時
代 |
西紀 |
史
実 |
詩人名 |
生没
年 |
概 略 |
ゆかりの地 |
詩 詞 題 |
南
宋 |
1127年 -1279年 |
|
岳飛
(がくひ) |
1103〜1141 |
字は鵬挙。農民の出で、北宋末の義勇軍召募に応じて宗沢に認められ、軍功を重ねて1133年に"精忠岳飛"の宸筆の旗を下賜され、翌年には清遠軍節度使とされ、崇信軍節度使・武昌郡開国侯に進んだ。湖北路・荊襄の制置使とされて金軍をことごとく撃退し、1140年には東京副留守の劉リを支援して宗弼を大破すると開封に迫ったが、和平を急ぐ秦檜によって1日12使の金字牌を送られて已むなく撤退した。
当時、岳飛の軍(岳家軍)は最強の精鋭として知られ、開封を堅守した宗沢とともに金軍から"爺々"の尊称を受けた唯二人で、"山を動かすは易く、岳家軍を動かすは難し"とも評された。当時の軍閥は官僚と不和で、軍閥間でも対立があり、年少で矜持の強かった岳飛は孤立気味で、これに乗じた秦檜によって1141年に枢密副使とされて軍を解体され、同年、和平交渉の為に冤罪で獄死させられた。1178年に武穆と諡名され、1204年には岳王と追封され、後に岳王廟に祀られて1914年以降は関羽とともに武廟に合祀された。
|
相州湯陰(河南)の出身。 |
滿江紅
題新淦蕭寺壁
送紫岩張先生北伐
題青泥市寺壁
池洲翠微亭
送紫岩張先生北伐
滿江紅
小重山 |
鵝湖の会 |
呂祖謙
(りょそけん) |
1137〜1181 |
中国南宋時代の儒学者。字は伯恭。東?先生と称される。学者の家に生まれ林之奇・汪応辰・胡憲などに学ぶ。1163-64年に進士となり、同時に博学宏詞科にも合格する。 太常博士に國史院編修官・実録院検討官となり、領土の回復を孝宗に説き聖学について論じ、『徽宗実録』では政治についても述べている。 当時出版界では『聖宋文海』という誤謬の多い書が出回っており、孝宗が臨安府にこの本の校正・刊行を命じたところ、学士・周必大はその事業が困難であると説いたが呂祖謙は仕事を完成させ、『皇朝文鑑』の名を賜った。1178年に官著作郎に任命され、国史院編修官を兼ねていたが、その年に54歳で没する。 同時代の張?・朱子を友とし、東南の三賢と並び称された。博識で文辞が豊かであり、詩書春秋では古義を究め、十七史に通じていた。朱熹と対立する学説を主張する陸象山とを仲介し、対論させた(鵝湖の会)。
|
?州(浙江省金華県)の出身。 |
『徽宗実録』
『古周易』
『大事記』
『春秋左氏伝説』
『東莱左氏博議』
『少儀外伝』
『歴代制度詳説』
『呂氏家塾読詩記』
『書説』
『呂東莱先生文集』40巻
『古文関鍵』(編著)
『宋文鑑』(編著)
『近思録』 |
|
|
張拭(ちょうしょく) |
1133年 -1180年 |
南宋の儒学者・政治家。字は敬夫、または楽斎。南軒先生と称せられる。宰相・張浚の子として生まれ、将来の大儒を目指して胡宏(五峰)に学ぶ。初めは直秘閣に任じられ、その後は地方官を歴任し、中央に戻ってからは吏部侍郎から右文殿修撰になった。金に対して主戦論を保持し、たびたび国防・民政に関する上奏を奉じ、宰相・虞允文からは疎まれたが孝宗の信任は厚かった。王夫之は『宋論』のなかで張?を「古今まれに見る大賢ではあるが、王安石以来の人材迫害・言論弾圧に懲りて世間を離れることに努め、才能を振るおうとしなかった」と惜しんでいる。張?の学問は、二程(程・程頤)を承け、朱熹との交友で発達した。『論語』『孟子』の解釈で見るべきものがある。
|
広漢(四川省)の出身。 |
『南軒集』44巻
『南軒易説』
『伊川粋言』
『癸巳論語解』
『癸巳孟子説』 |
|
鵝湖の会 |
陸象山(りく しょうざん) |
1139〜1192 |
南宋の儒学者・官僚。 名は九淵、字は子静。象山は号。朱子と同時代に生き、その論敵として知られる。その一族はおよそ二百年間にわたり何世代もが同居することで有名であり、時の王朝より義門(儒教的に優れた一族)として顕彰された。象山の兄二人も著名な学者で兄弟を三陸と称することもある。進士に及第後地方官・中央官として経験を積んだ。49歳の時、江西省の応天山に私塾をひらき、そこで講学を行ったが、その数年後肺結核のため世を去った。
兄の九齢(復斎)とあわせて江西の二陸といわれ、朱子と思想的に対立した。象山の思想は、人間の本心である徳性をしっかりと保持し、利欲に惑わないことを第一とした。朱子が経書(儒教の古典)をよく読み、知的に深めていくことを重視したのに対し、象山は本心に基づく道徳的実践を重視した。人はみな、古来の諸聖人と同じ心を生まれつき保有していて、しかも道徳的な判断力や感覚、すなわち「理」をもっている。心が理を備えていることを「心即理」といった。心に内在する天理を信じ、これに従って行動することを強調した結果、儒教古典としてたいせつな六経でさえも「我が心の注脚」とみるようになった。経書に注釈を書くことに努めた朱子とはこの点が対立する。象山と朱子はしばしば手紙で論争し、1175年には江西省の鵝(が)湖で会見したが意見は一致しなかった(鵝湖の会)。朱子は象山を、学問を軽んずる実践主義者と評し、象山は朱子を、実践を軽んずる知的博学主義と評した。象山の門下の楊簡(ようかん)(慈湖)は、やがて静坐主義となり、禅思想とも似てきた。元代になると朱陸折衷の学風がおこったが、明(みん)代中期に王陽明(守仁)は、象山の「心即理」の思想を認め、そこから「致良知」という新しい思想を生み出し、朱子学を批判する陽明学となった。
|
江西省金谿の人。 |
|
|
|
朱 熹(朱子)
(しゅ き) |
1130
年 -
1200
年 |
宋代(南宋)の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・
晦翁・雲谷老人・滄洲病叟・遯翁など。また別号として考
亭・紫陽がある。謚は文公。「朱子」の尊称で呼ばれている。
儒教の体系化を図った儒教の中興者で朱子学の創始者で
ある。朱子学やその後、明の時代に学問部分が国教と定め
られた。また、日本にも輸出されて江戸時代には幕府も朱子
学を尊重した。
|
福建省
南剣州尤
渓 |
「朱文公文集」
「四書集注」
「資治通鑑綱目」
「近思録」
勸學文
偶成詩 |
|
|
陸游(りくゆう) |
1125
〜
1209 |
字は務観、号は放翁。夙に文才を賞揚されていたが、科挙で
秦檜の一族の上位にあったために憎まれて及第できず、官人
としては不遇だった。秦檜の死後に同進士を賜り、46歳で王
炎の推挙で通判として入蜀し、後に宰相の周必大に認められ
てより要職を歴任したが、しばしば韓?胄と衝突して左遷され
た。四川では范成大と交流し、晩年には修史事業に参画して
孝宗・光宗実録を完成させ、1190年以降は故山に隠棲し
た。蜀に赴任する際に記録した158日間の旅行記は後に『入
蜀記』として全6巻に編纂され、風物のみならず歴史評論にも
及び、名著と評されている。 |
越州山陰
(浙江) |
示兒
十一月四日風雨大作
金錯刀行
秋夜將曉出籬門迎涼
有感
書憤
塞上曲
北望
劍門道中遇微雨 |
關山月 古意 遊山西村 病起 書懷 灌園 感事 龍興寺弔少陵先生寓居 樓上醉歌 隴頭水 追感往事 書事 秋興
識識 夜讀范至能攬轡録言中原父老見使者多揮涕感其事作絶句 春游 小舟遊近村捨舟歩歸 秋風亭拜寇莱公遺像 山南行 客
從城中來 聽雨 望江道中 小園 其三 貧甚戲作絶句其六 秋懷 書事 春晩懷山南 村飲示鄰曲 沈園二首其一 沈園
二首其二
|
|
|
唐婉(とうえん) |
|
南宋第一の詩人といわれる陸游(1125-1209)と彼の最初
の妻唐?とのロマンスは中国では広く知られた物語である。陳
舜臣の「中国の歴史」参照
陸游は20歳のとき母方の縁につらなる唐?と結婚した。夫婦
仲は睦まじかったが,なぜか唐?が陸游の母親から嫌われ(一
説には,夫婦仲がよすぎたからとも,またこどもが出来ず,それ
についてうそのつげ口をされたからともいわれる),1年ほどで離
縁させられてしまった。内緒で家を借り隠れて逢っていたが,そ
れも母親の見つかるところとなり,以後会うことができなくなっ
た。やがて唐?は宋の帝室につながる趙士程に再嫁,陸游も
王氏と再婚した。
|
越州山陰
(浙江) |
釵頭鳳の返歌
山盟(堅い誓い)在
ると雖も |
|
|
辛棄疾(しんきし
つ) |
1140
年 -
1207
年 |
政治家・詞人。字は幼安、号は稼軒(かけん)、歴城(山
東)出身。字は幼安、号は稼軒。華北に住し、采石磯の役で
の金軍の動揺に乗じて挙兵すると初めは耿京に従い、耿京が
張安国に殺されると安国を捕えて宋に帰順し、承務郎とされ
た。孝宗期には各州知事を、後に湖北・江西・湖南の安撫
使を歴任し、任地の治安民政を安定させた。主戦論者だった
ために和平派の弾劾で罷免され、まもなく浙東安撫使・鎮江
知府に任命されたが、勅使到着前に歿した。朱熹とも親交が
あり、朱熹の歿した際には偽学の禁を冒して追悼・埋葬した。
政治家としては大成しなかった辛棄疾であるが、文人としては
名声を博し、金に対抗し宋による故地回復を願った文章を数
多く残している。また様々な題材での詞・漢詩も残しており
『稼軒集』などが現在に伝わっている。北宋の蘇軾と並び「蘇
辛」と称されることもある。
|
歴城(現在
の山東省
済南市)の
人。 |
『青玉案』
菩薩蠻
書江西造口壁 |
|
|
戴復古(たいふく
こ) |
1167
年〜
(没年
不詳) |
字は式之。号は、故郷の南塘の石屏山に隠棲したことに因
み、石屏と称する。天台黄岩(現・浙江省)の出身。江湖派
の詩人として有名。
江湖派とは、南宋中期、後期の詩歌流派の一で、進士
試験の落第生や野にある知識人で、「江湖を流離った人々」
の意の流派。時の中央の詩壇に対して、下層社会(江湖)の
中に出来あがった下層知識人の詩壇。その名の由来は、陳
起が江湖(世間)の作品を集めて『江湖集』をはじめとして、
『江湖×集』『江湖○集』という風に、出版を続けたことによ
る。
|
南塘の石
屏山に隠
棲 |
江陰浮遠堂 柳
梢
|
|
|
周密(しゅうみ
つ) |
1232
年〜1
298
年。 |
南宋の文学者。字は公謹。号して草窓、泗水潜夫…。官は
義烏令。宋の南渡(南宋)後、湖州の呉興(現・浙江省・呉
興)の滅亡後、節を守って仕官しなかった。絶妙好詞』などを
遺す。
|
済南(現・
山東省・済
南)の人。 |
秋日即事 |
|
|
陳亮 (ちんりょ
う) |
1143〜
1194 |
南宋の思想家・文学者。字(あざな)は同甫(どうほ)。号、竜
川(りゅうせん)。孝宗のとき、金との和議に反対する「中興論」
を上奏したが採用されず、帰郷。経世済民のための学を主唱
して朱熹(しゅき)と議論を交えた。著
|
永康(浙江
省)の人。 |
「竜川文集」
「竜川詞」
水調歌頭
送章コ茂大卿使虜 |
|
|
杜秉(とへい) |
|
|
|
寒夜 |
|
|
張元幹(ちょうげ
んかん) |
1091
年〜不
明 |
両宋期の豪放な作風の詞人(1091年〜不明)字は仲宗、
号は葦川居士。対金主戦論者で、媾和に反対し、やがて退
けられる。
|
長楽(現福
建内)の
人。 |
賀新郎
石州慢 |
|
|
張孝祥(ちょうこ
うしょう) |
1132
〜116
9 |
南宋の愛国詞人。字は安國、号は于湖居士。本を一度読
んだだけで覚えた、という伝説の持ち主で、廷試(科挙の最高
考査)第一となる。官吏として歴任し、対金主戦論で退けら
れる。詞は、高らかに民族の情を歌い上げているものが多い。
三十八歳で亡くなる。
|
歴陽烏江
の人。 |
六州歌頭 |
|
|
眞山民(しんさ
んみん) |
1274
頃 |
眞山民については,詳しいことは分からないらしい。南宋末か
ら元にかけて生存したと伝えられる隠者。詩集が残る以外全く
分からない。姓名も不明で,山民と自称し,南宋の儒者眞
徳秀(1178−1235)の子孫らしいというので,眞山民と呼
ばれる。1274頃
中国宋末の進士で哲学者である。名は桂芳(けいほう)
といい、出身地などくわしいことはわからない。宋末の遺民で
世を逃れ、人に知られることを求めず、自分で山民とよぶ。歐
陽修、朱熹、蘇東坡と共に宋代の代表的詩人といわれ、特
に敍景詩にすぐれている。
|
未詳 |
山中月
錢塘懷古 |
|
|
楊萬里(ようば
んり) |
1127〜
1206 |
字は延秀、号は誠斎先生。紹興24年(1154)の進士。光宗・
熹宗の近侍官を歴任し、朱熹ら60余人の人材を勧めたが、
晩年は韓?冑と対立して寧宗に忌避された。詩人としては南
宋四大家の1人で、はじめは江西派の詩を学び、後に誠斎
体と呼ばれる独自の詩風を確立した。
|
吉州吉水
の出身。 |
夏夜追涼 |
|
|
劉克莊(りゅうか
つそう) |
1187
年-
1269
年 |
南宋末期の江湖派の詞人。1187年(淳煕十四年)〜12
69年(咸淳五年)。字は潜夫。号は後村居士。建陽の県
尉となり、その才で、進士待遇となる。
|
福建・田の
人。 |
滿江紅
玉樓春
賀新カ |
|
|
文天祥(ぶんて
んしょう) |
1236〜
1282 |
字は宋瑞・履善、号は文山。宝祐4年(1256)の科挙に状
元で及第した。1259年のモンゴルの四川侵攻の際、遷都派
を弾劾して罷免され、後に起用された時も賈似道を嫌って下
野した。1274年に復官し、モンゴル軍の南征に対し義勇軍を
組織して各地を転戦し、後に右丞相・枢密使に抜擢されて
講和使節とされたが、才気を惜しまれて拘留された。臨安陥
落後に脱走して益王に合流したが、陳宜中らと不和となって
江西地方を転戦中に再びモンゴル軍に捕われ、大都にではフ
ビライの説得にも最後まで臣従を拒み、在獄3年で処刑され
た。著名な『正気の歌』は獄中の作。
|
吉水(江西)
出身。 |
過零丁洋
醺江月 |
|
|
謝枋得(しゃぼう
とく) |
1226
〜
1289 |
字は君長、号は畳山。宝祐年間に進士に合格したが、辞退
して賈似道を弾劾した。後に宋朝回復の計に失敗して福建
でモンゴル軍に捕われ、臣従を拒んで北京で絶食死した。
南宋の政治家。弋陽(よくよう)(江西省)の人。字(あざな)は
君直。号は畳山。元との戦いに敗れて捕らえられたが節を曲
げず、絶食死した。 |
信州弋陽
(江西)の出
身。 |
「文章軌範」。初到
建寧賦詩 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|