8- 3 吏部侍郎
吏部侍郎 長慶二(822)年《55歳〉
第八章
8.-1. 長安への道 元和一五(820)年《53歳》
8.-2. 国子祭酒 長慶元(821)年《54歳〉
8.-3. 吏部侍郎 長慶二(822)年《55歳〉
8.-4. 京兆の尹 長慶三(833)年《56歳〉
8.-5. 晩 年 長慶四(834)年《57歳》 |
8-3 吏部侍郎
長慶二年(八二二)、愈は五十五歳。前年、鎮州(河北省正定)に根拠を置く成徳軍節度使の田弘正が殺された。弘正は豪奢な生活にふけって士卒をかまわなかったため、不平がつのり、部下の王庭湊がそれを煽動して反乱をおこしたのである。庭湊は回屹人の子孫で、勇猛な将校であった。弘正を殺すと、自分を節度使の後任とするよう朝廷に強要し、また近辺の節度使の領分を攻撃し始めた。
魏博節度使の李旭は田弘正の弔い合戦を志し、部将の牛元翼を討伐にさし向けたが、庭湊のため逆に包囲されてしまった。
二月、朝廷はついに屈服する。すなわち王庭湊を成徳軍節度使に任じ、反乱軍の将士にはもとの官爵を与え、庭湊の要求を全面的に認めたのである。その旨を伝えて戦闘の停止を交渉する使者に選ばれたのが、韓愈であった。
鎮州への道は長安から北へ、太原(山西)を通って、東方の太行山脈を越える。韓愈はここで五言律詩一首を作り、副使に示した(韓文一〇、使ひを常山に奉じ、早に太原に次り、副使の呉郎中に呈す)。
良い音をたてて、暁を告げる町の太鼓が嶋っている。早朝に起き出せば、朝礼のため参内するかのような感じがする。駅継ぎの馬をせっせと走らせて来たか、都へ帰るのは春ももう終ったころになるだろう。ここは周の昔、めでたい穀物(嘉禾)を得た唐叔が封ぜられた土地だが、その名残りは失われた。ただ、民謡として『詩経』国風の蛎眸の歌が残されている。老年になると、まったく感慨が多くなるもので、これということもないのに、涙があごまで流れ落ちる。
停戦交渉に赴く使者にしては、威勢のよくない詩である。自分でも言うとおり、韓愈も老境に入って、かなり気か弱くなっていたのかもしれない。
しかし、いざという時になれば、昔の強情我慢はまだ残っていた。王庭湊の要求は呑んだものの、相手は札つきの乱暴者である。勅使に対しても、何をするかわからない。都では韓愈の一行の生命を危ぶむ者が多かった。元狽も皇帝に、愈を殺すのは惜しいと進言する。そこで、追いかけて使者を出し、危険なようならば鎮州まで行くには及ばぬとの勅淀を伝えさせた。ところが、それを聞くなり愈は開き直る。勅使に立ちながら一身の安危のために引き返せるものか。そう言うと、馬を早めて鎬州に入った。
王庭湊ははたして武装した兵士を左右に随え、命を迎えた。そして言う。問題をおこしたのはこの兵士たちなのだ。すると、愈は大声で答える。天子は貴下が将軍の器と見こまれたゆえ、節度使の職を授けられたのだ。それでもまだ賊となるつもりか。それを聞いて、左右の兵士たちが黙っていない。われわれを賊と呼ぷとはなにごとかと食ってかかるのを、韓愈は一々応酬して、ついに兵士を説得した。今度は庭湊の方が危ない。兵士か韓愈に煽動され、庭湊に対して刃を向ける恐れがある。
庭湊は兵士たちを退去させ、そちらの要求は何かと愈にたずねる。韓愈は牛元翼に対する包囲を解くことを求め、庭湊も承諾した。その直後、元翼は包囲を破って説出する。庭湊はあとを追わず、兵をまとめて引き上げた。
韓愈は任務を果たして都へ帰った。穆宗が喜んだのは、言うまでもない。九月、韓愈は吏部侍郎に任ぜられた。百官の人事を管掌する吏部の次官である。行敢官庁である尚書省は吏・戸・礼・兵・刑・工の六つの[部]から成るが、その中で吏部は、他の五部にくらべて格が高い。各部の次官である侍郎は正四晶下だが、吏部侍郎だけは正四晶上なのである。そして吏部に門閥貴族の子弟が多く採用されることは、前に述べた。韓愈は若いころ何度も苦杯をなめさせられたこの門閥貴族の牙城に、侍郎として臨むこととなったのである。もとより彼一人の力ではない。進士出身の、いわゆる拳子たちの勢力は、任子の反撥を受けながらも、徐々に仲びていたのであった。
吏部の役人の部屋はすべて他人の出入を許さす、不在のときは鍵をかける習慣になっていた。官吏の任用や勤務評定を扱うのだから、秘密を守り、また不正を防ぐためであろう。しかし、韓愈は着任するとすぐに、各室を開放して部外者の出入をも許し、鍵もかけさせぬこととした。その理由をたずねられたとき、彼は答えた。人間が幽霊をこわがるのは、幽霊が見えないためだ(幽霊は人の目には見えぬものというのが、当時の通念であった)。幽霊がどこでも見られるようになったら、誰もこわがるまい。
吏部の役人たちは、ほかの役人や受験生に会わないので、威厳を保ち、おそろしい存在と思われていたのである。その部屋へ平気で入れるようになれば、こわがることもなくなるであろう。人事権を独占することにより、他の百官を実質的に支配していた吏部の特権を、韓愈は内部からうちこわしにかかったのである。
その吏部へ転任する前の、たぶん四月から八月の間のことと思われるが、韓愈は塩の専売に関する長文の意見書「論變鹽法事宜?」(塩法を変ふる事宜を論する状)(韓文四〇)を奉呈している。これは戸部侍郎の張平叔という人が皇帝に献策した塩法の改革案への反対意見を述べたものである。張平叔の案は、要するに塩の販売を官営とし、各家庭への塩の配給量を定めて強制的に配達した上、代金の回収は刺史・県令などの地方官、最終的には宰相に貴任を負わせようとするものであった。
従来、塩の製造は国家が管理し、免許を受けた商人が独占的な販売権を持っていた。そこで塩商人は官吏と結託し、巨額の利潤を得た。その販売も国の事業とすれば、確実で大きな財源となるに違いない。ただ、目的がそこにあって、消費者の保護は考慮に入れられていないため、実施すれば必ず無理が生するであろう。地方長官にしても、塩の代金の回収を勤務評定の一つにされてはやりきれない。韓愈の反対論はその点をついたものであったが、これも披一人の主張ではなかった。ほかにも同様の反対意見が出て、張平叔の案は不採用と決定された。
長慶二年(822) の作品
1.和裴僕射相公假山十一韻
2.早春與張十八博士籍遊楊尚書林亭,寄第三閣老兼呈白馮二閣老【案:白居易、馮宿也。第三閣老,楊於陵之子嗣復也。】
3.奉使常山早次太原呈副使?郎中【案:愈使鎮州,?丹以駕部郎中副行。】
4.夕次壽陽驛題?郎中詩後
5.鎮州初歸
6.同水部張員外籍曲江春遊,寄白二十二舍人
7.和水部張員外宣政衙,賜百官櫻桃詩
8.送桂州嚴大夫同用南字【送桂州嚴大夫同用南字赴任】【案:嚴謨也。】
9.奉酬天平馬十二僕射暇日言懷見寄之作【案:馬總時為鄲曹濮等州觀察使,軍曰天平。】
10.奉使鎮州,行次承天,行營奉酬裴司空【案:時穆宗長慶二年。】
11.鎮州路上謹酬裴司空相公重見寄
12.奉和僕射裴相公感恩言志【案:穆宗長慶二年,裴度罷,李逢吉為相。】
13.和僕射相公朝迴見寄【案:時牛李黨熾,裴度介其間,累遭謗?,故愈詩有高蹈之語。】
14.奉和李相公題蕭家林亭【案:逢吉也。】
15.?州谿堂詩【案:馬總為?曹濮節度觀察等使,為堂於居之西北隅,號曰谿堂。】【案:從《文集》?入。】
16. 論變鹽法事宜?
●奉使常山早次太原呈副使?郎中 使ひを常山に奉じ、早に太原に次り、副使の呉郎中に呈す
「南山有高樹行」の事件は、李宗閲たちの失脚という結果を招きはしたものの、韓愈は長慶元年(821)の七月二十六日、彼は兵部侍即に転じており、地位は安泰ということであった。兵部は軍事行政全般を管轄する役所で、韓愈はそこの次官となったわけである。国子祭酒も軽い身分ではないが、こんどの兵部侍即は直接行政にタッチする職だけに、政治的な手腕も揮うことができ、出世である。
この年、鎮州(河北省正定県)に本拠を置く成徳軍節度使の田弘正が士卒のことをかまわず贅沢な生活をしていたため兵士の不満がつのり、部下の将校の一人である王廷湊がそれにつけこんで兵士を扇動し、クーデターをおこしたのである。王延湊はウイグル人の血を引く勇猛な将校であった。
田弘正は弘正の殺害に成功すると、自分をその後任とするよう朝廷に要求し、かつ武力で近隣の節度使を攻撃し、勢力範囲を拡張しようとした。これに対して魏博節度使の李愬は、田弘正の弔い合戦を旗じるしに部将の牛元翼を差し向けたが、逆に王廷湊の軍によって包囲されてしまった。
長慶二年(822)二月、朝廷は王延湊の希望を全面的に認めて、王廷湊を節度使に任じ、兵士たちは反乱者だが、これにもおとがめはないものと決定した。その旨を告げて、成徳軍にいっさいの軍事行動をやめさせ、牛元翼に対する包囲を解くよう説得する宣諭使に選ばれたのが韓愈であり、副使には駕部郎中の呉丹という人が任命された。
このような使者に韓愈が選ばれたのは、兵部侍郎という身分がら当然であったともいえるが、これは危険な任務であった。王廷湊は札つきの乱暴者だし、その部下の兵士たちも反乱をおこしたあとなので、気が立っている。彼らの要求をのんだからよいようなものの、それでも交渉しだいで、相手がどう出るかわからない。都の百官のなかには、韓愈の安否を気づかう老さえあった。
年:822年 長慶二年 55?
卷別: 卷三四四 文體: 五言律詩
詩題: 奉使常山早次太原呈副使?郎中〔愈使鎮州,?丹以駕部郎中副行。〕
及地點: 常山 (江南東道 衢州 常山)
太原府 (河東道 太原府 太原府) 別名:太原、并州
交遊人: ?丹 當地交遊(河東道 太原府 太原)
奉使常山早次太原呈副使?郎中〔愈使鎮州,?丹以駕部郎中副行。〕
朗朗聞街鼓,晨起似朝時。
翻翻走驛馬,春盡是歸期。
地失嘉禾處,風存蟋蟀辭。
暮齒良多感,無事涕垂頤。
(使いを常山に奉じて 早に太原に次し 副使?郎中に呈す。)
朗朗として 街鼓を聞く,晨起 朝時に似たり。
翻翻として 驛馬を走らせ,春 盡く 是れ歸える期なり。
地は 嘉禾【かかい】の處を失い,風は蟋蟀【しつしゅつ】の辭を存す。
暮齒 良に多感なり,無事にして 涕 頤に垂る。
(この詩は韓愈が詔を奉じて鎮州常山の王廷湊を招撫しにでかけた時、太原に宿して朝出掛けに副行駕部郎中の?丹に示したものである。)
とうとうと時を知らせる太鼓の音が聞こえてくる。朝、その昔で起きだしてみれば、都にいて朝廷に参内するときのようだ。
軽やかに駅継ぎの馬を走らせて旅をして、春の尽きるころが帰る時期となるだろう。
この土地はその昔、唐叔という人が変わった稲を発見して周の天子に献上したところから「嘉禾」という地名がついて、唐叔の子孫が代々このあたりに封ぜられることとなった。すなわち晋の国の起源であり、太原は晋の重要な都会である。その唐叔のことは昔の話で、今は尋ねるすべもないが、『詩経』国風のなかに「蟋蟀」という詩が残っており、これが唐叔の遺風を示すもので、晋の人々の遠い将来のことを考える気風がそれにあらわれているという。
人間、老年になるとまったく感じやすくなるものだ。べつだんのこともないのに涙は顎までも垂れてくる。
論變鹽法事宜?
長慶二年,張平叔為?部侍郎,上疏請官自賣鹽,可以富國強兵,陳利害十八條。詔下其?,令公卿詳議。公與韋處厚條詰之,事遂不行。平叔所陳十八條,此可見者十六。白樂天行《平叔判度支詞》曰:「計能析秋毫,吏畏如夏日。」東坡曰:「此必小人也。」按《柳氏家訓》:「平叔後以贓敗窮,失官錢四十萬緡,是宜以此終也。」
張平叔所奏鹽法條件。
右奉敕將變鹽法,事貴精詳,宜令臣等各陳利害可否聞奏者。平叔所上變法條件,臣終始詳度,恐不可施行。各隨本條分析利害如後。
一件:平叔請令州府,差人自糶官鹽,收實估匹段,省司準舊例支用,自然獲利一倍已上者。臣今通計,所在百姓,貧多富少,除城郭外,有見錢糴鹽者,十無二三。多用雜物及米谷博易。鹽商利歸於己,無物不取,或從?貸升鬥,約以時熟填還。用此讓,兩得利便。今令州縣人吏,坐鋪自糶,利不關己,罪則加身。不得見錢及頭段物,恐失官利,必不敢糶。變法之後,百姓貧者,無從得鹽而食矣。求利未得,斂怨已多,自然坐失鹽利常數。所云「獲利一倍」,臣所未見。
一件:平叔又請?村去州縣遠處,令所由將鹽就村糶易,不得令百姓缺鹽者。臣以為?村遠處,或三家五家,山谷居住,不可令人吏將鹽家至?到。多將則糶貨不盡,少將則得錢無多。[1]計其往來,自充糧食不足。比來商人,或自負檐鬥石,往與百姓博易,所冀平價之上,利得三錢兩錢。不比所由為官所使,到村之後,必索百姓供應。所利至少,為弊則多。此又不可行者也。
一件:平叔云,所務至重,須令廟堂宰相充使。臣以為若法可行,不假令宰相充使,若不可行,雖宰相為使,無益也。[2]又宰相者,[3]所以臨察百司,考其殿最,若自為使,縱有敗闕,遣誰舉之?此又不可者也。
一件:平叔又云,[4]法行之後,停減鹽司所由糧課,年可以錢十萬貫。臣以為變法之後,弊隨事生,尚恐不登常數,安得更望贏利?
一件:平叔欲令府縣糶鹽,?月更加京兆尹料錢百千,司?及兩縣令,?月各加五十千,其余觀察及諸州刺史、縣令、?事參軍,多至?月五十千,少至五千三千者。臣今計此用錢已多,其余官典及巡察手力所由等糧課,仍不在此數。通計所給,??不下十萬貫。未見其利,所費已廣。平叔又云:「停鹽司諸色所由糧課,約??合減得十萬貫錢」。[5]今臣計其新法,亦用十萬不啻。減得十萬,卻用十萬,所亡所得,一無贏余也。平叔又請以糶鹽多少為刺史縣令殿最,多者遷轉,不拘常例,如缺課利,依條科責者。刺史縣令,職在分憂,今惟以鹽利多少為之升黜,不復考其治行,非唐虞三載考績「黜陟幽明」之義也。
一件:平叔請定鹽價,?斤三十文。又?二百里,?斤價加收二文,以充?價。量地遠近險易,加至六文,?價不足,官與出。名為?斤三十文,其實已三十六文也。[6]今鹽價,京師?斤四十,[7]諸州則不登此。變法之後,祗校數文,於百姓未有厚利也。[8]?價用五文者,官與出二文。[9]用十文者,官與出四文。是鹽一斤,官糶得錢,名為三十,其實斤多得二十八,少得二十六文。折長補短,?斤收錢,不過二十六七。百姓折長補短,?斤用錢三十四。則是公私之間,?斤常失七八文也。下不及百姓,上不歸官家,積數至多,不可遽算,以此言之,不為有益。平叔又請,令所在及農隙時,並召車牛,般鹽送納都倉,不得令有缺?者。州縣和雇車牛,百姓必無情願,事須差配,然付?錢。百姓將車載鹽,所由先皆無檢,齊集之後,始得載鹽,及至院監請受,又須待其輪次。不用門?,皆被停留。輸納之時,人事又別。凡是和雇,無不皆然。百姓寧為私家載物,取錢五文,不為官家載物,取十文錢也。[10]不和雇則無可載鹽,和雇則害及百姓。此又不可也。
一件:平叔稱停減鹽務,所由收其糧課,一?尚得十萬貫文。[11]今又稱既有巡院,請量閑劇,留官吏於倉場,勾當要害守捉,少置人數,優恤糧料,嚴加把捉,如有漏失私糶等,並準條處分者。平叔所管鹽務所由,人數有幾?量留之外,收其糧課,一?尚得十萬貫。此又不近理也。比來要害守捉,人數至多,尚有漏失私糶之弊。今又減置人數,謂能私鹽斷?。此又於理不可也。
一件:平叔云,變法之後,?計必有所余,日用還恐不足?謂一年已來,[12]且未責以課利,後必數倍校多者。此又不可。方今國用,常言不足,若一?頓缺課利,為害已深。雖云明年校多,豈可懸保?此又非公私蓄積尚少之時可行者也。
一件:平叔又云,改奸猾者轉富,土著守業者日貧。若官自糶鹽,不問貴賤貧富,士農工商,道士僧尼,並兼遊惰,因其所食,盡輸官錢。並諸道軍諸使家口親族,遞相影占,不曾輸?。若官自糶鹽,此輩無一人遺漏者。臣以此數色人等,官未自糶鹽之時,從來糴鹽而食,不待官自糶,然後食鹽也。[13]若官不自糶鹽,此色人等,不糴鹽而食;官自糶鹽,即糴而食之,則信如平叔所言矣。若官自糶與不自糶,皆常糴鹽而食,則今官自糶,亦無利也。所謂知其一而不知其二,見其近而不見其遠也。國家?鹽,[14]糶與商人,商人納?,糶與百姓。則是天下百姓,無貧富貴賤,皆已輸錢於官矣,不必與國家交手付錢,然後為輸錢於官也。
一件:平叔云,初定兩?時,絹一匹直錢三千,今絹一匹,直錢八百。百姓貧?,或先取粟麥價,及至收獲,悉以還債,又充官?,顆粒不殘。若官中糶鹽,一家五口,所食鹽價,不過十錢,隨日而輸,不勞驅遣,則必無舉債逃亡之患者。[15]臣以為百姓困弊,不皆為鹽價貴也。今官自糶鹽,與依舊令商人糶,其價貴賤,所校無多。通計一家五口,所食之鹽,平叔所計,一日以十錢為率,一月當用錢三百,是則三日食鹽一斤,一月率當十斤。[16]新法實價,與舊?斤不校三四錢以下。通計五口之家,以平叔所約之法計之,賤於舊價,日校一錢,月校三十,不滿五口之家,所校更少。然則改用新法,百姓亦未免窮困流散也。初定?時,一匹絹三千,今只八百。假如特變鹽法,絹價亦未肯貴。五口之家,因變鹽法,日得一錢之利,豈能便免作債,收獲之時,不被征索,輸官?後,有贏余也?以臣所見,百姓困弊日久,不以事擾之,自然漸裕不在變鹽法也。今絹一匹八百,百姓尚多寒無衣者,若使匹直三千,則無衣者必更?多。況絹之貴賤,皆不?鹽法。以此言之,鹽法未要變也。
一件:平叔云,?州糶鹽不少,長吏或有不親公事,所由浮詞云:「當界無人糴鹽。」臣即請差清強巡官檢責所在實?,據口團保,給一年鹽,使其四季輸納鹽價。口多糶少,及鹽價遲違,請停觀察使見任,改散慢官。其刺史已下,貶與上佐,其余官貶遠處者。[17]平叔本請官自糶鹽,以ェ百姓,令其蘇息,免更流亡。今令責實?口,團保給鹽,令其隨季輸納鹽價,所謂擾而困之,非前意也。[18]百姓貧家,食鹽至少,[19]或有淡食,動經旬月。若據口給鹽,依時征價,[20]?與不?,並須納錢。遲達及違條件,觀察使已下,各加罪譴。[21]官吏畏罪,必用威刑。臣恐因此所在不安,百姓轉致流散。此又不可之大者也。
一件:平叔請限商人鹽納官後,不得輒於諸軍諸使,覓職掌,把錢捉店,看守莊?,[22]以求影庇。請令所在官吏,嚴加防察,[23]如有違犯,應有資財,並令納官,仍牒送府縣充所由者。臣以為鹽商納?,[24]為官糶鹽,子父相承,坐受厚利,比之百姓,實則校優。[25]今既奪其業,又禁不得求覓職事,及為人把錢捉店,看守莊?,不知何罪,一朝窮蹙之也。[26]若必此行,則富商大賈,必生怨恨,或收市重寶,逃入反側之地,以資寇盜。此又不可不慮者。[27]
一件:平叔云,[28]行此策後,兩市軍人,富商大賈,或行財賄,邀截喧訴。請令所由,切加收捉,如獲頭首,所在決殺。連?聚?人等,各決脊杖二十。檢責軍司?,鹽如有隱漏,並準府縣例科決,並賞所由告人者。此一件若果行之,不惟大失人心,兼亦驚動遠近。不知糶鹽所獲幾何?而害人蠢政,其弊實甚。
以前件?,奉今月九日敕,令臣等各陳利害者。謹?奏聞,伏聽敕旨。
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