ID |
詩人
名 |
よみかな |
作品名 |
210 |
|
|
|
残る詩は少なく、『全唐詩』にわずか6首を残すのみであるが、王翰(おうかん)と並んで、当時の流行歌
の歌詞作者として知られていた。彼が一首詩を作ると、楽工たちが争ってそれに曲をつけたという。 |
登鸛雀樓(白日依山盡) 涼州詞 |
211 |
李祈(りき) |
690〜751年 |
東川(現・四川省)の人で穎陽に家がある。開元年間の進士で、新ク尉に任じられる。 |
古従軍行(白日登山望烽火) |
212 |
崔 |
さいこう |
704- 754年 |
盛唐の詩人。若い頃は軽薄で浮艶な詩を詠んだが、晩年は気骨に富む作風へ変わった。代表作の「黄
鶴楼」は唐代七言律詩の最高峰として評価され、後に李白が黄鶴楼に登ったとき、楼壁に書かれたこの
詩を読み、「これ以上の詩は作れない」と言ったと伝えられている。「水卞」洲(べんしゅう)《河南省開封
府》の人。開元11(723)年の進士、秀才であったが酒と遊びに溺れ軽薄の評をうけた。晩年は格調の高
い詩風を出す。天宝13年に没す。年50。
|
黄鶴樓(昔人已乘白雲去) 長干曲(君家何處住) 長干曲(家臨九江水) 雁門胡人歌(高山代郡東接燕) |
安史の乱 -安禄山の叛乱 -その背景
唐の中期755年―763年,安禄山とそれを受け継いだ史思明らによる反乱。唐の玄宗は晩年楊貴妃を愛し,宮廷が腐敗し,均田制・府兵制などの諸制度もくずれ,農民の流民化が著しくなってきていたが,この乱を機に門閥貴族が没落し,税制が改革され,節度使が中国内地に置かれ軍閥化するなど中国社会が大きく変化する契機となった。 |
213 |
楊貴
妃
(楊
玉環 |
ようきひ |
719- 756年 |
幼名は玉環。蜀州の司戸参軍楊玄?の娘。幼時に父を喪って叔父の養女となり、玄宗の第18皇子/
寿王瑁の妃とされた。歌舞音律に通暁して才知にも長け、武恵妃死後の玄宗の寵妃を探していた高力
士に認められ、勅命で道観に入ってのち745年に後宮に納れられ、貴妃の位が新設された。朝政に容喙
する事は少なかったが、3人の姉は国夫人とされ、従祖兄の楊国忠が宰相となるなど一族は無原則に高
位高官とされ、各地で驕奢暴虐を行なって朝野から唾棄された。安禄山の乱で蜀への退避に同行した
が、軍部の要求で馬嵬駅(陝西省興平県馬嵬鎮)の仏寺の庭で殺された。
楊家の車馬が玄宗の娘の広平公主と道を争い、落馬した公主を庇った夫の程昌裔が罷免されて朝見
を禁じられた事があり、楊氏の横暴と玄宗の老耄を伝える格好の事例とされる。
|
阿那曲 |
214 |
樓穎 ろうえい |
760頃 |
樓穎:〔ろうえい〕盛唐の詩人。唐・天寶年間の進士。 |
西施石(西施昔日浣紗津) |
215 |
王維 |
おうい |
699-761 |
唐朝の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人。同時代の詩人李白が「詩仙」、杜甫
が「詩聖」と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から「詩仏」と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成さ
せた。 太原祁県(山西)の出身。字は摩詰。731年の進士。右拾遺・監察御史・庫部郎中をへて750
年に給事中とされた。安禄山に捕らえられて仕官を余儀なくされたため、一時は処罰の対象とされたが、
平定後は粛宗に仕えて給事中に復し、尚書右丞に進められた。五言詩に長じ、陶淵明・謝霊運を継ぐ
山水詩人として孟浩然と、書画では呉道玄・李思訓と並称され、山水画では後の南宗画の祖と目され
た。仏教に強く影響され、諱と字を合せると仏典中の居士として著名な維摩詰となることは著名で、李白
が[詩仙];、杜甫が[詩聖]と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から[詩仏]と呼ばれる。
|
王維ものがたり
王維 罔川集 20首
送祕書晁監還日本國
田園楽七首 |
216 |
李白 |
りはく |
701- 762年 |
中国最大の詩人の一人。西域で生まれ、綿州(四川省)で成長。字(あざな)は太白(たいはく)。号、青
蓮居士。玄宗朝に一時仕えた以外、放浪の一生を送った。好んで酒・月・山を詠み、道教的幻想に富
む作品を残した。詩聖杜甫に対して詩仙とも称される。「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白
髪三千丈、愁いに縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」など、人口に膾炙(かいしゃ)した句が多い。
|
李白詩
杜甫を詠う2首と1首
李白ものがたり |
217 儲光羲しょこうぎ706〜763年 |
|
しょこうぎ |
706〜763年 |
盛唐の詩人。袁州(現・山東省袁州)の人。開元十四年(726年)の進士。監察御史となったが、安禄
山が長安を陥とした時に強要されて官に就いたたため、乱後は嶺南(現・広東省)に流され、その地で没
する。
|
長安道(鳴鞭過酒肆) 田家雑興 洛陽道 |
218 |
王昌
齢 |
おうしょう
れい |
698- 765年 |
当時は「詩家の天子」とも呼ばれた。辺塞詩に佳作が多いとされる。閨怨詩・送別詩にも詩才を発揮し
た。 江寧(江蘇)出身。字は少伯。727年の進士。水県尉・竜標県尉を歴任し、安史の乱を機に帰郷
したが、刺史の閭丘暁と反目して暗殺された。詩人として著名で、七言絶句においては李白と並称され
た。
萬歳樓 梁苑 雜興 芙蓉樓送辛漸(寒雨連江夜入呉) 答武陵田太守(仗劍行千里)
|
出塞(従軍行) 塞下曲 閨怨 從軍行(琵琶起舞換新聲) 出塞行(白草原頭望京師) |
219 |
高適 |
こうせき |
702頃〜765 |
渤海(ぼっかい)(山東省)の人。字(あざな)は達夫(たっぷ)。辺境の風物を歌った詩にすぐれた作が多い。
こうてき。
辺塞の離情を多くよむ。50歳で初めて詩に志し、たちまち大詩人の名声を得て、1篇を吟ずるごとに好事
家の伝えるところとなった。吐蕃との戦いに従事したので辺塞詩も多い。詩風は「高古豪壮」とされる。李
林甫に忌まれて蜀に左遷されて?州を通ったときに李白・杜甫と会い、悲歌慷慨したことがある。しかし、そ
の李林甫に捧げた詩も残されており、「好んで天下の治乱を談ずれども、事において切ならず」と評され
た。『高常侍集』8巻がある。
|
塞上聞吹笛
除夜作
田家春望
邯鄲少年行
燕歌行 |
220 |
嚴武
|
げんぶ |
不詳〜765 |
唐の武将。字は季鷹。華州の人。肅宗の時、剣南節度使となり、吐蕃(今のチベット)を破り、礼部尚
書となり、後、鄭国公に封じられた。広徳二年 765年四月になると厳武が四十歳の若さで急死してしま
いました。杜甫のよい理解者であった。
|
軍城早秋(昨夜秋風入漢關) |
221 |
杜甫 |
とほ |
712- 770 |
鞏(きょう)県(河南省)の人。字(あざな)は子美(しび)。少陵と号し、杜工部、老杜とも呼ばれる。青年時
代から各地を放浪。湖南省の湘江付近で不遇の一生を終えた。現実の社会と人間を直視し、誠実・雄
渾な詩を作り、律詩の完成者で詩聖と称され、詩仙と呼ばれる李白と並ぶ唐代の代表的詩人とされる。
「兵車行」「春望」などは有名。
|
杜甫詩
杜甫 李白を詠う15首(12首) |
222 |
崔國
輔 |
さいこくほ |
708〜不詳 |
盛唐の詩人。708年〜不詳。開元十五年進士となる。字は休文。
|
長樂少年行(遺卻珊瑚鞭) |
223 |
裴迪 (はいてき) |
|
生没年不詳 |
盛唐の詩人。五代後梁の武将。王維と?川で詩を倡和した。関中(現・陝西省)の人。蜀州の刺史、尚
書省郎となる。安史の乱の際、捕らえられた王維を訪ね、情報を交換する。これが後、王維の反乱軍協
力疑惑を晴らす一助になる。
|
送崔九(歸山深淺去) |
224 |
荊叔 |
けいしゅく
|
生没年未詳 |
唐代の詩人。おそらく杜甫よりも先になる。
|
題慈恩塔(漢國山河在) |
225 |
常建 |
じょうけん |
708〜不詳 |
盛唐の詩人。字は休文。開元年間の人。開元十五年進士となる。進士となるも、致仕。放浪の後鄂渚
に寓居す。この鄂渚とは、地名なのか、場所を表す言葉(湖北省の水郷地帯の意)なのか、目下不明。
塞下曲(玉帛朝回望帝ク)
|
送宇文六(花映垂楊漢水清) 送宇文 塞下曲(北海陰風動地來) |
226 |
張敬忠 |
ちょうけい
ちゅう |
生没年不詳 |
盛唐の人。官は、監察御史として張仁愿将軍に従い朔方の攻防に与(あずか)って力があり、開元中に
平盧節度使となった。
|
邊詞(五原春色舊來遲) |
227 |
薛業 |
せつぎょう |
生没年不詳 |
盛唐の詩人。天寶間の處士。
|
洪州客舍寄柳博士芳(去年燕巣主人屋) |
228 |
皎然 |
こうぜん |
生没年不詳 |
皎然:盛唐の詩僧。湖州の人。本姓は謝。字はC晝。
|
塞下曲(寒塞無因見落梅) |
229 |
崔敏童 |
さいびん
どう |
生没年不詳 |
崔惠童:玄宗の皇女の夫。
宴城東莊:長安の東郊にある庵の玉山草堂で宴(うたげ)をした。 ・城東莊:玉山草堂のことを指す。
崔敏童に『宴城東莊』「一年始有一年春,百歳曾無百歳人。能向花前幾回醉,十千沽酒莫辭貧。」
がある。後世、白居易は『對酒』第五首の第四首に「百歳無多時壯健,一春能幾日晴明。相逢且莫
推辭醉,聽唱陽關第四聲。」とうたう。
|
宴城東莊(一年始有一年春) |
230 |
岑參 |
しんじん |
715- 770年 |
江陵(湖北省)の人。西域の節度使の幕僚として辺境に滞在した体験から、辺境の風物を多くうたう。辺
塞(へんさい)詩人として高適と並び称される。 岑参ものがたり
韋員外家花樹歌 與高適薛據同登慈恩寺浮圖(塔勢如湧出) 玉關寄長安李主簿(東去長安萬
里餘) 逢入京使(故園東望路漫漫) 山房春事(梁園日暮亂飛鴉)
|
碩中作(走馬西來欲到天) 西過渭州見渭水思秦川(渭水東流去) 雨夜憶元九 |
231 |
賈至 718年〜772年 |
かし |
718〜772年 |
盛唐の詩人。718年(開元六年)〜772年(大暦七年)。字は幼幾。洛陽の人。安史の乱には、玄宗
に従って、蜀に避れる。
岳陽樓重宴別王八員外貶長沙(江路東連千里潮)
|
長門怨(獨坐思千里) 春思(草色青青柳色黄) |
232 |
崔惠童 |
さいけい
どう |
720〜780頃 |
玄宗の皇女の夫。玄宗(げんそう、685年9月8日 -762年5月3日)は、唐の第6代皇帝(在位:712年
- 756年)。諱は隆基。 治世の前半は開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴
妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作っている。
|
宴城東莊(一月人生笑幾回) |
233 |
顔真卿 709年 -785年 |
がんしん
けい |
698- 785年 |
顔真卿(がん しんけい、 709年(景龍3年) -785年(貞元元年))は、字は清臣、中国唐代の屈指の忠臣であり代表的な書家でもある。今顔真卿の書の見直しが始まり、注目を集めている。
顔真卿
737年(開元25年)に進士及第し、742年(天宝元年)に文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任した。ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ、753年(天宝12載)に左遷。
安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた時期に当たり、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、平原郡(山東省徳県)の太守に降格されていた顔真卿は、従兄で常山郡(河北省正定県)の太守であった顔杲卿と呼応して、安禄山軍侵攻をとどめた。その後、756年(至徳元載)に平原城を捨て、鳳翔県(陝西省)に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられた。
しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相により、前線に送られ、そこで捕えられた。叛乱軍の李希烈は真卿を自らの部下にしようと再三説得したが顔真卿は拒み続けた。757唐国軍長安奪回に伴い李希烈は自殺刑された。後世、顔真卿の忠臣はその典型例として、靖献遺言に取り上げられている。顔真卿は尚書次官クラスでおわる。 安史の乱 安史の乱と詩人たち 安史の乱 ウイグルの係わり 安史の乱と詩人、杜甫
|
234 |
一行 |
いちぎょう |
生没年不詳 |
一行は、中国の唐代の僧であり、天文学者でもある。俗名は張遂で、大衍暦を編纂した。 683年に
魏州昌楽県に生まれる。禅、律、天台教学、密教、天文学、暦学を学び、善無畏と共に『大毘盧遮那
成仏神変加持経』7巻を翻訳し、内容を『大日経疏』20巻としてまとめた。善無畏・金剛智から密教を学
んだ。真言八祖の一人。
|
『大日経疏』20巻 |
235 |
元結 Yuan Jie |
げんけつ |
(723)―(772) |
盛唐の文学者。武昌 (湖北省武漢市) の人。一説に魯県 (河南省) の人という。字,次山。号,g?子
(きかんし) ,漫郎など。生年も一説には開元7 (719) 年。天宝 13 (754) 年進士に及第。安禄山の乱
を避け,湖北の西塞山中の g?洞にこもったが,乾元2 (759) 年粛宗に召され右金吾兵曹参軍となり,
反乱軍の討伐に戦功をあげた。広徳1 (763) 年道州 (湖南省) 刺史,大暦3 (768) 年容管経略使に
進んだが,翌年母の死にあって官をやめた。人格高潔で憂国の情に富み,詩は社会の矛盾に目を向け,
戦乱のなかの人々の苦しみをうたった社会詩が多く,その『系楽府』 12首は白居易の『新楽府』のさきが
けである。また文章でも派手な技巧を避け,内容を重んじた文で,韓愈の古文運動の先駆をなした。詩
文集『元次山集』。杜甫との交遊在り、別に掲載するブログがある。元結の『比興法』で書かれた詩の訳
注解説は、下のブログである。
元結 《舂陵行》竝序【7分割】
元結 《賊退示官吏(并序)》【4分割】
杜甫 《1939同元使君舂陵行》 杜甫詩【六分割】
|
舂陵行(并序)
賊退示官吏(并序)
謝上表
奏免科率状
|
236 |
許 渾 |
きょ こん |
生没年不詳 |
許 渾(きょ こん、生没年不詳)は、中国・唐の詩人。字は用晦。潤州丹陽県の出身。本貫は定州高
陽県。宰相の許圉師の六世の孫にあたる。
文宗の大和6年(832年)、進士に及第、当塗県・太平県の令、監察御史などを歴任したが、病弱のた
め免職された。その間、郷里に在任したことがあり、そこの丁卯澗(ていぼうかん)に土地を買っておき、晩
年は引退して引きこもった。
今日、『丁卯集』2巻が残っている。
許渾の作品に、『秋思』(七言絶句)がある。
|
秋思 |
|
玄宗皇帝 (李隆基) |
げんそうこ
うてい(り
りゅうき) |
685ー762 |
玄宗(げんそう)は、唐の第9代皇帝。諱は隆基。唐明皇とも呼ばれる。
治世の前半は、太宗の貞観の治を手本とした、開元の治と称えられた善政で唐の絶頂期を迎えたが、後
半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作った。
睿宗の第3子として洛陽で生まれる。母は徳妃竇氏。隆基には祖母となる武則天が女性皇帝として君臨
する武周時代であった。はじめは伯父である皇太子の李弘の養子となっていた。
705年、20歳のとき、武則天は中宗に禅譲するかたちで帝位を奪われ、武周は消滅し、唐が復活した
が、朝廷には隆基の叔母で武后の娘である太平公主や、武則天の実家である武氏の一族の勢力が残
存していた。
中宗の皇后である韋皇后は、武則天をまねて政権を掌握すべく中宗を毒殺した。韋皇后は代わって擁
立した殤帝を傀儡とし、自らに禅譲させようと企てていた。
これに対し、隆基の従兄である皇太子李重俊が韋后に対してクーデターを起こしたが失敗した。隆基はこ
れを教訓とし、太平公主と協力して慎重に韋皇后排除を計画、710年に計画が実行され、韋皇后はじ
め韋氏一族やその与党をみなごろしにした。ここで武則天によりいったん廃位されていた睿宗が重祚し、隆
基はこのときの功績により皇太子に立てられた。
睿宗がさきに在位していたときには、隆基の長兄李憲(成器)が皇太子に立てられたが、李憲は弟の才能
と功績を認めて皇位継承を放棄したため、皇位継承争いは生じなかった。隆基は即位後も兄に対しては
常に敬意を払い、臣下に「やりすぎだ」と批判されたほどであった。その死後には皇帝の位を追贈し「譲」と
諡した。しかし隆基と太平公主との間には、主導権争いが発生する。これは712年に隆基が睿宗から譲
位されたのち、ついに太平公主を殺害して実権を掌握したことで決着を見る。
開元の治
玄宗の前半の治世は「開元の治」と称され、唐の絶頂期と評価されている。玄宗が行った政策は仏教僧
達の度牒の見直し、税制改革、節度使制の導入などである。これらの玄宗初期の政策を玄宗の下で
行ったのは武則天に見出された姚崇・宋mの両宰相である。また、対外的にも北方の外敵を征服して、
平和を維持し、経済・文化の発展とともに、輝かしい繁栄の時代を作り出した。
安史の乱
天下泰平の中で玄宗は徐々に政治に倦み始める。737年、寵妃武恵妃の死去により、玄宗は新たに寵
愛に足る美女を求めた。740年、玄宗の息子寿王の妃となっていた楊玉環が見いだされ、玄宗の寵愛を
得てたちまち皇后に次ぐ貴妃の地位に昇った。いわゆる楊貴妃である。玄宗は楊貴妃に溺れ、長恨歌に
「これより皇帝は朝早くには朝廷に出てこないようになった」と歌われるごとく、政務への弛緩がめだつように
なった。
政務に倦んだ玄宗に代わって政治を運営したのは、宰相李林甫である。李林甫は政治能力は高いが、
その性格は悪辣な面があると評され、政敵を策略により次々と失脚させている。
李林甫の死後に実権を掌握したのは、楊貴妃の親族楊国忠と塞外の胡出身の安禄山である。両者は
権力の掌握に直結する玄宗夫妻の寵愛をめぐって激しく争った。755年に楊国忠が安禄山を玄宗に讒言
したことが契機となり、自身の立場に危機感を覚えた安禄山は、ついに叛乱を起こした。安禄山の安氏
と、その部下でその後安氏に代わって叛乱勢力を主導した史思明の史氏との2字を取って、この叛乱を安
史の乱という。
安禄山の軍隊はたちまち長安に迫り、軍事力では長安を守れないと判断した玄宗は、蜀の地をめざして
逃亡を余儀なくされた。亡命の途上、随従の兵士たちは自分たちをこんな境遇に追いこんだ怒りと恨みを
安禄山の政敵である楊氏一族に向けた。楊国忠は兵士たちの手で殺害され、さらに玄宗は兵士たちの
要求で楊貴妃に死を賜うほかはなかった。混乱のなか、756年、皇太子李亨は玄宗の同意を得ないまま
皇位継承を宣言し、玄宗はこれも事後承諾するしかなかった。譲位して太上皇となった玄宗は、戦乱が
収まって長安に戻ったのちもなかば軟禁状態で余生を送り、762年に死去した。
前半の善政と後半の堕落。玄宗の功罪をどう評価するかは難しい。節度使が唐だけではなく五代十国
時代まで戦乱の原因になったことを考えると、さらに評価は分かれる。ただし、堕落した後半生でも、民へ
のいたわりを見せていた。長安から蜀へ避難する際、宝物庫を焼き払おうとする楊国忠に「賊が宝物を得
られなければ、今度は民への略奪が激しくなる」と言って制止した。また渭水にかかる便橋(長安城西北に
ある。西渭橋・咸陽橋ともいう)を渡った際、賊の追撃を防ぐために楊国忠が橋を焼き払おうとしたが「あと
から逃げようとする士庶たちの路を絶つな」と言って制止させている。
|
《幸蜀西至劍門》
劍閣云峻,
鑾輿出狩回。
翠屏千仞合,
丹嶂五丁開。
灌木?旗轉,
仙云拂馬來。
乘時方在コ,
嗟爾勒銘才。
李隆基詩選
1
集賢書院成,送張?上集賢學士,賜宴得珍字
2
答司馬承禎上劍鏡
3
王屋山送道士司馬承禎還天臺
4
送趙法師還蜀因名山奠簡
5
早度蒲津關
6
送道士薛季昌還山
7
途經華岳
8
喜雪
9
幸鳳泉湯
10
游興慶宮作
11
鶺鴒頌
12
南出雀鼠谷答張?
13
傀儡吟
14
送張?巡邊
15
賜崔日知往?州
|
|
皇甫 冉 こうほ ぜん 714年 -
767年 |
|
|
皇甫 冉(こうほ ぜん、714年 - 767年)は、中国・唐の詩人。字は茂政。本貫は安定郡朝那県。
南方の丹陽郡に移住し、農耕と釣りの日々を送っていたが、張九齢に才能を認められた。玄宗の天宝15
載(756年)、進士に及第、無錫の尉となり、代宗の大暦元年(766年)には河南節度使の書記、次い
で左拾遺・右補闕を歴任した。
現在『唐皇甫冉詩集』が残っている。
作品に、『曽山送別』『捷l怨』『送魏十六還蘇州』(七言絶句)がある。
|
曽山送別
捷l怨
送魏十六還蘇州 |
|
蔡 希寂(さいきせき、未詳) |
|
|
曲阿(江蘇省丹陽)の人物(一説には済南の人物)。渭南(陝西省)の尉となり、司勲郎中(一説には
金部郎中)となった。
祖詠や包融と同じころの人。
|
洛陽客舎逢祖詠留宴 |
崔恵童 |
(さいけいどう) |
未詳 |
|
博州(山東省聊城)の出身。冀州(河北省衡水)刺史の崔庭玉の子と伝えられ、玄宗皇女晋国公主
を妻とした。崔敏童の兄。?馬(ふば)都尉となった。《宴城東莊》
|
宴城東莊 |
崔 、 |
さい こう |
? - 754
年 |
|
(さい こう、? - 754年)は、中国・唐の詩人。?州(現在の河南省開封市)の出身。本貫は博陵郡安平
県。
若い頃は素行が悪く、博打や酒に溺れ、美人を選んでは妻とするが飽きるとすぐ離縁し、4・5回も妻を変
えたという。江南の各地を旅した後、723年(開元11年)に進士に及第。若い頃は軽薄で浮艶な詩を詠
んだが、開元年間の後期、太原(現在の山西省太原市)の河東節度使の幕僚となる。この時の辺境で
の経験から、気骨に富む作風へ変わった。天宝年間の始めごろ、太僕寺の丞となり、尚書省吏部司勲
員外郎(従六品上)に至り、754年(天宝13載)に死去。
中唐の頃になると、南朝から初唐の華麗な詩風が批判され、古体詩を模範とし詩歌に爽朗剛健な風格
を求める風潮が強まったが、唐の天宝期の文学者、殷?は『河岳英霊集』において、崔を評して「晩年
になって突然詩体を変え、風骨がはっきりとあらわれた」と書いている。
代表作の「黄鶴楼」は唐代七言律詩の最高峰として評価されている。後に李白が黄鶴楼に登ったとき、
楼壁に書かれたこの詩を読み、「これ以上の詩は作れない」と言ったと伝わる。 なお李白には、後にこの崔
の「黄鶴楼」を意識して詠んだ「登金陵鳳凰臺」(金陵の鳳凰臺に登る)という七言律詩があり興味深
い。
黄鶴樓
昔人已乘黄鶴去、 昔人 已に黄鶴に乗って去り、
此地空餘黄鶴樓。 此の地 空しく余す 黄鶴楼。
黄鶴一去不復返、 黄鶴 一たび去りて 復た返らず、
白雲千載空悠悠。 白雲千載 空しく悠悠。
晴川歴歴漢陽樹、 晴川歴歴たり 漢陽の樹、
芳草萋萋鸚鵡洲。 芳草萋萋たり 鸚鵡洲。
日暮ク關何處是 日暮 郷関 何の処か是れなる、
煙波江上使人愁 煙波 江上 人をして愁へしむ。
|
黄鶴樓
孟門行
行經華陰
行路難
七夕
長安道〈一作霍將軍〉
上巳
相逢行
雜詩
長門怨
|
|
崔 国輔(さい こくほ、生没年不
詳) |
|
|
崔 国輔(さい こくほ、生没年不詳)は、中国・唐の詩人。越州山陰県の出身、一説に蘇州嘉興県の出
身。
開元14年(726年)の進士。集賢院直学士・礼部郎中などを歴任したらしいが、天宝年間に御史大夫
の王ヘが死罪となったとき、その近親だった為に竟陵郡または晋陵郡の司馬に流されたという。
代表的作品に、『長信草(長信の草)』(五言絶句)、『長楽少年行』(五言絶句)がある。
《長信草》
長信宮中草、年年愁処生。 長信 宮中の草、年年 愁処に生ず。
故侵珠履跡、不使玉階行。 故に 珠履の跡を侵し、玉階を行かしめず。
《長楽少年行》
遺却珊瑚鞭、白馬驕不行。 遺却す 珊瑚の鞭、白馬 驕りて行かず。
章台折楊柳、春日路傍情。 章台 楊柳を折る、春日 路傍の情。
|
古意 七夕 九日 雜詩 湖南曲 從軍行
襄陽曲二首
王孫遊 今別離
宿法華寺
怨詞二首
秦女卷衣
王昭君 子夜冬歌
對酒吟
白紵辭二首
采蓮曲
|
|
崔曙 さいしょ 不詳 |
|
|
・「崔署」としている本もある。宋州(河南省商丘)の出身。嵩山の少室山中にこもり、僧や道士を友とし
て、読書や詩作にふけっていた。開元26年(738年)、首席で進士に及第したが、官歴は不詳。
|
九日登望仙臺呈劉明府
古意
コウ山廟(糸+侯)
早發交崖山還太室作
|
|
崔敏童 さいびんどう不詳 |
|
|
崔恵童の弟。玄宗の皇女晉國公主を妻とした。盛唐の人である。
《宴城東荘》
一月主人笑幾回,相逢相識且銜杯。
眼看春色如流水,今日殘花昨日開。
|
?馬都尉恵童之昆弟也詩一首 宴城東荘 |
|
司馬承禎(しば・しょうてい、643
年 - 735年) |
|
|
司馬承禎(しば・しょうてい、643年 - 735年)は、唐の玄宗の時の著名な道士。茅山派・第12代宗師。
字を子微といい、天台山に住んでいた。721年に玄宗皇帝から宮中に迎え入れられ、帝に親しく法?(道
士としての資格)を授けた。天台山に桐柏観と王屋山に陽台観を、そして五嶽に真君祠を建立したのは
承禎の進言によるという。737年に道士を諫議大夫という大役に任命し、741年には崇玄学という道教の
学校を設置し、その卒業生が科挙の及第者と同等に官吏となれるようにしたなど、政治に道教が深く関
わるようになったのは、玄宗に対する承禎の影響力を物語る。
|
賜司馬承禎敕 |
|
釈皎然(しゃく こうぜん、730年 -
799年) |
|
|
釈皎然(しゃく こうぜん、730年 - 799年)は、中国・唐の僧・詩人。字は清昼(せいちゅう)。
俗姓は謝。湖州長城県の出身。本貫は陳郡陽夏県。東晋・南朝宋の詩人の謝霊運の末
裔にあたる。
郷里の杼山(ちょざん)で仏法を修行し、徳宗の貞元年間に宮中で高僧の文集を集めたと
き、その著書10巻が採択された。後には廬山の西林寺に住み、『詩式』五巻など、詩論の書
を著した。
『皎然集』(または杼山集)10巻が残っている。
作品に、「塞下曲」(塞下の曲)(七言絶句)がある。
《塞下曲》
寒塞無因見落梅、胡人吹入笛声来。
労労亭上春応度、夜夜城南戦未回。
寒塞落梅を見るに因し無し、胡人笛声に吹き入れ来る。
労労亭上春応に度るべし、夜夜 城南 戦いて未だ回らず。
|
敕浙西觀察使
牒湖州
當州皎然禪師集 牒得集賢殿
御書院牒前件集庫内無本交闕進
奉牒使請速寫送院訖垂報者牒州寫送使者故牒
貞元八年正月十日牒
都團練副使權判兼侍御史李元
使潤州刺史兼御史中丞王緯
呉興晝上人集序 |
|
釈霊一(しゃく れいいつ、727年
- 762年) |
|
|
釈霊一(しゃく れいいつ、727年 - 762年)は、中国・唐の詩人。俗姓は呉。
?中(現在の浙江省紹興市?州市)の出身。一説に広陵郡の人。9歳のとき出家し、杭州の
宜豊寺、揚州の慶雲寺などの住職をし、杭州の竜興寺で没した。山水を愛し、浙東・浙西の
名山や名刹は、ことごとく訪れたという。朱放らと親交はあった。
現在、『霊一詩集』一巻が残っている。作品に、「僧院」(七言絶句)がある。
「鏡中釈霊実集」は、『雑集』に収められた文章群の中でもっとも新しく、開元五(七一七)年
以後の成立であることは疑問の余地がない。王維・李白ら盛唐の大詩人たちがようやく初期の
作品を発表しはじめたころにあたる。聖武天皇は実にそのわずか一〇年あまり後の天平三(七
三一)年に、『雑集』を書写している。そこに、同時代の中国仏教に対する日本人の強烈な関
心を見ることができる。と同時に、八世紀の中国越州における仏教の生きた姿を、この中にあり
ありと見ることもできるのである。
|
《題僧院》
虎溪闌肢相過,帶雪松枝掛薜蘿。
無限山行欲盡,白雲深處老僧多。
(僧院に題す)
虎溪) 闌氏@引きて 相ひ過ぎ,
雪を帶ぶる 松枝 薜蘿(へいら)を掛く。
無限の山 行【ゆくゆ】く 盡きんと欲し,
白雲 深き處 老僧 多し。 |
|
蕭 穎士(しょう えいし、717年 -
768年) |
|
|
蕭 穎士(しょう えいし、717年 - 768年)は、中国・唐の詩人。字は茂挺(もてい)。本貫は南蘭陵郡蘭
陵県。
梁の?陽王蕭恢の7世の孫とされる。蕭旻の子として生まれた。735年(開元23年)の進士で、秘書正学
から集賢校理となったが、宰相・李林甫の意に逆らって広陵参軍に左遷された。李林甫の死後は河南府
参軍に任ぜられたが、安禄山が勢力を持つのを見、世の乱れを予想して、嵩山の太室山にこもった。安
禄山の乱のときには河南・南陽などで官軍に加わり、乱の後は金陵・揚州など江南の地に流寓し、また
北へと帰ったが、放浪生活を続けるうち、汝南の宿屋で死亡した。
韓愈に先立つ古文運動の開拓者として名高い。今、『蕭茂挺集』一巻が残っている。
子に蕭存があった。
|
九日陪元魯山登北城留別
<全唐詩>
1.江有楓一篇十章
2菊榮一篇五章
3涼雨一章
4有竹一篇七章
5江有歸舟三章
6過河濱和文學張志尹
7舟中遇陸棣兄西歸數日得廣陵二三子書知遲?次沙?西岸作
8重陽日陪元魯山コ秀登北城矚對新霽因以贈別
9留別二三子得韻字
10仰荅韋司業垂訪五首
11答鄒象先
12蒙山作
13早春過七嶺寄題z石裴丞廳壁
14送張?下第歸江東
15越江秋曙
16山莊月夜作 |
|
常 建(じょう けん、生没年不詳) |
|
|
常 建(じょう けん、生没年不詳)は、中国・唐の詩人。?州の出身。
開元15年(727年)の進士で、??県の尉となったが、昇進が遅いのに不満を持ち、隠者の生活に憧れ
て、名山を歩き回った。あるとき山中で仙人のような女に会い、術を授かったと言われ、晩年は鄂渚(がく
しょ、現在の湖北省武漢市の西)に隠棲し、王昌齢らを招いて、自由な生活を送った。
作品に、『宇文六(うぶんりく)を送る』(七言絶句)がある。
《送宇文六》
花映垂楊漢水清 花は垂楊(すいよう)に映じて漢水清く
微風林裏一枝軽 微風 林裏(りんり) 一枝(いっし)軽し
即今江北還如此 即今(そくこん) 江北(こうほく) 還(ま)た此(かく)の如からん
愁殺江南離別情 愁殺(しゅうさつ)す 江南(こうなん) 離別の情
《西山》《破山寺後禪院》《塞下曲二首》《三日尋李九莊》
|
離別の情
《西山》
《破山寺後禪院》
《塞下曲二首》
《三日尋李九莊》
常建詩集巻一
古意
湖中?齊
江上琴興
塞上曲
宿王昌齡隱居
春詞二首
送楚十少府
送李十一尉臨溪
送陸擢
張公子行〈一作古意〉
張山人彈琴
白湖寺後溪宿雲門
夢太白西??
他に二巻有。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
盧仝【ろどう】(生年不詳−835年)中唐の詩人。出世の志なく、若いときから少室山(河南省)に隠棲し
て学問を究めた。宦官を揶揄する詩、『月蝕詩』を作った。この詩により、甘露の変のとき王涯の邸で会
食していたところを逮捕された。盧仝は宦官一掃の計画となんの関わりもなかったが殺された。茶を愛好
し、玉川泉から水を汲んで茶を煮出したため、玉川子を号とした。『玉川子詩集』。
王涯【おうがい】(765?〜835) 太原の人。唐の貞元八年(792)、進士及第。文宗(李昂)の時、太常
卿として召され、吏部尚書総塩鉄をつとめ、司空・門下侍郎に上った。甘露の変(宦官勢力の打倒を企
図した事件)に連座して殺された。
韓愈、孟郊と親交があり、韓愈のグループとされている。孟郊の詩『答盧仝』では盧仝像が全く見えない
ので盧仝の代表作訳注解説ブログ『走筆謝孟諫議寄新茶』を10回程度掲載す。
中唐詩人ID-44 盧仝 走筆謝孟諫議寄新茶#1 kanbun-iinkai紀頌之の李商隠と中唐の漢詩ブロ
グ251
韓愈の《寄廬仝》
中唐詩-256 寄盧仝#1 韓愈 U韓退之(韓愈) 紀頌之の漢詩ブログ韓愈詩集-22
孟郊の《答廬仝》
中唐詩 Z孟郊(孟東野) 答盧仝#1 <24> kanbun-iinkai紀頌之の漢詩ブログ248 |
走筆謝孟諫議寄新茶 |
|
|