晉・五胡十六国・南北朝・隋 の詩人
晉・五胡十六国・南北朝・隋 の詩人
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晉・東晉・五胡十六国・南北朝・隋 の詩人 |
<晉詩> |
421 劉混 |
422 廬ェ |
423 謝尚 |
424 郭璞 |
425 曹毘 |
426 王羲之 |
427 陶潜 |
428 謝混 |
429 呉隱之 |
430 廬山諸道人 |
431 恵遠 |
432 帛道蘊 |
433 趙整 |
434 司馬睿(元帝) |
435僧肇(そうじょう) |
<宋詩> |
451 孝武帝 |
452 南平王鑠 |
453 何承天 |
454 顔延之 |
455 謝靈運 |
456 謝膽 |
457 謝恵連 |
458 謝莊 |
459 鮑照 |
460 鮑令暉 |
461 呉遇遠 |
462 王微 |
463 王ソウ達 |
464 沈慶之 |
465 陸凱 |
466 湯惠休 |
467 劉呉 |
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<齊詩> |
481 謝眺 |
482 王融 |
483 劉繪 |
484 孔稚圭 |
485 陸厥 |
486 江孝嗣 |
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<梁詩> |
501 梁武帝 |
502 簡文帝 |
503 元帝 |
504 沈約 |
505 江淹 |
506 范雲 |
507 任肪 |
508 邱遅 |
509 劉ツ |
510 呉均 |
511 何遜 |
512 王籍 |
513 劉峻 |
514 劉孝綽 |
515 陶弘景 |
516 曹景宗 |
517 徐ヒ |
518 虞羲 |
519 衞敬瑜妻王氏 |
520 劉キョウ |
文心雕龍(南朝梁の劉キョウが著した文学理論書。全10巻。5世紀の末、南斉の末期頃) |
<陳詩> |
531 陰鏗 |
532 徐陵 |
533 周弘譲 |
534 周弘正 |
535 江總 |
536 張正見 |
537 何胥 |
538 韋鼎 |
539 陳昭 |
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<北魏詩> |
551 劉昶 |
552 常景 |
553 温子昇 |
554 胡叟 |
555 胡太皇 |
556 |
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<北齊詩> |
561 刑邵 |
562 祖テイ |
563 鄭公 |
564 蕭懿 |
565 顔之推 |
566 馮淑妃 |
567 斛律金 |
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<北周詩> |
571 ユ信 |
572 王褒 |
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<隋> |
581 煬帝 |
582 楊素 |
583 廬思道 |
584 薛道衡 |
585 廬世基 |
586 孫萬壽 |
587 王冑 |
588 尹式 |
589 孔徳紹 |
590 孔紹安 |
591 陳子良 |
592 王申禮 |
593 呂譲 |
594 明餘慶 |
595 大義公主 |
4.五胡十六国
晉(晉、しん、265年 -420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建業。宋により滅ぼされた。
西暦301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌、
氏)であったことからこの名がある。
421 劉混 |
422 廬ェ |
423 謝尚 |
424 郭璞 |
425 曹毘 |
426 王羲之 |
427 陶潜 |
428 謝混 |
429 呉隱之 |
430 廬山諸道人 |
431 恵遠 |
432 帛道蘊 |
433 趙整 |
434 司馬睿(元帝) |
435 僧肇(そうじょう) |
晋
265〜420 |
西晋 265年 - 316年 |
東晋 316〜420 |
五胡十六国 |
一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。
ID |
詩人名// 事項 |
よみ |
生-歿 |
作 品 |
421 |
劉混 |
りゅうこん |
271年 - 318年 |
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晉 |
劉 ?(りゅう こん 271年 - 318年5月8日(6月22日))は、中国西晋時代から五胡十六国時代
にかけての武将・政治家。字は越石。中山郡魏昌県(現在の河北省定州市南東部)の出身。
漢の中山靖王劉勝の末裔であると言われる。八王の乱に際しては司馬?討伐に大きく貢献し、
永嘉の乱が起こると拓跋部と結んで漢(前趙)の襲来を阻んだ。文学者としても著名であった。
幼い頃から志があって合従連衡の才能を有しており、自分より優れていると思った者と良く交流し
た。また、晋室に対して忠心があり、かねてから大きな名声があったので、周囲から故国復興を期
待されていた。その一方で、驕り昂る一面があり、贅沢で豪華な暮らしを好み、音楽と女色を嗜
んだ。晋陽に着任して暫くは自制していたが、次第に元に戻っていったという。
劉?はいつも、危亡に陥って大恥を雪ぐ事ができない事を憂慮していた。夷狄は義に伏させるのが
難しく、情によって誠を抱かせるのは万に一つの僥倖だと思っていた。将軍や官吏と会う毎に世の
状況を憤り悲しみ、私兵を率いて賊の拠点を陥落させたいと考えていたが、その謀略が果たされ
る前に段匹?の庇護下に入った。彼が段匹?の下に逃れて月日が経つと、遠近の人は憤り嘆いた
という。劉?は死を免れる事はできないであろうと思っていたが、周囲に動揺は見せなかったという。
祖逖との関係
祖逖とは若い時からの親友で、共に司州主簿となると、寝所を共にするほど親密な関係であっ
た。また、彼らは共に英気があり、いつも世事について議論していたという。ある夜、突然鶏が鳴き
声を挙げた。祖逖は隣で寝ていた劉?を蹴り起こすと「これは凶兆などではない(乱世の兆しである
が、祖逖はこれを名を上げる好機と捉えた)」と言い、起きて舞を踊った。またある夜中、座から立
ち上がるとお互いに「四海が沸き立てば、豪傑が並び立つであろう。我と汝は中原を避けよう。」と
言い合った。
祖逖が河南で功績を挙げると、劉?は書を送って盛んに祖逖の威徳を称賛したという。
劉?は常に祖逖の事が頭にあり、祖逖が東晋に重用されていると聞き「我は戈を枕にして朝を待
ち、逆虜を討伐せんと志しているが、いつも祖生(祖逖)が我より先に鞭を著りはしないかと心配し
ているのだ」と人に語った。これが先鞭をつけるという故事成句の語源である。
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答廬ェ
重贈廬ェ
扶風歌 |
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422 廬ェ |
ろしん |
285年 - 351年 |
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晉
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盧 ェ(ろ しん、285年 - 351年)は、西晋から五胡十六国時代にかけての人物。字は子諒。高
祖父は後漢の儒学者盧植。曾祖父は魏の司空盧毓。祖父は西晋の衛尉卿盧?。父は西晋の
尚書、前趙の東宮太師盧志。本貫は范陽郡?県(現在の河北省保定市?州市)。盧志の長子
として生まれた。盧ェは名家の子であり、若い頃から名声を博し、才は高く行いは潔く、当世にお
いて推される所となった。
明晰・敏捷にして合理的な思考を持ち合わせていたという。また老荘思想を好み、当人も文章の
才があった。
武帝司馬炎の娘である?陽公主を娶り、?馬都尉を拝命したが、婚儀が済まされる前に公主は亡
くなった。
後に幽州から秀才に挙げられ、太尉掾に任じられた。
311年6月、漢(前趙)軍の攻勢により、洛陽が陥落した(永嘉の乱)。盧ェは父の盧志に従い、
漢へ抗戦を続けていた并州刺史劉?を頼り、陽邑に至った。
312年8月、漢の河間王劉易・河内王劉粲・中山王劉曜らが劉?の守る晋陽へ侵攻すると、劉?
は張喬に防戦させたが返り討ちに遭い、太原郡太守高喬らは晋陽ごと劉粲に降伏した。盧ェは
劉粲に捕らわれて捕虜となり、劉粲に取り立てられて晋陽に留まり、参軍に任じられた。10月、
劉?は敗残兵をかき集めて代王拓跋猗盧と共に劉粲を攻めると、劉粲は晋陽を放棄して逃走し
た。11月、こうして盧ェは再び劉?の下に帰順する事が出来たが、父の盧志を始めとした一族は
既に平陽に送られており、盧ェが裏切った事により尽く漢帝劉聡に殺害された。
315年2月、劉?が司空となると、盧ェはその主薄に任じられた。後に従事中郎に移った。劉?の妻
は盧ェの従母に当たる人物であったので、盧ェは大いに親愛を加えられ、またその才能と家柄に
より重んじられた。
316年12月、并州司空長史李弘が反乱を起こし、并州ごと漢の征東大将軍石勒に降伏した。
その為、劉?は幽州を領有する段部の段匹?の下へ帰順すると、盧ェもまた劉?に従って段匹?に
投じ、別駕に任じられた。
318年5月、段匹?が劉?を殺害すると、盧ェは難を逃れる為、劉?の旧臣である崔悦らと共に残
った兵を率いて逃亡した。当初は東晋へ逃れようと考えたが、南路は断絶していた。この時、段
匹?と対立していた段末波が遼西に割拠していたので、盧ェは彼の下へ帰順した。当時、劉?の
子の劉羣もまた段末波の下に身を寄せており、盧ェらは彼を主に立てた。
同年、段末波は江東へ使者を派遣した。この時、盧ェもまた上表文を送って劉?の名誉回復を
請うた(東晋は段匹?を支援していたので、劉?の喪を発しなかった)。その文旨は甚だ切実であっ
たので、数年後にその要求は叶えられ、劉?には弔祭が加えられて太尉・侍中の官位が追贈さ
れ、愍という諡号を与えられた。
東晋朝廷は幾度も盧ェを招聘して散騎中書侍郎に任じたが、段末波に留められていたので、南
へ渡る事は出来なかった。
325年12月、段遼が位を継ぐと、盧ェは右長史に取り立てられた。
338年3月、後趙軍が総勢12万の兵で段部へ襲来すると、段部勢力下の漁陽郡・上谷郡・代
郡といった諸太守は相継いで降伏し、瞬く間に40を超える城が陥落した。段遼が密雲山へ逃走
すると、盧ェは劉羣・崔悦らと共に府庫を封じてから後趙に降伏した。5月、後趙君主石虎が?に
帰還すると、中書侍郎に任じられた。その後も重用され、国子祭酒・常侍・侍中を歴任した。
343年、中謁者令申扁は石虎や天王太子石宣から寵愛を受け、朝政の実権を握っていた。そ
の為、彼の権勢は大いに高まり、九卿以下はみな彼に媚び諂ったが、盧ェや侍中鄭系・王謨・
崔約ら10人余りだけは対等な関係を崩さなかったという。
盧ェは石氏の下で要職に就いてはいたが、いつもこれを屈辱に思っていたという。その為、常々諸
子へ向かって「我が身が没した後は、ただ晋の司空従事中郎のみを称するように。」と述べてい
た。
349年11月、石鑑が即位すると、中書監に任じられた。
350年1月、冉閔が後趙の皇族を虐殺して魏国を興すと、引き続き中書監に任じられた。
11月、冉閔が10万の兵を率いて後趙皇帝石祗の守る襄国へ侵攻すると、盧ェはこれに従軍し
た。
351年3月、冉閔は百日余りに渡って襄国を包囲したが、救援に到来した前燕の禦難将軍悦
綰・姚弋仲の子姚襄・後趙の相国石?らから挟撃を受けて大敗を喫した。これにより冉魏軍は壊
滅し、盧ェもまた戦乱の中で命を落とした。享年67。
盧ェはその生涯で『祭法』を撰し、また『荘子』に注をつけた。その文は集められ、みな世に広まっ
たという。
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答魏子悌
時興詩
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423 謝尚 |
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謝鯤の没後、「 陽夏の謝氏」のホープとして脚光を浴びたのは、謝鯤の長男謝尚(しゃしょう 308
-357)である。謝鯤が病死したとき謝尚はまだ十代の少年だったが、群を抜いた聡明さで早くも有
名であった。天才少年としてもてはやされ、得意の絶頂にあったころ、謝尚は派手な衣装を身につ
け闊歩するなど、目にあまる振舞いも多かった。見かねた叔父( 謝鯤の弟謝哀)らがきつく注意す
ると、謝尚は即座に恥じ入って身持ちを改め、以後、ますます当時の名士の注目を集めるように
なった。
とりわけ、当時、司徒( 最高位の三人の大臣の一 人)だった王導は彼を竹林七賢の一 人、王戎
になぞらえて「 小安豊( 安豊は王戎のあざな) 」と呼び、その将来を嘱望して召し寄せ、みずから
の掾( 属官)とした。謝尚がはじめて司徒の役所にやってきたとき、おりしも宴会の最中だった。謝尚
に音楽的才能があることを知っていた王導が「 鵤鷁舞(くよくまい)」を披露するよう求めると、謝
尚は即座に着替え、宴席に連なった一 同の手拍子に合わせて、さっそうと舞いつづけたという。謝
鯤も歌や琴が得意だったから、彼の音楽的才能は父譲りだったのだろう。
こうした格好のよさと合わせ、謝尚には並々ならぬ軍事的才能があり、射撃も得意中の得意だっ
た。王導の掾を皮切りに、昇進を重ねた謝尚はやがて地方に転出して郡の長官となり、歴陽太
守から江夏の相となる。江夏の相だったころ、荊州刺史として近接する武昌に鎮していた庚翼と親
しく往来し、いっしょに射撃を楽しんだりした。あるとき、庚翼が、「 きみが的に命中させたら、鼓吹
隊を褒美にやろう」といったところ、謝尚はその声に応じて発射し、みごとに命中させたという。これ
は、庚翼が武昌に鎮していたころの話だから、咸康六年( 三四〇)から八年( 三四二)にかけてのこ
とだろう。このとき謝尚は三十台の前半である。
謝尚は個人的武勇にすぐれるのみならず、行政官としても軍隊指揮官としても、非常に有能であ
った。たとえば、郡長官として着任したとき、郡役所で四十匹の布を使って幔幕を作り、新任の長
官を歓迎したところ、謝尚はさっさとこの幔幕を裁断させ、兵隊の下着にしてしまった。実利的にし
て、人情の機微を知り尽くした心憎いやりかたといえよう。
こうした有能さが高く評価され、永和元年(345) 、謝尚は豫州刺史に昇進し、まず歴陽( 安徽省
和県) 、ついで蕪湖( 同当塗県) を根拠地とする。ちなみに、謝尚が豫州刺史になる直前、親し
かった庚翼が死去し、桓温( = 二二⊥二 七三)が後任の荊州刺史となり、
西府軍団を掌握している。桓温は、謝尚の父謝鯤とともに「 八達」に名を連ねた桓彝の息子だ
が、第二代皇帝の明帝の娘、南康長公主と結婚したのを機にのしあがり、ついに荊州刺史となっ
て念願の強力な軍事力を手中におさめたのである。これ以後、約三十年にわたって、桓温はじり
じりと勢力を拡大し、虎視眈々と東晋王朝簒奪を狙いつづける。
謝尚は行政面でも軍事面でも傑出した才能を有すると同時に、当時の貴族社会で歓迎される
人格、教養、風貌を兼ね備えていた。このため、父の友人で「 八達」のメンバーだった阮孚( 竹林
七賢の一人、阮威の息子)から、「 心が澄みきってのびのびしており、自由奔放の境地にあるよう
に見える」( 『 世説新語』賞誉篇)と称賛されたり、かつて王敦の側室であり、のちに謝尚に仕えた
女性から、「 王敦なぞ殿さまに比べれぼ、田舎紳士にすぎません」( 同、容止篇)と、その美貌と
風格を絶賛されたこともあった。「 陽夏の謝氏」のステータスは、この文武両道、東晋のために奮
闘しつつ、東晋貴族社会の称賛の的であった、颯爽たる謝尚の存在によって、いっきょに高まった
というべきであろう。
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大道曲
青陽二三月,
柳青桃復紅。
車馬不相識,
音落?埃中。
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424 郭璞 |
かく はく、 |
276年 - 324年 |
山西省運城市聞喜県 |
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郭璞(かく はく、276年 - 324年)は、中国西晋・東晋の文学者・卜者。字は景純。河東郡聞
喜県(現在の山西省運城市聞喜県)の人。文才と卜占の術により建国まもない東晋王朝の権
力者たちに重用され、史書や『捜神記』などの志怪小説では、超人的な予言者・妖術師として
様々な逸話が残されている。卜占・五行・天文暦法に通ずるのみならず、古典にも造詣が深く、
『爾雅』『方言』『山海経』に注したことで知られる。文学作品では「遊仙詩」「江賦」などが代表
作とされる。寒門の家に生まれ、訥弁であったが、博学で文章に巧みであった。また郭公なる人
物から『青嚢中書』という書物を授かり、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ、いにし
えの京房や管輅をも凌ぐほどであったという。
八王の乱により中原が戦乱に見舞われると、郭璞は筮竹で将来を占い、この地が遠からず異民
族に蹂躙されることを予見した。そこで親類・友人たち数十家とともに江南に避難した。史書によ
ると、江南までの道中、様々な術や予言を行い、それによって難を逃れたという。
江南に来た郭璞は、その後、司馬睿(後の東晋の元帝)の腹心王導に招かれ、彼の参軍とな
り、その卜筮の術によって大いに重用された。司馬睿が皇帝に即位する前後、その将来を占い、
銅鐸の出土や泉の出現などの東晋中興の正統性を裏付ける瑞祥を予見し、司馬睿の寵愛も
受けるに至った。
東晋が建国されると、郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上し、それらは世間で大いに評判になった。
元帝にも賞賛され、著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。皇太子司馬紹(後の明帝)か
らは、その才能と学識を尊敬され、当時の有力者であった温?・?亮らと同等の待遇を受けた。
324年、王敦が再び反乱を企て、郭璞にその成否を占わせたところ「成る無し」の結果がでた。王
敦はかねてから郭璞が温?・?亮らと親しく、彼らに自らの討伐をそそのかしていると疑っていたので、
占いの結果に激怒し郭璞を処刑した。享年49。王敦の乱が平定されると、弘農郡太守を追贈さ
れ、子の郭?が父の後を継いで、官位は臨賀郡太守に至った。
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贈温キョウ 【山+喬】
人亦有言,松竹有林。
及爾臭味,異苔同岑。
言以忘得,交以澹成。
匪同伊和,惟我與生。
遊仙詩七首
其一
京?游侠窟,山林?遁栖。
朱?何足??未若托蓬莱。
?源?清波,陵??丹?。
?谿可潜?,安事登云梯。
漆?有傲吏,莱氏有逸妻。
??保??,退?触藩羝。
高蹈??外,?揖?夷?。
其二
青谿千?仞,中有一道士。
云生梁??,?出窗?里。
借?此何??云是鬼谷子。
?迹企??,?河思洗耳。
??西南来,潜波??起。
?妃?我笑,粲然?玉?。
蹇脩?不存,要之将?使?
其三
翡翠???,容色更相?。
???高林,蒙?盖一山。
中有冥寂士,静??清弦。
放情陵霄外,嚼蕊??泉。
赤松?上游,??乘紫烟。
左?浮丘袖,右拍洪崖肩。
借?蜉蝣?,?知??年?
其四
六?安可?,?流有代?。
??感人思,已秋?愿夏。
淮海?微禽,吾生独不化。
?欲?丹谿,云?非我?。
愧无??コ,回日向三舍。
?川哀年?,?心独悲?。
其五
逸?思拂霄,迅足?游。
清源无?。安得??舟?
圭璋?特?,明月?暗投。
潜?怨青?,陵?哀素秋。
悲来?丹心,零泪??流。
其六
??寓??,?暖将??。
?舟涌海底,高浪?蓬莱。
神仙排云出,但?金?台。
陵??丹溜,容成?玉杯。
?娥?妙音,洪崖?其?。
升降随?烟,???九垓。
奇??五?,千?方?孩。
燕昭无?气,?武非仙才。
其七
晦朔如循?,月盈已?魄。
蓐收清西?,朱羲将由白。
寒露拂陵?,女?辞松柏。
蕣?不?朝,蜉蝣??夕?
?丘有奇草,?山出?液。
王?列八珍,安期?五石。
?揖当?人,去来山林客。 |
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425 曹毘 |
そうひ |
不詳(320-375) |
ショウ國(今安徽亳縣) |
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曹毘,東晉の文學家。字輔佐,ショウ國(今安徽亳縣)の人。《晉書・曹毘傳》載有集15卷に
みえる,已に佚している。今、存している詩文は嚴可均の所輯《全上古三代秦漢三國六朝文》
に收入されているが、和ロク欽が立した所輯《先秦漢魏晉南北朝詩》にある。曹毘は東晉文學家
として正文される。字は輔佐,ショウ國(今安徽亳縣)の人である。生卒年不詳とされているが古
詩源には、(320-375)とある。若くして文籍を好み、詩賦を善くした。蔡謨は挙げて佐著作郎とし
た。
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夜聴 |
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元帝 (東晋) 司馬睿 |
げんてい (しばえい) |
276年 〜322年 |
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元帝は、東晋の初代皇帝。諱は睿、字は景文。宣帝司馬懿の曾孫、琅邪武王司馬?の孫に
当たる。また、母方を通して夏侯淵の玄孫でもある。祖父は瑯邪武王司馬?、父は瑯邪恭王司
馬覲。生母は夏侯光姫(魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安王司馬渾がいる。元帝は江南におけ
る政権確立のため、王導の政治力を借り、また華北から亡命してきた皇族・貴族等の人材を取り
入れていく事になるが、これは元帝が即位前に名声を得ておらず江南の民衆を心服させられなか
った事が一因している。ただ元帝・王導らは政権確立の過程において将軍府の要職を在地の江
南人ではなく北来の亡命人で独占するという体制をとったために在地の江南豪族の不満を買い、
江南随一の豪族周氏により反乱を起こされたりもしている。ただ、そもそも江南豪族も決して一枚
岩では無かったため、これらの反乱は鎮圧された。以後、王導の主導の下に東晋政権は確固た
る地盤を築いていく事になる。
このような中で忠勇の軍人による北伐、中原快復運動も行なわれ、その中で最も気を吐いたの
は奮威将軍・豫州刺史の祖逖であり、彼は華北に攻め入ると後趙相手に奮闘して河北の南部
を奪取するまでに至ったが、当時の東晋の軍事力不足と元帝の消極政策、さらに内乱などもあり
北伐は最終的には失敗した。
元帝自身、華北から来た余所者であり、強力な権力・軍事力を有しているわけでは無く、反乱
鎮圧等で軍権を得ていた王敦(王導の従兄)の勢力が強大化して「王と馬と天下を共にす」とま
で言わしめるようになり、元帝は王敦と王導を中枢から遠ざけて王氏一族の勢力を押さえ込もうと
した。この施策に激怒した王敦は322年1月、挙兵して君側の奸である劉隗、?協らを除くと称して
武昌で挙兵し、建康守備の要衝である石頭城を落として政府軍を大いに破った。元帝は王敦に
勅使を送って謝罪し、この反乱は一応の決着を見たが、それから程なく322年に元帝は崩御し
た。
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別詩(別罷花枝不共攀) |
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426 王羲之 |
おうぎし |
303年 - 361年 |
琅邪郡臨沂県 |
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東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は
琅邪郡臨沂(現在の山東省)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身であ
る。行書・楷書・草書において古今に冠絶、その子王献之と共に二王と呼ばれる。「蘭亭序」「楽
毅論」「十七帖」などの作がある。
王 羲之(おう ぎし、?音: W?ng X?zh?、303年 - 361年)は、中国東晋の政治家・書家。字は
逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれている。本貫は琅邪郡臨沂県(現在の山
東省臨沂市蘭山区)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。
曾祖父は王覧(王祥の弟)、祖父は王正、父は王曠(東晋の淮南郡太守)。子に王玄之(長
男)、王凝之(次男)、王渙之(三男)、王粛之(四男)、王徽之(五男)、王操之(六男)、王
献之(七男)がいる。子孫に王髞V(徽之の子)、智永らがいる。
王羲之は、書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として書聖と称される。末子の王献之も書
を能くし、併せて二王の称をもって伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大な
ものがある。その書は日本においても奈良時代から手本とされている。
王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編纂された『淳化閣
帖』の影響が大きい。王羲之の作品としては、行書の『蘭亭序』が最も高名であるが、王羲之は
各体を能くし、唐の張懐?の撰『書断』では楷書・行書・草書・章草・飛白の5体を神品としてい
る。中国では多芸を重んじる傾向があり、王羲之の書が尊ばれる要因はここにある。『古今書人
優劣評』に、「王羲之の書の筆勢は、ひときは威勢がよく、竜が天門を跳ねるが如く、虎が鳳闕に
臥すが如し」と形容されている。
王羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける
清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名
士たちとの交遊を楽しんだ。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を
要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。
354年、かねてより羲之と不仲であった王述(琅邪王氏と遠縁筋の太原王氏出身)が会稽内史
を管轄する揚州刺史となる]。王羲之は王述の下になることを恥じ、会稽郡を揚州の行政機構か
らはずすよう要請したが却下された。王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、これに嫌気が
差した王羲之は、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も
会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を
過ごしたという。
"王羲之は幼い頃から鵞鳥が大好きであった。ある日のこと、一軒の家の前を通ると、鵞鳥の鳴
き声が聞こえてきたので、譲って欲しいと頼んだところ、一人の老婆が出て来てこれを断った。翌
日、鳴き声だけでも聞かせてもらおうと、友人の一人を伴って、老婆の家に赴いた。この姿を家の
窓から見つけた老婆は、すぐさま鵞鳥を焼いて食ってしまった。そして、老婆は彼に「鵞鳥は今食っ
てしまったところだよ」と答え、羲之は大変がっかりし、一日中溜め息をついていた。それから数日
後、鵞鳥をたくさん飼っている所を教えてくれる人がおり、その人に山の向こうの道観に案内され、
道士に「一羽でもいいから譲って欲しい」と頼んだところ、道士はこの人が王羲之と知って、「老子
の道徳経を書いて下さるなら、これらの鵞鳥を何羽でもあなたに差し上げます」と申した。彼は鵞
鳥欲しさに張りきって道徳経一巻を書きあげ、それを持参して行って鵞鳥を貰い、ずっと可愛がっ
たという。
"王羲之は興に乗ると手近な物に字を書いてしまう習性があった。ある日のこと、酒屋で酒を買っ
て帰る時に、店の主人が酒代を請求すると、羲之は酒代の代わりに壁に文字を書いたという。主
人がその文字を見ると「金」という文字であった。主人がその文字を薄く削って売ったところ、莫大な
値になり、その主人はおかげで裕福になったという。
またある日のこと、嘗て門人の家に行き、机の表面が非常に滑らかなのを見てそれに字を書いた
のだが、門人の父親がこの落書きを見つけて削ってしまい、後でこれに気付いた門人は、何日もふ
さぎ込んでいたという。
またある日のこと、羲之が町の中を歩いていると、一人の老婆が扇を売っており、彼は売っている
扇の何本かに五文字ずつ字を書いたところ、老婆は「どうしてくれる」と色をなして詰った。すると彼
は「『これは王羲之という人が書いたものです』と言って売れば、少し高くいっても、きっと買ってくれ
ます」と言ってその場を立ち去っていった。数日後、同じ場所を通ると、先日の老婆が彼を見つけ
て、「今日はこの扇に全部書いてください」と頼んだのだが、彼はただ微笑んだだけで、そのまま立ち
去っていったという。
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「蘭亭序」(353)「楽毅論」「十七帖」 |
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427 陶淵明(陶潜) |
とうえんめい とうせん |
365〜427 |
江西の人 |
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六朝時代の東晋の詩人。江西の人。名は潜。淵明は字(あざな)。一説に名は淵明、字は元
亮(げんりょう)。官職に就いたが、束縛を嫌い、彭沢(ほうたく)県の県令を最後に「帰去来辞(きき
ょらいのじ)」を作って官を辞し、故郷へ戻った。自然を愛する田園生活を送り、すぐれた詩を残し
た。詩では「飲酒」、文では「桃花源記」が有名。五柳先生。
「飲酒」 「桃花源記」 五柳先生。 51.責子 陶淵明
停雲
靄靄停雲,濛濛時雨。八表同昏,平路伊阻。靜寄東軒,春醪獨撫。良朋悠?,?首延佇。
停雲靄靄,時雨濛濛。八表同昏,平陸成江。有酒有酒,闊東窗。願言懷人,舟車靡從。
東園之樹,枝條載榮。競用新好,以怡余情。人亦有言,日月於征。安得促席,?彼平生。
翩翩飛鳥,息我庭柯。斂?闔~,好聲相和。豈無他人,念子實多。願言不獲,抱恨如何!
時運
邁邁時運,穆穆良朝。襲我春服,薄言東郊。山滌餘靄,宇曖微霄。有風自南,翼彼新苗。
洋洋平澤,乃漱乃濯。??遐景,載欣載矚。稱心而言,人亦易足。揮茲一觴,陶然自樂。
延目中流,悠悠清沂。童冠齊業,濶r以歸。我愛其靜,寤寐交揮。但恨殊世,?不可追。
斯晨斯夕,言息其廬。花藥分列,林竹翳如。清琴床,濁酒半壺。?唐莫逮,慨獨在余。
勸農
悠悠上古,厥初生民,傲然自足,抱朴含真。智巧既萌,資待靡因。誰其贍之?實ョ哲
人。
哲人伊何?時惟后稷;贍之伊何?實曰播植。舜既躬耕,禹亦稼穡,遠若周典,八政始
食。
熙熙令音,猗猗原陸。卉木繁榮,和風清穆。紛紛士女,趨時競逐,桑婦宵興,農夫野宿。
氣節易過,和澤難久。冀缺攜儷,沮溺結?。相彼賢達,猶勤壟畝,矧伊衆庶,曳裾拱手!
民生在勤,勤則不匱。宴安自逸,?暮奚冀?擔石不儲,飢寒交至。顧余儔列,能不懷愧。
孔耽道コ,樊須是鄙;董樂琴書,田園弗履。若能超然,投跡高軌,敢不斂衽,敬讚コ美。
現存する陶淵明の作品は、詩・散文を合わせて130余首が伝えられる。その中でも「田園詩」と
呼ばれる、江南の田園風景を背景に、官吏としての世俗の生活に背を向け、いわゆる晴耕雨読
の生活を主題とする一連の作品は、同時代および後世の人々から理想の隠逸生活の体現とし
て高い評価を得た。隠逸への希求を主題とする作品は、陶淵明以前にも「招隠詩」「遊仙詩」な
どが存在し、陶淵明が生きた東晋の時代に一世を風靡した「玄言詩」の一部もそれに当てはま
る。しかし、これらの作品の多くで詠われる内容は、当時流行した玄学の影響をうけ、世俗から完
全に切り離された隠者の生活や観念的な老荘の哲理に終始するものであった。陶淵明の作品に
おける隠逸は、それらに影響を受けつつも、自らの日常生活の体験に根ざした具体的な内実を
持ったものとして描かれており、詩としての豊かな抒情性を失わないところに大きな相違点がある。
陶淵明は同時代においては、「古今隠逸詩人の宗」[9]という評に見られるように、隠逸を主題と
する一連の作品を残したユニークな詩人として、梁の昭明太子の「余、其の文を愛し嗜み、手より
釈く能はず、尚ほ其の徳を想ひ、時を同じくせざるを恨む」[10]のような一部の愛好者を獲得して
いた。一方、修辞の方面では、魏晋南北朝時代の貴族文学を代表するきらびやかで新奇な表
現を追求する傾向から距離を置き、飾り気のない表現を心がけた点に特徴がある。このような修
辞面での特徴は、隠逸詩人としての側面とは異なり、鍾エが紹介する「世、其の質直を嘆ず」の
世評のように、同時代の文学者には受け入れられなかったが、唐代になると次第に評価されはじ
め、宋代以降には、「淵明、詩を作ること多からず。然れどもその詩、質にして実は綺、?にして実
は腴なり」[11]のように高い評価が確立するようになる。
陶淵明には詩のほかにも、辞賦・散文に12篇の作品がある。「帰去来の辞」や「桃花源記」が特
に有名である。前者は彭沢令を辞任した時に書かれたとされ、陶淵明の「田園詩人」「隠逸詩
人」としての代表的側面が描かれた作品である。後者は、当時の中国文学では数少ないフィクシ
ョンであり東洋版のユートピア・理想郷の表現である桃源郷の語源となった作品として名高い。他
にも自伝的作品とされる「五柳先生伝」や、非常に艶やかな内容で、隠者としての一般的なイメ
ージにそぐわないことから、愛好者である昭明太子に「白璧の微瑕」と評された「閑情の賦」などが
ある。
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<文選・詩>
始作鎮軍參軍經曲阿作
辛丑?七月赴假還江陵夜行塗
口
挽歌詩
陶淵明雜詩二首
詠貧士詩
讀山海經詩
陶淵明擬古詩
<古詩源>
命子
酬丁柴桑二章
歸鳥四章
遊斜川
答?參軍
五月旦作和戴主簿
九日闍
和劉柴桑
酬劉柴桑
和郭主簿二首
贈羊長史
癸卯?十二月中作與從弟敬遠
始作鎮軍參軍經曲阿作
辛丑?七月赴假還江陵夜行途
中作
桃花源詩【並記】
歸田園居五首
與殷晉安別
乞食
諸人共游周家墓柏下
移居二首
癸卯?始春懷古田舍二首
庚戌?九月中於西田獲早稻
丙辰?八月中於下?田舍獲
飲酒
有會而作
擬古
雜詩
詠貧士
詠荊軻 讀山海經 擬輓歌詞
《文選・文>
帰去来
<玉臺新詠>
掲載作品無し |
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428 謝混 |
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429 呉隱之 |
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430 廬山諸道人 |
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431 恵遠 |
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432 帛道蘊 |
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433 趙整 |
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435 僧肇(そうじょう) |
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魏晋時代,東晋の僧。鳩摩羅什の門下で〈解空(げくう)第一〉と称され,竜樹の空の思想を仏
教の基礎としようとした。著書《肇論》4巻は魏晋仏教の代表的著作。 |
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元帝 僧肇
ID |
詩人名 / 事項 |
よみかな |
作品名 |
8 |
元帝 (東晋)276年 〜322年 |
別詩(別罷花枝
不共攀) |
元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝。河内郡温県の人。魏の司馬懿の曾孫に当たる。祖父は瑯邪武王司馬?、父は瑯邪恭王司馬覲。生母は夏侯光姫(魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安王司馬渾がいる。 |
79 |
王羲之 おうぎし |
303年 - 361年 |
東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。行書・楷書・草書において古今に冠絶、その子王献之と共に二王と呼ばれる。「蘭亭序」「楽毅論」「十七帖」などの作がある。 |
「蘭亭序」(353)「楽毅論」「十七帖」 |
0 |
とうえんめい |
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81 |
僧肇(そうじょう) |
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(374/384―414) |
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南北朝時代 439〜589
中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。
南北朝 |
宋 |
北魏 |
斉 |
梁 |
西魏 |
東魏 |
陳 |
北周 |
北斉 |
隋(ずい、581年 -618年) |
この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。
また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。
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ID |
詩人名 / 事項 |
よみかな |
作品名 |
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永明体 |
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91 |
謝霊運 しゃれいうん |
385〜433 |
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南朝の宋の詩人。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。 |
東陽谿中贈答 |
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92 |
顔 延之(がん えんし) |
384年- 456年 |
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、)は中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる。 |
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93 |
鮑照 ほうしょう |
412頃-466 |
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六朝時代、宋の詩人。字(あざな)は明遠。元嘉年間の三大詩人の一人として謝霊運・顔延之と併称された。 |
擬行路難, 代出自薊北門行 |
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竟陵八友:南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人 (@蕭衍・A沈約・B謝?・C王融・D蕭?・E范雲・F任ム・G陸?) |
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94 |
B謝眺 (しゃちょう) |
464年- 499 |
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南北朝時代、南斉の詩人。現存する詩は200首余り、その内容は代表作とされる山水詩のほか、花鳥風月や器物を詠じた詠物詩、友人・同僚との唱和・離別の詩、楽府詩などが大半を占める。竟陵八友のひとり
謝眺詩 @玉階怨A王孫遊B金谷聚C同王主薄有所思D遊東田 |
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95 |
鮑令暉 ほうれいこん |
生卒年不詳。 |
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南朝宋女詩人。東海(現在山東?城)の人。鮑照の妹。鮑令暉も詩人として知られる。 略歴いわゆる寒門の貧しい家柄に生まれる。元嘉 (南朝宋)ごろに臨川王劉義慶に認められて国侍郎、太学博士、中書舎人となる。荊州刺史の臨海王劉子?のもとで前軍参軍の職につく。劉子?の反乱で乱戦のうちに殺害された鍾エ《詩品》??是南齊人,但從鮑照的《請假?》中講到僅有的一個妹妹死去等語看來,?似乎在宋孝武帝時就已去世。其詩見於《玉台新詠》。今人錢仲聯《鮑參軍集注》附有鮑令暉詩。 |
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96 |
F任 ム (じん ぼう) |
460年- 508年 |
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中国南北朝時代の文学者。字は彦昇。小字は阿堆。楽安博昌(現山東省寿光市)の人。南斉の竟陵王蕭子良のもとに集まった文人「竟陵八友」の1人。散文の分野で高く評価され、南斉・梁の時代に多くの表奏を手がけた。同じ八友の1人で、詩にすぐれた沈約に対し、「任筆沈詩」と称される。著作に『述異記』『文章縁起』(偽作説もあり)。 |
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97 |
A沈約 (しんやく) |
441年- 513年 |
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南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。 |
二十一史・宋書 |
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98 |
C王融 おうゆう |
467年- 493年 |
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南北朝時代、南斉の政治家・文学者。字は元長。琅邪臨沂(現山東省臨沂市)の人。六朝時代を代表する名門貴族、琅邪王氏の出身。名門の出身に加えて文才にも優れ、南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人「竟陵八友」の1人に数えられ、同じく八友の仲間である沈約・謝?らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。 |
三月三日曲水詩序 |
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99 |
蘇小小 そしょうしょう |
未詳 |
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錢唐蘇小:南斉(南齊)時代の銭塘の名妓。才色兼備の誉れが高かった。銭塘の蘇小小。 ・銭唐:現・浙江省杭州市。「銭塘」のこと。唐代に「唐」字を避けて「錢唐」を「銭塘」とした。 |
歌一首 |
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100 |
孔稚珪 こうちけい |
447〜501 |
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会稽郡山陰の出身。字は徳璋。学問・詩文に優れ、蕭道成に文才を認められて起室参軍とされ、永明年間に王植の『晋律』改修にも参与した。廷尉、御史中丞と進み、493年の鬱林王即位に際して王融を告発して自殺させ、明帝より南郡太守とされ、東昏侯のときに太子・事・散騎常侍に至った。 |
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101 |
刑邵 (けいしょう) |
496〜561 |
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北朝斉文学家。字は子才。河?□(今の河北任丘北)人。 |
思公子(綺羅日減帶) |
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102 |
斛律金(こくりつきん) |
488年- 567年 |
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中国の東魏・北斉の軍人。騎射を得意とし、用兵は匈奴の法を学び、塵を見て敵軍の数を知り、地を嗅いで敵軍の遠近を知ったと言われる。 |
?勒歌 五噫歌 |
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103 |
鍾エ (しょうえい) |
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469〜518 |
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字は仲偉。潁川郡長社の人。斉の永明年間に国子生となる。秀才に挙げられ、王国侍郎に任ぜられた。のち安国令となった。梁に入って、晋安王・蕭綱の記室をつとめた。漢魏以来の五言詩の優劣を論じ、『詩評』にまとめた。 |
『詩品』 |
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104 |
@蕭衍(しょうえん)梁武帝 |
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464〜502〜549 |
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南朝梁の初代皇帝。蕭衍(しょうえん)南蘭陵(江蘇省)の蕭氏の一門であり、南斉宗室の支族に当たる。父の順之は南斉の高帝蕭道成の族弟であり、丹陽の尹であった。若い頃より文武両面において注目され、南斉時代で文化の中心であった竟陵王蕭子良の西邸にも出入りし、沈約らと共に八友の一人に数えられた。 |
河中之水歌 遊女曲(氛?蘭麝體芳滑) 子夜歌(朝日照綺錢) |
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105 |
E范雲 はんうん |
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451年- 503 |
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南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。451年(元嘉8年)、南郷舞陽(現在の河南省沁陽)で生まれる。斉及び梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、蕭?と共に北魏に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右僕射)に任じられ、その清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。 |
別詩 「贈張徐州稷」 「古意贈王中書」 |
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106 |
何遜 (かそん) |
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未詳〜518 |
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何 遜(か そん、467年?-518年?)は中国南北朝時代の文学者。東海?の人。字は仲言。曾祖父は何承天。幼少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時の文壇の重鎮であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしばしば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており、謝?とならび、唐詩の先駆とみなされている。 |
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107 |
王籍 おうせき |
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502〜519 |
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南梁(502〜557)(おうせき 502〜519) 南北朝時代・梁の詩人。五言詩「入若耶溪」中の「蝉噪林逾静 鳥鳴山更幽」対句はあまりに有名です。 |
入若耶渓 |
梁 |
108 |
G陸垂 (りくすい) |
470年 - 526年 |
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陸?(りく すい、470年 - 526年)は、南朝斉から梁にかけての官僚・文人。竟陵八友のひとりとして知られる。字は佐公。本貫は呉郡呉県。斉の太常卿の陸慧曉の子として生まれた。若くして学問にはげみ、文章を得意とした。17歳のとき、揚州の秀才に挙げられた。竟陵王蕭子良が鶏籠山に西邸を開いて当時の優れた文人たちを集めると、陸?はこれに参加した。議曹従事参軍として召され、廬陵王法曹行参軍に転じた。
梁の天監初年、安成王蕭秀の下で右軍外兵参軍となり、主簿に転じた。臨川王蕭宏の下に転じて、驃騎東曹掾をつとめた。武帝の命により「新漏刻銘」の刻字を選び、その文章の美しいことで知られた。太子中舎人に転じ、東宮の書記を管掌した。また武帝の命により「石闕銘記」を作って奏上した。太子庶子・国子博士に転じたが、母が死去したため、辞職して喪に服した。喪が明けると、中書侍郎となり、給事黄門侍郎・揚州別駕従事史をつとめた。病のために解任を願い出て、鴻臚卿に転じた。入朝して吏部郎となり、参選事をつとめた。
晋安王蕭綱の下に転じて雲麾長史・尋陽郡太守・行江州府州事として出向した。公の事件のためにひとたび免官され、中書侍郎・司徒司馬・太子中庶子・廷尉卿を歴任した。再び太子中庶子となり、給事中・揚州大中正の任を加えられた。また中庶子・中正のまま国子博士に任じられた。さらに中正のまま太常卿を代行した。526年(普通7年)、死去した。享年は57。文集20巻があり、当時に通行した。 |
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109 |
D蕭鎮 (しょうちん) |
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蕭 ?(しょう ちん、480年 - 531年)は、南朝斉から梁にかけての官僚・文人。竟陵八友のひとりとして知られる。字は彦瑜。本貫は南蘭陵郡蘭陵県。
宋の太中大夫の蕭恵訓の子として生まれた。数歳のときに従伯父の蕭恵開が「必ずやわが一族を興さん」と言ってかれの背中を撫でた。蕭?は若くして賢明で理解が早く、弁論の才能があった。斉の太学博士を初任とした。王倹が楽遊苑で宴会を開いたとき、蕭?は虎皮の靴を履き、桃の枝を鞭として、王倹に面会して語り合い、気に入られた。王倹が丹陽尹となると、蕭?は召し出されて主簿となった。南徐州の秀才として挙げられ、諸官を歴任して司徒記室となった。
491年(永明9年)、斉が北魏と講和すると、蕭?は命を受けて北魏の都の平城におもむいた。帰国すると、通直散騎侍郎となった。北魏の使者の李道固が来朝すると、武帝が宴会を開いた。蕭?が道固に酒を勧めたところ、道固は「公庭に私礼なく、勧めを受けることはできません」と言って受けなかった。そこで蕭?は「『詩経』に『我が公田に雨ふり、ついに我が私田に及ぶ』と言っています」と答えた。座にいる者はみな感服し、道固は蕭?の酒を受けた。
蕭?は司徒右長史に転じた。晋熙王長史・行南徐州事として出向した。建康に召還されて少府卿・尚書左丞を兼ねた。
東昏侯が即位すると、即位時に祖廟に拝礼する儀礼の典拠が議論された。蕭?は『詩経』周頌の烈文篇や閔予小子篇に即位時の朝廟の典拠があると主張し、かれの意見が採用された。蕭衍が建康を制圧すると、蕭?は驃騎諮議として召し出され、録事を兼ね、給事黄門侍郎に転じた。蕭衍が梁公となると、蕭?は御史中丞となった。
502年(天監元年)、梁の武帝(蕭衍)が即位すると、蕭?は太子庶子に転じ、宣城郡太守として出向した。建康に召還されて衛尉卿となり、まもなく員外散騎常侍に転じた。504年(天監3年)、太子中庶子・散騎常侍に任じられた。510年(天監9年)、寧遠将軍・平西長史・江夏郡太守として出向した。
かつて蕭?が宣城郡太守であったとき、北魏の僧が南に渡ってきて、ひょうたんの中に『漢書』の序伝を入れてもたらした。僧は「三輔の旧老が代々伝えたもので、班固の真本である」と主張した。蕭?が強く求めてこれを入手すると、その書は当時伝わっていたものとは多くの異同があり、紙や墨もまた古く、文字の多くは龍挙の例のごとくで隷書でも篆書でもなかったため、蕭?はこれを秘蔵した。蕭?が江夏郡に赴任するにあたって、この書を?陽王蕭範に与えると、蕭範は昭明太子に献上した。
まもなく蕭?は安西長史・南郡太守に転じた。母が死去すると、官を去って喪に服したが、さらに父の死去が続いた。喪が明けると信武将軍・護軍長史として再起し、まもなく貞毅将軍・太尉長史となった。信威将軍・東陽郡太守として出向し、呉興郡太守に転じた。呉興郡に項羽の廟があり、現地の民は憤王と呼んで、霊験高いとされていた。呉興郡は郡庁の中に憤王の神座を設けて、以前の太守たちはみな庁内の祠を拝むようになっていた。蕭?が呉興郡に赴任すると、庁内の神座を廟に帰した。牛を殺して祟りを避ける風習を禁止し、干し肉を肉に代えた。
520年(普通元年)、召還されて宗正卿となり、左民尚書に転じ、南徐州大中正・太子右衛率を兼ねた。度支尚書・左驍騎将軍・領軍将軍に転じ、秘書監・後軍将軍となり、侍中に転じた。
武帝は西邸にいたころから蕭?と親しくつきあっており、朝に宴会を開くごとに、蕭?のことを「宗老」と呼んで尊敬を示した。蕭?はつねづね「少壮のころは音律・書・酒の3つを好んでいました。歳をとって以来、音律と酒はやめてしまったものの、ただ書籍については衰えません」と言っていた。
528年(大通2年)、金紫光禄大夫となり、特進を加えられた。529年(中大通元年)、雲麾将軍・晋陵郡太守とされたが、病のために自ら辞職し、侍中・特進・金紫光禄大夫の位を受けた。531年(中大通3年)2月乙卯、死去した。享年は52。本官に加えて雲麾将軍の位を追贈された。諡は平子といった。
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梁 |
110 |
萸信 (ゆしん) |
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513年-581年 |
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は、中国南北朝時代の文学者。字は子山。南陽郡新野の人。萸新肩吾の子。南朝の梁に生まれ、前半生は皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍した。侯景の乱後の後半生は、やむなく北朝の北周に身を置くことになり、代表作「哀江南賦」をはじめ、江南を追慕する哀切な内容の作品を残した。 |
寄王琳
秋夜望単飛雁 |
梁 |
111 |
王褒 (おうほう) |
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513〜576 |
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琅邪郡臨沂の出身。字は子淵。梁の武帝に仕えて清官を歴任し、蕭子雲に草書・隷書を学んで師と共に令名があり、顧野王とも二絶と併称され、元帝が即位すると吏部尚書・右僕射に進んだ。 |
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梁・陳 |
112 |
徐 陵 (じょりょう) |
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507年- 583年 |
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中国南北朝時代、梁・陳の文学者・政治家。字は孝穆。本籍地は東海郡?県(現山東省)。梁では父親の徐?、?肩吾・?信父子とともに、皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍し、「徐?体」という艶麗な詩風を確立した。侯景の乱の混乱により、一時期北朝の東魏・北斉に抑留されたが、後に江南に帰り、陳でも文壇の大御所的存在として「一代の文宗」と称えられた。詩集『玉台新詠』は、皇太子蕭綱の命により徐陵が編纂したとされ、その序文は六朝時代の駢文の傑作として名高い。 |
『玉台新詠』 |
隋 隋(ずい、581年 -618年)中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した(西晋の実質的な統一期間は30年間もないため、黄巾の乱によって中国が分裂時代に入ってから数えれば400年ぶりとなる)。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(長安、現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。
581 煬帝 582 楊素 583 廬思道 584 薛道衡 585 廬世基
586 孫萬壽 587 王冑 588 尹式 589 孔徳紹 590 孔紹安
591 陳子良 592 王申禮 593 呂譲 594 明餘慶 595 大義公主
(ええん)
こ
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ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 |
作品/記事 |
作品/記事 |
作品/記事 |
作品/記事 |
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隋 581年 -618年 |
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僧慧遠 |
そうけいえん |
523 - 592 |
無量寿経義疏 |
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江總 |
こうりく |
519 - 594 |
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陸法言 |
ほうげんそう |
不明(隋の時活躍) |
切韻 |
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崔ヒョウ |
さいひょう |
531 - 602 |
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楊堅 |
ようけん |
541 - 604 |
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楊素 |
ようそ |
? - 606年 |
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薛道衡 |
せつどうこう |
540年 - 609年 |
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房彦謙 |
ぼうげんけん |
547 - 615 |
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テキ譲て |
てきじょう |
? - 617年 |
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王通 |
おうつう |
584 - 618 |
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煬帝 |
ようだい |
569 - 618 |
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廬世基 |
ろせいき |
? - 618 |
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孫萬壽 |
そんまんじゅ |
生没年不詳 |
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王冑 |
おうちゅう |
生没年不詳 |
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尹式 |
いんしき |
生没年不詳 |
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孔徳紹 |
こうとくしょう |
生没年不詳 |
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孔紹安 |
こうしょうあん |
577年−622年 |
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陳子良 |
ちんしりょう |
? - 632年 |
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王申禮 |
おうしんれい |
不明(隋の時活躍) |
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呂譲 |
りょじょう |
不明(隋の時活躍) |
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明餘慶 |
めいよけい |
不明(隋の時活躍) |
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大義公主 |
たいぎこうしゅ |
不明(隋の時活躍) |
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ID |
詩人名 / 事項 |
よみかな |
作品名 |
113 |
陰鏗 (いんけん) |
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(?〜?) |
字は子堅。武威郡姑臧の人。はじめ梁の湘東王の法曹参軍となった。陳の天嘉年間に、始興王の中録事参軍となり、のちに晋陵太守・員外散騎常侍に上った。詩人として何遜と並び称された。『陰常侍詩集』。 |
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114 |
楊 素 (よう そ |
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? - 606年 |
中国の隋の政治家・軍人。隋の上柱国、司徒、楚景武公に上った。字は処道(正字は處道)。弘農郡華陰県(陝西省渭南市)の出身である。隋の帝室である楊氏(鮮卑普六茹部)とは別系統にあたる。
楊素は、楊敷の子として生まれた。楊敷は、北周の天和年間に汾州刺史となり、北斉の将軍の段韶の攻撃を受けて捕らえられた。北斉は楊敷を任用しようとしたが、楊敷は屈することなく?で没した。 |
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115 |
薛道衡 (せつどうこう) |
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540年- 609年 |
南北朝時代および隋の文学者。北朝および隋を代表する文学者で「一代の文宗」と称えられたが、煬帝にその文才をねたまれ処刑された。 |
0 |
科挙を施行 |
116 |
観徳王・楊雄(ようゆう) |
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542年- 612年 |
楊雄(よう ゆう、)は、中国の隋の皇族。観徳王。もとの名は恵。文帝楊堅の族子にあたる。 |
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