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  韓愈の生涯  

3-3 荊蛮の地 




第三章 陽山への貶謫 3-3荊蛮の地 貞元二一(805)年〜元和元(806)年《38〜39歳》 ・・・・  110
[805年貞元21年38歳]陽山から江陵府参事軍 47首  初句  
《昌黎先生集/卷21-1送區冊序》 孤臣昔放逐,
《昌黎先生集/卷十三 雜著-7燕喜亭記》 太原王宏中在連州
《昌黎先生集/卷20-7送廖道士序》 五嶽於中州,
《昌黎先生集/卷15-5上兵部李侍郎書》 十二月九日,
《昌黎先生集/卷20-12荊潭唱和詩序》 從事有示愈以《荊譚酬唱詩》
《昌黎先生集/卷1-2.6赴江陵途中寄贈王二十補闕李十一拾遺李二十六員外翰林三學士》 孤臣昔放逐,
《昌黎先生集/卷2-4君子法天運》 君子法天運,
《昌黎先生集/卷2-7醉後(韓愈)(一作醉客)》 煌煌東方星,
《昌黎先生集/卷2-12縣齋有懷》【案:陽山縣齋作,時貞元二十一年,順宗新即位。】 少小尚奇偉,
《昌黎先生集/卷2-13合江亭》【案:亭在衡州負郭,今之石鼓頭,即其地也,地形特異,?然崛起於二水之間,旁有朱陵洞,唐人題刻散滿巖上。愈自陽山量移江陵,道衡山作。】 紅亭枕湘江,
《昌黎先生集/卷2-14陪杜侍禦遊湘西兩寺獨宿有題因獻楊常侍》 長沙千里平,
《昌黎先生集/卷2-15嶽陽樓別竇司直》 洞庭九州間,
《昌黎先生集/卷2-16送文暢師北遊》  
《昌黎先生集/卷3-7龍移》 天昏地K蛟龍移,
《昌黎先生集/卷3-12東方半明》 東方半明大星沒,
《昌黎先生集/卷3-17八月十五夜贈張功曹》 纖雲四卷天無河,
《昌黎先生集/卷2-17答張徹》  
《昌黎先生集/卷3-18謁衡嶽廟遂宿嶽寺題門樓》 五嶽祭秩皆三公,
《昌黎先生集/卷3-19??山》 ??山尖神禹碑,
《昌黎先生集/卷3-20永貞行》【案:貞元二十一年,コ宗崩,順宗立,改元永貞。韋執誼,王叔文等用事,又謀奪中官兵,制天下之命,是年八月,皇太子即位,帝自稱太上皇,上貶執誼,叔文等,愈故作〈永貞行〉云。】 君不見太皇諒陰未出令,
《昌黎先生集/卷3-21洞庭湖阻風贈張十一署》【案:時自陽山徙掾江陵。】 十月陰氣盛,
《昌黎先生集/卷4-1劉生詩》 生名師命其姓劉,
《昌黎先生集/卷5-27射訓狐》 有鳥夜飛名訓狐,
《昌黎先生集/卷7-14-1雜詩四首其一》 朝蠅不須驅,
《昌黎先生集/卷7-14-2雜詩四首其二》 鵲鳴聲??,
《昌黎先生集/卷7-14-3雜詩四首其三》 截?為?櫨,
《昌黎先生集/卷7-14-4雜詩四首其四》 雀鳴朝營食,
《昌黎先生集/卷7-16譴瘧鬼》 屑屑水帝魂,
《昌黎先生集/卷9-2宿龍宮灘》 浩浩復湯湯,
《昌黎先生集/卷9-3叉魚招張功曹》 叉魚春岸闊,
《昌黎先生集/卷9-7?州祈雨》 乞雨女郎魂,
《昌黎先生集/卷9-8湘中酬張十一功曹》 休垂?徼千行?,
《昌黎先生集/卷9-9-1?口又贈二首其一》 山作劍?江寫鏡,
《昌黎先生集/卷9-9-2?口又贈二首其二》 雪?霜翻看不分,
《昌黎先生集/卷9-10-1題木居士二首其一》 火透波穿不計春,
《昌黎先生集/卷9-10-2題木居士二首其二》 為神?比溝中斷,
《昌黎先生集/卷9-11?泊江口》 郡城朝解纜,
《昌黎先生集/卷9-13別盈上人》 山僧愛山出無期,
《昌黎先生集/卷9-14喜雪獻裴尚書》 宿雲寒不卷,
《昌黎先生集/卷9-16聞梨花發贈劉師命》 桃溪惆悵不能過,
《昌黎先生集/卷9-19梨花下贈劉師命》 洛陽城外清明節,
《昌黎先生集/卷9-22木芙蓉》 新開寒露叢,
《遺文-8晝月》 玉碗不磨著泥土,
《遺文-13潭州泊船呈諸公》 夜寒眠半覺,
《昌黎先生集/卷15-5上兵部李侍郎書》 十二月九日,將仕郎守江陵
《昌黎先生集/卷20-12荊潭唱和詩序》 從事有示愈以《荊譚酬唱詩》
《昌黎先生集/卷20-7送廖道士序》 五嶽於中州


3-3 荊蛮の地


 貞元二十一年(805)、愈が三十八歳の正月、徳宗が崩じた。享年六十四。二月(一説には三月)、大赦が行われ、徳宗の治世に流された役人たちは全部召還されることとなった。その情報が陽山ヘとどき、愈が北へと出発したのは、夏のころであった。
 しかし、長安の政情は安定していない。新たに即位した順宗を擁して、王任・王叔文たちはいよいよ改革に乗り出したのだが、当然のこととして保守派の反撥が生じた。しかも順宗はこの時すでに四十五歳、前年から病気のため発語不能に陥っていた。このような皇帝を上にいただくのは心もとない、革新的な政策というのも、要するに王任・王叔文が順宗をロボットにして、政治を私物化しているにすぎないのだとする意見も強くなる。保守派は順宗の皇太子のもとに集まり、早くも次期政権の構想を立て始めた。
 この年八月、ついに順宗は退位して上皇となり、皇太子が即位した(これが憲宗である)。順宗の治世は、半年あまりしか続かなかったわけである。貞元二十一年にあたるこの年は、改元され、永貞と呼ばれることになった。王任と王叔文は失脚し、叔文は殺され、任は配所で病死した。
 そのような政情のためであろうか、愈に対する正式の召還命令は、なかなか届かなかった。陽山から北へ、峠を越えて湖南の地に入ったばかりの所にある祁州という町で三。月も待たされた後、ようやく手にした命今は、召還ではなかった。流罪は解くが、やはり地方官として、別の土地へ転勤を命ずるというのである。命令はまだ在位中の順宗から出されていた。
 命令を受領した後、たまたま八月十五日の中秋明月の夜を迎えて、愈は同じ土地へ転勤の命今を
もらい、やはり祁州に待機していた張署という人に詩を贈った(《昌黎先生集/卷3-17八月十五夜贈張功曹》、八月十五夜、張功曹に贈る)。
詩は陽山にいた時の苦しい思い出から始まり、順宗の即位を慶賀し、大赦が行われると聞いて北ヘ帰れると希望を持ったことを述べてから、
八月十五夜贈張功曹 #1
【案:張功曹,署也。愈與署以貞元二十一年二月二十日赦自南方,?徙掾江陵,至是俟命於?,而作是詩。】
纖雲四卷天無河,清風吹空月舒波。
沙平水息聲影?,一杯相屬君當歌。
#2
君歌聲酸辭且苦,不能聽終?如雨。
洞庭連天九疑高,蛟龍出沒猩?號。
十生九死到官所,幽居默默如藏逃。
下床畏蛇食畏藥,海氣?蟄熏腥?。
#3
昨者州前?大鼓,嗣皇繼聖登?皋。
赦書一日行萬里,罪從大辟皆除死。
遷者追迴流者還,滌瑕蕩垢清朝班。
州家申名使家抑,坎軻祗得移荊蠻。
#4
判司卑官不堪?,未免捶楚塵埃間。
同時輩流多上道,天路幽險難追攀。
君歌且休聽我歌,我歌今與君殊科。
一年明月今宵多,人生由命非由他,有酒不飲奈明何?


(八月十五夜張功曹に贈る)#1
【自註:張功曹は,署なり。愈と署とは以て貞元二十一年二月二十日赦され南方より,?に徙って江陵に掾たり,是れに至て?に於いて命を俟つ,而して是の詩を作る。】
繊雲【せんうん】四【よ】もに巻いて天に河【か】無く、清風空を吹いて月は波を舒【の】ぶ。
沙は平らに水息【や】んで声影絶え、一盃【いっぱい】相属【しょく】す君当【まさ】に歌うべし。
#2
君が歌は声酸【いた】み辞も且つ苦しく、終わるまで聴く能【あた】わずして涙雨の如し。
洞庭は天に連なり九疑【きゅうぎ】は高く、蛟竜【こうりゅう】出没して猩?【せいご】号【さけ】ぶ。
十生【じつせい】九死【きゅうし】 官所に到り、幽居黙黙として蔵逃せるが如し。
牀【しょう】を下れば蛇を畏れ食には薬を畏れ、海気濕蟄【しつちつ】して腥?【せいそう】熏【くん】ず。
#3
昨者【さきごろ】州前【しゅうぜん】に大鼓を槌【う】ち、嗣皇【しこう】聖を継ぎて菱皐【きこう】を登【あ】ぐ。
赦書一日に万里を行き、罪の大辟【たへき】に従うは皆死を除かる。
遷者は追回し流者は還【かえ】し、瑕【きず】を滌【あら】い垢【あか】を蕩【そそ】いで朝【ちょう】 班【はん】を清む。
州家は名を申【の】べしも使家は抑え、坎軻【かんか】隻【ひとつ】荊蛮【けいばん】に移るを得しのみ。
#4
判司は卑官にして説【い】うに湛えず、未だ塵埃【じんあい】の間に捶楚【すいそ】せらるるを免れず。
同時の輩流 多く道に上るも、天路は幽険にして追攀【ついはん】し難し。
君が歌を且【しばら】く休【や】めて我が歌を聴け、我が歌は今君と科を殊【こと】にす。
一年の明月 今宵【こよい】多し、人生命【めい】に由る 他に由るに非ず、酒有れども飲まずんば明を奈何【いかん】せん。

 愈がもらった職は、江陵府の法曹参軍であった。府庁の中で司法事務を管掌する、末端の官僚である。祁州の剌史(州家)は愈の召還を奏請したのだが、その上官である湖南観察使(使家)が握りつぶし、不運にも(炊判)やはり則蛮の地である江陵(今の湖北省江陵。愈はこんなことを言っているが、陽山よりはもちろん都に近い大都会である)に移住を許されただけだというのである。
 ここに一つの問題がある。当時の湖南観察使の楊憑は、柳宗元の妻の父であった。意の陽山へ流されたのが王叔文一派のさしがねとするならば、彼らが順宗を擁して時めいている時期に、愈を簡単に召還するはすがない。幹部の柳宗元の義父ともなれば、その辺の事情は察していたであろうから、中央からの指令はなくとも、楊憑が勝乎に奏請を握りつぶしたのだろうと、推測する説かある。事実か否かは確かめようもないが、「使家は抑へ」とうたった愈が、そこに気をまわしていた可能性は大きい。
 任地は刑蛮の江陵、しかも法曹参軍という「卑官」である。官僚が罪を犯すことがあると、流罪とか左遷とかの処罰を受けるが、庶民とは違って、根や杖で叩かれることはない。その身分を重んじ、屈辱的な刑は遠慮するのである。ところが法曹参軍など、「判司」と総称される役人には、それが適用されない。庶民と同様に、叩かれることもあった。
 自分のかつての同僚たちは、たいがい出世コースを歩いている。こう言ったときの愈は、おそら
く柳宗元や劉萬錫を思い浮べていたのであろう。朝廷への道(天路)は暗く険しく、彼らのあとを
追って登ることもできない。
 彼はますます絶望的な気持になった。このころ、自戒の意味をこめて五つのいましめ、《昌黎先生集/卷12-8五箴五首》「五僕」(韓文一二)を書いたが、その序文には言う。
「余生三十有八年。發之短者日益白,齒之搖者日益?,聰明不及於前時,道コ日負於初心。」
 余、生れて三十有八年、髪の短き者は日ごとに益。白く、歯の揺らぐ者は日ごとに益。脱す。
  聡明は前時に及ばす、道徳は日ごとに初心に負く。
 そして五歳の一つである「游僕」(遊ぶことのいましめ)には、
「余少之時,將求多能,蚤夜以孜孜;余今之時,既飽而嬉,蚤夜以無為。」
  余、少き時、将に多能を求めんとし、蚤夜以て孜孜たり(朝晩努カしていた)。余、今の時、既
  に飽いて嬉しみ、蚤夜以て為すこと無し。

 これらには、もとより現在のわが身への自嘲がこめられていよう。しかし、前途に希望を失って
しまっては、さすがの彼も、往年の壮気を呼びもどすすべがなかったように見える。
 翌年は憲宗の元和元年(ハ○六)である。愈は三十九歳の正月を江陵で迎えた。そして《昌黎先生集/卷3-24感春四首其三》(春に感ず」と題する四首の詩(韓文三)を作ったが、その第三首には言う。
之三
朝騎一馬出,暝就一床臥。詩書漸欲?,節行久已惰。
冠欹感發禿,語誤悲齒墮。孤負平生心,已矣知何奈!
(春を感ず四首 其の三)
朝に一馬を騎して出で,暝【くれ】に一床【いっしょう】に就【つ】きて臥す。
詩書【ししょ】漸【ようや】く?【なげう】たんと欲す,節行【せつこう】久しく已に惰【おこた】れり。
冠 欹【そばだ】ちて 發【かみ】の禿【とく】なるを感ず,語 誤【あやま】ちて 齒の墮【おつ】るに。驚く。
孤負【こふ】す 平生の心,已【やんぬる】矣 知る何奈【いかん】せん。
朝になるたびに馬にまたがって門を出るのである。そして暮れてくると毎日のことであって床に就くのである。
今まで手放すことなどなかった『詩経』『書経』と『楚辞』詩集を、この頃では、めんどうくさくて、ほったらかしにするように、だんだんなってきたし、節度のある行動というものは儒教徒のつねづね心がけねばならないことなのだが、それもものぐさく、いいかげんにしだしてから、かなりの時間がたってしまった。
これでは、役人としての冠が傾いてしまってまるで髪の毛が禿げてしまったと思われてしまい様なものであり、勉強不足で語句を間違えてしまいまるで歯が抜け落ちてしまって驚くのと似ていることになってしまう。
儒者として平生のこととして心がけるべきことに背いてしまう、それをすんでしまったことだ、どうしようもないじゃないかといってしまっていいのだろうか。

 そして、夏が来る。肥満型の愈には、南方の夏はしのぎかねたらしい。それを見かねたのか、同僚の鄭群という人が、箪(竹の簑の子のようなもの)を贈ってくれた。その上に寝れば涼しいのである。愈はそれに感謝する詩(《昌黎先生集/卷4-2鄭群贈簟》、鄭群、寮を贈る)の中で、次のようにうたう。
法曹貧賤?所易,腰腹空大何能為?
自從五月困暑濕,如坐深甑遭烝炊。
手磨袖拂心語口,慢膚多汗真相宜。
法曹は貧賤【ひんせん】にして衆の易【あなど】る所、腰腹空しく大なるも何をか能【よ】く為さん。
五月自従り 暑湿に困【くる】しみ、深甑【しんそう】に坐して蒸炊【じょうすい】に遭うが如し。
手を磨し袖を払いて 心口に語る、慢膚【まんぷ】汗多きは真【まこと】に相宜【よろ】しと。
法曹参軍は地位も低いし貧乏で、誰からも馬鹿にされる。腰と腹のまわりが大きくても、何の役
にも立ちはしない。五月以来、署さと高い湿度とに悩まされ、戻い蒸範の中に坐って蒸されるよう
な思いだ。汗を手で拭いたり袖で拭いたりしながら、内心でつぶやく。肥満体に汗が多いとは、ほ
んとうによく言ったものだ・:…。


五箴五首
人患不知其過,既知之不能改,是無勇也。余生三十有八年。
發之短者日益白,齒之搖者日益?,聰明不及於前時,道コ日
負於初心。其不至於君子而卒為小人也,昭昭矣!作《五箴》
以訟其惡雲。

遊箴
余少之時,將求多能,蚤夜以孜孜;余今之時,既飽而嬉,
蚤夜以無為。嗚呼余乎,其無知乎?君子之棄,而小人之歸乎?

言箴
不知言之人,烏可與言?知言之人,默焉而其意已傳。
幕中之辯,人反以汝為叛;臺中之評,人反以汝為傾。
汝不懲邪!而呶呶以害其生邪!

行箴
行與義乖,言與法違,後雖無害,汝可以悔;行也無邪,
言也無頗,死而不死,汝悔而何?宜悔而休,汝惡曷??
宜休而悔,汝善安在?悔不可追,悔不可為;思而斯得,
汝則弗思。

好惡箴
無善而好,不觀其道;無悖而惡,不詳其故。前之所好,
今見其尤;從也為比,舍也為仇。前之所惡,今見其臧;
從也為愧,舍也為狂。維仇維比,維狂維愧,於身不祥,
於コ不義。不義不祥,維惡之大,幾如是為,而不顛沛?
齒之尚少,庸有不思,今其老矣,不慎胡為!

知名箴
?不足者,急於人知;霈焉有余,厥聞四馳。今日告汝,
知名之法:勿病無聞,病其曄曄。昔者子路,惟恐有聞,
赫然千載,コ譽愈尊。矜汝文章,負汝言語,乘人不能,
掩以自取。汝非其父,汝非其師,不請而教,誰雲不欺?
欺以賈憎,掩以媒怨,汝曾不寤,以及於難。小人在辱,
亦克知悔,及其既寧,終莫能戒。既出汝心,又銘汝前,
汝如不顧,禍亦宜然!



感春四首 之一
我所思兮在何所?情多地遐兮遍處處。東西南北皆欲往,千江隔兮萬山阻。
春風吹園雜花開,朝日照屋百鳥語。三杯取醉不復論,一生長恨奈何許!
之二
皇天平分成四時,春氣漫誕最可悲。雜花妝林草蓋地,白日座上傾天維。
蜂喧鳥咽留不得,紅萼萬片從風吹。豈如秋霜雖慘冽,摧落老物誰惜之?
為此徑須沽酒飲,自外天地棄不疑。近憐李杜無檢束,爛漫長醉多文辭。
屈原《離騷》二十五,不肯餔啜糟與?。惜哉此子巧言語,不到聖處寧非癡?
幸逢堯舜明四目,條理品匯皆得宜。平明出門暮歸舍,酩酊馬上知為誰?
之三
朝騎一馬出,暝就一床臥。詩書漸欲?,節行久已惰。
冠欹感發禿,語誤悲齒墮。孤負平生心,已矣知何奈!
之四
我恨不如江頭人,長網江遮紫鱗。獨宿荒陂射鳧雁,賣納租賦官不嗔。
歸來歡笑對妻子,衣食自給寧羞貧。今者無端讀書史,智慧只足勞精神。
畫蛇著足無處用,兩鬢雪白趨埃塵。乾愁漫解坐自累,與?異趣誰相親?
數杯澆腸雖暫醉,皎皎萬慮醒還新。百年未滿不得死,且可勤買?青春。


鄭群贈簟
?州笛竹天下知,鄭君所寶尤瑰奇。攜來當晝不得臥,一府傳看?琉璃。
體堅色?又藏節,盡眼凝滑無瑕疵。法曹貧賤?所易,腰腹空大何能為?
自從五月困暑濕,如坐深甑遭烝炊。手磨袖拂心語口,慢膚多汗真相宜。
日暮歸來獨惆悵,有賣直欲傾家資。誰謂故人知我意,卷送八尺含風?。
呼奴掃地鋪未了,光彩照耀驚童兒。青蠅側翅蚤虱避,肅肅疑有清?吹。
倒身甘寢百疾愈,卻願天日恒炎曦。明珠青玉不足報,贈子相好無時衰。
(鄭群 簟を贈る)#1
?州【きしゅう】の笛竹【ちくてき】は天下知る、鄭君の宝とする所 尤【もっと】も壊奇【かいき】なり。
携え来たり昼に当たるも臥すを得ず、一府伝え看る 黄瑠璃【こうるり】。
体堅く色浄く 又節を蔵す、尽眼【じんがん】凝滑にして瑕疵【かし】無し。
法曹は貧賤【ひんせん】にして衆の易【あなど】る所、腰腹空しく大なるも何をか能【よ】く為さん。
五月自従り 暑湿に困【くる】しみ、深甑【しんそう】に坐して蒸炊【じょうすい】に遭うが如し。
手を磨し袖を払いて 心口に語る、慢膚【まんぷ】汗多きは真【まこと】に相宜【よろ】しと。
日暮れて帰り来たり 独り惆悵【ちゅうちょう】し、売る有らば直ちに家資を傾けんと欲す。
誰か謂【おも】わん 故人我が意を知り、八尺の含風【がんふう】?【い】を巻いて送らんとは。
#3
奴を呼び地を掃【はら】って鋪【し】かしむること未だ了【お】わらざるに、光彩照耀して童児を驚かす。
青蠅【せいよう】は翅を側【そば】め蚤虱【そうしつ】は避け、粛粛【しゅくしゅく】として清?【せいひょう】の吹くこと有るかと疑う。
身を倒して甘寝【かんしん】し百疾【ひゃくしつ】愈【い】え、却って願う 天日の恒に炎曦【えんぎ】なるを。
明珠・青玉も報ゆるに足らず、子【し】に相好【よ】くして時として衰うる無きを贈らん。


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