安史の乱と詩人たち
安史の乱と詩人たち
安史の乱 その時の三詩人
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755.11 |
57歳・文部郎中(従五品上) |
44歳・右衛率府胃管参軍
・その日「北征」で羌村へ |
55歳・廬山(江西省)に隠棲 |
756. |
58歳・反乱軍に捕縛
叛乱軍の給事中
に |
45歳・叛乱軍に捕えられ、長
安に幽閉 |
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757. |
59歳 唐軍長安,洛陽を奪
回。解放される。 |
46歳・春、長安軟禁「春望」
逃亡、鳳翔粛宗のもとへ |
57歳・永王軍に参加
大逆罪で、尋陽に投獄。 |
758. |
60歳・春、賈至、岑参、杜甫
四詩人が中書省と門下省 |
47歳 房官擁護、酒に憂さ晴
らし「曲江」地方軍へ左遷。 |
58歳 郭子儀の努力で死罪
を免れ、流罪に。 |
759. |
61歳 中書舎人(正五品上)に
復位 |
48歳 春、洛陽より華州に帰
る。途中三吏三別を作る
秦州・同谷紀行成都紀行 |
59歳・流罪とはいえ郭子儀の
世話で長江上流で |
760. |
62歳・賈至・岑参左遷。ひとり
残されるが、終南山別荘で |
49歳・成都浣花渓に草堂卜
居 秋、蜀州っで、高適と語る |
60歳 長江上流白帝山付近
で放免。「早発白帝城」 |
761. |
63歳・63歳 7月王維歿す。 |
50歳 正月新津。二月成都
冬、高適、草堂を訪う。 |
61歳 宣城を中心に各地に遊
ぶ。 |
762. |
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51歳・春より夏にかけて、草堂
に居す。厳武と唱和すること甚
だ密 |
62歳当塗令李陽冰の宅で病
没。臨終、万巻草稿を託す |
王維
天宝14載(755年)には給事中の要職に至った。
虜囚、解放
安史の乱が勃発、至徳元年(756年)、王維は出奔した玄宗の後を追いかけたが、追いつけず、隠れていたところを、安禄山の軍に囚われる。この時に病気を偽ったが、洛陽に移され、強要されて安禄山政権の給事中に任じられる。この時、梨園の楽人たちが安禄山のために演奏させられ、楽人の一人である雷海青が殺されたのを聞き、嘆いて、これを詩に読む。至徳2年(757年)、唐軍により洛陽が奪還され、陳希烈らとともに帰順する。しかし、玄宗に代わって、皇帝となった粛宗に、安禄山に仕えた罪を厳しく問われた。しかし弟の王縉らの取り成しと、先の詩がすでに伝えられたことにより、太子中允に降格されただけで許された。
その後、出家を願い出たが、粛宗の許可が得られなかった。この頃、杜甫に励ましの詩を贈られる。
・五言律詩 奉贈王中允維 (王中允経に贈り奉る)太子中允である王維に贈った詩。
乾元元年(758年)、集賢学士に昇進する。同年、さらに、中書舎人、再び給事中へと累進した。この頃、杜甫、賈至、岑参と詩を詠じあう。
上元二年(762年)、尚書右丞となり、飢饉の際に自分の職田の粟を飢民のために施すことを求めた上書や自分の引退と引き替えに、蜀州刺史にされていた王縉を中央に帰すことを求める「躬を責め弟を薦むる表」が残っている。そのため、王縉は左散騎常侍に任じられ、中央に返り咲いた。同年、死去する。臨終の際に、鳳翔にいた王縉や友人たちに別離の書を書き、突如、筆を置いて、絶息したと伝えられる。安史の乱の終息を待たずに世をさった。
216李白
安史の乱の勃発後の757年(至徳2年)、当時、李白は廬山(江西省)に隠棲していたが、玄宗の第16子、永王李鄰の幕僚として招かれた。だが永王は異母兄の粛宗が玄宗に無断で皇帝に即位したのを認めず、粛宗の命令を無視して軍を動かしたことから反乱軍と見なされ、高適らの追討を受けて敗死した。李白も捕らえられ、尋陽(現江西省九江市)で数ヶ月獄に繋がれた後、夜郎(現貴州省北部)への流罪となった。配流の途上の759年(乾元2年)、白帝城付近で罪を許され、もと来た道を帰還することになる。この時の詩が「早に白帝城を発す」である。赦免後の李白は、長江下流域の宣城(現安徽省宣城市)を拠点に、再び各地を放浪し、762年(宝応元年)の冬、宣州当塗県の県令李陽冰の邸宅で62歳で病死した。『新唐書』などにある有名な伝説では、船に乗っている時、酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ち、溺死したと言われる。
221杜甫
755年(天宝14載) : 河西の尉に任じられるが断り、右衛率府の胄曹参軍になる。
756年(至徳元載) :安禄山の攻撃により長安が陥落する。霊武(現在の寧夏回族自治区霊武市)で粛宗が即位したとの情報を聞くと、長安脱出を試みるが、反乱軍に捕まり幽閉される。
757年(至徳2載) : 脱出して、粛宗から左拾遺の位を授かる。
758年(乾元元年) :房?(ぼうかん)を弁護したことにより粛宗の怒りを買い、華州(陝西省華県)に左遷される。
759年(乾元2年) :関中一帯が飢饉に見舞われたことにより、官を捨てて、秦州(甘粛省天水市)に赴く。
かじょかん 生年不詳− 至徳2載(757))
突騎施(西突厥)系の唐の将軍。吐蕃との戦いで活躍したが、安史の乱で敗北し、捕らえられ殺された。
755.11 洛陽は陥落して唐軍は潼関まで退いたが、司令官となった封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却と着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。新たに哥舒翰が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任した。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしたが玄宗に拒絶された。
哥舒翰は病身であったので、御史中丞の田良丘に指揮をゆだねたが統率がとれず、騎兵を率いる王思礼と歩兵を率いる李承光が対立していた。また、哥舒翰は厳酷で恩愛が少なく、玄宗が宦官の袁思芸から報告を受けて兵士に与えた衣を蔵の中に入れていた。さらに、監軍の李大宜は、兵士が飢えている状況で遊びにふけっていたと言われる。ために、士気は振るわなかったという。
756 至徳元載、潼関に攻めてきた安禄山の息子・安慶緒を撃退し、不仲であった安思順への安禄山からの手紙をでっち上げて弟の安元貞ともども誅殺に追い込んだ。軍では安禄山が楊国忠誅殺を大義名分としていたため、王思礼は軍を長安の方に進めて、君に楊国忠を誅することを上奏することを求め、さらに楊国忠をさらって殺すことを求めた。しかし、哥舒翰は謀反人になってしまうとして却下した。
楊国忠も警戒を強め、李福徳と杜乾運を将とし哥舒翰に備えたため、杜乾運をおびきよせ殺してしまい、対立が強まった。この頃、潼関を出て敵を撃破すべきと上奏するものがおり、玄宗は進軍するように命じた。哥舒翰は守戦が利として反対し、また、北地で戦っていた郭子儀と李光弼も守るべきと上奏したが、楊国忠が強硬に言い張り玄宗も同意した。何度も出撃命令の使者を送られた哥舒翰は慟哭したが、20万の兵を率い潼関から出た。
安禄山軍の武将・崔乾祐と交戦するが、伏兵にあい大敗。やっと潼関に退却し、敗残兵8千を率て再度戦おうとしたが、武将の火抜帰仁が裏切り捕らえられ安禄山軍の田乾真に降伏した。その後、洛陽に送られ、安禄山に平伏し「陛下(安禄山)のために、李光弼や魯Qを書状で招きましょう」と言ったという。火抜帰仁は不忠として殺された。 しかし、諸将の返書は全て、哥舒翰が節に死ななかったことを責めた内容であったので軟禁されてしまう。
757至徳2載、唐軍の洛陽回復の際に、逃亡する安慶緒によって殺された。
玄宗 685.9.8 〜 762.5.3 げんそう 唐6代皇帝 |
玄宗
(げんそう、685年9月8日 - 762年5月3日)は、唐の第6代皇帝(在位:712年 -756年)。諱は隆基。
治世の前半は開元の治と呼ばれる善政で唐の絶頂期を迎えたが、後半は楊貴妃を寵愛したことで安史の乱の原因を作っている。
李林甫の死後に実権を掌握したのは、楊貴妃の従兄楊国忠と塞外の胡出身の節度使安禄山である。両者は激しい権力闘争を行い、755年に楊国忠が安禄山の事を玄宗に讒言したことが契機となり、自身の立場に危機感を覚えた安禄山は、唐に対して反乱を起こした。反乱主導者の安禄山とその部下の史思明との名により安史の乱という。
安禄山の攻撃に、玄宗たちは蜀(四川省)へと避難を余儀なくされる。玄宗は蜀(現在の四川省)へと逃れるが、その途上の馬嵬で護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、息子の楊暄・楊?・楊曉・楊晞兄弟と共に兵士に殺害された。その上に兵らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求し、やむなく玄宗の意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺された。
国内が混乱する中の756年、玄宗は皇太子の李亨に位を譲り太上皇となった。安史の乱終結後、長安に戻った玄宗は半軟禁状態となり、762年に崩御した。
。節度使が唐だけではなく五代十国時代まで戦乱の原因になったことを考えると、さらに評価は分かれる。ただし、堕落した後半生でも、民へのいたわりを見せていた。長安から蜀へ避難する際、宝物庫を焼き払おうとする楊国忠に「賊が宝物を得られなければ、今度は民への略奪が激しくなる」と言って制止した。また渭水にかかる便橋(長安城西北にある。西渭橋・咸陽橋ともいう)を渡った際、賊の追撃を防ぐために楊国忠が橋を焼き払おうとしたが、「後から逃げようとする士庶たちの路を絶つな」と言って制止させている
粛宗
粛宗 711 〜 762.5.16 しゅくそう 唐7代皇帝 |
(しゅくそう)は、唐朝の第7代皇帝。諱は当初?であったが、後に嗣昇、浚、紹と次々と改名を繰り返し、即位時は亨である。生母の楊氏は楊貴妃とは別人である。
755年(天宝14載)11月、安史の乱が勃発すると翌年長安に反乱軍が迫ったことを受け玄宗と共に長安を脱出した。馬嵬(今の陝西省興平市)での兵士らによる反乱が発生、楊貴妃一族の粛清が行なわれると、玄宗は蜀へ避難し、李享らは安禄山らに対抗すべく北伐を行った。討伐軍は奉天(陝西省乾県)を経て、朔方節度使の駐屯所である霊武(寧夏回族自治区霊武市)に到着、7月に側近である宦官李輔国の建言を容れ自ら皇帝に即位、至徳と改元した。これは玄宗の事前の了承を得た即位ではなかったが、玄宗は後にこの即位を認め、自らは上皇となった。
即位後は郭子儀の軍を中心にウイグルの援兵を加えて態勢を整えると、粛宗は鳳翔(陝西省鳳翔県)に親征し反撃に転じた。757年(至徳2載)に安禄山が自らの息子安慶緒に殺されると、郭子儀や粛宗の長子の広平王李俶(後に豫と改名)と第3子の越王李係らの活躍により長安や洛陽を奪還、粛宗は10月、玄宗は同12月にそれぞれ長安に帰還した。しかし、安慶緒や史思明らの残存勢力はなおも存在しており、唐軍と安史軍の膠着状態が継続した。
758年(乾元元年)、粛宗は第五gを塩鉄使とし塩の専売制を導入、財政の健全化を図りに国家体制の強化を計画したが、朝政の実権は皇后張氏や李輔国を初めとする宦官達に掌握されており、自らの政治力を発揮することはできなかった。その後李輔国は張皇后と主導権を巡る政争を引き起こし、両者に不都合な次子の建寧王・李?に謀反計画を名目に自殺に追い込むなどの事件も発生し、このころから粛宗は病床に就くことが多くなった。
762年(宝応元年)4月、玄宗が崩御した13日後に、安史の乱を終結することなく粛宗も52歳で崩御した。粛宗が宦官に擁立された事実は、以降唐朝皇帝の擁立に宦官が関与する慣例を生んだ皇帝であると言われている。
楊国忠
唐の政権を握り、四十を超える使職を兼ね、自分につかない官僚は地方に出し、年功序列で出世させることで衆望を得て、人事を全て自分で決めた。天宝12載(753年)には、死去した李林甫を謀反の罪で誣告し、李林甫の親類や党を組んだものは流罪となった。その後、自らの権力集中に努め、天下の特に優れた才能を集めた。
宿敵・安禄山[編集]この頃から安禄山との対立を強め、哥舒翰と手を組み、叛意ありとして排撃を強めはじめた。天宝13載(754年は、安禄山は楊国忠の意に反して上京し、玄宗に釈明をし、玄宗は安禄山を宰相に任命しようとしたが楊国忠の反対により沙汰止みとなった。さらに、吉温が安禄山につき、対立は深まり、安禄山は長安を脱出するように范楊へと帰った。
剣南留後・李?が南詔に大敗し、瘴癘(しょうれい)の地あったことも加わって、全滅し、李?も捕らえられた。楊国忠は敗北を隠し、さらに討伐軍を出し、死者は鮮于仲通の時と合わせて、20万人近くに及んだ。
天宝14載(755年)楊国忠は、吉温を合蒲に流すなど、敵対行動を止めなかった。安禄山は楊国忠に対して不満と敵意を抱き、ついに、謀反の意志を固め、安史の乱が勃発し、安禄山は楊国忠の排除を名目に武装蜂起した。楊国忠は得意げに、「安禄山の首は十日以内に届けられるでしょう」と語ったという。
しかし、洛陽が陥落し、討伐軍の指揮官である高仙芝と封常清は潼関まで退却したために処刑され、哥舒翰が潼関の唐軍を指揮することとなった。
至徳元載(756年)、哥舒翰は、戸部尚書で安禄山のいとこでもある安思順と楊国忠の腹心・杜乾運を謀殺した。また、謀反の責任は楊国忠にあるという世論の高まりもあり、両者は対立し、楊国忠は玄宗をたきつけ哥舒翰に出撃を強いた。哥舒翰は安禄山の軍に大敗し捕らえられ、潼関は陥落した。
栄光の末[編集]楊国忠は剣南節度使を兼ねていたため、蜀地方への出奔を提言。この時、「安禄山の謀反の兆しを陛下が信じなかったからであり、宰相の責任ではない」と広言したと言われる。玄宗も同意し、太子・李亨、楊貴妃、楊一族、宦官の李輔国、高力士、韋見素、魏方進、陳玄礼らを連れ、密かに西方へと出発した。
馬嵬(ばかい)駅(陝西省興平市)に着いたところで、将士の疲労と飢餓は極限に達して前進を拒否。楊国忠への誅殺を決意した、龍武大将軍の陳玄礼は、李輔国を通して太子・李亨に決断をうながしたが、まだ、下らなかった。しかし、陳玄礼は「今天下崩離,萬乘震盪,豈不為楊國忠割??庶、朝野怨尤,以至此耶?若不誅之以謝天下,何以塞四海之怨憤!」(今日、天下は崩れ落ち、天子の地位は揺らいでいる。楊国忠のために亡民は苦しみ、朝野に怨嗟が渦巻いているのではないか。もしこれを誅せずに天下に謝すれば、どのように四海の恨みと憤りを抑えられようか!)と述べた。たまたま、楊国忠が吐蕃の使者と会話していたため、兵士が「楊国忠が蛮人と謀反を起こそうとしているぞ!」と叫び、襲いかかり、西門内に逃げ入った楊国忠は、殺され、首は槍先に刺された。
御史大夫の魏方進は「なぜ、宰相を殺したのだ」と兵士をとがめたために殺され、楊国忠の子・楊暄、韓国夫人(?国夫人・楊貴妃の姉)も殺された。さらに兵士らは玄宗に迫って、楊貴妃の処刑も要求し、高力士の説得により、玄宗は泣く泣く楊貴妃を縊死させたという。楊国忠の残りの子も全て、前後して殺されている。
李輔国
(李輔國、り ほこく、704年 -762年)は唐代粛宗の時代に専権をふるった宦官。本名は静忠、後に護国と賜名され、更に輔国と改名している。
元来は宦官である高力士の僕役として宮廷に入り、40歳以降になり?を掌握、後に太子李亨に入侍した。安史の乱の際に玄宗が蜀に逃亡した際、李静忠は太子に随い馬嵬駅(現在の陝西省興平)へと逃れ、太子に対し楊国忠の殺害を進言し、唐朝の復興に尽力した。太子が霊武(現在の寧夏回族自治区霊武)で即位すると、李静忠はその功績から元帥府行軍司馬に任じられ兵権を掌握、そして名も輔国と改めた。
安史の乱が終結し粛宗に随い長安に戻った李輔国は?国公に封じられる。この時期李輔国は察事庁子を設置し、官人の活動を監視するようになった。まもなく玄宗が長安に戻り太上皇となったが、玄宗復位を恐れた李輔国は玄宗に対し西内太極宮に移ることを迫り、また玄宗が親信していた高力士らを免官にしている。
宝応元年(762年)、玄宗が崩御すると、粛宗もまた病床につくこととなる。この事態に張皇后は、太子の李豫(代宗)の殺害と越王李係の擁立を画策する。これに対し李輔国は、太子豫を即位させ、張皇后と李係を殺害する。このようにして権力基盤を不動にした李輔国は、その言動に傲慢さが表れ、これが代宗の不興を買い、禁軍の一部を掌握した程元振によるクーデターにより失脚、後に刺客により殺害されている。
安史の乱の際、玄宗について都の長安を脱出した。途中に禁軍が楊国忠を殺し、楊貴妃の死を求めたときに玄宗を説得し、楊貴妃を縊死させた。その後、蜀の地の成都まで同行して斉国公に封じられた。
しかし、粛宗(李亨、元の名を李?)が即位して玄宗は上皇として長安に帰還した。上元元年(760年)に、李輔国(粛宗期の実力者)が軍隊をもって玄宗を捕らえようとした時は、李輔国を叱りとばしてその危機を救ったが、陥れられて巫州に流された。宝応元年(762年)恩赦により帰還中、朗州にて玄宗の死を知り慟哭し血を吐いて死去した。
唐代の宦官の勢威は高力士より始まったと言われる。
袁思芸がいるが、彼はとても傲慢で、士大夫に怖れられた。彼は玄宗の長安出奔後、安禄山に降伏したと言う。
長安出奔後、玄宗は追ってくる朝臣:冷遇されていた房?
張説の子、張均・張?兄弟は安禄山側についた。
郭子儀(かく しぎ、697年 -781年)は中国、唐朝に仕えた軍人・政治家。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に歴仕。安史の乱で大功を立て、以後よく異民族の侵入を防いだ。盛唐?中唐期を代表する名将。
754年天宝13年には、先年に設置した横塞軍の在所の地形が悪く耕作に向かず人口も少なかったことから、新たに永清柵の北側に築城して横塞軍と安北都護府とを移し、横塞軍は「天徳軍」と改称された。この功により、子儀はあらためて天徳軍使となって九原太守を兼ね、朔方節度右兵馬使に命じられる。このときの上司・節度使は安禄山の従弟・安思順であった。
翌天宝14年11月に安禄山が反する。安思順は以前から禄山の謀反の予兆を進言しており、中央に戻される。後任として右兵馬使であった郭子儀が朔方節度使に昇格し、さらに衛尉卿(五監の一、衛尉寺の長官(従三品)に任ぜられ、霊武郡太守を兼務し、朔方郡の兵馬を率いて安禄山討伐に向うよう詔が下されることになる。ミス人事が多い中、歴史的に適格な人物であった。情勢が苦しい時偉大な人物が出現する。てゃいえ、破格の出世であったことは間違いない。。
唐の国難を救っている。粛宗の時、安史の乱を平らげて国難を救う功を挙げ、衛尉卿、霊武郡太守、朔方節度使、関内河東副元帥に任ぜられ、汾陽王に封ぜられた。
764年、前述の安史の乱の際に賊軍征伐をともに行った僕固懐恩が宦官との対立から叛乱を起こし、太原に進攻したのを撃退している。
安史の乱の平定戦で同様に活躍した李光弼と名を斉しくし、世に「李郭」と尊称された。寛厚な人柄で皇帝から庶民にいたるまですべての人々に敬愛されたという。また、外征からの帰還の際には皇帝が自らで迎えるなど、特別な待遇を受けていたことが史料からわかる。
◎ 李 白について
李白は安史の乱では粛宗の弟の永王李鄰に従ったが、次第に永王が野心をだし、ついに叛乱軍と化した。李白も永王に檄文を贈り積極的に参加した。しかし、高適らの追討を受けて永王は敗死した。また囚われの身となり、罪に服すこととなったが、郭子儀は李白の無罪を説いて李白の助命を請うた。そのため、死罪から流罪に軽減された。郭子儀は若年のころに、李白の任侠儀で命を救われ恩義を感じていた。
李白も捕らえられ、尋陽(現江西省九江市)で数ヶ月獄に繋がれた後、夜郎(現貴州省北部)への流罪となった。李白の待遇は破格のものであった。名所旧跡を訪ねゆっくりと配流がなされており、これも、郭之義が李白の放免を実現するための策の一つであったと考えられる。配流途上の759年(乾元2年)、白帝城付近で罪を許され、もと来た道を帰還することになる。
郭子儀の後進の武将。元々、郭子儀の属官であった。李光弼は自己の能力に自信を持っていたので上官である郭子儀に対しても直言をして憚らなかった。郭子儀が李光弼の献策を採用しなかったので、李光弼は郭子儀を無能な上官であると思っていた。
実は、郭子儀は李光弼の才能を高く評価しており、その献策の妥当性も理解していたものの、ここでたやすく献策が用いられると、自尊心の強い李光弼が慢心し、さらなる能力開発を軽んじるであろうことを推測し、敢えて献策を採用していなかったのであった。
安禄山の叛乱が起こると、郭子儀は上奏して李光弼を一軍の将とするように進言した。それを知った李光弼は自身の不明を郭子儀に詫びて、ともに乱の鎮圧に全身全霊を傾けることを約した。世の人はこの2人を「李郭」と併称して名将ぶりを讃えた。