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  韓愈の生涯  

3-1 監察御史 


  韓愈の生涯
第一章 科挙への道と挫折   大暦三(768)年 〜 貞元十一(795)年
   〈1〜2歳》家 系 / 〈3〜6歳》父の死 / 〈7〜18歳》兄の死 / 〈19歳〉科挙への道
   《19〜20歳》衣食の道 / 《20〜23歳》最初の挫析 / 〈24〜25歳〉進士及第
   〈25〜27歳》第二の挫折 / 《28歳〉自負と失意と
第二章 幕僚生活から四門博士  貞元十二(796)年 〜 貞元一八(802)年
   《29〜32歳》幕僚生活 / 《33歳〉再び幕僚生活 / 〈34歳》四たび吏部の試 / 《35歳》四門博士
第三章 陽山貶謫と中央朝廷復帰と、韓愈一門 貞元一九(803)年 〜 元和元(806)年
   《36歳》監察御史 / 第三の挫折 / 荊蛮の地
第四章 永貞革新と韓愈一門     永貞事件  永貞元(805)年八月 
   永貞革新とその経緯 / 永貞革新集団と春秋学 / 『春秋』と大中の説 / 大中の説と堯・舜の治績
   順宗実録
第五章 中央朝廷へ復帰    元和元(806)年 〜 元和九(814)年
   《39〜41歳》国子博士 / 《42〜43歳》河南県令 / 《44歳》送 窮
 / 《45〜46歳》進学の解 / 《46〜47歳》処世の術

第六章 「平淮西碑」から「論佛骨表」 元和一〇(815) 〜 元和一四(819)年

  《48歳》淮西の乱 / 《49歳》太子右庶子 / 《50〜51歳》栄達への道 / 《52歳》平淮西碑
   《52歳》論佛骨表 / 《52歳》潮州への道

第七章 潮州左遷から袁州刺史 元和一四(819)年 〜 元和一五(820)年

      《52歳〉潮州にて  /  《53歳〉袁州刺史

第八章 ふたたび長安へ、そして晩年 元和一五(820)年 〜 慶四(834)年

   《53歳》長安への道 / 《54歳〉国子祭酒 / 《55歳〉吏部侍郎 / 《56歳〉京兆の尹 / 《57歳》晩年



05 韓愈の生涯 第三章 陽山への貶謫監察御史 貞元一九(803)
3-1 監察御史 貞元一九(803)年〈三六歳》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・          95
803年貞元19年36歳  初句  
803年七月、監察御史になる。 
貞元19年京兆尹李実を弾劾して陽山令に貶せられる。2度目嶺南行。 
姪韓老成、歿す。 
《昌黎先生集/卷2-27利劍》 利劍光耿耿,
《昌黎先生集/卷3-16古意》 太華峰頭玉井蓮,
《昌黎先生集/卷4-15落齒》 去年落一牙,
《昌黎先生集/卷4-16哭楊兵部凝陸歙州參》 人皆期七十,
《昌黎先生集/卷4-17苦寒》 四時各平分,
《昌黎先生集/卷5-13題炭谷湫祠堂》【案:在京兆之南,終南之
下,祈雨之所也。〈南山〉、〈秋懷詩〉皆見之。】
萬生都陽明,
《昌黎先生集/卷9-28詠雪贈張籍》 只見縱落,
《昌黎先生集/卷20-4送浮屠文暢師序》 人固有儒名而墨行者
《昌黎先生集/卷23-13祭十二郎文》 年月日季父愈聞汝喪之七日


第三章 陽山への貶謫


陽山への貶謫と中央朝廷へ復帰の道と、韓愈の一門

 


3-1 監察御史


 貞元十九年(803)、韓愈は三十六歳。年来の疾患である歯はますます悪くなった。この年の作と推定される五言古詩《昌黎先生集/卷4-15落齒》は、次のようにうたい出されている。
落齒 #1(落歯) #1
去年落一牙,今年落一齒。昨年、一牙【いちが】を落ち、今年、一歯【いっし】を落つ。
俄然落六七,落勢殊未已。俄然【がぜん】として六七を落ち、落つる勢い殊に未だ己【や】まず。
餘存皆動搖,盡落應始止。余の存するものも皆動揺す、尽く落ちて応に始めて止むべし。
憶初落一時,但念豁可恥。憶う 初め一を落ちし時、但だ念う豁【ひろ】きは恥ず可しと。
#2#2
及至落二三,始憂衰即死。二三を落つるに至るに及び、始めて憂う衰えて即ち死なんと。
?一將落時,懍懍恆在已。一つ将に落ちんとする時毎に、懍懍【りんりん】たること恒【つね】に己【おのれ】に在り。』
叉牙妨食物,顛倒怯漱水。叉牙として物を食うことを妨げ、顛倒【てんとう】して水に注ぐ漱【くちす】ぐことを怯る。
終焉舍我落,意與崩山比。終焉【しゅうえん】として我を捨てて落つ、意は崩るる山に比す。
#3#3
今來落既熟,見落空相似。今来【きんらい】、落つること既に熟し、落つるを見れば空しく相似たり。
餘存二十餘,次第知落矣。余の存せる二十余りも、次第に落ちんことを知る。
儻常?落一,自足支兩紀。儻【も】し常に歳ごとに一を落つれば、自ら両紀【りょうき】を支うるに足れり。
如其落併空,與漸亦同指。如し其れ落ちて併【あわ】せて空しくとも、漸【ぜん】なると亦指を同じくせん。』
人言齒之落,壽命理難恃。人は言う「歯の落つるは、寿命も理として恃【たのし】み難し」と。
#4#4
我言生有涯,長短?死爾。我は言う「生は涯【かぎ】り有り、長短 倶に死する爾【のみ】」と。
人言齒之豁,左右驚諦視。人は言う「歯の割【ひろ】きは、左右 驚きて諦視【ていし】す」と。
我言莊周云,水雁各有喜。我は言う「荘周がいえり、『木雁【ぼくがん】 各々喜び有り』と。
語訛默固好,嚼廢軟還美。語の訛【あやま】るは黙すること固【もと】より好く、嚼【か】むこと廢【はい】すれば軟かなもの還【また】 美なり。」
因歌遂成詩,持用詫妻子。因って歌って遂に詩を成し、持して用って妻子に誇る。』
 去年、今年と一本ずつ歯がぬけたと思ったら、いきなり六、七本まとめてぬけ落ち、残った歯もぐらぐらして、仝部ぬけないとおさまりがつかなそうだというのである。詩はこのあと、初めのうちは歯のぬけた顔を人に見られるのが恥ずかしく、その次には老衰して今にも死ぬのではないかと心配したという叙述が続く。しかし考えてみると、残った歯は二十本ばかり、これか一年に一本すつぬけたとしても、まだ十二年以上もつわけだ。「人は言ふ 小歯の落つるは/寿命理として侍み難しと我は言ふ 生には涯有り/長短 倶に死せんのみ」。どうせ一度は死ぬ命、残りの歯が仝部一ペんにぬけ落ちて死んだとしても、つまりは同じことだろう。ものを言うのが不便ならば沈黙の美徳が守れるし、物が噛みにくければやわらかい食物がうまく感じられるというものだ。
 最後の部分は、むろん負け惜しみである。げんに、以後の愈が沈黙を守るようになったわけではない。
 この年、彼は監察御史に転任した。御史台(今の日本でいえば検察庁に相当する)に属する官職で、主として地方を巡回し、地方官の非違を糾明したり、地方の裁判・刑罰を監督する。位階は正ハ晶の上なので、高い地位とはいえないが、四門博士と比較すればエリートコースに近い。栄転と考えてよかろう。
 だが、この栄転には多少の疑問がある。当時の役人には四年に一度の定期異動があって、四年間の勤務成績を吏部が査定し、次の職を与えることになっていた。よほどの功績があるか、よほど悪いことでもすれば、定期異動を待たすに昇進または左遷されることもあるのは言うまでもないが、愈の場合、そのどちらに該当したわけでもなさそうである。それか、四門博士に就任した翌年、もうほかに転出したのは、何か特別な事情があったと考えざるをえない。
 ただ、その特別な事情は、今ではもうわからなくなっている。たとえば、愈が四門博士になったのは正規の任用ではなく、満一年と期限を切った上での試験的な採用であったと想像することも不可能ではないが、確証はないので、あくまでも想像の域を出ない。一つだけ確実なのは、彼は四門博士からすぐに監察御史へと栄転したのではなく、四門博士を一度退職し、あらためて監察御史に任命する辞令をもらったという事実である。
 それは、この年に彼が工部尚書の李実へ送った于紙に(《昌黎先生集/卷15-3上李尚書書》李尚書に上る書)、「前の四門博士韓愈」と肩書をつけているところから確認できる。もっとも、当時の役人は定期異動の場合にでも、いったん辞表を提出して次の沙汰を待ち、吏部では勤務評定の上、辞表を正式に受理すると同時に次の官職の辞令を出すのが慣例であったらしい。評定が悪ければ、辞表か受理されただけで次の任命が出ないこともある。つまり首になったわけだが、文句の言える筋ではない。だから百官は、異動のたびに一度は「前」という肩書きを持つ期間があるわけで、その期間には、どうでも次の職を、しかもできるだけよい職を得るべく、あらためて運動しなければならなかった。
 愈の場合もそれだと言ってしまえば問題はないわけだが、就任の翌年というのが、やはり疑問として残る。ち%r4Jその年が朝廷全体の定期異動の年に当ったとしても、在任一年では勤務評定も正確にしにくいから、もう四年は続けて勤務させることもかまわないのである。あるいは愈の方から、もう四門博士には見きりをつけて、ちょうど定期異動の年に当ったのを幸い、辞表を出して次の職をもらおうと狙ったのかもしれないか、これも推測の域を出ない。推測ばかりかさねてもしかたがないので、いちおう疑問は疑問として残し、話を先へ進めよう。
 愈が李実へ送った手紙は、明言しているわけではないが、李の引きたてを求めたものである。冒頭に、その年の旱害にあたって李のとった処置が適切であったとたたえ、当今、赤心をもって国を憂えるのにあなた以上の人はないとまで持ち上げておいて、一度お目にかかりたいと希望を述べる。そのため、自分がこれまでに作った詩文二巻を進呈するから読んでいただきたいと中し添えてあるのは、受験生時代と同じことを、またくりかえしたわけである。
 また、陳京という人にも、愈は手紙を送った(《昌黎先生集/卷17-5與陳給事書》陳給事に与ふる書)。陳は愈と面識があり、しかも、愈に対して「一言の誉」を与えてくれたことのある人であった。ところが、その後愈は貧乏のため衣食に奔走するうち、陳の方はどんどん出世してしまった。出世した人の家には大勢の客が押しかけるもので、貧賤の者はいきおい顔が出しにくくなる。しかも、「愈や、道は修むるを加へざるに、文は日ごとにますます名有り。夫れ道に修むるを加へざれば、則ち賢者は与せす。文、日ごとにますます名有れば、則ち同に進む者は忌む」。そんなわけで、愈がごぷさたをしているうちに、陳の耳には愈の悪口ばかりが伝わった。
 ところが、去年(すなわち貞元十八年)の春、愈は陳の屋敷を訪れて、面会することができた(たぶん四門博士に採用してもらうための運勤であろう)。そのとき、陳はしごく親切で、愈の貧窮に同情してくれるそぶりを示したため、愈はすっかり嬉しくなった。だが、それから妻子を連れに洛陽へもどるなど、雑用にまぎれてごぶさたか続き、都に住居を定めてからもう一度参上したところ、陳はしごく冷たい表情で、愛想のない応対をした。何かかお気に召さないという感じであった。
 そこで愈は考えた。たびたび御機嫌伺いに参上しなかったのが、お気にさわったらしい。どうも中しわけのないことであったが、事情はこれまでに述べたとおりなので、御諒察いただきたく、この手紙をさしあげる次第である。あわせて近作の詩文一巻をお届けするので、御覧願いたい。

 この手紙に愈の肩書がついていないのは、李実の場合と違い、以前から面識のある陳京に対して、ことごとしく肩書を自署する必要もなかったためであろう。しかし、肩書があったとすれば、手紙の内容から見て、やはり「前の四門博士」でなければならぬ。
 察するところ、愈が四門博士に採用された裏には、陳京の力が(陳京一人ではなかったかもしれないが)働いていたのであろう。陳の方は、いずれ愈が正式のあいさつに来ると思っていたに違いない。それなのに、洛陽へ家族を呼びに行くなどと、私事にかまけて、音沙汰がなかった。そして二度目に陳の屋敷へ行ったのは、四門博士を辞職してから、あるいは辞職すると決意してからではなかったか。つまり、次の職をもらうために力添えをしてほしいと、頼みに行ったのである。自分の都合で頼みごとがあるときだけ会いに来て、あとは礼を言いにも来ない。これでは陳が好い顔をしないのも当然である。

 愈にはこのように、図々しいところがあった。それは結局、自分ほどの能力のある者を活用しないのは国家の損失だ、自分を推薦するのは上に立つ者の義務だと考える、自負心から生じたことであろう。李実も陳京も、韓愈の才能は認めたかもしれないが、使いにくいやつだ、少なくとも官界で自分の子分とするには適当でない男と判断したのではないか。
 それにしても、結果として監察御史の辞令かもらえたのだから、愈は満足すべきであろう。これが陳京の尽力によるものかどうかは確認できないが、少なくとも陳は、韓愈に冷たい貌をして見せたことはあっても、少なくとも韓愈が監察御史となるのを妨害はしなかったことになる。とすれば、陳のもとに自分の悪口ばかりが伝えられたと愈が言うのも、いささか割引きして考えなければなるまい。
 後年に至るまで一貫して、韓愈は世間の俗論の集中攻撃を受け、満身創痍となりつつも、あくまでも戦ったと言い続けている。たしかに、愈の図々しさを嫌う人は多かったであろう。しかし、ほんとうに天下を敵にまわし、ごく少数の知己しか味方につけていなかったとすれば、これから先も続く愈の出世は(その間に何回かの挫折も含まれるが)、説明がつかないのである。
 やはり想像によるほかはないのだが、ほんとうに愈を憎んだ人は、そう多くはなかったのではないか。せいぜい、風変りな男だと思う程度だったのではあるまいか。しかし、愈の立場からいえば、それでは困る。彼は「道」を背負って立つことを自任した人物であり、しかも今の世は「道」のすたれた時代だと信じている。俗論が自分を憎んでくれなければ、こちらの「道」の存在感が稀薄になってしまう。しかも孔子・孟子以来、「道」を説く人は、みな俗論の攻撃を受け、それと戦った。

その系列に自分をおく以上、やはり攻撃されて当然なのである。
 披が世の中に蓼れられないと、詩や手紙の中で何度も愚痴を言うのは、今の日本語でいえば、被害者意識となるのかもしれない。だかこれは、妙な被害者意識であった。たしかに被害を受けたことはあったろうが、本人がそもそも、披害者となることに生き甲斐を感じていたのだから。
 さて、こうした人物が監察御史となったのは、適任であったかもしれない。司法の面に限定されてではあるが、披の信する「道」を現実の社会に適用することができるようになったのである。しかも年齢は三十六、まだ円熟の境地には遠い。後年の彼の述懐によれば、監察御史時代の彼は、思いきり任務を遂行して他人のことは考えようともせず、自分だけが正しいと思っていた。だから軟弱な連中は、自分の前では小さくなっていながら、陰では「舌は刀の如き有り」というありさまであったという(《昌黎先生集/卷22-9祭河南張員外文》河南の張員外を祭る文)。

 この年四月、彼の妻の母が死んだ。六十九歳。姓は苗氏、河南法曹をつとめた(これもさほど地位の高くない地方官である)か針という人に嫁き、夫に死に別れてからは、女手ひとつで二男三女を育てあげた。その末の娘が愈の妻である(韓文三四、河南府法曹参軍盧府君夫人苗氏墓誌銘)。
 そして五月には、江南にいた甥の韓老成が死んだ。愈が汐‥州にいたころ、老成が一度たずねて来たが、それ以後は全く会っていない。前年、老成からの手紙に脚気の気昧があると言ってきたが、江南にはよくある風土病と、愈はさほど気にしなかった。ところがこの年、深陽の尉をつとめていた孟郊から、ふいに老成の死を報ずる手紙が来たのである。それを受取ってから七日目、愈は祭文を書き、使者に持たせて老成の霊前にそなえさせた。
その「十二郎を祭る文」(韓文二三)には、二人の幼なかったころからの思い出が、綿々と綴られている・そして最後に、
「自今已往,吾其無意於人世矣。當求數頃之田於伊潁之上,以待餘年,教吾子與汝子,
幸其長成,吾女與汝女,待其嫁,如此而已。嗚呼!言有窮而情不可終,汝其知也邪?
其不知也邪?嗚呼哀哉!尚饗。」
今より已往【いおう】、吾それ人生に意無し。
当に数頃【すうけい】の田を伊潁【いえい】の上【ほとり】に求めて、以って余年を待つべし。
吾が子と汝が子を教えて、その成るを幸(ねが)わん。
吾が女【むすめ】と汝が女とを長じて、その嫁するを待たん。此の如きのみ。
嗚呼、言窮まり有って情終【お】うべからず。
汝それ知れるか、それ知らざるか。
嗚呼哀しいかな。尚【ねが】わくは饗【う】けよ。
それ故、はてなき天にこの悲しみを訴えることなどできようか。今からのちは、私は人の世に意欲がなくなった。
当然、かの隠遁の地で、数頃の田を伊州や穎川のほとりに求めて、それで以て死ぬまでの残る年を待って暮らしを求めていた。
私の子とお前の子のこのことを教えて、こいねがうのは、この子らのすこやかな成長を祈るのである。
私の娘とお前の娘とは、その嫁にやる時を得たねばならない。ただこのようにするだけである。
ああ、言葉には窮まりがあるけれども、情は述べ終えることができない。
お前は私のこの情がわかるだろうか。それともわからないだろうか。
ああ悲しいことよ。どうかこの祭りを饗けられよ。

と、結んでいる。


上李尚書書
月日,將仕郎前守四門博士韓愈,謹載拜奉書尚書大尹閣下:愈來京師,於今十五年,
所見公卿大臣,不可勝數,皆能守官奉職,無過失而已;未見有赤心事上,憂國如家
如閤下者。今年以來,不雨者百有餘日,種不入土,野無青草,而盜賊不敢起,穀價
不敢貴。百坊、百二十司、六軍二十四縣之人,皆若閣下親臨其家;老奸宿贓,銷縮
摧沮,魂亡魄喪,影滅跡?。非閣下條理鎮服,宣布天子威コ,其何能及此!愈也少
從事於文學,見有忠於君、孝於親者,雖在千百年之前,猶敬而慕之;況親逢閣下,
得不候於左右以求效其懇懇?謹獻所為文兩卷,凡十五篇,非敢以為文也,以為謁見
之資也。進退惟命。愈恐懼再拜。


祭河南張員外文
維年月日,彰義軍行軍司馬守太子右庶子兼禦史中丞韓愈,謹遣某乙以庶羞清酌之奠,
祭於亡友故河南縣令張十二員外之靈。

貞元十九,君為禦史。餘以無能,同詔並跨,君コ渾剛,標高?己。有不吾如,唾猶泥滓。
餘?而狂,年未三紀。乘氣加人,無挾自恃。彼婉?者,實憚吾曹。側肩帖耳,有舌如刀。
我落陽山,以尹??。君飄臨武,山林之牢。?弊寒凶,雪虐風饕。顛於馬下,我泗君?。
夜息南山,同臥一席。守隸防夫,抵頂交蹠。洞庭漫汗,粘天無壁。風濤相?,中作霹靂。
追程盲進,帆船箭激。南上湘水,屈氏所?。二妃行迷,?蹤染林。山哀浦思,鳥獸叫音。
予唱君和,百篇在吟。君止於縣,我又南逾。把盞相飲,後期有無。期宿界上,一又相語。
自別幾時,遽變寒暑。枕臂欹眠,加餘以股。仆來告言,虎入?處。無敢驚逐,以我蒙去。
君雲是物,不駿於乘。虎取而往,來寅其征。我預在此,與君?膺。猛獸果信,惡?而憑。
餘出嶺中,君俟州下。偕掾江陵,非餘望者。?山奇變,其水清寫。泊沙倚石,有?無舍。
衡陽放酒,熊咆虎?。不存令章,罰籌蝟毛。委舟湘流,往觀南嶽。雲壁潭潭,穹林攸擢。
避風太湖,七日鹿角。鉤登大鯰,怒?豕?。臠盤炙酒,群奴餘啄。走官階下,首下尻高。
下馬伏塗,從事是遭。予征博士,君以使已。相見京師,過願之始。分教東生,君掾雍首。
兩都相望,於別何有。解手背?,遂十一年。君出我入,如相避然。生闊死休,?不複宣。
刑官屬郎,引章訐奪。權臣不愛,南康是斡。明條謹獄,氓??歌。用遷?浦,為人受?。
還家東都,起令河南。屈拜後生,憤所不堪。?以正免,身伸事蹇。竟死不升,孰勸為善。

丞相南討,餘辱司馬。議兵大梁,走出洛下。哭不憑棺,莫不親?。不撫其子,葬不送野。
望君傷懷,有隕如瀉。銘君之績,納石壤中。爰及祖考,紀コ事功。外著後世,鬼神與通。
君其奚憾,不餘鑒衷。嗚呼哀哉!尚饗。



祭十二郎文
年月日,季父愈聞汝喪之七日,乃能銜哀致誠,使建中遠具時羞之奠,告汝十二郎之靈。
嗚呼!吾少孤,及長,不省所怙,惟兄嫂是依。中年兄歿南方,吾與汝?幼,從嫂歸葬
河陽,既又與汝就食江南,零丁孤苦,未?一日相離也。吾上有三兄,皆不幸早世。
承先人後者,在孫惟汝,在子惟吾。兩世一身,形單影隻。嫂?撫汝指吾而言曰:「韓
氏兩世,惟此而已。」汝時猶小,當不複記憶;吾時雖能記憶,亦未知其言之悲也。
吾年十九,始來京城,其後四年,而歸視汝。又四年,吾往河陽省墳墓,遇汝從嫂喪來
葬。又二年,吾佐董丞相於?州,汝來省吾,止一?,請歸取其孥。明年丞相薨,吾去
?州,汝不果來。是年吾佐戎徐州,使取汝者始行,吾又罷去,汝又不果來。吾念汝從
於東,東亦客也,不可以久,圖久遠者,莫如西歸,將成家而致汝。嗚呼!孰謂汝遽去
吾而歿乎!吾與汝?少年,以為雖暫相別,終當久與相處,故舍汝而旅食京師,以求升
鬥之祿,誠知其如此,雖萬乘之公相,吾不以一日輟汝而就也!
去年孟東野往,吾書與汝曰:「吾年未四十,而視茫茫,而髮蒼蒼,而齒牙動搖,念諸
父與諸兄,皆康強而早世,如吾之衰者,其能久存乎!吾不可去,汝不肯來,恐旦暮死,
而汝抱無涯之戚也。」孰謂少者歿而長者存,強者夭而病者全乎!嗚呼!其信然邪?其
夢邪?其傳之非其真邪?信也,吾兄之盛コ,而夭其嗣乎?汝之純明,而不克蒙其澤乎?
少者強者而夭歿,長者衰者而全存乎?未可以為信也,夢也,傳之非其真也;東野之書,
耿蘭之報,何為而在吾側也?嗚呼!其信然矣。吾兄之盛コ,而夭其嗣矣;汝之純明宜
業其家者,而不克蒙其澤矣。所謂天者誠難測,而神者誠難明矣;所謂理者不可推,而
壽者不可知矣。雖然,我自今年來,蒼蒼者欲化而為白矣,動搖者欲?而落矣,毛血日
益衰,誌氣日益微,幾何不從汝而死也!死而有知,其幾何離;其無知,悲不幾時,而
不悲者無窮期矣。汝之子始十?,吾之子始五?,少而強者不可保,如此孩提者,又可
冀其成立邪?嗚呼哀哉,嗚呼哀哉!
汝去年書云:「比得軟?病,往往而劇。」吾曰:是病也,江南之人,常常有之。未始
以為憂也。嗚呼!其竟以此而殞其生乎?抑別有疾而至斯乎?汝之書六月十七日也,東
野云:汝歿以六月二日,耿蘭之報無月日:蓋東野之使者不知問家人以月日,如耿蘭之
報不知當言月日,東野與吾書,乃問使者,使者妄稱以應之耳。其然乎?其不然乎?
今吾使建中祭汝,吊汝之孤,與汝之乳母。彼有食可守以待終喪,則待終喪而取以來,
如不能守以終喪,則遂取以來。其餘奴婢,並令守汝喪。吾力能改葬,終葬汝於先人之
兆,然後惟其所願。嗚呼!汝病吾不知時,汝歿吾不知日,生不能相養於共居,歿不能
撫汝以盡哀,斂不憑其棺,?不臨其穴,吾行負神明,而使汝夭,不孝不慈,而不得與
汝相養以生,相守以死。一在天之涯,一在地之角,生而影不與吾形相依,死而魂不與
吾夢相接,吾實為之,其又何尤?彼蒼者天,曷其有極!
自今已往,吾其無意於人世矣。當求數頃之田於伊潁之上,以待餘年,教吾子與汝子,
幸其長成,吾女與汝女,待其嫁,如此而已。嗚呼!言有窮而情不可終,汝其知也邪?
其不知也邪?嗚呼哀哉!尚饗。



《昌黎先生集/卷34-5故貝州司法參軍李君墓誌銘》
河南府法曹參軍盧府君夫人苗氏墓誌銘
夫人姓苗氏,諱某,字某,上黨人。曾大父襲?,贈禮部尚書;大父殆庶,贈太子太師;
父如蘭,仕至太子司議郎汝州司馬。夫人年若幹,嫁河南法曹盧府君諱貽,有文章コ行,
其族世所謂甲乙者,先夫人卒。夫人生能配其賢,歿能守其法。男二人:於陵、渾。女三
人,皆嫁為士妻。貞元十九年四月四日,卒於東都敦化裏,年六十有九。其年七月某日,
?於法曹府君墓,在洛陽龍門山。其季女婿昌黎韓愈為之誌。其詞曰:

赫赫苗宗,族茂位尊。或?於王,或貳於藩。是生夫人,載穆令聞。爰初在家,孝友惠純。
乃及於行,克?コ門。肅其為禮,裕其為仁。法曹之終,諸子實幼。煢煢其哀,介介其守。
循道不違,厥聲彌劭。三女有從,二男知教。閭裏歎息,母婦思效。?時之嘉,嫁者來寧。
累累外孫,有攜有嬰。扶床坐膝,嬉戲讓爭。既壽而康,既備而成。不歉於約,不矜於盈。
伊昔淑哲,或圖或書。嗟?夫人,孰與為儔。刻銘置墓,以讚碩休。




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