351 |
牛橋 ぎゅうきょう |
生没年不詳 878年進士及第 |
字は松脚、また二子虻峰という。院讐甘粛の人。唐宰相牛僧指の子孫にあたるという。乾符五年(878)の進士。唐朝に仕えて、拾遺・補闕・校書即の官を歴任した。王建が節度使となって蜀(四川)を鎮めたとき、闢されて判官となった。
王建が蜀国を建ててから、蜀に仕えて給事中の官を拝した。よって牛給事とよばれている。博学で文学をよくし、詩歌においてはとくに名があらわれていた。ひそかに李賀(長吉)の歌詩を慕って、筆をとればただちにその詩風にならうことが多かったといぅ。詞はとくにその長ずるところで、女冠子詞の「繍帯芙蓉帳、金紋芍薬花」とか、菩薩蛮詞の「山月照山花、夢回鐙影斜」などはかれの佳句として知られていたといぅ。いわゆる花間沢とよばれる一派のなかで、況庭箔の詞風をうけてその辞句の美しきや情味の深いことでとくにすぐれた詞人である。集三十巻歌詩三巻があったというが今わずかに一部分が伝わるだけである。詞は花間集に三十二首を収めている。
牛?《巻三46 柳枝五首 其一》『花間集』147全詩訳注解説(改訂版)
以降三十二首全訳解説 |
花間集 巻三
柳枝五首
花間集 巻四
女冠子四首 夢江南二首
感恩多二首 應天長二首
更漏子三首 望江怨一首
菩薩蠻七首 酒泉子一首
定西番一首 玉樓春一首
西溪子一首 江城子二首
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352 |
杜牧 |
とぼく |
803〜852 |
京兆万年の出身。字は牧之、号は樊川。828年の進士。剛直にして気節の人と評されるが、若い頃は遊興を好んでしばしば節度がなかったという。揚州の淮南節度使/牛僧儒の書記となり、密かに護衛が附される程に将来を嘱望され、中央に召されると監察御史・殿中御史などをつとめた。後に地方に出されて刺史職を歴任したが、上書した辺防策が認められて中央に召され、中書舎人まで進んだ。
憲宗期に名臣と称された祖父の杜佑に対して「;小杜」と呼ばれ、美貌の風流才子として知られたが、当時の技巧・繊麗を尊ぶ詩風に反撥し、前期の平明の風を継承して「情致豪邁」と称された。
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353 |
張姑(ちょうこ) |
792〜852 |
晩唐の詩人。別名が胡渭州(こいしゅう)です字は承吉。清河の人。長慶年間(822ごろ)、令孤楚が朝廷に推薦して官吏としようとしたが、元?に阻まれて官途につけなかった。高官の家に寄食したが、妥協を好まぬ性格のため、身を落ちつけなかった。 |
題金陵渡(金陵津渡小山樓)
何滿子(故國三千里) |
354 |
許渾 きょこん |
791〜854年 |
晩唐の詩人。。字は仲晦。丹陽の人。現・江蘇省丹陽市。陶淵明の時代では曲阿といった。鎭江市のすぐ南になる。秋思(h樹西風枕簟秋) 咸陽城東樓(一上高城萬里愁) 塞下(夜戰桑乾北) |
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355 |
李商隠 |
りしょういん |
812〜858 |
懐州河内(河南)の出身。字は義山、号は玉渓子。令孤楚に見出されて837年に進士科に及第したが、令の死後は李党の王茂元の娘を娶ったことで牛党に変節を憎悪され、小官の歴任と罷免に終始して官界では不遇だった。早くから詩人として知られ、自然に情緒を託した詩を好んだが、故事熟語を多用した技巧重視の難解なものが多く、晩唐の詩風の代表者と称される。作詩に際しては周囲に古典資料を並べたため、魚を並べるカワウソに喩えて獺祭魚と呼ばれた。
『古今説海』収録の『雑纂』は日本文学に影響を与え、特に『枕草子』の文学的形式成立の重要な契機となった。
李商隠の詩風は北宋前期に「西崑体」と称され、楊億・銭惟演・丁謂らによって『西崑酬唱集』が編まれるなど一世を風靡したが、多くは詩句の外形的な模倣にすぎず、華美晦渋な作品が多い。
1.夜雨寄北Yau-kihoku 2.嫦娥Joga 3.漢宮詞Kangushi 4.登樂遊原
Touranyugen 5.錦瑟Kinhitsu 6.瑤池Yochi 聞歌(斂笑凝眸意欲歌) 無題(相見時難別亦難) |
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356 |
魚玄機 |
ぎょげんき |
843〜868年 |
唐代末の女流詩人。長安の人。字(あざな)は尢(けいらん)・幼微。詩文の才能で有名になり、女道士となったが、召使いの女を殺して死刑になった。森鴎外の小説「魚玄機」の主人公。843〜868年。晩唐の詩人。長安の妓楼の娘。 中唐の薛濤(せっとう)と並び称される唐代を代表する女流詩人。 20歳の時、恋人の高級官僚・李億(りおく)と漢陽へ来たが、この地で李億に捨てられる。 道教の尼となった魚玄機は再び恋をするが、その恋人李近仁(りきんじん)をまたも使用人に奪われてしまう。 魚玄機は嫉妬のあまり、使用人を鞭で打ち殺してしまい、これが発覚して処刑された。数奇な運命をたどった情熱の女性。26年の短い生涯だった。
秋思 酬李学士寄箪 和新及第悼亡 江行 江行 (其の二) 聞李端公垂釣回寄贈 題隠霧亭 重陽阻雨 送別 迎李近仁員外 江陵愁望寄子安 戯贈 留別広陵故人 名月夜留別 得閻伯釣書 賦得江辺柳 寄国香 |
357 |
温庭均 |
おんていいん |
812〜872 |
太原出身。旧諱は岐、字は飛卿。軽薄・放蕩無頼で科挙には及第しなかったが、詩の構想に卓絶して即興の詩余は芸術的にも優れ、詩余に芸術的洗練さを与えた。859年頃に詩名によって特に召されて登用されたが、叙任前に微行中の宣宗に無礼があって罷免された。艶体詩を好んで独特の心理描写を駆使し、詩人として李商隠と並称された。
渭上題三首之三(煙水何曾息世機) 菩薩蠻 楊柳枝(娃宮外?城西) 楊柳枝(宜春苑外最長條) 楊柳枝(蘇小門前柳萬條) 贈少年(江海相逢客恨多) |
黄巣の乱(こうそうのらん)(875〜84)
唐末期に起きた農民の反乱。王仙芝の起こした反乱に呼応して、山東の黄巣も蜂起・合流。四川以外の全土を巻き込んだ。王仙芝の死後、黄巣は880年長安に入って国号を大斉とし皇帝の位に就いたが、唐軍の反撃を受けて泰山付近で敗死。 乱後、朝廷の権威は完全に失墜し、各地で軍閥の抗争が繰返され、経済都市の開封を得た朱温が華北の主導権を掌握することとなった。この乱は唐朝滅亡の契機となった。 |
358 |
陸龜蒙 |
りくきもう |
〜881 |
晩唐の詩人。字は魯望。号は江湖散人。姑蘇(現・江蘇省)の人。同年代の詩人である皮 日休(ひじつきゅう )がおり、二人を合わせて皮陸と呼ぶことがある。 |
呉宮懷古(香徑長洲盡棘叢) |
359 |
皮 日休 |
ひじつきゅう |
830- 883年 |
唐代の詩人、革命的社会派の学者である。襄陽(現在の湖北省襄樊市)出身。字は襲美、号は閑気布衣、鹿門子、醉吟先生、醉士。友人に、同年代の詩人である陸亀蒙(陸龜蒙)がおり、二人を合わせて皮陸と呼ぶことがある。生まれは貧しい家だったが、咸通8年(867年)に彼は進士に及第し、咸通10年869年に蘇州の治安判事になり、著作郎、太常博士などを歴任した。この頃は、故郷に近い鹿門山に籠居し、酒と詩を友とする生活を送っていた。しかし、黄巣軍が首都長安を占拠すると、その政府に入って翰林学士となったが、後に疑われて殺された。?河懷古 牡丹 |
360 |
鄭畋(ていでん) |
825〜883 |
唐末の政治家。?陽(河南省?陽市)の名族鄭氏の出身。字は台文。武宗期に進士となると李徳裕に引き立てられ、内外の官職を歴任して僖宗期には宰相となった。黄巣の広州節度使職要求に対し、ひとまず広州節度使を与え、生活安定によってその内部崩壊を待つべきだと主張し、高駢の武力を頼む盧?と対立した。広明元(880)年に鳳翔節度使に任じられ、黄巣が長安を占領すると諸藩鎮に呼びかけて反撃体勢を作り上げ、一度は長安回復に成功するも黄巣軍の逆襲に会って敗れた。行軍司馬の李昌言に節度使職を奪われて成都の行宮に遷り宰相に任じられたが、成都で実権を握っていた田令孜、陳敬?らと対立し、検校司戸、太子太保の閑職に左遷され、さらに龍州に流されて卒した。馬嵬坡(玄宗回馬楊妃死) |
361 |
黄巣 |
こうそ |
?〜884 |
黄巣は科挙に落第した塩徒で、王仙芝とほぼ同時に挙兵し、王仙芝が朝廷の招撫に傾くまでは行動を与にした。当時の中国は宦官の専横・藩鎮の自立・対外戦争などによって塩の専売と各種雑税の増額が重く、これに天災による飢饉が加わって、流民の多くが匪賊となって塩徒と結託し、全国に普遍的に存在していた。当時の塩商の殆どが塩徒で、その反官憲的性格は武装と広範な組織力を擁し、流亡農民と結託すると大規模な叛乱に発展する可能性を常に孕んでいた。
黄巣は各地を転戦しつつこれら草賊を吸収し、官軍に対して遊撃戦を展開しながら大勢力に発展し、878年に広州を占領し、880年には洛陽・長安を陥落させて僖宗を蜀に逐って斉帝と僭称した。これを境に急速に紊乱化し、略奪によって民心をも失い、有力部将の朱温が朝廷の招撫に応じ、沙陀族の李克用も参戦した為、883年に長安を逐われて華北・華中を流寇し、いちじ蔡州を陥して頽勢挽回を図ったものの成功せず、まもなく平定された。題菊花 詠菊 |
362 |
劉綺莊 りゅうきそう |
生没年不詳 |
晩唐の詩人。毘陵(現・江蘇省武進県地方)の人。宣宗の時に官州の刺史となる。揚州送人(桂楫木蘭舟) |
363 |
唐彦謙 とうげんけん |
生没年不詳 |
晩唐、咸通〜中和時代の詩人。字は茂業。井州の人。金陵懷古(碧樹涼生宿雨收) |
364 |
趙瑕 ちょうか |
生没年不詳 |
晩唐の詩人。江樓書感(獨上江樓思渺然) |
365 |
陳陶 ちんとう |
812年〜885年頃 |
晩唐の詩人。字は嵩伯。その詩は平淡をもって知られる。長安に遊学するが志を得ず、後に南昌の西山に隠棲する。隴西行(誓掃匈奴不顧身) |
366 |
張喬(ちょうきょう) |
生没年不詳 |
懿宗の咸通年間の進士(?)。池州(現・安徽省貴池県)の人。黄巣の乱の時、九華山に隠れ棲んだ。生没年不詳。宴邊將(一曲涼州金石清) |
367 |
于武陵〔うぶりょう) |
810-未詳 |
于武陵(う ぶりょう、810年-?)は、中国・唐の詩人。杜曲(陝西省西安市の南郊)の出身。名は?(ぎょう)。武陵は字であるが、通常は字で呼ばれていた。宣宗の大中年間(835年頃)に進士となったが、官界の生活に望みを絶ち、書物と琴とを携えて天下を放浪し、時には易者となったこともある。洞庭湖付近の風物を愛し、定住したいと希望したが果たせず、嵩山(すうざん)の南に隠棲した。今、『于武陵集』一巻が残っている。勸酒(勸君金屈卮) |
368 |
高駢 |
こうべん |
821〜887 |
字は千里。幽州(現・河北省)の人。文武両道にすぐれた人物で渤海郡王にまでなりました。禁軍将校の家門の出で武芸を好み、儒学・文学にも造詣があった。党項討伐・南詔撃退に功があり、安南都護・成都尹・剣南西川節度使・天平節度使などを歴任した。877年に江淮塩鉄転運使として王仙芝を大破し、889年からは淮南節度使として黄巣討伐の全権を与えられたが、境内の保全に終始して黄巣の北上を黙認し、880年の潼関陥落と僖宗の四川蒙塵を招来した。後に自立を図るようになり、妖宗の狂信を不服とする部下に殺された。山亭夏日(克陰濃夏日長) |
369 |
聶夷中(じょういちゅう) |
837〜884 |
唐末〜の詩人。字は坦之。河東の人。咸通十二年(871年)に、科挙に合格する。官は華陰尉。詠田家(二月賣新絲) |
370 |
曹松 |
そうしょう |
830−901 |
唐の官吏。字・夢徴(ぼうちょう)。舒州(じょしゅう・現在の安徽省潜山)の人。早くより職を失い江湖(こうこ)に漂泊し、一生貧に苦しんだが、最晩年、ようやく進士に及第する己亥歳 |
371 |
杜荀鶴(としゅんかく) |
846〜904年 |
晩唐の詩人。杜牧の末子。大順二年(891年・昭宗)に進士に合格する。字は彦之。九華山人と号す。安徽省池州の人。杜荀鶴(とじゅんかく、846年-904年(907年?))は、中国、晩唐の詩人。池州石台の人。字は彦之、九華山人と号す。京兆万年の杜氏、杜牧の末子ともされる。大順2年(891年)の進士。
朱全忠に気に入られ、翰林学士、主客員外郎、知制誥となる。琴詩に巧みな風流人であったが、権勢に驕り、他人には憎まれていた。人を殺そうとしていたところ、あるいは、殺されそうになっていたところ、その直前に病死したという。「安禅は必ずしも山水を須ゐず、心頭を滅却すれば火も亦た涼し」夏日題悟空上人院 |
372 |
羅隱(らいん) |
833〜909年 |
五代の詩人。字は昭諫。本名は横。江東生と自号する。呉越、新城の人。晩年、呉越王銭鏐に仕えて、銭塘県令などを任じた。後梁の朱全忠に諫議大夫として召されるが行かず。『舊唐書・列傳・羅弘信・子威』「錢塘人羅隱者,有當世詩名,自號江東生。」或いは「江東人羅隱者,佐錢鏐軍幕」(『舊五代史・梁書』)ともする。自遣(得即高歌失即休) 江南行(江煙涅雨蛟?軟) 蜂(不論平地與山尖) |
373 |
韋荘 |
いそう |
836〜910 |
中国、晩唐の詩人。字(あざな)は端己(たんき)。杜陵(陝西省西安)の人。温庭?(おんていいん)とともに唐五代の詞を代表する。唐末の都の荒廃をうたった長編の七言古詩「秦婦吟」が有名。
長安の春 秦婦吟 金陵圖(江雨霏霏江草齊) 古別離(晴煙漠漠柳??) 題酒家(酒拷ヤ紅客愛詩) |
374 |
皇甫松 |
こうほしょう |
生没年不詳 |
:皇甫が姓。睦州の人(現・浙江建徳)。皇甫Gの息子。生没年不詳。唐代の人。花間集では「皇甫先輩松」とある。唐代では、進士を先輩と呼ぶので、進士で、出仕しないで終わったか。 |
375 |
秦韜玉(しんたいぎょく) |
882〜未詳 |
唐末〜の詩人。字は仲明。京兆(現・西安)の人。中和二年(882年)に進士及第を賜った。貧女(蓬門未識綺羅香) |
376 |
汪遵(おうじゅん) |
生没年不詳 |
晩唐の詩人。生没年不詳 その作品は全唐詩にある。字は不?。長城(秦築長城比鉄牢) |