経』益禝篇に「昼夜と罔【な】く??」と、伝に「昼夜となく??として悪をほしいままにして休息する無し」と。

既入而有,莫不順俟。
すでにわが手に入って保有し、人々は順いわが軍を待たないものはなかった。
○既入而有 すでに、我が手に入って保有する。
○莫不順俟 順ってわが軍を待たないものはない。侯は王の軍を待つ









#18
帝有恩言,相度來宣:誅止其魁,釋其下人。
蔡之卒夫,投甲呼舞;蔡之婦女,迎門笑語。
蔡人告飢,船粟往哺;蔡人告寒,賜以助z。
#19
始時蔡人,禁不往來;今相從戲,里門夜開。
始時蔡人,進戰退戮;今?而起,左?右粥。
為之擇人,以收餘憊;選吏賜牛,教而不?。
#20
蔡人有言,始迷不知。今乃大覺,羞前之為。
蔡人有言,天子明聖;不順族誅,順保性命。
汝不吾信,視此蔡方;孰為不順,往斧其吭。
#21
凡叛有數,聲勢相倚;吾強不支,汝弱奚恃;
其告而長,而父而兄;奔走偕來,同我太平



#18
帝有恩言,相度來宣:
天子は恵み深い勅言を賜い、宰相裴度が来てこれを宣べ伝えた。
誅止其魁,釋其下人。
誅罰は賊の首領に止め、其の手下の人々を釈き許した。
蔡之卒夫,投甲呼舞;
蔡の士卒は鎧を投げ捨てて大声を挙げて舞い躍った。
蔡之婦女,迎門笑語。
蔡の女たちは、門に帰還の夫を迎えて笑い語って楽しげであった。
蔡人告飢,船粟往哺;
戦後のことで、蔡の人々が食糧不足を訴えれば、船に穀物を積んで往って食わせたのである。
蔡人告寒,賜以助z。
蔡の人が寒さを訴えれば、絹や布を賜い救ったのである。

帝に恩言有り,相度【しょうど】來り宣ぶ:
誅は其の魁【かい】に止め,其の下人を釋【ゆる】す。
蔡の卒夫,甲を投じて呼舞し;
蔡の婦女,門に迎へて笑語す。
蔡人 飢を告げば,粟【ぞく】を船にして往いて哺す;
蔡人 告寒をげば,賜うに助zを以ってす。


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文)#18
帝有恩言,相度來宣:誅止其魁,釋其下人。
蔡之卒夫,投甲呼舞;蔡之婦女,迎門笑語。
蔡人告飢,船粟往哺;蔡人告寒,賜以助z。


(下し文)#18
帝に恩言有り,相度【しょうど】來り宣ぶ:
誅は其の魁【かい】に止め,其の下人を釋【ゆる】す。
蔡の卒夫,甲を投じて呼舞し;
蔡の婦女,門に迎へて笑語す。
蔡人 飢を告げば,粟【ぞく】を船にして往いて哺す;
蔡人 告寒をげば,賜うに助zを以ってす。


(現代語訳)
天子は恵み深い勅言を賜い、宰相裴度が来てこれを宣べ伝えた。
誅罰は賊の首領に止め、其の手下の人々を釈き許した。
蔡の士卒は鎧を投げ捨てて大声を挙げて舞い躍った。
蔡の女たちは、門に帰還の夫を迎えて笑い語って楽しげであった。
戦後のことで、蔡の人々が食糧不足を訴えれば、船に穀物を積んで往って食わせたのである。


(訳注)#18
帝有恩言,相度來宣:
天子は恵み深い勅言を賜い、宰相裴度が来てこれを宣べ伝えた。
〇恩言 恵みの言葉
○度 裴度。
○来貢 来て天子の言を宣べ伝える。

誅止其魁,釋其下人。
誅罰は賊の首領に止め、其の手下の人々を釈き許した。

蔡之卒夫,投甲呼舞;
蔡の士卒は鎧を投げ捨てて大声を挙げて舞い躍った。

蔡之婦女,迎門笑語。
蔡の女たちは、門に帰還の夫を迎えて笑い語って楽しげであった。

蔡人告飢,船粟往哺;
戦後のことで、蔡の人々が食糧不足を訴えれば、船に穀物を積んで往って食わせたのである。
○往哺 往って食を与える

蔡人告寒,賜以助z。
蔡の人が寒さを訴えれば、絹や布を賜い救ったのである。
○助z 衝は細い絹織物、布は木綿や麻の布。







#18
帝有恩言,相度來宣:
天子は恵み深い勅言を賜い、宰相裴度が来てこれを宣べ伝えた。
誅止其魁,釋其下人。
誅罰は賊の首領に止め、其の手下の人々を釈き許した。
蔡之卒夫,投甲呼舞;
蔡の士卒は鎧を投げ捨てて大声を挙げて舞い躍った。
蔡之婦女,迎門笑語。
蔡の女たちは、門に帰還の夫を迎えて笑い語って楽しげであった。
蔡人告飢,船粟往哺;
戦後のことで、蔡の人々が食糧不足を訴えれば、船に穀物を積んで往って食わせたのである。
蔡人告寒,賜以助z。
蔡の人が寒さを訴えれば、絹や布を賜い救ったのである。
帝に恩言有り,相度【しょうど】來り宣ぶ:
誅は其の魁【かい】に止め,其の下人を釋【ゆる】す。
蔡の卒夫,甲を投じて呼舞し;
蔡の婦女,門に迎へて笑語す。
蔡人 飢を告げば,粟【ぞく】を船にして往いて哺す;
蔡人 告寒をげば,賜うに助zを以ってす。

#19
始時蔡人,禁不往來;
始めには蔡の人々は、往来も禁じられていたのだ。
今相從戲,里門夜開。
戦後の今では、相共に遊びたわむれ、里の門は夜も開かれていて用心もいらないのである。
始時蔡人,進戰退戮;
始めには蔡の人々は進んで戦うだけで、退けは味方に殺されたのである。
今?而起,左?右粥。
今では日が高くあがってやっと起きだしてきて、身の左には食物や右には粥が十分にあるという生活になった。
為之擇人,以收餘憊;
朝廷は素人のために人を択んで適任者にした、戦後に残る疲れた者たちを収用して手当させなおしてやった。
選吏賜牛,教而不?。
朝廷は素人のために人を択んで適任者にした、戦後に残る疲れた者たちを収用して手当させなおしてやった。
始めの時 蔡人,禁じて往來せず;
今 相い從って戲れ,里門 夜も開く。
始めの時 蔡人,進めば戰い退けば戮【りく】せらる;
今 ?にして 起き,?【しょく】を左にし 粥【しゅく】を右にす。
之が為に人を擇【えら】び,以て餘憊【よはい】を收む;
吏を選び 牛を賜いて,教えて?せず。
#20
蔡人有言,始迷不知。今乃大覺,羞前之為。
蔡人有言,天子明聖;不順族誅,順保性命。
汝不吾信,視此蔡方;孰為不順,往斧其吭。
#21
凡叛有數,聲勢相倚;吾強不支,汝弱奚恃;
其告而長,而父而兄;奔走偕來,同我太平


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #19
始時蔡人,禁不往來;今相從戲,里門夜開。
始時蔡人,進戰退戮;今?而起,左?右粥。
為之擇人,以收餘憊;選吏賜牛,教而不?。


(下し文) #19
始めの時 蔡人,禁じて往來せず;
今 相い從って戲れ,里門 夜も開く。
始めの時 蔡人,進めば戰い退けば戮【りく】せらる;
今 ?にして 起き,?【しょく】を左にし 粥【しゅく】を右にす。
之が為に人を擇【えら】び,以て餘憊【よはい】を收む;
吏を選び 牛を賜いて,教えて?せず。


(現代語訳)
始めには蔡の人々は、往来も禁じられていたのだ。
戦後の今では、相共に遊びたわむれ、里の門は夜も開かれていて用心もいらないのである。
始めには蔡の人々は進んで戦うだけで、退けは味方に殺されたのである。
今では日が高くあがってやっと起きだしてきて、身の左には食物や右には粥が十分にあるという生活になった。
朝廷は素人のために人を択んで適任者にした、戦後に残る疲れた者たちを収用して手当させなおしてやった。
朝廷は素人のために人を択んで適任者にした、戦後に残る疲れた者たちを収用して手当させなおしてやった。


(訳注) #19
始時蔡人,禁不往來;
始めには蔡の人々は、往来も禁じられていたのだ。

今相從戲,里門夜開。
戦後の今では、相共に遊びたわむれ、里の門は夜も開かれていて用心もいらないのである。

始時蔡人,進戰退戮;
始めには蔡の人々は進んで戦うだけで、退けは味方に殺されたのである。

今?而起,左?右粥。
今では日が高くあがってやっと起きだしてきて、身の左には食物や右には粥が十分にあるという生活になった。
○? 朝おそく。
○餐 食物、飯。

為之擇人,以收餘憊;
朝廷は素人のために人を択んで適任者にした、戦後に残る疲れた者たちを収用して手当させなおしてやった。
○餘憊 残余の疲れ切った者。

選吏賜牛,教而不?。
官吏を選んで治めさせ、牛を賜うて農耕の助けとし、教育をして税を取らないという手厚い保護を加えた。






平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#20>U中唐詩763 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2799


#20
蔡人有言,始迷不知。
蔡の人に次のように言うものがある、始めは物の道理がわからず利欲に迷っていた。
今乃大覺,羞前之為。
そして、「今になってはじめて大いに覚ったし、前にしたことを羞じている」と。
蔡人有言,天子明聖;
ほかの蔡人の言う者がある、「天子は明智聖徳ある方である」
不順族誅,順保性命。
そして、「従順にならない者は一族皆誅され、従順の者は性命を保たせなさる。」と。
汝不吾信,視此蔡方;
お前が もし私のこの言を信じないというならば、「この蔡の地方を実態・実証よく視ることである。」と。
孰為不順,往斧其吭。
そして、「誰が朝廷に順わぬ行いをするのであろうか。もしあれば往ってその咽を斧で斬るであろう。」と。
#21
凡叛有數,聲勢相倚;吾強不支,汝弱奚恃;
其告而長,而父而兄;奔走偕來,同我太平


#20
蔡人 言う有り,始めに迷いて知らず。
今は乃ち大いに覺り,前の為【しわざ】を羞ず。
蔡人 言う有り,天子 明聖;
不順【ふじゅん】は族誅【ぞくちゅう】,順は性命を保つ。
汝 吾 信んぜずんば,此の蔡方を視よ;
孰【たれ】か不順を為すか,往いて其の吭【のど】に斧せん。
#21
凡そ叛くに數有り,聲勢【せいせい】相い倚る;
吾が強 支えず,汝の弱きは奚【なに】をか恃【たの】まん;
其れ而【なんじ】が長,而【なんじ】が父 而が兄に告げん;
奔走して偕【とも】に來り,我が太平をに同【とも】にせん


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #20
蔡人有言,始迷不知。今乃大覺,羞前之為。
蔡人有言,天子明聖;不順族誅,順保性命。
汝不吾信,視此蔡方;孰為不順,往斧其吭。

(下し文)#20
蔡人 言う有り,始めに迷いて知らず。
今は乃ち大いに覺り,前の為【しわざ】を羞ず。
蔡人 言う有り,天子 明聖;
不順【ふじゅん】は族誅【ぞくちゅう】,順は性命を保つ。
汝 吾 信んぜずんば,此の蔡方を視よ;
孰【たれ】か不順を為すか,往いて其の吭【のど】に斧せん。

(現代語訳)
蔡の人に次のように言うものがある、始めは物の道理がわからず利欲に迷っていた。
そして、「今になってはじめて大いに覚ったし、前にしたことを羞じている」と。
ほかの蔡人の言う者がある、「天子は明智聖徳ある方である」
そして、「従順にならない者は一族皆誅され、従順の者は性命を保たせなさる。」と。
お前が もし私のこの言を信じないというならば、「この蔡の地方を実態・実証よく視ることである。」と。
そして、「誰が朝廷に順わぬ行いをするのであろうか。もしあれば往ってその咽を斧で斬るであろう。」と。
 
(訳注)#20
蔡人有言,始迷不知。
蔡の人に次のように言うものがある、「始めは物の道理がわからず利欲に迷っていた。」
○蔡は周代に中国に存在した侯国。首都は上蔡にあり、そこを中心として現在の河南省上蔡県一帯を領土とした。後、首都を新蔡に遷した。周の武王が実弟・蔡叔度を侯爵に封じたのが始まり。紀元前531年楚に攻められて新蔡を追われ、首都を下蔡に遷したが、のち楚の恵王に滅ぼされた。

今乃大覺,羞前之為。
そして、「今になってはじめて大いに覚ったし、前にしたことを羞じている」と。

蔡人有言,天子明聖;
ほかの蔡人の言う者がある、「天子は明智聖徳ある方である」
○明聖 明智聖徳。最もすぐれた知恵をもつ天子が徳をそなえている。

不順族誅,順保性命。
そして、「従順にならない者は一族皆誅され、従順の者は性命を保たせなさる。」と。

汝不吾信,視此蔡方;
お前が もし私のこの言を信じないというならば、「この蔡の地方を実態・実証よく視ることである。」と。
○汝不吾信 お前がわが言を信じないならば。汝は
鎮帥たち。当時?州【ししゅう】・青州(山東)の李師道らが、まだ朝廷に反抗する形勢があったのでいう。

孰為不順,往斧其吭。
そして、「誰が朝廷に順わぬ行いをするのであろうか。もしあれば往ってその咽を斧で斬るであろう。」と。
○吭 のど。








平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#20>U中唐詩763 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2799


#20
蔡人有言,始迷不知。
蔡の人に次のように言うものがある、始めは物の道理がわからず利欲に迷っていた。
今乃大覺,羞前之為。
そして、「今になってはじめて大いに覚ったし、前にしたことを羞じている」と。
蔡人有言,天子明聖;
ほかの蔡人の言う者がある、「天子は明智聖徳ある方である」
不順族誅,順保性命。
そして、「従順にならない者は一族皆誅され、従順の者は性命を保たせなさる。」と。
汝不吾信,視此蔡方;
お前が もし私のこの言を信じないというならば、「この蔡の地方を実態・実証よく視ることである。」と。
孰為不順,往斧其吭。
そして、「誰が朝廷に順わぬ行いをするのであろうか。もしあれば往ってその咽を斧で斬るであろう。」と。
#21
凡叛有數,聲勢相倚;吾強不支,汝弱奚恃;
其告而長,而父而兄;奔走偕來,同我太平


#20
蔡人 言う有り,始めに迷いて知らず。
今は乃ち大いに覺り,前の為【しわざ】を羞ず。
蔡人 言う有り,天子 明聖;
不順【ふじゅん】は族誅【ぞくちゅう】,順は性命を保つ。
汝 吾 信んぜずんば,此の蔡方を視よ;
孰【たれ】か不順を為すか,往いて其の吭【のど】に斧せん。
#21
凡そ叛くに數有り,聲勢【せいせい】相い倚る;
吾が強 支えず,汝の弱きは奚【なに】をか恃【たの】まん;
其れ而【なんじ】が長,而【なんじ】が父 而が兄に告げん;
奔走して偕【とも】に來り,我が太平をに同【とも】にせん


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #20
蔡人有言,始迷不知。今乃大覺,羞前之為。
蔡人有言,天子明聖;不順族誅,順保性命。
汝不吾信,視此蔡方;孰為不順,往斧其吭。


(下し文)#20
蔡人 言う有り,始めに迷いて知らず。
今は乃ち大いに覺り,前の為【しわざ】を羞ず。
蔡人 言う有り,天子 明聖;
不順【ふじゅん】は族誅【ぞくちゅう】,順は性命を保つ。
汝 吾 信んぜずんば,此の蔡方を視よ;
孰【たれ】か不順を為すか,往いて其の吭【のど】に斧せん。
 
(現代語訳)
蔡の人に次のように言うものがある、始めは物の道理がわからず利欲に迷っていた。
そして、「今になってはじめて大いに覚ったし、前にしたことを羞じている」と。
ほかの蔡人の言う者がある、「天子は明智聖徳ある方である」
そして、「従順にならない者は一族皆誅され、従順の者は性命を保たせなさる。」と。
お前が もし私のこの言を信じないというならば、「この蔡の地方を実態・実証よく視ることである。」と。
そして、「誰が朝廷に順わぬ行いをするのであろうか。もしあれば往ってその咽を斧で斬るであろう。」と。
 
(訳注)#20
蔡人有言,始迷不知。
蔡の人に次のように言うものがある、「始めは物の道理がわからず利欲に迷っていた。」
○蔡は周代に中国に存在した侯国。首都は上蔡にあり、そこを中心として現在の河南省上蔡県一帯を領土とした。後、首都を新蔡に遷した。周の武王が実弟・蔡叔度を侯爵に封じたのが始まり。紀元前531年楚に攻められて新蔡を追われ、首都を下蔡に遷したが、のち楚の恵王に滅ぼされた。

今乃大覺,羞前之為。
そして、「今になってはじめて大いに覚ったし、前にしたことを羞じている」と。

蔡人有言,天子明聖;
ほかの蔡人の言う者がある、「天子は明智聖徳ある方である」
○明聖 明智聖徳。最もすぐれた知恵をもつ天子が徳をそなえている。

不順族誅,順保性命。
そして、「従順にならない者は一族皆誅され、従順の者は性命を保たせなさる。」と。

汝不吾信,視此蔡方;
お前が もし私のこの言を信じないというならば、「この蔡の地方を実態・実証よく視ることである。」と。
○汝不吾信 お前がわが言を信じないならば。汝は
鎮帥たち。当時?州【ししゅう】・青州(山東)の李師道らが、まだ朝廷に反抗する形勢があったのでいう。

孰為不順,往斧其吭。
そして、「誰が朝廷に順わぬ行いをするのであろうか。もしあれば往ってその咽を斧で斬るであろう。」と。
○吭 のど。






平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#21>U中唐詩764 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2804


#20
蔡人有言,始迷不知。
蔡の人に次のように言うものがある、始めは物の道理がわからず利欲に迷っていた。
今乃大覺,羞前之為。
そして、「今になってはじめて大いに覚ったし、前にしたことを羞じている」と。
蔡人有言,天子明聖;
ほかの蔡人の言う者がある、「天子は明智聖徳ある方である」
不順族誅,順保性命。
そして、「従順にならない者は一族皆誅され、従順の者は性命を保たせなさる。」と。
汝不吾信,視此蔡方;
お前が もし私のこの言を信じないというならば、「この蔡の地方を実態・実証よく視ることである。」と。
孰為不順,往斧其吭。
そして、「誰が朝廷に順わぬ行いをするのであろうか。もしあれば往ってその咽を斧で斬るであろう。」と。
#21
凡叛有數,聲勢相倚;
「凡そ叛くものには一定の人数があって、その勢力は相い寄り支え合っているものだ。」
吾強不支,汝弱奚恃;
「わが蔡のように強い者でも支え切れなかった。お前たち弱いものが何を頼みにするというのか。」
其告而長,而父而兄;
「それこそ、お前たちの首長、お前の父や兄に告げてみるとよいのだ。」
奔走偕來,同我太平。
「奔り走らせてともにに朝廷の方に来て、我が太平の世を共にして暮らそう。」と。
#21
凡そ叛くに數有り,聲勢【せいせい】相い倚る;
吾が強 支えず,汝の弱きは奚【なに】をか恃【たの】まん;
其れ而【なんじ】が長,而【なんじ】が父 而が兄に告げん;
奔走して偕【とも】に來り,我が太平をに同【とも】にせん

『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文)#21
凡叛有數,聲勢相倚;吾強不支,汝弱奚恃;
其告而長,而父而兄;奔走偕來,同我太平


(下し文) #21
凡そ叛くに數有り,聲勢【せいせい】相い倚る;
吾が強 支えず,汝の弱きは奚【なに】をか恃【たの】まん;
其れ而【なんじ】が長,而【なんじ】が父 而が兄に告げん;
奔走して偕【とも】に來り,我が太平をに同【とも】にせん


(現代語訳)
「凡そ叛くものには一定の人数があって、その勢力は相い寄り支え合っているものだ。」
「わが蔡のように強い者でも支え切れなかった。お前たち弱いものが何を頼みにするというのか。」
「それこそ、お前たちの首長、お前の父や兄に告げてみるとよいのだ。」
「奔り走らせてともにに朝廷の方に来て、我が太平の世を共にして暮らそう。」と。








(訳注)#21
凡叛有數,聲勢相倚;
「凡そ叛くものには一定の人数があって、その勢力は相い寄り支え合っているものだ。」
○聲勢相倚 声と勢い、勢力が耳いにもたれ合って立つ。

吾強不支,汝弱奚恃;
「わが蔡のように強い者でも支え切れなかった。お前たち弱いものが何を頼みにするというのか。」
○汝弱奚恃 お前の弱きで何を頼みにするのか。

其告而長,而父而兄;
「それこそ、お前たちの首長、お前の父や兄に告げてみるとよいのだ。」

奔走偕來,同我太平
「奔り走らせてともにに朝廷の方に来て、我が太平の世を共にして暮らそう。」と。
○偕 ともに。






#22
淮蔡為亂,天子伐之,
准西・蔡州が叛乱を為したが、天子はこれを征伐された。
既伐而飢,天子活之,
すでにこれを征伐してのち蔡の地が飢饉であった。天子は之に食糧を送って活性化された。
使議伐蔡,卿士莫隨,
始めに蔡征伐をすることを議したときには、諸卿や士夫に天子に賛成して随うものがなかった。
既伐四年,小大並疑,
既に征伐されて四年経つけれど、大小の官吏のものたちは皆成功を疑った。
#23
不赦不疑,由天子明,
凡此蔡功,惟斷乃成,
既定淮蔡,四夷畢來。
遂開明堂,坐以治之。


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #22
淮蔡為亂,天子伐之。
既伐而飢,天子活之。
使議伐蔡,卿士莫隨。
既伐四年,小大並疑。


(下し文) #22
淮・蔡 亂を為す,天子之を伐つ。
既に伐って飢う,天子 之を活す。
蔡を伐つ議せ使しとき,卿士 隨う莫し。
既に伐つ四年,小大 並びに疑う。


(現代語訳)
准西・蔡州が叛乱を為したが、天子はこれを征伐された。
すでにこれを征伐してのち蔡の地が飢饉であった。天子は之に食糧を送って活性化された。
始めに蔡征伐をすることを議したときには、諸卿や士夫に天子に賛成して随うものがなかった。
既に征伐されて四年経つけれど、大小の官吏のものたちは皆成功を疑った。


(訳注) #22
淮蔡為亂,天子伐之。
准西・蔡州が叛乱を為したが、天子はこれを征伐された。

既伐而飢,天子活之。
すでにこれを征伐してのち蔡の地が飢饉であった。天子は之に食糧を送って活性化された。
○飢 飢饉、作物が熟しなくて、食糧不足となること。

使議伐蔡,卿士莫隨。
始めに蔡征伐をすることを議したときには、諸卿や士夫に天子に賛成して随うものがなかった。

既伐四年,小大並疑。
既に征伐されて四年経つけれど、大小の官吏のものたちは皆成功を疑った。
○小犬並疑 大官も小官も、卿と士を指す。李逢吉らの者が非戦論をとなえたことをいう。




李商隠の『韓碑』にこの事件の朝廷のようすがよくわかる。
平淮西碑 (韓碑)李商隠
#1
元和天子神武姿、彼何人哉軒與義。
誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷
淮西有賊五十載、封狼生??生羆。
不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。

#2
帝得聖和相日度、賊斫不死~扶持。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不?。

#3
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。

#1
唐元和の中興の時期、憲宗皇帝は、はなはだ秀れた勇武ある身ごなしのお方と評された。人人が理想の皇帝としてあがめる伏義と軒轅に代表される有徳の統治者三皇五帝も、憲宗皇帝を前にしては、何はどの人物と思われるであろう。
憲宗はそれまで歴代の意の威信を傷つけた藩鋲と節度使の勝手気ままなのさばりを、まず鎮圧して、先帝の恥を灌ごうと誓いをたて、また、四方の異民族の参勤を、朝廷で謁見させるため夷狄討征の決意をもされたのだ。
これまで、淮西の節度使は、凡そ五十年間、朝命を無視して、私利をのみ謀る奸臣から乱臣賊子と化していた。粛宗皇帝の時より、李希烈・陳仙奇・呉少誠・呉少陽・呉元?と、配される節度使に交替はあっても、それは、狼が大虎にかわり、虎が羆を生んだということなのだ。
本当の盗賊、野獣であるなら、山河深く隠れて住むものだが、堂々と平地、町家に依拠し、その権力をふるっている。長い戈、するどい矛をずらりと軍列を整えていたのだ、だからその地域においては、太陽すらまねきかえせるほどの資力、勢力をたくわえていたのである。
#2
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。
#3
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。





#22
淮蔡為亂,天子伐之,
准西・蔡州が叛乱を為したが、天子はこれを征伐された。
既伐而飢,天子活之,
すでにこれを征伐してのち蔡の地が飢饉であった。天子は之に食糧を送って活性化された。
使議伐蔡,卿士莫隨,
始めに蔡征伐をすることを議したときには、諸卿や士夫に天子に賛成して随うものがなかった。
既伐四年,小大並疑,
既に征伐されて四年経つけれど、大小の官吏のものたちは皆成功を疑った。
#23
不赦不疑,由天子明,
しかしこれを赦さないし、これを疑いはしない。それでも遂に征伐できたのは、天子の明智によるものである。
凡此蔡功,惟斷乃成,
凡そこの蔡の戦い功力あり、ただ天子の決断がなされたことによってはじめて成就したのである。
既定淮蔡,四夷畢來。
既に淮・蔡を平定したことで、四方の異民族たちもことごとく来朝することになったのだ。
遂開明堂,坐以治之。
遂に朝廷の政教を行う明堂を開いて、天子はそこに坐して政治を聴かれるであろう。


『平淮西碑』 現代語訳と訳註
(本文) #23
不赦不疑,由天子明,
凡此蔡功,惟斷乃成,
既定淮蔡,四夷畢來。
遂開明堂,坐以治之。


(下し文) #23
赦さず疑わずは,天子の明に由る,
凡そ此の蔡の功,惟だ斷にして乃ち成る,
既に淮・蔡を定む,四夷 畢【ことごと】く來る。
遂に明堂を開いて,坐して以て之を治む。


(現代語訳)
しかしこれを赦さないし、これを疑いはしない。それでも遂に征伐できたのは、天子の明智によるものである。
凡そこの蔡の戦い功力あり、ただ天子の決断がなされたことによってはじめて成就したのである。
既に淮・蔡を平定したことで、四方の異民族たちもことごとく来朝することになったのだ。
遂に朝廷の政教を行う明堂を開いて、天子はそこに坐して政治を聴かれるであろう。


(訳注) #23
不赦不疑,由天子明。
しかしこれを赦さないし、これを疑いはしない。それでも遂に征伐できたのは、天子の明智によるものである。

凡此蔡功,惟斷乃成。
凡そこの蔡の戦い功力あり、ただ天子の決断がなされたことによってはじめて成就したのである。

既定淮蔡,四夷畢來。
既に淮・蔡を平定したことで、四方の異民族たちもことごとく来朝することになったのだ。
〇四夷 東夷・西戎・南蛮・北狄の異民族。

遂開明堂,坐以治之。
遂に朝廷の政教を行う明堂を開いて、天子はそこに坐して政治を聴かれるであろう。
○明堂 古代に天子が諸侯を朝参させた殿堂の名。『孟子』梁惠王篇に「明宝は王者の重なり」とある。天子が政治を聴く所で、陽に向かって建て、八窓を開く。故に明という。


李商隠の『韓碑』にこの事件の朝廷のようすがよくわかる。
平淮西碑 (韓碑)李商隠
#1
元和天子神武姿、彼何人哉軒與義。
誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷
淮西有賊五十載、封狼生??生羆。
不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。

#2
帝得聖和相日度、賊斫不死~扶持。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不?。

#3
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。

#1
唐元和の中興の時期、憲宗皇帝は、はなはだ秀れた勇武ある身ごなしのお方と評された。人人が理想の皇帝としてあがめる伏義と軒轅に代表される有徳の統治者三皇五帝も、憲宗皇帝を前にしては、何はどの人物と思われるであろう。
憲宗はそれまで歴代の意の威信を傷つけた藩鋲と節度使の勝手気ままなのさばりを、まず鎮圧して、先帝の恥を灌ごうと誓いをたて、また、四方の異民族の参勤を、朝廷で謁見させるため夷狄討征の決意をもされたのだ。
これまで、淮西の節度使は、凡そ五十年間、朝命を無視して、私利をのみ謀る奸臣から乱臣賊子と化していた。粛宗皇帝の時より、李希烈・陳仙奇・呉少誠・呉少陽・呉元?と、配される節度使に交替はあっても、それは、狼が大虎にかわり、虎が羆を生んだということなのだ。
本当の盗賊、野獣であるなら、山河深く隠れて住むものだが、堂々と平地、町家に依拠し、その権力をふるっている。長い戈、するどい矛をずらりと軍列を整えていたのだ、だからその地域においては、太陽すらまねきかえせるほどの資力、勢力をたくわえていたのである。
#2
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。
#3
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。





814年元和九年に呉少陽が死ぬと、その部下は勝手に少陽の子元済を立てて、朝廷の任命を請うて来た。朝廷は許さなかったので遂に叛いた。憲宗は裴度の意見を用いて之を討つことに決した。裴度は淮西宣慰処置使、兼彰義軍節度使となったが、韓愈を行軍司馬に任じた。
淮水西方の土地、蔡の地を淮西という。この地方の賊が平定すると、韓愈は裴度に随って朝廷に帰り、功を以て刑部侍即を授けられ、「准西を平ぐる碑」を作れとの詔を受けた。これは韓愈一生の最も重大な作品で、苦心努力の結晶であった。彼の代表作の中でも有数のものである。主旨は惟西の平定によって、憲宗の天下支配が成ったことを頌するのである。













平淮西碑 #1
(淮西を平定したことを記念する碑。)
天以唐克肖其コ,聖子神孫,
天は、唐王朝が、天の徳性により困難に勝つことでもって、神のようにすぐれた子孫がうまれる。
繼繼承承,於千萬年,敬戒不怠,
そしてそれが、千万年にも次々相継ぎ、そして次々相承けて、敬しみ戒めて怠らず勤めるのである。
全付所覆,四海九州,
天の覆うところの四方の地のはての海いたるまで、その中の九州をすべて唐に与えられたのである。
罔有?外,悉主悉臣。
漢民族と、異民族内外の区別がなく、唐は悉くその君主となり、人々は悉く臣下となった。
高祖太宗,既除既治;
高祖を継いだ、太宗は、すでに逆賊を除き、すでに天下を手中に治めたのである。
#2
高宗中睿,休養生息;
高宗・中宗・睿宗は、人民を休め、養い、生きて殖えさせたのである。
至於玄宗,受報收功,
玄宗に至って、祖宗善政の報いを受け治策の結果を手に収めた。
極熾而豐,物?地大,?牙其間;
極めて盛んな勢いがあり豊かな御代となって、物産は多く土地は広大であったが、其の間にひこはえの芽のようなよくない者が出て来た。
肅宗代宗,コ祖順考,
粛宗・代宗・わが君の祖父徳宗・父順宗は、治安に勤めて賊を討たれた。
以勤以容,大慝適去。
降将を赦して受け容れたりされた。その結果大悪人は今ちょうど去ったのである。
?莠不?,相臣將臣,
害草のような小賊はまだ草斬り去らないでいるし、大臣や大将などは、
文恬武嬉,習熟見聞,以為當然。
皆文官は安んじ武官は楽しんで、見開くことに馴れ知りつくしていて、当然のことと考えている。

#3
睿聖文武皇帝,既受羣臣朝,乃考圖數貢,
今上、睿聖文武皇帝は、すでに群臣の朝参を受けられ、そこで領地の広さを考え、貢ぎ物の量を数える。
曰:「嗚呼!天既全付予有家,今傳次在予,
そして、いわれた、「ああ、天はすでに天下をわが家に全て与えられた。今順次に伝えて私の身に在る。
予不能事事,其何以見於郊廟?」
ところで私が自分の仕事を第一の仕事とすることができないならば、一体どうして郊の祭りに天に対し、大廟の祭りに祖先に対してまみえることができようか、と。
羣臣震懾,奔走率職。明年,平夏;
これを聞いて群臣は震え恐れ奔走して各自の職務に従って努力をした。そして明年は夏州を平らげた。
又明年,平蜀;又明年,平江東;
またその翌年にには蜀の成都を平らげ、またその翌年には江東地方を平らげるのである。
又明年,平澤?遂定易定,
またその翌年には、沢州・苗州の地を平らげ、そのまま易州・定州を平定した。
致魏、博、貝、衛、?、相,無不從志。
魏州・博州を服従させ、貝・衛・?・相の四州も、わが方の志に従わないものはなかった。
皇帝曰:「不可究武,予其少息。」
皇帝はいわれた、「武力を極度まで用いてはならない。私はそれこそしばらく休息しょう」と。

#4
九年,蔡將死。蔡人立其子元濟以請,不許。
元和九年(814)に蔡州の将が死んだ。蔡の人々はその子の元済を世襲させようと立てて、その承認を朝廷に請うたが許されなかった。
遂燒舞陽,犯葉襄城;
そのまま乱を起こして、舞陽を焼き、葉県・襄陽の城を犯して、
以動東都,放兵四劫。
東都洛陽をおびやかし、兵を方々に出して四方の州を劫かした。
皇帝?問于朝,一二臣外,
皇帝は朝廷において、臣下一人びとりに問われた。一人、二人の臣の外にして。
皆曰:「蔡帥之不廷授,
皆はいった、「蔡の主将が、朝廷から授けて任命しなくなって、
于今五十年,傳三姓四將;
勝手に立つようになって、今まで五十年の問に、将の姓は三たび変わり、人は四人に伝えている。
其樹本堅,兵利卒頑,不與他等。
その樹の根本を植えること固くし、兵器は鋭く充実し、士卒は頑なに強くて言うことを聴かない。他の潘鎮とは同じでないのである。
因撫而有,順且無事。」
それをそのままにして手なずけて保有すれば、穏順でまた無事にすむであろう」と。
大官臆决唱聲,萬口和附,
大官の人が自分の推量できめて、唱えて言い張ると、すべての人はそれに口を合わせて付き従い、
?為一談,牢不可破。
併せて、一つの口から出た談のようになって、固くて破ることができないのである。
皇帝曰:「惟天惟祖宗所以付任予者,
皇帝はいわれた、「それこそ天や祖宗が、私に与え任命されたわけがある。
庶其在此,予何敢不力。
それは全くこの事にあるのであろう。私はどうして努力しないでおれよう。
況一二臣同,不為無助。」
まして一、二の臣が私と同意見で討伐に賛成であることは、私にとって助けが無いのではないから、なおさらである」と。
#5
曰:「光顏,汝為陳、許帥,
天子はまたいわれた、「光顔よ、お前は陳州・許州の主将となれ。
維是河東、魏博、?陽三軍之在行者,汝皆將之。」
ここに河東と魏と博二州および?陽の三軍の派遣される者は、汝が皆その将となれ。」と。
曰:「重胤,汝故有河陽、懷,今益以汝,
またいわれた、「重胤よ、お前は、以前河陽や懷州の軍を支配していたが、それに今汝州を増加する。
維是朔方、義成、陝、益、鳳翔、延、慶七軍之在行者,汝皆將之。」
まず、ここに朔方・義・成・陝・益・鳳翔・延慶の七軍の派遣部隊にあるものは、お前がこれに将となれ。」と。
曰:「弘,汝以卒萬二千屬而子公武往討之。」
続いていわれた、「弘よ、お前は士卒一万二千を率いて、お前の子の公武の手勢として付け、往って討伐せよ。」と。
曰:「文通,汝守壽,
またいわれた、「文通よ、お前は寿州に鎮守府長官となれ」
維是宣武、淮南、宣歙、浙西四軍之行于壽者,汝皆將之。」
それで、「ここに宣武・准南・宣歙・浙西の四軍の中で寿州に行く者は、お前が皆これに将となれ。」と。
#6
曰:「道古,汝其觀察鄂岳。」
またいわれた、「道古よ、お前は、鄂州・岳州の地方の観察使となれ。」と。
曰:「愬,汝帥唐、ケ、隨,各以其兵進戰。」
またいわれた、「愬よ、お前は唐・ケ・随に主将として、各々其の兵を率いて進み戦え。」と。
曰:「度,汝長御史,其往視師。」
またいわれた、「度よ、お前は御史の長として、往って軍隊を監視せよ。」と。
曰:「度,惟汝予同,汝遂相予,以賞罰用命不用命。」
またいわれた、「度よ、それこそお前は私と同じ意見であるから、お前はそのまま私の宰相として、命令を用いる著と命令に従わない者とを、賞したり罰したりせよ。」と。
曰:「弘,汝其以節都統諸軍。」
またいわれた、「弘よ、お前は天子から賜った、将軍の節旄を持って諸軍の都統となれ。」と。
曰:「守謙,汝出入左右,汝惟近臣,共往撫師。」
またいわれた、「守謙よ、お前は私の左右に出入する、お前こそ近臣である。往って軍隊を慰問せよ。」と。

#7
曰:「度,汝其往,衣服飲食予士,無寒無飢。
また、いわれた、「度よ、お前は是非とも往って、私の士卒に、衣服を給し飲食をさせ、寒さに苦しみ、飢えることがないようにしせよ。
以既厥事,遂生蔡人。
それでもって自分の仕事を成功させて、ついには秦の人々を生きて行けるようにせよ。
賜汝節斧,通天御帶,衛卒三百。
お前に将軍のしるしに、節旄と斧及び通天の御帯、衛兵三百人を賜る。
凡茲廷臣,汝擇自從,惟其賢能,
およそこの朝廷の群臣のうちから、お前が択んで自分の従者にせよ。ただ賢徳と才能だけを問題として択ぶのである。
無憚大吏。庚申,予其臨門送汝。」
大吏であってもはばかることはない。庚申の日には、私は、ぜひ宮門でお前の出陣を見送るであろう。」と。
曰:「御史,予閔士大夫戰甚苦,
またいわれた、「御史よ、私は士大夫の戦争が、甚だ苦しいのを気の毒に思っている。
自今以往,非郊廟祠祀,其無用樂。」
今から後は、郊廟の祭祀でなければ、ふだんはそれこそ音楽などは用いてはならない。」と。
#8
顏、胤、武,合攻其北,
李光顏・烏重胤・韓公武の軍は連合して敵の北を攻めた。
大戰十六,得柵城縣二十三,降人卒四萬。
大戦は十六度あり、柵や城、県など、二十三を手に入れ、士卒四万を投降させた。
道古,攻其東南,八戰,降萬三千,
李道古は敵の東南を攻め、八度戦って、一万三千人を投降させた。
再入申,破其外城。
そして再び中の地に入り、その外城を破った。
文通,戰其東,十餘遇,降萬二千。
李文通は敵の東側で戦うこと十回以上もあり、一万二千を投降させた。
愬,入其西,得賊將,
李愬は敵の西に攻め入り、賊将を捕らえた。
輙釋不殺,用其策,戰比有功。
それでもそのつど釈放して殺さずに、それを策として用いて、戦いは此の策で功があったのである。
#9
十二年八月,丞相度至師,都統弘責戰益急,
十二年八月、丞相裴度は軍陣に到着した。都統韓弘は戦うように将士に責めることが益々きびしくなっていった。
顏、胤、武合戰益用命,
李光顏・烏重胤・韓公武の軍は連合してその命令を実行した。
元濟盡?其?,曲以備。
そこで呉元済は、その軍勢全部を河南の曲に集めて、それに備えた。
十月壬申,愬用所得賊將,
十月壬申の日に、李愬はその得た所の賊将を用いた。
自文城因天大雪,疾馳百二十里,
文城から天が大いに雪を降らしたのにつけこんで、百二十里を速く馳せたのである。
用夜半到蔡,破其門,
夜半に蔡に到着、城門を打ち破って元済を捕らえた。
取元濟以獻,盡得其屬人卒。
これを朝廷に献じ、ことごとくその配下の士卒を得た。

#10
辛巳,丞相度入蔡,以皇帝命赦其人。
辛巳の日に、丞相裴度は蔡に入り、皇帝の命を以て、敵の配下であった者を赦した。
淮西平,大饗賚功,
淮西はここに平定した。そこで大宴会を戦功ある者に賜った。
師還之日,因以其食賜蔡人。
軍が還った日、これまで通りにその配下の人々を蔡の人に賜った。
凡蔡卒三萬五千,其不樂為兵,
しかし、すべて蔡の士卒三万五千、その中で兵となるのをねがうことはないのである。
願歸為農者十九,悉縱之。斬元濟京師。
帰って農夫となりたいという者が、十のうち九あったので、ことごとくこれを自由にし、呉元済は長安の都で斬ったのである。





#11
唐承天命,遂臣萬邦。
まず、唐王朝は天の命令を受けて、遂に万国を臣下としたのである。
孰居近土,襲盜以狂。
誰が近畿地方の土地に居て、襲い盗み、狂った行動をするものか。
往在玄宗,崇極而?。
昔は玄宗皇帝の「開元の治」といわれるものの高く隆盛を極めてのち、崩れ乱れた。
河北悍驕,河南附起。
河北の地では猛く驕った者たちが叛き、河南はそれに追随して起こった。
四聖不宥,?興師征。
その後の四聖帝はこれらをゆるさず、度々軍を強化し謀反・反乱を征伐されたのだ。
#12
有不能尅,益戍以兵。
根強くて叛乱を克服することができないところがあって、益々守るために兵を派遣したのだ。
夫耕不食,婦織不裳。
そこでは男が耕作をしても食う物もなく、女が織物を生産しても袴にする布もないいわゆる「不毛の地」となっていた。
輸之以車,為卒賜糧。
それらをすべて車で運び、守備の士卒のために食糧を賜った。
外多失朝,曠不嶽狩。
遠くの潘鎮、節度使たちの多くは入朝して臣下の礼を取ることをしなくなり、ここ久しく、天子の四岳の地方を巡狩されることがなかったのである。
百隸怠官,事亡其舊。
百官・官吏は官職に勤めず怠り、政事はその旧の形を亡ってしまった。
#13
帝時繼位,顧瞻咨嗟。
皇帝はその時、位を継いで、この状況に顧み仰ぎ溜息をついて嗟かれた。
惟汝文武,孰恤予家。
「これお前たち文武の臣よ。誰がわが唐の王家を憂えるだろうか、」と。
既斬?蜀,旋取山東。
やがて呉及び蜀の地を平定し、また山東を取った。
魏將首義,六州降從。
魏の将は大義の先頭として服し、六つの州は降り従った。
淮蔡不順,自以為強。
ところが淮西・蔡州の地は順わなかった、自らが強いと思っていたのだ。
提兵叫讙,欲事故常。
彼は兵を引き連れて叫びさわいだ、そして、古くからの慣わしを固守して朝廷を無視しようとした。

#14
始命討之,遂連姦鄰。
そこで、皇帝は命じてこれを討たせられた。追い詰められた彼らはついに邪な近隣の州と連合するのである。
陰遣刺客,來賊相臣。
ひそかに暗殺者を派遣して闇討ちを図るのである。朝廷の重臣宰相武元衡を殺し、裴度を傷害した。
方戰未利,?驚京師。
戦いがまだ勝利でない最中に、さっと広まり、長安の都を驚かしたのである。
羣公上言,莫若惠來。
諸侯の公卿は天子に申し上げた、敵に恵んで懐かせるのに越したことはない、と。
帝為不聞,與神為謀。
皇帝はこの非戦論を聞かぬふりをされたのであり、そこで、神霊と討伐の謀をなされたのである。
乃相同コ,以訖天誅。
ところが宰相も天子と同じ徳ある人であったから、それ故、天意を以て賊を誅する「天誅の戦い」を遂行したのであった。

#15
乃敕顏胤,愬武古通,
そこで李光顏・烏重胤・韓公武・李道古鄂岳觀察使・壽州刺史李文通の諸将に勅令された。
咸統於弘,各奏汝功。
すべて都統韓弘に統率させ、おのおの汝らの功を挙げさせた。
三方分攻,五萬其師。
そして三方からわかれて攻めたのは、五万のその軍であった。
大軍北乘,厥數倍之。
そうして大軍が北から攻め込んだのである。その数は三路の軍の倍にもなっていた。
常兵時曲,軍士蠢蠢。
以前にも時曲に戦った時、敵の軍はうごめき動揺するだけであった。
既翦陵雲,蔡卒大窘。
やがてわが師が陵雲を乗り従えるに及んで、蔡の兵卒は大いに苦しむだけになった。
#16
勝之邵陵,?城來降。
これに邵陵で勝ち、?城の軍は降参して来た。
自夏入秋,復屯相望。
夏から秋に入るころには、易の復の卦の善に復る運と屯の卦の物の発生の運とが相継いで来るという幸運続きであった。
兵頓不勵,告功不時。
ところがその後、兵の勢いはとどまり励み進まなくて、功を告げるのに時が定まらなかった。
帝哀征夫,命相往釐。
帝は遠征の兵士たちを哀れみ、宰相に命じて往って物を腸せられた。
士飽而歌,馬騰於槽。
士は十分に食って勇み歌い、馬は飼糟の上で躍り上がって元気づいたのである。
#17
試之新城,賊遇敗逃。
試みにこの兵を新城攻略にに用いた、賊はこれに遇って敗れ逃亡したのである。
盡抽其有,聚以防我。
そこでその所有の軍兵をことごとく抽抜し、これをあつめてわが軍を防いだ。
西師躍入,道無留者。
西方からの軍は躍り込んでこれを討ったところ、道にこれを防ぎ留める者がなかった。
??蔡城,其?千里。
昼夜休む間もなく悪事を働いた蔡の城、その領域は千里四方であったのだ。
既入而有,莫不順俟。
すでにわが手に入って保有し、人々は順いわが軍を待たないものはなかった。
#18
帝有恩言,相度來宣:
天子は恵み深い勅言を賜い、宰相裴度が来てこれを宣べ伝えた。
誅止其魁,釋其下人。
誅罰は賊の首領に止め、其の手下の人々を釈き許した。
蔡之卒夫,投甲呼舞;
蔡の士卒は鎧を投げ捨てて大声を挙げて舞い躍った。
蔡之婦女,迎門笑語。
蔡の女たちは、門に帰還の夫を迎えて笑い語って楽しげであった。
蔡人告飢,船粟往哺;
戦後のことで、蔡の人々が食糧不足を訴えれば、船に穀物を積んで往って食わせたのである。
蔡人告寒,賜以助z。
蔡の人が寒さを訴えれば、絹や布を賜い救ったのである。
#19
始時蔡人,禁不往來;
始めには蔡の人々は、往来も禁じられていたのだ。
今相從戲,里門夜開。
戦後の今では、相共に遊びたわむれ、里の門は夜も開かれていて用心もいらないのである。
始時蔡人,進戰退戮;
始めには蔡の人々は進んで戦うだけで、退けは味方に殺されたのである。
今?而起,左?右粥。
今では日が高くあがってやっと起きだしてきて、身の左には食物や右には粥が十分にあるという生活になった。
為之擇人,以收餘憊;
朝廷は素人のために人を択んで適任者にした、戦後に残る疲れた者たちを収用して手当させなおしてやった。
選吏賜牛,教而不?。
朝廷は素人のために人を択んで適任者にした、戦後に残る疲れた者たちを収用して手当させなおしてやった。

#20
蔡人有言,始迷不知。
蔡の人に次のように言うものがある、始めは物の道理がわからず利欲に迷っていた。
今乃大覺,羞前之為。
そして、「今になってはじめて大いに覚ったし、前にしたことを羞じている」と。
蔡人有言,天子明聖;
ほかの蔡人の言う者がある、「天子は明智聖徳ある方である」
不順族誅,順保性命。
そして、「従順にならない者は一族皆誅され、従順の者は性命を保たせなさる。」と。
汝不吾信,視此蔡方;
お前が もし私のこの言を信じないというならば、「この蔡の地方を実態・実証よく視ることである。」と。
孰為不順,往斧其吭。
そして、「誰が朝廷に順わぬ行いをするのであろうか。もしあれば往ってその咽を斧で斬るであろう。」と。
#21
凡叛有數,聲勢相倚;
「凡そ叛くものには一定の人数があって、その勢力は相い寄り支え合っているものだ。」
吾強不支,汝弱奚恃;
「わが蔡のように強い者でも支え切れなかった。お前たち弱いものが何を頼みにするというのか。」
其告而長,而父而兄;
「それこそ、お前たちの首長、お前の父や兄に告げてみるとよいのだ。」
奔走偕來,同我太平。
「奔り走らせてともにに朝廷の方に来て、我が太平の世を共にして暮らそう。」と。

#22
淮蔡為亂,天子伐之,
准西・蔡州が叛乱を為したが、天子はこれを征伐された。
既伐而飢,天子活之,
すでにこれを征伐してのち蔡の地が飢饉であった。天子は之に食糧を送って活性化された。
使議伐蔡,卿士莫隨,
始めに蔡征伐をすることを議したときには、諸卿や士夫に天子に賛成して随うものがなかった。
既伐四年,小大並疑,
既に征伐されて四年経つけれど、大小の官吏のものたちは皆成功を疑った。
#23
不赦不疑,由天子明,
しかしこれを赦さないし、これを疑いはしない。それでも遂に征伐できたのは、天子の明智によるものである。
凡此蔡功,惟斷乃成,
凡そこの蔡の戦い功力あり、ただ天子の決断がなされたことによってはじめて成就したのである。
既定淮蔡,四夷畢來。
既に淮・蔡を平定したことで、四方の異民族たちもことごとく来朝することになったのだ。
遂開明堂,坐以治之。
遂に朝廷の政教を行う明堂を開いて、天子はそこに坐して政治を聴かれるであろう。

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平淮西碑 (韓碑)#1 李商隠136 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 136-#1


平淮西碑 (韓碑)#1
元和天子神武姿、彼何人哉軒與義。
唐元和の中興の時期、憲宗皇帝は、はなはだ秀れた勇武ある身ごなしのお方と評された。人人が理想の皇帝としてあがめる伏義と軒轅に代表される有徳の統治者三皇五帝も、憲宗皇帝を前にしては、何はどの人物と思われるであろう。
誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷。
憲宗はそれまで歴代の意の威信を傷つけた藩鋲と節度使の勝手気ままなのさばりを、まず鎮圧して、先帝の恥を灌ごうと誓いをたて、また、四方の異民族の参勤を、朝廷で謁見させるため夷狄討征の決意をもされたのだ。
淮西有賊五十載、封狼生??生羆。
これまで、准西の節度使は、凡そ五十年間、朝命を無視して、私利をのみ謀る奸臣から乱臣賊子と化していた。粛宗皇帝の時より、李希烈・陳仙奇・呉少誠・呉少陽・呉元?と、配される節度使に交替はあっても、それは、狼が大虎にかわり、虎が羆を生んだということなのだ。
不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。
本当の盗賊、野獣であるなら、山河深く隠れて住むものだが、堂々と平地、町家に依拠し、その権力をふるっている。長い戈、するどい矛をずらりと軍列を整えていたのだ、だからその地域においては、太陽すらまねきかえせるほどの資力、勢力をたくわえていたのである。
淮西を平らぐるの碑(韓碑)#1
元和の天子 神武の姿、彼 何人ぞや 軒と羲(ぎ)。
誓って将に 上(これまで) 列聖の恥 を雪(そそ)がんとし、法宮(ほうきゅう)の中に坐して四夷(しい)を朝せしめんとす。
淮西に賊有ること五十載、封狼(ほうろう)は?(ちゅ)を生み ?(ちゅ)は羆(ひぐま)を生む。
山河に拠(よ)らずして平地に拠り、長戈(ちょうか) 利矛(りぼう) 日も麾(まね)く可し。

平淮西碑 現代語訳と訳註
(本文) #1
元和天子神武姿、彼何人哉軒與義。
誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷。
淮西有賊五十載、封狼生??生羆。
不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。

(下し文) #1
元和の天子 神武の姿、彼 何人ぞや 軒と羲(ぎ)。
誓って将に 上(これまで) 列聖の恥 を雪(そそ)がんとし、法宮(ほうきゅう)の中に坐して四夷(しい)を朝せしめんとす。
淮西に賊有ること五十載、封狼(ほうろう)は?(ちゅ)を生み ?(ちゅ)は羆(ひぐま)を生む。
山河に拠(よ)らずして平地に拠り、長戈(ちょうか) 利矛(りぼう) 日も麾(まね)く可し。

(現代語訳)#1
唐元和の中興の時期、憲宗皇帝は、はなはだ秀れた勇武ある身ごなしのお方と評された。人人が理想の皇帝としてあがめる伏義と軒轅に代表される有徳の統治者三皇五帝も、憲宗皇帝を前にしては、何はどの人物と思われるであろう。
憲宗はそれまで歴代の意の威信を傷つけた藩鋲と節度使の勝手気ままなのさばりを、まず鎮圧して、先帝の恥を灌ごうと誓いをたて、また、四方の異民族の参勤を、朝廷で謁見させるため夷狄討征の決意をもされたのだ。
これまで、淮西の節度使は、凡そ五十年間、朝命を無視して、私利をのみ謀る奸臣から乱臣賊子と化していた。粛宗皇帝の時より、李希烈・陳仙奇・呉少誠・呉少陽・呉元?と、配される節度使に交替はあっても、それは、狼が大虎にかわり、虎が羆を生んだということなのだ。
本当の盗賊、野獣であるなら、山河深く隠れて住むものだが、堂々と平地、町家に依拠し、その権力をふるっている。長い戈、するどい矛をずらりと軍列を整えていたのだ、だからその地域においては、太陽すらまねきかえせるほどの資力、勢力をたくわえていたのである。

(訳注)#1
平淮西碑 (韓碑)#1
淮西を平らぐ る の碑(韓碑)
○韓碑 中庸の文豪韓愈(768−824年)が元和十三年(818年)に作った文章「平淮西碑」(淮西を平ぐるの碑)のこと。碑は文を石にきざみ、宮室廟屋、墓陵の上に立てる立石で、その文章の体を碑という。詩は、その「平淮西碑」の書かれるに到った経緯を述べ、それが極諌したことになり、結果、崇仏皇帝であった憲宗の逆鱗に触れ、潮州(広東省)刺史に左遷され、いったん建てられた碑石が取り壊されたことを憤りつつ、韓愈の文学の卓越せることを賞讃している。ここでも李商隠は、正論を述べて不遇な韓愈を讃えているのである。

韓愈(韓退之) 768−824
 は字名を退之、河南省修武県の人。3歳のとき父を、14歳のとき兄を失って兄嫁の鄭氏に養われ、苦労して育った。貞元八年(792年)進士科に及第。四門博士から国子博士(国立大学の教授、四門博士は同じ大学教授であるが、身分低い子弟を教える)となり、以後、河南令、考功郎中等を経て、823元和十二年、この詩に歌われる裴度の呉元済討伐に、行軍司馬として従軍している。

元和十四年(819年)に仏骨を論ずる表で諫言し、潮州別史に貶せられたが、後許される。国子祭酒(国立大学総長)をへ、兵部侍邸に復帰した。文学者として、宋以後の中国の散文文学を決定的に方向づけた復古主義的文体は、八代の衰退を起したものと評価されている。また、多く文士の交流し、李賀(790−817年)盧仝(?−835年)張籍(768−830年?)王建(768?−830年?)賈島(779−843年)孟郊(750−814年)等、友人や門弟と共に、その詩に於いても、一つの画期(エポック)を作った。

同時期の詩人として武元衡758〜815、權コ輿 759-818、柳宗元773〜819李益748年 - 827年元?779〜831白居易772〜846 と盛唐から中唐と世界史的な文学の花が開花している。



元和天子神武姿、彼何人哉軒與羲。
唐元和の中興の時期、憲宗皇帝は、はなはだ秀れた勇武ある身ごなしのお方と評された。人人が理想の皇帝としてあがめる伏義と軒轅に代表される有徳の統治者三皇五帝も、憲宗皇帝を前にしては、何はどの人物と思われるであろう。
○元和天子 唐朝第11代の皇帝憲宗李純(778−820年)のこと。元和は年号。
○神武姿 はなはだ秀れた勇武ある身ごなし。晩唐の杜牧の皇風の詩に「仁聖の天子は神且つ武。」と類似の表現がある。
○軒与羲 五帝の一人、軒轅すなわち黄帝と、三皇の一人伏羲のこと。伝説的に伝えられる。前史時代の有徳の統治者三皇五帝を、伏義と軒轅で代表させたものである。

誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷。
憲宗はそれまで歴代の意の威信を傷つけた藩鋲と節度使の勝手気ままなのさばりを、まず鎮圧して、先帝の恥を灌ごうと誓いをたて、また、四方の異民族の参勤を、朝廷で謁見させるため夷狄討征の決意をもされたのだ。
○列聖恥 列聖は代代の天子。安禄山の叛乱以後、粛宗皇帝李亨(721―762年)代宗皇帝李豫(727−779年)徳宗皇帝李?(742−805年)の歴代は、藩鋲が君王化していて、地方の政治的経済的管轄権が潘鎮のの手にあった。それを列聖の恥といったのである。潘鎮は、唐の初め、中央直属の諸州に地方警察軍として置かれていた兵力を、玄宗皇帝李隆基(685−762年)の時、編成換えして、外夷をふせぐ辺蛮十節度の管理下におき、且つ、その土地の徴賦をも掌らせたものであることが、節度使、潘鎮の増長を生んだのだ。
○法官 天子の正殿。後漢の班固の「漢書」?錯伝に「五帝は常に法官の中の明堂の上に坐せり。」と見える。
○朝臣 下が君主にまみえること。奸臣は反対語。
〇四夷 四方の異民族。東夷・西戎・南蛮・北狄をいう。「礼記」王制篇に見える。

淮西有賊五十載、封狼生??生羆。
これまで、准西の節度使は、凡そ五十年間、朝命を無視して、私利をのみ謀る奸臣から乱臣賊子と化していた。粛宗皇帝の時より、李希烈・陳仙奇・呉少誠・呉少陽・呉元?と、配される節度使に交替はあっても、それは、狼が大虎にかわり、虎が羆を生んだということなのだ。
○准西有賊五十載 淮西は淮水以西の地。察州を中心とし河南省東南部と安徽省西北部を含む淮水以西一帯が淮西節度使の管轄地域だった。代宗の大暦の末、李希烈(?−786年)がこの地の節度使となり、徳宗建中三年(782年)に乱を起して建興王と僭称した。徳宗貞元二年(786年)その部下の陳仙奇(?−786年)が李希烈を毒殺して朝に降り、代って鎭を領したが、幾ばくもなく呉少誠(?−809年)に殺された。呉少誠の卒後は、その将の呉少陽(?−814年)が軍府を領して、亡命者をあつめて叛乱を準備し、その子呉元済が貞元十年(794年)に兵を起した。その間、通算するとほぼ五十年となる。(詩的表現では30年過ぎたら50年という表現もある)。安史の乱(755)の際、消極的に反乱軍に加担している。ことからすれば50年以上となる
韓愈の「平淮西碑」にも「蔡師の廷授せざる、今に五十年。」とある。
○封狼 封は大きいこと。狼はおおかみ。
○??生羆 ?は猛獣の名。羆はひぐま。狼、?、羆はすべて、潘鎮、節度使の中で、異民族や亡命者、不満分子を集め、乱賊に変じたものを言う。

不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。
本当の盗賊、野獣であるなら、山河深く隠れて住むものだが、堂々と平地、町家に依拠し、その権力をふるっている。長い戈、するどい矛をずらりと軍列を整えていたのだ、だからその地域においては、太陽すらまねきかえせるほどの資力、勢力をたくわえていたのである。
○長戈利矛 長いほことするどいほこ。戈はほこ先が二つに分れている。
〇日可麾 落日の陽をも麾き回らすことができるということ。漢の劉安の「淮南子」覧冥訓に「魯陽公、韓と難を構う。戦たけなわにして日暮れぬ。戈を援りて之をヒ、日これが為に反ること三舎。」と見える。舎は天文学上の距離の単位。ここは叛乱軍の勢力の大きさをあらわし、意気盛んであったことをいう。五代の劉?の「旧唐書」呉元済伝に「呉少誠は兵を阻むこと三十年、王師未だ嘗つて其の城下に及ばず。」とみえる。



平淮西碑 (韓碑)#2
帝得聖和相日度、賊斫不死~扶持。
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不?。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。

帝は聖相(せいしょう)を得たり 相は度と日う、賊 斫(き)れども死なず 神 扶持す
腰に相印(しょういん)を懸けて都統(ととう)と作る、陰風 惨澹(さんたん)たり 天王の旗。
愬 武 古 通 牙爪(がそう)と作り、儀曹外郎 筆を載せて随う。
行軍司馬 智且つ勇なり、十四万衆 猶お虎貌のごとし。
蔡に入り 賊を縛りて 大廟に献ず、功は与(とも)に譲る無く恩は?(はか)られず。


平淮西碑 (韓碑)#2 現代語訳と訳註
(本文)
帝得聖和相日度、賊斫不死~扶持。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不?。

(下し文)
帝は聖相(せいしょう)を得たり 相は度と日う、賊 斫(き)れども死なず 神 扶持す
腰に相印(しょういん)を懸けて都統(ととう)と作る、陰風 惨澹(さんたん)たり 天王の旗。
愬 武 古 通 牙爪(がそう)と作り、儀曹外郎 筆を載せて随う。
行軍司馬 智且つ勇なり、十四万衆 猶お虎貌のごとし。
蔡に入り 賊を縛りて 大廟に献ず、功は与(とも)に譲る無く恩は?(はか)られず。

(現代語訳)
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。

(訳注)
帝得聖和相日度、賊斫不死~扶持。
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
○聖相 有徳の宰相。この言葉は「?子春秋」にある「仲尼は聖相なり。」という言葉を典故とする。仲尼は孔子の名。
〇度 裴度(765−839年)あざな中立。徳宗以下四朝に仕えてよく唐室を輔佐した重臣である。貞元の初めに進士に及第し、校書郎を皮切りに累進して、中書侍郎同平章事となり、817年元和十二年自から請うて呉元済征伐の将軍となった。乱平定後は晋回公に封ぜられ、中書令を加えられた。晩年は別別業を作り、白居易(772−846年)劉禹錫(772−842年)らと觴詠した。なお、裴度出陣の二年以前、815年元和十年に、討征の詔は下され、十六道の兵を発して准西に向わせ、用兵の事を宰相の一人、武元衝にゆだね、李光顔を司令官としていたが一向に戦果があがっていなかったのである。
○賊斫不死 刺客が裴度を暗殺しょうとした史実をいう。呉元済討征の詔が下された時、平盧の節度使李師道(?−819年)や成徳の節度使王承宗(?−820年)は元済の謝免を断ったが誉れなかった。かくて李師道は、主戦論者の暗殺を計り、宰相武元衝は殺され、裴度も刺客に傷つけられたが、奇蹟的に助かった。新旧両「唐書」裴度伝にくわしい。なお他の節度使が暗に叛乱軍を援助したのは、勿論、その利害が共通していたからである。

腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
○相印 宰相の印綬。○都統 軍の司令官。天宝の末に初めてこの元帥職がもうけられた。817年元和十二年七月、裴度は奏して自から行営すなわち出征時の軍営に赴かんことを請い、淮西宣慰招討使に充てられたが、韓弘(765−822年)が都続であった故、宣慰処置使と称するように願った。だが実際には元帥の職をつかさどった、と「旧唐書」に見える。○惨澹 ものすさまじく薄暗いこと。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
○愬武古通 淮西内平定に力を合せた四人の将軍の名。・愬:元和十一年に唐ケ隋節度使に任ぜられた李愬。夜、蔡州の城を奇襲し呉元済を擒にした殊勲者。・武:淮西諸軍行営都統であった韓弘の子、韓公武のこと。兵二千を率いて先討隊李光顔(762―826年)の軍に属していた。・古:鄂岳観察使李道古。・通:寿州団練使李文通。
○牙爪 きばとつめ。「詩経」小雅祈父に「祈父、予は王の爪牙なり。」と見える。
○儀曹外郎 礼部に属する官職。礼部は礼秩及び学校貢挙のことを掌る官庁。この時、後に宰相となり、対立する牛李の党の牛党の立役者となる礼部員外郎李宗閔を始め、司勲員外郎李正封らが従軍した。隋の時代、礼部侍邸を儀曹郎と呼んだ。唐以後は廃止されたが礼部員外郎(礼部の書記次官)のことをそういった。
○載筆 筆を持ち歩く。

行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
○行軍司馬副 司令官。また節度使の属官。裴度が朝廷に請うて、韓愈を行軍司馬としたのである。
○虎貌とら。親も猛獣の名、虎の属である。

入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不?。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。
〇入蔡縛賊 李愬が奇襲で賊将をとらえた功績を指す。「唐書」李愬伝に詳しい。
○献太廟 太廟は天子の祖先を祭る宮中の社、かしこどころ。これもまた事実をふまえた表現。817年元和十二年十月、李愬は呉元済を執えて長安に送り、帝は興安門に御して俘虜を受け、廟社に献じ、両市にひきまわしてからこれを斬った。
○功無与譲 功蹟の他におよぶもののないこと。北周の文人?信(522−581年)の商調曲に「功与に譲るなく、太常の旌に銘す。」とあるのにもとづく。太常は天子の大旗。
○恩不?(はかれ) ?は限る、或いは量るという意味。恩賞は限りなく大きかったという意味である。魏の王粲(177−217年)の詠史詩に「結髪してより明君に事え、恩を受くること良に?れず。」と。





平淮西碑 (韓碑)#3 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 137

平淮西碑 (韓碑)#3
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
古者世稱大手筆、此事不?於職司。
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
當仁自古有不讓、言訖?頷天子頤。
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
文成破體書在紙、清晨再拝鋪丹?。
その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。
帝 日(いわく) 汝 度よ 功第一なり、汝の従事の愈 宜(よろ)しく辞を為(つく)るべしと。
愈は拝し稽首(けいしゅ)して 蹈(とう)し且つ舞(ぶ)す、金石刻画 臣 能く為さんや。
古者(いにしえ)より世に大手(だいしゅ)筆を称す、此の事 職司に繋(かけ)られず。
仁に 当り ては 古自(いにしえよ)り 譲らざる有り、言い訖(おわ)れば 屡(しばしば )頷く天子の頤(あご)。
公は退(しりぞ)き 斎戒(さいかい)して 小閤に坐し、大筆を濡染(じゅせん)する 何 ぞ 淋漓(りんり)たる、点竄(てんざん)す 堯典(ぎょうてん)舜典(しゅんてん)の字、塗改す 清廟(せいびょう) 生民(せいみん)の詩。
文成り 破体(はたい) 書して紙に在り、精晨(せいしん)に再拝(さいはい)して丹?(たんち)に鋪(つら)ぬ。

■平淮西碑 (韓碑)に関する韓愈の年譜
815憲宗元和10年48歳5月、「淮西の事宜を論ずる状」を上奏し、淮西の乱に断固たる措置を求める。夏、「順宗実録」を撰進。*「盆地五首」*「児に示す」作。
81611年49歳正月20日、中書舎人に転任。緋魚袋を賜わる。5月18日、太子右庶士に降任。*「張籍を調(あざけ)る」作
81712年50歳7月29日、裴度、淮西宣慰招討処置使となるに伴い、兼御史中丞、彰義軍行軍司馬となる。8月、滝関を出、本隊より離れて?州に急行し、宣武軍節度使韓弘の協力をとりつける。10月、敵の本拠、蔡州を間道づたいに突くことを願うも、唐ケ随節度使李愬に先をこされる。11月28日、蔡州を発して長安へ向かう。12月16日、長安へ帰る。21日、刑部侍郎に転任。*「裴相公の東征して途に女几山の下を経たりの作に和し奉る」作
81813年51歳正月、「淮西を平らぐる碑」 を上るも、李愬の訴えにより、碑文は磨り消される。4月、鄭余慶、詳定礼楽使となり、推薦されて副使をつとめる。*「独り釣る四首」
81914年52歳正月14日、「仏骨を論ずる表」を上り、極刑に処せられるところを、裴度らのとりなしで、潮州刺史に左遷となる。3月25日、潮州に着任。10月24日、?州刺史に転任。*「左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す」*「滝吏」*「始興江口に過る感懐」*「柳柳州の蝦蟇を食うに答う」*「?州に量移せらる張端公詩を以て相賀す因って之に酬ゆ」  *二月二日、潮州への旅の途次、四女?、死没。7月、大赦。

平淮西碑 (韓碑)#3 現代語訳と訳註
(本文)
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
古者世稱大手筆、此事不?於職司。
當仁自古有不讓、言訖?頷天子頤。
公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
文成破體書在紙、清晨再拝鋪丹?。


(下し文)
帝 日(いわく) 汝 度よ 功第一なり、汝の従事の愈 宜(よろ)しく辞を為(つく)るべしと。
愈は拝し稽首(けいしゅ)して 蹈(とう)し且つ舞(ぶ)す、金石刻画 臣 能く為さんや。
古者(いにしえ)より世に大手(だいしゅ)筆を称す、此の事 職司に繋(かけ)られず。
仁に 当り ては 古自(いにしえよ)り 譲らざる有り、言い訖(おわ)れば 屡(しばしば )頷く天子の頤(あご)。
公は退(しりぞ)き 斎戒(さいかい)して 小閤に坐し、大筆を濡染(じゅせん)する 何 ぞ 淋漓(りんり)たる、点竄(てんざん)す 堯典(ぎょうてん)舜典(しゅんてん)の字、塗改す 清廟(せいびょう) 生民(せいみん)の詩。
文成り 破体(はたい) 書して紙に在り、精晨(せいしん)に再拝(さいはい)して丹?(たんち)に鋪(つら)ぬ。
(現代語訳)
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。

(訳注)
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
〇度 裴度(765−839年)あざな中立。徳宗以下四朝に仕えてよく唐室を輔佐した重臣である。貞元の初めに進士に及第し、校書郎を皮切りに累進して、中書侍郎同平章事となり、817年元和十二年自から請うて呉元済征伐の将軍となった。○従事軍の参謀を職とする副官。
○愈 韓愈のこと。#1を参照○辞 文章。「旧い唐書」韓愈伝に、「淮蔡平らぎ、功を以て刑部侍邸を授けらる。詔して平准西碑を撰さしむ。」と見える。・淮 淮水の西側、河南地方。・蔡 蔡城。南北朝以前の名称、河南省の大部分と安徽省の一部の中心城郭。

愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
○拝稽首 これ以上ない最敬礼のさま。・拝 拝手の略。両手を拱ねいて地につけ、額がその手にあたるまで頭をさげる礼。・稽首 額が地につくまで頭をさげる最敬礼。○蹈且舞 唐制としては一種の儀礼で最敬礼の後喜こんでこおどりすること。
○金石刻画 金は鐘鼎、石は碑碣。古代にはそうした銅器や石に頌功紀事、あるいは寓戒の言葉を刻んだ。○臣能為 臣能く為さんや、と反語に読んだ。「史記」の秦始皇本紀に「二世皇帝日く、金石刻は尽く始皇帝の為す所なり。」云云とあるように、金石に功をしるすことは本来天子のなすものと意識きれる。

古者世稱大手筆、此事不?於職司。
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
○大手筆 大著述。または大著述家。
○職司 公文書をつづることをその職務とする者を指す。

當仁自古有不讓、言訖?頷天子頤。
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
○当仁、不譲 仁の事を行うに当っては、師にもゆずらず、だれ憚るところなく行えという「論語」の言葉にもとづく。「論語」衛霊公簾に「子日く、仁に当りでは師にも譲らず。」と。
○言訖 語は終る。
公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
○斎戒 祭祀の前に、沐浴し葷酒を去って身心を清める行事。また広く、心気一転してある事に精神を集中することをも斎戒という。ここでは集中して、一気呵成に書き上げるさまをいう。
○小閤 閤はもと傍戸。ふつうに小部屋のことを閤という。
○淋漓 たっぷりと墨を含ませたさま。水のしたたるさまを写す擬声語。

點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
○點竄 点は筆で字を消すこと。鼠は改める。二字で詩文を改めなおすこと。
○堯典舜典 古代春秋の伝説上の帝王、尭と舜。徳をもって天下を治めた理想的な帝王とされる。五経の一つである「尚書」の篇名。堯典は堯帝の事蹟、舜典は舜帝のことをしるす。
○塗改 文字をぬり消して書き改める。
〇清廟生民詩 生民は中国最古の詩集であり且つ五経の一つである「詩経」の大雅の篇名。清廟はおなじくその周頌の篇名。 

文成破體書 在紙、清晨再拝鋪丹?。
その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。
○破体 破希の書体。当時の常識を破った新しい文体をいう。
○再拝 二度、拝手の礼をする。
○鋪丹? 鋪はのべひろげる。丹?は宮殿の階上の、朱で土地を赤ぬりこめた庭。有感二首 其二 李商隠150- 102
・丹陛 天子の宮殿の正殿の正面階段。赤く塗られているので「丹陛」という
有感二首 其 二
丹陛猶敷奏、?庭?戦争。
臨危封盧植、始悔用?萌。
御仗収前殿、兇徒劇背城。
蒼黄五色棒、掩遏一陽生。』
古有清君側、今非乏老成。
素心雖未易、此擧太無名。
誰瞑銜冤目、寧呑欲絶聲。
近聽開壽讌、不廢用咸英。』





平淮西碑 (韓碑)#4
表日臣愈昧死上、詠~聖功書之碑。
かくて官府に奉る上奏文を韓愈はかきあげた、それは、「臣韓愈、昧死して上る次第であります」から始まり、「このたびの戦勝の功、即ち天子有徳の証拠である功績を、かくの如く碑文に詠いあげる。」と献上したのであった。
碑高三丈字如斗、負以霊鼇蟠以?。
碑石の高さは三丈もあり、その字はまた斗の如く大きなものだった。礎石には神秘な巨亀のかたちが刻まれ、また書に威厳をそえる模様とし周囲にみずちをめぐらしていた。
句奇語重喩者少、讒之天子言其私。
その一句一句は、常識を超えた独特の表現であり、一語一語がおごそかで重く、そのため、その卓越した表現力を理解できるものが少なかったのだ。特に、李愬の一族は不満をもったようで、よく理解ができないのに、その文章が高が文人ごときの私情にかたよっていると天子に讒言を申しでた。
長縄百尺?碑倒、?砂大石相磨治。
立されていた百尺もある碑石は長い縄でしばられ倒されてしまったのだった。その上にあらい磨き砂をまいて、碑文を磨滅させてしまい、別の文章をはりなおすということになったのである。


表に 日く 臣愈 昧死して上(たてまつ)る、神聖の功を詠じ之を碑に書せりと。
碑の高さ三丈 字は斗の如く、負わすに霊鼇(れいごう)を以てし 蟠(めぐら)すに ?(ち)を以てす。
句は奇 語は重 喩(さと)る 者少なし、之を天子に讒(そし)るあり 其の私を言うと。
長縄(ちょうじょう)百尺 碑を?きて倒し、?砂(そさ)と大石(たいせき) 相い 磨治(まち)す


平淮西碑 (韓碑)#4 現代語訳と訳註
(本文)
表日臣愈昧死上、詠~聖功書之碑。
碑高三丈字如斗、負以霊鼇蟠以?。
句奇語重喩者少、讒之天子言其私。
長縄百尺?碑倒、?砂大石相磨治。
(下し文)
表に 日く 臣愈 昧死して上(たてまつ)る、神聖の功を詠じ之を碑に書せりと。
碑の高さ三丈 字は斗の如く、負わすに霊鼇(れいごう)を以てし 蟠(めぐら)すに ?(ち)を以てす。
句は奇 語は重 喩(さと)る 者少なし、之を天子に讒(そし)るあり 其の私を言うと。
長縄(ちょうじょう)百尺 碑を?きて倒し、?砂(そさ)と大石(たいせき) 相い 磨治(まち)す

(現代語訳)
かくて官府に奉る上奏文を韓愈はかきあげた、それは、「臣韓愈、昧死して上る次第であります」から始まり、「このたびの戦勝の功、即ち天子有徳の証拠である功績を、かくの如く碑文に詠いあげる。」と献上したのであった。
碑石の高さは三丈もあり、その字はまた斗の如く大きなものだった。礎石には神秘な巨亀のかたちが刻まれ、また書に威厳をそえる模様とし周囲にみずちをめぐらしていた。
その一句一句は、常識を超えた独特の表現であり、一語一語がおごそかで重く、そのため、その卓越した表現力を理解できるものが少なかったのだ。特に、李愬の一族は不満をもったようで、よく理解ができないのに、その文章が高が文人ごときの私情にかたよっていると天子に讒言を申しでた。
立されていた百尺もある碑石は長い縄でしばられ倒されてしまったのだった。その上にあらい磨き砂をまいて、碑文を磨滅させてしまい、別の文章をはりなおすということになったのである。
(訳注)
表日臣愈昧死上、詠~聖功書之碑。
かくて官府に奉る上奏文を韓愈はかきあげた、それは、「臣韓愈、昧死して上る次第であります」から始まり、「このたびの戦勝の功、即ち天子有徳の証拠である功績を、かくの如く碑文に詠いあげる。」と献上したのであった。
○表 君主または官府に奉る書状、及びその文体を表という。
○昧死 上書の冒頭に用いる言葉。昧は冒昧。次の言葉がもし不当ならば死をかけてあやまる、という意味である。
○神聖功 神聖は天子に関する事柄につける形容、淮西の賊(呉元済―#1と#2参照)を平げた戦勝を、天子有徳のしるしとして韓愈がのべた事をいうもの。

碑高三丈字如斗、負以霊鼇蟠以?。
碑石の高さは三丈もあり、その字はまた斗の如く大きなものだった。礎石には神秘な巨亀のかたちが刻まれ、また書に威厳をそえる模様とし周囲にみずちをめぐらしていた。
○斗 十升を斗というが、その量るますのように器が方形であることに借りて、碑文の字体の大きさの喩えとした。○負以霊鼇 霊鼇は神秘的な大がめ。碑石をその大亀をかたどった彫石の甲の上に建てたことをいう。
○蟠以? ?はみずち。想像上の神獣で竜の角のないものを?という。碑石の周囲に?模様の飾りを彫りつけたことをいう。

句奇語重喩者少、讒之天子言其私。
その一句一句は、常識を超えた独特の表現であり、一語一語がおごそかで重く、そのため、その卓越した表現力を理解できるものが少なかったのだ。特に、李愬の一族は不満をもったようで、よく理解ができないのに、その文章が高が文人ごときの私情にかたよっていると天子に讒言を申しでた。
○句奇 奇は独特の、或いは独自なという意味し
○語重 おごそかな言葉の重重しいこと。重厚な表現。
○喩 理解する。
○言其私 「旧唐書」韓愈伝に「碑辞多く装度の事を叙ぶ。時に蔡に入りて呉元済を捕えしは李愬の功第一なり。愬は之を不平とす。愬の妻(唐安公主の女)は禁中に出入し、因りて碑辞は実ならずと訴う。詔して愈の文を磨去せしめ、翰林学士段文員(773―835年)に命じて重ねて文を撰せしめて石に刻めり。」とある。南宋の葛立方の 「韻語陽秋」には、それを訴えたのは李愬の子であったと考証する。

長縄百尺?碑倒、?砂大石相磨治。
建立されていた百尺もある碑石は長い縄でしばられ倒されてしまったのだった。その上にあらい磨き砂をまいて、碑文を磨滅させてしまい、別の文章をはりなおすということになったのである。
○靡砂 あらい砂。
 
この章の解説。
皇帝の諫言には耳を貸さない正当な人を貶める讒言には簡単に耳を貸すばかりか、さらに推し進めることをやっている。正当な賢臣を消していく、宦官のやり口にのってしまったのである。同じころ元?も宦官の諫言で通州司馬に左遷される。





平淮西碑 (韓碑)#5 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 140
カテゴリ:
雑詩
王朝・社会的批判詩
平淮西碑 (韓碑)#5 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 140
平淮西碑 (韓碑)#5
公之斯文若元気、先時己入人肝脾。
しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
鳴呼聖皇及聖相、相與?赫流淳熙。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその?赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。
公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。

公の斯文(しぶん)は元気の若く、時に先んじて己に人の肝脾(かんぴ)に入る。
湯盤(とうばん) 孔鼎(こうてい) 述作(じゅつさく)有り、今 其の器無きも其の辭 存せり。
鳴呼 聖皇(せいこう)と聖相(せいしょう)と、相(あい)與(とも)に ?赫(けんかく)として 淳熙(じゅんき)を流す。
公の斯文(しぶん) 後に示さずんば、曷んぞ 三五と相(あい) 攀追(はんつい)せん。
願わくは万本を書し 誦(しょう)すること万遍(ばんべん)し、口角(こうかく) 沫(まつ)を流し 右手に胝(たこ)して。
之を七十有(ゆう)二代(にだい)に伝え、以て封禅(ほうぜん)の玉検(ぎょくけん) 明堂(めいどう)の基(もとい)と為さん。

平淮西碑 (韓碑)#5 現代語訳と訳註
(本文)
公之斯文若元気、先時己入人肝牌。
湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
鳴呼聖皇及聖相、相與?赫流淳熙。
公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。
(下し文)#5
公の斯文(しぶん)は元気の若く、時に先んじて己に人の肝脾(かんぴ)に入る。
湯盤(とうばん) 孔鼎(こうてい) 述作(じゅつさく)有り、今 其の器無きも其の辭 存せり。
鳴呼 聖皇(せいこう)と聖相(せいしょう)と、相(あい)與(とも)に ?赫(けんかく)として 淳熙(じゅんき)を流す。
公の斯文(しぶん) 後に示さずんば、曷んぞ 三五と相(あい) 攀追(はんつい)せん。
願わくは万本を書し 誦(しょう)すること万遍(ばんべん)し、口角(こうかく) 沫(まつ)を流し 右手に胝(たこ)して。
之を七十有(ゆう)二代(にだい)に伝え、以て封禅(ほうぜん)の玉検(ぎょくけん) 明堂(めいどう)の基(もとい)と為さん。
(現代語訳)#5
しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその?赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。

(訳注)
公之斯文若元気、先時己入人肝牌。
しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
○斯文 道徳、或いは文化の意味また、儒者や文学を斯文という。韓愈は古文復活に熱心な儒教者であった。○元気すべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力の意味。
○先時 時は漫然と時間ということではなく、碑文が磨滅させられた時に先んじて。
○肝脾 肝臓と脾臓。転じて心の意味。

湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
○湯盤 殷の湯王の盤の戎辞。「礼記」大学篇に「湯の盤の銘に日く。苟に日に新たに、日日に新たにして、又た日に新たなり。」と。
○孔鼎「春秋左氏伝」に正老父の「一命して僂し、再命して傴し、三命して俯す。」という鼎銘が昭公七年に見える。正考父は孔子の祖先だから、それを湯盤と並へて孔鼎といったのだ。鼎は三脚で二つの耳のある金属のなべ。王者のしるしとして尊重される。ここではそれに刻まれた成文をいう。

鳴呼聖皇及聖相、相與?赫流淳熙。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその?赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。古人も言う如く、事は文を以て伝わるものである。
○?赫 盛名威容の盛んなるさま。
○淳熙 淳き栄光。

公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
〇曷 なんぞ〜せんや、という反語的疑問詞。
〇三五 三皇五帝。理想的な君主として伝説的に伝えられる太古の帝王。三皇:伏羲・神農・女?、五帝:黄帝・少昊・??・?・尭・舜。

願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
○胝 手足の皮にできるたこ。

傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。
〇七十有二代 漢の司馬遷の「史記」封禅書に「古者より泰山に封じ梁父に禅せる者、七十二家なり。」とあるのにもとづく。
○封禪 天子が大きな事業をなしとげた時、天地を祭って其の成功を報告する儀式をする。それを封禅という。ここは、その過去の事例にならいつつ、未来においても、次次と興亡するであろぅ七十二代にこの功績を伝えるという意味。
〇玉検 玉の名札で封印をかねるもの。封禅のときに用いる道具の玉である。○明堂 天子が諸侯を朝見する御殿。漢の趙岐の「孟子」注に「泰山の下に明堂あり、周の天子東に巡狩し、諸侯を朝せし処なり。」(染恵王下)とある。最後の一句は、「平准西碑」に「既に推察を定め、四夷畢く来る。遂に明覚を開いて、坐して以て治めん。」とあるのに拠っている。

■平淮西碑 (韓碑)に関する韓愈の年譜
815憲宗元和10年48歳5月、「淮西の事宜を論ずる状」を上奏し、淮西の乱に断固たる措置を求める。夏、「順宗実録」を撰進。*「盆地五首」*「児に示す」作。
81611年49歳正月20日、中書舎人に転任。緋魚袋を賜わる。5月18日、太子右庶士に降任。*「張籍を調(あざけ)る」作
81712年50歳7月29日、裴度、淮西宣慰招討処置使となるに伴い、兼御史中丞、彰義軍行軍司馬となる。8月、滝関を出、本隊より離れて?州に急行し、宣武軍節度使韓弘の協力をとりつける。10月、敵の本拠、蔡州を間道づたいに突くことを願うも、唐ケ随節度使李愬に先をこされる。11月28日、蔡州を発して長安へ向かう。12月16日、長安へ帰る。21日、刑部侍郎に転任。*「裴相公の東征して途に女几山の下を経たりの作に和し奉る」作
81813年51歳正月、「淮西を平らぐる碑」 を上るも、李愬の訴えにより、碑文は磨り消される。4月、鄭余慶、詳定礼楽使となり、推薦されて副使をつとめる。*「独り釣る四首」
81914年52歳正月14日、「仏骨を論ずる表」を上り、極刑に処せられるところを、裴度らのとりなしで、潮州刺史に左遷となる。3月25日、潮州に着任。10月24日、?州刺史に転任。*「左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す」*「滝吏」*「始興江口に過る感懐」*「柳柳州の蝦蟇を食うに答う」*「?州に量移せらる張端公詩を以て相賀す因って之に酬ゆ」  *二月二日、潮州への旅の途次、四女?、死没。7月、大赦。



#1
元和天子神武姿、彼何人哉軒與義。
誓将上雪列聖恥、坐法官中朝四夷
淮西有賊五十載、封狼生??生羆。
不拠山河拠平地、長戈利矛日可麾。
#2
帝得聖和相日度、賊斫不死~扶持。
腰懸相印作都統、陰風惨澹天王旗。
愬武古通作牙爪、儀曹外郎載筆随。
行軍司馬智且勇、十四萬衆猶虎貌。
入蔡縛賊献太廟、功無與譲恩不?。
#3
帝日汝度功第一、汝従事愈宜爲辭。
愈拝稽首蹈且舞、金石刻畫臣能爲。
古者世稱大手筆、此事不?於職司。
當仁自古有不讓、言訖?頷天子頤。
公退齊戒坐小閤、濡染大筆何淋漓。
點竄堯典舜典字、塗改清廟生民詩。
文成破體書在紙、清晨再拝鋪丹?。
#4
表日臣愈昧死上、詠~聖功書之碑。
碑高三丈字如斗、負以霊鼇蟠以?。
句奇語重喩者少、讒之天子言其私。
長縄百尺?碑倒、?砂大石相磨治。
#5
公之斯文若元気、先時己入人肝脾。
湯盤孔鼎有述作、今無其器存其辭。
鳴呼聖皇及聖相、相與?赫流淳熙。
公之斯文不示後、曷與三五相攀追。
願書萬本誦萬遍、口角流沫右手胝。
傳之七十有二代、以爲封禪玉検明堂基。
#1
元和の天子 神武の姿、彼何人ぞや 軒と義
誓って将に上列聖の恥を雪がんとし、法官の中に坐して四夷を朝せしめんとす。
淮西に賊有ること五十載、封狼は?を生み ?は羆を生む。
山河に拠らずして平地に拠り、長戈 利矛 日も麾く可し
#2
帝は聖相(せいしょう)を得たり 相は度と日う、賊 斫(き)れども死なず 神 扶持す
腰に相印(しょういん)を懸けて都統(ととう)と作る、陰風 惨澹(さんたん)たり 天王の旗。
愬 武 古 通 牙爪(がそう)と作り、儀曹外郎 筆を載せて随う。
行軍司馬 智且つ勇なり、十四万衆 猶お虎貌のごとし。
蔡に入り 賊を縛りて 大廟に献ず、功は与(とも)に譲る無く恩は?(はか)られず。
#3
帝 日(いわく) 汝 度よ 功第一なり、汝の従事の愈 宜(よろ)しく辞を為(つく)るべしと。
愈は拝し稽首(けいしゅ)して 蹈(とう)し且つ舞(ぶ)す、金石刻画 臣 能く為さんや。
古者(いにしえ)より世に大手(だいしゅ)筆を称す、此の事 職司に繋(かけ)られず。
仁に 当り ては 古自(いにしえよ)り 譲らざる有り、言い訖(おわ)れば 屡(しばしば )頷く天子の頤(あご)。
公は退(しりぞ)き 斎戒(さいかい)して 小閤に坐し、大筆を濡染(じゅせん)する 何 ぞ 淋漓(りんり)たる、点竄(てんざん)す 堯典(ぎょうてん)舜典(しゅんてん)の字、塗改す 清廟(せいびょう) 生民(せいみん)の詩。
文成り 破体(はたい) 書して紙に在り、精晨(せいしん)に再拝(さいはい)して丹?(たんち)に鋪(つら)ぬ。
#4
表に 日く 臣愈 昧死して上(たてまつ)る、神聖の功を詠じ之を碑に書せりと。
碑の高さ三丈 字は斗の如く、負わすに霊鼇(れいごう)を以てし 蟠(めぐら)すに ?(ち)を以てす。
句は奇 語は重 喩(さと)る 者少なし、之を天子に讒(そし)るあり 其の私を言うと。
長縄(ちょうじょう)百尺 碑を?きて倒し、?砂(そさ)と大石(たいせき) 相い 磨治(まち)す
#5
公の斯文(しぶん)は元気の若く、時に先んじて己に人の肝脾(かんぴ)に入る。
湯盤(とうばん) 孔鼎(こうてい) 述作(じゅつさく)有り、今 其の器無きも其の辭 存せり。
鳴呼 聖皇(せいこう)と聖相(せいしょう)と、相(あい)與(とも)に ?赫(けんかく)として 淳熙(じゅんき)を流す。
公の斯文(しぶん) 後に示さずんば、曷んぞ 三五と相(あい) 攀追(はんつい)せん。
願わくは万本を書し 誦(しょう)すること万遍(ばんべん)し、口角(こうかく) 沫(まつ)を流し 右手に胝(たこ)して。
之を七十有(ゆう)二代(にだい)に伝え、以て封禅(ほうぜん)の玉検(ぎょくけん) 明堂(めいどう)の基(もとい)と為さん。

#1
元和の天子 神武の姿、彼何人ぞや 軒と義
誓って将に上列聖の恥を雪がんとし、法官の中に坐して四夷を朝せしめんとす。
淮西に賊有ること五十載、封狼は?を生み ?は羆を生む。
山河に拠らずして平地に拠り、長戈 利矛 日も麾く可し
#2
憲宗皇帝の才知英明によって、徳高き宰相のよき輔佐をうけられた。その宰相は、裴度といわれる人である。賊がかつて宰相武元衝を暗殺、裴度も刺客に傷つけられたが、神のご加護があって奇蹟的に助かった。
裴度は腰に宰相の印綬を懸ける身でありながら、自ら元帥として出陣を請うた。裴度元帥の大軍に冬の風が容赦なく吹き付け、天子の御旗は、風に翻った。
四将軍、李愬・韓公武・李道古・李文通たちが、牙と爪の先鋒として攻め入った、礼部員外郎の李宗関もまた戦果を報告しようと、筆を共にして従軍したのだ。
行軍のなかにおいて、請われて副将となった韓愈は、智略に秀れ、且つ勇敢であった。総勢十四万の軍勢すべてが、虎豹のようなつわものぞろいであったのだ。
李愬は雪の降る夜に蔡城を奇襲し、賊の頭目呉元済を生け捕り、佳期ただよう長安に送った。憲宗皇帝は、先祖の廟にそれを報告して、呉元済を斬殺した。准西の乱は平定し、裴度の戦功、功労は比べるものなく秀れ、その恩賞もはかり知れず大きいものであった。
#3
憲宗皇帝はもうされたことは「このたびは汝、裴度が功績第一のものである。」であった、また「汝の部下の韓愈が、碑に刻むべき文章を作らせるがよろしかろう。」と申されたのだ。
韓愈はこの命を最高のものとして受けとめ、唐制にのっとった、拝手稽首の最敬礼と御前に小踊りの礼をしてお答え申し上がたことだった。「金石に刻む文を書くことは天子に代って為さるべきお役目の方々のあることであり、私ごとき行軍司馬のよく為しうる所ではないことでございます。」
「むかしから、世に大文章と称されるものを見ておりますと、筆者は必ずしもその職を司った者とは限ったものではないようであります。それゆえ、天子の命とありますからこのこと誰れ憚ることなく最大の力を注ぎ尽します。」
「『論語』の教えにも、『仁のことをなすに臨んでは、師にもゆずらず』とありますようにいたす所存でございます。」韓愈の意気込みを申しあげて言葉が終ったとき、天子は満足気に幾度もうなずかれたことだった。
かくて、韓愈は朝廷から退出し、沐浴し衣をあらためて身を潔め、集中力を高めて、小座敷に独り坐って筆をとった。大きな筆にたっぷりと墨を含ませ、心を定めて一気呵成に文を書き上げようとしたからだろう。
徳をもって天下を治めた理想的な帝王の書である堯典や舜典の文章、古い雅頚の集である清廟や生民の詩を、改訂して書き改めたかのような、それは古雅で荘重な文章であった。
その字も常識を破った新しい文体で、紙一面に力強く書かれていた。そして、清々しい朝を迎え、大気も澄んでいた、韓愈は参朝し、宮殿の赤き庭、天子の御座の下にそれをひろげたのである。
#4
かくて官府に奉る上奏文を韓愈はかきあげた、それは、「臣韓愈、昧死して上る次第であります」から始まり、「このたびの戦勝の功、即ち天子有徳の証拠である功績を、かくの如く碑文に詠いあげる。」と献上したのであった。
碑石の高さは三丈もあり、その字はまた斗の如く大きなものだった。礎石には神秘な巨亀のかたちが刻まれ、また書に威厳をそえる模様とし周囲にみずちをめぐらしていた。
その一句一句は、常識を超えた独特の表現であり、一語一語がおごそかで重く、そのため、その卓越した表現力を理解できるものが少なかったのだ。特に、李愬の一族は不満をもったようで、よく理解ができないのに、その文章が高が文人ごときの私情にかたよっていると天子に讒言を申しでた。
立されていた百尺もある碑石は長い縄でしばられ倒されてしまったのだった。その上にあらい磨き砂をまいて、碑文を磨滅させてしまい、別の文章をはりなおすということになったのである。
#5
しかし磨滅されたのではあるが、韓愈公の文学はあたかもすべての事象にたいし普遍で根源的に蓄えられた能力であり、それ以前、先人たちが既に人人の心の奥深く刻み込んでいたものなのである。
殷の湯王の盤や孔子の鼎の文などが作られたことや、刻み込まれたことは知られているが、その刻まれた盤や鼎そのものがいまに伝わるということがなくても、その文章、心意気だけは伝わっているように、たとえ磨滅されたとはいえ、韓文公の文章は、金石のように、その命脈をたもつことであろう。
ああ、聖なるものを受け継ぐ天子憲宗皇帝と、聖仁にして賢明なる宰相裴度はともどもある、たがいにその?赫な偉業をなしとげ、淳き栄光を遍く世に流した。
韓愈公のこの文を後の世に示さなければ、どうして聖皇聖相の勲功が、かの三皇五帝の業と此肩するほどのものであったことを、どうして後世に伝えることができようか。
それ故に、私は写本することを希望したい。この文章を指にたこのできるまでー万通も写しとり、これを口角沫を飛ばして万遍も諭して、後世に伝えたいのだ。
このようにして代々伝わって、この中国に興亡するだろう七十二の王朝に伝えたのだ、だから、韓愈の文を玉の封印の神器とし天地に功業を告げる封禅の盛儀の御神体として、諸侯を謁見する明堂の基礎とするべきだと、私は思うのである。













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紀 頌之