ID |
詩人名 |
よみかな |
作品名 |
1 |
魏徴 |
ぎちょう |
580年 - 643年 |
唐初の政治家・学者。癇癪を起こした太宗に直諫(じかに諫言)することで有名であり、魏徴死亡時太宗は非常に哀しんだという。曲城(山東省)の人。字(あざな)は玄成。太宗に召し出され、節を曲げぬ直言で知られる。「隋書(ずいしょ)」「群書治要」などの編纂(へんさん)にも功があった。
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述懐 |
2 |
上官儀 |
じょうかんぎ |
608?年- 665年 |
文才があり、五言詩をもっとも得意とし、多くは命を受けて作り献上した。詞句は婉麗にしてたくみで整っており、士大夫に模倣されて上官体と称された。皇后であった則天武后を廃そうと高宗に建議したことにより、則天武后(武則天)の怨みを買い、後に梁王・李忠の「謀反」事件に関連させられ、獄死した。
3
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入朝洛堤歩月 |
3 |
王勃 @ |
おうぼつ |
650年- 676年 |
王勃の作品には、南朝の遺風を残しながら、盛唐の詩を予感させる新鮮自由な発想が見られる。「初唐の四傑」の一人。幼くして神童の誉れ高く、664年に朝散郎となり、ついで高宗の子の沛王・李賢の侍読となってその寵を受けたが、諸王の闘鶏を難じた「檄英王鷄文」を書いて出仕を差し止められ、剣南(四川省)に左遷された。?州(河南省霊宝市)の参軍となったときに罪を犯した官奴を匿いきれなくて殺し、除名処分にあった。
この事件に連座して交趾の令に左遷された父の王福時を訪ねる途中、南海を航行する船から転落して溺死した。
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滕王閣, 送杜少府之任蜀州唐 |
4 |
盧照鄰 B |
ろしょうりん |
生没年未詳。 |
范陽(河北省)の出身。幼少より曹憲・王義方に従って経史と小学を学び、詩文に巧みであった。初めはケ王府の文書の処理係である典籤となり、王(唐高祖の子・元裕)に重用された。 のち新都(四川省)の尉となったが病のために職を辞し、河南省具茨の山麓に移住した。病が重くなって、ついに頴水に身を投じて死んだ。 その詩は厭世的で悲しみいたむ作が多い。長安の繁栄のさまを詠じた「長安古意」が最もよく知られ、『唐詩選』にも収められている。著に『盧昇之集』7巻と『幽憂子』3巻がある。
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長安古意 |
5 |
駱賓王 C |
らくひんおう |
640?- 684? |
「初唐の四傑」の一人。7歳からよく詩を賦し、成長してからは五言律詩にその妙を得た。特にその「帝京篇」は古今の絶唱とされる。好んで数字を用いて対句を作るので「算博士」の俗称がある。(浙江省)の出身。初めから落魄し、好んで博徒と交わり、性格は傲慢・剛直。高宗の末年に長安主簿となり、ついで武后の時に数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷される。
出世の望みを失い、官職を棄てて去った。684年に李敬業が兵を起こすと、その府属となり敬業のために檄文を起草して武后を誹謗、その罪を天下に伝えた。
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易水送別, 霊隠寺 , 詠鵞 |
6 |
七歳女子 |
武則天在位655年頃〜690年 |
623年頃 - 705 |
則天武后(武則天)の時代・周(武周)の七歳の女子。武則天が神童ぶりを耳にし、召し出して送別詩を作ることを命じたところ、即座にこの詩を作ったという。 |
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7 |
劉廷芝/劉希夷 |
りゅうていし・りゅうきい |
651年-679年 |
劉 希夷(りゅう きい、651年(永徽2年)-679年(調露元年))は中国唐代の詩人。字は庭芝、廷芝。一説に名が庭芝で字が希夷ともいわれる。汝州(河南省汝州市)の出身。幼くして父を失い、母と共に外祖父のもとに身を寄せ20歳頃まで過ごした。容姿はすぐれており、物事にこだわらない性格なので素行が悪かった。酒と音楽を好み、琵琶の名手であった。675年(上元2年)進士となるが仕官せずに各地を遊覧した。「年年歳歳花相似歳歳年年人不同」で有名な詩「代悲白頭翁」が代表作。
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代悲白頭翁 秋風引 楊柳枝詞 石頭城 公子行 |
8 |
楊炯 A |
ようけい |
生年不詳−692 |
(ようけい、生年不詳−692年)は中国・唐代初期の詩人。字は不詳。王勃・盧照鄰・駱賓王とともに「初唐の四傑」と称せられる.華陰(陝西省)の出身。幼時から慧敏でよく文章を作り、661年に神童に挙げられ校書郎を授けられた。681年、崇文館学士になった。則天武后の時代に梓州司法参軍に左遷されて、のち盈川の令となった。著に『盈川集』がある
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〈唐詩選〉
従軍行
夜送趙縦
送劉校書從軍 |
9 |
陳子昴 |
ちんすこう |
661- 702 |
陳 子昂(ちん すごう、661年(龍朔元年) - 702年(長安2年))は、中国・唐代初期の詩人。字は伯玉。梓州射洪県(現在の四川省遂寧市射洪県)の出身。
18歳頃まで無頼なふるまいばかりで、古典はおろか読み書きさえまともに出来なかった。しかし無学な自分に嫌気がさしたため一念発起、故郷近くの金華山に籠もって学問に励み、進士となるまでになった。そのころ高宗が崩御して陵墓問題が持ち上がり、これについて上書したところ、武則天に才能を認められ、麟台正字(秘書正字)に任じられた。その後、右拾遺となった陳子昂は、武則天朝の酷刑や密告制度を用いる非情な政治体制を批判する上書をおこなった。これが原因で投獄されたが、その真摯さを評価されて復職することになった。
696年(万歳通天元年)から、武攸宜(武則天の伯父の武士譲の孫)の率いる契丹討伐軍に参謀(記室参軍)として参加した。戦果をなかなか挙げられない武に対し、策を上書し諫言を呈するも受け入れられず、かえって降格処分となった。聖暦年間に入ると、老父の世話をするために帰郷する。父が死去するとショックを受け、病弱な体質から体調が悪化し、さらに県令の段簡による誣告で投獄されたため、憤激のあまり獄死した。段簡が陳子昂を陥れた理由として、陳家の財産に目を付けたから、また武一族に指嗾されたからとの説がある。
〈詩風〉
陳子昂の詩風は、六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とするもので、盛唐の質実な詩の礎となった。「感遇」三十八首は阮籍の「詠懐詩」をベースとし、不変だと考えられている神仙的な世界と移り変わる現実社会の有り様を対比させて表現し、さらに歴史を鑑として(詠史)社会批判をも盛り込んでいる五言古詩の連作である。「薊丘覧古」や「登幽州台歌」は契丹討伐に従軍した際の雑言古詩で、人間という存在の孤独さを表現している。詩のほかに上奏文を収めた『陳伯玉文集』がある。
六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。
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〈唐詩選〉
蘇丘覧古
晩次樂郷縣
春夜別友人
送別崔著作東征
登幽州臺歌
白帝城懐古
見山懐古
贈喬侍御
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感遇三十八首 其二(蘭若生春夏)
題祀山烽樹贈喬十二侍御(漢庭榮巧宦)
送別(落葉聚還散)
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10 |
杜 審言 |
じょうかんえんじ |
645- 708 |
杜 審言(と しんげん、645年(貞観19年) - 708年(景龍2年))は、中国唐代(初唐)の詩人。字は必簡。襄州襄陽県(現在の湖北省襄陽市襄州区)の人。西晋の杜預の子の杜耽の末裔にあたる。曾祖父は杜叔?。祖父は杜魚石。父は杜依芸。子に杜閑・杜並ら、孫に杜甫がいる。
670年(咸亨元年)進士となり、隰城県の尉となった。自らの才能を恃むところ頗(すこぶ)る強く、大胆な放言をしては周囲から憎悪されていた。また、杜審言は立場が上の人間に対する態度は弱く、武則天に召し出された時には、必要以上に媚び諂って感謝するという有様であった。しかし、詩を絶賛されたり、李?・崔融・蘇味道らと共に「文章四友」と呼ばれるなど、その才能は認められていた。
705年(神龍元年)頃、武則天の寵臣の張易之らと親しくしていたために左遷され、峰州(現在のベトナムフート省)に流された。その後、都に戻って国子館主簿・修文館直学士になり、病死した。死に際しても見舞いに来た友人の宋之問らに「わたしの才能が今まで君達を押さえ込んできたが、これからわたくしが死ぬからにはさぞ喜ばしかろう」などと言い放ったという。
〈詩風〉
詩は五言律詩を得意とする。『杜審言集』が明代に編纂された。
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蓬莱三殿侍宴奉敕
詠終南山
和晉陵陸丞早春遊
望
和康五望月有懷
送崔融
贈蘇味道
渡湘江
贈蘇紺書記
戲贈趙使君美人 |
11 |
上官婉兒 |
じょうかんえんじ |
664- 710 |
上官婉兒:〔じゃうくゎん・ゑんじ;〕「上官」は複姓の一。664年(麟徳元年)〜710年(景龍四年/唐隆元年/景雲元年)。唐代の女官。唐・中宗の時、昭容の職位に就く。陝州陝県(現・河南省)の人。上官儀の孫で才媛。
上官婉児は祖父の上官儀が則天武后に処刑された後、その文才により則天武后から重視され、最も信頼される側近となった。上官婉児はその後、唐中宗・李顕に嫁ぎ、法令の起草と発布を担当した。則天武后の甥の武三思が権力を拡大すると、上官婉児は武三思と姦通した。李隆基が710年に政変を起こし、韋皇后を処刑すると、「八方美人」の上官婉儿は忠誠を示すことができず処刑された。上官婉児がその後どこに葬られたかについては、これまで謎とされてきたが、墓の発見に伴い、この謎がついに解かれることとなった。上官婉児の墓の発見、特に墓誌銘の出土は、唐の歴史の研究にとって非常に重要な意義があるという。
<作品>
綵書怨 九月九日上幸慈恩寺登浮圖群臣上菊花壽酒(帝里重陽節) 帝駕幸新豐湯泉宮獻詩三首之一(三冬季月景隆年) 帝駕幸新豐湯泉宮獻詩三首之二(鸞?掣曳拂空回) 帝駕幸新豐湯泉宮獻詩三首之三(翠幕珠幃敞月營) 奉和聖製立春日侍宴内殿出翦綵花應制(密葉因裁吐) 遊長寧公主流杯池二十五首之一(逐仙賞) 遊長寧公主流杯池二十五首之三(檀欒竹影) 遊長寧公主流杯池二十五首之四(仰循茅宇) 遊長寧公主流杯池二十五首之五(枝條鬱鬱) 遊長寧公主流杯池二十五首之六(C波洶湧) 〜同題で十六(泉石多仙趣)まで
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12 |
王 績 |
おう せき |
585年 - 644年 |
初唐の詩人。字は無功。絳州竜門県(現在の山西省運城市河津市)の出身。
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野望 |
13 |
嶬毋 潜 |
きぶ せん |
692年 - 755年? |
初唐の詩人。字は孝通。虔州南康県の出身。 開元14年(726年)の進士。右拾遺・集賢院待制・著作郎などを歴任したが、世の乱れを見て官界に望みを絶ち、辞職して江東(長江下流の南岸地方)の別荘に隠棲した。 代表的作品に、『宿竜興寺(竜興寺に宿る)』(五言律詩)がある。
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宿龍興寺 |
14 |
宋之問 |
そうしもん |
652〜712 |
宋之問(そうしもん、656年?−712年あるいは713年)は中国初唐の詩人。字は延清。?州弘農(現河南省、『旧唐書』より)あるいは汾州(現山西省、『新唐書』より)の人。沈?期とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。
汾州出身。字は延清。科挙進士科に及第して武后に認められ、張易之と結んでいたために中宗復辟で瀧州(広東羅定)に流されたが、洛陽に潜行して張仲之に庇護され、仲之の武三思暗殺を密告して赦免・登用された。太平公主に与し、横暴・驕慢として越州長史に遷されたが、以後も素行を修めず欽州・桂州に流され、玄宗に自殺を命じられた。 娘婿の劉希夷に、詩(代悲白頭翁)の“年年歳歳花相似たり”の句の譲渡を求めて拒まれ、人を遣って土嚢で圧殺させたという。 |
下嵩山歌(下山歌)
奉和晦日幸昆明池應制
送司馬道士遊天台 |
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15 |
沈栓期 |
しんせんき |
656?- 716? |
沈 ?期(しん せんき、656年? - 716年?)は、中国初唐の文学者。字は雲卿。相州内黄県(現在の河南省安陽市内黄県)の人。本貫は呉興郡武康県。宋之問とともに武則天の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。
675年、進士に及第する。武則天の時代、協律郎などの官を歴任し、宮廷詩人として活躍するとともに、『三教珠英』の編集にも参加した。702年、知貢挙(科挙の試験官長)となる。704年、給事中に在任時、以前の収賄の罪を問われて投獄される。さらに翌705年、武則天が退位、中宗が復位して張易之兄弟が失脚すると、その一味として宋之問・杜審言らとともに嶺南に左遷されたが、特に沈?期は収賄の罪が加算された結果、最南の驩州(現在のベトナム北部)に流された。翌706年、恩赦により北に戻り、台州録事参軍となり、その後は起居郎に修文館直学士を兼ね、中宗の宮廷詩人として再び活躍する。後に中書舎人・太子少・事などを歴任し、玄宗の開元の始め(714年から716年頃)に死去した。
詩風
沈?期は宋之問ともに近体詩の韻律の整形に力を入れ、五言律詩の詩型を整備した上、当時未成熟であった七言律詩の確立にも大きな貢献を果たした。
宋之問とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。
字は雲卿。相州内黄の人。上元二年(675)、進士に及第した。協律郎・考功郎中・給事中を歴任した。張易之の庇護を受けたが、武周朝が倒れて張易之が殺されると、賄賂を取った罪で驩州に流された。その後、呼び戻されて起居郎・修文館直学士となり、中宗にとりいって、中書舎人・太子少・事にいたった。宋之問とともに、「沈宋」と併称される。
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酬蘇員外味玄夏晩寓直省中見贈
同韋舎人早朝
古意
龍池篇
紅樓院應制
亡山
臨高臺 |
16 |
王無競 |
おおむきょう |
652〜705 |
初唐の詩人。官僚。後に蘇州の司馬となり、やがて嶺南に左遷される。王無競は、右に生没年を挙げるが、諸事から割り出したもので、7世紀−8世紀初には違いない。字は仲烈,唐朝の政治人物である。先世琅?人と為すとあるが,因官世徙東?,南朝劉宋太尉王弘の十一世孫である。 無競有家財,頗負氣豪縱,下筆成章。被朝廷任用為趙州欒城縣尉,三遷至監察御史,改殿中丞。
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和宋之問嵩山歌 |
17 |
寒山 |
かんざん |
生没年不詳。 |
寒山(かんざん、生没年不詳)は、中国・唐代に浙江省にある天台山の国清寺にいたとされる伝説的な風狂僧。『寒山子詩』の作者とされる。後世、拾得と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。
「寒山寺#寒山拾得」も参照
人物像
伝歴は不明な点が多く、時代も初唐の人とされるが、それは『寒山子詩』の中唐以降の詩風とは一致していない。その名は、始豊県(天台)西方70里の寒巌を居所としていたことにちなむものとされる。その風姿は、痩せこけたもので、樺の冠をかむり、衣はボロで木靴を履いた奇矯なものであったという。食事は、国清寺の厨房を任される拾得から残飯を得ていたといい、寺僧に咎められると、大笑いして走り去ったという。虎を連れた姿で知られる豊干禅師の弟子とされ、豊干を釈迦、寒山を文殊、拾得を普賢の化身に見立てるものもある。
台州刺史の閭丘胤が国清寺を訪ねた時、拾得と共に大笑しながら寒巌に姿を隠し、二度と姿を見ることは無くなったとされる(森鴎外が、「寒山拾得」として作品化している)。その後、山中の諸処に書かれていた詩300篇余りが発見され、それが『寒山子詩』であるとされている。
『宋高僧伝』巻19「感通篇」に、「唐天台山封干(豊干)師伝」があり、寒山子・拾得として附伝されており、『景徳伝灯録』巻27にも、「天台豊干禅師 天台寒山子 天台拾得」として記録されている。
なお道教史書を数々編纂した五代の杜光庭による『仙伝拾遺』中にも、寒山が収められており、そこでは道士が『寒山子詩』を集めたことになっている。
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寒山詩(重巖我卜居) |
18 |
賈 曾 |
か そう |
? - 727年 |
賈 曾(か そう、? - 727年)は、中国・唐の詩人。洛陽の出身。賈至の父。景雲年間(710年頃)、吏部員外郎となり、皇太子(のちの玄宗)に才能を認められて、太子づきの太子舎人になった。
玄宗の即位後は、諫議大夫・中書舎人を歴任、一時罪によって洋州刺史に左遷されたが、最後は礼部侍郎に至った。
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19 |
郭振「郭震」 |
かく しん |
656年 -713年 |
郭震(かく しん、656年 - 713年)は、中国・唐の詩人。魏州貴郷(河北省大名県)の出身。字は元振(『唐詩選』の通行本は、姓名を郭振と誤っている)。
身の丈七尺の偉丈夫で、任侠を好み、高宗の咸亨(かんこう)4年(673年)、18歳で進士に及第、則天武后に認められて右武衛鎧曹参軍・奉宸監丞となった。その後は大将軍としてしばしば西北に出陣、吐蕃(チベット)・突厥(トルコ)族を撃破して名将と謳われ、景雲2年(711年)には同中書門下三品・吏部尚書に進んだ。しかし玄宗の即位の初め、天子に逆らって新州(広東省新興)に流され、開元元年(713年)、罪を軽減されて饒州(江西省波陽=?陽)司馬に遷されたが、途中で死んだ。
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子夜春歌 |
18 |
朱放(しつほう) |
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朱放(しゅ ほう)は、中国・唐の詩人。湖北省襄陽市の出身。字は長通。
初め漢水の岸に住んでいたが、飢饉に遭い、セン渓(浙江省せん州市の西南)のほとりに移住して、隠者の生活を送った。徳宗の建中三年(782)、唐の宗室の李皋から江西節度使(江西省南昌市)に招かれて参謀となったが、官僚生活が肌に合わず、辞職して帰った。貞元2年(786年)にも左拾遺に任ずる旨の詔書を受けたが、辞退して、無官のまま世を終えた。盛唐の人であるが詩人としては、初とだけであったのでここに掲載する。
作品に、『題竹林寺(竹林寺に題す)』(五言絶句)がある。
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題竹林寺
別李季蘭 |
19 |
張(ちょうこう) |
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未詳 |
初唐の詩人。官僚。張紘〔ちゃうこう(ちょうこう)或いは張紘に作り、張Rというのは,誤り。呉郡(今蘇州)人。
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怨辭
天邊小雨侵南圃 |
20 |
盧撰 |
ろせん |
未詳(670?〜710?) |
臨?(河北省)の人。吏部商書廬從愿の從父。聞喜の尉から中央に帰って學士となり、吏部院外郎にまでなった。詩の内容から、重慶に転任した時の作と思われる。孟浩然と交際がある。はじめ聞喜の尉、ついで中央の集賢院学士、吏部員外郎となる。現在、14首が残る。
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南樓望 |
21 |
陳子良 |
ちんすりょう |
未詳ー635年ごろ |
呉の人。唐の太子學士となり、貞観中、635年ごろ卒した。
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送別
七夕看新婦隔巷停車 |
22 |
韋元旦 |
い げんたん |
生没年不詳 |
韋 元旦(い げんたん、生没年不詳)は、中国・唐の詩人。本貫は京兆郡万年県(陝西省西安市)。《興慶池侍宴應制》
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興慶池侍宴應制 |
23 |
賈曾 |
か そう |
? - 727年 |
賈 曾(か そう、? - 727年)は、中国・唐の詩人。洛陽の出身。賈至の父。景雲年間(710年頃)、吏部員外郎となり、皇太子(のちの玄宗)に才能を認められて、太子づきの太子舎人になった。
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奉和春日出苑?目應令 |
24 |
蘇味道 |
そ みどう |
648年 - 705年 |
蘇 味道(そ みどう、648年 - 705年)は、中国・唐の詩人。趙州欒城県の出身。
若くから文名が高く、李?とともに「蘇李」とうたわれた。突厥族征討の軍に書記として参加し、才能を認められ、則天武后の聖暦の初め(698年頃)には宰相となった。しかし明確な政策を持たず、自ら宰相は決断してはならぬ、ただ模稜(ごまかし)していればよいのだと言ったため、模稜宰相と呼ばれたと言う。また親の墓を作ろうとして人民の墓地を壊したり、宰相らしからぬ行為が多かったため罷免され、武后の政権が倒れるとともに眉州刺史に流され、更に益州に遷される途中で死んだ。
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在廣聞崔・馬二禦史竝登相臺 |
25 |
張敬忠 |
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生没年不詳 |
監察御史として将軍張仁愿(ちょうじんげん)に従い、北辺の地に出陣した。吏部郎中などになったらしいが、詳しいことは不明。開元7年(719年)には平盧(内蒙古自治区土黙特右旗)節度使になった。 《邊詞》
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邊詞 |
26 |
李僑 |
りきょう |
645−714 |
李?(りきょう、645−714)
李?,字巨山。趙州贊皇(現在河北省)の人。初唐の詩人,武則天、唐中宗時期的宰相。
李?は趙郡李氏の出身,北魏太尉と為す、高平宣王李順七代の孫。
祖父:李野王,隋魯郡功曹。
父親:李鎮惡,唐襄城縣令,贈魏州刺史。
生平
隋の?史侍郎李元操の從曾孫,幼くしてその才が有るので評判であった。20?のとき進士舉制策甲科に及第。安定縣尉をふりだしに,監察御史、吏部尚書、中書令を累官した。高宗、武后、中宗、睿宗の四朝に仕えた。李?は剛直廉正,武則天は李?と大理寺少卿張コ裕とに令じ、復た?狄仁傑の案を,無罪為と定した,此事武后に觸忤せる,潤州司馬を為て貶めた。○?、嚴二州僚族起義,受命監軍進討,親入洞?勸降。詩才有り,初唐四傑と交銜し,その大部分は五言近體を作詩,杜審言、崔融、蘇味道などとともに「文章四友」とよばれた。?年被尊為「文章宿老」。明代胡震亨?:「巨山五言,概多典麗,將味道難為蘇」(《唐音癸籤》)。《資治通鑑》有載其人生平。明人輯有《李?集》。
?任官職
任監察御史,平定嶺南?、嚴二州?人反叛。
任給事中,因?明狄仁傑、李嗣真、裴宣禮等三人冤案,觸怒武則天,被派出任潤州司馬。
武則天召回任鳳閣舍人。
知天官侍郎事,遷麟台少監。
聖?初年(698年),與姚崇一起同鳳閣鸞台平章事(宰相),不久轉任鸞台侍郎,依舊平章事,兼修國史。
久視元年(700年),李?之舅天官侍郎張錫入政事堂為宰相,李?轉任成均祭酒,罷知政事及修史,舅甥兩人相繼任宰相,榮耀一時。
任檢校文昌左丞、東都留守。
長安三年(703年),李?再次任宰相,不久兼任納言。
長安四年(704年),遷任?史不久辭職,復任成均祭酒(國子祭酒)。
神龍元年(705年),唐中宗即位,李?以附會張易之兄弟,被貶出為豫州刺史,未及上任,又貶為通州刺史,數月後,?拜吏部侍郎,封贊皇縣男。遷吏部尚書,進封縣公。
神龍二年(706年),接替韋安石為中書令。
神龍三年(707年),加修文館大學士,監修國史,封趙國公。
景龍三年(709年),被免去中書令職務,以特進守兵部尚書、同中書門下三品(任宰相)。五月,唐睿宗即位,被貶為懷州刺史,不久以年老致仕。
先天元年(712年),唐玄宗即位,在宮?獲其所上給中宗處置相王諸子,不要留在京城的表章,被令隨子虔州刺史李暢赴任虔州(今江西?州市)。不久被重新任為盧州別駕,任?去世。
作品
〈汾陰行〉:
君不見昔日西京全盛時,汾陰后土親祭祀。齋宮宿寢設儲供,撞鐘鳴鼓樹羽?。
漢家五葉才且雄,賓延萬靈朝九戎。柏梁賦詩高宴罷,詔書法駕幸河東。河東太守親掃除,
奉迎至尊導鸞輿。五營夾道列容衛,三河縱觀空裡閭。回旌駐蹕降靈場,焚香奠?邀百祥。
金鼎髮色正焜煌,靈祗?Y?景光。埋玉陳牲禮神畢,舉麾上馬乘輿出。彼汾之曲嘉可遊,
木蘭為楫桂為舟。櫂歌微吟彩鷁浮,簫鼓哀鳴白雲秋。歡?宴洽賜群後,家家復除?牛酒。
聲明動天樂無有,千秋萬?南山壽。自從天子向秦關,玉輦金車不復還。珠簾羽扇長寂寞,
鼎湖龍髯安可攀。千齡人事一朝空,四海為家此路窮。豪雄意氣今何在,壇場宮館盡蒿蓬。
路逢故老長嘆息,世事回環不可測。昔時青樓對歌舞,今日?埃聚荊棘。山川滿目?沾衣,
富貴榮華能幾時?不見只今汾水上,唯有年年秋雁飛。
〈風〉:
解落三秋葉,能開二月花。
過江千尺浪,入竹萬竿斜。
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侍宴甘露殿
奉和春日遊苑喜雨應制
奉和七夕兩儀殿會宴應制
詠海
詠城
詠雪
奉寧公主東莊侍宴
奉和幸韋嗣立山莊應制 |
27 |
劉庭g |
りゅうていき |
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「劉廷g」としている本もある。張諤と共に岐王の屋敷に出入りし、その罪によって雅州(四川省雅安)司戸に流された。
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銅雀臺 |
28 |
李ヨウ |
りよう |
678年 - 747年 |
『李思訓碑』(部分)
李?(り よう、678年 - 747年)は、中国唐代の書家。広陵郡江都県(現在の江蘇省揚州市江都区)の人。字は泰和。『文選』の注釈で有名な李善の子で、李岐(伯道)、李穎、李暁の父である。
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奉和初春幸太平公主南莊應制 |
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