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   五胡十六国 西晉

五胡十六国 T分類


五胡十六国時代(4世紀),



三国時代 魏 220 - 265 呉 222 - 280 蜀 221 - 263
晉  265 - 420 .西晉 265−316
東晉 317 - 420 五胡十六国 304-439
南北朝(439〜589)
宋 420 - 479
北魏 386 - 534
斉 479 - 502
梁 502 - 557
西魏 535 - 556
東魏 534 - 550
陳 557 - 589
北周 556 - 581
北斉 550 - 577




隋(ずい、581年 -618年)
唐(とう、618年 -907年)
   初唐の詩人たち   盛唐の詩人たち   中唐の詩人たち   晩唐の詩人たち
    





五胡のたてた国, 漢民族の国, 羯, 羌, 氏(テイ), 匈奴, 鮮卑,
十六国, 五胡, 文字,
泗水の戦い(383),
後秦, 後趙, 漢(前趙), 北涼, 夏, 西秦, 南涼, 南燕, 後燕, 前燕, 北燕, 前涼, 西涼, 成漢, 前秦, 後涼,

羌, ?, 羯, 匈奴, 鮮卑, 倭, 新羅, 百済, 高句麗, 東晋, 会稽, 江州, 荊州, 南海, 交趾, 成都, 秦州(苑都), 長安, 洛陽(豫州), 襄国, 青洲, 加羅, 丸都, 竜城, 平城, 夏(統方), 涼州, 張掖, 敦煌, 建康, 南シナ海

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五胡十六国(建国時系列)時代の概略と詩人






T
1.西晉265−316 2.代315−376 3.東晉317−420 4.西燕384−394 5.北魏386−534 6.宋420−479
U
@前趙304−347 A成漢304−347 B前涼316―376 C後趙319−351 D前燕337−370
V
E前秦351−394 F後燕384−407 G後秦384−417 H後涼386−403 I西秦385−431
W
J南涼397−414 K南燕398−410 L西涼400−421 M 夏 407−431 N北燕407−436 O北涼397−439

T-1.西晉265−316

中 国 詩 人 と 歴 史
・元謀・藍田・北京原人

・神話伝説(三皇五帝)

・黄河・長江・遼河文明

・夏 ・殷 ・周・西周


詩經  春秋學  諸子百家
東晋
十六国
北魏
西魏
東魏
北周
北斉
唐   (初唐)

唐  (盛唐)
     (中唐) 
     (晩唐)
西夏
 
 
北元
後金

 
満洲
中華民国
中華人民共和国
台湾
建国時の勢力図
西晉
西晉(266年2月4日−316年12月11日),是中國?史上魏晉南北朝時期的一個大一統的時期,乃於265年由晉武帝司馬炎取代曹魏政權而建立。國號為「晉」,定都洛陽,後世稱「西晉」,為晉朝的一部分。這大一統時期為時僅51年,?由滅?到五胡十六國開始計,則僅24年。西晉先定都洛陽,後以長安為陪都。實行兩京制。
西晋(せいしん、?音: X?jin)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして三国時代を終焉させ、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに再統一したが、そこまでが精いっぱいで、51年で分解した。また、西晉は先に洛陽を都と定めたが,後に以て、長安を陪都と為す兩京制を實行した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。



司馬懿の死後、その実権は正妻張春華との息子である長男の司馬師が継承した。252年には孫権の死に乗じて諸葛誕を呉に侵攻させるが、東興の戦いで大敗を喫した。しかし司馬師はこの敗戦で諸将を不問としたため、かえって人心を得ることになった。254年2月、宰相の李豊による反司馬師の密謀が露見し、関係者が処刑され、さらに皇帝曹芳をも皇太后の命令と称して廃位を実行した。新たな皇帝には文帝の孫曹髦が傀儡として立てられた。しかし255年2月、この強引な廃立に対呉戦線の重鎮にあった?丘倹と文欽ら宿将らが反発して乱を起こし、司馬師自ら鎮圧に赴く。反乱は鎮圧されたが、司馬師も病状が悪化して死亡した。

司馬師の死後、同母弟の司馬昭(司馬懿の次男)が後継者となり、大将軍・録尚書事に就任した。257年5月には対呉戦線で強大な勢力を誇っていた諸葛誕を皇帝や皇太后を奉じて258年2月までに滅ぼした。260年5月には傀儡曹髦のクーデターを鎮圧して殺害した。

この頃になると諸葛亮亡き後の蜀では退潮の色が濃くなっており、263年5月に司馬昭は新たな傀儡元帝から蜀征討の詔を出させ、8月に18万の大軍をケ艾・鍾会らに預けて11月に滅ぼした(蜀漢の滅亡)。蜀平定前の10月から司馬昭に対して晋公就任の詔が出され、司馬昭は晋公となった。264年3月には晋王に進み、5月には司馬懿を晋国の宣王、司馬師に景王を追贈し、10月に嫡子司馬炎を晋国の世子と定めた。その後も魏臣に対して本領安堵を成すなど、着実な魏から晋への禅譲の準備が進められていくが、265年8月に司馬昭は急死した。

晋の成立

司馬炎
司馬昭の死後は嫡男の司馬炎が継いで晋王・相国となった。そして265年12月には魏の元帝から禅譲を受けて即位し、年号を泰始と改めた。

270年、鮮卑の禿髪樹機能(中国語版)が反乱を起こし、秦州刺史の胡烈や涼州刺史の牽弘を破った。277年、文鴦が禿髪樹機能を降伏させた。

279年、禿髪樹機能は再び反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の馬隆に大敗し部下の没骨能に殺害された(禿髪樹機能の乱)。


西晋の孫呉攻略。
この頃、三国最後の呉は孫皓の暴政により乱れていたので、279年11月に武帝は東西から20万余の大軍を賈充・杜預・王濬・王渾らを大将にして派兵した[12]。晋軍は280年2月に江陵を攻略し、3月には石頭城を落として呉都の建業に侵攻し、孫皓は降伏して中国は晋によって再び統一された

乱れた武帝
武帝は統一事業を完成させると急に堕落した。それまでの英主が愚君に変貌して女と酒に溺れて朝政を顧みなくなった。また武帝の皇太子司馬衷が暗愚なため、衆望は武帝の12歳年下の同母弟で優秀だった斉王司馬攸の後継を期待していた。ところが統一を果たした司馬炎は司馬攸に対して斉への赴任命令を出し、周囲の諫言を封殺した上に司馬攸を支持する派閥を徹底的に粛清して強行した。司馬攸はこの命令に憂憤して発病し、283年に死去した。これにより晋宗室を支える人材はいなくなり、武帝の晩年には皇后楊氏の父楊駿が朝政を掌握して、西晋はかつての後漢と同じように外戚が国を専権する様相が再現された。
八王の乱 晋(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱である。 西晋は100年に渡る三国時代に終止符を打って全土を統一したが、その平穏はわずか数十年で崩れ去った。 この後、中国は隋が統一するまでのおよそ300年にわたり、再び動乱の時代を迎える事となる。

魏の末期、兄・司馬師の後を継いで晋王の地位に就いた司馬昭は、自己の一族を各地に封じて魏までの幽閉同様の待遇を大幅に改善した。さらに彼らを都督に任じて要地に駐屯させ、呉や北方民族に対抗するための軍権の一部を授けた。都督は魏の時代にも置かれていたが、強力な軍権ゆえに王?や?丘倹・諸葛誕のように司馬氏に対して叛旗を翻す者が相次いだ。反面、司馬氏も司馬懿が都督として蜀の諸葛亮の北伐を防いだことで権力掌握のきっかけを築いた地位でもあった。そのため、晋では都督に一族を任じることでその反乱を防ぎ、かつ呉や北方民族に備えようとしたのである。だが、一族に軍権を与えた事が、八王の乱を招くきっかけとなったのであった。

武帝は呉の平定以降、天下統一を成し遂げた事に安心し、政務を蔑ろにして酒色に溺れるようになった。その為、皇后楊?の父である楊駿が政務を取り仕切るようになり、彼は自らを支持する者を取り立てて多くの旧臣を遠ざけた。これにより楊駿は弟の楊?・楊済と共に権勢を欲しいままにするようになり、彼らは『天下三楊』と称された。楊?・楊済はかねてより声望があって才能も有ったが、楊駿は何の才能も無くただ外戚という理由だけで権力を握っていたので、官僚から忌み嫌われていた。
290年3月、武帝の病が悪化すると、彼は楊駿と大叔父の汝南王司馬亮の二人に後事を託そうと考えたが、楊?は武帝の遺詔を楊駿一人に全てを託すという内容に書き換えた。武帝が崩御して皇太子司馬衷(恵帝)が即位すると、楊駿の権勢はさらに振るい、遂には皇帝の住居に住まうようになった。だが、朝廷では失政を連発し、多くの忠臣の諫めにも耳を貸さなかったので、内外から怨嗟の声が集まるようになった。

八王の乱の際、諸王は異民族の傭兵を戦場に投入した。一見磐石に思えた晋の急速な弱体化は、内乱に参加した異民族に独立への野心を与えることとなる。やがて、それは八王の乱中の304年における匈奴の首長劉淵の漢(前趙)の建国へとつながり、中国全土を巻き込む内乱(永嘉の乱)へと発展していった(八王の乱の終盤は永嘉の乱が同時に進行しているが、八王の乱に明け暮れる西晋はこれに対処する術をもたなかった)。


■ 永嘉の乱
西晋末に起こった異民族による反乱である。懐帝の年号である永嘉(307年 - 312年)から呼ばれているが、この反乱が実質的に開始されたのは304年かそれ以前であり、一応の終焉を見せたのは316年である。この乱により西晋は滅亡した。


八王の乱による混乱を見た匈奴の大首長劉淵は、304年に晋より自立して匈奴大単于を称する。この時をもって五胡十六国時代の始まりとされる。劉淵は更に308年には皇帝を名乗って匈奴単于氏族たる攣?氏と漢室劉氏の通婚関係の歴史を背景に国号を漢(後継者で中興の祖となる劉曜の代にこれを廃して趙を名乗り、後世からは前趙と呼ばれる)とした。また四川で?族の李雄による成漢(当初大成を、後に漢を称す)が自立するなどした。こうして八王の乱で中央の威令は大きく失墜し、中国には西晋に反抗する諸勢力が各地に割拠する状況に陥った[21]。それでも東海王司馬越の存在により各地に割拠する勢力は辛うじて抑えられていた。

だが、西晋朝廷内部では実権を握っていた司馬越が詔と称して丞相を称するなどして懐帝との対立が発生。311年には懐帝が遂に司馬越討伐の勅命を発するに至る。司馬越は逃亡先で3月に憂憤のうちに病死した。司馬越の死を好機と見て匈奴による漢朝の武将石勒は4月に司馬越の跡を継いで晋軍元帥となっていた王衍の軍勢10万余を現在の河南省苦県において殺害・捕虜にした。これにより西晋は完全に統治能力と抵抗力を喪失、劉淵はすでに先年死去していたが、その息子劉聡は劉曜と王弥そして石勒に大挙して311年6月に西晋の首都洛陽を攻めさせ、略奪暴行の限りを尽くした。

この一連の動乱は時の年号をとって永嘉の乱と呼ぶが、西晋側から見て異民族の反乱であり、実質は匈奴後裔国家に敗戦し国が滅ぼされたに等しかった。洛陽は破壊され何万人もが殺害され、懐帝は玉璽と共に漢の都平陽に拉致され、さらに前帝=恵帝の皇后(『恵皇后』)羊氏に至っては劉曜の妻とされた。懐帝は生かされたものの、劉聡により奴僕の服装をさせられ、酒宴で酒を注ぐ役をさせられ、杯洗いをさせられ、劉聡外出の際には日除けの傘の持ち役にされたりという屈辱を与えられ、人々からは晋皇帝のなれの果てと嘲り笑われて屈辱を嘗めつくした後の313年1月に処刑された。こうして西晋は事実上滅亡した。







  晉 : 266〜316晉 : 266〜316
120 裴秀はいしゅう224-271禹貢地域圖     
121          
121 韋昭いしょう ? -273國語注     
122 傳玄ふげん217-278和班氏詩一首     
123 皇甫諡こうほじ215-282帝王世紀     
124 山濤さんとう205-283『山濤集』  〔七賢〕  
125          
126 杜預とよ222-284破竹の勢い     
127 陸壽りくじゅ不明三国志を完成させる。    
128 李密りみつ224-287陳情表     
129 荀メじゅんそう ? -294      
130 劉怜りゅうれい211-300酒徳頌戒酒[巾軍]衣と為す〔七賢〕  
131 張華ちょうか247-300博物志     
132 潘岳はんがく247-300西征賦愁興賦    
133 束ルそくせき262-300補亡詩六首     
134          
135 張翰(張季鷹)ちょうかn生没年不詳雜詩     
136 策靖さくせい239年 - 303年索子草書状出師頌月儀帖  
137 陸機りくき261-303豪士賦歎逝賦    
138 陸雲りくうん262-303西征賦登臺賦    
139 王戎おうじゅう234-305三都賦此必苦李 〔七賢〕  
140 阮咸げんかん不詳 (210〜263)詠懐詩  〔七賢〕  
141 向秀こうしゅう不詳 (227〜272)思旧賦難?叔夜養生論 〔七賢〕  
142 張協ちょうきょう ? - 307現存僅13首。詠史詩1首遊仙詩1首雜詩11首
143 左思さし250-305詠懐詩招隠詩嬌女詩三都賦齊都賦 
144 張載ちょうさい280〜289活躍贈司隸傅鹹詩劍閣銘瓜賦   
145 左貴嬪さきひん(?〜300)花瓶  左思の妹(左芬)  
146 孫楚そんそ不詳 - 293年寄暢散懐    
147 司馬懿しばい ? -306讌飲詩     
148 王衍おうえん256-311      
149 潘尼はんに ? -311      
150 郭象かくしょう ? -311老子注     





U-@ 前趙304−347

漢(前趙)

317年頃の勢力図

匈奴の劉淵が304年に建国。五胡十六国の始まりとなった。311年永嘉の乱で西晋の洛陽を攻略、さらに316年に西晋を滅ぼした。しかし内紛が続き、329年に部将の石勒に帝位を奪われた。それまでを前趙、以後を後趙という。

 かつて漢帝国と対等な勢力をもった匈奴が、武帝以来の圧力を受けて南北に分裂した後、南匈奴は漢に服属し、後漢・三国時代を通じて華北に定住するようになっていた。しかし、かつての騎馬民族として能力は維持されており、その多くは傭兵という形で漢民族諸王朝に仕えていた。彼らの存在がふたたび脚光を浴びることになったのは晋で起こった八王の乱で、諸王が彼らの武力を利用しようとして、重く用いるようになったからであった。匈奴の劉淵もその一人だった。


匈奴の再登場

 劉淵は南匈奴の単于の後身で、晋の八王の一人成都王に仕える部将であった劉淵が、八王の乱の混乱に乗じて独立し、304年に平陽(山西省南部)を都にして漢を建国、即位した(高祖)。これが、五胡十六国の始まりであった。五胡といわれた北方民族の一つである匈奴が建てた国であったが、劉淵は漢王室の血筋を受けていることを根拠に、漢王室を再興し、晋王朝を倒すことを標榜したので「漢」を国号とした。劉淵は宮廷に漢王朝風の百官を置いて、その統治を見倣った。
匈奴が建てた「漢」 劉淵の国家は、国号は「漢」というものの、明らかに匈奴を主体とした勢力が中原の長安を抑えて作った国家であり、その登場は中国史の大きな転換を意味している。これ以後、華北には五胡と言われる北方遊牧民系の民族が割拠し、漢民族の唐朝は江南に逃れて東晋を建国する。華北の五胡十六国の始まりとなっただけでなく、三国時代〜南北朝時代へと続く魏晋南北朝時代の転換点でもあった。
晋を滅ぼす

 劉淵は310年に病死し、その子劉和が帝位をついたが、劉淵の弟の劉聡が和を殺害して帝位を奪った。劉聡は晋(西晋)に対する攻勢を強め、311年に晋の都洛陽を攻めて落とし(永嘉の乱)、さらに316年には劉淵の子の劉曜が長安を陥れて、晋を滅ぼした。翌年、晋王室の一人の司馬睿は江南で東晋を建国する。


前趙と後趙

 永嘉の乱で晋から洛陽を奪った劉聡は豪傑であったが、劉和を殺して帝位についた人物だった。因果はめぐり、劉聡の子の劉粲(さん)が立つと大異変が起きた。劉粲は政治を側近の中国人?凖(きじゅん)にまかせて遊宴にふけり、酒ばかり呑んで暮らしていたので、?凖は中国人の復讐の機会と考えたのか、クーデタを起こして劉粲を殺し、劉淵と劉聡の墓を暴くなどの乱暴を働いた。長安にいた劉淵の末子劉曜は羯人の石勒と協力して?凖の一族を皆殺しにし、自ら318年に皇帝の位につき、翌年、国号を趙とした。しかし間もなく、今度は劉曜と石勒が対立、329年に劉曜は石勒によって倒され、石勒が新たに帝位についた。石勒も国号を趙としたが、ややこしいので、劉曜の国を前趙、石勒のそれを後趙といって区別する。




U-A 成漢304−347


成漢


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成漢(せいかん、?音: Cheng Han、304年 - 347年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。巴?族(?族の一種)[1]の李雄により建国された。当初の国号は大成であったが、李寿の時代に漢に改めた事から、併せて成漢と呼称される。また、後蜀(ごしょく)とも記載される。



歴史
前史
李氏の祖先である李虎(中国語版)は巴西郡宕渠県(現在の四川省渠県)に居住して巴?族を束ねていたが、後漢末に曹操の命により渭水上流の略陽郡臨渭県(現在の甘粛省秦安県の東南)に移住させられた。李虎の子である李慕(中国語版)は東羌猟将に任じられ、曹魏・西晋に臣従した。

296年、?族の斉万年が西晋に反乱を起こすと、連年に渡り飢饉が続いていた事も有り、関中は大いに荒廃した。その為、略陽・天水を初めとした6郡で流民が大量に発生し、李慕の子である李特は兄弟と共にその集団を率いて漢中に南下した。李特はさらに巴蜀(現在の四川省一帯)に入ろうとしたが許可されなかったので、西晋から派遣された侍御史李?を買収し、その許可を取り付けて蜀に移った。この際、李特の勢力は漢族などを合わせて10万人にまで達する強大なものとなっていた。

創設期
趙?の乱
300年11月、益州刺史趙?は大長秋に任じられて中央へ帰還するよう命じられたが、彼は趙王司馬倫に誅殺された皇后賈南風と姻戚関係にあったので、その災禍が及ぶのを大いに恐れた。その為、益州に留まって自立を目論み、李特ら兄弟を厚遇して6郡の流民を自陣営に引き込んだ。新任の益州刺史耿滕が成都に着任すると、趙?は反乱を起こしてこれを殺害し、さらに西夷校尉陳総・?為郡太守李?・?山郡太守霍固らを尽く討ち果たすと、遂に大都督・大将軍・益州牧を自称して太平元年と改元した。李特の弟である李庠は特に趙?に厚遇され、1万の兵を指揮して反乱軍の中核を成していたが、やがてその実力を趙?に警戒されるようになり、301年1月に誅殺された。李特はこれに激怒し、密かに7千の兵を率いて趙?配下の費遠の陣営を夜襲して焼き払い、8・9割の兵を戦死させた。さらに、李特は弟の李流と共に成都を目指して進撃すると、趙?は大いに恐れて逃亡を図るも配下に殺害された。こうして乱は鎮圧され、趙?討伐の功績により李特は宣威将軍・長楽郷侯に任じられ、李流は奮威将軍・武陽侯に任じられた。

羅尚との対立
その後、新任の益州刺史羅尚が到来すると、李特は綿竹に入って羅尚を慰労した。だが、羅尚配下の広漢郡太守辛冉らは李特とその一族を全員誅殺するよう進言した。羅尚は容れなかったものの、李特はこれを聞いて心中不安になった。辛冉は趙?討伐の手柄をねつ造して流民の活躍を自分の功績にしようとしたり、流民の資財を奪おうと目論んで関所を設けて財産を調べさせるなどしたので、流民達は大いに恨みを抱いた。

301年3月、朝廷は益州にいる流民達へ郷里に帰還する様、通達を出した。李特は配下の閻式を羅尚の下へ幾度も派遣し、帰郷を秋まで延期するよう求め、さらに賄賂も送ったので一旦は延期は許可された。だが、辛冉と李?らが反対した事により、再度7月までに帰郷するよう通達を出した。当時、大雨が降り続いて帰る手段が無く、まだ穀物も実っていない時期なので食糧も無く、流民達は帰郷命令にどう対処していいか分からなかった。その為、李特兄弟が自分達の為に期限延期を請願していることを知ってこれを頼みとするようになり、李特は綿竹に大きな陣営を築いて行き場のなくなった流民を収容した。辛冉はこれに激怒して街道に立札を掛け、李特兄弟の首に重い懸賞金をかけたが、李特は弟の李驤と共に6郡の流民の豪族も懸賞金の対象に書き加えた。その為、流民達は立札を見ると驚愕し、尽く李特に助けを求め、1月もしないうちにその数は2万を超えた。その後、李特はまたも閻式を派遣し、羅尚から帰郷の期日を延ばす合意を取り付けた。だが、辛冉は要所に囲いを設けて流民を捕らえる準備をしていたので、閻式は綿竹に戻ると李特へ十分に備えをしておくよう告げ、李特はこれに従った。

10月、李特は北営と東営の二つの陣営を築き、李特が北営を、李流が東営を守った。辛冉と李?は羅尚の許可無しに独断で李特討伐の兵を挙げ、広漢都尉曽元・牙門張顕らに3万の兵を与えて北営を奇襲させた。羅尚はこれに憤ったものの、止むを得ず督護田佐を派遣して曽元らを援護させた。だが、李特は十分に備えをしていたので、敵軍の半数が陣に侵入したところで伏兵に襲撃を命じ、敵軍の大半を討ち果たして田佐・曽元・張顕を戦死させた。

李特自立
ここにおいて6郡の流民達は李特を首領に推戴し、行鎮北大将軍に推挙した。李特は辛冉討伐の兵を挙げると、兄の驃騎将軍李輔と弟の驍騎将軍李驤に命じ、広漢を攻撃させて幾度も破った。羅尚は救援の兵を派遣したが、救援軍は李特を恐れて進軍しなかった。敗北を重ねた辛冉は広漢を放棄して江陽へ逃走したので、李特は広漢に入城して拠点とした。その後、李特は羅尚を標的に定めて成都へ軍を進めると、敵軍に連戦連勝した。羅尚は成都を固守して李特らへ講和を試みたが、李特は聞き入れなかった。羅尚は梁州・寧州に救援を求めると共に、都安から?水まで七百里に渡る陣を築いて李特と対峙した。これを受け、南夷校尉李毅は兵5千を羅尚救援の為に派遣した。

302年、長安を統治する河間王司馬?は李特討伐の為、督護衛博を梓潼へ進軍させた。李特は子の李蕩・李雄を派遣して衛博を攻撃させ、撃破して敵軍の大半を殺した。衛博の敗戦を聞いた梓潼郡太守張演は大いに恐れ、城を捨てて逃走した。李蕩は衛博を追撃して巴西を攻め落とし、さらに葭萌まで進んで衛博の残党を尽く降伏させた。羅尚は督護張亀に命じて繁城を攻撃させたが、李特はこれを迎撃して大いに打ち破った。5月、李特は大将軍・大都督・梁益二州諸軍事・益州牧を自称し、西晋と完全に決別した。

8月、朝廷もまた李特討伐の為に広漢郡太守張徴を徳陽へ進軍させると、李特は軍を進めて李蕩と共に張徴を攻撃した。張徴は険阻な地に拠ったので李特は不利に陥ったが、李蕩は救援に駆け付けると死に物狂いで奮戦し、迎え撃って来た張徴の軍を壊滅させて李特を救った。張徴が退却しようとすると、李蕩は水陸の両面からこれを追撃して張徴を殺害した。同時期、李特配下の徳陽郡太守騫碩は巴郡の?江まで軍を進め、この地を占領した。司馬?は梁州刺史許雄を新たに派遣して李特討伐に当たらせたが、李特はこれを破った。

その後、李特は李驤を?橋に駐軍させて羅尚への備えとした。李驤は迎撃に出た羅尚を2度に渡って破り、武器を奪って陣門を焼いた。李流が成都の北に軍を進めると、羅尚配下の張興は李驤に偽装投降を仕掛け、羅尚へ李驤軍の様子を報告した。これを受け、羅尚は精鋭1万人余りを派遣して李驤の陣営を夜襲し、敗れた李驤は将士と共に李流の陣営へ逃げた。李流は李驤の残兵を合わせると反攻に転じ、追撃してきた羅尚軍を返り討ちにして大いに破った。羅尚の兵で敗れて帰還できた者は10人のうち1、2人に過ぎなかったという。303年1月、李特が羅尚の水軍を破って成都へ侵攻すると、蜀郡太守徐倹は成都少城を挙げて降伏した。李特は少城へ入城すると、年号を建初と定めて正式に自立を宣言した[3]。これが実実上の成漢建国と言われる。羅尚は成都太城に籠城して守りを固めた。

李特敗死
蜀の人々は李特の襲撃を恐れ、相次いで集落ごと李特に臣従した。李特はこれを安撫して彼らの為に食糧を供出したので、軍中は食糧不足に陥り、解消の為に6郡の流民を各集落へ分散させて配置した。各々の集落は表向きは李特に従っていたが裏では羅尚とも通じており、李流・李雄らは蜀の民への警戒を怠らないよう進言したが、李特は容れなかった。羅尚配下の益州兵曹従事任叡は密かに集落へ到来すると、2月10日に共同で李特を攻撃するよう蜀の民と盟約を交わした。さらに、任叡は偽って李特に投降し、羅尚軍の食糧が尽きていると偽りの発言を行って李特を油断させた。

2月、羅尚は大軍を派遣して李特の陣営へ総攻撃を掛けると、これに各集落が一斉に呼応した為、李特は大敗を喫して新繁に退いた。その後、羅尚が再び大軍を率いて攻撃を掛けると、李特は再び大敗して戦死した。李特の死により流民達は大いに動揺したので、李流は李蕩・李雄と共に兵を束ねて赤祖(綿竹の東)まで撤退したので、成都少城を始めとした多くの城を失った。李流はかつて李特が築いた陣営に入ると、自身は東営を守り、李蕩と李雄には北営を守らせた。その後、李特を継いで大将軍・大都督・益州牧を称した。

李流から李雄へ
朝廷は荊州刺史宋岱・建平郡太守孫阜に水軍3万を与えて羅尚を救援させ、宗岱らは徳陽まで進んだ。李蕩と蜀郡太守李?は徳陽郡太守任臧を救援させたが、孫阜は徳陽を攻略して守将の騫碩を捕え、任臧らを?陵に敗走させた。その後、宋岱は?江へ進出した。

3月、羅尚は督護常深を?橋へ侵攻させると、?陵の民である薬紳がこれに呼応して李流を攻撃した。李流は薬紳を撃破すると、そのまま常深の陣を攻め破り、常深の士卒を四散させた。李流不在の隙を突いて羅尚配下の牙門左氾・黄?・何沖が三道から北営を攻撃すると、北営内にいた苻成と隗伯は寝返って呼応した。李流らは軍を転進させると北営に入って左氾らに大勝し、苻成と隗伯は敗走して羅尚の下に奔った。李流は追撃して成都に迫ると、羅尚は閉門して守りを固めた。この時、李特の子である李蕩は傷を負って戦死した。

李流は李特・李蕩が立て続けに戦死した上に、宋岱・孫阜の荊州軍が逼迫していた為、戦意を喪失してしまった。遂に李特の妹婿である李含と謀議し、羅尚へ降伏する事を決断した。李雄と李驤はこれに強く反対したが、李流はこれを認めなず、5月に入ると子の李世らを孫阜軍に人質として派遣した。李雄はこれに強く反発し、李含の子である李離と共謀すると、独断で兵を起こして孫阜軍を攻撃して大勝した。ちょうど宗岱も?江で急死した為、荊州軍は李流討伐を中止して撤退した。李流は自らの判断が誤りであったと認め、以後は李雄に軍事を任せるようになった。

6月、李雄が羅尚軍を攻撃すると羅尚は成都太城を固く守った為、李雄は標的を変えて長江を渡り、?山郡太守陳図を攻撃して殺害した。7月、李流は陣営を移して?城を拠点としたが、城内には食糧が無かったので士卒は飢えに苦しんだ。だが、青城山に拠点を築いていた天師道の教祖范長生は李流に味方して軍糧を供給した為、軍は息を吹き返した。

9月、李流は重病に罹ると、子の李世を差し置いて李雄を後継者に指名し、間もなく死去した。諸将は遺言に従って李雄を君主とし、李雄は大都督・大将軍・益州牧を自称し、?城を都に定めた。

全盛期
成漢建国
李雄配下の朴泰は羅尚に偽装投降を仕掛け、羅尚配下の隗伯を?城に誘き寄せた。李雄は敵軍が到来したのを見ると、伏せておいた李驤の兵に奇襲を掛けさせ、隗伯を大いに破った。隗伯が敗れて逃走すると、李驤は追撃を掛けて成都少城まで至った。ここで李驤は自軍を羅尚軍に偽装させたので、城内の兵士たちは勘違いして李驤を城内に迎え入れた。羅尚は異変に気づくと、間一髪城を出て成都太城に撤退した。李驤は?為に向かうと?為郡太守襲恢を捕縛して処刑し、この地を押さえて羅尚の輸送路を断った。これにより羅尚軍は食糧が欠乏し、大いに困窮した。12月、李雄が羅尚の守る成都太城を急襲すると、羅尚は牙門張羅を残して夜闇に乗じて逃走した。張羅は間も無く城門を開いて李雄に投降したので、李雄は遂に完全に成都を制圧した。

304年10月、諸将の勧めを受けて李雄は成都王を号して建興と改元した。正式にはこれが成漢の建国とされている。李雄は西晋の法を廃止して簡略化した法を七章定め、各々の臣下に格差をつけて官爵を授けた。

306年6月、丞相范長生が李雄へ尊号を称するよう勧めると、李雄はこれを受けて帝位に昇り、晏平と改元し、国号を大成と定めた。また、尚書令閻式の進言により、漢や晋の制度を参考にして百官制度を定めた。

益州支配の確立
李雄は寧州へ支配圏を伸ばす事を目論み、建寧の夷を誘って寧州城を守る李毅を討伐させた。李毅が病により亡くなると城は陥落し、三千人余りが殺害され、婦女千人余りが成都へと送られた。

307年5月、秦州の流民であるケ定・??等が西晋の支配下にあった漢中を攻撃すると、西晋の梁州刺史張殷は巴西郡太守張燕に討伐を命じた。ケ定・??は李雄に救援を要請すると、李雄は李離らに2万の兵を与えて救援を命じ、李離らは張燕に大勝した。張殷と漢中郡太守杜孟治は城を棄てて逃走し、李離は漢中の民を連れて成都に帰還し、彼らを蜀に移住させた。

309年、梓潼を守っていた李離と閻式が配下の羅羨等に暗殺され、彼らは梓潼ごと羅尚に帰順した。羅尚は配下の向奮を安漢の宜福に送り込み、李雄を圧迫した。11月、李雄は李驤らに梓潼奪還を命じたが、李驤は敗れて李雲と李?が戦死した。310年、巴西を統治していた李国は配下の文碩に暗殺され、文碩もまた羅尚に帰順して巴西を明け渡した。李雄配下の張宝はわざと殺人の罪を犯して梓潼を守る西晋軍の下に逃亡すると、偽りの降伏を行い、西晋の将軍?gらは彼を信じてを腹心とした。その後、梓潼に到来した羅尚の使者を出迎える為に?g等が城を出た時、張宝は城門を閉じて梓潼を奪い取り、?g等は巴西に逃走した。7月、羅尚が亡くなると巴郡は混乱に陥ったので、311年1月には羅尚の死の隙を突いて李驤が?城へ侵攻し、これを陥落させて梓潼郡太守?登を捕らえた。さらに、李驤は李始と共に軍を進めて巴西を攻め落とし、文碩を殺害した。こうして羅尚に奪われた土地を尽く奪還した。李雄はこの報を聞くと大いに喜び、玉衡と改元した。これにより、李雄の益州支配は確立された。

314年2月、梁州を荒らしていた流民の楊虎が漢中を攻め落とすと、漢中ごと成漢に降った。さらに、張咸等が梁州で挙兵して仇池の楊難敵を撃破すると、梁州の地を李雄に明け渡した。こうして漢嘉・?陵・漢中が成漢の支配下に入った。この時期、漢嘉郡の夷王である沖帰、朱提郡の審?、建寧郡の爨?を始めとした少数民族も尽く李雄に帰順した。

318年、成漢の梁州刺史李鳳が巴西で挙兵すると、李雄は自ら?城に入り、李驤に命じて李鳳を討伐させてその首級を挙げた。

皇太子擁立
323年、仇池の楊難敵は前趙の侵攻を恐れて弟の楊堅頭と共に李雄に降伏した。だが、前趙軍が撤兵すると楊難敵は武都を拠点とし、成漢への帰順を拒否した。李雄は中領軍李?等を派遣して白水橋から下弁を攻撃させ、さらに征東将軍李寿を派遣して陰平を攻撃させた。だが、李寿は楊難敵に阻まれて進軍出来ず、李?は四方から攻撃を受けて数千の兵を失って戦死した。李?は兄李蕩の長子であり、李雄は密かに後継ぎに立てようと考えていたので、その死を深く悼んだ。

李驤は越?へ侵攻すると越?郡太守李サを降伏させ、さらに進軍すると寧州刺史王遜を攻めた。王遜は部下の姚岳に全軍を与えて迎え撃たせると、李驤は雨の影響もあって退却したが、姚岳の追撃を受けて瀘水で多数の溺死者を出した。

324年、李雄は李蕩の子李班を太子に立てる事を宣言した。李雄は嫡男である兄の李蕩こそが国家の正統であると常々考えており、李蕩の長子李?が既に戦死している事から、李?の弟の李班を後継に立てたのであった。李雄には子が十人余りいたので、群臣は皆李雄の子を立てるように請うたが、これに従わなかった。

李雄の死
326年、前涼の張駿は使者を成漢へ派遣し、李雄へ向けて帝号を捨てて東晋に称藩するよう勧めた。李雄はこれに一定の理解を示し、以降前涼と使者を往来させるようになった。この後、李雄は中原の地が乱れているのを見て、しばしば東晋へ朝貢して穆帝と天下を分けようと持ち掛けた。

330年10月、大将軍李寿が征南将軍費黒と征東将軍任巳を率いて東晋領の巴東を攻撃し、これを陥落させて巴東郡太守楊謙を建平まで撤退させた。さらに、費黒に別軍を与えて建平を攻撃させ、東晋の巴東監軍?丘奥を宜都まで撤退させた。332年、李寿は再び費黒と邵攀を前鋒として朱提を攻撃した。また、鎮南将軍任回に木落を攻撃させ、寧州兵を分割してそれぞれ援軍として派遣した。333年3月、寧州刺史尹奉は降伏し、李寿は南中の地を併呑した。李雄は李班に命じて寧州の夷を平定させた。

334年6月、李雄は頭に瘍を負って6日後に亡くなった。太子李班が皇位を継承し、李寿が録尚書事となって補佐に当たった。李班は喪に服したので、政事は全て李寿と司徒何点や尚書令王?らが執り行った。

混乱期
李期の簒奪
9月、江陽を鎮守していた李雄の子李越は、李班が後継ぎとされたことを不満に思い、成都に到来すると弟の李期と李班暗殺の計画を謀った。10月、李越は殯宮に入ると、李班を殺害して弟の李期に皇位を継承させた。李期は皇帝に即位すると玉恒と改元した。李期は政権を安定させるため、李班の弟である李都を誅殺した。さらに、李寿を?城に派遣して同じく弟の李?を攻撃させると、李?は城を放棄して東晋に帰順した。335年9月、李班の母の兄である羅演は李期の帝位簒奪を不満に思い、彼を害して李班の子を後継とするよう企んだが、計画は事前に洩れて殺害された。

この時期、李寿は漢中に駐屯する東晋の建威将軍司馬勲を攻撃し、これを討ち破って漢中を陥落させ、守宰を置いて南鄭を守った。

李期は父の代からの旧臣を軽んじており、国家の刑事・政事はごく僅かの側近とのみ協議し、褒賞や刑罰は全てその中で決定された。これにより国家の法律・規律は大いに乱れ、成漢は次第に衰退していった。338年、李期は多くの者を誅戮してその家の婦女や資財を没収する等、その横暴の振る舞いはさらに激しくなった。諫言する者はみな罪を問われたので、人々は禍から逃れるのに必死であった。尚書僕射李載は反乱を企んでいると誣告され、投獄されて病死した。百官は戦線恐々とし、他人と会っても目を合わすだけで言葉を交わさなくなった。

李寿決起
従父の李寿は国家の重鎮であり威名があったので、李期は彼を警戒して李越と共に誅殺を目論んだが、李寿もまた深くこれを警戒して成都へ赴かなかった。李期は李寿の養弟である安北将軍李攸を毒殺し、さらに幾度も中常侍許?を李寿の下へ派遣し、彼の動向を覗った。李寿は先手を打って 1万の兵を率いて?城から成都へと進軍すると、成都にいた李寿の世子である李勢はこれに呼応して城門を開き、李寿を迎え入れた。李寿は成都城を制圧すると、李期の下へ赴き、李越を始めとした佞臣を処刑するよう上奏した。李期はこれを拒む術を知らず、李越らを殺害した。さらに、李寿は任皇太后の命だと偽り、李期を廃して?都県公に落とし、別宮に幽閉した。5月、李期は失意の中で首を吊って自殺した。

その後、李寿は側近と協議し、東晋に称藩するべきか帝位に即くべきかを議論したが、最終的には帝位に昇って漢興と改元し、さらに国号を『成』から『漢』に改めた。

衰退期
李寿の時代
李寿は自らの側近やこれまで不遇を囲っていた者を抜擢すると、従来の公卿や州郡の長官を全て降格し、李雄の代からの旧臣や近親は全て左遷された。9月、僕射任顔は李寿に反乱を起こしたが、失敗して誅殺された。任顔は李雄の妻である任太后の弟であったので、李寿はこれにかこつけて李雄の諸子を尽く誅殺した。339年9月、李寿は病に伏せるようになると、配下の?壮・羅恒・解思明・李演らはしばしば李寿へ、帝号を捨てて東晋へ帰順するよう勧めたが、李寿は怒って李演を殺害し、?壮や解思明にもこれ以上この話をしないよう脅しを掛けた。李寿は漢の武帝や魏の明帝を慕っており、父や兄の業績を軽んじていたので、朝議で先代の政治を話題に出すのが憚られる有様であった。?壮らは父母の勤労を嘲るのを止める様度々進言したが、李寿は取り合わなかった。

後趙の石虎より東晋を共同で攻略する様持ち掛けられると、李寿は大いに喜んでこれに応じ、軍備を整えて軍糧を準備すると、尚書令馬当を六軍都督に任じて仮節を与え、7万の兵を指揮させて長江沿いに進ませた。だが、群臣は東晋討伐に猛反対し、涙を流し叩頭して李寿を諫めたので、李寿は出兵を思いとどまった。

341年12月、李寿は太子の李勢を大将軍・録尚書事に任じた。

即位当初、李寿は李雄に倣って寛大な政治を心掛け、倹約を美徳とした。自身の欲のままに振る舞う事が無く、蜀の民心を掴んだ。だが、後趙への使者として派遣していた李?や王?が?から帰還すると、石虎の威勢や?の賑わい振りを盛んに述べ、石虎が厳しい刑法により良く統治していると伝えた。李寿は石虎に倣おうと思い、臣下に僅かな過失があってもすぐさま厳罰に処すようになった。左僕射蔡興や右僕射李嶷はこれを厳しく諫めたので、李寿に誅殺された。また、李寿は?に比べて成都が充実していないと考え、近くの郡から青年男子を徴発すると、宮室を大いに修築して水を引き入れるなど、奢侈をほしいままにした。大勢の民を労役に充てたので、民衆は疲弊して怨みの声が道に溢れ、10人のうち9人が造反を考える有様であった。

その後、李寿は病に倒れると343年8月に亡くなり、太子の李勢が後を継ぎ、太和と改元した。

李勢の時代
李勢の弟である大将軍・漢王李広は、李勢に子がいないのを理由に皇太弟の地位を求めたが、李勢は認めなかった。馬当と解思明は李広の要求を許すように強く勧めたが、李勢は馬当らと李広が乱を起こそうとしているのではないかと疑い、相国董皎に命じて馬当・解思明を捕らえて斬首して三族を皆殺しにした。李広は臨?侯に落とされ、間もなく自害した。良臣であった解思明と馬当が殺されたので、これ以降綱紀を引き締めたり諫言する者はいなくなった。

346年、太保李奕は李寿の政治が乱れているのを見ると、乱を起こして晋寿で挙兵し、蜀人の多くがこれに従った。李勢は成都城を固く守って防衛し、李奕は城兵により射殺されたので、配下の兵は散亡した。李勢は李奕の死を確認すると、嘉寧と改元した。

この時期、?族(西南方の異民族)が乱を起こすと、成漢軍は争わずに退いたので、成漢の領土は日ごとに縮小していった。加えて凶作にも見舞われ、国力は大いに衰退した。

李勢は驕慢で財宝や女色を愛し、人を殺害してその妻を奪うなど、荒淫にふけって国事を顧みようとしなかった。また、猜疑心が強く、大臣を誅殺して刑の運用を厳しくしたので、民は皆恐れおののいた。父祖以来の旧臣を遠ざけて自らの側近数人を親任し、彼らが政治を牛耳った。李勢自身はいつも禁中に閉じこもり、公卿たちに会うことが少なかった。

成漢滅亡
347年2月、東晋の大司馬桓温が成漢攻略の兵を挙げ、水軍を率いて進撃した。東晋軍が青衣に到達すると、李勢は大軍を率いて迎撃した。さらに、李福や?堅らに数千人を与えて敵軍を阻ませた。3月、桓温が彭模に至ると、李福は従兄の李権らと共に襲撃したが、返り討ちに遭った。その後も李福らは連戦連敗し、軍は散り散りとなって成都城に逃げ戻った。?堅は?為に到達するも桓温と行き違いとなり、急いで引き返したが、桓温は既に成都の十里の地点まで来ており、?堅の軍は戦意喪失して戦わずに自潰した。

李勢は全軍を動員し、?橋において桓温に決戦を挑んだ。李勢は東晋の前鋒を破って参軍?護を討ち死にさせるなど、一時は漢軍の箭矢が桓温の馬前まで届くほどに追い詰めたが、次第に盛り返されて漢軍は敗れた。桓温軍は退かずに攻勢を強めると、漢軍は大いに潰走した。桓温は勝ちに乗じて城下に至ると、火を放って成都太城の諸門を焼き、成漢少城を焼き払った。李勢は夜闇に紛れて東門から脱出すると、?堅と合流して晋寿郡の葭萌城に到った。ケ嵩と?堅が降伏を勧めると、李勢は遂に降伏を決断し、降伏文を桓温の下へ送って桓温の軍門へ赴いた。桓温は李勢と叔父の李福・従兄の李権を始め、親族10人余りを建康へと移した。こうして成漢は滅亡した。李勢は建康に送られて帰義侯とされ、361年に死去した。







五胡十六国  代

代(だい、?音:Dai)は、中国の五胡十六国時代に建てられた鮮卑拓跋部の国。315年から376年まで8主を擁し、およそ61年続いた。




1.4混乱期
1.5拓跋什翼?の時代
2官職
3歴代君主
3.1系譜
4年号
5脚注
6参考文献
7関連項目

1歴史

1.1前史

檀石槐の統一鮮卑が崩壊し、再び分裂した鮮卑族において台頭してきたのが拓跋部の起源である。258年、大人の拓跋力微は盛楽(ホリンゴル県)へ南下し、そこを根拠地とした。彼は周辺部落を服属させ、魏と修好を深めて勢力を大きく拡大させた。だが、その拡大を恐れた衛?の離間工作により内部分裂を起こし、勢力は大きく弱体化した。その後3代を重ね、294年に拓跋禄官が大人となった。彼は部族を3分割して自身は東部を、拓跋猗?に中部を、拓跋猗盧に西部をそれぞれ統治させた。304年、漢(前趙の前身)の劉淵が挙兵すると、司馬騰に協力して劉淵を討った。307年、拓跋禄官が亡くなると、跡を継いだ拓跋猗盧は3分割された拓跋部を再び統一し、自ら大人となった。

1.2拓跋猗盧の時代

310年10月、并州刺史の劉?は拓跋猗盧へ使者を送り、子の劉遵を人質とさせた。拓跋猗盧はその意を喜び、厚く褒美を贈った。白部大人は叛いて西河に入り、これに応じて鉄弗部の劉虎は雁門で挙兵、劉?のいる新興、雁門の2郡を攻撃した。劉?は拓跋猗盧のもとへ使者を派遣し、腰を低く礼を尽くして救援を求めた。拓跋猗盧は甥の拓跋鬱律に将騎2万を与え、劉?を助けさせた。拓跋鬱律は白部を大破し、さらに劉虎を攻め、その陣営を落とした。劉虎は西へ奔り、朔方に逃れた。これにより、拓跋猗盧は劉?と義兄弟の契りを結んだ。劉?は上表し、拓跋猗盧は大単于・代公に封じられた。しかし、代郡は幽州に属しており、幽州を統治していた王浚はこれを拒絶した。拓跋猗盧は王浚から攻撃を受けたが、これを撃退した。これ以来、王浚と劉?は敵対するようになった。

劉?はまた使者を送り洛陽を救うために援軍を求めると、拓跋猗盧は歩騎2万を遣わしてこれを助けた。

代郡は拓跋猗盧の本拠地・盛楽から離れていたため、彼は1万戸余りの部落を率いて、雲中から雁門へ移り、?北を封地とするよう求めた。劉?はこれを止めることができず、また拓跋猗盧の兵力を頼みとしていたこともあり、楼煩・馬邑・陰館・繁畤・?の民を?南へ移住させ、この5県を拓跋猗盧へ与えた。以来、拓跋猗盧の勢力はさらに増大した。

劉?は、太傅の司馬越へ使者を派遣し、共に出兵して劉聡と石勒を討とうと持ちかけた。だが、司馬越は青州刺史・苟晞と豫州刺史・馮崇に背後を突かれることを恐れ、断った。劉?は征討を諦め、拓跋猗盧へ謝罪し、その兵を本国へ帰らせた。

311年、劉?の牙門将の?延は新興で反乱を起こし、劉聡を招き寄せた。拓跋猗盧は軍を遣わしてこれを討ち、劉聡を退走させた。

312年3月、?沖・卜?らが晋陽を攻めると、拓跋猗盧は救援軍を派遣し、これを撃退した。

8月、劉?は使者を送り、劉聡・石勒を討伐するため援軍を要請した。拓跋猗盧は劉?に忠義をもってこれを認めた。その間に、劉聡は子の劉易と劉粲および族弟の劉曜を晋陽に派遣し、劉?の父母を殺しその城を占拠した。劉?はこのことを報告すると、拓跋猗盧は大いに怒った。10月、長子の拓跋六脩、拓跋猗?の子の拓跋普根及び衛雄、范班、箕澹らを前鋒として遣わし、拓跋猗盧は20万を統べ後継となった。劉粲は恐れて、輜重を焼き、攻囲を突破して遁走した。拓跋六脩は、劉曜と汾東で戦い、これを大いに破った。劉曜・劉粲らは晋陽に戻ったが、夜の間に蒙山を越え、平陽に撤退した。

11月、拓跋猗盧は追撃を掛け、その将の劉儒、劉豊、簡令、張平、?延を斬り、屍は数百里にもわたった。拓跋猗盧は寿陽山で大規模な狩猟を行った。劉?は拓跋猗盧の陣営へ拝謝に来て、拓跋猗盧は礼をもってこれをもてなした。

この後、劉粲らは再び攻勢を掛け、遂に晋陽を攻略した。拓跋猗盧は自ら兵を率いて劉粲の軍を破ると、劉?は再び晋陽へ入城した。拓跋猗盧は劉?に馬、牛、羊各千頭余りと車百乗を譲ると、将の箕澹、段繁等に晋陽の守備を命じて帰還した。

313年5月、王浚は拓跋猗盧に大金を送り、慕容?と共に遼西公の段疾陸眷討伐を求めた。拓跋猗盧はこれを容れ、拓跋六脩を派遣させたが、拓跋六脩は段疾陸眷に敗れて撤退した。

6月、拓跋猗盧は劉?と?北で会合し、平陽攻略の策を練った。7月、劉?が藍谷に進むと、拓跋猗盧は拓跋普根を派遣して北屈に駐軍させた。劉?は監軍の韓拠に命じ、西河から南下して平陽西の西平城に向かわた。漢帝劉聡は大将軍の劉粲に劉?を、驃騎将軍の劉易に拓跋普根を防がせ、蕩晋将軍の蘭陽に西平城を救援させた。拓跋猗盧らは漢軍が動いたと知ると退却した。

313年冬、拓跋猗盧は盛楽城を北都とし、平城を南都とした。平城を新たに立て直し、長子の拓跋六脩に鎮守させ、南部を統領させた。

314年、劉?は拓跋猗盧に漢攻撃を依頼し、彼らは期日を約束し平陽で合流することを決めた。ちょうどこの時期、石勒は王浚を捕縛し、その勢力を併合した。拓跋猗盧に属する諸族1万戸余りは、このことを聞くと、石勒に呼応して反乱を起こした。事が露見すると、拓跋猗盧はすぐさま討伐に当たり、全員皆殺しにした。しかし、漢攻略は中止せざるを得なくなった。

315年2月、愍帝は拓跋猗盧を進爵して代王に封じ、代、常山2郡に官属を置くことが許された。拓跋猗盧は百官を置き、刑法を定めるなど国家としての体制を整えた。これが代国の始まりとされる。

拓跋猗盧は、末子の拓跋比延を寵愛しており、世継ぎにしようと考えた。そのため、長男の拓跋六脩はこれをはなはだ妬み、拓跋猗盧の招集命令に応じなくなった。拓跋猗盧は大いに怒り、兵を挙げて討伐に当たった。だが、拓跋六脩に返り討ちに遭い、兵は離散してしまった。拓跋猗盧は粗末な姿に身をやつして逃走を図ったが、1人の賤女が彼の顔を知っており、遂に拓跋六脩に見つかり、殺されてしまった。

そのころ拓跋普根は国境付近を守っていたが、このことを聞くとすぐさま駆けつけ、拓跋六脩を破り、殺した。 こうして国内を平定すると、王位を継承した。

だが、この一件により国中は大いに乱れ、拓跋部の民と晋や烏桓から帰順した人が互いに殺し合った。拓跋猗盧の腹心として長年仕え、衆望を集めていた左将軍の衛雄と信義将軍の箕澹は、このような事態に陥ったので、劉?へ帰順しようと謀った。そして、人質として派遣されていた劉?の子劉遵と共に、晋人や烏桓人3万世帯と牛馬羊10万頭を率いて劉?へ帰順した。劉?は大いに喜び、自ら平城へ出向いて彼等を迎え入れた。これによって、劉?の勢力が再び強大になった。

4月、拓跋普根が亡くなった。在位期間はわずか1月であった。その息子は生まれたばかりだったが、普根の母・惟氏により代王に立てられた。しかし、この幼主も同年12月に夭折した。

1.3拓跋鬱律の時代

316年、拓跋猗盧・拓跋普根およびその子が相次いで亡くなると、代の者は拓跋鬱律を代王に擁立した。

318年6月、鉄弗部の劉虎が黄河を渡り、再び代国西部に侵攻してきた。7月、拓跋鬱律は軍を率いて迎撃に当たり、これを大破した。劉虎は単騎で包囲を突破して逃走した。劉虎の従弟の劉路孤は部落を率いて帰順してきたので、拓跋鬱律は娘を与えた。

その後、拓跋鬱律は西へ向かい烏孫の故地を攻略し、東へ向かい勿吉以西の地区を併合した。拓跋部の兵馬は強壮であり、騎射ができる将は百万にのぼったという。他部族を圧倒しており、代国は北方に覇を唱えた。

同年、前趙の劉曜が晋帝司馬?を殺害したと聞くと、大いに嘆いた。劉曜は代国へ使者を派遣して和親をはかったが、拓跋鬱律は受け入れなかった。

319年、石勒は自ら趙王を称すと、代国と和親をはかり、兄弟となることを請うた。しかし、拓跋鬱律は遣使を斬り捨てると、国交を断絶した。

幽州刺史・段匹?の兵民は飢餓のため離散し、薊を守る力がなくなり、上谷に移動しようとした。拓跋鬱律はこれを攻撃し、敵軍を壊滅させた。段匹?は妻子を棄てて楽陵郡に奔り、冀州刺史・邵続を頼った。

320年、涼州刺史張茂の使者が代国に朝貢した。

321年、東晋の元帝が代国へ使者を送り爵位を与えたが、拓跋鬱律はこれを断った。拓跋鬱律には、南方を平定しようという志があった。

伯母の惟氏(拓跋猗?の妻)は、拓跋鬱律が部族の心を得て、その勢力が強大であるため、自らの子が後継に立てられないことを恐れた。彼女は、拓跋鬱律と諸大人を殺し、死者は数十人に及んだ。

1.4混乱期


代国と周辺国
拓跋鬱律の死後は惟氏の子、拓跋賀?が即位した。拓跋賀?はまだ自ら政務ができる歳ではなく、代わりに惟氏が政務を執り行った。惟氏は後趙と修好を深め、後趙では彼らのことを「女国からの使者」と呼んだ。

324年、拓跋賀?は親政を始めるが、諸大人はまったく帰服しないので、拓跋賀?は東木根山に城を建て、そこに移り住んだ。

同年、涼州刺史の張茂が死に兄子の張駿が後を継ぐと、代国に使者を送ってきて朝貢した。

325年、拓跋賀?は卒去し、代わって弟の拓跋?那が立った。

327年、後趙の石勒が、石虎に5千騎を与えて国境へ侵攻してきた。拓跋?那はこれを句注・?北で迎撃に当たったが、不利となったため、大寧に移った。

時に、拓跋鬱律の長子である拓跋翳槐は、妻の一族である賀蘭部にいた。拓跋?那は拓跋翳槐の身柄を引き渡すよう求めたが、賀蘭藹頭はこれを拒否した。拓跋?那は怒り、宇文部と兵を合わせてを討伐軍を差し向けて来たが、賀蘭藹頭らが撃退した。

329年、危機を感じた拓跋?那は宇文部へ亡命した。賀蘭部及び諸部大人は、拓跋翳槐を共立して代王に立てた。石勒は使者を送り和親を求め、拓跋翳槐は弟の拓跋什翼?を襄国に遣わした。

335年、賀蘭藹頭が職務を怠けていたため、拓跋翳槐は尊大だと言い立て、これを招き寄せて殺した。これにより、諸部は皆、拓跋翳槐に愛想を尽かして離反した。拓跋?那は好機と見て、宇文部から攻め込み、諸部大人はこれを迎え入れた。拓跋翳槐は?へ逃亡し、後趙の庇護下に入った。石虎は彼を厚く遇し、邸宅・妾・召使・宝物を奉じた。これにより拓跋?那は再び代王の座についた。

337年、後趙の石虎は将軍李穆に5千騎を与えて大寧を攻め、拓跋翳槐をここに移住させた。すると、部落の民6千余りが拓跋?那の下を離れ、拓跋翳槐についた。拓跋?那は前燕へ逃げ、国人は再び拓跋翳槐を擁立し、かつて盛楽城があった場所の東南十里へ、新たに盛楽城を築いて遷都した。その後の拓跋?那の消息は不明である。

338年10月、拓跋翳槐は病に倒れ、その後間もなく亡くなった。

1.5 拓跋什翼?の時代


代国と周辺国
拓跋翳槐は死ぬ間際、弟の拓跋什翼?を後継に立て、国家を安定させるよう諸大人へ遺言した。梁蓋を初め諸大人は、拓跋什翼?が遠く離れた地にいるため、彼を呼び寄せる間に変事が起こることを恐れた。そのためこの遺命に難色を示し、弟の拓跋孤を後継に立てようとした。しかし拓跋孤はこれを拒絶し、自ら?へ赴いて拓跋什翼?を迎えた。そして、後趙の石虎と接見し、自ら兄に代わって人質となることを申し出た。石虎は拓跋孤の気概に感心し、2人とも返還させてやった。

同年11月、国に帰った拓跋什翼?は、繁畤城(現在の山西省繁峙県)以北の地で代王に即位した。初めて独自の元号を用い、建国と称した。

建国2年(339年)、百官を設け国家としての体制を整えた。代人の燕鳳を長史に、許謙を郎中令にそれぞれ任じた。反逆、殺人、強姦、窃盗などの法が明文化され、律令は明確となった。彼の政治は清廉で簡潔であると称された。連座や縁座を緩めたので、百姓は安心して暮らすことができた。代国では、他国から帰順してきた者を総称して「烏桓」と呼んでいた。拓跋什翼?は烏桓を二部に分け、弟の拓跋孤に北部を、息子の拓跋寔君に南部をそれぞれ監督させた。東は?貊から西は破落那まで、南は陰山から北は沙漠へ至るまでを服属させ、帰順する民は数十万人を数えた。

拓跋什翼?は、前燕とも修好を深め、婚姻関係となることを望んだ。燕王の慕容?は妹を嫁がせ、拓跋什翼?は彼女を王后に立てた。

建国3年(340年)春、雲中郡の盛楽宮(現在の内蒙古自治区和林格爾県)に再び遷都した。

建国4年(341年)9月、かつて盛楽城があった場所の南8里に新たに城を築いた。同月、王后の慕容氏が卒去した。10月、匈奴鉄弗部の劉虎は西部国境に侵攻してきた。拓跋什翼?は軍を派遣して迎え撃ち、これを大破した。間もなく劉虎が没すると、子の劉務桓は代に帰順してきたため、拓跋什翼?は彼に娘を娶らせた。

建国6年(343年)7月、拓跋什翼?は再び前燕に婚姻を求め、結納として千匹の馬を求めたが、拓跋什翼?はこれを拒否した。また、傲慢な態度を取り、婿としての礼儀に欠けていた。8月、慕容?は世子の慕容儁に命じ、慕容評らを従え代国を攻撃させた。拓跋什翼?は軍を撤退させたため、慕容儁は戦うことなく引き返した。

建国7年(344年)2月、拓跋什翼?は大人の長孫秩を前燕へ派遣し、慕容?と再度和睦した。慕容?は娘を送り、拓跋什翼?は王后に立てた。9月、兄の拓跋翳槐の娘を慕容?の妻として与えた。

建国14年(351年)、冉閔が華北を荒らすようになると、拓跋什翼?は自ら六軍を率いて、中原を平定しようと目論んだ。だが、諸部大人の反対を受け、作戦を中止した。

建国19年(356年)1月、劉務桓が死に、弟の劉閼頭が後を継いだ。彼は代国へ対し異心を抱いていた。2月、拓跋什翼?は西へ向かい、黄河の岸辺に至った。使者を劉閼頭の下へ派遣し、彼を諭した。劉閼頭は大いに恐れて、降伏した。同年冬、慕容儁は代へ使者を派遣し婚姻を求めると、拓跋什翼?はこれに同意した。

建国21年(358年)、鉄弗部で大規模な造反が発生した。12月、劉閼頭は恐れ、配下を引き連れて東へ逃げた。残った者は、ほとんどが劉悉勿祈(劉務桓の息子)へ帰順した。劉悉勿祈の12人の兄弟は全て拓跋什翼?の近辺で職務に就いていたが、この事件が起こった時、拓跋什翼?は彼らを全て送還し、劉閼頭と相互に疑わせて勢力を削ごうとした。これにより、劉悉勿祈は劉閼頭を攻撃し、その兵を全て奪った。劉閼頭は止むを得ず代へ亡命し、拓跋什翼?は彼を以前同様に遇した。

建国23年(360年)6月、王后の慕容氏が卒去した。7月、劉悉勿祈の後を継いだ弟の劉衛辰が代へ出向き、慕容氏の弔問を行った。その際、拓跋什翼?へ婚姻を求めたので、娘を彼に娶らせた。

建国26年(363年)10月、高車が代国の領域へ進出してくると、拓跋什翼?はこれを討ち、大破した。

建国27年(364年)11月、没歌部を攻撃してこれを破ると、家畜の数百万匹を捕獲して帰還した。

建国28年(365年)1月、鉄弗部の劉衛辰が代に背くと、拓跋什翼?は討伐に赴いた。彼が黄河を渡ると、劉衛辰は恐れて逃走した。

建国29年(366年)、拓跋什翼?は長史の燕鳳を使者として前秦へ派遣して、入貢した。

建国30年(367年)2月、前燕は大規模な遠征を行い、漠南の高車を攻撃に向かった。代国の国境を通る際、稲田を荒らしたので、拓跋什翼?は激怒した。8月、拓跋什翼?は幽州軍を率いて雲中にいた慕容泥を攻撃した。慕容泥は城を捨てて逃走し、振威将軍の慕輿賀辛は戦死した。

10月、拓跋什翼?は、劉衛辰征伐の軍を起こした。盛楽から西の朔方へ向かい黄河を渡ろうとした。この時、黄河がまだ凍りついてなかったので、拓跋什翼?は兵を派遣し、葦で太い紐を作って氷の流れを遮らせた。しばらく待つと河が凍りついたが、まだそれほど堅くなかった。そのため、葦を氷上に散らさせて、気温が下がるのを待った。またしばらく待つと、葦が凍りつき、まるで浮き橋のようになった。これによって大軍は順調に渡河することが出来た。 突然目の前に代軍が現れたため、劉衛辰は突然すぎて対応が取れず、兵士を引き連れて宗族とともに西に逃走した。そしてそのまま前秦へ亡命したが、慌てふためいて一心不乱に逃げたため、部族の6、7割が置き去りにされ、拓跋什翼?はその兵を吸収した。

建国33年(370年)11月、高車を征伐に赴き、これを大破した。

建国34年(371年)春、長孫斤が謀反を起こした。太子の拓跋寔はこれを討つが、傷を負ってしまい、それが原因で5月に卒去した。

建国37年(374年)、拓跋什翼?は再度劉衛辰の征伐に向かい、敗れた劉衛辰は南へ逃走した。

建国39年(376年)、劉衛辰の要請により、前秦の苻堅は大司馬の苻洛をに20万の兵と朱?、張?、ケ羌等を与えて侵攻させた。彼らは道を分けて進み、南の国境へ侵攻した。11月、白部・独孤部はこれを迎撃するが、2度敗北した。南部大人の劉庫仁は雲中郡に撤退した。拓跋什翼?は再び劉庫仁を派遣し、騎兵10万を率いて石子嶺で反撃させるが、敗れた。当時拓跋什翼?は病を患っており、群臣にこの重責を担えるものは誰もいなかった。そのため、軍を率いて陰山の北に逃れた。すると、高車を初めとした各部族が相次いで反乱を起こし、拓跋什翼?は四方を敵に囲まれることとなり、もはや統治を維持できず、さらに漠南へ移った。その後、前秦軍が少し後退すると、拓跋什翼?も軍を戻した。12月、什翼?は雲中郡まで戻ったが、その12日後、拓跋孤の子の拓跋斤にそそのされた庶長子の拓跋寔君により、拓跋什翼?は諸弟と共に殺害された。享年57であった。拓跋什翼?が殺されたことが前秦軍に伝わると、秦将の李柔と張?は瞬く間に雲中郡を攻略した。これにより代国は前秦の支配下に入り、東西に分割された。