DI |
詩人名 / 事項 |
(生歿) |
よみかな |
生没年/作品名 |
90.2 |
謝混 (謝叔源) |
しゃこん |
?−412年 |
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謝混(?−412年),字は叔源という,小字は益壽で,陳郡陽夏(今の河南省太康)の人である。東晉の名士であ
る。官員であり,太保の謝安の孫である。會稽?史であった謝?の第三子である。晉の孝武帝司馬曜の婿である。 謝
混の出身は陳郡における謝氏一族である,年輕時に頗に美譽が有り,文章寫を善くし,官を累して尚書左僕射に至
る,爵に襲われ蔡縣公に望み,並びに晉陵公主を娶り妻と為す。 |
遊西池 |
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謝膽 (謝宣遠) |
しゃたん |
387−421 |
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(宋) 謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。幼いとき孤となり、叔母
の劉氏に撫養せられた。六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。かつて
「喜霽詩」を作り、霊運はこれを写し、混は誅(讃辞)を記したが、王弘は「三絶なり」と、はめ称した。
初め桓偉の参軍、のち劉裕に仕えて従事中郎となる。時に弟の晦は右衛将軍として権遇は甚だ重
く、賓客は輻輳してその門に至る。瞻は、かくの如き富貴権遇を門戸の福に非ずとし、「吾はこれを見
るに忍びず」と言った。しかし、劉裕が宋王朝を始めるにあたり、晦はついに佐命の功を建てたので、瞻
は益々憂えおそれ、たまたま疾を獲たが療(なお)そうとはせず、まもなく卒した。随志には、文集三
巻。
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《文選》所収の謝宣遠詩
九日從宋公戲馬臺集送孔令詩
王撫軍?西陽集別作詩
張子房詩
答靈運
於安城答靈運
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91 |
謝霊運 (謝康樂) |
しゃれいうん |
385〜433 |
東晋・南朝宋の詩人・文学者。字は宣明。本貫は陳郡陽夏県。魏晋南北朝時代を代表する詩人で、山
水を詠じた詩が名高く、「山水詩」の祖とされる。
六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は?水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃
破した東晋の名将である。父の謝?(謝慶)が早世したこともあって、祖父の爵位である康楽公を継いだた
め、後世では謝康楽とも呼ばれる。族弟の謝恵連の「小謝」に対し、「大謝」と併称され、後世では南斉の
謝?とあわせて「三謝」とも呼ばれる。聡明で様々な才能に恵まれたが性格は傲慢で、大貴族出身だったこと
も災いし、後に反逆をされて捕らえられ刑死した。
406年、20歳の時に起家した。420年、東晋に代わって宋が建てられると、爵位を公から侯に降格された。
少帝の時代に政争に巻き込まれ、永嘉郡(現在の浙江省温州市)の太守に左遷させられるも、在職1年
で辞職、郷里の会稽に帰って幽峻の山を跋渉し、悠々自適で豪勢な生活を送った。この時に他の隠士とも
交流し、多くの優れた詩作を残した。
424年、文帝が即位すると朝廷に呼び戻されて、秘書監に任ぜられ、『晋書』の編纂などに従事した。その
後、侍中に遷った。しかし、文帝が文学の士としてしか待遇しないことに不満を持ち、病気と称して職を辞し、
再び郷里に帰った。
再度の帰郷後も山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒乱の罪を問われた。特赦により臨川郡内史に任ぜ
られるが、その傲慢な所作を改めなかったことから広州に流刑された。その後、武器や兵を募って流刑の道
中で脱走を計画したという容疑をかけられ、市において公開処刑の上、死体を晒された。享年48。
<著 作>
『文選』には、右に示す通り、代表作である「登池上樓」「石壁精舎還湖中作」「於南山往北山経湖中瞻
眺」などの作品が、39首と2番目に多く採用されている(最多は陸機の52首)。
謝靈運詩は60数首、訳注解説している。
謝霊運は廬山の慧遠を尋ねた時、遠師に心服して留まった。この時から仏教に造詣を深くし、慧厳・慧観と
共に、法顕訳の『六巻涅槃経』と曇無讖訳の『北本涅槃経』を統合改訂し、南本『大般涅槃経』を完成さ
せ、竺道生によって提唱された頓悟成仏(速やかに仏と成る事ができる)説を研究・検証した「弁宗論」など
を著した。
また、彼は鳩摩羅什訳出の『金剛般若波羅蜜経』を注釈した『金剛般若経注』なども著している。なお同
名の注釈書としては僧肇が撰著した同名の『金剛般若経注』が最初とされる。しかし僧肇撰の説には多くの
疑問が提出されており、宋代の曇応の『金剛般若波羅蜜経采微』などには「謝霊運曰く」として多く引用さ
れ、僧肇の注釈書と類似点が多い。このことから近代に至っては、僧肇撰とされる「金剛般若経注」が実は
謝霊運の著作である可能性が高いといわれている。彼の著作物に関してはいまだ充分に検証されたもので
はないため、今後これらを総合的に検証し直す必要性が望まれている。
もっとも謝霊運は、仏教への造詣はあったものの、その深い奥義を身をもって体現することがなく、往々にして
不遜な態度があったと伝えられることから、仏教徒としての評価は決して高いものではない。吉田兼好の『徒
然草』第108段に「謝霊運は、法華の筆受なりしかども、心常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮の交り
を許さざりき」とあるように、慧遠の白蓮社に入ることが許されなかったといわれる.
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山居賦
東陽谿中贈答
《文選》
述祖コ詩二首
九日從宋公戲馬臺集送孔令詩
鄰里相送方山詩
從遊京口北固應詔
?出西射堂
登池上樓
遊南亭
遊赤石進帆海
石壁精舍還湖中作
登石門最高頂
於南山往北山經湖中瞻眺
從斤竹澗越嶺溪行
廬陵王墓下作
還舊園作見顏范二中書
登臨海?初發彊中作與從弟惠連見羊何共和之
酬從弟惠連
永初三年七月十六日之郡初發都
過始寧墅
富春渚
七里P
登江中孤嶼
初去郡
初發石首城
道路憶山中
入彭蠡湖口
入華子崗是麻源第三谷
樂府 會吟行
南樓中望所遲客
田南樹園激流植援
齋中讀書
石門新營所住四面高山迴溪石P脩竹茂林詩
<擬魏太子?中集詩八首并序>
序
1. 魏太子
2. 王粲
3. 陳琳
4. 徐幹
5. 劉
6. 應?
7. 阮?
8. 平原侯植
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謝恵連 |
しゃ けいれん |
407年 - 433年 |
謝 恵連(謝惠連、しゃ けいれん、397年もしくは407年 - 433年)は、南朝宋の文学者。本貫は陳郡陽夏
県。詩人としては、族兄の謝霊運の「大謝」に対し、「小謝」と併称され、後世では南斉の謝?とあわせて「三
謝」とも呼ばれる。
謝方明の子として生まれた。幼くして聡明で、10歳で文章を作ることができたといわれる。何長瑜に学問の
手ほどきを受けた。恵連は遊び好きで父の方明には評価されなかったが、族兄の謝霊運は恵連の文才を高
く評価し、彼や何長瑜や荀雍・羊?之らとともに詩文の集いを開き、山水に遊んだ。世間は彼らを「四友」と
呼んだ。恵連は本州に主簿として召されたが、就任しなかった。会稽郡吏の杜徳霊と男色関係にあり、父の
喪中にもかかわらず、彼に五言詩十数首を贈った。これが世間に知られたため、恵連は罪に問われて遠地に
流され、官界で栄達することができなかった。尚書僕射の殷景仁は謝恵連の文才を愛していたので、彼を
弁護して「臣が小児のとき、世にこの文(詩)があるのを見ました。論者がこれを謝恵連のものとするのは間違
いです」と文帝に言上し、文帝は「もしそのとおりならば、すぐに取り立ててやるべきだ」と言った。430年(元嘉7
年)、彭城王劉義康の下で司徒法曹参軍となった。ときに劉義康の治める東府城の堀の中から古い墓が
発見され、これを改葬することとなり、恵連が祭文を作ったが、その文章のたいへん美しいことで知られた。ま
た「雪賦」を作り、やはり格調高い美文で知られた。433年(元嘉10年)、死去した。男子はなかった。
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《文選》
雪賦
泛湖歸出樓中翫月
秋懷
西陵遇風獻康樂
七月七日夜詠牛女
擣衣
《玉臺新詠》
七月七日夜詠牛女
擣衣
代古 |
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范 曄 (范蔚宗) |
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はん よう |
398年 - 445年 |
魏晋南北朝時代の南朝宋の政治家・文学者・歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は南陽郡順陽県(現在の河南省南陽市淅川県)の出身であり、会稽郡山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)にて出生した。
范曄は士族の家に生まれた。祖先の范?は西晋の雍州刺史、曾祖父の范汪は東晋の安北将軍・徐?二州刺史・武興県侯、祖父の范寧は臨淮郡太守・豫章郡太守、父の范泰は宋の侍中・光禄大夫となり、死後は車騎将軍を追贈されている。范汪は「博覧強記にして、道理に通ず」とあり、『尚書大事』20巻・『范東陽方』105巻などを著している。范寧は『春秋穀梁伝集解』12巻を著し、范泰も『古今善言』24巻を著したという。范曄は兄の范昂、范ロ、范晏と末弟の范広淵がいた。
范曄は名門の生まれであったが、妾の生んだ庶子であった。范曄の母が彼を便所の中で生んだ時に彼の額が磚に当たって傷ついてしまったため、「磚」が范曄の小字となった。若くして学問を好み、経史に広く通じ、文章に巧みで音律にも通じていた。420年、劉裕が東晋の禅譲を受けて宋を建国すると、范曄は劉裕の子、彭城王劉義康の冠軍参軍となり、尚書外兵郎・荊州別駕従事史・秘書丞・征南司馬領新蔡郡太守・司徒従事中郎・尚書吏部郎などを歴任した。
432年、范曄は劉義康の母の葬儀の最中、宴席を開いたことから劉義康の怒りを買い、宣城郡太守(現在の安徽省)に左遷された。宣城在任中、志を得ずにいることから、それまでの史家たちが編纂した『後漢書』の記述を整理し、自ら『後漢書』を編纂した。数年後に許されて長沙王劉義欣の鎮軍長史・寧朔将軍、始興王劉濬の後軍長史・南下?郡太守、さらに太子・事などを歴任した。
当時、劉義康は文帝の弟として宰相の位にいて、内外の政務を取り仕切り、その権勢は皇帝の文帝を凌いでいた。440年、文帝は劉義康の腹心であった劉湛以下十数名を誅殺・流刑に処し、劉義康を江州刺史に左遷した。445年、散騎侍郎の孔熙先は劉義康の復権と擁立を謀り、范曄にも謀議の参加を誘った。当初、范曄は孔熙先を軽んじていたため、謀議に荷担することを望まなかったが、結局は孔熙先らの謀議に加わった。11月、丹陽尹徐湛之の告発により孔熙先らの計画は発覚し、范曄は自身を含む一家全員が処刑された。享年48。末弟の范広淵も兄に連座されて処刑された。
范曄の文章は、筆勢は奔放であり、言葉が美しく固まり精錬して、駢文の句法をよく備えており、「博して経史にかかわり、よい文章で、隷書、音律を分かっている。」の贊がある。
『後漢書』 范曄が左遷された時期の作。既にあった7種の『後漢書』を収集して、袁宏の書いた『後漢紀』を参考にし、現存する『後漢書』とした。
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樂遊應詔詩 |
92 |
顔 延之(顔延年) |
がん えんし |
384年- 456年 |
中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文
帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称さ
れ「顔謝」とも呼ばれる。
顔延之(がん えんし、384年 - 456年)は中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本貫は琅邪郡臨
沂県。宋の文帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また
謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる。
顔延之は曾祖父に東晋の右光禄大夫顔含を持つなど、門閥貴族の家柄に生まれたが、父親を幼少の頃
に失ったことから没落し、家は貧しかったという。顔延之は読書を好み、目にしない書物はなく、詩文の美しさ
は当時に卓越していたが、酒に酔うと細かい礼法を無視した振る舞いをし、30になっても独身であった。顔延
之の妹は劉裕(のちの宋の武帝)の腹心劉穆之の息子の妻であり、劉穆之も顔家と代々のよしみで、顔延
之の才能の評判も聞いていた。
このため劉穆之は彼を仕官させようと思い、その前に会っておこうとしたが、顔延之は会いに行こうとしなかっ
た。後に後将軍劉柳の行参軍となる。415年(義熙11年)、劉柳が江州刺史となると、その功曹として治所
の尋陽(現在の江西省九江市)に赴任し、当地に隠棲していた陶淵明と知り合い、年齢を超えて親しく交
際した。後年陶淵明が死去すると、顔延之は「陶徴士誄」を著しその死を悼んでいる。
416年、劉裕が後秦征服の遠征を起こして西晋の旧都洛陽を回復すると、朝廷では彼に宋公の爵位を授
けることとなり、顔延之は勅使として洛陽に赴いた。この道中に作った詩2首は、重臣の謝晦と傅亮の賞賛を
浴びた。420年、宋が建国されると、顔延之は太子舎人に任じられた。 |
赭白馬賦并序
應詔讌曲水作詩
皇太子釋奠會作詩
秋胡詩
五君詠五首
阮?兵
?中散
劉參軍
阮始平
向常侍
應詔觀北湖田收
車駕幸京口侍遊蒜山作
車駕幸京口三月三日侍遊曲阿後湖作
拜陵廟作
北使洛
還至梁城作
始安郡還都與張湘州登巴陵城樓作
北使洛
還至梁城作
始安郡還都與張湘州登巴陵城樓作
宋郊祀歌二首
三月三日曲水詩序
陽給事誄并序
陶?士誄并序
宋文皇帝元皇后哀策文
祭屈原文
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93 |
鮑照 |
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ほうしょう |
412頃-466 |
六朝時代、宋の詩人。字(あざな)は明遠。南北朝時代、宋の詩人。字は明遠。本籍地はもと上党郡(現在の山西省長治市)、後に東海郡(現
在の江蘇省漣水県、または山東省?城県)に移る。最後の官職である「前軍参軍」にちなみ、後世「鮑参軍」と呼ばれる。宋の文帝の元嘉年間を
代表する詩人として、同時期に活躍した謝霊運・顔延之と併称して「元嘉三大家」の1人に数えられる。妹の鮑令暉も詩人として知られる。元嘉
年間の三大詩人の一人として謝霊運・顔延之と併称された。現存する詩は241首と六朝時代の詩人としては比較的多く残っている。楽府詩を得
意とし、それに仮託して寒門出身ゆえの人生の不遇や艱難を詠う内容が多い。典故にもとづいた旧来の表現に拘泥せず、好んで新奇な語を用
い、風景や自らの感慨を力強くダイナミックな調子で詠う作風が特徴である。そうした作風は、同時代において通俗的で典雅さに欠けると批判され
ることもあったが、後世の唐代の詩人に大きな影響を与えた。唐の詩人杜甫は、李白の詩才を「清新なるは ?開府、俊逸なるは 鮑参軍」(「春日
李白を憶ふ」)と鮑照になぞらえて称えている。 |
玉臺新詠 巻四
4.雜詩九首其一 翫月城西門廨中
5.雜詩九首其二 代京?篇
6.雜詩九首其三 擬樂府白頭吟
7.雜詩九首其四 採桑詩
8.雜詩九首其五 夢還詩
9.雜詩九首其六 擬古
10.雜詩九首其七 詠双燕
11.雜詩九首其八(一)贈故人馬子喬二首寒灰?更然
12.雜詩九首其八(二)贈故人馬子喬 二首双劒將?離
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文選掲載分
賦己卷十一遊覽蕪城賦
賦
卷十四鳥獸下舞鶴賦
詩乙卷二十一詠史詠史
詩
卷二十一遊覽行藥至城東橋
卷二十七行旅下還都道中作
樂府下
1.東武吟
2.出自薊北門行
3.結客少年場行
4.東門行
5.苦熱行
6.白頭吟
7.放歌行
8.升天行
卷三十雜詩下數詩
〃 〃翫月城西門解中詩
卷三十一雜擬下擬古三首
學劉公幹體
代君子有所思
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宋孝武帝・劉駿(そうこうぶてい・りゅうしゅん) |
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430年―464年 |
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453年1月、長兄にあたる皇太子劉劭が文帝を殺害すると、劉駿は兄を討つべく江州で起兵した。4月、新亭に進軍して、皇帝に即位した。5月、建康を陥落させ、劉劭を殺害した。
459年4月、異母弟の劉誕が叛乱を起こすと、車騎大将軍の沈慶之に討伐させた。
在位中、中央集権を推し進め、側近に寒門を登用するなどの政策を行う一方で、数人の兄弟の一族を殺害した上に一般市民などを虐殺し、暴虐さとともに奢侈を好む一面もあった。また、実母の路恵男に甘いとの噂も立った。そのため、財源確保のために租税を厳しくするなど、宋の衰退の端緒となった。
464年閏5月、玉燭殿で死去した。 |
<玉臺新詠>
丁督護歌二首・其一
丁督護歌二首・其二
擬徐幹詩 |
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陸厥 |
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りくけつ |
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472年−499年 |
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南朝齊詩人。字韓卿,呉郡呉、江蘇省蘇州の人。 |
<玉臺新詠>
中山王孺子妾歌
李夫人及貴人歌一首 |
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齊の竟陵王蕭子良 |
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しょう しりょ
う |
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460年 - 494年 |
南朝の斉の武帝の第2子である。字は雲英。文宣と諡される。竟陵王に封ぜられ、浄住子と称した。南斉代第一の文人で
あり、経典や史書、老荘にも通じてしたが、仏典を最も好んで、文恵太子らと共に仏教教理に通暁していた。永明中(483
年 - 493年)に司徒・尚書令に任ぜられると、鶏籠山の邸に移り、当時一流の文人らを鶏籠山の西邸に招いた。中でも著
名な蕭衍・沈約・謝眺・王融・蕭深・范雲・任ム・陸?の8人は、「竟陵八友」と称せられる。
常に邸内で斎戒し、朝臣や衆僧を集めた。また、一生涯にわたって厳重に斎戒を守ることを誓願して「浄住子」と自称した。
邸内には、古物を蒐集して、広く天下の文章の集録を行なったため、「道俗の盛んなること、江左に未だあらざるところ」と評
せられた。文人学者らには『四部要略』1000巻を抄録させ、名僧たちには『経唄新声』を撰述させた。
また、竟陵王自身の仏教信仰を記した書物として『浄住子浄住法門』がある。
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浄住子浄住法門 |
謝眺 謝玄暉 |
竟陵八友:南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人 (@蕭衍・A沈約・B謝眺・C王融・D蕭沈・E范雲・F任ム・G陸游) |
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江 淹 (江文通) |
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こう えん |
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444年 - 505年 |
南北朝時代の文学者。 字は文通。 本貫は済陽郡考城県(現在の河南省商丘市民権県)。下級士
族の出身だったが,文才と機敏で慎重な処世により,南朝の宋・斉・梁3朝に仕えて,高官の地位に達した。
詩人としては,沈約(しんやく)とともに梁初を代表する。ことに模擬の詩を得意とし,歴代の著名な詩人の作
風を巧みに模した〈雑体詩〉30首は,《文選(もんぜん)》にも収められてよく知られる。ほかに感傷的な美文
〈別賦〉〈恨賦〉も彼の文学の一面を示す。《江淹集》9巻はほぼ原形のまま伝わる。
代表的な作品としては、「恨みの賦」「別れの賦」や「雑体詩」30首が挙げられる。
前2者は、賦という事物を羅列的に描写する叙事を本領とする文体で、恨みや別れの思いといった情感を
様々な角度から描写するというものである。このような情感の描写に主眼を置く叙情賦は、六朝時代の他の
文学者の作品にも一定数存在しているが、その中でも江淹の2編は代表的な作品と目されている。
後者は漢から宋までの代表的な詩人30人を選び、彼らの代表作の文体を模倣した連作詩で、一種のパス
ティーシュである。このような歴史上あるいは同時代の文学者の作品を模倣した擬古詩・模擬詩というジャン
ルは、江淹以前の多くの詩人たちによって制作されているが、いずれも単発的なものであり、江淹のように歴
代の詩人の文体を網羅的に模倣するという行為はそれ以前には見られない。
また江淹には「雑体詩」以外にも、「阮公に効(なら)う詩」15首や「魏の文帝に学ぶ」という模擬詩があり、
現存する詩約100首のうち半数近くがこれらで占められている。さらにその模擬詩は、
「文通は詩体総雑、?(模)擬に善し」(梁の鍾エ『詩品』)
「擬古は惟(こ)れ江文通 最も長ず。淵明に擬すれば淵明に似、康楽に擬すれば康楽に似、左思に擬す
れば左思に似、郭璞に擬すれば郭璞に似たり。独り李都尉に擬する一首、西漢に似ざるのみ」(南宋の厳
羽『滄浪詩話』)
などと評されるように、同時代および後世の人々によって高く評価されている。このように模擬詩というジャン
ルを自らの詩創作の主体とする行為も、他の詩人には見られない独特のものである。
江淹は「雑体詩」に序文を著しているが、要約するとそこには、
「当世の人々は自らの狭い了見によって文学作品に毀誉褒貶を加えているが、実際にはどの作品にも独自
の良いところがあるのである。その文体を真似することによって、作品の個性を明らかにしてみたい」
という趣旨が書かれている。このように江淹は歴代の詩人たちの特徴や個性を明らかにするため、文学批評
の一種としてこれらの詩を創作したことを表明している。
「江淹(江郎)才尽く」
江淹のエピソードとして最も有名なものは、彼の文才が晩年に枯渇したという「江淹(江郎)才尽」である。
梁の鍾エの『詩品』によると「江淹が宣城郡太守を辞任し、首都建康への帰路の途中、夢に郭璞を名乗る
美丈夫が現れた。江淹に長年預けてきた自分の筆を返してほしいと言ったので、江淹は懐にあった五色の筆
を彼に返したところ、それ以来詩が作れなくなり、世間の人々は江淹の才が尽きたと言うようになった」とされ
ている。
唐の李延寿の『南史』では「夢に西晋の詩人張協が現れ、預けていた自分の錦を返してほしいと言った。江
淹が懐にあった錦を取り出したところ、数尺しか残っていなかった。張協はこんなに使われては用がないと怒
り、錦を丘遅に与えてしまうと、それ以後江淹の文才が尽きてしまった」とやや異なる話を伝える。これらのエピ
ソードにもとづき、後世、文人の文才が枯渇することを意味する「江淹(江郎)才尽く」という成語が生まれ
た。 |
恨賦
別賦
從冠軍建平王登廬山香爐峰
雜體詩三十首
1.古〈離別〉
2.李都尉〈從軍〉陵
3.班?、〈詠扇〉
4.魏文帝〈遊宴〉曹丕
5.陳思王〈贈友〉曹植
6.劉文學〈感遇〉
7.王侍中〈懷コ〉粲
8.?中散〈言志〉康
9.阮?兵〈詠懷〉籍
10.張司空〈離情〉華
11.潘?門〈悼亡〉岳
12.陸平原〈羈宦〉機
13.左記室〈詠史〉思
14.張?門〈苦雨〉協
15.劉太尉〈傷亂〉?
16.盧中郎〈感交〉ェ
17.郭弘農〈遊仙〉璞
18.張廷尉〈雜述〉綽
19.許?君〈自序〉詢
20.殷東陽〈興矚〉仲文
21.謝僕射〈遊覽〉混
22.陶?君〈田居〉潛
23.謝臨川〈遊山〉靈運
24.顏特進〈侍宴〉延之
25.謝法曹〈贈別〉惠連
26.王?君〈養疾〉微
27.袁太尉〈從駕〉淑
28.謝光祿〈郊遊〉莊
29.鮑參軍〈戎行〉昭
30.休上人〈別怨〉
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95 |
鮑令暉 。 |
ほうれいこん |
生卒年不詳 |
南朝宋女詩人。東海(現在山東?城)の人。鮑照の妹。鮑令暉も詩人として知られる。 略歴いわゆる寒門の貧しい家柄に
生まれる。元嘉 ( 南朝宋)ごろに臨川王劉義慶に認められて国侍郎、太学博士、中書舎人となる。荊州刺史の臨海王劉
子?のもとで前軍参軍の職につく。劉子?の反乱で乱戦のうちに殺害された 鍾エ《詩品》??是南齊人,但從鮑照的《請
假?》中講到僅有的一個妹妹死去等語看來,?似乎在宋孝武帝時就已去世。 |
其詩見於《玉台新詠》。今人錢仲聯《鮑參軍集注》附有鮑令暉詩。 |
玉臺新詠 巻四 雜詩六首
18 巻四-18 雜詩六首其一 1. 擬青青河畔草
19 巻四-19 雜詩六首其二 2. 擬客從遠方來
20 巻四-20 雜詩六首其三 3. 題書後寄行人
21 巻四-21 雜詩六首其四 4. 古意贈今人
21 巻四-21 雜詩六首其五 5.1. 代葛沙門妻郭小玉詩二首(明月何皎皎)
22 巻四-22 5.2. 代葛沙門妻郭小玉詩二首(君子將遙役)
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96 |
F任 ム |
(じん ぼう) |
460年- 508年 |
中国南北朝時代の文学者。字は彦昇。小字は阿堆。楽安博昌(現山東省寿光市)の人。南斉の竟陵
王蕭子良のもとに集まった文人「竟陵八友」の1人。散文の分野で高く評価され、南斉・梁の時代に多くの
表奏を手がけた。同じ八友の1人で、詩にすぐれた沈約に対し、「任筆沈詩」と称される。
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『述異記』『文章縁起』(偽作説もあり)。
「出郡傳舍哭范僕射」
「贈郭桐廬出溪口見候余既未至郭仍進村維舟久之郭生方至」 |
97 |
A沈約 |
(しんやく) |
441年- 513年 |
南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した
江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝
に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭
衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこ
うむり、憂愁のうちに死去したという。 |
二十一史・宋書 |
玉臺新詠巻五-7 登高望春
玉臺新詠巻五-8 昭君辭
玉臺新詠巻五-9 少年新婚爲之詠
玉臺新詠巻五-10 携手曲
玉臺新詠巻五-11 有所思
玉臺新詠巻五-12 夜夜曲
玉臺新詠巻五-13 詠春
玉臺新詠巻五-14 詠桃
玉臺新詠巻五-15 詠月
玉臺新詠巻五-16 詠?
(次の四首 三言五言の雜言体)
玉臺新詠巻五-17六憶詩四首其一 憶來時
玉臺新詠巻五-18 六憶詩四首其二 憶坐時
玉臺新詠巻五-19 六憶詩四首其三 憶食時
玉臺新詠巻五-20 六憶詩四首其四 憶眠時
玉臺新詠巻五-21 領邊?
玉臺新詠巻五-22 脚下履
玉臺新詠巻五-23 擬河邊草
玉臺新詠巻五-24 擬三婦
玉臺新詠巻五-25 古意
玉臺新詠巻五-26 夢見美人
玉臺新詠巻五-27 効古
玉臺新詠巻五-28 初春
玉臺新詠巻五-29 悼往
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文選掲載分 沈約(沈休文)
公讌巻二十
「應詔樂遊苑餞呂僧珍詩」
祖餞巻二十一「別范安成詩」
詠史巻二十二「鍾山詩應西陽王教」
〃巻二十二「宿東園」
〃巻二十二「遊沈道士館」
行旅巻二十七「早發定山」
行旅巻二十七「新安江水至清淺深見底貽京邑
遊好」
〃巻二十七「和謝宣城」
〃巻二十七「應王中丞思遠詠月」
雜詩下巻三十「和謝宣城」o
〃巻三十「應王中丞思遠詠月」
〃巻三十「冬節後至丞相第詣世子車中」
〃巻三十「學省愁臥」
〃巻三十「詠湖中鴈」
〃巻三十「三月三日率爾成篇」
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98 |
C王融 |
おうゆう |
467年- 493年 |
南北朝時代、南斉の政治家・文学者。字は元長。琅邪臨沂(現山東省臨沂市)の人。六朝時代を代表する名門貴族、
琅邪王氏の出身。名門の出身に加えて文才にも優れ、南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人「竟陵八友」の1
人に数えられ、同じく八友の仲間である沈約・謝?らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。
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三月三日曲水詩序 |
99 |
蘇小小 |
そしょうしょう |
未詳 |
錢唐蘇小:南斉(南齊)時代の銭塘の名妓。才色兼備の誉れが高かった。銭塘の蘇小小。 ・銭唐:現・浙江省杭州
市。「銭塘」のこと。唐代に「唐」字を避けて「錢唐」を「銭塘」とした。
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歌一首 |
100 |
孔稚珪 |
こうちけい |
447〜501 |
会稽郡山陰の出身。字は徳璋。学問・詩文に優れ、蕭道成に文才を認められて起室参軍とされ、永明年間に王植の
『晋律』改修にも参与した。廷尉、御史中丞と進み、493年の鬱林王即位に際して王融を告発して自殺させ、明帝より南
郡太守とされ、東昏侯のときに太子・事・散騎常侍に至った。
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101 |
刑邵 |
(けいしょう) |
496〜561 |
北朝斉文学家。字は子才。河?□(今の河北任丘北)人。
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思公子(綺羅日減帶) |
102 |
斛律金 |
(こくりつきん) |
488年- 567年 |
中国の東魏・北斉の軍人。騎射を得意とし、用兵は匈奴の法を学び、塵を見て敵軍の数を知り、地を嗅いで敵軍の遠近
を知ったと言われる。
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敕勒 五噫歌 |
103 |
鍾エ |
(しょうえい) |
469〜518 |
字は仲偉。潁川郡長社の人。斉の永明年間に国子生となる。秀才に挙げられ、王国侍郎に任ぜられた。のち安国令となっ
た。梁に入って、晋安王・蕭綱の記室をつとめた。漢魏以来の五言詩の優劣を論じ、『詩評』にまとめた。
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『詩品』 |
104 |
@蕭衍 梁武帝 464〜502〜549 |
(しょうえん) |
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南朝梁の初代皇帝。蕭衍(しょうえん)南蘭陵(江蘇省)の蕭氏の一門であり、南斉宗室の支族に当たる。父の順之は南
斉の高帝蕭道成の族弟であり、丹陽の尹であった。若い頃より文武両面において注目され、南斉時代で文化の中心であっ
た竟陵王蕭子良の西邸にも出入りし、沈約らと共に八友の一人に数えられた。
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河中之水歌 遊女曲(氛?蘭麝體芳滑) 子夜歌(朝日照綺錢) |
105 |
E范雲 (范顔龍) |
はんうん |
451- 503 |
南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。451年(元嘉8年)、南郷舞陽(現在の河南省沁陽)で生まれる。
斉及び梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、
蕭?と共に北魏に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右
僕射)に任じられ、その清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。 |
別詩
「贈張徐州稷」
「古意贈王中書」
<文選>
贈張徐州稷
古意贈王中書
效古
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106 |
何遜 |
(かそん) |
未詳〜518 |
何 遜(か そん、467年? -518年?)は中国南北朝時代の文学者。東海?の人。字は仲言。曾祖父は何承
天。幼少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時
の文壇の重鎮であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生
涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする
詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしば
しば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性
をたたえており、謝?とならび、唐詩の先駆とみなされている。 |
<玉臺新詠>
巻五-54日夕望江贈魚司馬
巻五-55輕薄篇
巻五-56詠照鏡
巻五-57閨怨
巻五-58詠七夕
巻五-59詠舞妓
巻五-60看新婦
巻五-61詠倡家
巻五-62詠白?嘲別者
巻五-63學青青河邊草
巻五-64嘲劉諮議孝綽 |
107 |
王籍 |
おうせき |
502〜519 |
南梁(502〜557)(おうせき 502〜519) 南北朝時代・梁の詩人。五言詩「入若耶溪」中の「蝉噪林逾静 鳥鳴山更
幽」対句はあまりに有名です。
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入若耶渓 |
108 |
G陸垂 |
(りくすい) |
470 - 526 |
陸?(りく すい、470年 - 526年)は、南朝斉から梁にかけての官僚・文人。竟陵八友のひとりとして知られる。字は佐公。本
貫は呉郡呉県。斉の太常卿の陸慧曉の子として生まれた。若くして学問にはげみ、文章を得意とした。17歳のとき、揚州の
秀才に挙げられた。竟陵王蕭子良が鶏籠山に西邸を開いて当時の優れた文人たちを集めると、陸?はこれに参加した。議
曹従事参軍として召され、廬陵王法曹行参軍に転じた。
梁の天監初年、安成王蕭秀の下で右軍外兵参軍となり、主簿に転じた。臨川王蕭宏の下に転じて、驃騎東曹掾をつとめ
た。武帝の命により「新漏刻銘」の刻字を選び、その文章の美しいことで知られた。太子中舎人に転じ、東宮の書記を管掌
した。また武帝の命により「石闕銘記」を作って奏上した。太子庶子・国子博士に転じたが、母が死去したため、辞職して喪
に服した。喪が明けると、中書侍郎となり、給事黄門侍郎・揚州別駕従事史をつとめた。病のために解任を願い出て、鴻臚
卿に転じた。入朝して吏部郎となり、参選事をつとめた。
晋安王蕭綱の下に転じて雲麾長史・尋陽郡太守・行江州府州事として出向した。公の事件のためにひとたび免官され、中
書侍郎・司徒司馬・太子中庶子・廷尉卿を歴任した。再び太子中庶子となり、給事中・揚州大中正の任を加えられた。ま
た中庶子・中正のまま国子博士に任じられた。さらに中正のまま太常卿を代行した。526年(普通7年)、死去した。享年は
57。文集20巻があり、当時に通行した。
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109 |
D蕭チン |
(しょうちん) |
480年 - 531年 |
南朝斉から梁にかけての官僚・文人。竟陵八友のひとりとして知られる。字は彦瑜。本貫は南蘭陵郡蘭陵県。
宋の太中大夫の蕭恵訓の子として生まれた。数歳のときに従伯父の蕭恵開が「必ずやわが一族を興さん」と言ってかれの背
中を撫でた。蕭?は若くして賢明で理解が早く、弁論の才能があった。斉の太学博士を初任とした。王倹が楽遊苑で宴会を
開いたとき、蕭?は虎皮の靴を履き、桃の枝を鞭として、王倹に面会して語り合い、気に入られた。王倹が丹陽尹となると、
蕭?は召し出されて主簿となった。南徐州の秀才として挙げられ、諸官を歴任して司徒記室となった。
491年(永明9年)、斉が北魏と講和すると、蕭?は命を受けて北魏の都の平城におもむいた。帰国すると、通直散騎侍郎と
なった。北魏の使者の李道固が来朝すると、武帝が宴会を開いた。蕭?が道固に酒を勧めたところ、道固は「公庭に私礼な
く、勧めを受けることはできません」と言って受けなかった。そこで蕭?は「『詩経』に『我が公田に雨ふり、ついに我が私田に及
ぶ』と言っています」と答えた。座にいる者はみな感服し、道固は蕭?の酒を受けた。
蕭?は司徒右長史に転じた。晋熙王長史・行南徐州事として出向した。建康に召還されて少府卿・尚書左丞を兼ねた。
東昏侯が即位すると、即位時に祖廟に拝礼する儀礼の典拠が議論された。蕭?は『詩経』周頌の烈文篇や閔予小子篇に
即位時の朝廟の典拠があると主張し、かれの意見が採用された。蕭衍が建康を制圧すると、蕭?は驃騎諮議として召し出さ
れ、録事を兼ね、給事黄門侍郎に転じた。蕭衍が梁公となると、蕭?は御史中丞となった。
502年(天監元年)、梁の武帝(蕭衍)が即位すると、蕭?は太子庶子に転じ、宣城郡太守として出向した。建康に召還され
て衛尉卿となり、まもなく員外散騎常侍に転じた。504年(天監3年)、太子中庶子・散騎常侍に任じられた。510年(天監9
年)、寧遠将軍・平西長史・江夏郡太守として出向した。
かつて蕭?が宣城郡太守であったとき、北魏の僧が南に渡ってきて、ひょうたんの中に『漢書』の序伝を入れてもたらした。僧は
「三輔の旧老が代々伝えたもので、班固の真本である」と主張した。蕭?が強く求めてこれを入手すると、その書は当時伝わ
っていたものとは多くの異同があり、紙や墨もまた古く、文字の多くは龍挙の例のごとくで隷書でも篆書でもなかったため、蕭?
はこれを秘蔵した。蕭?が江夏郡に赴任するにあたって、この書を?陽王蕭範に与えると、蕭範は昭明太子に献上した。
まもなく蕭?は安西長史・南郡太守に転じた。母が死去すると、官を去って喪に服したが、さらに父の死去が続いた。喪が明
けると信武将軍・護軍長史として再起し、まもなく貞毅将軍・太尉長史となった。信威将軍・東陽郡太守として出向し、呉
興郡太守に転じた。呉興郡に項羽の廟があり、現地の民は憤王と呼んで、霊験高いとされていた。呉興郡は郡庁の中に憤
王の神座を設けて、以前の太守たちはみな庁内の祠を拝むようになっていた。蕭?が呉興郡に赴任すると、庁内の神座を廟
に帰した。牛を殺して祟りを避ける風習を禁止し、干し肉を肉に代えた。
520年(普通元年)、召還されて宗正卿となり、左民尚書に転じ、南徐州大中正・太子右衛率を兼ねた。度支尚書・左驍
騎将軍・領軍将軍に転じ、秘書監・後軍将軍となり、侍中に転じた。
武帝は西邸にいたころから蕭?と親しくつきあっており、朝に宴会を開くごとに、蕭?のことを「宗老」と呼んで尊敬を示した。蕭?
はつねづね「少壮のころは音律・書・酒の3つを好んでいました。歳をとって以来、音律と酒はやめてしまったものの、ただ書籍に
ついては衰えません」と言っていた。
528年(大通2年)、金紫光禄大夫となり、特進を加えられた。529年(中大通元年)、雲麾将軍・晋陵郡太守とされたが、
病のために自ら辞職し、侍中・特進・金紫光禄大夫の位を受けた。531年(中大通3年)2月乙卯、死去した。享年は52。
本官に加えて雲麾将軍の位を追贈された。諡は平子といった。
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110.
00 |
簡文帝(蕭綱) |
かんぶんてい |
503―551 |
南朝梁の第2代皇帝。姓は蕭、諱は綱。武帝蕭衍の三男。
503年(天監2年)10月、蕭綱は武帝と丁貴嬪のあいだの子として、建康の顕陽殿で生まれた。506年(天監5年)、晋安王に封ぜられた。
509年(天監8年)、雲麾将軍となり、領石頭戍事を兼ねた。510年(天監9年)、宣毅将軍・南?州刺史に転じた。513年(天監12年)、入朝して宣恵将軍・丹陽尹となった。514年(天監13年)、南蛮校尉・荊州刺史として出向した。515年(天監14年)、雲麾将軍・江州刺史に転じた。518年(天監17年)、建康に召還されて西中郎将・領石頭戍事となり、まもなく再び宣恵将軍・丹陽尹に転じ、侍中の任を加えられた。520年(普通元年)、益州刺史とされたが、赴任しないうちに雲麾将軍・南徐州刺史に転じた。523年(普通4年)、平西将軍・寧蛮校尉・雍州刺史に転じた。524年(普通5年)、安北将軍に進んだ。526年(普通7年)、生母の丁貴嬪が死去したため、官を辞して喪に服した。しかし武帝の意向により、無官のままでもとの任を代行した。530年(中大通2年)、建康に召還され、驃騎将軍・揚州刺史として出向した。
531年(中大通3年)、兄の昭明太子蕭統の死により皇太子に立てられた。東宮を修繕していたため、東府に居住した。532年(中大通4年)、東宮に移転した。548年(太清2年)、侯景の乱が起こり、建康が包囲された。549年(太清3年)3月、建康が陥落し、蕭綱は侯景の監視下に置かれることとなった。
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梁の簡文帝
巻七-15聖製樂府三首其一1. ?歌篇十八韻
巻七-16聖製樂府三首其二2. 蜀國弦歌篇十韻
巻七-17聖製樂府三首其三3. 妾薄命篇十韻
巻七-18代樂府三首其一1. 新成安樂?
巻七-19代樂府三首其二2. 雙桐生空井
巻七-20代樂府三首其三3. 楚妃歎
巻七-21和湘東王吹曲三首其一1. 洛陽道
巻七-22和湘東王吹曲三首其二2. 折楊柳
巻七-23和湘東王吹曲三首其三3. 紫?馬
巻七-24雍州十曲抄三首其一1. 南湖
巻七-25雍州十曲抄三首其二2. 北渚
巻七-26雍州十曲抄三首其三3. 大堤
巻七-27同?肩吾四詠二首其一1. 蓮舟買荷度
巻七-28同?肩吾四詠二首其二2. 照流看落釵
巻七-29和湘東王三韻二首其一1. 春宵
巻七-30和湘東王三韻二首其二2. 冬曉
巻七-31戲作謝惠連體十三韻
巻七-32倡婦怨情十二韻
巻七-33和徐?事見?人作?具
巻七-34戲贈麗人
巻七-35秋閨夜思
巻七-36和湘東王名士ス傾城
巻七-37從頓?還城
巻七-38詠人棄妾
巻七-39執筆戲書
巻七-40?歌曲
巻七-41怨詩
巻七-42擬沈隱侯夜夜曲
巻七-43七夕
巻七-44同劉諮議詠春雪
巻七-45?景出行
巻七-46賦樂府得大垂手
巻七-47賦樂器名得箜篌
巻七-48詠舞
巻七-49春閨情
巻七-50詠?閨
巻七-51率爾成詠
巻七-52美人晨妝
巻七-53賦得當?
巻七-54林下妓
巻七-55擬落日窗中坐
巻七-56詠美人觀畫
巻七-57?童
巻七-58代秋胡婦閨怨
巻七-59車中見美人
巻七-60代舊?有怨
巻七-61登顏園故閣
巻七-62戲作?詩
巻七-63夜游栢齋
巻七-64和劉上?
巻七-65詠?棲烏
巻七-66寒宵三韻
巻七-67詠秋夜
巻七-68同蕭長史看妓
巻七-69和湘東王夜夢應令
巻七-70曉思
巻七-71閨妾寄征人
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110 |
萸信 513年-581年 |
(ゆしん) |
513年-581年 |
中国南北朝時代の文学者。字は子山。南陽郡新野の人。萸肩吾の子。南朝の梁に生まれ、前半生は皇太子蕭綱(後
の簡文帝)配下の文人として活躍した。侯景の乱後の後半生は、やむなく北朝の北周に身を置くことになり、代表作「哀江
南賦」をはじめ、江南を追慕する哀切な内容の作品を残した。 |
寄王琳
秋夜望単飛雁
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111 |
王褒 |
(おうほう) |
513〜576 |
琅邪郡臨沂の出身。字は子淵。梁の武帝に仕えて清官を歴任し、蕭子雲に草書・隷書を学んで師と共に令名があり、顧
野王とも二絶と併称され、元帝が即位すると 吏部尚書・右僕射に進んだ。 |
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112 |
徐 陵 |
(じょりょう) |
507年- 583年 |
中国南北朝時代、梁・陳の文学者・政治家。字は孝穆。本籍地は東海郡?県(現山東省)。梁では父親の徐?、?肩
吾・?信父子とともに、皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍し、「徐?体」という艶麗な詩風を確立した。侯景の
乱の混乱により、一時期北朝の東魏・北斉に抑留されたが、後に江南に帰り、陳でも文壇の大御所的存在として「一代の
文宗」と称えられた。詩集『玉台新詠』は、皇太子蕭綱の命により徐陵が編纂したとされ、その序文は六朝時代の駢文の傑
作として名高い。 |
『玉台新詠』序文 |
玉-001-#1 玉臺新詠集序?§1-1〈徐陵〉
玉-001-#2 玉臺新詠集序?§1-2〈徐陵〉
玉-001-#3 玉臺新詠集序?§1-3〈徐陵〉
玉-001-#4 玉臺新詠集序?§2-1〈徐陵〉
玉-001-#5 玉臺新詠集序?§2-2〈徐陵〉
玉-001-#6 玉臺新詠集序?§2-3〈徐陵〉
玉-001-#7 玉臺新詠集序?§2-4〈徐陵〉
玉-001-#8 玉臺新詠集序?§2-5〈徐陵〉
玉-009 玉臺新詠集序?§3-1〈徐陵〉
玉-010 玉臺新詠集序?§3-2〈徐陵〉
玉-011 玉臺新詠集序?§3-3〈徐陵〉
玉-012 玉臺新詠集序?§4-1〈徐陵〉
玉-013 玉臺新詠集序?§4-2〈徐陵〉
玉-014 玉臺新詠集序?§4-3〈徐陵〉
玉臺新詠序の字解集
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陳後主 |
陳叔宝 |
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こうしゅ |
553年―604年 |
後主は、南朝陳の第5代(最後)の皇帝。姓は陳、諱は叔宝。後世、亡国の君主として暗君の典型とされる。施文慶、沈客卿ら奸臣を用い、尚書令の江総や陳暄・孔範ら「狎客」と呼ばれた文人たちと日夜宴飲と歌舞音曲にふけり、国政を顧みなかった。また、禎明2年(588年)には、腹心の吏部尚書蔡徴らの讒言によって、長男で皇太子の陳胤を廃嫡して呉興王に降格し、寵姫の張麗華が生んだ揚州刺史・始安王の陳深を新たな皇太子とするなど、乱脈な国政によって陳の国力は大きく衰えた。施文慶、沈客卿ら奸臣を用い、尚書令の江総や陳暄・孔範ら「狎客」と呼ばれた文人たちと日夜宴飲と歌舞音曲にふけり、国政を顧みなかった。また、禎明2年(588年)には、腹心の吏部尚書蔡徴らの讒言によって、長男で皇太子の陳胤を廃嫡して呉興王に降格し、寵姫の張麗華が生んだ揚州刺史・始安王の陳深を新たな皇太子とするなど、乱脈な国政によって陳の国力は大きく衰えた。
禎明2年(588年)10月、大陸の統一を目指した隋の文帝は、次男の晋王楊広を総大将とする総勢51万8000の軍を侵攻させた。翌禎明3年(589年)の元日には隋軍が大挙して長江を渡り国都建康に迫った。後主は「犬羊のごとき者ども(隋軍を指す)が我が国に勝手に侵入し、京師(国都の周辺地域を指す)の近郊を盗み取っている。蜂や蠍のごとき毒のある者は、時機を選んで(隋軍を)掃討・平定するがよい。内外ともに厳重に警戒するように」と詔したが、迎撃に出た将の紀?が撃破され、隋軍の前線司令官賀若弼が陳の捕虜を寛大に扱ったこともあり、形勢不利を悟った陳軍からは投降者が相次いだ。首都の建康が陥落するに及び、大臣の1人である尚書僕射の袁憲は「隋軍の兵士達が宮廷に侵入してきても、決して乱暴なことはしないでしょう。しかも今は陳国にとって最も重大な時でございます。陛下におかれましては、服装を正して正殿に着座し、梁の武帝が侯景を引見した時の例にお倣い下さいますように」と後主に進言したが、後主は従わず「剣の刃の下では当たっていくことはできない。私には私の考えがあるのだ」と言って、宮中の奥にある空井戸に隠れようとした。袁憲は繰り返し諫め、さらに後閤舎人の夏侯公韻が、自分の体で井戸を覆って妨害したが、彼を押しのけて張麗華・孔貴人の両夫人とともに井戸の底に隠れていたところ、結局、宮殿に侵入してきた隋軍に発見されて捕虜となった。張麗華は楊広の命により青渓中橋で斬られた。
陳の滅亡後、陳叔宝は隋の都長安に送られた。当時、亡国の君主が囚われると反乱を予防するため殺されるのが通例であったが、亡国や張麗華が殺されたことを全く恥じず、酒浸りの生活を送るなど、元皇帝とは思えない振舞いをしたため猜疑心が強かった文帝からも警戒されず、文帝の行幸に随行したり酒宴に侍るなどして余生を全うすることができた。
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