古代の女性を理解するための基本資料



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女性論097 基本資料




教坊

教坊(きょうぼう)とは、唐以降の中国王朝における宮廷に仕える楽人や妓女たちに宮廷音楽を教習させるための機関をさす。楽曲や歌舞の習得を主な目的とするが、官妓にあたる妓女を統括する役割もあった。その後の王朝に引き継がれ、清代まで続いたが、雍正帝の時に廃止された。

歴史

唐の李淵の統治時代である武徳年間に宮城内に内教坊が創設され、玄宗の開元2年(714年)に、音楽を司る太常寺から伝統的な音楽である雅楽を残し、俗楽[1]と散楽を分けて、それを習得するために長安と洛陽にそれぞれ左右教坊が設置された。また、内教坊は大明宮に移され、梨園も設立されている。長安の右教坊は、光宅坊に置かれ、歌に長けたものが多く、左教坊は延政坊にあり、舞に巧みなものが多かった。
安史の乱以降に衰退したが、その後の王朝でも、引き続いて設置されたが、清代初期に民間から楽人をつのることとなり廃止された。
現代でも、女子十二楽坊の名前の由来となっている。

唐代・教坊の妓女

崔令欽「教坊記」によると、唐代の教坊に在籍する妓女は、宮妓だけでなく、広い範囲から選ばれた。
容貌と芸に優れ、選抜されて、太極宮にある宜春院に入ったものが「内人」(または前頭人)と呼ばれた。内人は重んじられ、その中でも皇帝から寵愛を得たものを「十家」と呼ばれ、宮城に屋敷を与えられた。内人は毎月、2または16日、もしくは誕生日に家族と面会できた。また、他の妓女とは異なり、魚袋を身につけていた。
宮廷の宴楽の際、内人だけで足りない時は、「宮人」が加わった。宮人は宮妓からなった。平民の子女が容貌により選ばれたものは、「スウ(手偏に芻)弾子」と呼ばれ、五弦・琵琶・箜篌・箏を学んだ。また、宜春院や教坊の見習いを「雑婦女」といった。
玄宗は自ら指揮して、妓女たちに歌舞を行わせ、そのもとで数多くの楽曲が創作され、演じられた。教坊の妓女たちは仲の良いもので、香を焚いて義兄弟となることを誓い合う習慣があり、これを香火兄弟といった。多いときは、14、15人。少ない時でも、8、9人はいたという。身分あるものに呼び出された場合、宮廷の外にでることも許され、その時には、その香火兄弟もついてきて、呼び出した官人と、親密な仲になることもあった。年を取ると、宮廷から出ることを願い出ることもでき、比較的自由な立場であった。



梨園

梨園(りえん)とは中国・唐の宮廷音楽家養成所である。日本では転じて、一般社会の常識とかけ離れた特殊社会としての歌舞伎俳優の社会を指す。
由来
語の由来は、唐の玄宗の初年(712年)に、唐都長安西北郊の西内苑内で、芸人達を梨が植えられている梨園と称される庭園に集め、音楽教習府と呼ばれる施設で芸を磨いたことに始まる。音楽教習府には、太常寺太楽署所属の楽人で、坐部伎の楽人子弟、教坊の妓女、宮女の一部とが属した。玄宗の嗜好する法曲を、皇帝が直々に教えたため、皇帝梨園弟子と称された。
安史の乱で宮廷の音楽も壊滅して衰退したが、その後再興され、838年には法曲を仙韶曲と改め、梨園を仙韶院と改めた。後、唐末の動乱によって、消滅した。


妓女(ぎじょ)は、中国における遊女もしくは芸妓のこと[1]。娼妓、娼女という呼称もある[2]。歌や舞、数々の技芸で人々を喜ばせ、時には宴席の接待を取り持つこともあった。娼婦を指すこともある。

概要
太古から妓女的な役割を持った女性は存在したと見られるが、文献による記録は春秋時代から確認することができる。国家による強制的な徴発と戦時獲得奴隷が主な供給源だったと考えられるが、秦の成立以降、罪人の一族を籍没(身分を落とし、官の所有とする制度)する方法が加わった。また、民間では人身売買による供給が一般的であった。その詳細な記録があらわれるのは、唐代以降である。



妓女の分類

宮妓
皇帝の後宮に所属する。罪人として籍没された女性や外国や諸侯、民間から献上されていた女性が中心であった。后妃とは別に、後宮に置かれ、後宮での業務を行ったり、技芸を学び、皇帝を楽しませた。教坊で技芸を習得した女性もこれに含まれる。衛子夫、趙飛燕や温成皇后などのように后妃に取り立てられるものもいた。
家妓
高官や貴族、商人の家に置かれ、家長の妾姫となった。主人だけではなく、客を歓待する席でも技芸により、これをもてなす役目があった。官妓から、臣下に下賜されて家妓になるものもいた。始皇帝の母にあたる呂不韋の妾趙姫や、西晋の石崇の愛妾である緑珠が有名。

営妓
軍隊の管轄に置かれ、軍営に所属する官人や将兵をその技芸で楽しませた。唐代に節度使が設置されてから盛んに文献に残っているが、宋代以降はその役割は小さくなっていった。唐代女流詩人の薛濤が有名。

官妓
中央政府の教坊や州府の管轄に置かれた。実際は、妓楼や酒楼は個別に運営されており、唐代・長安の北里、明代・南京の旧院は、その代表的な色町である。唐代の天宝年間以降に彼女らを題材にして、多くの士大夫が詩文にうたい、妓女となじんだという記録が盛んになる。明代までその活動は大きなものであった。唐代女流詩人の魚玄機、明代の陳円円、李香君、柳如是が有名。

民妓
民営の妓楼に所属した。売春だけを目的とした女性も含まれる。明代以降、官妓が衰退した後、大きな役割を果たすようになった。清代は上海に多くの民妓がいた。宋代の李師師、趙元奴、清代の賽金花が有名。


代表的な色街
唐代、長安の北里
晩唐の孫? (中国語版)『北里志』に詳しい。
長安、東市の西隣にある平康坊の東北の一角にあった。北から順に、北曲、中曲、南曲と呼ばれ、北曲は格が低く、中曲、南曲は格が高い妓楼が多かった。中曲には音楽師が住んでいて、宴席に呼ばれると駆けつけてきた。北里に初めて遊ぶものは、南曲に行った。格の高い妓楼には、入り口の両側に小さな堂があり、入り口や中庭には珍石や池があり、花が植えられていた。客間の3、4間あり、妓女たちは自分たちの部屋を持っており、客を泊めることもあった。洛陽などの地方の妓女に比較して、教養、接遇に優れ、公卿を相手にしても、のびのびと接した。
実態
遊び代には基本料の他に、様々なもので多額の費用がかかり、呼び出すだけで100両以上もかかることがあった。身請にはそれ以上の費用を要した。客は下級官僚や科挙の合格者、受験者、商人が多かった。この時代からすでに水揚げという習慣もあった。また、後に唐の高官となった王式や裴度のような人物も若い頃に、北里で危険に巻き込まれた事例が残っている。
妓女は、身請けされたり、年季が終わり、人に嫁ぐ者もいたが、家庭になじめず逆戻りすることもあった。その他、仮母になる者、官吏の妾になる者もいた。妓女の評判は容貌や若さよりも、話術・詩作・酒令に優れているかという才知による教養的な側面が重視された。
北里の妓女は文化芸術に関する学習機会に恵まれ、多くの者が高い教養を身につけており、士大夫と詩作や評論などを交えることができ、衣食住に困ることが少なかった。このように同時代の女性より、自由が許された反面、身分は低いままであり、正妻に迎えられる者はほとんどいなかった。一般の女性を羨むという妓女の詩も残っている。


しきたり
"妓楼を経営する妓女の母を「仮母」といい、炭が爆ぜるように妓女を叱咤するために、「爆炭」という呼ばれ方もされた。仮母には、妓女が年を重ねてからなり、夫を持たず、有力者の庇護を受けている者が多かった。妓女にするために連れてきた娘に自分の姓を名乗らせ、妓女同士を姉妹と呼ばせた。妓女には、仮母の実の娘がなることもあった。芸を身につけさせるために、妓女の体を打ちすえながら、教えたと伝わっている。実の娘が妓女である場合、比較的かわいがられた。
"毎月、8・18・28日に平康坊の保唐寺に出ていく時と、客などのお供として呼ばれる以外は、北里から出ることを許されなかった。保唐寺に行く時も、銭1,000文を仮母に納める必要があった。
"官妓であるために、教坊に籍があり、政庁の宴席に順番に供する義務があった。科挙の進士の合格者の宴には多くの妓女が呼ばれた。
"妓女に養われた遊び人のことは「廟客」と呼ばれた。
"妓女は12、13歳で衣を着飾り、客を楽しませる相手となった。
"妓女同士で、香を焚き、姉妹になることを誓い合う習慣があった。これを「香火兄弟(姉妹)」といった。
"北里の中での、妓女の頭を「都知」といった。妓女をいくつかの班に分け、席に呼ばれる回数を均等になるように調整する役割があった。これは、現役の妓女の声明高い者が選ばれた。
酒令
唐代では、酒宴は食事は終わってから始まり、杯に酒を注いで相手に勧めて、順々に飲む方法で開かれた。妓楼での夜の酒宴は料金が通常の倍かかった。
酒宴において、行われる酒令は唐代に発達し、さまざまなものが行われた。酒令において、まず、それを取り仕切る「酒糾」(席糾)が客もしくは妓女から決められ、そのもとで遊戯を行い、負けた方に罰杯が課されるものであった。この時、酒宴を盛り上げさせるための機知に富んだ言葉づかいが要求され、これが上手な妓女が高い評価を得た。
酒令にはサイコロなどの道具を使った簡単なものから始まり、決まりを設けて遊ぶ律令、詩歌を即興で生み出す著辞令という難しいものへ移行するのが良いとされた。これは通常の酒宴と比して、「雅飲」と呼ばれた。

明代、南京の旧院
明代の余懐『板橋雑記』に詳しい。
東晋の時、建康という名称であった頃から、秦淮河沿いに妓楼が集まっていた。この地方では運河が発達しているため、色町も河に向かって開かれていた。明初の建てられた富楽院の後にできたものが、「旧院」である。科挙の試験会場である江南貢院が近くにあり、科挙・郷試の受験者・合格者の多くが客となった。旧院は「曲中」とも呼ばれ、上品な妓館がびっしりと立ち並んでいた。周りは塀で囲まれていたが、内部は美しい景観をしていた。清代に焼け落ち、復することはなかった。
妓館
妓館には、花や植物が植えられ、狆や鸚鵡が飼われ、香炉が置かれ、また、山水画や骨董が飾られているところが多く、庭園風になっているものもあった。妓館は、互いに奇をてらい合い、提供される様々な香りが数里先まで漂ったと伝えられる。さらに、厨女(女料理人)が働いており、彼女らが料理する山海の珍味がすぐに作れるように準備されていた。旧院には商店もあり、客が妓女に贈るための高級品が置かれていた。また、茶を専門とする茶坊もあった。夜には、妓女による音楽が奏でられ、芝居が上演された。妓館の額もまた、名人の手になるものがいくつもあった。妓館には、他に下働きの下女と男衆が別にいた。
旧院の妓女の部屋もまた、趣味がよく風雅であり、文人の書斎風になっているものもあった。妓館を経営する妓女の母は「鴇母」と呼ばれ、その夫は「亀奴」と呼ばれた。金銭欲が強い者が多かったと伝えられる。
実態
妓女には、鴇母の実の娘もかなりいた。しかし、多くは幼児に売買された女性であり、鴇母によって、厳しく芸を仕込まれた。音楽、漢詩、文芸、絵画、茶、料理、香、書、囲碁、薬学など様々な技芸に通じている妓女もいた。当時の名高い文人たちからも、絶賛されるほどのそのレベルは高かった。
旧院で使われている衣装は、地方での手本となり、雅趣がある地味なものが好まれた。衣装は客が買ってやるが、仕立てなどは鴇母に任せられた。そのため、鴇母もまた「時世粧」(流行)に敏感であった。
客の中に、歓楽に溺れ、財産を失い、零落する者もあった。

しきたり
"芸や話術によって、客を喜ばせる男性の芸人を「幇間」といった。旧院では、高名な楽人、役者、講釈士によって、芸がふるわれた。
"妓女の芸として、芝居もあったが、名妓たちは演じることを恥としていた。音楽に詳しい人が座に満ち、何度も依頼されて初めて行った。
"「花案」と呼ばれる妓女の番付大会が行われ、科挙にちなんで状元などが選出された。
"明代に書かれた小説『金瓶梅』などによると、宴会の席にも妓女は呼ばれた。一見の客には紹介者を要し、呼んだ場合は、その妓女の妓楼まで行かねばならなかった。客に求められ、遠くの場所にともに何日も行くことがあった。

清代の上海
清代、韓邦慶『海上花列伝』に詳しい。
イギリス租界の中心に色街があった。妓女のランクは、高い順に「書寓」(もしくは「長三」)、「幺二常子」、「花煙間」、「野鶏」の順に高く、「人家人」という素人の売春婦もいた。妓女は妓楼に一人から数人いて、客が来ると、茶を出して、妓女が迎えた。妓女の部屋に客の知人を招いて、宴会か麻雀会を開くことで、なじみとなることができた。妓女は「先生」と呼ばれ、その多くがパトロンを持っていた。「幺二常子」の多くは妓楼に抱えられたものであった。
清末に阿片が流行し、妓楼では頻繁に客に提供され、好んで吸われた。色街には「烟館」という阿片を吸うための店もあった。また、麻雀やカードを使った賭博も盛んに開かれた。その頃には、梅毒などの性病に感染した妓女も多かった。




妓女と文学

詩歌
妓女を描写する漢詩は、南北朝時代から作られている。唐代には具体的な題材にとられ、妓女の贈答詩も物語詩も作られた。また、妓女の人間性も詩のテーマに選ばれるようになった。妓女にも詩作ができる者も多く、薛濤、魚玄機、柳如是など一流詩人が出ている。

小説・戯曲
唐代には、唐代伝奇という文語小説が書かれ、妓女を主人公としたものもあり、白行簡『李娃伝』、蒋防『霍小玉伝』が代表作として挙げられる。続いて、宋代に書かれた白話小説や元代の戯曲にも題材がとられている。明代に書かれた『水滸伝』や『金瓶梅』でも重要な役割を果たしている。また、明代末には妓女の評判集が多数出版された。清代でも戯曲の傑作である孔尚仁『桃花扇』や韓邦慶『海上花列伝』が世に出ている。

有名な妓女
"薛濤(唐代、営妓)
"魚玄機(唐代、官妓)
"李師師(宋代、民妓)
"陳円円(明代、官妓)
"



揚州の妓優





興慶宮
興慶宮(こうけいきゅう)は、中国陝西省の古都、長安(西安市)において、唐代に造られた宮殿。唐の玄宗の時代に政務が行われたことで知られる。
現在は、建築物はなくなっており、礎石が一部残るだけである。跡地に「興慶宮公園」ができており、阿倍仲麻呂の記念碑などがある。

阿倍仲麻呂の記念碑
概要
長安の東端にある「隆慶坊」に位置し、唐の睿宗が皇子であった五人の息子に賜った邸宅が元となった。当時、皇太子であった李隆基(後の玄宗)も他の四人とともに住んでいた。
玄宗が皇帝となった後、「隆慶坊」は、「興慶坊」と改められ、714年(開元2年)、坊名にちなんで、一坊全てを「興慶宮」とする。その後、数次に渡る工事が行われ、720年(開元8年)、宮城の南西部に突き出す形で「勤政務本楼」と「花萼相輝楼」が建造されている。728年(開元16年)正月に、玄宗は興慶宮で政務を行うようになった。興慶宮は北にある「太極宮」、「大明宮」と区別するため、「南内」と呼ばれた。南北1.3キロメートル、東西1.1キロメートルあり、北側が宮殿、南側が庭園となっていた。南には、「竜池」という湖が存在し、船を浮かべることもあった。732年(開元20年)には、興慶宮と長安の東南隅にある曲江池の付近にある離宮「芙蓉園」、北部にある「大明宮」へとつなぐ皇帝専用の通路である「夾城」が完成している。「夾城」は、二重城壁で挟まれた通路であり、住民たちに知られることなく、皇帝たちが移動するためのものであった。
興慶宮の正門は中国の宮殿には珍しく西側にあり、「興慶門」といった。その内にあった興慶宮西北部にある「興慶殿」が正殿となった。その南が「大同殿」であり、横に鐘楼と鼓楼が立ち、老子の像が祀られていた。また、「竜池」の近くには、沈香木で作られた「沈香亭」があった。「勤政務本楼」と「花萼相輝楼」は、直接、大路に接するようにつくられた高層建築物であった。
「竜池」には、雲気がただよい、黄竜が現れ、玄宗が皇帝に即位する前兆となったという伝承があり、南側に、竜を祀る「竜堂」や「五竜壇」があった。また、東北側に「沈香亭」があり、牡丹の名所で知られ、玄宗と楊貴妃が花見を行ったこと、李白がこれを題材に詩を詠い、それを李亀年が歌にしたというエピソードで知られる。近くの「金花落」に衛士の屯所があったと伝えられる。
「大同殿」は、呉道玄と李思訓の山水画が描かれたことで知られる。
「花萼相輝楼」は、興慶宮の西側にある「勝業坊」に住む兄の寧王・李憲、弟の薛王・李業、西北の「安興坊」に住む兄の申王・李ヒ、弟の岐王・李範と親しむために、造られた(玄宗をいれるこの五人で「五王」と呼ばれていた)。玄宗は彼らを呼び、歓楽と親愛を示すと同時に、彼らの動静を調べて遊楽に溺れているのを知り、喜んでいたと伝えられる。
「勤政務本楼」は、玄宗を政務を行う中心的な場となり、重大な儀式を行う場ともなった。玄宗の誕生日である8月5日には、千秋節が行われ、臣下や民衆に酒や肉がふるまわれ、直接、接する春明門大街では、様々な見世物が開かれ、多くの見物人でにぎわった。この時のエピソードとして、宮女の永新の説話が知られる。また、100匹に舞馬が杯を口にくわえて、拝舞するという催しも行われた。
安史の乱後は、急速に衰え、皇帝の来訪もまれとなり、「竜池」も明代に耕地となっている。



興慶宮公園
興慶宮公園は西安の東に位置する興慶宮の遺跡の上につくられました。 ここはもともと唐の長安城の隆慶坊の一部で、玄宗皇帝が皇太子の時に住んでいたところです。彼は即位2年後の紀元714年に、もとの官邸を宮殿に建て直し、その後何度も増築を行い、紀元728年、玄宗皇帝が興慶宮で政務を執って以来、唐代の封建支配の中心となりました。
開宝天宝年間は国家も強大で栄えていたため、興慶宮の建築もいっそう豪華になり、園林作りもさらに凝るようになりました。史書には玄宗皇帝が興慶殿でペルシャ景教と日本の友人と会見したとの記載もあります。「安史の乱」以後、興慶宮は政治上の重要な地位を失い、退位した皇帝が住むところとなりました。そして、唐末期の戦乱により、興慶宮の全ての建築は焼かれてしまい、清の初めにはもはや廃墟になってしまいました。
1957年に、西安市政府は興慶宮の遺跡に興慶宮公園を作り、現在の総面積50ha。「沈香亭」「花萼相輝楼」「南薫楼」などなど、いずれも唐代の建築を模し、昔の名前をそのままにして、ほぼ本来の遺跡の上に建てられました。
興慶湖はこの公園の一番のスポットで、公園の中央にあり、公園総面積の5分1を占めています。そこで玄宗皇帝が楊貴妃を始めとする妃たちや文武大臣と船遊びを楽しんだことはよく知られています。
沈香亭はもともと沈香木という木を使って建てられました。周りには様々な牡丹、芍薬が植えられています。玄宗皇帝と楊貴妃は年に一度ここで花を楽しみ、有名な詩人李白を参内させ、満開の牡丹を詩に詠ませたこともあります。「名花傾国両つながら相歓ぶ、常に君王の笑いを見るを得たり、春風無限の憎みを解釈し、沈香亭の北欄干に倚る」。
園内には、1979年に入唐1200年の記念として、阿倍仲麻呂の記念碑が建てられました。

曲江