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  韓愈の生涯  

1-3 兄 の 死




1-3 兄 の 死

 愈の少年時代については、後年、愈自身が追憶として書き残した文章が幾つかあるのだが(たとえば韓文丁感二鳥賦、同・復志賦、二三・祭鄭夫人文、同・祭十二郎文)、内容はほぼ一致している。それに従えば、大暦九年(774)、愈が七歳の時、「兄は王官に宦として」、家族を引きつれ、「洛を去って秦に居る」こととなった。ここから見ると、会は一族とともに、洛陽で役人生活をしていたらしい。それが「秦に居る」とは、長安へ転任したことを意味するが、あとの記録と考えあわせれば、皇帝の言葉を記録することを職務とする起居舎人に任命されたためであろう。
 起居舎人は従六品上の位階に相当し、高官とはいえないが、天子の側近に勤務する職であるため、場合によっては将来の出世が期待できる。すでに38歳になった会としては、早い出世ではないが、不足のある地位でもなかったであろう。しかも、披には有力なバ″タがあった。宰相として、当時随一の権力を誇っていた元載か、会の才能を認めてくれたのである。
 政治手腕のある権力家の常として、元載もまた、有能な若手官僚を物色しては世話をしてやり、自分の派閥を拡大することにつとめていた。会もその網にかかったわけであるが、これは会の方にとっても、もちろん不利なことではない。今を時めく宰相に目をかけてもらえば、将来の出世は約束されたようなものである。彼は平素、盧東美ら三人の親友とともに、皇帝の未来の補佐役と自任していたため、世間からは古代の賢相の名をとって「四?」と呼ばれていたという。たしかに、将来の宰相の地位を望むことも夢とはいえない環境にはあったわけだが、その一方、愈にいちじるしい大言壮語の性癖は、兄の会にも共通していたように見うけられる。
 そのころから韓愈は、「書を読み文を著はす」勉強を始めた。つまり読書人の仲間に入り、行く行くは兄と同様、官界で名を成す道を歩き始めたのである。長安に住み、兄の出世を目にしたのが一つの刺激になったことはたしかであろうか、当時の読書人の子弟として、七歳のころから勉強を始めるのは、まず平均的な年齢であり、格別に早くもなければ、遅くもない。
 ところが、突然に破局が訪れた。大暦十二年(777)、愈が十歳になった三月、宰相の元載が失脚し、殺されたのである。載は時の皇帝である代宗の信任があつかったが、あまりに独裁的な権力を行使したため、皇帝の権威に不安を感じ始めた代宗が、皇后の弟と共謀して載を逮捕し、自殺を命じたのであった。そして『資治通鑑』によれば、翌四月、載の一党と見なされた吏部侍郎楊炎・諌議大夫韓耐・俳県・起居舎人韓会等が、すべて左遷の処分を受けた。代宗はこれらの人々をも死刑にするつもりであったが、熱心にとりなす人があったので、左遷ですんだのだという。
 このような事情かあっての左遷だから、実質的には流罪である。ただ形式上、どこか遠い土地の地方官庁の属官に任する旨の辞今か出るにすぎない。そして会に与えられた任地は、当時では未開野蛮の地と思われていた嶺南の曲江という所で、後に、韓愈が貶謫された陽山とは東に一山越えたというあたりである。その任地での肩書が記録されていないのは、どうせ職務を遂行するほどのこともない閑職に追いやられたのだから、書くまでもなかったのであろう。
 会は家族を率いて、はるかな配所へと赴いた。このような場合、単身で配所へ行くこともあったが、罪が重いときには、家族も残留を許されす、追い立てられることもある。代宗が死刑にしたいと思ったほどだから、たぶん重罪の扱いになり、家族も都から追放されたのであろう。そうなれば、全員が会に従って、配所へ出かけるほかはない。ただし、会の場合には、かりに家族の残留が認められたとしても、残っていられたかどうか。残留する以上は、前に述べたとおり、家族の生計を維持するに足るほどの農地を持っていなければならない。それだけの余裕は、どうも韓氏一族にはなかったように見うけられるのである。
 曲江は現在の広東省の北部にある。長安から南下すれば、湖南・江西省と広東省とを隔てる大山脈があって、五つの峠があり、五嶺と総称される。それを越えると、いわゆる嶺南の地になるわけだが、そこへ踏みこんで少し行ったあたりにある町が、曲江なのである。五嶺の北と栴とでは気候・風土か違い、嶺南は一体に高温多湿のため、北方に住みなれた人々が移住すると、とかく病気にかかりやすい。
 その風上のためと、長旅の疲れと、そしておそらくは精神的な打撃が加わったのであろう、曲江に到着した翌年、大暦十三年(778)に会は死んだ。享年四十二である。会には男子がなく、弟の介の第二子老成を養子としていた。その介もすでに死んでおり、介の長子も早世したらしい。だから曲江に残された韓氏の直系の身うちは(そのほかに、さきほどの乳母李氏のような人物もいるわけで、いわば家人・郎党にあたる人々も、ある程度はいたはすであるが)、会の夫人鄭氏と、11歳になった愈と、それよりもまだ幼い老成の三人きりであった。鄭氏は常にこの幼い叔父と甥を抱きよせては、「韓氏の両世、惟此れのみ」(韓文二三・祭十二郎文)と語っていた。
76-#1 《八讀巻六11 祭十二郎文》-1 韓愈(韓退之) 803年貞元19年 38歳<1452> U【18分割】 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6244

 その「韓氏両世」の孤児を連れて、鄭氏は夫の遺体を「中原に返葬」《昌黎先生集/卷23-12祭鄭夫人文》した。
当時の慣習として、死者の遺体は、必ず郷里にある先祖代々の冪地に葬られねばならぬ。たとえば一人の地方官が、郷里を遠く離れた土地で死んだ場合にも、遺体は郷里まで運ばなければならないのであって、これは遺族たる者のつとめである。ただし、火葬の習慣がないため、遺体を棺におさめたまま運ぶので、当然に費用がかかる。さしあたり費用がない場合には、しばらく近所の寺などにあずかってもらい、金の工面に奔走するわけである。奔走しても金ができるとは限らないので、寺院には往々、あずけ放しで引き取りてのない棺が幾つも安置されたままになることがある。それをたねにした怪談も、少なからず語られている。
 杜甫は、よく知られているように、放浪の旅のうちに死んだ。彼の家の墓地は洛陽の東方、偃師の郊外にある。洞庭湖のあたりで死んだ杜甫の遺体を運ぶ費用は、貧窮を生涯の友とした彼に、あるはすがない。彼の棺は仮に岳州(現在の湖北省岳陽)に安置され、息子の宗武は、偃師までの旅費の調達に奔走した。杜宗武という人物は、業績もなく、伝記も明らかではないので、杜甫の息子という点を除けば、無名の貧士である。彼の後半生は、どうやら亡父の棺を岳州から優師まで運ぶことに費消されてしまったらしいのだが、それでも、実現は不可能であった。宗武は臨終に際し、遺言として、父の棺を運ぶことを息子の嗣業に命じている。嗣業もまた無名の士であったが、披の代になって、ようやく金の工面がつき、杜甫の遺体は本来の墳墓の地に眠ることができたのであった。
 このような例と比較すれば、会が曲江で死んだ後、すぐに遺族の手で北へと運ばれ、南陽にあった先祖代々の墓に葬ってもらえたのは、しあわせだったといえよう。しかし、遺族がどれほど熱意を持っても、経済的な裏づけがなければどうにもならないことは、杜宗武の例によっても明らかである。その裏づけがどのようにして得られたかを知るべき資料は、一つも残っていない。
 会は罪を得て、曲江に貶謫された。そのような人物が配所で死んだところで、朝廷の側からすれば自業自得のようなものであり、同情の余地はない。それが地方官庁にも反映するはずだから、曲江のあたりでも、少なくとも表むきに会の遺族へ経済的な援助の手をさしのべようとする人は、なかったであろう。会に理財の才があって、生前にかなりの蓄積を持っていたとしても(これは、多少は可能性のある推洲である。会が元載の一味として指名され、左遷されたことは、逆にいえば元載の生前、その派閥の中で相当の大物であったことを意味する。とすれば、元載に接近したいと望む人々が会を仲介者に頼み、相応のつけとどけをして、会の生計を豊かにしていたと考えることもできる)、その財産のどこまでが、配所まで運搬できたか。
 あれこれ考えあわせると、会の夫人鄭氏が、しっかり者の女性だったという結論が出てくる。遺族といっても、十一歳の愈などに、資金集めができるわけはない。一家の会計をあずかる家令のごとき人物がいて、それが忠実で有能だったとしても、この大変に際して、その人物を使いこなすのは、やはり夫人の手腕というべきであろう。よほど大きな家ならば別だが、夫人が涙に明け暮れて、亡夫の供養に専心しているばかりでは、他人が動いてくれるはずはないのである。
 表むき援助してくれる人がないのは当然であるが、資金を集める道が、全くないわけでもなかった。第一に、元載の一派は大きな勢力を持っていたので、曲江の周辺にも、会と同じ派閥の(ただし、会よりは小物になるが)地方官がいたであろう。これは会に同情してくれる可能性がある。第二に、元載の一派ではなくとも、役人たちには、明日はわが身という思いかある。ことに、元載は死んでも、その一派がいずれ朝廷で勢力を盛り返さないとも限らない。今は落ち目の元載派を冷たくあしらうのが得策ともいえないのであって、この際、いくらかでも恩を売っておくことが、やがては自身のためになるかもしれなかった。そこへ内々に援助を頼みこめば、いくらかの合力は得られたのであろう。天涯孤独、放浪の末に死んだ杜甫の場合とは、状況が違うのである。
 これらの可能性を求めて鄭氏がどのように奔走したかは、前に述べたとおり、一切記録が残されていない。しかし、会が死んだその年のうちに鄭氏が北への旅を開始し、夫の柩を守り、愈・老成の二人の孤児を連れ、その上家の子郎党まで随えて、南陽の墓地に滞おりなく埋葬をすませたのは、文字で書けばそれだけのことであるが、一人の未亡人にとって、ほんとうは手にあまる大事業のはずであった。それを遂行した鄭氏を男まさりのしっかり者と推定しても、まず誤りはあるまい。
 しかし、その鄭氏も、南陽の郷里で、遺児たちの養育に専心することはできなかった。愈の回順によれば、
  ……
既克返葬,遭時艱難。百口偕行,避地江濆。
既に受葬を克へたるも、時の艱難なるに遭ひ、百口偕に行き、地を江濆に避く《昌黎先生集/卷23-12祭鄭夫人文》
祭鄭夫人文
維年月日,愈謹於逆旅備時羞之奠,再拜頓首,敢昭祭於六嫂?陽鄭氏夫人之靈。
嗚呼!天禍我家,降集百殃。我生不辰,三?而孤。蒙幼未知,鞠我者兄。在死
而生,實維嫂恩。未亂一年,兄宦王官。提攜負任,去洛居秦。念寒而衣,念饑
而饗。疾疹水火,無災及身。劬勞閔閔,保此愚庸。年方及紀,薦及凶屯。兄罹
讒口,承命遠遷。窮荒海隅,夭閼百年。萬裏故?,幼孤在前。相顧不歸,泣血
號天。微嫂之力,化為夷蠻。水浮陸走,丹翩然。至誠感神,返葬中原。既克返
葬,遭時艱難。百口偕行,避地江濆。春秋霜露,薦敬蘋?。以享韓氏之祖考,
曰此韓氏之門。視餘猶子,誨化諄諄。爰來京師,年在成人。?貢於王,名乃有
聞。念茲頓頑,非訓曷因。感傷懷歸,隕涕熏心。苟容躁進,不顧其躬。祿仕而
還,以為家榮。奔走乞假,東西北南。孰雲此來,乃睹靈車。有誌弗及,長負殷
勤。嗚呼哀哉!昔在韶州之行,受命於元兄曰:「爾幼養於嫂,喪服必以期。」
今其敢忘?天實臨之。嗚呼哀哉,日月有時。歸合塋封,終天永辭。?而複蘇,
伏惟尚饗。
  ……
嗟日月其幾何兮,攜孤?而北旋。?中原之有事兮,將就食於江之南。
嗟日月其れ幾何ぞや、孤?を携へて北に旋る。中原の事有るに値ひ、将に食に江の南に就  かんとす《昌黎先生集/卷1-1.2復誌賦》
複誌賦(並序)
愈既從隴西公平?州,其明年七月,有負薪之疾,退休於居,作《複誌賦》。其辭曰:
居悒悒之無解兮,獨長思而永歎。豈朝食之不飽兮,寧冬裘之不完。
昔餘之既有知兮,誠坎軻而艱難。當?行之未複兮,從伯氏以南遷。
?大江之驚波兮,過洞庭之漫漫。至曲江而乃息兮,逾南紀之連山。
嗟日月其幾何兮,攜孤?而北旋。?中原之有事兮,將就食於江之南。
始專專於講習兮,非古訓為無所用其心。窺前靈之逸跡兮,超孤舉而幽尋。
既識路又疾驅兮,孰知餘力之不任。考古人之所佩兮,?時俗之所服。
忽忘身之不肖兮,謂青紫其可拾。自知者為明兮,故吾之所以為惑。
擇吉日餘西征兮,亦既造夫京師。君之門不可徑而入兮,遂從試於有司。
惟名利之都府兮,羌?人之所馳。競乘時而附勢兮,紛變化其難推。
全純愚以靖處兮,將與彼而異宜。欲奔走以及事兮,顧初心而自非。
朝騁?乎書林兮,夕?翔乎藝苑。諒卻?以圖前兮,不浸近而逾遠。
哀白日之不與吾謀兮,至今十年其猶初。豈不登名於一科兮,曾不補其遺餘。
進既不獲其誌願兮,退將遁而窮居。排國門而東出兮,慨餘行之舒舒。
時憑高以回顧兮,涕泣下之交如。?洛師而悵望兮,聊浮遊以躊?。
假大龜以視兆兮,求幽貞之所廬。甘潛伏以老死兮,不顯著其名譽。
非夫子之洵美兮,吾何為乎浚之都。小人之懷惠兮,猶知獻其至愚。
固餘異於牛馬兮,寧止乎飲水而求芻。伏門下而默默兮,竟?年以康?。
時乘間以獲進兮,顏垂歡而愉愉。仰盛コ以安窮兮,又何忠之能輸。
昔餘之約吾心兮,誰無施而有獲。疾貪佞之?濁兮K曰吾其既勞而後食。
懲此誌之不修兮,愛此言之不可忘。情?悵以自失兮,心無歸之茫茫。
苟不?得其如斯兮,孰與不食而高翔。抱關之阨陋兮,有肆誌之揚揚。
伊尹之樂於?畝兮,焉富貴之能當。恐誓言之不固兮,斯自訟以成章。
往者不可複兮,冀來今之可望。

 要するに、南陽へ帰った後、中原の地方に「事」が起った。そして「類錐」の時を迎えたため、韓氏の一族は、すべて江南へと移住したと言うのである。「百口」とは百人の意昧であるが、もちろん正確な数字ではなく、「大勢の一族」というくらいに解釈しておけばよい。それにしても百とは大きな数宇だが、これも家の子郎党まで勘定に入れたと見ればよかろう。
 「事」とは、たぶん大暦十四年(779)に発生した淮西節度使募下の反乱事件、あるいはそれに附随した治安の乱れをさすのであろう。また、この頃、北方には異民族の侵入があり、南陽に直接の影響はなかったと思われるが、安禄山の乱の前例もあることで、人々が不安を抱いたとしても、ふしぎはない。だが、それよりも大きな理由は、愈が「食に江の南に就く」と言っているように、南陽では一家の生計が立てにくくなり、よそへ移住しなければならなくなったことであった。これは農民などによく見られる現象で、飢饉などのとき、多数の農民が農地を捨てて流ガと化し、食糧のある土地へと移動して行く。
しかし、韓氏一族は流呪ではない。痩せてもかれても士の身分にある家で、それが先祖の地を見捨てるのは、やや異常である。ここでも杜甫をひきあいに出すが、杜甫は安禄山の乱の後、長安と洛陽の中間のあたりで地方宮をしていたところ、大飢饉に見舞われ、食を求めるために、とうとう官職を捨てて、現在の甘粛省の地方へと一家を連れて移住した。しかし、十分に生計の立つ地が得られなかったので、ここから彼の晩年の放浪生活が始まる。
 前にも述べたとおり、役人となるほどの人は、主として郷里に、大なり小なり農地を持っているのが通例であった。それが小さかったとしても、役人としてかなりの身分になれば、荘園を手に入れることができる。杜甫と同時代の王維が終南山中にいとなんだ?川荘は、「鹿柴」「竹里館」「欒家瀬」などのすぐれた自然詩で有名だが、これも基本的には荘園の性格を持つものだったであろう。少なくとも、当今の日本で考える「別荘」とは違った隠遁の場所そのものである。
 杜甫も、王維には、相当影響を受けていて、成都浣花渓に、草堂柴門、四阿、川べりの欄干、等々、王維の「?川荘」をうかがわせる詩を多く詠っている。
そこで韓氏一族の場合に立ちかえって見ると、いくら中原に「事」があったとはいえ、先祖伝来の地を去って他郷に赴く決心をしたとは、なみなみならぬことであった。ここから想像すると、韓氏が南陽に持っていた農地は、ごく小さなものだったのではないか。未亡人と孤児二人が、多少の使用人とともに、つつましく生活する限りは、どうやら飢えることもあるまいといった程度なので、社会的または経済的に不安定な状況が発生すれば、ひとたまりもなかったのであろう。
 それにしても、なぜ江南へ行ったのか、江南のどこへ行ったのかという疑問が残る。旧注は一致して、行った先は江南の宜州(現在の安徽省宜城)であり、そこに韓氏の別業があったとする。別業とは日本語に訳せば別荘だが、さきほどの網川荘と同様、郷里のほかにいとなむ荘園を意味する。
宜州とは、韓愈の晩年の作に「爽に示す」という詩があり、都にいた韓愈のもとヘー族の爽という人(これが何者で、愈の何にあたるのか、旧注の間にも諸説があるが、韓氏の一族であることはまちがいがない)が宜州から来たことが詩中から読みとれるので、それが根拠となったのであろう。根拠としてはやや薄弱だが、これを否定できるほどの資料もない。
 少なくとも鄭氏が一家をあげて江南へ移住を決意したとき、行く先はきまっていた。韓氏一族が江南を放浪した形跡はどこにも見えないし、第一、江南は肥沃の地であるにしても、働き手のない一家が放浪したのでは、野たれ死にが目に見えているので、移住の決心もつかないのが道理である。
江南へ行けば生計が立つという、確信ではなくても、希望的観測を成立させる条件がなければならない。そのためには別業の存在か、不可欠である。
 韓氏の一族は、さほどの高官ではないにしても、代々にわたって役人を出した。そのうちの誰かが江南に土地を求め、別業としたとしても、おかしくはない。当時の高級官僚たちで、多少とも理財に心がけのある人は、このような方法で一家の生計を豊かにしようとしたからである。この場合、韓氏一族といっても、仲卿−会という一本の血統だけを考える必要はない。大家族制が一般的だった当時においては、南陽の韓氏という大きな一族が、共同で別業を所有していた可能性も少なくないのである。これは一族の間の一種の相互扶助組織であり、鄭氏のような「母子家庭」が生じたとき、国家の福祉政策はもちろんなかったので、一族の間で扶助しなければならないわけであるが、金銭を贈るかわりに、平素は不在地主になっている別業へ送りこみ、そこを管理させることによって、間接的な援助をしたことになるのであった。
 そこで、その別業が宜州にあったとすれば、文学者としての愈は、幸福な出発をしたといえよう。
唐に先だつ南北朝時代、異民族に支配された北朝に対して、南朝が支配した江南の地には、文化の花か咲いた。文学においても、『文選』に代表される華麗な作晶が、江南に広まっていたのである。 宜州はその中心地の一つであった。ここは南朝の時代、有名な詩人の謝?が太守として在任した地であり、唐になってからは、謝?を景慕していた李白が、放浪生活の根拠地の一つとして、多くの詩を残した土地でもある。愈の時代にも、謝?や李白の作品は、宜州の周辺に多く残されていたであろう。文学作品が印刷されて人々に読まれるようになった後世から見れば、想像しにくいことであろうが、土地と文学者ないし文学作品との結びつきは強かった。宜州の町の飲み屋には、李白が酔筆をふるった詩がまだ壁に残っていたであろうし、謝?の詩集を手に入れることは困難であったが、その一首か二首を暗誦できる故老が、あるいは生きていたかもしれないのである。
 北方に生まれ、北朝の臣下の子孫である愈は、こうして中国の文化の伝統に包まれた生活を送ることとなった。



芍藥歌
丈人庭中開好花,更無凡木爭春華。
翠莖紅蕊天力與,此恩不屬?鍾家。
?馨熟美鮮香起,似笑無言習君子。
霜刀翦汝天女勞,何事低頭學桃李。
嬌痴婢子無靈性,競挽春衫來比並。
欲將雙?一晞紅,坂x磨遍青銅鏡。
一尊春酒甘若飴,丈人此樂無人知。
花前醉倒歌者誰,楚狂小子韓退之。

(含異文):            
嬌痴婢子無靈性【嬌痴婢子無性靈】,競挽春衫來比並。
欲將雙?一晞紅【欲將雙?一稀紅】,坂x磨遍青銅鏡。
一尊春酒甘若飴,丈人此樂無人知。
花前醉倒歌者誰,楚狂小子韓退之。

(芍藥の歌)
丈人 庭中 好花開く,更に凡木 春華を爭う無し。
翠莖 紅蕊 天力與う,此の恩 ?鍾の家に屬せず。
?馨は熟美し 鮮香は起り,笑うに似て無言にして君子に習う。
霜刀 汝を翦って天女勞し,何事ぞ頭を低れて 桃李を學ぶ。
嬌痴の婢子 靈性無く,競って春衫を挽いて來って比並す。
雙?を將って一たび紅を晞【かわ】さんと欲し,坂x 磨いて遍し 青銅鏡。
一尊の春酒 甘きこと飴の若し,丈人 此の樂み 人 知る無し。
花前 醉倒 歌う者は誰ぞ,楚狂 小子 韓退之。

(庭に咲きほこる芍薬を見て、その感を詠う。)―#1
年長者の王司馬の庭中には一種の好花が咲いている、ほかにも普通の平凡な花木が咲いてはいるが、春華を競うというほどの物ではなく、芍薬が庭の主役を独占している。
その芍薬は翠莖紅蕊、色彩の配合は、きわめて見事で、取りも直さず天から与えられた力が強いものであるが、しかし天からの恩というのは、絶えず音楽を演奏している富貴の家にだけ私して、この名花を属せしめるということはなく、風流で花を愛でる丈人であるからこそ、特にここに属させたのである。
芍薬の花の香りは新鮮で、成熟し、盛んであるし、その姿は、笑うがごとくでありながら凛として無言であり、全く君子をまねているようである。
天女は、霜刀でもって汝を剪り、やがて、天上界に携えて帰ろうと思っているのに、どうして汝は、首をうなだれて、桃李と同じように恥らうようなそぶりをするのだろうか。

なまめかしくして痴態をおびている侍婢どもは、もとより、一点の霊性もないのに、依然として人間離れをしていないところから、競って紅の春衣を挽いてはなのいろにひかくしする。
そうしてから、その花に両頬を頬ずりして、露に濡れたといって、その紅の痕を乾かそうとして、緑の窓辺に移動して行くと、そこには青銅の鏡が磨きをかけられて、光明瑩朗としている。
一杯の大盃に春の新酒を灌げば、その甘きことは飴のようであり、留賞して日を送るのは、まことに愉快極まることであるが、丈人のこの楽しみをよく知っている人はいない。
この花の前に酔いつぶれて、歌を作って、いささか丈人のために気焔をあげるのは、誰かと云えば、論語に言う「楚狂接輿」に似ている小儒者の“韓退之”と申すのは私です。







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