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02 王維ものがたり


■ 王維 静的山水画の詩


 王維詩

王維ものがたり 


02 1009王維 


699年1歳・山西省太原に生まれる字は摩詰。王右丞とも呼ばれる
709年11歳・辞(韻文の一体)を作る
713年15歳・このころ長安に遊学する
「題友人雲母障子」 (君家雲母障)2
「過秦始皇墓」(古墓成蒼嶺)3
715年17歳「九月九日憶山東兄弟」(獨在異ク爲異客)4
・長安の予備試験。主席合格。
・音楽の才能が生まれつきあり,琵琶が巧みで玄宗の弟の岐王に愛される
716年18歳洛陽女児行(洛陽女児対門居)6
雑詩五首其一 (朝因折楊柳)7
雑詩五首其二 (双燕初命子)8
班?、   (怪來妝閣閉)     201
草春行   (紫梅発初遍)    9
717年19歳・京兆府(けいちょうふ)試を受けて首席で合格
西施詠(艶色天下重)11
李陵詠(漢家李将軍)13
賦得清如玉壷氷(気似庭霜積) 15
718年20歳息夫人(莫以今時寵)17
雑詩五首 其三(家住孟津河)18
雑詩五首 其四(君自故郷来) 19
雑詩五首 其五(已見寒梅発) 20

719年 21歳・進士に及第し、太楽丞(従八品下)になる。当時としては、非常に若い任官で、(宮廷の音楽を司る)王維が琵琶に巧みなのが考慮されたもの。
勅借岐王九成宮 避暑 応教(帝子遠辞丹鳳闕)21
少年行四首 其一(新豊美酒斗十千)
少年行四首 其二(出身仕漢羽林郎)22
少年行四首 其三(一身能擘両彫弧)
少年行四首 其四(漢家君臣歓宴終) 24
「燕支行」         200
観猟(風勁角弓鳴)26
相思(紅豆生南國)  202
720年  22歳"二十二歳になった開元八年(720)の秋、突然の人事異動で済州(山東省荏平県)の司倉参軍(しそうさんぐん)へ転勤を命ぜられます。荏平(しへい)県は現在の済南市の西六十七kmのところにあり、当時は済水の南岸に沿う町であったようです。司倉参軍の品階は下州ならば従八品下で太楽丞と同じですが、地方の役所の倉庫を管理する係りに転勤させられたのですから、明らかに左遷です。王維は岐王の取り巻きのひとりとして派手な詩作活動をしていましたので、皇弟のもとに人材が集まるのを警戒する高官の一部から睨まれたのかも知れません。
 王維は晩秋のころ長安を発って、多分、故郷の蒲州に立ち寄り、陸路を河陽の方へ向かったようです。"
  登河北城楼作(井邑傅巌上)27
  渡河到清河作(汎舟大河裏)28
  被出済州(微官易得罪)29
王維は改めて左遷された身の不運を悔み、「縦え帰来の日有るも 多く年鬢の侵すを愁う」と将来を悲観します。王維はこのときから開元十四年(726)の春まで五年あまり済州にとどまりますが、その間の行動はよく分かっていません。
  魚山神女祠歌 二首(坎坎撃鼓)30
  魚山神女祠歌 二首(紛進拝兮堂前)31
724年26歳友人の祖詠(そえい)が王維を訪ねて来る
  済州送祖三二首 其一(相逢方一笑)32
  済州送祖三二首 其二(送君南浦涙如糸)33
725年27歳 開元13年9月に休暇を取って故郷の蒲州に帰る予定でしたが、その年の十一月に玄宗の封禅の儀が泰山で行われることになり、王維は上司の済州刺史裴耀卿の指図に従って封禅の行事にかかわります
726年  28歳 。それば済んだ開元十四年(726)の春に、王維は文陽の人に別れを告げて蒲州に帰り、しばらく滞在したあと長安に上りました。ところが長安に着いたところで、蜀への転勤を命ぜられます。王維はすでに二十八歳になっていますので、故郷では妻帯の話もあったと思われますが、決心がつかないでいたところに思いがけず蜀への転勤命令が出たのです。王維は文陽の人への思いを断ち切る機会になるかもしれないと思って蜀へ赴任したようです。
  自大散已往深林(危逕幾万転)34
  暁行巴峡(際暁投巴峡)36
728年  30歳王維は長途の旅をして蜀からもどってきますが、都へ着くとすぐに洛陽方面の地方官に出されたらしく、二年ほど洛陽付近の任地を転々としています。
  淇上即時田園(屏居淇水上)38
  藍田山石門精舍(落日山水好) 203
  寒食上作(広武城辺逢暮春)39
文陽の人は王維の勤め先の近くに住み、ふたりは再び逢う瀬を重ねるようになったようです。そのころ王維は嵩山(洛陽の東南54`b)の麓に住んでいました。
  帰嵩山作(清川帯長薄)40
729年  31歳   三十歳になっている王維はいろいろな経緯はあったようですが、文陽の人を説き伏せて結婚にこぎつけたようです。王維の結婚や妻についてはほとんど知られておらず、最初の妻の死後、二度と妻を娶らなかったことだけが伝えられています。      
   ・玄宗は開元十七年(729)に自分の誕生日の八月五日を千秋節と名づけて興慶宮で盛大な祝宴を催しました。王維はこの祝宴に際して応制の詩(天子の御製に奉和する詩)を作っていますので、このころ中央の官に復帰していたらしことが知られます。王維はそのころ襄陽(じょうよう)の詩人孟浩然(もうこうねん)と都で知り合い交際をしています。しかし王維は、ほどなく官を辞して?川(もうせん)の家で田園生活に入ったようです。?川の家は宋之問(則天武后時代の宮廷詩人)の古い別荘を買い取ったもので、王維はその家に蒲州の母も呼び寄せ家族と共に暮らしはじめました。
  過李揖宅(閑門秋草色)41
  ?川閑居(一従帰白社)42
「田園楽七首」は六言四句のめずらしい詩です。六言の句は二言の積み重ねになりますので、啖呵を切るような歯切れのよい詩になります。この詩には、「筆を走らせて成る」という題注が付されており、即興で作ったのでしょう。
  田園楽七首 其一(出入千門万戸)
  田園楽七首 其二(再見封侯万戸)
  田園楽七首 其三(採菱渡頭風急)43
  田園楽七首其四(萋萋芳草春緑)
  田園楽七首其五(山下弧煙遠村)
  田園楽七首其六(桃紅復含宿雨)46
  田園楽七首其七(酌酒会臨泉水)47
酬虞部蘇員外過藍田別業不見留之作(貧居依谷口)48
・王維は「?陽の人」と正式に結婚するために、士身分も捨てなければならなかったようです。
731年  33歳・山荘での生活は二年ほどしかつづきませんでした。開元十九年(731)の夏のころ、三十三歳の王維は愛する妻を亡くしました。悲しみに沈む王維を慰めようと、秋になって友人たちが訪ねてきました。
  ?諸公見過(嗟余未喪)
*「四言 時に官より出で?川荘に在り」という題注がついている。唐代では士身分の者は納税義務がなく、農民だけ納税を負った。このことで「官より出で」というのは、官を辞任しただけでなく、士身分から農身分に移ったことを意味します。48
・右拾遺(天子の諫官)になる
  喜祖三至留宿(門前洛陽客)54
734年  36歳・妻を亡くした王維は田園の閑居にも意味がなくなり、母や弟妹をかかえて生活にも困窮する面があったのでしょう。妻の三年の喪があけると、張九齢を頼って再び官途につく運動をはじめました。
  上張令公(珥筆?丹陛)55
  上張令公(天統知堯後)56
735年  37歳王維は士籍からもはずれていたようですので、官に復するには相当の困難があったと思われます。王維が張九齢の推薦によって中書省右拾遺(うじゅうい・従八品上)を拝命したのは、出願して一年ほどたってからでした。・張九齢は王維を自分の部下に採用した
  献始興公(寧棲野樹林)57
  献始興公(側聞大君子)58
736年  38歳送孟六帰襄陽204
737年  39歳"・王維の中書省勤務がはじまった開元二十三年(735)に、李林甫(りりんぽ)が礼部尚書同中書門下三品に任ぜられ、宰相の列に加わりました。李林甫は皇室の支脈につながる門閥官僚で、理財に明るいことから頭角をあらわしてきましたが、知識人である進士出身の同僚を毛嫌いしていました。
 そのころ張九齢は進士系官吏の指導者的立場にいましたので、李林甫から目の敵にされ、開元二十四年(736)の十一月に張九齢は尚書右丞(正四品上)に格下げされ、宰相を辞任させられました。かわって宰相の列に加わったのは李林甫の推薦する牛仙客(ぎゅうせんきゃく)です。
         ところが、翌開元二十五年(737)に御史台の監察御史(かんさつぎょし)で周子諒(しゅうしりょう)という者が牛仙客を弾劾し、その文中に不適切な語があったとして、逆に周子諒のほうが杖刑に処され、さらに?州(じょうしゅう)に流されることになりました。その途中、周子諒は藍田(らんでん)で亡くなりました。殺されたのかもしれません。
         周子諒は張九齢が推薦した官吏であったので、張九齢も連座の罪に問われ、荊州大都督府の長史に左遷されることになりました。大都督府の長史は次官で従三品の高官ですが、荊州(湖北省江陵県)という地方官に追い出されたことになります。
         王維は憤慨しかつ悲しんで、荊州の張九齢に詩を送りますが、張九齢がこんなになってしまったのでは、王維も職にとどまっていることはできません。 
「寧棲野樹林、寧飲澗水流。  不用食梁肉、崎嶇見王侯」
むしろ原野の木々の中に暮らし、谷川の水を飲みたいものだ。そうすれば、贅沢な食べ物を食べ、ペコペコして王侯に謁見することはないのだ。
  寄荊州張丞相(所思竟何在)59
王維は中書省を辞任しますが、だからといって帰農することもできません。そのときたまたま母崔氏の一族で崔希逸(さいきいつ)という人が河西節度副使になって涼州(甘粛省武威県)に使府を置いていました。王維はこの人の辟召(へきしょう)を受けて河西節度使の節度判官になります。王維の中央における官途は三年足らずでまたも挫折し、十月には長安を発って涼州に赴きます
  双黄鵠歌送別(天路来兮双黄鵠) 60
  双黄鵠歌送別(悲笳?唳垂舞衣)61
・王維はこのとき三十九歳。もともと風采にすぐれた美男子でしたので、三年近くの右拾遺のあいだに慕い寄る女性があったのでしょう。王維は宿舎に着いてからも憂いに沈み、悲しみに包まれていたと詠っています。
涼州郊外遊望(野老才三戸) 62
738年  40歳
  送岐州源長史帰(握手一相送)63
739年  41歳・開元二十七年(739)には王維自身も長安にもどることができました。王維は御史台(ぎょしだい)察院の監察御史(正八品上)に任ぜられたのです。旧職の右拾遺よりは二品階上ですから昇格しての帰任ということになります。     
長安にもどった王維は、さっそく西北方面の視察に派遣されます。
  使至塞上(銜命辞天闕)使至塞上(屬國過居延) 64
  出塞作(居延城外猟天驕)65
740年  42歳"・王維は西北方面に出張した翌年の開元二十八年(740)に、同じ御史台の殿中侍御史(従七品上)に昇格します。その仕事として知南選(ちなんせん)に選ばれ、黔中(けんちゅう)都護府に派遣されます。長安から黔中(湖南省?陵県付近)へ行くには襄陽(じょうよう)を通るのが道筋ですので、途中、襄陽にいる孟浩然を訪ねました。
 実は張九齢が荊州大都督府の長史に左遷されたとき、孟浩然は張九齢の幕下に採用され荊州に行っていたのですが、この年の二月に張九齢が亡くなったので襄陽にもどっていたのです。十年振りに孟浩然と再会した王維は、当然、張九齢の死を悼み、政事の現状などを話題としたことでしょう。"
  漢江臨汎(楚塞三湘接)66
  登辨覚寺(竹径従初地)67
740年  42歳・文部郎中(文部次官)になる。黔中(けんちゅ)での仕事を終えて長安にもどる途中、王維が再度、襄陽(じょうよう)に立ち寄ると、思いがけないことに孟浩然は背中に疽(そ)を患ってすでに亡くなっていました。享年は五十二歳です。
  哭孟浩然(故人不可見)李白:「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」(故人西辭黄鶴樓 )68
741年  43歳・開元二十九年(741)の春、玄宗皇帝は玄元皇帝、つまり老君(老子)から夢のお告げがあり、楼観山の山中で老子の大像を発見しました。玄宗はその老子像を興慶宮に祀り、「玄元皇帝の玉像を慶ぶの作」という詩を作りました。王維は召されて御製に奉和する詩(応制の詩)を作っています。・ 翌天宝元年(742)に王維は殿中侍御史から中書省の右補闕(従七品上)になっています。
742年  44
  歳奉和聖製慶玄元皇帝玉像之作 応制
  (明君夢帝先)69
743年  45歳
  寒食城東即事(清渓一道穿桃李)70
  送元二使安西(渭城朝雨?輕塵)       1 
  送劉司直赴安西(絶域陽関道)
  送韋評事(欲逐将軍取右賢)
  別弟縉後登青龍寺望藍田山(陌上新別離)
  王維は生涯に多くの送別の詩を作っていますが、ほとんどの作品が制作年次不明です。
王維は生涯に多くの送別の詩を作っていますが、ほとんどの作品が制作年次不明です。
旅の別れには、官途に就いている肉親との別れもあります。王縉(おうしん)は王維の一歳年下の仲のよい弟です。詩には弟の身を思いやる王維のあふれるような真情が詠われています。      205
744年  46歳・年を載(さい)と呼ぶようになった天宝三載(744)ころから八年間ほどの王維の伝記はほとんどわかっていません。四十六歳から五十三歳までの期間ですので、詩人としても官吏としても脂の乗り切った重要な時期であり、多くの詩が書かれたと思われますが、ほとんどが制作年次を確定できないものばかりです。
         そのころの作品のひとつに「時に庫部員外たり」と題注のある詩がありますので、尚書省兵部の庫部員外郎(従六品上)になったことが知られますが、正確な時期は不明です。
745年  47歳
  帰?川作(谷口踈鐘動)73
  別?川別業(依遅動車馬)74
746年  48歳
  和太常韋主簿五郎温湯寓目(漢主離宮接露台)75
748年  50歳
  積雨?川荘作(積雨空林烟火遅)76
  山居秋暝(空山新雨後)77
749年  51歳
  過知香積寺(不知香積寺)
香積寺は、秦嶺山脈の支脈のさきの、川の合流点にある。おそらく変化に富んだ風光の地だったのだろう。道を失うほど古木が生い茂り、もしかすると香積寺からかもしれない鐘の音が、遠くに聞こえる。奇岩のあいだを流れる泉水の音、梢をこぼれる陽射し。山景をとりいれた、夏でも涼しい閑静な庭。道をくだると、山端をめぐる流れの淵にでる。岩のうえに坐る。そこから、善導大師の舎利塔が、木の間がくれに見えたかもしれない。
750年  52歳・?川荘は、はじめは宋之問の古い別荘を購い取っただけのものでしたが、?川の別荘にしばしば通うようになってから、すこしずつ広げていったようです。そうした時期に王維と特に親しく交流するようになったのが裴迪(はいてき)です。王維は詩題で裴迪を秀才(しゅうさい)と呼んでいますので、貢挙(こうきょ・後の科挙)の予備試験である郷試(ごうし)に及第しただけの若い詩人であったようです。
  ?川闍書。裴秀才迪(寒山転蒼翠)78
  酌酒与裴迪(酌酒与君君自寛)79
750年  52歳・天宝九載(750)に王維は母を亡くしました。王維は五十二歳でしたので、母崔氏は享年七十歳くらいだったでしょう。王維は悲しみのために食事も咽喉を通らなかったといいます。親が死ねば三年間の喪に服することになり、勤務につくことができません。
752年  54歳・喪が明けた天宝十一載(752)に王維は文部郎中(従五品上)に任ぜられました。その年の三月に尚書省の吏部が文部と改称されていますので、旧称では吏部郎中になったわけで、官吏の任免に関する重要な職についたことになります。天宝十一載の十一月に宰相李林甫が亡くなり、楊貴妃の又従兄妹にあたる楊国忠が宰相になっており、楊国忠は文部尚書を兼ねていますので、王維を文部郎中に起用したのは楊国忠かもしれません。
753年  55歳
  勅賜百官桜桃(芙蓉闕下会千官)80
同じ天宝十二載(753)に秘書監(従三品)の朝衡(晁衡とも書く)が日本に帰ることになりました。朝衡とは安倍仲麻呂の中国名で、開元五年(717)に学生(がくしょう)として入唐以来、貢挙にも及第して唐朝に仕えてきたのです。在唐三十七年に及び、この年、遣唐使藤原清河の一行が帰国するのに際して共に帰国することを許されたのでした。
  送秘書晁監還日本国(積水不可極)81
 楊国忠が宰相になってから安史の乱が起こる天宝十四載(755)十一月までの三年間は、楊貴妃一族が全盛を謳歌した時代ですが、?川荘はその間に完成に近づいていきました。王維はそのころに門下省の給事中(正五品上)に昇進していますが、王維には妻も子もなく、母も亡くなり、弟妹もそれぞれ身を立てていたでしょうから、王維の収入はすべて?川荘の経営に注ぎこまれたものと思われます。
  王維『?川集』詩題
  01孟城?     (もうじょうおう)
  02華子岡     (かしこう)
  03文杏館     (ぶんきょうかん)
  04斤竹嶺     (きんちくれい)
  05鹿柴      (ろくさい)
  06木蘭柴     (もくらんさい)
  07茱萸?     (しゅゆはん)
  08宮塊陌     (きゅうかいはく)
  09臨湖亭     (りんこてい)
  10南 ?     (なんだ)
  11欹 湖     (いこ)
  12柳 浪     (りゅうろう)
  13欒家瀬     (らんからい)
  14金屑泉     (きんせつせん)
  15白石灘     (はくせきたん)
  16北 ?     (ほくだ)
  17竹里館     (ちくりかん)
  18辛夷塢     (しんいお)
  19漆 園     (しつえん)
  20椒 園     (しょうえん)
    竹里(獨坐幽篁裏)
    鹿柴(空山不見人) 
755年  57歳・安禄山の乱起こる  天宝十四載(755)十一月九日早朝、安禄山は幽州(北京)で兵を挙げ、安史の乱がはじまります。安禄山軍は十二月十三日には洛陽に入城し、翌天宝十五載正月、安禄山は洛陽で即位して国号を大燕と称します。その年の六月八日、唐の潼関の守りは破られ、玄宗は六月十三日早朝、楊貴妃や皇族、一部の側近を連れて長安を脱出し蜀地へ蒙塵(もうじん)します。
         王維は都に取り残され、隠れていたところを安禄山軍に捕らえられます。長安で賊に捕らえられた高官は洛陽に連行され、大燕の役人として仕えることを強要されました。王維も旧職と同じ給事中に任ぜられ、後に偽官(ぎかん)の罪に問われることになります。
756年  58歳・賊軍に捕らえられる
  菩提寺禁裴迪来相(万戸傷心生野煙)
  菩提寺誦示裴迪(萬戸傷心生野煙) 102
757年  59歳・唐では天宝十四載七月に粛宗が即位し、その月から至徳元載(756)になります。粛宗の軍が長安と洛陽を回復するのは至徳二載(757)の十月になってからです。粛宗は十月二十三日に長安に帰還し、賊の偽官(ぎかん)を受けた者の処罰が論ぜられます。王維も罪人として洛陽から長安に連れてこられ、死罪になる可能性もありました。しかし、弟の王縉が自己の功にかえて兄の命乞いをし、また先の詩があったために許されて、太子中允(正五品上)に任ぜられました。
  既蒙宥罪旋復拝官(忽蒙漢詔還冠冕)103
758年  60歳・十二月には上皇玄宗も蜀から都にもどってきました。翌至徳三載(758)は二月に改元があり、載も年に改められて乾元元年になります。安慶緒はまだ河北にあって兵を集めていますが、長安は都回復の喜びに満ちています。
・この春、王維(おうい)、賈至(かし)、岑参(しんじん)、杜甫(とほ)、四人の詩人が中書省と門下省に揃っており、杜甫も生涯で一番幸福な時期です。
・王維は太子中允からすぐに中枢にもどり、中書舎人(正五品上)になっています。
  和賈舎人早朝(絳??人報暁籌)104
759年  61歳・乾元元年、詩人たちの希望に満ちた日は永くはつづきませんでした。粛宗の朝廷には霊武に同行した即位前からの直臣と即位後に参加した玄宗時代からの朝臣があり、両者は政府の主導権をめぐって対立していました。賈至も杜甫も岑参もほどなく地方に左遷され、王維だけがひとり残されました。王維は脅従官(偽官)の汚名を背負っていましたので遠慮した動きをしていたのでしょう。それに王維は当時、都で第一の著名詩人でしたので、宮廷としても手放したくない理由があったと思います。しかし、本人としては居心地のいい状況ではありません。王維はこのころから終南山の別業(別荘)に親しむようになりました。
  終南別業(中歳頗好道) -入山寄城中故人-   105
  贈除中書望終南山歌(晩下兮紫微)106
  送別(下馬飲君酒)     107
759年"  ・前年十月に洛陽を敗退した安慶緒は相州(河南省安陽市)の?城(ぎょうじょう)に拠点を構え兵六万を集めていましたので、朝廷は乾元元年(758)九月に九節度使の軍を?城に差し向けました。このころ杜甫が崔氏の招かれに招かれ、その西隣りにあった王維の?川の別荘が無人であることを詩に詠っています。その詩のなかで「西荘の王給事」と言っていますので、王維はそのころ給事中の旧職に復していたようです。王維は?川荘の門は閉じたまま、もっぱら終南山麓の別荘を利用していたようです。
         当時、長安の南郊、長安県の神禾原(しんかげん)にあったとみられる香積寺を王維が訪れたのは、このころのことかもしれません。"
  過香積寺(不知香積寺)108
  ・王維はこのころ?川荘の一部を寺として寄進しています。亡き母と妻の菩提を弔うためです。寺は清源寺と名づけられ、壁には王維自身の手による?川図が描かれていたそうですが、寺は残っていません。絵も亡んでいますが、王維が画家としても堪能であったことは文献によって知られています。
・乾元二年(759)の春、いったん唐に復して幽州に駐屯していた史思明が安慶緒を助けると称して兵を出してきました。?城を包囲していた政府軍は、三月に相州の野で史思明の軍を迎え、一戦しましたが大敗してしまいました。援軍として?城に入った史思明は安慶緒を殺してその兵を奪い、大軍となって西進してきました。史思明軍は四月には洛陽に攻め入り、史思明は大燕皇帝を称します。
  酬郭給事(洞門高閣靄余暉)109
  酬張少府(晩年唯好静)110
  山居秋暝(空山新雨後) 111
  送別(山中相送罷)  112
  鄭果州相過(麗日照残春)113
760年  62歳・王乾元二年(760)は閏四月に改元があり、上元元年となります。洛陽は史思明軍に占領されたままです。そのころ王維は給事中から尚書右丞(正四品上)に昇進しています。三品階あがったことになりますが、仕事はむしろ実権のない閑職に移ったと言っていいでしょう。
  答張五弟 雑言(終南有茅屋)114
  哭殷遥二首其一(人生能幾何)115
            (行人何寂莫)116
  哭殷遥二首其二(送君返葬石楼山)117
  歎白髮(宿昔朱顏成暮齒) 118
 ・元二年(761)の春三月、史思明軍に異変が起きました。後嗣のもつれから、大燕皇帝史思明が息子の史朝義によって殺害されたのです。史朝義は帝位を奪って洛陽に入ります。唐としては反撃の好機ですが、この年、長安では大雨のために飢饉となり、有効な反撃ができませんでした。飢饉に際して、王維は天子の許しを得て自分の禄米のほとんどを窮民に施しました。

761年 63歳
  夏日過青龍(龍鐘一老翁)119
  ・ 王縉はそのころ蜀州刺史の任にあって都を遠く離れていました。王維の願いは聴き入れられ、弟は門下省左散騎常侍(従三品)に任ぜられ、都に帰って来ることになりました。
  秋夜独坐(独坐悲双鬢)120
  臨高臺送黎拾遺(相送臨高臺) 121

 弟王縉が兄の帰郷の願いを受けて長安の西の鳳翔までもどってきていた秋七月、王維は弟に別書をかき、また親しい人々へ数篇の別書をかいている途中、筆を落とした。享年六十三歳、王維は弟に会えないまま亡くなりました。

   終南山(太一近天都)123
臨終のの王維の頭に去来するのは、「終南山」の詩であった。王維の人生集大成の歌、存在、思想と意義が述べられています。
  「終南別業」
  (入山寄城中故人)王維  
  中歳頗好道、晩家南山陲。
  興来毎独往、勝事空自知。
  行到水窮処、坐看雲起時。
  偶然値林叟、談笑無還期。








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