代 |
廟号 |
即位-退位 |
姓・諱/諡号 |
生没年 |
享年 |
父母 題何子 |
初
代 |
高祖 |
618年〜626年 |
李淵、神尭大聖大光孝皇帝 |
566年-635年 |
70 |
父 李モ
母 独孤信四女 |
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李 淵(り えん、566年4月7日 - 635年6月25日)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で太原で挙兵し、長安を落として根拠地とした。そこで隋の恭帝侑を傀儡として立て、禅譲により唐を建国した。李淵は在位9年の間王世充などの群雄勢力と戦い、また律令を整備した。626年に太宗(李世民)に譲位し、太宗が残存の群雄勢力を一掃して唐の天下統一を果たした。
李淵の一族の出自は史書では、五胡十六国の西涼の武昭王の末裔で、隴西郡成紀県を本貫とする隴西李氏の漢民族とされる。李淵の一族は大野(だいや)氏という胡姓を持つが、学説では「実際は鮮卑系の出自で本来の姓も大野氏であり、中原の支配権を正当化するために自身が漢民族の末裔であることを主張した」あるいは「武川鎮出身で鮮卑国粋主義復興の風潮が強かったから、元は漢人だったのが鮮卑化した」といった説が主流である。
李淵は北周の唐国公・安州総管を務めた仁公李モの子として生まれた。その出自である隴西李氏は北周の八柱国の家系で、かつて北魏においては皇后を出す資格のある家柄の一つとして重んじられた北朝の名門だった。李淵が隋の文帝の信任を得るきっかけとなったのは、その独孤皇后が李淵の叔母にあたることによる。
618年5月、煬帝が殺されたことを知ると、恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝となった。この頃洛陽でも隋の武将だった王世充が即位して鄭を建国、河北では群盗の竇建徳が一大勢力を築き、長江以南では南朝の梁の末裔である蕭銑が梁朝再興、群雄割拠の様相を呈していた。その後李世民らの活躍もあり、626年の退位までに梁師都以外の群雄を平らげるまでになった。
その後、統一戦に著しい戦功を上げた秦王李世民に次の皇帝を期待する秦王配下の者たちが、皇太子の座を狙って策動するようになった。これに対して皇太子李建成と斉王李元吉はこれを止めるために高祖李淵に世民の謀士である房玄齢と杜如晦を引き離すよう進言した。
しかし李世民は李建成と李元吉が画策した先制攻撃の情報を入手すると、626年の玄武門の変で李建成と李元吉を殺害した。高祖李淵はこれを受けて直ちに李世民に譲位することに同意して太上皇となり隠退をせまられた。その後は政治とは離れた環境で静かに暮らし635年、71歳で崩御した。
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2代 |
太宗 |
626年〜649年 |
李世民、文武大聖大広孝皇帝 |
599年-&49年 |
51 |
高祖(第2子)太穆皇后
竇氏 |
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太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。
優れた政治力を見せ、広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長から天可汗の称号を贈られた。騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる。
李世民は武将として優れた才能を発揮し、薛仁杲・劉武周・王世充・竇建徳・劉黒闥といった隋末唐初に割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たした。
621年(武徳4年)、李淵は李世民の功績の高さから前代よりの官位では足りないとし、天策上将の称号を王公の上に特置して李世民に与えた。同年、門下省に修文館(太宗の即位後に弘文館に改名)が置かれた。
李建成と李世民はしだいに対立し、李建成は李淵に訴えて李世民の謀士である房玄齢と杜如晦を遠ざけるなどの対抗策を採り、李世民の追い落としを図った。それを事前に察知して身の危険を感じた李世民は、2人と密かに連絡し、626年(武徳9年)6月、長安宮廷の玄武門で、李建成と弟の李元吉を殺害した(玄武門の変)。この政変により、李淵は8月に李世民に譲位し、事態の収拾を図った。
627年、元号を貞観と改元した。房玄齢・杜如誨の2人を任用し政治に取り組み、建成の幕下から魏徴を登用して自らに対しての諫言を行わせ、常に自らを律するように努めた。賦役・刑罰の軽減、三省六部制の整備などを行い、軍事面においても兵の訓練を自ら視察し、成績優秀者には褒賞を与えたため、唐軍の軍事力は強力になった。これらの施策により隋末からの長い戦乱の傷跡も徐々に回復し、唐の国勢は急速に高まることとなった。
629年(貞観3年)、充実した国力を背景に突厥討伐を実施する。李勣・李靖を登用して出兵し、630年(貞観4年)には突厥の頡利可汗を捕虜とした。これにより突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し、太宗に天可汗の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である可汗よりさらに上位の君主を意味する称号であり、唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。さらに640年(貞観14年)、西域の高昌国を滅亡させ、西域交易の重要拠点のこの地を直轄領とした。文化的にもそれまで纏められていた『晋書』『梁書』『陳書』『周書』『隋書』の正史を編纂させ、特に『晋書』の王羲之伝では自ら注釈を行った。また645年(貞観19年)には玄奘がインドより仏経典を持ち帰っており太宗は玄奘を支援して漢訳を行わせている。
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3 |
高宗 |
649年〜683年 |
天皇大聖大弘孝皇帝 |
628年-683年 |
56 |
太宗(第9子)
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外戚の長孫氏が皇后である武氏の一派によって追放され、代わって武后が政治の実権を掌握するようになっていた。
このため高宗は武后廃立を計画したが、失敗する。
後に丹薬による中毒で眼病を患い、唐の実権は完全に武后により掌握された。
このような状況の中683年に崩御した。
病気がちであった高宗は、政治において主導権を発揮することはなく、最初は外戚の長孫氏、後に皇后の武氏に実権を握られ続けた皇帝であった。
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4代 |
中宗 |
683年〜684年 |
李顕
大和大聖大昭孝皇帝 |
656年
710年 |
55 |
則天順聖皇后武氏 |
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高宗の七男として生まれる。当初は周王に封じられたが、後に英王に改封された。同母兄である李弘の急死と李賢の廃立の後、代わって立太子され、高宗の崩御により即位した。
即位後、生母である武則天に対抗すべく、韋皇后の外戚を頼った。具体的には韋后の父である韋玄貞(元貞)を侍中に任用する計画であったが、武則天が信任する裴炎の反対に遭う。計画を反対された中宗は怒りの余り、希望すれば韋元貞に天下を与えることも可能であると発言した。この発言を理由に、即位後わずか54日で廃位され、湖北に流された。
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5代 |
睿宗 |
684年〜690年 |
李旦
玄真大聖大興孝皇帝 |
662年
716年 |
55 |
母 則天順聖皇后武氏 |
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684年、兄の中宗が母の武則天によって廃位されたことにより即位した。その即位は武則天の傀儡であり、政治的な実権は皆無であった。690年、武則天が自ら皇帝に即位すると廃位された。
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武則天 |
690年〜705年 |
武照、則天順聖皇后 |
623年-705年 |
83 |
父:武士、母:楊夫人 |
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武則天は、唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝となり、武周朝を建てた。日本では則天武后と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。一方最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」の一人に数えられる。
武則天は貴族政治を嫌い、新しい人材を積極的に登用した。とくに貴族政治体制では出世が見込めない低い身分の出身者を重用した。武則天はその登用には才能と忠誠を重視している。姚崇と宋mは後に玄宗の下で朝政を行い、開元の治を導いた人物である。
武則天は外交も積極的に行い、660年(顕慶5年)には新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こす。百済を滅ぼしたのち、倭国(日本)・旧百済連合軍と唐・新羅の連合軍(羅唐同盟)とが戦った白村江の戦い(中国の史書では白江之戦と表記される)にも勝利し、さらにその5年後には孤立化した高句麗を滅ぼし(麗唐戦争)、遼東の安定を実現している。
出自を問わない才能を発掘する一方で、武則天は娘の太平公主や薛懐義・張易之・昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思・武承嗣ら親族たる武氏一族を重用し、その専横を招いた。また佞臣と呼ばれる許敬宗などを任用し、密告政治により反対者を排斥、来俊臣・索元礼・周興ら「酷吏」が反対派を監視する恐怖政治を行った。この状況に高宗は武后の廃后を計画するが、武后はこの計画を事前に察知、政変を未然に防止している。
683年(弘道元年)、高宗が死ぬと高宗との間の子・中宗が即位するが、中宗の皇后韋氏が自分の血縁者を要職に登用したことをきっかけに、太平公主を使って中宗を廃位し、中宗の弟・睿宗を新たに皇帝に擁立した。睿宗は武后の権勢の下、自ら傀儡に徹した。
武則天に対し、李氏の皇族たちが次々に叛乱を起こすが、いずれもすぐに鎮圧された。民衆は武則天に恐怖を感じながらも、その朝政は生活を安定させるものだったため、反乱軍に同調する者が少なく、大勢力に発展しなかったためである。
690年(天授元年)、ついに武則天は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李の姓に代えて武姓を賜ることとなった。この王朝を後世の史家は「武周」と呼んでいる。
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7代 |
殤帝 |
710年-710年 |
李重茂 |
695年
713年 |
19 |
父 中宗(末子) |
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初めは北海王に封じられ、後に温王に転封となった。710年に父の中宗が継母の韋皇后と異母姉の安楽公主の母
娘に毒殺された後、韋后によって皇位に即けられた。韋后は武則天同様に王朝の簒奪を狙っており(武韋の禍)、李
重茂は禅譲のための傀儡として即位させられたに等しかった。しかし1ヶ月後には、叔母の太平公主と従兄の李隆基
(玄宗)の手により韋后母娘とその一族は殺害された。やがて彼は、従兄の李隆基の手によって、その父親で李重茂
の叔父の睿宗に譲位させられた。皇位を廃された李重茂は元の温王に戻されるが、713年に亡くなっている。あるいは
殺害された可能性もあるが、史書にはその理由を記した記録は残っていない。 |
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8代 |
睿宗 |
710年〜712年 |
李旦玄真大聖大興孝皇帝 |
662年716年 |
55 |
父 高宗(第8子)母 則天順聖皇后武氏 |
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高宗の末子として寵愛を受けた。684年、兄の中宗が母の武則天によって廃位されたことにより即位した。その即位は武則天の傀儡であり、政治的な実権は皆無であった。
690年、武則天が自ら皇帝に即位すると廃位された。
705年、武則天が死去直前に中宗が復位し、李旦は安国相王に封じられる。
710年にはその中宗が韋皇后により毒殺された後、韋后一派を三男の李隆基(玄宗)と協力して排除し、甥の李重茂(殤帝)を廃して再び帝位についた。
712年、玄宗に譲位し、太上皇帝を称した。
7
16年に55歳で崩御した。
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9代 |
玄宗 |
712年〜756年 |
至道大聖大明孝皇帝 |
685年9月8日垂拱
元年8月5日
762年5月3日上元
2年4月5日 |
78 |
睿宗(第3子 |
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睿宗の第3子として生まれる。母は徳妃竇氏。玄宗が生まれた頃は武則天の武周時代であった。玄宗が20歳になった705年、武后が中宗に禅譲することで武周は消滅し、唐が復活したが、朝廷には隆基の叔母で武后の娘である太平公主らを初めとした武后一族が勢力が残存していた。
中宗の皇后である韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。韋后は代わって擁立した殤帝を傀儡とし、自らに禅譲させようと企てていた。
これに対し、隆基の従兄である皇太子李重俊が韋后に対してクーデターを起こしたが失敗した。隆基はこれを教訓とし、太平公主と協力して韋后排除を計画、710年に計画が実行され、韋后の一族を皆殺しにした。これにより睿宗が復位、隆基はこの功により皇太子に立てられた。隆基には、睿宗が武則天の傀儡皇帝だった時期に皇太子に立てていた長兄の李憲(成器)がいたが、憲は弟の才能と功績を認めて皇位継承を放棄したため、皇位継承争いは生じなかった(隆基は皇帝即位後も憲に対しては常に敬意を払い、その死後には皇帝として追号(「譲皇帝」)した)。しかし隆基と太平公主との間には、主導権争いが発生する。これは712年に隆基が睿宗から譲位されたのちに太平公主を殺害し、実権を掌握したことで決着を見る。
開元の治 [編集]
玄宗の前半の治世は「開元の治」と称され、唐の絶頂期と評価されている。玄宗が行った政策は仏教僧達の度牒(現在にたとえれば宗教法人資格)の見直し、税制改革、節度使制の導入などである。これらの玄宗初期の政策を玄宗の下で行ったのは武則天に見出された姚崇、宋mの両宰相である。
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755年11月初 安禄山が河北で叛乱を起し、12月には洛陽を落とし、自ら皇帝を名乗った。 |
10
代 |
粛宗 |
756年〜762年 |
李亨文明武徳大聖大宣孝皇 |
711年景雲2年
762年宝応元
年 |
82 |
父 玄宗(第3子)母 楊氏 |
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長兄の李jが早世し、皇太子である次兄の李瑛が737年(開元25年)に武恵妃らにより廃位されると、その翌年皇太子に立てられた。744年(天宝3載)には『享』と諱を改めている。
755年(天宝14載)11月、安史の乱が勃発すると翌年長安に反乱軍が迫ったことを受け玄宗と共に長安を脱出した。馬嵬(今の陝西省興平市)での兵士らによる反乱が発生、楊貴妃一族の粛清が行なわれると、玄宗は蜀へ避難し、李享らは安禄山らに対抗すべく北伐を行った。討伐軍は奉天(陝西省乾県)を経て、朔方節度使の駐屯所である霊武(寧夏回族自治区霊武市)に到着、7月に側近である宦官李輔国の建言を容れ自ら皇帝に即位、至徳と改元した。これは玄宗の事前の了承を得た即位ではなかったが、玄宗は後にこの即位を認め、自らは上皇となった。
即位後は郭子儀の軍を中心にウイグルの援兵を加えて態勢を整えると、粛宗は鳳翔(陝西省鳳翔県)に親征し反撃に転じた。757年(至徳2載)に安禄山が自らの息子安慶緒に殺されると、郭子儀や粛宗の長子の広平王李俶(後に豫と改名)と第3子の越王李係らの活躍により長安や洛陽を奪還、粛宗は10月、玄宗は同12月にそれぞれ長安に帰還した。しかし、安慶緒や史思明らの残存勢力はなおも存在しており、唐軍と安史軍の膠着状態が継続した。
758年(乾元元年)、粛宗は第五gを塩鉄使とし塩の専売制を導入、財政の健全化を図りに国家体制の強化を計画したが、朝政の実権は皇后張氏や李輔国を初めとする宦官達に掌握されており、自らの政治力を発揮することはできなかった。その後李輔国は張皇后と主導権を巡る政争を引き起こし、両者に不都合な次子の建寧王・李?に謀反計画を名目に自殺に追い込むなどの事件も発生し、このころから粛宗は病床に就くことが多くなった。 |
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11
代 |
代宗 |
762年〜779年 |
李俶(初名)睿文孝武皇帝 |
726年779年 |
54 |
父 粛宗(長子)母 呉氏 |
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第11代皇帝。粛宗の長男。姓諱は李 俶(り しゅく)、のち李 豫。祖父である玄宗に素質を認められ、広平王に封ぜられた。粛宗が皇帝として即位すると兵馬大元帥に任じられ、郭子儀らと共に安慶緒により占拠されていた長安や洛陽などを奪回した。このとき回?族を援軍として招き入れていたことが、後々の外患の原因の一つとなっていく。また、安史の乱の残党勢力討伐のために河北三鎮などの節度使の援助を求めたことから、節度使の権力を増長させてしまうことになった。
758年(乾元元年)、粛宗の皇后張氏と宦官の李輔国により立太子され、762年に玄宗と粛宗が相次いで崩御すると皇帝として即位した。しかし、朝政は李輔国が掌握していた。国政を自ら掌握しようとした代宗は、宦官である程元振を抜擢、謀反を理由に李輔国を誅殺した。だがこの粛清も、結局は程元振が朝政を掌握したに過ぎず、続いて重用された宦官である魚朝恩の場合も同様であった。このような内廷での粛清は、宦官の権力増大の原因といわれている。
代宗は財政再建のために塩の専売化を初めとする様々な政策を実行したが、抜本的な財政健全化は実現しなかった。
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12
代 |
徳宗 |
779年〜805年 |
李?神武孝文皇帝 |
742年805年 |
64 |
父 代宗(長子)母 呉氏 |
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12代徳宗779年〜805年李? 神武孝文皇帝 742年805年64父 代宗(長子)母 呉氏
代宗の長男。代宗が即位すると大元帥に任じられ、安史の乱の終息に務めた。
764年(広徳2年)皇太子となり、779年(大暦14年)代宗の崩御にともない即位した。即位後は唐の財政再建に尽力し、楊炎の進言に従って両税法を施行し税制面の改革に着手した。また節度使を抑制するために兵力削減や世襲禁止などの抜本的な改革を行なおうとしたが節度使の反発を招き、河朔三鎮・河南二鎮反乱により長安を追われてしまった。このため784年に『罪己詔』を発して、節度使に対する不介入を約束した上で混乱を収束した。 反乱鎮圧後に、国民が乱に巻きこまれたのは自身の間違いのためだとして謝った。徳宗の改革は短期間で失敗に終わり、さらなる財政的に困難な状況を生み出した。そして節度使の権力は更に強まり、唐の権力は一層の弱体化に見舞われた。
徳宗の治世は両税法の改革などから中興の治と称されているが、具体的な成果は乏しい。ただし後世の憲宗による節度使抑制の成功は、徳宗時代の失敗の教訓が活かされた結果とも言われる。 |
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13 |
順宗 |
805年2月28日 - 8
月31日 |
李誦、至徳弘道大聖大安孝皇帝 |
805年 |
45 |
父、徳宗、母:王皇后。徳宗の長男 |
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779年に立太子され、805年に徳宗の崩御により即位した。王叔文を翰林学士に任じ、韓泰、韓曄、柳宗元、劉禹錫、陳諌、凌準、程?、韋執誼ら(二王八司馬)を登用、徳宗以来続いていた官吏腐敗を一新し、地方への財源建て直し、宦官からの兵権を取り返そうとするなどの永貞革新の政策を行なっている。
だが、即位して間もなく脳溢血に倒れ、言語障害の後遺症を残した。さらに8月には宦官の具文珍らが結託して皇帝に退位を迫り、即位後7ヶ月で長男の李純に譲位し、自らは太上皇となった。
翌年、病気により46歳で崩御したが、宦官によって殺害されたとも伝えられている。
その在位中の記録として、韓愈の手になる『順宗実録』(『韓昌黎集』外集に所収)が現存する。《韓愈詩のサイト》 |
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14 |
憲宗 |
806年-820年 |
李純、聖神章武孝皇帝 |
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43 |
父:順宗、母:王良? |
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805年4月に立太子され、同年8月には順宗の病を理由にした譲位にともない即位した。即位後は宦官の勢力に対抗するために杜黄裳を登用した。さらに地方の節度使勢力を抑制するため、817年(元和12年)には淮西節度使を討って地方の統制強化も実施している。対藩鎮勢力の施策としては、儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。さらに名臣と謳われた武元衛や李吉甫らにも恵まれ、軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、唐王朝に反抗的であった河朔三鎮も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。
だが、太子に立てられた長男のケ王・李寧(恵昭太子)が19歳で早世すると、憲宗はその悲しみから仏教や道教に耽溺するようになった。法門寺の仏舎利を長安に奉迎することを計画し、韓愈の「論仏骨表」による諫言を退け、莫大な国費を費やして供養を行なった。また丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。そのため820年に宦官の王守澄や陳弘志らによって43歳で暗殺された。
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15 |
穆宗 |
821年-824年 |
李恒、睿聖文恵孝皇帝 |
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30 |
父:憲宗、母:郭貴妃。憲宗の三男 |
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元和15年(820年)に父帝が宦官の王守澄によって殺害されると、王守澄によって皇帝に擁立された。史書によれば主体性に欠け、享楽に耽る生活を送っていた。このため穆宗の代に宦官による専横がさらに顕著化し、牛李の党争と呼ばれる官僚らの派閥闘争が激化した。自らの長命のために道士が勧めた金丹による中毒により、30歳にして崩御した。 |
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16 |
敬宗 |
825年-826年 |
李湛、睿武昭愍孝皇帝 |
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19 |
第16代皇帝。穆宗の長男。父:穆宗、母:王氏 |
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穆宗の崩御により12歳で即位した。即位に際しては宦官より幼少であることを理由に郭太后へ摂政が要請されたが、郭太后は宰相による輔弼を命じ、前漢より続いた外戚政治に終止符が打たれた。
しかし敬宗が用いた人材は、宦官の王守澄と結託した李逢吉であり、敬宗が幼少であることを利用し政敵を一掃している。粛清された官僚が無実であったことを穆宗の手文庫より知った敬宗は、朝政より距離を置き、ポロや角力、夜猟などの遊興にふけった。敬宗の角力好きによって臣下から多くの力士が献上されたが、力士は皇帝の寵愛を利用して宦官たちを迫害した。これに不満を持った宦官の劉克明らによって、敬宗は寝所で暗殺された。享年19。 |
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17 |
文宗 |
826年-840年 |
李昂、元聖昭献孝皇帝 |
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32 |
父:穆宗、母:蕭氏第17代皇帝。 |
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穆宗の次男で、敬宗の同年の異母弟にあたる。
826年に敬宗が劉克明によって殺害されると、劉克明と対立する宦官の王守澄派により皇帝に擁立された。朝政の実権は王守澄らが掌握し、文宗は皇帝としての実権をほとんど持たず、傀儡に近い存在であった。
親政を計画し、831年に宰相の宋申錫と共に宦官の討滅を謀ったが失敗する。そして835年に再び李訓らと共に宦官討滅を謀った。この時は朝政実権を掌握していた王守澄を自殺に追い込んだが、その後の宦官に対する大量粛清の計画が事前に露見し、李訓らは殺害され、文宗も捕らえられて幽閉されることとなった(甘露の変)。
文宗は既に実子の荘恪太子永と蒋王宗倹を相次いで失っていたために、亡兄の敬宗の末子である陳王の李成美を皇太子としていた。しかし甘露の変が発生すると、宦官の仇士良らにより李成美は殺害され、文宗の異母弟である潁王李?が立太子された。840年、幽閉されていた文宗は32歳で崩御した。
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甘露の変とは、中国、唐の大和9年(835年)、文宗および官僚が企図した宦官誅殺未遂事件。本件が失敗したことにより中唐期以降、唐における宦官勢力の権力掌握がほぼ確実となった。
元来、唐では玄宗期の高力士以降、粛宗、代宗期の李輔国、程元振ら宦官が政治権力を振るう土壌があった。高力士は玄宗の私的秘書として隠然たる権力を行使するだけであったが、李輔国は安史の乱後の政治的混乱に乗じ権力を増大させ、一時は「尚父」と号し司空、中書令に就く程の権勢を振るった。李輔国以降、宦官は皇帝の秘書に留まらず表立って権力を行使させるようになった。
これらの宦官優遇策がとられた理由は、
・子孫を残せない宦官は帝位を窺う恐れが無いこと
・皇帝の私的な家臣(家奴)として日常的に接するため皇帝権力に近かったこと
・このため、特に国家の混乱期など人心が叛服常無い状況では、通常の家臣よりも謀反を起こす恐れが低いため、軍権を持つ軍閥など軍事勢力に対抗するため、しばしば宦官に権力を掌握させることがあった。
文宗は即位当初より、文宗を擁立した宦官の王守澄に権力を握られており、その専横を憎んでいた。その文宗の意を受ける礼部侍郎李訓及び太僕卿鄭注は仇士良という宦官を王守澄と対立させ、両者を抗争させ共倒れさせるという謀議を献策した。この下準備として鄭注は軍を動員できる節度使(鳳翔節度使)となった。
この策は当初順調に推移し、王守澄は実権を奪われ冤罪により誅殺された。この後、返す刀で王守澄の葬儀に参列した仇士良及び主立った宦官勢力を、鄭注が鳳翔より兵を率いて粛清する予定であったのだが、功績の独占を目論んだ李訓は、鄭注が出兵する王守澄の葬儀前に宦官を一堂に会させる機会を作るため、「瑞兆として甘露が降った」ことを理由に宦官を集めようとした。これは瑞兆の真偽の確認には宦官全員が確認することが慣例であったからである。
太和9年11月壬戌の日、左金吾衛大将軍の韓約が朝会にて、「左金吾役所(左金吾衛)裏庭の石に昨夜、甘露が降った」と上奏、慣例に従いほとんどの宦官が確認に赴いた。
この時、左金吾衛の裏庭には幕が張られ、その陰に郭行余、羅立言らが兵を伏せていた。しかし、幕間から兵が見えてしまい、事態に気づいた仇士良らは文宗を擁して逃亡、宦官に取り囲まれた文宗は李訓、鄭注らを逆賊とする他なく、李訓らは腰斬により処刑された。
この事件以降、宦官は文宗を傀儡にし権力を行使、失意の文宗は「朕は家奴(宦官)に制されている」と嘆き4年後に病死した。 |
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18 |
武宗 |
840年-846年 |
李?、至道昭粛孝皇帝 |
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33 |
父:穆宗、母:韋貴妃。穆宗の五男。 |
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840年に文宗が崩御した後、宦官の仇士良らにより皇帝に擁立された。全ての子が早世した文宗は、生前に異母兄の敬宗の末子である李成美を皇太子としていたが、朝政を専断していた仇士良を首謀とする神策軍派の宦官らによって、李?が皇太弟に擁立され、李成美は陳王に封じられた(後に李成美は殺害された)。
武宗は冷静沈着で、明晰かつ決断力に富んだ人物であったと皇帝は伝える。李徳裕を宰相に登用し、宦官勢力の抑制や中央集権体制の立て直しに努めた。しかし道士である趙帰真を信任し、道教に傾斜するあまり「会昌の廃仏」と称される廃仏令を出している。これが当時の寺院は荘園の大規模保有者でありながら無税とされ、銅の不足に起因する銅銭不足による経済的混乱が見られ、大量の銅を使用し仏像や仏具を製造していた仏教側の問題もあり、純粋な経済政策という評価もある。また当時皇位を争った叔父の李怡(宣宗)が身の安全を図るために仏教を利用したことも、仏教攻撃の一因になったとの説もある。
846年、丹薬による中毒で33歳で崩御した。
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19 |
宣宗 |
846年-859年 |
李忱、聖武献文孝皇帝 |
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50 |
父:憲宗、母:鄭氏。憲宗の十三男で、穆宗の弟、武宗の叔父に当たる。 |
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武宗が危篤となると宦官の馬元贄により異例の皇太叔に擁立され、武宗の死去とともに即位した。即位時に名を怡から忱に改めている。
聡明な宣宗は、衰退した国勢を再建するために裴休らを起用して内政に力を注いだ。李徳裕の一党を排除し、牛僧孺派を抑制するなど重臣による派閥闘争(牛李の党争)や宦官勢力の削減すると同時に、宦官への穏健な抑制政策を採用するなどの社会の安定を図った。また、武宗時代に出された廃仏令(会昌の廃仏)を廃し、仏教を保護するなどの施策を行っている。
しかし晩年になると道教に耽溺し、不老長寿を求めるようになった。859年、丹薬による中毒症状で50歳にして崩御した。 |
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20 |
懿宗 |
859年-873年 |
李?、昭聖恭恵孝皇帝 |
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41 |
父:宣宗、母、晁美人。第20代皇帝。
宣宗の長男。史書に暗愚な性格。 |
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あまりにも暗愚なために立太子を見送られていたが、しかし859年に宣宗が危篤となると、宦官が勝手に李?を擁立し
たと伝わる。
即位後は宦官に朝政を一任し、その在位中には農民反乱が多発した。
懿宗崩御の2年後に発生した農民の大反乱・黄巣の乱も、懿宗の代の悪政が遠因であると伝えられている。 |
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21 |
僖宗 |
873年-888年 |
李?、恵聖恭定孝皇帝 |
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27 |
父:懿宗、母、王貴妃。懿宗の五男。 |
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咸通14年(873年)、懿宗が崩御すると12歳で宦官たちに擁立されて即位した。在位期間中は宦官の田令孜に朝
政を一任し、自らは享楽にふけった生活を送った。乾符元年(874年)、濮州で王仙芝が叛乱を起こした。また翌年に
は黄巣も冤句(現在の山東省?沢市牡丹区)で決起、後に両者は合流し、大規模な農民叛乱(黄巣の乱)となる。
王仙芝が死亡した後は黄巣が指導者となり浙東を攻撃、福建や広州を陥とした後に北上し潭州、江陵を次々と陥
落させ中原へと軍を進めた。広明元年(880年)11月、黄巣軍は遂に洛陽を落とし、12月には長安を占拠した。
朝廷では宰相盧携が自殺し、僖宗は田令孜と共に500の神策軍を率いて蜀へと逃亡した。逃亡した僖宗は沙陀族
の李克用に救援を要請、李克用は黄巣軍を田陂にて破り、関中より黄巣軍を撤退させる。中和4年(884年)、叛
乱に失敗した黄巣が自殺(部下による殺害説もある)、翌年3月に僖宗は長安へと帰還するが、当時は地方で軍閥
が割據し、朝廷の統治権が及ばない状況となっており、唐は実質的に河西、山南、剣南、嶺南西道数十州を統治
する地方政権となっていた。
中和5年(885年)3月、田令孜と河中節度使王重栄の対立から、王重栄が李克用へ支援を要請、その要請を容
れた李克用は長安へと迫った。田令孜は再び僖宗と共に鳳翔(現在の陝西省宝鶏市鳳翔県)へと逃亡、皇帝が逃
亡した長安に諸道兵馬が進駐し、宮殿の大半が焼き討ちに遭って「宮闕蕭条、鞠為茂草」と形容されるに至った。
この混乱に乗じ、?州節度使の朱?は粛宗の玄孫であった襄王李?を皇帝に擁立した。僖宗が皇位を簒奪するものと
非難、王重栄と李克用に朱?討伐を命じた。また朱?の寵臣王行瑜にも朱?の密勅を下し、この攻撃により朱?及びそ
の一派数百人が惨殺された。
戦乱が収まった光啓4年(888年)2月、僖宗は長安に帰還したが、朝政の実権は宦官の楊復恭が掌握していた。改
元直後の文徳元年(888年)3月6日に崩御した。
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