万里の長城關221所
万里の長城 |
万里の長城221所
紀元前7世紀から建設が始まった長城は、各時代を合計すると5万kmを超える。文化遺産の主要な関所・砦の二百余カ所がある。
T.主要部分30カ所
玉門関
従軍行 王昌齢 涼州詞 王之渙
1、
玉門関(ぎょくもんかん)は俗称を小方盤城といい、甘粛省敦煌市の西北約90キロにある。シルクロードの重要な関所の一つとして、漢と唐二度に渡り建立された。漢の武帝が匈奴防衛のため、また西域各国との通交のため各所に障壁や烽火台を築いた。それは元鼎六年(紀元前111)に令居(今の甘粛省永登県)から酒泉へ、元封四年(前107)には酒泉から玉門関へ至った。玉門関の西方5キロに、今も不完全ながら漢代の長城があり、砂と石の中にアシを補強材に入れて築かれ、烽火台も残っている。
2、
嘉峪関(かよくかん):甘粛省嘉峪関市にあって河西回廊の咽喉もとにある。「河西回廊(かせいかいろう)」(河西走廊〈そうろう〉とも)とは蘭州の黄河西のことで幅数10キロ、東西約1000キロに及ぶ細長い地域。古代の河西四郡つまり武威(涼州)、張掖(甘州)、酒泉(粛州)、敦煌(瓜州)」を含む。南には雪をかぶる祁連山、北は北山(馬ソウ山、合黎山および龍首山)やテングル砂漠やバダインジャラン砂漠が続いている。ここは河西第一の関所で歴代王朝の重要な防御施設であり、また古代シルクロードと東西文化が交流する交通の要道であった。嘉峪関は明代の1372年に着工。城砦は内側と外側の二重の城壁を持ち、「城内にまた城あり」の構造。常時400人の兵士が駐留していたと伝わる。保存状態は良く雄大な感じを受ける。東西両門の上に光化楼、柔遠楼など三つ の楼閣が残っている。
3、
駱駝城(らくだじょう):甘粛省高台県(酒泉と張掖の間)の西南20キロにある。ここは漢代の城堡の一つで、5世紀初めの北凉の古都、唐代の重鎮駱駝城の遺跡として残っている。駱駝城遺跡は南北に分かれており、総面積30.77万平方メートル。南城の南北は長さ494メートル、東西425メートル。北城の東西は長さ425メートル、南北210メートル。全体は外廊、宮城、皇城三層に分かれ、外城の瓮城、馬面、敵台、角トン、城垣等の付属施設も基本的に残っている。城の西南2キロに"羊蹄鼓城"と呼ばれる小方城があり、長さ55メートル、幅40メートルで東に城門が一つあり、主城の外周防御の堡塁となっている。
4、
西固城(せいこじょう):元は西古。甘粛省蘭州市西固区にあり今も一部城垣が残り、正方形であった。ここは蘭州市内西部の繁華街の一つで鉄道の駅もあり西固区の中心となっている。『西固区志』によれば西古城は宋代の元ホウ四年に修建の西関堡で、西固川の西南部にあり、南の山丘と約1キロ、北は黄河南岸へ約2.5キロ離れている。明代に修理され、清の同治二年(1863)募金や同郷人の動員などをして修理。同治五年に戦乱を避け村民が城に入り、城壁を堅固に保全するため西固城と変えた。
5、
烏鞘嶺(うしょうれい):古シルクロードの要道にして歴代の軍事要衝。武威市と蘭州市の間、甘粛省天祝チベット族自治県中部にあり、チベット語ではハーシャンリーという。祁連山脈の北支脈・冷龍嶺の東南端に属し隴中高原と河西回廊の天然の境界になっている。漢、明の二本の長城が見られる。関所、烽火台跡があり、長城が西へ延びている。376年、前秦が前涼を攻めたとき前涼の三万の兵士が烏鞘嶺で大敗を喫し前涼は遂亡した。張騫が西域へ出使したとき、唐の玄奘法師がインドへの取経に向ったときこの山嶺を越えている。
6、
漢の長城は明の長城の東にあり、初めは漢の元狩三年(紀元前120年)コウ土板築(コウの字は大の下に力)で建造された。今は自然風化によってかなり崩壊しており、ルート上の烽燧トンの多くは饅頭状になっている。
7、
明の長城の大部分は保存状態はかなりよいほうである。明の万暦二十七年(1599)の建造で壁はみなコウ土板築で幅2.5メートルから3メートル。高さは2.5メートルから6メートル。
8、
鎖陽城(さくようじょう):原名は苦峪城。鎖陽城遺跡は甘粛省安西県の東南約70キロにある。酒泉・敦煌間のシルクロード上の交通的要塞で、地勢険要。漢代に建てられ敦煌郡冥安県の治所となった。城址は荒漠中にあり、南北2城に分かれる。北城は東西約700メートル、南北約200メートル。南城は東西430メートル、南北470メートルが、城外には烽燧、箭台などが残っている。
9、
陽関(ようかん):盛唐の詩人・王維の詩で知られる陽関。
陽関の烽火台
陽関は甘粛省敦煌市の西南70キロにあり、古代シルクロードの関所である。前漢に関所がおかれ玉門関の南(陽)にあったことからこの名がある。玉門関と並んで西域交通の門戸であった。前漢時代は陽関都尉の治所であり、魏晋時代は陽関県が置かれた。唐代には寿昌県がおかれた。宋・元代以後は西方との陸路交通がだんだんと衰退し、関所も廃棄された。清代には紅山口といわれ
ていた。
10、
殺王坡(さつおうは):甘粛省臨トウ県の北15キロ殺王坡にある。この部分の長城は秦の始皇帝時代のもので中国早期の長 城遺跡として重要である。
11、峡口(きょうこう):甘粛省山丹県にある。峡口附近の長城の保存はよくコウ土築の長城と大きなコウ土のトン台が国道沿いに建っている。山丹県には現有の漢代長城は壕溝で60キロ、烽燧は19座があり、明代の長城はコウ土壁(辺ショウ)が98キロ、烽燧64座がある。
12、
頭トン営(とうとんえい):甘粛省武威市頭トン営。砂漠の中にコウ土の城堡遺跡が残っている。このあたりからは新石器時代の模様をつけた彩陶が出土している。
13、
張掖城(ちょうえきじょう):今の甘粛省張掖市。紀元前121年漢の武帝は霍去病将軍を西征させ匈奴を打破したあと張掖郡を設けた。匈奴の腕を切段した、中国の掖(わき・腋)を空けた(張)意味からの地名になったという。古い張掖城は張掖市の西北15キロにある黒水国城堡遺址(カラホト)でふたつの城塁が南北に2キロ隔てて相対し、その間を蘭新自動車道路が通っている。
14、
索橋堡(さくきょうほ):蘭州市の遥か北方、甘粛省景泰県にある明の長城関堡。長城は南へ1.5キロ。索橋古渡はシルクロード北ルートの重要な渡し口。黄河の両岸に索柱を建て、ロープやクサリを渡しそこに木舟や羊皮イカダを並べ橋の代わりとした。明代に 設置された記録がある。堡はとりで。
15、
芦塘堡(ろとうほ):甘粛省景泰県にある明の長城関堡。今は芦陽という。古書によれば「周囲二里、明の万暦二十七年(159
9)創建、駐屯の将兵干人余、辺城五十里」という。損壊が激しいが何ヶ所かにコウ土の壁址が残っている。
16、
大靖城(だいせいじょう):烏鞘嶺毛毛山の北麓、甘粛省古浪県にあり(武威市の東南部)、東北は内蒙古自治区と隣接する。古浪県は漢の蒼松県の地。明代に古浪守御千戸所が置かれた。今は大景という。長城の壁の多くは崩壊して堆土がわずかに地面から3メートル、所によっては1メートル位の高さに見られる。
17、
土門堡(どもんほ):甘粛省古浪県にあり。黄土のコウ城壁が東から北へ延び常家庄に至る。長城の破壊が進んでいるがわずかな部分に遺跡が見られる。
18、
黒山堡(こくざんほ):甘粛省武威市の北方、砂漠の中の民勤県にあり。ここのコウ土城壁の保存状態はかなりよい。
19、
板橋堡(ばんきょうほ):甘粛省張掖市の北西、臨沢県にあり、かってはコウ土壁が残っていたが今は見られない。
20、
四ハ堡(しはほ):甘粛省臨沢県にあり。今は不連続の壁体が残る。
21、
エン脂堡(えんしほ):甘粛省高台県(臨沢県のさらに北西)にあり。城の大部分は不明。
22、
居庸関(きょようかん):北京の昌平区南口県にあり北京から60キロ。万里の長城の要所要所にある関所の一つ。秦代に始皇帝が長城建設を命じ、工事のため、集められた人々がここに移住させられたという意味の「徙居庸徒(しきょようと)」に由来するという。歴史的には春秋戦国時代に燕国はここを重要な出入り口として"塞"を置いたことに始まる。漢代には居庸関の規模も大きくなり、南北朝時期には関城ができ長城が連なった。その後、唐、遼、金、元と重要な関城となってきた。
●八達嶺長城(はったつれいちょうじょう):北京市延慶県にあり。おなじみの最も観光客の多い長城。
●八達嶺水関長城(はったつれいすいかんちょうじょう):八達嶺ヘの途中にあり河谷中に建てられた珍しい長城。
●九眼楼長城(きゅうがんろう):北京市延慶県にあり。長城上の建築規模は最大といわれる。
●箭扣長城(せんこうちょうじょう):北京市懐柔区にあり。明代長城で著名な峻険な部分のひとつ。
●雲蒙山長城(うんもうさんちょうじょう):北京市密雲ダムの西にあり。明代長城。
23、司馬台(しばだい):北京から120キロの密雲県東庄郷にあり。観光地として知られる。明の洪武初年に建設が始まる。司馬台長城は全長5.4キロ、関所口の所はダムができている。長城の高所にある望京楼は海拔986メートル。
戦国期の長城
前漢きの長城
司馬台長城の望京楼
24、慕田峪関(ぼでんよくかん):北京市懐柔区の中心部から北へ20キロ。観光地として開放されており整備部分の長城は約3キロ。
25、沿河城(えんがじょう):北京市門頭溝区河城郷。小規模な古城風景、多くは明代の建築。1991年から北京市文物局が沿河城の保護修理を実施。場内に百余の人家あり。
26、将軍関・将軍石関(しょうぐんかん・しょうぐんせきかん):北京市平谷県の東北約40キロ明の長城線上にある重要な関所。保存はかなりよい。
27、白馬関(はくばかん):北京市密雲県番字碑郷。古いままの長城が村落内に残る。
28、鹿皮関(かひかん):北京市密雲県中心部の北20キロ。白河が鹿皮関の下を流れる。長城創建は550-559年(北斉の天保年
間)で明の万歴年間に修理。関所は損壊しているが、長城上には望海楼が残る。
29、河防口(かぼうこう):北京市懐柔区、国道111号線の燕栖湖を過ぎて山上に延びる長城が見える。今は関所の跡は損壊して いる。
30、蓮花池関(れんかちかん):北京市懐柔区にあり、古くは開蓮口関、地元では欠糧関といった。明の薊鎮の重要関所。
31、黄花城関(こうかじょうかん):古くは黄花路また黄花鎮といった。北京市懐柔区九渡河鎮黄花城村東北にある。北京の北門にあたり、東の古北口、西の居庸関、北隣の四海冶口(延慶県)とともに戦略上重要な土地であった。明の長城の重要な関口として天順八年(1464)に建造、東城壁が現存する。城の東南に著名な敵楼の九眼楼がある。
黄花城関
32、撞道口関(とうどうこうかん):また鎮虜関ともいう。北京市懐柔区黄花城郷撞道口村。明代の建造、東に磨石口を臨み南に黄花城が近い。関城両側の長城は比較的よく保存されている。
33、九孔楼(きゅうこうろう):北京市懐柔県と延慶県の境界。楼の一部はすでに崩れている。
34、四海冶口(しかいやこう):北口子ともいう。北京市延慶県。関口の南五里に四海冶堡があったが今は損壊している。
35、山海関(さんがいかん):河北省と遼寧省の境にある。かつては長城の東端といわれてきた。漢代には臨楡関といわれ、12世紀の女真に対する防衛の要地であった。明代に山海衛が置かれてから山海関と呼ばれた。明末の満洲族の侵入を何度も防いだ。山海関が天下第一関と呼ばれるのは天下に名高い関所の意味よりも、東から数えて最初の関所の意味である。山海関は周囲約4キロ、城壁の高さは14メートル、厚さ7メートル、4つの城門のある城関で、現在の城関は明の洪武14年(1381年)の建造。約4キロ先の長城の東端は渤海に突き出た老龍頭である。そこから長城は角山へと登っていく。
36、井ケイ関(いけいかん):今の河北省井ケイ県西面の太行山にあり、"井ケイ"の口にあたるところからこの名がある。漢・唐代から知られた関所である。河北省鹿泉市の井荻道路北の東土門、西土門(古代の土門村)にあるのが土門関。古代の井ケイ口で、土門関は井ケイ関の一部分であった。井ケイ関は地域を指す意味で、東土門関は井ケイ関の東口を、西の関は娘子関で西口であっ た。井ケイ境内の古道である。
37、娘子関(にゃんずかん):井ケイ関の西口、山西省平定県から東北45キロ。唐の太宗の妹・平陽公主がここに駐兵したところからこの名がある。万里の長城第九関という。現在関門、城壁、古車馬道が残る。東門附近には百尺の高さという娘子関瀑布が見ら
れる。
38、雁門関(がんもんかん):また西ケイ関ともいう。山西省代県の西北20キロにあり。寧武関、偏頭関と合わせ"三関"という。
雁門関
39、寧武関(ねいぶかん):山西省寧武県にあり、明代中期の建造という。戦国時代趙の武霊王はここに楼煩関を置いて匈奴を防いだ。秦漢時代は楼煩県の地。今の県の南の寧化村は楼煩関の南口、県北の陽方口は楼煩関の北口であった。
40、偏頭関(へんとうかん):山西省西北の偏関県の黄河のそばにあり、内モンゴル自治区との境。
41、平型関(へいけいかん):山西省雁門関の東、今の山西省繁峙県東北と霊丘県境の平型嶺の下、古くは瓶形寨といった。明代の正コ六年(1151年)建造。平型関は正方型で南北に門がある。1937年9月25日、八路軍115師(師長林彪)と日本の板垣師 団との間で激しい戦闘が行なわれた。
42、古北口(こほっこう):北京市東北の密雲区にあり北京から100キロ。古北口鎮は首都の東北の大門で北京―承徳道路の峠である。北京市と河北、内蒙古等の地の重要な窓口で古くから"燕京門戸"、"京都重鎮"といわれている。ここは古北口文化文物旅遊区になっており臥虎山長城、蟠龍山長城、司馬台長城があるほか北斉長城がある。
43、喜峰口(きほうこう):河北省遷西県の西北50数キロにあり。明代の洪武初年に徐達将軍が燕山に築いた32座の重要な関所の一つ。関所は河谷の中にあり左右に山が迫る。抗日戦争時、中国軍と日本軍が激しい戦闘を行なった所である。1976年潘家口ダムができ喜峰口の関城は水中に沈没した。渇水期には関城の一部水中からでて見える。
44、瓦橋関(がきょうかん):河北省雄県の西南にあり。980年宋と遼の間で戦(瓦橋関之戦)があったことで知られる。
45、馬水口(ますいこう):河北省タク鹿県狼煙山麓にあり。関口は損壊しているが両側の長城は山へ延びている。壁体の多くは条石積み。損壊が進む。
46、倒馬関(とうまかん):北京西南の河北省保定市の西方、唐県の北75キロにあり、風景区になっている。倒馬関は歴史上有名な内三関の一つ。居庸関、紫荊関と合わせ"内之関"ともいう。倒馬関の関置はかなり早く『戦国策』にいう鴻上関、漢代の常山関。しかし建造の記録は明代である。倒馬関は上城・下城に分かれる。上城は明の洪武初年の建築でその後改名し上城口といい、下城は今の倒馬関城である。『楊家将』の楊六郎はここを守り遼の兵と戦った。
47、九門口(きゅうもんこう):山海関城の東北15キロ遼寧省綏中県にあり。また一片石関ともいう。明の洪武14年建築で重要な関所であった。1992年全面修復し観光地として開放された。九門口長城は峻険な山地にあり九道の水門が両山の間を横切り"水上長城"の名がある。また関城を通らず関外へ出る明の長城隧道がある。
48、老龍頭(ろうりゅうとう):山海関から約4キロ先の長城の東端が渤海の海岸に突き出ている老龍頭である。山海関旅游区の重要部分で観光地になっている。
49、董家口(とうかこう):董家口長城は河北省撫寧県東北部の崇山嶺にある。秦皇島市から38キロ。明代の建築で、山海関北翼の要塞であった。36の敵台、28の戦台、16の烽火台、3座の城堡があり、全長8.9キロ。最高海拔556メートル。
50、劉家口(りゅうかこう):河北省青龍県の南37キロにあり。関城はほとんどが損壊するも水楼は保存されている。桃林口から劉家口城は16キロで全部石壁でかなり残っている。
51、馬蘭関(まらんかん):河北省遵化県西北方、燕山山脈東段の馬蘭峪にあることから馬蘭峪関ともいう。明代長城建造時関を置く。蒙古の亡元残余勢力や東北部游牧民を防いだ。万里の長城・居庸関と山海関の1000キロに大小一百数十の関所があり明代は沿辺九鎮の一つ薊鎮が管轄。蘭峪関は薊鎮の東、中、西三路で中路の主要関所。ここから北行すると興隆、承コ,蒙古東部へ、 南下すると薊鎮、河北平原北部である。
52、新開口(しんかいこう):河北省万全県にあり。現在関城は損壊しているが関口一帯の長城壁は高さ約5メートルで残っている。新開口郷は天津宝チ県の西境でもある。長城の始建は明代(15世紀前後)。当時村は運粮河西岸にあって交通不便によりこの地に新しく渡し口を造った。ここから新開口の地名がついた。
53、插箭嶺関(そうせんれいかん):明の長城の関所、河北省ライ源県にあり。関城は損壊しているが土壁は残る。ここは倒馬関北の要衝として戦略上重要であった。
54、金山嶺(きんざんれい):河北省ルアン平県と北京市密雲県の境にあり、始建は明の洪武初年で隆慶、万歴年間にレンガを積む。敵楼は金山嶺長城の重要な構成部分で、20キロの間に100数座の各式敵楼がある。修復後の金山嶺長城は人気の観光スポットになり、国家重点文物保護単位(重要文化財)である。
55、独石口(どくせきこう):河北省赤城県の北、関口の所に一つの孤石があるところから命名された。明の長城宣府鎮上の関所である。多くは損壊しているが、外長城の独石口西三カ樹一帯だけ5キロの石積み長城が残り、崇山の稜線に延びている。
独石口
56、張家口(ちょうかこう):河北省張家口市。ここは紀元前300年ころの戦国時代の燕、趙から秦、漢、北魏、北斉、唐、金、から明代と2000年に渡って13段の長城が修築されてきた。その延長は1470数キロになる(重複部分は含まず)。河北省にある2000キロの長城のうち張家口でその3分の2、長城全部の約6分の1をを占める。ここにはレンガ積み、土コウ(大の字の下に力、突き固める意味)、石積み、土石混築、また石片干插、石塊干塁の長城もある。赤城県内の明代宣府鎮北路の長城は全長296キロで海拔1500メートルから2000メートルの10座の山峰に長城が通っており最高処は氷山梁で海拔2211メートルである。ここにはまた烽火台が多いことで知られ八百数座の烽火台があるといわれる。 長城の形成も様々な型があり、さながら長城博物館の様相である。張家口長城の現存部分の多くは明代の長城であり北京西北部 の防衛線として重要な役目を果たした。
57、馬市口(ばしこう):河北省懐安県馬市口村にあり。今は関口の防御建築物はないが付近の長城は黄土のコウ築で残ってい る。
58、羊房堡関(ようぼうほかん):河北省宣化県内にあり。明代の始建という。多くは碎石積みだが今は崩れ、関口は損壊し。関の南2キロに羊房堡城がある。
59、水口関(すいこうかん):河北省懐来県にあり、明の隆慶年間の建造という。修復はされてないがかなりの部分が残っている。
60、紫荊関(しけいかん):北京市の西南、河北省易県の西15キロ紫荊嶺上の海拔1,080 メートル東へ雲蒙山に連なり、北は拒馬河、南は寛南湖。紫荊関には九関門の称がある(戦国では五阮関、秦漢時代は上谷関、,北魏では子荘関、,隋唐時代は白壁関、その後は浦陰ケイ、宋では金坡関と九代にわたった)。今ここでは重点的な修復が行なわれている。
61、宣化城(せんかじょう):明の長城の宣府鎮の鎮城。北京の西北にあり、今は河北省宣化市人民政府所在地。歴代、北方の軍事重鎮"北方古城"といわれる。10キロ前後の城壁が残っている。三座の有名な城楼である鎮朔楼(旧街中心の鐘鼓楼)、清遠楼、拱極楼が残っている。
62、三屯営(さんとんえい):河北省遷西県三屯営鎮駐地。明代に三つの百戸長が三百の軍戸を率いここで屯田したところから三屯営と称した。三屯営城は明代薊州鎮府の駐地。
63、三道関(さんどうかん):河北省秦皇島市山海関の東北8キロにあり、山海関長城十座の関所の一つ"三道関"がここにある。三道関は外敵兵の侵入を三道三重の関口で防いだもの。長城もV字型に下って上っており。"長城倒挂"さかさま長城となっている。
64、大毛山関(だいもうさんかん):河北省撫寧県と遼寧省綏中県の境界。関門は損壊、遺跡があり城堡(とりで)が残り今の大毛山村がある。
65、義院口(ぎいんこう):義宛口ともいう,河北省撫寧県にあり。秦皇島市区の北36キロ秦青道路沿いで見学は便利。義院口の東西の長城は堅固だったが今は破損が進む。
66、界嶺口(かいれいこう):河北省撫寧県の北37キロにあり、関所が界嶺山の下に落座しているのでこの名がある。明の洪武13年(1381年)創建。喜峰口以東の関所の中で最大規模。
67、重峪口(じゅうよくこう):河北省廬龍県にあり、弘治十三年(1500)創建。明の長城?鎮の関所。重峪口の東西両辺の長城は多くが石積み、今は崩壊が進む。
68、徐流口(じょりゅうこう):河北省遷安県内にあり燕山山脈の最東端。関口は損壊しているが遺跡は残っている。古くは徐劉口という。明の長城の関所。
69、冷口関(れいこうかん):河北省遷安県東北35キロにあり。今は関城壁は壊れているがコウ土壁などが残っている。河北省の長城関所の多くは抗日戦争中に激しい戦闘が行なわれた土地でもある。冷口関もそうであった。
70、白洋峪関(はくようよくかん): 河北省遷安県にあり。今は東壁約200メートルが残るが破損が激しい。
71、青山関(せいざんかん):青山口ともいう。河北省遷西県内。南門の額"青山関""万歴二年(1574)十月吉旦創建立"の大字が見られる。青山口南の長城レンガ積みの保存はよい。青山関は観光地となっており、河北省唐山市遷西県北部から40キロ。遷西県内には87キロの明の長城がある。
72、潘家口(はんかこう):潘家口は古く廬龍寨といった。河北省寛城満族自治県内の潘家口ダムの中。今は関と関城は潘家口ダムの下に消えた。500数年前の喜峰口、潘家口城堡は明代の長城で二つとも重要な関所、この一帯の長城にはトン台21座、敵楼160座、長さ約50キロ。1975年のダム建設によって共に"水下の長城"となった。
73、龍井関(りゅうせいかん):河北省遷西県にあり。龍井関から西南の長城は多くが石構造で保存はかなり良い。龍井関から東の長城の大部分は石積みだが損壊している。
74、洪山口(こうさんこう):河北省遵化市東北約30キロにあり。今は関所はない。古長城は遵化境内に90キロ見られる。
75、上関(じょうかん): 河北省遵化境内。今は関口は全て上関ダム中に沈んだ。
76、常峪口(じょうよくこう):河北省宣化県北20キロにあり。関所の施設は損壊、コウ土壁が残っている。
77、狼窩溝口(ろうかこうこう):河北省万全県内にあり。張家口の西北。明の長城宣府鎮の関所。永楽帝の数回の北征は多くここから出城した。南に往来する兵士の膳房堡があり,縦に深い防御工程となっていたところからオオカミ穴の名がついた。
78、新河口(しんかこう):河北省万全県内にあり。多くは損壊しているが漁児山一帯の長城は保存されている。
79、白石口関(はくせきこうかん):河北省ライ源県下北頭郷白石口村。白石山は海抜2018メートルで風景区になっいる。明正統十四年(1449年)始建。
80、浮図峪関(ふとよくかん):河北省源県内にあり。一部を除いて損壊している。
81、烏龍溝関(うりゅうこうかん):河北省ライ源県35キロにあり。城壁城門は比較的保存がよい。ライ源には全長150位キロあり、敵楼300、戦台42、烽火台33、城堡6座がある。
82、飛狐口(ひここう):河北省ライ源県内にあり。今は北口峪という。河北省張家口市蔚県宋家荘郷北口村の南500メートル。太行山脈の最東端。平均海抜1500〜2500メートル。山勢峻険な峡谷幽深にある長城。
飛狐口近く
83、襄城駅(じょうじょうえき):河南省襄城県西城垣の北段で"匚"形を呈する。襄城の歴史は古く、瓮城は古代から荊襄と陝洛の往来に重要な関所と駅站であった。
84、魯陽関(ろようかん):河南省魯山県交口村石羊山の下、山頂にわずかに屯兵城堡の遺跡あり。
85、葉邑関(ようゆうかん):河南省葉県の旧県鎮。高さ3メートル、長さ2000余メートルの城垣遺跡が残る。
86、所ヨ(そうかん):またの名大関口、仙翁関、河南省方城県独樹鎮大関口村。山の斜面に土石壁などの遺跡が見られる。1981年出銅戈など戦国の器物が出土し楚の長城に遡れるかと。
87、野牛嶺関(やぎゅうれいかん):河南省南召県塔湾村野牛嶺。附近のトン台は楚の方城の遺跡。60年代初めに発見の石碑に"楚界"の二文字が刻んであった。
88、リ城堡(りじょうほ):河南省内郷県リ城村にわずかな遺跡遺物が残る。西周のリ国の国都で春秋時代楚国がリ邑をおいた。『水経注』に「リ県に故城一面にあり、里数未詳、号して長城という、即この城の西隅なり」と。リ城は楚の長城西南部の重要な関所。
89、黄崖関(こうがいかん):黄崖関長城は天津市薊県の北30キロの崇山峻嶺にあり。始建は紀元1556年、明代の名将・戚継光が薊鎮総兵のとき修築。石とレンガ建築で黄崖正関、太平寨と点将台、寡婦楼、王帽頂山と八卦城、黄崖関、黄崖関長城、黄崖関城、黄崖水関などさまざまな施設が残り、観光地となっている。
90、寡婦楼(かふろう):天津市薊県内にあり、黄崖関に続く太平寨長城最西端にある方形の石楼。明の隆慶年?、戚継光将軍配下の河南の軍士が長城楼台を修理したとき、夫に同道した十二名の婦女がこの敵楼工事に参加したという。楼は二層で高13メートル。
91、虎山長城(こざんちょうじょう):遼寧省丹東市から20キロにあり。明の長城の東の起点である。2000年に1キロにわたって修復され観光地となっている。
92、撫順関(ぶじゅんかん):遼寧省撫順市位東前甸郷にあり。いまは台堡遺跡が残る。明の洪武年間の建造という。
93、アコツ関:遼寧省新賓県西南葦子峪郷にあり。明の長城遼東鎮の重要な関所。三道関ともいう。
94、牛荘城(ぎゅうそうじょう):遼寧省海城市の西部20キロ牛荘鎮。明の初めに、当時は土城で駅站であった。清の天命八年(1623年)修復。海に近く東北地方への入り口として発展。
95、寧遠城(ねいえんじょう):遼寧省興城県興城鎮。明代には遼寧衛、清代に遼寧城といわれる。遼寧古城は正方形で城壁の高さ8.8メートル、周長3200メートル、城内中央に鐘鼓楼がある。
96、分水関(ぶんすいかん):遼寧省北寧市北15キロされた。関城はすでに損壊、関門遺跡の両側に長城遺跡が残る。山上に石築の烽火台がある。
97、平定堡城(へいていほじょう):遼寧省鉄嶺県平定堡郷。堡城は損壊しているが、トン台遺跡がある。
98、清陽関(しんのようかん):遼寧省昌図県清陽堡東4キロにあり。関城の両側に長城が残る。
99、新安関(しんあんかん):遼寧省開原県慶雲堡郷の西4キロの双楼台。双楼台はつまり新安関城東門の遺跡。関城の建造年代は明の成化五年(1468年)頃。
100、鎮遠関(ちんえんかん):遼寧省K山県白土廠郷。明の長城で地元では双棒台という。北関門両側の長城は土築の城壁。
101、錦州城(きんしゅうじょう):明の遼東鎮衛城で明代には広寧中屯衛。渤海湾の最奥、遼寧省西部、大凌河の西の小凌河北岸。明の遼東鎮長城海防系統の重要屯兵城。明の洪武二十四年(1391)建造。
102、居延塞故城(きょえんさいこじょう):内蒙古自治区額済納(エチナ)旗東北にあり。今も遺跡がある。居延遺跡は今の内蒙古自治区エチナ旗と甘粛省金塔県にあり、1988年国家級重点文物に指定された。居延塞是西漢の武帝のとき強弩都尉・路博コを派遣し居延沢上に構築した長城である。居延塞の遺跡は東北から西南に分布し約350キロ(漢代の900里)。今のエチナ沿岸と元のオアシス地帯の城、障、塞、隧等遺跡は約170。そのうち城障16座、烽燧150余。地域によって土板築と日干し煉瓦積み、石や石板積みのところがある。各烽燧間の給降りは時に約1300メートル、時に2000メートルで地形によっている。
居延塞
103、鶏鹿塞(けいかさい):内蒙古磴口市西北の哈隆格乃峡谷口にあり。『漢書・地理志』にその名が見られる。後漢の和帝永元元年竇憲が兵を率い北へ匈奴を撃ちにこの塞から長城をでた。
104、高闕塞(こうけつさい):内蒙古杭錦后旗烏拉山と狼山の間の突破口。2006年の調査で趙の武霊王の築いた長城の終点であることが分かった。『史記・匈奴列伝』に高闕の名がある。
105、大同城(だいどうじょう):山西省大同市。明の長城ルート上の重要な城鎮で明の大同鎮の治所。戦国初期から重要な地であった。明の洪武五年(1372)、大将軍徐達により大同城を増築し完全なものにした。城は正方形で一辺の長さ1.5−1.75キロ、周囲6.5キロ、面積2.63平方キロ、城壁はコウ築、外側は青レンガ積み。
106、殺虎口(さっここう):山西省右玉県の北、明代には殺胡口と記した。関城の両側は高山が対峙し、地形は険峻、東は塘子山、西は大堡山で古くから南北を結ぶ重要な街道で、今は大同からフフホトへ道路が通る。明の嘉靖二十三年(公元1544年)土築、万歴二年(公元1574年)レンガ積み、城の周囲は1キロ、高さ11.7メートル。近年修築され観光地として開放された。
107、威魯堡口(いろほこう):山西省左雲県内にあり。明代は威虜堡と記した。今は城堡は損壊、四周囲の壁は残る。
108、金鎖関(きんさかん):またの名向陽関、山西省汾陽市黄芦嶺にあり。石積みの関と瓮城など長城遺跡が残る。明の初め巡司を置く。
109、黄澤関(こうたくかん):山西省左権県にあり。関城はすでになく、関門遺跡が残る。
110、黄楡関(こうゆかん):山西省和順県にあり、関は黄楡山上にあるのでその名がある。関城遺跡あり、関の北は山で、南は両段の各百余メートルの石積み城壁がるが崩れている。
111、北楼口(ほくろうこう):山西省應県、翠微山麓で最大の関所。東は平型関に接し西は雁門関につらなる。北楼口楼峪河両側に長城が残る。壁の高さ約6メートル。
112、寧武関(ねいぶかん):山西省の寧武県にあり、明の成化四年(公元1468年)創建。明代の内長城は三路に分かれ雁門関は東路、偏頭関は西路、寧武関が中路。戦国時代、趙の武霊王がここに楼煩関を置いて匈奴を防いだ。唐末に寧武軍を置く。今は一部を修復し観光地となっている。
113、利民堡口(りみんほこう):山西省朔州市にあり。今は城堡コウ土壁が残る。明の成化十七年(1481)建造。嘉靖十八年(1539)守備を設ける。
114、得勝口(とくしょうこう):山西省大同市にあり。明代初期の建造、今は南関のレンガ壁は残る。
得勝堡
115、鎮宏堡口(ちんこうほこう):明の長城大同鎮の関堡、山西省陽高県。明代の名は靖虜堡、嘉靖二十五年(1546)の建造。守備、分守を設ける。今は堡城は損壊、鎮宏堡から辺堡長城は黄土コウ築で壁の高さは2〜5メートル。
116、平遠堡(へいえんほ):山西省天鎮県内にあり。明代の大同鎮下の最東面の兵営。今はコウ土城壁が残るのみである。
117、新平堡口(しんへいほこう):山西省天鎮県内にあり。明代の創建、城堡中にレンガに木造の鼓楼がある。
118、保平堡口(ほへいほこう):山西省天鎮県内にあり。明の大同鎮の関所。嘉靖二十五年(1546)土築、隆慶六年(1572)レンガで囲む。嘉靖三十七年(1558)蒙古兵がここから侵入した。
119、樺門堡(かもんほ):山西省天鎮県内にあり。地元では花面ショウという。紅土溝村から東へ一里の山頂には城の周りがレンガ包みで残り、高さ6メートル、幅9メートルで残る。明の万歴九年(1581)建造、十九年(1591)増築、周り一里以下であった。ここは明代には長城九里を硬く守り、辺トン十八座、火路トン三座ありといわれた。
120、瓦窯口堡(がようこうほ):山西省天鎮県内にある明の長城大同鎮の関堡。今はコウ土の壁が残っているのみ。
121、鎮寧堡口(ちんねいほこう):山西省天鎮県内にあり、白羊口長城の南500メートル。今は損壊している。
122、鎮口堡(ちんこうほ):山西省天鎮県内にあり。明の嘉靖二十五年(1546)建造、隆慶六年(1572)レンガで囲う。当時、堡城は周囲一里三分、高さ三丈五尺。今は損壊している。
123、守口堡口(しゅこうほこう):山西省陽高県内にあり。明の長城大同鎮の関口堡。今は城堡損壊。長城は守口堡から鎮宏堡に至り破壊はやや少ない。
124、鎮辺堡(ちんへんほ):山西省陽高県内にあり。今は城堡損壊。長城は鎮辺堡をでて西へ約4キロ陽高をでて大同市に入る。この段の黄土コウ築の長城壁はかなり保存がよい。
125、鎮川堡(ちんせんほ):山西省大同市の北にあり。堡は明の嘉靖十八年(1539)建造。現在は破壊が進みレンガは壊されている。コウ土の城壁は北側にかなり残る。
126、宏賜堡口(こうしほこう):山西省大同市内にあり。現在の堡城はレンガは壊され、残土壁の破壊がすすむ。
127、鎮羌堡口(ちんきょうほこう):山西省大同市内にあり。昔、ここで馬市を開いたといわれその囲城遺跡がある。
128、拒墻堡口(きょしょうほこう):山西省大同市新栄区にあるも損壊がひどい。明代長城のとりで。
129、拒門堡口(きょもんほこう):山西省大同市内にあるも、とりでは損壊している。鎮羌堡、拒墻堡、助馬堡とともに塞外四堡の一つ。
130、助馬堡口(じょまほこう):山西省大同市にあり。現在、堡城は東南北壁が一応保存されている。
131、破魯堡口(はろほこう):山西省大同市にあり。破魯堡城の北壁、西壁は今も残る。明の長城。
132、保安堡口(ほあんほこう):山西省左雲県内にあり。長城から西に1キロ離れている。今は城堡のレンガ積みは残っていないがコウ土の城壁が残る。
133、寧魯堡口(ねいろほこう):山西省左雲県内にあり。もとは寧虜堡といった。明の長城大同鎮関堡、南に門があった。堡城は"周二里七分,高三丈董尺"あったという。城壁のレンガは早くに無くなったが堡城は残っている。
134、破虎堡口(はこほこう):山西省右玉県内にあり。もとは破胡堡といった。今も黄土コウ築壁、レンガ積みの門が残る。明代の破虎堡守備兵は長城の"十四里、辺トン十七座、火路トン五座"を守っていたという。
135、残虎堡口(ざんこほこう):山西省左雲県内にあり、もとは残胡堡といった。関所は長城の南2.5キロにあり。今は南城門と黄土コウ城壁の一部が残る。
136、馬堡口(まほこう):山西省右玉県内にあり、明の長城大同鎮の関堡。今はコウ土の城壁が残るのみ。
137、雲石堡口(うんせきほこう):山西省右玉県内にあり、雲石堡は新旧二つあった。万歴十年(1582)雲石新堡に移転、ここは今一つの村である。コウ土壁のみが残る。
138、少家堡口(しょうかほこう):山西省平魯県内にあり、嘉靖二十三年(1544)土築し、威胡堡といった。万歴九年(1581)レンガで囲い改名した。今はコウ土の壁が残る。
139、大河堡口(たいがほこう):山西省平魯県内にあり。山の斜面にあって四面は黄土?築壁が残る。碑文などに「大同平?路」「大水口堡」「湯永固」等の字が見られるという。
140、敗虎堡口(はいこほこう):山西省平魯県内にあり、もとの名敗胡堡。城堡は魯土壁が残るのみ。堡城は、周囲一里零一百八十歩、高さ三丈六尺あったという。
141、迎恩堡口(げいおんほこう):山西省平魯県内にあり、明の長城の大同鎮の重要な関所。明の隆慶元年(1567)蒙古兵が大挙侵入した。今、城堡はコウ土壁のみ残る。
142、阻虎堡口(そこほこう):山西省平魯県内にあり、もとは阻胡堡といった。嘉靖二十三年(1544)土築、隆慶六年レンガで囲う。
早くからレンガが壊され、遺跡はわずかである。
143、将軍会堡(しょうぐんかいほ):山西省平魯県内にあり、万歴九年(1581)建造、二十四年(1596)レンガで囲う。初めは白草坪堡といった。今はほとんど損壊している。
144、Y角山(あかくさん):山名、現在は廃棄して使われない。内モンゴル清水河県北堡郷口子上村の東にある。損壊しているが、
壁は連続し壮観である。
145、老営堡(ろうえいほ):山西省偏関県の中心地から東40キロの関河北岸にあり、明の長城堡。規模では偏関県内の二大城堡である。コウ土築が残る。
146、紅門口(こうもんこう):山西省偏関県の東北40キロ。内モンゴルへの重要な関所、古くは歴溝といい、明の宣コ九年(1434)溝壕を設け外部へでた。紅門口の南0.5キロに水泉堡があったが今は無い。コウ土壁が残る。
147、老牛湾堡(ろうぎゅうわんほ):山西省偏関県の中心から40キロの黄河老牛湾にあり、内モンゴルとの境。東は滑石堡に接し、西は黄河岸に近い。今も堡城は残っている。
老牛湾堡
148、陽方口(ようほうこう):山西省寧武県の北約13キロ、海拔1260メートルにあり。陽方鎮は重要な関所で古くは九龍口、九牛口といった。堡城は損壊、一部が残る。
149、白草関口(はくそうかんこう):山西省代県内にあり。今も関楼と関便門が残る。長城からは大原への高速道路が見える。
150、広武城(こうぶじょう):山西省山陰県内の雁門関の下。新旧二城あり、旧城は遼金時代に建てられ、東西の長さ約300メートル、南北約500メートル。現存する城壁はかなり良い。城内の二百余戸に住民が住んでいる。新城は明の洪武七年(1374)に雁門関の北口として建造、周囲1.5キロ、雁門関の山前の防衛拠点であった。二城はともに軍事史の重要史跡。修理され参観できる。
151、北楼口また碑楼口(ほくろうこう、ひろうこう):山西省応県内にある明の長城山西鎮の重要な関所。翠微山麓の最大な関所、東に平型関に接し、西に雁門関に連なる。城堡は破壊、レンガ壁は西北角のみ残存。
152、狼牙口(ろうがこう):山西省霊丘県龍須台村と河北省ライ源県狼牙口村の境界、海拔1700メートル余の狼牙峠に建てられたのでこの名がある。明代の関所。両側石積み城壁で保存はかなりよい。今も南北の通道である。
153、龍泉関(りゅうせんかん):河北省阜平県西部の龍泉郷、県の中心地から約35キロの太行山の一峠。東に阜平県を望み、西は五台山の境、北は平型関に近い。関門遺跡が残る。阜平県内の長城は霊丘県の下関村から南へ呉王口村で二線に分かれる。
154、固関(こかん):山西省平定県内にあり固関(新関)は故関(旧関)の南約2.5キロにあり。娘子関から南約6キロ、固関(旧関)遺跡あり。関所は修復され観光地として開放されている。
155、鶴度嶺口(かくどれいこう):山西省昔陽県皋落郷長溝村の山稜上にある明の長城の関所。石城はよく残っている。
156、馬嶺関(ばれいかん):山西省昔陽県皋落郷geda店村東南2.5キロにあり。関所のある山麓は白羊山という。今も城壁など多くが残る。
157、支鍋嶺口(しかれいこう):山西省和順県小董坪村の東1.5キロ。『四鎮三関志』に支鍋嶺口関は嘉靖二十一年(1542)建造とある。関城の南は山、西側は崖で北、東両面は石壁である。
158、峻極関(しゅんきょくせき):明の長城の関所、正統年間の建造。山西省左権県の東約60キロ。今はみな崩れている。
159、楡林塞(ゆりんさい):陝西省楡林市にあり。戦国時代に北方の国境集落に楡の木を多く植え柵とした。秦が中国統一後、匈奴を排除し河套地区を復権、ここに楡の木を多く植え楡林塞の名がでたという。また楡溪塞とも、秦の北辺の軍衛地の一つ。隋代には長城の要塞となった。明代の永楽の初め蒙古の侵入を防ぐため砦を置く。正統年間に堡を建て、成化七年(1471)また衛を置く。
160、呉旗秦長城(ごきしんちょうじょう):陝西省呉旗県にあり、戦国秦の昭王の時代(前306−前251)の建造で北部の遊牧民族の侵入を防いだ。黄土のコウ築で部分的に高大な遺跡が残る。長期の自然侵食を経ているものの壁体、トン台は変わらず保存はかなりよい。
161、魏長城南起点(ぎちょうじょうみなみきてん):陝西省華陰県市華山峪口にあり。地勢によって延々と北上し大li、澄城、合陽から韓城の黄河辺に沿う。全長約150キロ300余里。魏は河西で秦と界したので秦の侵攻を防ぐものであった。『史記・魏世家』に「梁惠王十九年長城を築く」とある。
162、定辺城(ていへんじょう):陝西省定辺県内にある明の長城楡林鎮の防御系統の中で重要な位置を占めた関堡。明の正統二年(1437)建造。今は北、南、東三面のコウ土城壁の一部が残存。西城壁と四座の城門は損壊している。
高家堡古城
163、高家堡(こうかほ):陝西省神木県の西南50キロの禿尾河東岸にあり、西北の明の長城と約5キロ離れる。もとはコウ築の土城を万歴三十六年(1608)レンガで囲う。城は長方形で東南壁の長さ311メートル、南北の壁431メートル、高さ6.5−9.1メートル、基礎幅7.52メートル。今も城堡は残り当時の面影を残す。県政府は重点文物に指定されている。
高家堡付近の長城 (復元施設)
164、鎮北台(ちんほくだい):陝西省楡林市から7キロ、紅山の頂上にある古長城最大の烽火台。明の万歴三十五年(1067年)建造。古時は重要な関所と軍事展望台であった。長城沿線で現存する最大の要塞。高家堡とともに俗化されていない長城遺跡として
近年注目。
165、統万城(とうまんじょう):陝西省靖辺県白城子村。紅トン界郷北端と内蒙古烏審旗南納林河郷の境、モウス砂漠辺縁の無定河北岸流沙の中にあり。匈奴鉄弗部の出身であり、前趙・独孤部・破六韓部と同族である五胡十六国時代の赫連勃勃(かくれんぼつぼつ、在位:407年〜425年中国、五胡十六国時代の夏〈大夏〉の創建者)が413年に10万の民衆を酷使し6年間で漢代の奢延城を改築したもの。匈奴は文字と城を建造しなかったが、ここは匈奴が世界に残した唯一の遺跡。現在、城址は流沙に埋没している。
166、韓城魏長城(かんじょうぎちょうじょう):陝西省韓城市の南10キロ龍亭郷にあり、長さ20余キロ。戦国時代(前352年)魏の惠王が秦を防衛のため建造、秦の始皇帝の万里の長城より100余年早い。現存するものは城北村の俗称"烽火台"といわれる高さ0メートル、長さ約430メートルの遺跡。また俗称"箭楼"といわれる土台部分が残り、省の重点文物になっている。
167、黄甫川堡(こうほせんほ):明の長城楡林鎮の関堡。陝西省府谷県、黄甫河下流にあり、黄土コウ築、保存は比較的よい。
168、清水営堡(せいすいえいほ):明の長城楡林鎮の関堡。陝西省府谷県、清水河下流にあり。黄土コウ築、保存は比較的よく高さ2〜4メートルで残る。
169、孤山堡(こざんほ):陝西省府谷県、孤山川北の斜面にあり。明の長城線上の軍事要塞、また"十塘関"ともいう。明の正統二年(1437年)ここに堡を設け兵を置き、蒙古の侵入を防ぐ。成化十年(1475年)陝北長城竣工、孤山堡は三十六営堡の一つとなる。今は遺跡の一部が残る。
170、鎮羌堡(ちんきょうほ):陝西省府谷県新民堡村にあり。拒?堡、拒門堡、助馬堡とともに塞外四堡の一つ。この堡は明代初めに置かれた。今は城堡の一部が残る。
171、永興堡(えいこうほ):明の長城楡林鎮の関堡、陝西省神木県にあり。今は永興堡附近のコウ土長城は損壊、コウ土のトン台などが見られる。
172、大柏堡(だいはくほ):明の長城楡林鎮の関堡、陝西省神木県にあり。大柏堡のところは今は小学校になっている。堡壁はわずかに残る。
173、建安堡(けんあんほ):陝西省楡林市楡陽区大河ta郷大河ta村西南1キロにあり。明代延綏鎮三十六?堡の一つ。コウ土壁部分が現存。
174、常楽堡(じょうらくほ):陝西省楡林市常楽鎮にある明の長城関堡。現在は損壊が進む。
175、波羅堡(はらほ):陝西省横山県波羅鎮内にある明の長城楡林鎮の関堡。明の正統十年(1445年)波羅寨を建てた。今は堡城のかなりの部分が残る。
176、懐遠堡(かいえんほ):陝西省横山県内にある明の城堡。天順年間の設置という。西の威武堡へ40里、駐兵424名、馬521匹などの記録がある。コウ土の北城壁の保存はやや良い。
177、威武堡(いぶほ):陝西省横山県内。今、堡は全て砂に埋もれている。
178、清平堡(せいへいほ):陝西省靖辺県内にあり。成化十年(1474)に置かれた。西へ龍州堡へ30里、駐兵602名、馬340匹などの記録あり。
179、龍州堡(りゅうしゅうほ):陝西省靖辺県内位龍州村にあり。明正統年間(1436〜1449年)の龍州寨建設が始まりという。
180、鎮靖堡(ちんせいほ):陝西省靖辺県内にあり。成化二年に置かれた。長城まで約2キロ。内部コウ土が残存。
181、鎮羅堡(ちんらほ):陝西省靖辺県内にあり、明代の堡。今は損壊。
182、靖辺営(せいへんえい):陝西省靖辺県内。成化六年(1470)靖辺営を設ける。清雍正八年(1730)靖辺県に改め、同治八年(1869)鎮靖堡に移す。
183、寧塞堡(ねいさいほ):陝西省靖辺県内。成化十一年(1475)今の呉旗県長城郷董澗村の寧塞河上流に建設。堡はすでに倒れて久しい。
184、柳樹澗堡(りゅうじゅかんほ):陝西省定辺県内。城堡遺跡は今、柳樹澗の南の山の斜面上にあり、損壊があるが堡の形状は残る。明の天順の初め始築、成化九年(1473)廃棄され駐軍は永済堡へ、嘉靖37年旧堡を修復し永済堡を旧に移した。堡城は今の定辺県の東南140里の柳樹澗村の南2里の所。隆慶6年高さを増す。堡城は今もあり、残壁高1メートル。東、南、北各1城門あり。
185、安辺堡(あんへんほ):陝西省定辺県内。新安辺堡は定辺県城の東南130里の新安辺郷附近。成化九年に旧安辺営堡の南からここに移り新安辺営といい、14座の城堡を統轄した。今はコウ土の基座が残るのみ。
186、磚井堡(せんせいほ):陝西省定辺県内にあり、明の正統二年に今の県城東南の磚井郷の北3里の所に創建。附近にレンガ積みの井戸があったことから名付けた。今は損壊が進む。
187、固原秦長城(こげんしんのちょうじょう):戦国秦の長城は寧夏回族自治区固原県の張易、紅庄、中河、西郊諸郷の長城は保存がかなりよい。長城は西吉、固原、彭陽の陽三県を通り全長約174キロ。残存する壁の高さ2〜10メートル、基部の広さ6メートル、。固原は秦の昭王が建造を命じた長城。固原秦長城は観光ルートにもなっている。
188、下馬関(げばかん):寧夏・同心県下馬関郷にあり。1526年明の嘉靖年間に始建、蒙古族の南侵に備えた。下馬関附近の長城は明の固原鎮長城中で保存は最も良い。
189、勝金関(しょうきんかん):寧夏・中衛県の東30キロ。中寧北山の南麓にあり。ジンギスカンは何度もこの関を越えて黄河を渡っている。
190、広武営(こうぶえい):寧夏・青銅峡市小バ鎮から30キロにあったが今は青銅峡ダム中に沈んだ。城の附近に108の塔が保存されている。明代に築城したとき"広布武コ"の意味から命名された。
191、横山堡(おうざんほ):寧夏・霊武県内にあり、旧称紅山堡。今はコウ土の城壁が残るのみ。
192、花馬池営(かばちえい):寧夏・今の塩池県の中心にあった。明の長城寧夏鎮の重要な関堡。
193、三関口(さんかんこう):賀蘭山中部、寧夏・銀川市の東北約40キロにある明の長城。この関口は寧夏と内モンゴル阿拉善左旗の境。
194、賀蘭口(がらんこう):寧夏・賀蘭県内賀蘭山上の峠にあり。両側の山崖上に明代の摩崖刻記がある。南壁には万歴三十七年(1609)賀蘭口修復時の官兵の刻書あり。賀蘭山は東西にいくつもの山谷があり、賀蘭口、蘇峪口、三関口、拜寺口など古くから東西交通の要道であった。
195、鎮遠関(ちんえんかん):寧夏・石嘴山市郊外にあり。平虜城(今平羅県)の北八十里にあり寧夏北境防御の地。鎮遠関遺跡は残存。
196、打磑口(だがいこう):寧夏・石嘴山市の北にあり今は打武口という。明代の寧夏西辺の重要な関所。賀蘭山36ケ隘口の一つ。
197、興武営(こうぶえい):寧夏回族自治区塩池県の西北48キロにあり。今レンガは抜き取られコウ土壁が残るのみ。塩池県内には時代の違う3つの長城があり、興武営は明代のものという。
198、長城関(ちょうじょうかん):寧夏・塩池県城の北にあり。その北部は風砂区でモウス沙漠の一部。明の長城千百座の雄関中唯一長城の名をつけた関。今、関城は損壊している。
199、清水営堡(せいすいえいほ):寧夏・霊武県内。清水営では明代に馬市で相当繁栄したという。今、城は清水営村西1キロにありすでに廃棄され無人。城堡のレンガは早くに抜き取られコウ土城壁が残る。
200、横城堡(おうじょうほ):寧夏・霊武県内にあり。黄河に近く重要な位置にある。南門付近遺跡にコウ土が残る。
201、固原城(こげんじょう):寧夏回族自治区南部の市で古城(高平城)が残り内城・外城があり観光ルートになっている。二千余年の歴史があり、城の西5キロに秦の長城遺跡がある。
戦国固原長城
202、銀川城(ぎんせんじょう):寧夏平原中部の都市で寧夏の区都。旧城地区には西夏時代の多くの文化古跡が残る。漢の武帝のとき多くの移民が今の銀川東部へ入植した。
203、防門(ぼうもん):山東省平陰県広里郷にあり。斉の西側では水害が多く河に堰を造ったのが"防"で、長城は水利工事によりできた。これは古"平陰邑"(今の長清県孝里鎮の一帯)にあり、防の上に通行の便利のため門を開いたこれが"防門"である。
204、銅陵関(どうりょうかん):山東省沂源県張家坡郷にあり斉の長城の一部。銅陵関と沂源県の斉の長城建築は非常に少ないが石積み壁が残っている。ロクロ嶺長城は比較的よく残り高さは1〜2メートル、幅6〜9メートルの残壁。
205、錦陽関(きんようかん):山東省莱蕪市上游鎮にある斉の長城上にあり、またの名は通斉関。斉の長城の三大重要関所の一つ。古くから交通の要道にして軍事要塞。今も0.6キロの石積み壁が残り最高所は7.5メートル、最幅ある所は6メートル。
206、三岔口(さんchaこう):泰安市上港郷の蒿灘村にあり、泰山山脈長城嶺下の一つの隘口。そこは莱蕪市、章丘県と泰安市の交界の上、戦略上非常に重要な地。今は部分的に遺跡が残る。
207、大関(だいかん):山東省臨ク県大関鎮にあり、穆陵関の北10余キロ、大弁山がある。
208、穆陵関(ぼくりょうかん):山東省イ坊市臨ク県大関鎮と臨沂市沂水県馬站鎮の交界の所。斉の長城沿線の最も古い、最も雄偉、最も険要の関隘といわれ、遺跡は無い。
209、臨シ斉国故城(りんしせいこくこじょう):山東省シ博市臨シ区にあり、西周から戦国時代の斉国の都城遺跡。今は臨シ故城は地面上にわずかに断壁残ショウが残る。
210、斉長城入海処(せいちょうじょうにゅうかいしょ):山東省青島市黄島区東于家河村東北に斉の長城が海に入る所である。今は小珠山附近の六汪鎮にのみ長城部分の遺跡がある。
211、桃林関(とうりんかん):山東省jiao南市K溜頂北側。jiao南県には斉長城が約55キロあり、多くは倒壊しているが遺跡部分はつながっている。
212、繞紫窩長城(じょうしかちょうじょう):山東省諸城市桃延郷台家溝南嶺上にある、春秋戦国斉の長城の重要な関所。関口が特殊である。部分的に高さ5メートル、基部約15メートルである。
213、黄草関(こうそうかん):山東省五蓮県松柏鎮前長城嶺村、馬耳山と喜鵲嶺の間、村名は長城からつけられた。長城嶺の残壁の高さは約1.5メートル、基盤の広さは約6メートル。東西の山上に各一座直径20メートル、高さ5メートルの峰火台あり。
214、東莞長城(とうかんちょうじょう):山東省ju県東莞鎮九頂蓮花山上にあり。遺跡の高さ約2メートル前後、広さ10メートルあまり、長さ約8キロ。
215、鄭韓故城(ていかんこじょう):河南省新鄭市城関附近の双ji河と黄水河の交わる所。春秋戦国時期、鄭国と韓国はここに建都。鄭韓故城は現存する鄭韓長城の主要部分、始め鄭が築き韓が鄭を滅ぼした後に続けて建造した。今もコウ築の遺跡が東西二地域に残る。
216、嶺東長城(れいとうちょうじょう):金の長城の一部で、東の起点は内モンゴル自治区のモリダワダフール族自治旗七家子附近の嫩江岸辺にあり。西へ行き北よりに進み、2号辺堡から西南へ、諾敏河(だくびんが)を越え内モンゴル自治区とK龍江省の界を通る。金の長城は外堀、主壁、内壕、副壁から構成され、堀にあたる界壕で現在はっきり認められるものは、嫩江岸辺の起点の所にある二条の界壕で、それぞれの間は約1キロ離れている。嶺東長城の250キロの界壕の東側には24座の辺堡が配列されている。2号辺堡はモリダワダフール族自治旗段家溝の北3キロにあり。辺堡の壁の高さ3メートル余、底の幅8メートル、上の幅2メートル、東西の壁の長さ170メートル、南北は165メートル。護城壕の幅6メートル、深さ1メートル。城壁の保存はかなりよい。諾敏河右岸約1キロの所にある関所、諾敏河関は主壁の底幅15メートル、高さ3メートル、副壁の底幅約8メートル、高さ約1.5メートル。
217、大水泉子関(だいすいせんしかん):内モンゴル自治区扎蘭屯市大水泉子大隊の南3キロにある金の長城の関所。ここの双重壕壁の間は約20メートル。主、副壁の間に一段300メートルの弧形壁あり、両端と主壁は寄り合い、中間に通路がある。通道の両壁はすでに破壊されている。
218、灯塔村水文站辺堡(とうとうそんすいもんたんへんほ):黒龍江省甘南県cha哈陽郷灯塔村にある金の長城の砦。城堡の東、北、西三面の壁は保存され、城壁はコウ築。辺堡は正方形で、毎辺の長さ165メートル、壁の高さ3メートル、基座の幅12メートル、東、北、西三面には護城壕があり、平均深度は0.6メートル、幅3メートル。
219、金東北路界壕辺堡(きんとうほくろかいごうへんほ):黒龍江省斉斉哈爾市(チチハル市)碾子山区にあり、国家級重点文物に指定されている。豊栄古城という古堡が一座ある。12から13世紀の建造という。今の残址は一般に高さ2メートル、壁の外には15〜20メートルの溝塹があり幅2〜6メートル、深さ2〜4メートル。古堡は北高南低で一辺160メートルの正方形で角楼、護城壕、瓮門がある。
220、成吉思汗金長城遺跡(ジンギスカンきんちょうじょういせき):内モンゴル自治区扎蘭屯市のジンギスカン鎮にある。国家級重点文物に指定。扎(扎蘭屯)―碾(チチハル市碾子山区)道路を横切る。扎蘭屯市から31キロ離れる。金の長城は全長の5千数キロ。扎蘭屯市内には140キロがある。すべて単壁単壕で、現在城壁の多くは砂の草原に埋もれている。残址は一般に高さ2メートル、高い所は8メートル、壁の外15〜20メートルの所に塹壕があり、幅2〜6メートル、深さ3〜4メートル、壁内の10キロごとに、1つの砦がありコウ築。
221、錫林郭勒盟古長城遺跡(シリンゴールめいこちょうじょういせき):主に燕、秦、金代に建造された長城。秦の長城の大部分はチャハール草原の南部山地にあり、多くは石積み。地勢の険要な地には烽火台等の鎮所が築かれた。シリンゴール盟阿巴?旗にあり。燕の長城は河北省から延びて、多倫県から、阿巴ガ旗へ、東へ西烏珠穆沁旗などに遺跡が残る。これらの多くは土築で、今は一条の土のうねだけが残る。金の長城は"金界壕"ともいい、構造は秦、漢代の長城とは異なり、土を掘り塹壕を造る。東はホロンバイル盟から始まり、西へ大青山に至る、全長約5000キロ。金代の長城遺跡の多くはシリンホト市に残る。
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