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  韓愈の生涯  

1-4 科挙への道




1-4 科挙への道

江南に移ってから、愈は学問に本腰を入れるようになった。「始專專於講習兮,非古訓為無所用其心。」(始めて講習に専専し、古訓に非すんば其の心を用ゐる無しと爲せり)《昌黎先生集/卷1-1.2復誌賦》とは、後年になってから当時を追憶しての語である。ここに「古訓」と言ったのは、主として経書の解釈に関する問題であるが、魏・晋・南朝に興った新しい学風・解釈に対し、後漢以前の古い解釈をさす。その「古訓」を志向したとは、南朝文化の伝統の中にいなから、それに反撥したように受け取れるが、唐代の経学全体について見れば、欽定の『五経正義』に見られるように、南朝の学問をいちがいに否定はしないが、基本的に「古訓」を祖述する態度をとる傾向があるので、特に時流に反撥したものともいえない。ただ、これがやがて愈の「古文」への道を引き出す契機になるわけで、その点に関係して重視すべきものであろう。
 それにしても、江南にはまだ南朝の学問の伝統が残っていたはずである。愈がそれを学ばなかったとは考えられない。学んだからこそ、「古訓」をみすから選び取る態度が生じたのであろう。「復誌賦」に限らす、意の後年の追憶には、しばしば披が最初から「いにしえの道」を志していたと説く傾きがある。人情の常として、そう言いたいだろうと理解はできるが、彼が学問の初歩から、すでに古文と古道を志していたとは、信じにくい。
 さて、愈の修学時代は八年続いた。徳宗の貞元二年(786)、十九歳になった彼は、単身で長安の都に上る。江南での生活はいちおう安定していたように見えるが、士の身分にある青年が、いつまでも地方に引きこもっていることはできない。彼が世に立つためには、兄や父と同様、役人となるほかはなかったのである。それはまた、天子を助けて善政を布くことによって国家と社会に奉仕するという、儒教精神に培われた男児一生の理想を実現する道でもあった。
 役人になるには、その採用試験である「科拳」に合格しなければならない。科拳とは、門地門閥にかかわらず、広く天下の英才を試験によって選抜することを目的として、隋代から設置され、唐代に整備された制度で(その後もさらに改正を加えられながら、清代末期まで続いた)、幾つかのコース(これを「科」という)に分けられ、コースごとに試験課目や問題数が異なる。受験者は、希望するコースーつをみずから選んで出願することができるのである。
 このような制度のもとでは、コースによって合格に難易の差が生ずるのが当然である。競争が激しく、合格がむずかしいコースを通過すれば、英才として認められる。比較的やさしいコースの合格者は、それほど評価してもらえない。これは、合格して役人になったあとの、出世にかかわる問題である。すなわち、むすかしいコースの合格者だけがエリートとして、出世街道を歩むこととなる。そうなれば、才能に自信を持つ受験者は、当然のこととしてむすかしいコースに挑戦を試みる。
そこで、むずかしいコースは受験者の数だけでなく、質的にも激しい競争とならざるを得ない。そして競争が激しければ激しいほど、合格者はエリー‐トとして待遇される。
 愈の時代(その後も同様であったが)、最もむすかしいコースは、「進士の科」と名づけられるものであった。大志を抱く青年として、愈ももちろん、進士の科の突破を目ざすこととなる。
 これも後年の追憶で《昌黎先生集/卷16-5答崔立之書》だが、愈は次のように語っている。先輩の崔立之という人へあてた手紙の中の一節である。
   ……
「仆始年十六七時,未知人事,讀聖人之書,以為人之仕者,皆為人耳,非有利乎己也。及年二十時,苦家貧,衣食不足,謀於所親,然後知仕之不唯為人耳。及來京師,見有舉進士者,人多貴之,仆誠樂之,就求其術,或出禮部所試賦詩策等以相示,仆以為可無學而能,因詣州縣求舉。有司者好惡出於其心,四舉而後有成,亦未即得仕。」(仆 始めて年十六七の時,未だ人事を知らず。聖人の書を讀んで,以為【おもえ】らくは人の仕える者は,皆 人の為にするのみ,己に利有るに非ずと。年二十の時に及び,家貧しゅうして苦み、衣食足らざるに,所親に謀る。
然る後 仕えの之不唯だ人の為のみにならざるを知る。京師に來るに及んで,進士に舉げられる者有れば,人多く之を貴ぶを見て,仆は誠に之を樂【ねが】う。就いて其の術を求めれば,或いは禮部の試みる所の賦詩策等を出して以て相い示す。仆は以為【おもえ】らく學ぶ無くして能くす可しと。因って州縣に詣【いた】って舉げられんことを求む。有司の者 好惡【こうお】其の心に出でて,四たび舉られて後に成る有りしも,亦た未だ即ち仕うるを得ず。)
僕はやっと年十六、七の時に、まだ世間の事を知らなかった。聖人の書を読んで、人が官に仕えるのは皆、人のため、天下のためにするだけで、自分の一身の利益のためではないと思った。年が二十の時になって、家が貧しくて、衣食をするにも足りないのに苦しんで、親しい人に相談をした。そうして後、はじめて官に仕えることはただ世の人のためだけでないことを知った。長安に来て、進士に挙げられる老あれば、人々は多くこれを貴ぶのを見るに及んで、僕は誠にこいねがわしく思った。就いてその方法を求めたところ、或る人が礼部の試験した賦や詩、論策等を出して、それを示してくれた。僕は学ばなくともできると思っていたということである。
困って州県の役所に行って進士に挙げられることを求めた。だけど、役人はその心から好き嫌いでもって判定を出すのである。僕は四度挙げられて試験を受けて、はじめて成功したのであるが、それでもまた、すぐには仕えることができなかったのである。
   ……
私が二十の年ごろになったとき、家が貧乏で、衣食も足りないのがつらかったものですから、親しい人に相談したところ、役人となることが人のために働くばかりでなべ、自分のためにもなる(俸給がもらえるから)と、はじめて知りました。そこで都へ出てから、進士の科に合格した者がいると、多くの人々がえらいものだと尊敬するのを見ました。私は心からうらやましく、どうしたら合格できるのかとたすねますと、進士の科の試験問題を出して見せてくれる人がありました。私はこれなら勉強しなくても合格できると思ったものですから……

 ここには、彼一流のポーズがあるように見うけられる。披は親しい先輩の崔立之に向って、自分は子供のころから受験を目ざして一筋に勉強していたのではない、自分の信ずるところに従って「古訓」を学んだのであり、そうすれば科拳などは自然に合格できるものだ、と言いたかったのであろう。
 たしかに、受験勉強のような型にはまった学習は、愈の得意とするところではなかったと思われる。しかし、当時の士の子弟の教育は、いずれ彼らが科挙に応ずることを前提としたものであった。
そのカリキュラムに愈が反撥をおぼえたとしても、完全に背を向けてしまったのでは、何も勉強はできない。まして愈の家は、代々役人を出していた。役人になるのが愈の生まれた時からの運命であり、また、それ以外に彼の生きる道はなかったのである。その彼が、都に出るまで、進士の科の存在を知らなかったとは、とても信じられない。
 しかも、愈が上京したのは、まぎれもなく役人になるためであった。ところが、進士の科を受けるには、一つの資格が必要である。初めのうち、科挙は天下の英才に広く門戸を解放するのがたてまえなので、誰にも受験を認めたらしいが、受験者があまり多すぎては、試験場とか採点の時間などに不便が生ずるので、受験資格が定められた。規定にはいろいろあるが、愈のような受験者の場合には、その所属する州・県の長官の推薦状が必要であった。そうすれば受験者の数も制限され、粒もそろうわけである。州・県の長官の方では、平素から管下の有能な若者に目をつけるのが職務の一つではあったが、全部に目がとどくわけのものでもない。そこで、推薦を希望する受験者を集め、自分が主宰する試験を施行して、その合格者に推薦状を発行することがあった。つまり、州・県の単位で予備試験が実施されたわけである。
 したがって、愈の言いぶんのとおりに事情を説明すれば、次のようになる。彼は役人になろうとして、都へ上った。そして進士の科の合格者が尊敬されるのを知って、自分も受験したいと思った。
ただし、受験したいと思っただけでは受験させてくれないので、州・県の推薦状を手に入れなければならない。彼がそれを手に入れたことは、実際に進士の科を受けているのだから、確実であるが、どのようにして手に入れたのか、愈は語っていない。
 州・県の推薦状と書いたが、この点に関する規定は、必ずしも明らかでない。科挙制がさらに整備された後世、たとえば清代になると、州・県の予備試験は(唐代よりももっと大がかりなものであるが)、原則としてその土地を本籍とする受験生を対象とした。逆にいえば、受験生が任意に州・県を選ぶことはできないのであって、愈の場合ならば、南陽で予備試験を受けなければならない。
 唐代でも原則は同じであったと思われるが、例外がすいぶんあって、現住所の州・県の長官の推薦状をもらった例が見られる。韓愈の場合でいえば、宜州でも推薦してもらえたはずである。しかし、長安は意にとって旅さきであり、現住所とも称しにくいので、そこから推薦状をもらうことは、絶対に不可能ではなかったかもしれないが、常識的には考えにくい。とすれば、韓愈は進士の科を受けようと思い立った後、一度長安を離れ、南陽か宜州へ行って、推薦状を手に入れなければならなかった。
 そこが、どうもおかしいのである。宜州から長安へ行き、また宜州や南陽まで推薦状をもらいに往復するのは、よけいな手間だし、旅費もかかる。よほど片田舎の住人ならば、科挙の規則などに疎いこともあろうが、宜州は江南でも屈指の大都会であった。愈が役人を志して上京する以上、科挙について予備知識を求めたならば、得られないはずはなかったのである。むしろ、推薦状をもらって行けとアドヴァイスをしてくれる人があったとしても、ふしぎはない。どう考えてみても、愈は最初から進士の科を受けるつもりで、その受験資格も獲得した上で、長安に入ったに違いないのである。


《昌黎先生集/卷2-23出門》
出門 (本文)
長安百萬家,出門無所之。
豈敢尚幽獨,與世實參差。
古人雖已死,書上有其辭。
開卷讀且想,千載若相期。
出門各有道,我道方未夷。
且於此中息,天命不吾欺。
(出門)
長安には百萬の家、門出でて之(ゆ)く所無し。
豈 敢えて幽獨を尚(とうと)ばんや、世にあたって參差(しんさ)を實なり。
古人已に死すと雖も、書上に其の辭(じ)有り。
巻を開きて讀み且つ想い、千載も相い期するが若(ごと)し。
門を出でては各々道有り、我が道は方(まさ)に未だ 夷(たいら)かならず。
且く此の中(うち)に息(いこ)わん、天命 我を欺(あざむ)かじ。
(現代語訳)
長安には何百、何万という家があるけれど、私は門を出たらどこにも行く所がない。
どうしてといって、べつにひとり静かに住みたいと思っているわけではないが、正直なところ世間の人々と考え方や好みが食い違っているからだ。
いにしえの人はもはや肉体的には死んでしまっているが、書物、詩文にはその言葉、精神が載っている。
その本をあけて読みながらその人を想像するのである、千年を隔てていても、たがいに会おうと約束したかのような心地がするのである。
人は門を出ればそれぞれに道ができているものなのに、私の道は見つかっていないので、今はまだ平坦でないということだ。
しかし、科挙試験を受けることはつづけるのだが、ひとまずは少し休息することとしよう。天命は私を欺くことはないであろうと思っている。


《昌黎先生集/卷3-9條山蒼》
條山蒼
條山蒼  、河水黄。
浪波??去、松栢在山岡。
(条山 蒼く)
条山 蒼く、河水 黄なり。
浪波は??として去りぬ、松柏 高岡に在り。
(中条山脈は蒼然としている。)
中条山脈は日暮れの薄暗さの中で青々としている。その南を流れる黄河の流れは広々として黄色にひろがっている。
黄河は、大波、小波、渦巻き流れさっていく、世間の波もそうやって東流して行く。いつの日にも松やヒノキは常緑でいるけれどそれは特別な事でなくそれは天から授けられた精気の違いで、めいめい自分に与えられた時節に存分に過ごすものなのだそしてその木はその陽城先生と共に高岡に立っている。

《昌黎先生集/卷16-5答崔立之書》

答崔立之書
斯立足下:仆見險不能止,動不得時,顛頓狼狽,失其所操持,困不知變,
以至辱於再三,君子小人之所憫笑,天下之所背而馳者也。足下猶複以為可
教,貶損道コ,乃至手筆以問之,?援古昔,辭義高遠,且進且勸,足下之
於故舊之道得矣。雖仆亦固望於吾子,不敢望於他人者耳。然尚有似不相曉
者,非故欲發餘乎?不然,何子之不以丈夫期我也?不能默默,聊複自明。

仆始年十六七時,未知人事,讀聖人之書,以為人之仕者,皆為人耳,非有
利乎己也。及年二十時,苦家貧,衣食不足,謀於所親,然後知仕之不唯為
人耳。及來京師,見有舉進士者,人多貴之,仆誠樂之,就求其術,或出禮
部所試賦詩策等以相示,仆以為可無學而能,因詣州縣求舉。有司者好惡出
於其心,四舉而後有成,亦未即得仕。聞吏部有以博學宏詞選者,人尤謂之
才,且得美仕,就求其術,或出所試文章,亦禮部之類,私怪其故,然猶樂
其名,因又詣州府求舉,凡二試於吏部,一既得之,而又黜於中書,雖不得
仕,人或謂之能焉。退因自取所試讀之,乃類於俳優者之辭,顏忸怩而心不
寧者數月。既已為之,則欲有所成就,《書》所謂恥過作非者也。因複求舉,
亦無幸焉,乃複自疑,以為所試與得之者,不同其程度,及得觀之,餘亦無
甚愧焉。夫所謂博學者,豈今之所謂者乎?夫所謂宏詞者,豈今之所謂者乎?
誠使古之豪傑之士,若屈原、孟軻、司馬遷、相如、揚雄之徒,進於是選,
必知其懷慚?乃不自進而已耳。設使與夫今之善進取者,競於蒙昧之中,仆
必知其辱焉。然彼五子者,且使生於今之世,其道雖不顯於天下,其自負何
如哉!肯與夫鬥?者決得失於一夫之目,而為之憂樂哉!故凡仆之汲汲於進
者,其小得蓋欲以具裘葛、養窮孤,其大得蓋欲以同吾之所樂於人耳,其他
可否,自計已熟,誠不待人而後知。今足下乃複比之獻玉者,以為必俟工人
之剖,然後見知於天下,雖兩?足不為病,且無使者再克。誠足下相勉之意
厚也,然仕進者,豈舍此而無門哉?足下謂我必待是而後進者,尤非相悉之
辭也。仆之玉固未?獻,而足固未??,足下無為為我戚戚也。

方今天下風俗尚有未及於古者,邊境尚有被甲執兵者,主上不得怡,而宰相
以為憂。仆雖不賢,亦且潛究其得失,致之乎吾相,薦之乎吾君,上希卿大
夫之位,下猶取一障而乘之。若都不可得,猶將耕於ェ間之野,釣於寂寞之
濱,求國家之遺事,考賢人哲士之終始,作唐之一經,垂之於無窮,誅奸諛
於既死,發潛コ之幽光。二者將必有一可。足下以為仆之玉凡幾獻,而足凡
幾?也,又所謂者果誰哉?再克之刑信如何也?士固信於知己,微足下無以
發吾之狂言。愈再拜。

29《讀巻03-12 答崔立之書 -(1)§1-1》韓愈(韓退之)
《讀巻03-12 答崔立之書 -(2)§1-2》韓愈
《讀巻03-12 答崔立之書 -(3)§1-3》韓愈
《讀巻03-12 答崔立之書 -(4)§2-1》韓愈
《讀巻03-12 答崔立之書 -(5)§2-2》韓愈
29-§3-1《讀巻03-12 答崔立之書 -(6)§3-1》韓愈
29-§3-2《讀巻03-12 答崔立之書 -(7)§3-2》韓愈
29-§3-3《讀巻03-12 答崔立之書 -(8)§3-3》韓愈
29-§4-1《讀巻03-12 答崔立之書 -(9)§4-1》韓愈
29-§4-2《讀巻03-12 答崔立之書 -(10)§4-2》韓愈
29-§5-1《讀巻03-12 答崔立之書 -(11)§5-1》韓愈
29-§5-2《讀巻03-12 答崔立之書 -(12)§5-2》韓愈
29-§6-1《讀巻03-12 答崔立之書 -(13)§6-1》韓愈
29-§6-2《讀巻03-12 答崔立之書 -(14)§6-2》韓愈








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