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  韓愈の生涯  

8- 4 京兆の尹


京兆の尹 長慶三(823)年《56歳〉

第八章


8.-1. 長安への道 元和一五(820)年《53歳》 


8.-2. 国子祭酒 長慶元(821)年《54歳〉 


8.-3. 吏部侍郎 長慶二(822)年《55歳〉 


8.-4. 京兆の尹 長慶三(833)年《56歳〉 


8.-5. 晩 年 長慶四(834)年《57歳》





8-5 京兆の尹

 長慶三年(823)、韓愈は五十六歳。六月、京兆尹に任ぜられる。首都長安の行政と司法を相当する京兆府の長官である。
 長安にある禁軍、つまり皇帝を直衛する軍隊の兵士たちは、軍の威光をかさに着て、さんざん悪いことをしていた。しかし韓愈は京兆尹に就任するなり、その札つきの連中を一網打尽に縛りあげ、牢屋へ送ってしまった。兵士たちは縮みあがってしい、今度の京兆尹は仏さまの骨さえ焼き棄てろと言いだした男だ。怒らせたら、どんな目にあうかわからないぞ。そう言いあって、急におとなしくなってしまったのである。
 ところが、この任命には裏に策謀があったといわれている。此の年、宰相に任じられていたのは牛僧孺であったが、その直属に、李逢吉は、権謀を好んで権勢欲が強く、穆宗との旧縁から兵部尚書として徴還されると裴度と元?の対立に乗じ、822年に両者を排斥して門下侍郎・同平章事に復した。穆宗の信任を得ていたのは李紳であったので、実際には李紳の献策によって万事が決定されていた。逢吉はおもしろくない。ちょうど検察を担当する御史台の次官、御史中丞のポストが欠員となったのを幸いに、逢吉は後任に李紳を推薦しておき、さらに韓愈を京兆尹に任じたのである。京兆尹は都の警察権を持つため、新任の際は御史台まで挨拶のため出向くのが慣例であった。それを韓愈の場合に限り、京兆尹が御史台の長官である御史大夫を兼務するという辞令を出して、御史台への出頭には及ばすという勅旨を添えた。李紳は強情で気の短い男である。強情では、韓愈もひけをとらない。二人の性格を、李逢吉は計算に入れていたらしいのである。

 はたして李紳は、新任の京兆尹が挨拶に来ないのに腹を立てていた。韓愈の方も勅旨を楯にして、出向こうとしない。ひいては同じ検察・警察の事務についても、ことごとに衝突した。二人とも相手の役所へ行くのは癪に障るので、文書で応酬するうち、争いはますます激しくなっていった。
李逢吉はすかさす皇帝に二人の不和を報告し、喧嘩両成敗を進言した。もっともな意見なので、十月、韓愈はまたもとの兵部侍郎にもどされ、李紳は江西観察使として都から出されることになった。
もちろん、二人とも不満である。転任の挨拶のため参内した時、それぞれに自分の主張を皇帝に訴えた。それを聞いて、穆宗も李逢吉の計略に気づいたらしい。翌日、また勅命があり、韓愈はあらためて吏部侍郎に、李紳は戸部侍郎に任命されたのである。

 先に潮州へ流された時、途中の層峰驛の旁にて少女一人病死し、その地に仮埋葬した。したがって、国子祭酒として都へ召還される途中、韓愈はまた層峰を通り、娘の塚の前で哭して去ったが、京兆尹となってから、乳母を派遣し、遺骨を郷里の填墓に改葬させた。層峰の塚を掘り起したのは李紳と喧嘩の最中の十月初め、郷里での埋葬は吏部侍郎に舞いもどった十一月のことである。層峰へ行く人々に、彼は「祭女?女文」(女【むすめ】、女?を祭る文)(韓文二三)一篇を持たせた。それには辛かった往時の旅をしのび、次のように結んでいる。
 ……汝が目、汝が面は、吾が眼の傍らに在り。汝が心汝が意は宛宛として忘るべけんや。
歳の吉【よきひ】に逢いて、汝を先墓に致す。
驚く無く、恐るる無く、安らかに以って路に即【つ】け。
飲食の芳甘、棺輿の華好なるをもて、その丘に帰すれば、万古是れ保たん。
尚【ねが】わくは饗【う】けよ。


(823)
1.示爽
2.和李相公攝事南郊覽物興懷呈一二知舊【案:李相公,逢吉也。】
3.送諸葛覺往隨州讀書【案:李繁時為隨州刺史,宰相泌之子也。】
4.枯樹
5.送鄭尚書【案:權。】赴南海
6.早春呈水部張十八員外,二首之一
7.早春呈水部張十八員外,二首之二
8.奉和杜相公太清宮紀事,陳誠上李相公十六韻【案:杜元穎也。太清宮,玄元皇帝廟。】
9.  祭女?女文

 


李逢吉  758〜835
 隴西成紀の人。字は虚舟。秦王十八学士の李玄道の曾孫。貞元年間(785〜805)の進士。 侍御史・太子侍読・中書舎人などを歴任して元和11年(816)に門下侍郎・同平章事とされたが、淮西討伐に反対したことで令狐楚らと共に朝廷を出されて節度使を歴任した。 権謀を好んで権勢欲が強く、穆宗との旧縁から兵部尚書として徴還されると裴度と元?の対立に乗じ、822年に両者を排斥して門下侍郎・同平章事に復した。 王守澄らと結んで朝政を壟断し、826年に文宗が即位して裴度が復帰すると山南東道節度使に出されたが、甥の李訓の秉政によって左僕射とされ、司徒を以て致仕した。後に甘露の変に連坐して殺された。


祭女?女文
維年月日。阿?阿八、使汝?以芬・時果・庶羞之奠、祭于第四小娘子?子之靈。
嗚呼、昔汝疾極、値吾南逐。蒼黄分散、使女驚憂。我視汝顔、心知死隔。汝視我面、悲不能啼。我既南行、家亦随譴。扶汝上輿、走朝至暮。天雪氷寒、傷汝羸肌。撼頓險阻、不得少息。不能食飮、又使渇飢。死于窮山、實非其命。不免水火、父母之罪。使汝至此、豈不縁我
草葬路隅、棺非其棺。既?遂行、誰守誰瞻。魂單骨寒、無所託依。人誰不死。於汝即冤。我歸自南、乃臨哭汝。汝目汝面、在吾眼傍。汝心汝意、宛宛可忘。
逢歳之吉、致汝先墓。無驚無恐、安以即路。飮食芳甘、棺輿華好、歸于其丘、萬古是保。尚饗。

女【むすめ】 ?女【だじょ)を祭る文
維【こ】れ年月日。阿?阿八、汝が?【だい】をして清酒、時果、庶羞の奠を以って、第四小娘子なる?子の霊を祭らしむ。
嗚呼、昔汝の疾極まれるとき、吾が南に逐わるるに値う。蒼黄分散し、女をして驚き憂えしめり。我汝の顔を視て、心に死の隔てんことを知れり。汝我が面を視て、悲しむも啼く能わず。我既に南行し、家も亦た譴【けん】に随う。汝を扶けて輿に上せ、走ること朝より暮れに至る。天雪ふり、氷寒く、汝が羸【よわ】き肌を傷ましむ。険阻に撼頓するも、少しも息【いこ】うを得ず。食飲する能わず、また渇き飢えしむ。
窮山に死せるは、実にその命に非ず。水火を免れざるは父母の罪なり。汝をして此に至らしむるは、豈我に縁【よ】らざらんや。
路隅に草葬すれば、棺はその棺に非ず。既に?【うず】めて遂に行けば、誰か守り誰か瞻【み】ん。魂は単り骨は寒く、託依するところ無し。人誰か死せざらん。汝に於けるは即ち冤なり。
我南より帰り、乃ち臨みて汝を哭す。汝が目、汝が面は、吾が眼の傍らに在り。汝が心汝が意は宛宛として忘るべけんや。
歳の吉【よきひ】に逢いて、汝を先墓に致す。驚く無く、恐るる無く、安らかに以って路に即【つ】け。飲食の芳甘、棺輿の華好なるをもて、その丘に帰すれば、万古是れ保たん。尚(ねが)わくは饗(う)けよ。
 
年月日。お父さんはそなたの乳母に、お神酒と季節の果物と御馳走をお供えに持たせて、四番目の娘のそなたの霊を祭らせる。
 ああ、昔そなたの病気が危篤に陥ったとき、私が南方の潮州に流罪になり、慌てふためいて家族と別れることになり、そなたを驚かせ悲しませたのだった。私はそなたの顔を視て、心の中で、死の遠くないことを感じていた。そなたも私の顔を視て、悲しんでいたけれど泣く力も無かった。
 私が南に発つと、家族もまた咎めによって都を出なければならなくなった。そなたを輿に乗せて、朝から晩まで道を急いだ。空からは雪が降り、地面は凍って冷たく、そなたの衰弱した体を痛めつける。険しい道に輿が揺れ倒れても休むいとまなく飲食すらできず、渇き飢えた。
 奥深い山の中で死んでしまったのはそなたの運命ではない、危難を免れなかったのは、すべて親の罪なのだ。そなたを死に至らしめたのは、ほかならぬ私のせいだったのだ。
 道端に仮の埋葬をしたので、ひつぎもそなたにふさわしいものではなかった。埋葬するとすぐさま家族は旅を続けたので、誰もそなたの墓を見まもることができず、そなたの魂はただひとり、体は凍え頼る人もなかった。人は誰も死ぬのだけれど、そなたの死はそなたにとって理不尽なものだった。
私が南から帰り、墓に参ってそなたを弔った。そなたの目そなたの顔が私の目の前に浮んでくる。そなたの心そなたの思いは私の中に渦巻いて忘れることなどとてもできない。
佳い日を選んでそなたを先祖の墓に納めた。もう恐れることなく安らかに黄泉の旅路につきなさい。おいしい食べ物と清らかな水、美しいひつぎでお墓に葬りました。永遠にそなたを守ってくれるでしょう。どうかお父さんのこの祈りを受けてください。







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