紀頌之の韓愈詩文研究のサイト


  韓愈の生涯  

6-4- (2) 論佛骨表について 




韓愈 論佛骨表について






《路傍?〔元和十四年出為潮州作〕》―#1 嶺南行(1)-#1韓愈(韓退之) U中唐詩 <902>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3494韓愈詩-228


《論佛骨表》により左遷、三度目の『嶺南行』
長安のずっと西に鳳翔(安史の乱の際、粛宗が行在所を設置、杜甫が長安で安史軍に軟禁されていたところから脱出して駆けつけたところ)があり、そこの法門寺という寺に釈尊の指の骨と伝えられるものがあって、普段は大切にしまわれているのだが、三十年ごとに開帳があり、誰でも拝むことができる。

その年は天下太平、五穀豊穣だと伝えられていたが、元和十四年(819)がその開帳の年にあたった。正月、憲宗は法門寺へ勅使を送って仏骨を迎えさせ、宮中で三日間供養してから長安の諸寺に回すことを命じ、市民一般に礼拝を許した。人々は争って仏骨を拝み、後生を厭い、喜捨をしすぎて倒産する老さえ出るしまつだった。

孔孟の「道」を守る韓愈がこれを苦々しく見ていたことは、いうまでもない。これというのも皇帝が仏教を信仰するので、万民がそれにならうのだ。そう思った韓愈は、「仏骨を論ずる表」という意見書を憲宗皇帝にささげ、仏舎利を捨てて仏教の信仰を停止せよと論じた。

その理由は、二つの点に要約することができる。一つは、上古の帝王たち、三皇五帝はみな百歳前後の長命だったのに(神話時代なのでみな長命なことになっているのだが、韓愈の時代には史実と信ぜられていた)、仏教が渡来してからは、歴代の皇帝のなかにはあつく仏を信じた人があったにもかかわらず、すべて短命であり、非業の最期をとげた人さえいる。仏を信じても、福が授かるわけではないのだ。第二に、釈迦とはもともと夷狄の人であって、彼が生前に中国を訪れたとしたら、かりに歓迎したとしても、夷狄が中国へ来たときの礼法以上には出ないであろう。ましてその骨など、あがめるには及ばぬものであるから、すみやかに焼きすてていただきたい。
『論佛骨表』は18回に分割して掲載している。
《論佛骨表》(1)元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <884>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3404韓愈詩-227-1


これを読んだ憲宗は激怒して、韓愈の上奏文を宰相たちに見せたうえ、死刑にせよと命じた。宰相の裴度、崔群たちがとりなすと、憲宗は、仏教が渡来してからの皇帝は全部短命だったとは、臣下たる者の口にすべき言葉ではないと言ったものだ。憲宗は不老不死の薬の擒になっていた皇帝である。仏教を信仰した皇帝はみな短命だなどと不遜な物言いに対し、また、作文力のうまさに、気分を害したのである。本気で韓愈を死刑にしたがっていたわけではない、たてまえであって、裴度たちのとりなしを受け入れた形で韓愈の死刑を免じ、かわりに潮州へ流すこととしたのだ。形式上は潮州刺史に任ずる旨の辞令を出し、都から追ったのである。潮州は今の広東省に属し、福建省との境に近い海岸の町で、当時においては未開野蛮の土地である。
その辞令が出たのは元和十四年正月十四日のことで、実質上は流罪なのだから、とりあっかいも罪人なみとなることは、やむを得ない。韓愈の屋敷へいきなり役人が来て、その場で出発を催促するのであった。そして韓愈が出て行ったあとで、家族も長安から追放の処分を受け、韓愈のあとを追って旅に出た。十二歳になる四女の?はたまたま病中であったが、これも病床に残ることは許されず、ともに旅へと出たのであった(この娘はついに旅の途中で死んでしまい、韓愈の一行はその遺体を道はたに仮埋葬して、旅を続ける)。杜甫が『三吏三別』、秦州紀行、同谷紀行、成都紀行と綴ったように、韓愈は詠っている。

ここでは『嶺南行』として整理、カテゴリーとする
(1)『路傍?』〔元和十四年出為潮州作〕
(2)『過南陽』〔元和十四年出為潮州作〕
(3)『瀧吏』〔元和十四年出為潮州作〕
・・・・・。

年: 元和十四年  819年  52?
卷別: 卷三四一  文體: 五言古詩
詩題:路傍?〔元和十四年出為潮州作。〕
及地點:  ?水駅・藍田關    


路傍?〔元和十四年出為潮州作。〕 #1
(路傍の道標として堆く盛り土をしている)#1
堆堆路傍?,一雙復一隻。
路傍の道標として堆く盛り土をしているのが「?」である。一対になっているのが十里で、一隻は五里であって、五里ごとにつづいているのである。
迎我出秦關,送我入楚澤。
この度の長安を出て?水の関所を抜けたら五里塚が迎えてくれ、見送ってくれると、秦嶺の山を越えて雲霧澤に続く平野にはいるのである。
千以高山遮,萬以遠水隔。
振り返ってみればもう千個の道標塚も過ぎ、これを高山まで設置することで遮断されたように感じられ、、万個過ぎたら、遠水さえも隔離されたように感じられるのである。
#2
吾君勤聽治,照與日月敵。
臣愚幸可哀,臣罪庶可釋。
何當迎送歸,?路高??。

路傍の?【こう】〔案:元和十四年出為潮州作。〕
堆堆【たいたい】たり路傍の?,一雙復た一隻【いっそう】。
我を迎えて秦關を出で,我を送って楚の澤に入る。
千は高山を以って遮られ,萬は遠水を以って隔つ。

吾が君 勤めて治を聽く,照は與日と月と敵す。
臣の愚 幸いに哀れむ可く,臣の罪 庶わくば釋【ゆる】す可し。
何ぞ當に歸るを迎送し,路に?【よ】って高く??たらむ。



『路傍?』 現代語訳と訳註
(本文)
路傍?〔元和十四年出為潮州作。〕 #1
堆堆路傍?,一雙復一隻。
迎我出秦關,送我入楚澤。
千以高山遮,萬以遠水隔。

(下し文)
路傍の?【こう】〔案:元和十四年出為潮州作。〕
堆堆【たいたい】たり路傍の?,一雙復た一隻【いっそう】。
我を迎えて秦關を出で,我を送って楚の澤に入る。
千は高山を以って遮られ,萬は遠水を以って隔つ。

(現代語訳)
(路傍の道標として堆く盛り土をしている)#1
路傍の道標として堆く盛り土をしているのが「?」である。一対になっているのが十里で、一隻は五里であって、五里ごとにつづいているのである。
この度の長安を出て?水の関所を抜けたら五里塚が迎えてくれ、見送ってくれると、秦嶺の山を越えて雲霧澤に続く平野にはいるのである。
振り返ってみればもう千個の道標塚も過ぎ、これを高山まで設置することで遮断されたように感じられ、、万個過ぎたら、遠水さえも隔離されたように感じられるのである。


(訳注)
路傍?〔元和十四年出為潮州作。〕 #1
(路傍の道標として堆く盛り土をしている)
「?」里塚。土を固めて台を作り、それで道程里をあらわした。十里に「雙?」、五里に「隻?」とされた。唐時代に駅伝制が確立され、駅と亭に馬繋ぎ、旅籠が設置された。

堆堆 路傍 ? ,一雙 復一隻 。
路傍の道標として堆く盛り土をしているのが「?」である。一対になっているのが十里で、一隻は五里であって、五里ごとにつづいているのである。
「堆堆」うず高く盛り上がっている有様。

迎我 出 秦關 ,送我 入 楚澤 。
この度の長安を出て?水の関所を抜けたら五里塚が迎えてくれ、見送ってくれると、秦嶺の山を越えて雲霧澤に続く平野にはいるのである。
「秦關」長安付近の關津地名で、長安東10里先に?水を渡る?橋前に関所が設けられた。。
「楚澤」雲夢澤:古代中国で湖北省の武漢一帯にあったとされる大湿地。のち、長江と漢水が沖積して平原となった。武漢付近に散在する湖沼はその跡。

千以 高山 遮 ,萬以 遠水 隔 。
振り返ってみればもう千個の道標塚も過ぎ、これを高山まで設置することで遮断されたように感じられ、、万個過ぎたら、遠水さえも隔離されたように感じられるのである。
・千 5里塚が千個であるから、1000x5x0.756=2880km














1《論佛骨表》(1)元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <884>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3404韓愈詩-227-1


○淮西の乱について
万事が愈の思うとおりに運んだのではない。憲宗は涯西の乱が平定したのを機会に、記念碑の建立を計画し、その碑に刻む文章は恵に執筆を命じた。その「准西を平らぐる碑」平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#0>U中唐詩743 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2699
平淮西碑 韓愈(韓退之) <163-#1>U中唐詩744 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2704
の文章は元和十三年(818)に書きあげられ、いったんは石に刻まれた。ところがこの碑文について、猛烈な反対がおこった。記述が正確でないというのである。たしかに愈の書き方は、准西の乱を平らげた第一の功労者は裴度であるとの立場から、裴度のことを善くのに多くの筆をついやしており、済州に一番乗りした李愬なども軽く触れてあるにすぎない。
この淮西の乱を成敗し、凱旋するのを以下の詩としてあらわした。
《過鴻溝》韓愈(韓退之) U中唐詩 <833>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3149韓愈詩-205
《送張侍郎》韓愈(韓退之) U中唐詩 <834>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3154韓愈詩-206
《贈刑部馬侍郎》韓愈(韓退之) U中唐詩 <835>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3159韓愈詩-207
《奉和裴相公東征,途經女几山下作》韓愈(韓退之) U中唐詩 <836>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3164韓愈詩-208
《?城?飲奉贈副使馬侍郎及馮李二員外》韓愈(韓退之) U中唐詩 <837>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3169韓愈詩-209
《酬別留後侍郎〔蔡平,命馬總為留後。〕》韓愈(韓退之) U中唐詩 <838>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3174韓愈詩-210
《同李二十八夜次襄城》韓愈(韓退之) U中唐詩 <839>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3179韓愈詩-211
《過襄城》韓愈(韓退之) U中唐詩 <840>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3184韓愈詩-212
《宿神龜招李二十八、馮十七》韓愈(韓退之) U中唐詩 <841>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3189韓愈詩-213
《次z石》韓愈(韓退之) U中唐詩 <842>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3194韓愈詩-214
《和李司勳過連昌宮》韓愈(韓退之) U中唐詩 <843>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3199韓愈詩-215
《次潼關先寄張十二閣老使君〔張賈也。〕》韓愈(韓退之) U中唐詩 <844>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3204韓愈詩-216

《次潼關上都統相公》韓愈(韓退之) U中唐詩 <845>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3209韓愈詩-217
《桃林夜賀晉公》韓愈(韓退之) U中唐詩 <846>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3214韓愈詩-218
《晉公破賊回重拜台司,以詩示幕中賓客,愈奉和》韓愈(韓退之) U中唐詩 <847>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3219韓愈詩-219
《?秋?城夜會聯句》韓愈(韓退之) U中唐詩 <848>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3224韓愈詩-220
これでは文句が出るのももっともである。結局、韓愈の文章を刻んだ石はすり消され、碑文はあらためて翰林学士の段文昌という人物が執筆することとなった。
しかしこの事件は、韓愈の出世のさまたげとなるものではなかったし、彼に精神的なショックを与えるものでもなかったらしい。高級官僚のなかでの彼の地位は学問・文学のスペシャリストとして万人が認めるものだったうえに、准西の乱での働きによって、文書力のみならず、政治的手腕もある男だと人々に感じさせたのだ。彼の地位はますます安泰になったということができる。元和十三年(818)四月、礼楽に関する規定や慣習を整理、改正する詳定礼楽使に鄭余慶が任命されたときも、特に奏請して韓愈を副使に兼務させている。このことは朝廷内、官界での韓愈の地位が安定したことを示すものである。


○佛骨を論ずる表について
長安のずっと西に鳳翔(安史の乱の際、粛宗が行在所を設置、杜甫が長安で安史軍に軟禁されていたところから脱出して駆けつけたところ)があり、そこの法門寺という寺に釈尊の指の骨と伝えられるものがあって、普段は大切にしまわれているのだが、三十年ごとに開帳があり、誰でも拝むことができる。
その年は天下太平、五穀豊穣だと伝えられていたが、元和十四年(819)がその開帳の年にあたった。正月、憲宗は法門寺へ勅使を送って仏骨を迎えさせ、宮中で三日間供養してから長安の諸寺に回すことを命じ、市民一般に礼拝を許した。人々は争って仏骨を拝み、後生を厭い、喜捨をしすぎて倒産する老さえ出るしまつだった。

孔孟の「道」を守る韓愈がこれを苦々しく見ていたことは、いうまでもない。これというのも皇帝が仏教を信仰するので、万民がそれにならうのだ。そう思った韓愈は、「仏骨を論ずる表」という意見書を憲宗皇帝にささげ、仏舎利を捨てて仏教の信仰を停止せよと論じた。
その理由は、二つの点に要約することができる。一つは、上古の帝王たち、三皇五帝はみな百歳前後の長命だったのに(神話時代なのでみな長命なことになっているのだが、韓愈の時代には史実と信ぜられていた)、仏教が渡来してからは、歴代の皇帝のなかにはあつく仏を信じた人があったにもかかわらず、すべて短命であり、非業の最期をとげた人さえいる。仏を信じても、福が授かるわけではないのだ。第二に、釈迦とはもともと夷狄の人であって、彼が生前に中国を訪れたとしたら、かりに歓迎したとしても、夷狄が中国へ来たときの礼法以上には出ないであろう。ましてその骨など、あがめるには及ばぬものであるから、すみやかに焼きすてていただきたい。

これを読んだ憲宗は激怒して、韓愈の上奏文を宰相たちに見せたうえ、死刑にせよと命じた。宰相の裴度、崔群たちがとりなすと、憲宗は、仏教が渡来してからの皇帝は全部短命だったとは、臣下たる者の口にすべき言葉ではないと言ったものだ。憲宗は不老不死の薬の擒になっていた皇帝である。仏教を信仰した皇帝はみな短命だなどと不遜な物言いに対し、また、作文力のうまさに、気分を害したのである。本気で韓愈を死刑にしたがっていたわけではないので、デキレースであって、裴度たちのとりなしを受け入れた形で韓愈の死刑を免じ、かわりに潮州へ流すこととした。形式上は潮州刺史に任ずる旨の辞令を出し、都から追ったのである。潮州は今の広東省に属し、福建省との境に近い海岸の町で、当時においては未開野蛮の土地である。
その辞令が出たのは元和十四年正月十四日のことで、実質上は流罪なのだから、とりあっかいも罪人なみとなることは、やむを得ない。韓愈の屋敷へいきなり役人が来て、その場で出発を催促するのであった。そして韓愈が出て行ったあとで、家族も長安から追放の処分を受け、韓愈のあとを追って旅に出た。十二歳になる四女の?はたまたま病中であったが、これも病床に残ることは許されず、ともに旅へと出たのであった(この娘はついに旅の途中で死んでしまい、韓愈の一行はその遺体を道はたに仮埋葬して、旅を続ける)。



論佛骨表
仏教は夷秋の教えであって、中国の先王の教えではない。故にこれを奉ずると禍いがあって福がない。これを排絶するがよいという主旨の上表文である。

論佛骨表
#1
臣某言:伏以佛者,夷狄之一法耳,自後漢時流入中國,上古未嘗有也。

#2
昔者?帝在位百年,年百一十?;少昊在位八十年,年百?;??在位七十九年,年九十八?;帝?在位七十年,年百五?;帝堯在位九十八年,年百一十八?;帝舜及禹,年皆百?。此時天下太平,百姓安樂壽考,然而中國未有佛也。

#3
其後,殷湯亦年百?,湯孫太戊在位七十五年,武丁在位五十九年,書史不言其年壽所極,推其年數,蓋亦?不減百?,周文王年九十七?,武王年九十三?,穆王在位百年。此時佛法亦未入中國,非因事佛而致然也。

#4
漢明帝時,始有佛法,明帝在位,才十八年耳。其後亂亡相繼,運祚不長。宋、齊、梁、陳、元魏以下,事佛漸謹,年代尤促。惟梁武帝在位四十八年,前後三度舍身施佛,宗廟之祭,不用牲牢,晝日一食,止於菜果。其後竟為侯景所逼,餓死台城,國亦尋滅。事佛求福,乃更得禍。由此觀之,佛不足事,亦可知矣。

#5
高祖始受隋禪,則議除之。當時群臣材識不遠,不能深知先王之道、古今之宜,推闡聖明,以救斯弊,其事遂止。臣常恨焉。

#6
伏惟睿聖文武皇帝陛下,神聖英武,數千百年已來,未有倫比。即位之初,即不許度人為僧尼、道士,又不許創立寺觀。臣?以為高祖之誌,必行於陛下之手,今縱未能即行,豈可恣之轉令盛也!

#7
今聞陛下令群僧迎佛骨於鳳翔,禦樓以觀,舁入大?,又令諸寺遞迎供養。臣雖至愚,必知陛下不惑於佛,作此崇奉,以祈福祥也。直以年豐人樂,徇人之心,為京都士庶設詭異之觀,戲玩之具耳。安有聖明若此,
而肯信此等事哉!

#8
然百姓愚冥,易惑難曉,苟見陛下如此,將謂真心事佛。皆云:「天子大聖,猶一心敬信;百姓何人,豈合更惜身命!」焚頂燒指,百十為群,解衣散錢,自朝至暮,轉相?效。惟恐後時,老少奔波,棄其業次。若不即加禁遏,更?諸寺,必有斷臂臠身,以為供養者。傷風敗俗,傳笑四方,非細事也。

#9
夫佛本夷狄之人,與中國言語不通,衣服殊制,口不言先王之法言,身不服先王之法服,不知君臣之義、父子之情。假如其身至今尚在,奉其國命,來朝京師;陛下容而接之,不過宣政一見,禮賓一設,賜衣一襲,衛而出之於境,不令惑?也。

#10
況其身死已久,枯朽之骨,凶穢之餘,豈宜令入宮禁?
孔子曰:「敬鬼神而遠之。」古之諸侯行吊於其國,尚令巫祝先以桃?祓除不祥,然後進吊。今無故取朽穢之物,親臨觀之,巫祝不先,桃?不用。群臣不言其非,禦史不舉其失,臣實恥之。

#11
乞以此骨付之有司,投諸水火,永?根本,斷天下之疑,?後代之惑。使天下之人,知大聖人之所作為,出於尋常萬萬也。豈不盛哉!豈不快哉!佛如有靈,能作禍祟,凡有殃咎,宜加臣身。上天鑒臨,臣不怨悔。無任感激懇悃之至,謹奉表以聞。
臣某誠惶誠恐。
 







2 《論佛骨表》(2)元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <885>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3409韓愈詩-227-2


○佛骨を論ずる表
長安のずっと西に鳳翔(安史の乱の際、粛宗が行在所を設置、杜甫が長安で安史軍に軟禁されていたところから脱出して駆けつけたところ)があり、そこの法門寺という寺に釈尊の指の骨と伝えられるものがあって、普段は大切にしまわれているのだが、三十年ごとに開帳があり、誰でも拝むことができる。
その年は天下太平、五穀豊穣だと伝えられていたが、元和十四年(819)がその開帳の年にあたった。正月、憲宗は法門寺へ勅使を送って仏骨を迎えさせ、宮中で三日間供養してから長安の諸寺に回すことを命じ、市民一般に礼拝を許した。人々は争って仏骨を拝み、後生を厭い、喜捨をしすぎて倒産する老さえ出るしまつだった。

孔孟の「道」を守る韓愈がこれを苦々しく見ていたことは、いうまでもない。これというのも皇帝が仏教を信仰するので、万民がそれにならうのだ。そう思った韓愈は、「仏骨を論ずる表」という意見書を憲宗皇帝にささげ、仏舎利を捨てて仏教の信仰を停止せよと論じた。


論佛骨表
論佛骨表【佛骨を論ずる表】
(釈迦の分骨を崇めることについて論じる上奏文)
(2)#1
臣某言:伏以佛者,夷狄之一法耳。
家臣である韓愈が申しあげます、拝伏し謹んで思んばかりますのに、仏の教えは異民族の夷秋の一つの教えにすぎず、
自後漢時流入中國。
後漢の時初めて入り、それからから流布していってわが中国にひろがったのであります。
上古未嘗有也。
上古時代にはまだかつて無かったのでありす。

臣某言う、伏して以【おも】うに佛者は,夷狄【いてき】の一法のみ。
後漢の時より流れて中國に入る。
上古 未だ嘗て有らざる也。


『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文)
臣某言:伏以佛者,
夷狄之一法耳,
自後漢時流入中國,
上古未嘗有也。

(下し文)
臣某言う、伏して以【おも】うに佛者は,夷狄【いてき】の一法のみ。
後漢の時より流れて中國に入る。
上古 未だ嘗て有らざる也。

(現代語訳)
論佛骨表【佛骨を論ずる表】
(釈迦の分骨を崇めることについて論じる上奏文)
家臣である韓愈が申しあげます、拝伏し謹んで思んばかりますのに、仏の教えは異民族の夷秋の一つの教えにすぎず、
後漢の時初めて入り、それからから流布していってわが中国にひろがったのであります。
上古時代にはまだかつて無かったのでありす。


(訳注)
論佛骨表【佛骨を論ずる表】
(釈迦の分骨を崇めることについて論じる上奏文)

臣某言:伏以佛者,夷狄之一法耳,
家臣である韓愈が申しあげます、拝伏し謹んで思んばかりますのに、仏の教えは異民族の夷秋の一つの教えにすぎず、
○某 韓愈のこと。上表の本文には韓愈の名を記したのであるが、これは草稿であるから「某」と名を略したのである。
○伏以 拝伏して思いみるに。以は思う。

自後漢時流入中國。
後漢の時初めて入り、それからから流布していってわが中国にひろがったのであります。
○自後漢時 後漢の明帝は、夢に金人(金銅の像)を見た。その形は長大で、光明を放っていた。覚めて後これを群臣に問うた。答えるものがいった、西方に神あり、仏と名づける。身長一丈六尺で、金色である、と。帝は使いを天竺(印度)に遣わし、仏法を問わしめた。

上古未嘗有也。
上古時代にはまだかつて無かったのでありす。


2)#1
臣某言:伏以佛者,夷狄之一法耳,自後漢時流入中國,上古未嘗有也。


(3)#2
昔者?帝在位百年,年百一十?;
少昊在位八十年,年百?;
??在位七十九年,年九十八?;
帝?在位七十年,年百五?;
帝堯在位九十八年,年百一十八?;
帝舜及禹,年皆百?。此時天下太平,
百姓安樂壽考,然而中國未有佛也。

#3
其後,殷湯亦年百?,湯孫太戊在位七十五年,武丁在位五十九年,書史不言其年壽所極,推其年數,蓋亦?不減百?,周文王年九十七?,武王年九十三?,穆王在位百年。此時佛法亦未入中國,非因事佛而致然也。

#4
漢明帝時,始有佛法,明帝在位,才十八年耳。其後亂亡相繼,運祚不長。宋、齊、梁、陳、元魏以下,事佛漸謹,年代尤促。惟梁武帝在位四十八年,前後三度舍身施佛,宗廟之祭,不用牲牢,晝日一食,止於菜果。其後竟為侯景所逼,餓死台城,國亦尋滅。事佛求福,乃更得禍。由此觀之,佛不足事,亦可知矣。

#5
高祖始受隋禪,則議除之。當時群臣材識不遠,不能深知先王之道、古今之宜,推闡聖明,以救斯弊,其事遂止。臣常恨焉。
#6
伏惟睿聖文武皇帝陛下,神聖英武,數千百年已來,未有倫比。即位之初,即不許度人為僧尼、道士,又不許創立寺觀。臣?以為高祖之誌,必行於陛下之手,今縱未能即行,豈可恣之轉令盛也!
#7
今聞陛下令群僧迎佛骨於鳳翔,禦樓以觀,舁入大?,又令諸寺遞迎供養。臣雖至愚,必知陛下不惑於佛,作此崇奉,以祈福祥也。直以年豐人樂,徇人之心,為京都士庶設詭異之觀,戲玩之具耳。安有聖明若此,而肯信此等事哉!
#8
然百姓愚冥,易惑難曉,苟見陛下如此,將謂真心事佛。皆云:「天子大聖,猶一心敬信;百姓何人,豈合更惜身命!」焚頂燒指,百十為群,解衣散錢,自朝至暮,轉相?效。惟恐後時,老少奔波,棄其業次。若不即加禁遏,更?諸寺,必有斷臂臠身,以為供養者。傷風敗俗,傳笑四方,非細事也。
#9
夫佛本夷狄之人,與中國言語不通,衣服殊制,口不言先王之法言,身不服先王之法服,不知君臣之義、父子之情。假如其身至今尚在,奉其國命,來朝京師;陛下容而接之,不過宣政一見,禮賓一設,賜衣一襲,衛而出之於境,不令惑?也。

#10
況其身死已久,枯朽之骨,凶穢之餘,豈宜令入宮禁?
孔子曰:「敬鬼神而遠之。」古之諸侯行吊於其國,尚令巫祝先以桃?祓除不祥,然後進吊。今無故取朽穢之物,親臨觀之,巫祝不先,桃?不用。群臣不言其非,禦史不舉其失,臣實恥之。

#11
乞以此骨付之有司,投諸水火,永?根本,斷天下之疑,?後代之惑。使天下之人,知大聖人之所作為,出於尋常萬萬也。豈不盛哉!豈不快哉!佛如有靈,能作禍祟,凡有殃咎,宜加臣身。上天鑒臨,臣不怨悔。無任感激懇悃之至,謹奉表以聞。
臣某誠惶誠恐。







3 論佛骨表 (2)#1
臣某言:伏以佛者,夷狄之一法耳。
家臣である韓愈が申しあげます、拝伏し謹んで思んばかりますのに、仏の教えは異民族の夷秋の一つの教えにすぎず、
自後漢時流入中國。
後漢の時初めて入り、それからから流布していってわが中国にひろがったのであります。
上古未嘗有也。
上古時代にはまだかつて無かったのでありす。

臣某言う、伏して以【おも】うに佛者は,夷狄【いてき】の一法のみ。
後漢の時より流れて中國に入る。
上古 未だ嘗て有らざる也。

(3)#2
昔者?帝在位百年,年百一十?;
むかし五帝のはじめの黄帝は在位百年、年は百十歳、
少昊在位八十年,年百?;
少昊は在位八十年、年は百歳、
??在位七十九年,年九十八?;
??は在位七十九年、年九十八歳、
帝?在位七十年,年百五?;
帝?は在位七十年、年百五歳。
帝堯在位九十八年,年百一十八?;
帝堯は在位九十八年、年百十八歳、
帝舜及禹,年皆百?。此時天下太平,
帝舜及び夏の萬王は年は皆百歳であった。この時には天下は太平に治まり、
百姓安樂壽考,然而中國未有佛也。
一般人民は安楽に暮らし、長命であった。そうではあるが、中国にまだ仏教はなかったのである。これらの帝王の長寿、天下の太平長寿は仏教とは関係がないのである。
昔は?帝の在位が百年,年百一十?;
少昊【しょうこう】在位八十年,年百?;
??【せんぎょく】在位七十九年,年九十八?;
帝?【ていこく】在位七十年,年百五?;
帝堯【ていぎょう】在位九十八年,年百一十八?;
帝舜及び禹,年皆百?なり。此の時、天下太平,
百姓、安樂壽考【じゅこう】なりき,然り而して中國に未だ佛 有らざりしなり。


『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文) (3)#2
昔者?帝在位百年,年百一十?;
少昊在位八十年,年百?;
??在位七十九年,年九十八?;
帝?在位七十年,年百五?;
帝堯在位九十八年,年百一十八?;
帝舜及禹,年皆百?。此時天下太平,
百姓安樂壽考,然而中國未有佛也。

(下し文) (3)#2
昔は?帝の在位が百年,年百一十?;
少昊【しょうこう】在位八十年,年百?;
??【せんぎょく】在位七十九年,年九十八?;
帝?【ていこく】在位七十年,年百五?;
帝堯【ていぎょう】在位九十八年,年百一十八?;
帝舜及び禹,年皆百?なり。此の時、天下太平,
百姓、安樂壽考【じゅこう】なりき,然り而して中國に未だ佛 有らざりしなり。

(現代語訳)
むかし五帝のはじめの黄帝は在位百年、年は百十歳、
少昊は在位八十年、年は百歳、
??は在位七十九年、年九十八歳、
帝堯は在位九十八年、年百十八歳、
帝舜及び夏の萬王は年は皆百歳であった。この時には天下は太平に治まり、
帝舜及び夏の禹王は年は皆百歳であった。この時には天下は太平に治まり、
一般人民は安楽に暮らし、長命であった。そうではあるが、中国にまだ仏教はなかったのである。これらの帝王の長寿、天下の太平長寿は仏教とは関係がないのである。

(訳注) (3)#2
昔者?帝在位百年,年百一十?;
むかし五帝のはじめの黄帝は在位百年、年は百十歳、
○?帝 黄帝(こうてい)は神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年〜紀元前2448年)。司馬遷『史記』「五帝本紀」に於いて五帝を一応歴史の範疇内に置いたものであるが、「黄帝伝説は史実とは思っていないが、黄帝伝説のあるところに限って共通の民俗風土があり、いくばくかの史実が紛れ込んでいることは否定できない。よって、これらを記録することに価値を見出すものである。」炎帝・黄帝・少昊・??・?・尭・舜・禹、いわゆる三皇五帝である。

少昊在位八十年,年百?;
少昊は在位八十年、年は百歳、
○少昊(しょうこう)は、義和の国と称された東夷族の国の領主にして黄帝の子。中国古代の五帝の一人。

??在位七十九年,年九十八?;
??は在位七十九年、年九十八歳、
○??(せんぎょく)は、史記に記される帝王で、名は高陽。あるいは、高陽に都して高陽氏と称したと言われている。五帝の1人で、黄帝の後を継いで帝位に就いた。在位78年と言われている。

帝?在位七十年,年百五?;
帝?は在位七十年、年百五歳。
○?(こく)は、上古中国神話上の帝王。名は高辛。あるいは、高辛に都して、高辛氏と称したと言われている。五帝のひとりで、??(センギョク)の後を継いで、帝位に就いた。

帝堯在位九十八年,年百一十八?;
帝堯は在位九十八年、年百十八歳、
○堯(尭、ぎょう)は中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。

帝舜及禹,年皆百?。此時天下太平,
帝舜及び夏の禹王は年は皆百歳であった。この時には天下は太平に治まり、
○舜(しゅん)は中国神話に登場する君主。五帝の一人。姓は姚(よう)、名は重華(ちょうか)、虞氏(ぐし)と称した。儒家により神聖視され、堯(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。
○禹 帝??の孫にあたる。また、帝??は同じく五帝の一人の黄帝の孫であるので、禹は黄帝の玄孫にあたる。塗山氏の女を娶り、啓という皇子をなした。禹は人徳を持ち、人々に尊敬される人物であった。また、卓越した政治能力を持っていたが、それでいて自らを誇ることはなかったという。

百姓安樂壽考,然而中國未有佛也。
一般人民は安楽に暮らし、長命であった。そうではあるが、中国にまだ仏教はなかったのである。これらの帝王の長寿、天下の太平長寿は仏教とは関係がないのである。
○百姓 天子以外の多くの姓の人、一般人民、後世は農民をいう場合もある。
○寿考 命長く年老いるまで生きている。考は老。







4 #3
其後,殷湯亦年百?,
その後殷の湯もまた年百歳、
湯孫太戊在位七十五年,
湯王の孫大成は在位七十五年、
武丁在位五十九年,書史不言其年壽所極,
武丁は在位五十九年、文書歴史等にその年寿の終わった歳を言っていないけれども、
推其年數,蓋亦?不減百?,
その年数を推しはかれば、たぶんまたともに首歳よりは減らないであろう。
周文王年九十七?,
周の文王は年九十七歳、
武王年九十三?,穆王在位百年。
武王は年九十三歳、穆壬は在位百年であった。
此時佛法亦未入中國,非因事佛而致然也。
この時には仏教は前と同じくまだ中国に入っていなかった。仏に仕えるおかげでそのように長寿を招いたのではない。
其の後、殷湯も亦た年 百歳、
湯の孫、太戊は位に在ること七十五年、
武丁は在位、五十九年、
書史其の年壽【ねんじゅ】の極まる所を言はざれども、其の年数を推すに、蓋し亦た供に百歳に減ぜず。
周の文王は年が九十七歳、武王は年が九十三歳、穆王は在位、百年なりき。
此の時、佛法亦た未だ中国に入らず。佛に事【つか】うるに因って然るを致すに非ざるなり。

『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文) #3
其後,殷湯亦年百?,
湯孫太戊在位七十五年,
武丁在位五十九年,書史不言其年壽所極,
推其年數,蓋亦?不減百?,
周文王年九十七?,
武王年九十三?,穆王在位百年。
此時佛法亦未入中國,非因事佛而致然也。

(下し文)
其の後、殷湯も亦た年 百歳、
湯の孫、太戊は位に在ること七十五年、
武丁は在位、五十九年、
書史其の年壽【ねんじゅ】の極まる所を言はざれども、其の年数を推すに、蓋し亦た供に百歳に減ぜず。
周の文王は年が九十七歳、武王は年が九十三歳、穆王は在位、百年なりき。
此の時、佛法亦た未だ中国に入らず。佛に事【つか】うるに因って然るを致すに非ざるなり。

(現代語訳)
その後殷の湯もまた年百歳、
湯王の孫大成は在位七十五年、
武丁は在位五十九年、文書歴史等にその年寿の終わった歳を言っていないけれども、
その年数を推しはかれば、たぶんまたともに首歳よりは減らないであろう。
周の文王は年九十七歳、
武王は年九十三歳、穆壬は在位百年であった。
この時には仏教は前と同じくまだ中国に入っていなかった。仏に仕えるおかげでそのように長寿を招いたのではない。

(訳注) #3
其後,殷湯亦年百?,
その後殷の湯もまた年百歳、
○殷湯 中国古代殷王朝の創設者。殷の始祖契(せつ)より14世目。武湯,武王,天乙,成湯ともいわれ,卜辞では唐(湯と同音),成,大乙と書く。亳(はく)(河南省偃師県)に都をおき,伊尹(いいん)などの賢臣を用い,異民族をも心服させ,その徳は禽獣にもおよんだという。夏の属国の韋(河南省滑県南東),昆吾(河南省許昌県東)などを滅ぼして疆域を拡大した。夏王の桀は暴政を行い,人心が離反したので,これを攻めて滅ぼし,殷王朝を創設した。

湯孫太戊在位七十五年,
湯王の孫大成は在位七十五年、
○太戊 殷の第9代の帝。帝太庚の子。帝雍己の弟。なお卜辞では帝雍己の前に即位したとされる。
中宗は、賢人伊陟を相とし、殷を復興させた。参朝しなかった諸侯もこのときには、参朝するようになったという。

武丁在位五十九年,書史不言其年壽所極,
武丁は在位五十九年、文書歴史等にその年寿の終わった歳を言っていないけれども、
○武丁 武丁(ぶてい)は殷朝の第22代帝。太子時代には賢人の甘盤について学問を修めた。 武丁は、衰えた殷を復興させようと考えていたが、補佐する者がいなかったので、即位してから3年間は自ら政治に口を出さなかった。ある夜に説(えつ)という名の聖人を夢に見たが、群臣の中にはこのような人物はいなかった。そこで、方々に人を遣わしてこの人物を探させると、道を作る労役者の中にこの人物がいた。武丁が話してみると、まことに聖人であったために、傅(ふ)という姓を与え、傅説と呼んだ。傅説の補佐で殷はまた復興した。
○書史 文書、歴史など。
○所極 寿命の窮まった歳。


推其年數,蓋亦?不減百?,
その年数を推しはかれば、たぶんまたともに首歳よりは減らないであろう。

周文王年九十七?,
周の文王は年九十七歳、
○周文 (? - 紀元前1152年−紀元前1056年 寿命 97才)は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父季歴と母太任の子。周王朝の創始者である武王の父にあたる。文王は商に仕えて、三公(特に重要な三人の諸侯)の地位にあり、父である季歴の死後に周の地を受け継ぎ、岐山のふもとより本拠地を?河(渭河の支流である。湖南省の?水とは字が異なる)の西岸の豊邑(正しくは豐邑。後の長安の近く)に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。

武王年九十三?,穆王在位百年。
武王は年九十三歳、穆壬は在位百年であった。
○武王 、周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた。文王の次子。同母兄に伯邑考、同母弟に管叔鮮、周公旦、蔡叔度、霍叔処、康叔封らがいる。子は成王、唐叔虞(晋の開祖)、?叔、応叔、韓叔ら。
○穆王(ぼくおう)は周朝の第5代王。 昭王の子であり、昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。 彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。 

此時佛法亦未入中國,非因事佛而致然也。
この時には仏教は前と同じくまだ中国に入っていなかった。仏に仕えるおかげでそのように長寿を招いたのではない。
○致然 そのような結果を来す。致は招く、至らす。








5 (5)#4-1
漢明帝時,始有佛法,
後漢の明帝の時、はじめて仏法が存在したが、
明帝在位,才十八年耳。
明帝は帝位に在ることわずかに十八年だけであった。
其後亂亡相繼,運祚不長。
そして、その後、国は乱れたり、亡んだりすることが相継いだのであり、国運も帝位も長くなかったのである。
宋、齊、梁、陳、元魏以下,
南朝の宋・斉・梁・陳や北朝の元魏より以下、
事佛漸謹,年代尤促。
仏教のおしえに仕えることが段々と謹みて敬われるようになったが、王朝の年代は最も短いものでしかなかったのである。
(6)#4-2
惟梁武帝在位四十八年,
前後三度舍身施佛,宗廟之祭,
不用牲牢,晝日一食,止於菜果。
其後竟為侯景所逼,餓死台城,
國亦尋滅。事佛求福,乃更得禍。
由此觀之,佛不足事,亦可知矣。


『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文) (5)#4-1
漢明帝時,始有佛法,
明帝在位,才十八年耳。
其後亂亡相繼,運祚不長。
宋、齊、梁、陳、元魏以下,
事佛漸謹,年代尤促。

(下し文) (5)#4-1
漢の明帝の時,始めて佛法有り。
明帝の在位は,才【わずか】に十八年のみ。
其の後、亂、亡、相い繼ぎ,運祚【うんそ】長からず。
宋、齊、梁、陳、元魏【げんぎ】以下,
佛に事【つか】うること漸【ようや】く謹むも,年代尤【もっと】も促【せま】る。

(現代語訳)
後漢の明帝の時、はじめて仏法が存在したが、
明帝は帝位に在ることわずかに十八年だけであった。
そして、その後、国は乱れたり、亡んだりすることが相継いだのであり、国運も帝位も長くなかったのである。
南朝の宋・斉・梁・陳や北朝の元魏より以下、
仏教のおしえに仕えることが段々と謹みて敬われるようになったが、王朝の年代は最も短いものでしかなかったのである。

(訳注) (5)#4-1
漢明帝時,始有佛法,
後漢の明帝の時、はじめて仏法が存在したが、
○漢 後漢のこと。明帝のことは題意参照。

明帝在位,才十八年耳。
明帝は帝位に在ることわずかに十八年だけであった。

其後亂亡相繼,運祚不長。
そして、その後、国は乱れたり、亡んだりすることが相継いだのであり、国運も帝位も長くなかったのである。
○運祚 運は国運、祚は王所、王のさいわい。王位のこと。

宋、齊、梁、陳、元魏以下,
南朝の宋・斉・梁・陳や北朝の元魏より以下、
○宋斉梁陳 南北朝の南朝の門報じ仏教は盛んであった。南北朝期は、儒教に飽き、嫌われたのである。道教と仏教が好まれた。
○元魏 北魏、北朝では北魏の時に仏教が盛んであった。北魂の孝文帝は拓跋姓を改めて元と称したので元魏という。北魏(ほくぎ、?音:B?iw?i、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。
国号は魏であるが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。

事佛漸謹,年代尤促。
仏教のおしえに仕えることが段々と謹みて敬われるようになったが、王朝の年代は最も短いものでしかなかったのである。
○漸謹 だんだん手厚く敬う。
○尤促 最も短い。促はせまる。間隔かせまくなる。近い。







6  (6)#4-2
惟梁武帝在位四十八年,
ただ梁の武帝は在位四十八年で、
前後三度舍身施佛,宗廟之祭,不用牲牢,
その間前後あわせて三度も身を捨て仏に献げて、僧侶となり、祖先のみたまやの祭りにも犠牲の肉を用いず、
晝日一食,止於菜果。
昼の間は一食、それもただ野菜や果物だけであった。
其後竟為侯景所逼,餓死台城,
その後とうとう侯景のために迫られて、台城の中で餓死し、国もまたついで滅んでしまった。
國亦尋滅。事佛求福,乃更得禍。
仏につかえて福を求めたはずなのに、すなわち、さらに一層の禍を得たのであった。
由此觀之,佛不足事,亦可知矣。
これをもって観れば、仏は仕えるだけのねうちがないこともまたよくわかるのである


『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文)
惟梁武帝在位四十八年,
前後三度舍身施佛,宗廟之祭,
不用牲牢,晝日一食,止於菜果。
其後竟為侯景所逼,
餓死台城,國亦尋滅。
事佛求福,乃更得禍。
由此觀之,佛不足事,亦可知矣。

(下し文)
惟だ梁の武帝の在位は四十八年,
前後 三度身を舍て佛に施し,宗廟の祭に,
牲牢【せいろう】を用いず,晝日【ちゅうじつ】一食,於菜果【さいか】に止【とど】まる。
其の後 竟【つい】に侯景【こうけい】の逼【せま】る所と為る。
台城して餓死して,國も亦た尋【つ】いで滅【ほろ】ぶ。
佛に事【つか】えて福を求め,乃ち更に禍を得たり。
此れにって之を觀れば,佛の事【つか】うるに足らざることも,亦た知る可きなり。


(現代語訳)
ただ梁の武帝は在位四十八年で、
その間前後あわせて三度も身を捨て仏に献げて、僧侶となり、祖先のみたまやの祭りにも犠牲の肉を用いず、
昼の間は一食、それもただ野菜や果物だけであった。
その後とうとう侯景のために迫られて、台城の中で餓死し、国もまたついで滅んでしまった。
仏につかえて福を求めたはずなのに、すなわち、さらに一層の禍を得たのであった。
これをもって観れば、仏は仕えるだけのねうちがないこともまたよくわかるのである


(訳注)
惟梁武帝在位四十八年,
ただ梁の武帝は在位四十八年で、

前後三度舍身施佛,宗廟之祭,不用牲牢,
その間前後あわせて三度も身を捨て仏に献げて、僧侶となり、祖先のみたまやの祭りにも犠牲の肉を用いず、
○捨身 梁の武帝は、同番寺にあること三度、袈裟(紺)を着て自ら放光般若(i)経を講じ、天下に詔して、寺を建てさせ、僧となることを奨励したので、人は仏心天子と呼んだ。
○牲牢 牛羊家などの犠牲の肉。牢は供物の肉。

晝日一食,止於菜果。
昼の間は一食、それもただ野菜や果物だけであった。

其後竟為侯景所逼,餓死台城,國亦尋滅。
その後とうとう侯景のために迫られて、台城の中で餓死し、国もまたついで滅んでしまった。
○侯景 (503-552)字は万景、中国北境の人。弓の達人。南北朝末期の武将。侯周の孫、侯標の子[1]。侯景の叛乱(中国語版)の首謀者。北魂の時、定州の刺史、高歓が魏の相となり、朱栄を討った時、降って司馬行台となり、548年十万の兵をひきいて河南を制した、後に梁に降り、阿南王に封ぜられたが、
翌年、かえって叛いて金陵(建康)を囲み、台城を陥れ、武帝にせまられて餓死した。簡文帝を立てたが、またこれを殺して自ら立ち、漢帝と称した。しかし太始2年(552年)3月、江陵(湖北省)で梁帝に即位していた蕭繹が派遣した王僧弁及び陳霸先の義兵によって都を追われ、その途上で殺害された。
○台城 台とは台閣、禁中の省庁を台省といったことから、晋宋梁陳のころは宮城のことを台城と称した。

事佛求福,乃更得禍。
仏につかえて福を求めたはずなのに、すなわち、さらに一層の禍を得たのであった。

由此觀之,佛不足事,亦可知矣。
これをもって観れば、仏は仕えるだけのねうちがないこともまたよくわかるのである








7 (7)#5
高祖始受隋禪,則議除之。
唐の高祖皇帝がはじめて隋からの禅譲を受けて天子の位に即かれたときには、この仏教を除き去ろうと諮儀相談された。
當時群臣材識不遠,不能深知先王之道、
当時の群臣は才力も見識も遠くを見抜くことができず、深く儒家の先王の道ともとめた。
古今之宜,推闡聖明,
古今に通ずる宜しい処置を知って、聖徳明智の高祖の御心を推し広め明らかにした。
以救斯弊,其事遂止。
この仏教の弊害を救うことができなかったため、その事は遂に取り止めになった。
臣常恨焉。
私は平素これを残念に思っていた。
(8)#6
伏惟睿聖文武皇帝陛下,神聖英武,
數千百年已來,未有倫比。
即位之初,即不許度人為僧尼、
道士,又不許創立寺觀。
臣?以為高祖之誌,必行於陛下之手,
今縱未能即行,豈可恣之轉令盛也!


『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文) (7)#5
高祖始受隋禪,則議除之。
當時群臣材識不遠,不能深知先王之道、
古今之宜,推闡聖明,
以救斯弊,其事遂止。
臣常恨焉。

(下し文) (7)#5
高祖 始めて隋の禪を受け,則ち之を除かんと議す。
當時 群臣【ぐんしん】材識【ざいしき】遠からず,深く先王の道を知るを能わず、
古今の宜,聖明を推闡【すいせん】し,
以って斯の弊を救い,其の事遂に止む。
臣常に恨む。

(現代語訳)
唐の高祖皇帝がはじめて隋からの禅譲を受けて天子の位に即かれたときには、この仏教を除き去ろうと諮儀相談された。
当時の群臣は才力も見識も遠くを見抜くことができず、深く儒家の先王の道ともとめた。
古今に通ずる宜しい処置を知って、聖徳明智の高祖の御心を推し広め明らかにした。
この仏教の弊害を救うことができなかったため、その事は遂に取り止めになった。
私は平素これを残念に思っていた。

(訳注) (7)#5
高祖始受隋禪,則議除之。
唐の高祖皇帝がはじめて隋からの禅譲を受けて天子の位に即かれたときには、この仏教を除き去ろうと諮儀相談された。
○高祖 李淵、618年、5月帝を称した。

當時群臣材識不遠,不能深知先王之道、
当時の群臣は才力も見識も遠くを見抜くことができず、深く儒家の先王の道ともとめた。
○材識 才能見識。
○不遠 遠くを見通すことがなかった。短見。

古今之宜,推闡聖明,
古今に通ずる宜しい処置を知って、聖徳明智の高祖の御心を推し広め明らかにした。
○古今之宜 古今を通ずる宜しい処置。宜は義に通ずる。正しくよい行い。
○推闡 推しひろめあきらかにする。

以救斯弊,其事遂止。
この仏教の弊害を救うことができなかったため、その事は遂に取り止めになった。

臣常恨焉。
私は平素これを残念に思っていた。








8  (8)#6
伏惟睿聖文武皇帝陛下,神聖英武,
伏して謹み思うに、睿聖文武皇帝陛下は、神のごとくひいでて武勇におわしますのである。
數千百年已來,未有倫比。
それは幾千年幾百年以来より、まだそのたぐいの無いおかたであるのだ。
即位之初,即不許度人為僧尼、道士,
御即位のはじめに、すぐさま人を俗世から離れさせて僧尼や道士とすることを許さないことである。
又不許創立寺觀。
臣?以為高祖之誌,必行於陛下之手,
私は常に思っていた、高祖の仏教を険こうとの御志が陛下の手で行われるであろう、と。
今縱未能即行,豈可恣之轉令盛也!
今たとい、まだ、すぐさま行うことはできなくとも、どうしてその仏教を勝手にふるまわせ、ますます盛んにならせてよいであろうか、と。


『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文) (8)#6
伏惟睿聖文武皇帝陛下,神聖英武,
數千百年已來,未有倫比。
即位之初,即不許度人為僧尼、
道士,又不許創立寺觀。
臣?以為高祖之誌,必行於陛下之手,
今縱未能即行,豈可恣之轉令盛也!

(下し文) (8)#6
伏して惟【おもんみ】るに睿聖【えいせい】文武【もんぶ】皇帝陛下,神聖【しんせい】英武【えいぶ】,
數千百年 已來【いらい】,未だ倫比【りんぴ】有らず。
即位の初めに,即ち人を度して僧尼【そうに】、
道士【どうし】と為すを許さず。
又た寺觀を創立するを許さず。
臣 ?【つね】に以為【おもえ】らく高祖の誌【こころざし】,必ず陛下の手に行われんと。
今 縱【たと】い未だ即ち行う能わずとも,豈に之を恣【ほしいまま】にし轉【うた】た盛んならしむ可けんや!

(現代語訳)
伏して謹み思うに、睿聖文武皇帝陛下は、神のごとくひいでて武勇におわしますのである。
それは幾千年幾百年以来より、まだそのたぐいの無いおかたであるのだ。
御即位のはじめに、すぐさま人を俗世から離れさせて僧尼や道士とすることを許さないことである。
また仏寺や道観を新たに立てることを許されなかったのである。
私は常に思っていた、高祖の仏教を険こうとの御志が陛下の手で行われるであろう、と。
今たとい、まだ、すぐさま行うことはできなくとも、どうしてその仏教を勝手にふるまわせ、ますます盛んにならせてよいであろうか、と。

(訳注) (8)#6
伏惟睿聖文武皇帝陛下,神聖英武。
伏して謹み思うに、睿聖文武皇帝陛下は、神のごとくひいでて武勇におわしますのである。
○睿聖文武皇帝 憲宗の尊号。臣下が随意に用いた敬称ではない。
○神聖 神のようにすぐれた。二字で神の意味。
○英武 すぐれて、たけく勇ましい。

數千百年已來,未有倫比。
それは幾千年幾百年以来より、まだそのたぐいの無いおかたであるのだ。
○数千百年 幾千年幾百年。
○倫比 たぐい、同類。

即位之初,即不許度人為僧尼、道士,
御即位のはじめに、すぐさま人を俗世から離れさせて僧尼や道士とすることを許さないことである。
○度人 俗人から離脱させる?済度する。
○道士 道教の修行考

又不許創立寺觀。
また仏寺や道観を新たに立てることを許されなかったのである。
○寺観 寺院、仏教では寺といい、道教では観という。僧尼道士の居住する所。

臣?以為高祖之誌,必行於陛下之手,
私は常に思っていた、高祖の仏教を険こうとの御志が陛下の手で行われるであろう、と。

今縱未能即行,豈可恣之轉令盛也!
今たとい、まだ、すぐさま行うことはできなくとも、どうしてその仏教を勝手にふるまわせ、ますます盛んにならせてよいであろうか、と。
○恣 勝手にする。
○転 いよいよ。ますます。それからそれへと転ずる義。







9 (9)#7-1
今聞陛下令群僧迎佛骨於鳳翔,
今聞くところでは、陛下は多数の僧をして仏骨を鳳翔に抑えさせられた。
禦樓以觀,舁入大?,
陛下は楼上にお出ましになってこしれを御覧になり、それを大内裡にかつぎ入れられた。
又令諸寺遞迎供養。
また諸寺をして次々と迎えて供養させなさるとのことであった。
臣雖至愚,必知陛下不惑於佛、
私は至って愚かではあるけれども、きっと陛下は仏に惑ってこのようにあがめお仕えなされたのだ。
作此崇奉,以祈福祥也。
それでもって福や目出度いことを祈りをされるというのではないことはわかっている。(10)#7−2
直以年豐人樂,徇人之心,
為京都士庶設詭異之觀,戲玩之具耳。
安有聖明若此,而肯信此等事哉!

『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文) (9)#7-1
今聞陛下令群僧迎佛骨於鳳翔,
禦樓以觀,舁入大?,
又令諸寺遞迎供養。
臣雖至愚,必知陛下不惑於佛、
作此崇奉,以祈福祥也。

(下し文) (9)#7-1
今聞く陛下 群僧をして佛骨を鳳翔に於て迎い令め,
樓に禦して以て觀,舁【か】きて大?に入れ,
又た諸寺をして遞迎【ていげい】供養せ令しむと。
臣 至愚【しぐ】なりと雖も,必ず陛下 佛に惑いて、此の崇奉【すうほう】を作し,以て福祥を祈らざるを知る也。

(現代語訳)
今聞くところでは、陛下は多数の僧をして仏骨を鳳翔に抑えさせられた。
陛下は楼上にお出ましになってこしれを御覧になり、それを大内裡にかつぎ入れられた。
また諸寺をして次々と迎えて供養させなさるとのことであった。
私は至って愚かではあるけれども、きっと陛下は仏に惑ってこのようにあがめお仕えなされたのだ。
それでもって福や目出度いことを祈りをされるというのではないことはわかっている。


(訳注) (9)#7-1
今聞陛下令群僧迎佛骨於鳳翔,
今聞くところでは、陛下は多数の僧をして仏骨を鳳翔に抑えさせられた。
○鳳翔 韓愈『石鼓歌』 石鼓文(せっこぶん)とは、唐初期に陝西省鳳翔府天興県で出土した10基の花崗岩の石碑、またはそれに刻まれた文字をいう。現存する中国の石刻文字資料としては最古のもので、出土した当時から珍重され、現在は北京故宮博物院に展示されている。

禦樓以觀,舁入大?,
陛下は楼上にお出ましになってこしれを御覧になり、それを大内裡にかつぎ入れられた。
○禦樓 高どのにお出ましになる。御は上にいる。取と同じ。
○舁 かくと読む。かつぎ上げる。
○大内 大内裡、宮中。

又令諸寺遞迎供養。
また諸寺をして次々と迎えて供養させなさるとのことであった。
○逓迎 次々と迎える。適は次第に。
○供養 仏に供物をそなえる。

臣雖至愚,必知陛下不惑於佛、
私は至って愚かではあるけれども、きっと陛下は仏に惑ってこのようにあがめお仕えなされたのだ。

作此崇奉,以祈福祥也。
それでもって福や目出度いことを祈りをされるというのではないことはわかっている。
○崇奉 あがめ仕える。
○福祥 さいわいとめでたいこと。











11 (11)#8-1
然百姓愚冥,易惑難曉,
しかし一般人民は愚かで知が明らかでないので、惑い易く、さとし難いのである。
苟見陛下如此,將謂真心事佛。
いやしくも考えるに、陛下がこのようになさるのを見れば、それはまさに本心から仏に仕えなきると思うのである。
皆云:「天子大聖,猶一心敬信;
だれも皆いう「天子の大聖人が、やはり一心に仏を敬い信じておられる、ということ。
百姓何人,豈合更惜身命!」
一般人民であれば何人に至るまでの者、それは取るに足らぬ微力なものであるとして、どうしてこの上身も命も惜しむべきであるとされるのであろうか、」と。
然れども百姓は愚冥にして、惑ひ易く曉【さと】し難し。
苟【いやし】くも陛下の此の如くなるを見るとせば、將に眞心から佛に事ふと謂い、
皆云はん、「天子大聖すら猶一心に敬信す。
百姓何人ぞ。豈に合【まさ】に更に身命を惜むべけん。」と。
(12)#8-2
焚頂燒指,百十為群,
解衣散錢,自朝至暮,
轉相?效。惟恐後時,
老少奔波,棄其業次。
若不即加禁遏,更?諸寺,
必有斷臂臠身,以為供養者。
傷風敗俗,傳笑四方,非細事也。
頂を焚き指を焼き、百十群を為し、
衣を解き銭を散じ、朝より暮に至り、
轉た相い?效し、惟時に後れんことを恐れ
老少奔波して、其の業次を棄てん。
若し即ち禁遏を加へずして、更に諸寺を歴ば、
必ず斷臂臠身、以て供養を為す者有らん。
風を傷り俗を敗り、笑を四方に傳ふるは、細事に非ざるなり。

『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文) (11)#8-1
然百姓愚冥,易惑難曉,
苟見陛下如此,將謂真心事佛。
皆云:「天子大聖,猶一心敬信;
百姓何人,豈合更惜身命!」

(下し文) (11)#8-1
然れども百姓は愚冥にして、惑ひ易く曉【さと】し難し。
苟【いやし】くも陛下の此の如くなるを見るとせば、將に眞心から佛に事ふと謂い、
皆云はん、「天子大聖すら猶一心に敬信す。
百姓何人ぞ。豈に合【まさ】に更に身命を惜むべけん。」と。

(現代語訳)
しかし一般人民は愚かで知が明らかでないので、惑い易く、さとし難いのである。
いやしくも考えるに、陛下がこのようになさるのを見れば、それはまさに本心から仏に仕えなきると思うのである。
だれも皆いう「天子の大聖人が、やはり一心に仏を敬い信じておられる、ということ。
般人民であれば何人に至るまでの者、それは取るに足らぬ微力なものであるとして、どうしてこの上身も命も惜しむべきであるとされるのであろうか、」と。


(訳注) (11)#8-1
然百姓愚冥,易惑難曉,
しかし一般人民は愚かで知が明らかでないので、惑い易く、さとし難いのである。
〇愚冥 おろかで暗い。冥は眼が明らかでない。

苟見陛下如此,將謂真心事佛。
いやしくも考えるに、陛下がこのようになさるのを見れば、それはまさに本心から仏に仕えなきると思うのである。

皆云:「天子大聖,猶一心敬信;
だれも皆いう「天子の大聖人が、やはり一心に仏を敬い信じておられる、ということ。

百姓何人,豈合更惜身命!」
一般人民であれば何人に至るまでの者、それは取るに足らぬ微力なものであるとして、どうしてこの上身も命も惜しむべきであるとされるのであろうか、」と。
○合 応当の意。・・・・・・するのがふさわしい。ねうちがある。「合【まさ】に……すべし」と訓む。








12  (12)#8-2
焚頂燒指,百十為群,
頭の頂を火に焼き、指の先を焼いて仏を信心する誠を示したり、十人、百人と群れをなしたりする。
解衣散錢,自朝至暮,
衣服を脱ぎ、銭をまいて仏にそなえ、朝から暮れに至るまで仏のことばかり、
轉相?效。惟恐後時,
それをいよいよ次から次へとお互いに倣い真似て伝える、ただ、おくれることを恐れるというし、
老少奔波,棄其業次。
老人も若者も奔る波のように仏寺に押し寄せて、そのすべき仕事を棄ててしまうという。
若不即加禁遏,更?諸寺,
若し直ちに禁止を加えずして、仏骨が更に諸寺を順に廻るならば、
必有斷臂臠身,以為供養者。
必ずわが臂を断ち、身を斬りさいなんで仏に供養をするものがあるであろう。
傷風敗俗,傳笑四方,非細事也。
風習・習俗をそこないやぶって、四方の人々に笑いを伝えひろめることになっては、陛下のために小さな事件ではないのである。
頂を焚き指を焼き、百十群を為し、
衣を解き銭を散じ、朝より暮に至り、
轉た相い?效し、惟時に後れんことを恐れ
老少奔波して、其の業次を棄てん。
若し即ち禁遏を加へずして、更に諸寺を歴ば、
必ず斷臂臠身、以て供養を為す者有らん。
風を傷り俗を敗り、笑を四方に傳ふるは、細事に非ざるなり。

『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文)
(12)#8-2
焚頂燒指,百十為群,
解衣散錢,自朝至暮,
轉相?效。惟恐後時,
老少奔波,棄其業次。
若不即加禁遏,更?諸寺,
必有斷臂臠身,以為供養者。
傷風敗俗,傳笑四方,非細事也。

(下し文) (12)#8-2
頂を焚き指を焼き、百十群を為し、
衣を解き銭を散じ、朝より暮に至り、
轉た相い?效し、惟時に後れんことを恐れ
老少奔波して、其の業次を棄てん。
若し即ち禁遏を加へずして、更に諸寺を歴ば、
必ず斷臂臠身、以て供養を為す者有らん。
風を傷り俗を敗り、笑を四方に傳ふるは、細事に非ざるなり。

(現代語訳)
頭の頂を火に焼き、指の先を焼いて仏を信心する誠を示したり、十人、百人と群れをなしたりする。
衣服を脱ぎ、銭をまいて仏にそなえ、朝から暮れに至るまで仏のことばかり、
それをいよいよ次から次へとお互いに倣い真似て伝える、ただ、おくれることを恐れるというし、
老人も若者も奔る波のように仏寺に押し寄せて、そのすべき仕事を棄ててしまうという。
若し直ちに禁止を加えずして、仏骨が更に諸寺を順に廻るならば、
必ずわが臂を断ち、身を斬りさいなんで仏に供養をするものがあるであろう。
風習・習俗をそこないやぶって、四方の人々に笑いを伝えひろめることになっては、陛下のために小さな事件ではないのである。

(訳注) (12)#8-2
焚頂燒指,百十為群,
頭の頂を火に焼き、指の先を焼いて仏を信心する誠を示したり、十人、百人と群れをなしたりする。
○焚頂焼指 頭の頂を焼き指を焼いて信心の誠を示す。

解衣散錢,自朝至暮,
衣服を脱ぎ、銭をまいて仏にそなえ、朝から暮れに至るまで仏のことばかり、

轉相?效。惟恐後時,
それをいよいよ次から次へとお互いに倣い真似て伝える、ただ、おくれることを恐れるというし、
○轉相?效 それからそれへと互いにならい真似てつたえる。

老少奔波,棄其業次。
老人も若者も奔る波のように仏寺に押し寄せて、そのすべき仕事を棄ててしまうという。
○奔放 はしり寄せる波のように押しよせはしる。
○業次 仕事の場所。生業。

若不即加禁遏,更?諸寺,
若し直ちに禁止を加えずして、仏骨が更に諸寺を順に廻るならば、
○禁遏 抑えとどめる。

必有斷臂臠身,以為供養者。
必ずわが臂を断ち、身を斬りさいなんで仏に供養をするものがあるであろう。
○斷臂臠身 わがひじを断ち身を細切れにきざむ。仏のために誠を示す。禅宗の慧可(えか)が自ら臂を断って精進の誠をあらわした故事による。

傷風敗俗,傳笑四方,非細事也。
風習・習俗をそこないやぶって、四方の人々に笑いを伝えひろめることになっては、陛下のために小さな事件ではないのである。







13 (13)#9-1
夫佛本夷狄之人,與中國言語不通,
一体、仏陀はもともと異民族の人である。中国と言語が通じていないのだ。
衣服殊制,口不言先王之法言,
衣服も作り方が異なり、口に先王の礼法の言説をいいわしないのだ。
身不服先王之法服,
身に先王の制定した服を着けず、
不知君臣之義、父子之情。
君臣の道である義理、父子の間の情愛を知らない。
(13)#9-1
夫れ佛は本【もとも】と夷狄【いてき】の人なり,中國と言語通ぜず。
衣服 制を殊にし,口に先王の法言を言わず。
身に先王の法服を服せず。
君臣の義、父子の情を知らず。

(14)#9-2
假如其身至今尚在,奉其國命,
來朝京師;陛下容而接之,
不過宣政一見,禮賓一設,
賜衣一襲,衛而出之於境,不令惑?也。

(14)#9-2
假如【たとい】其の身今に至るまで尚お在り,其の國命を奉ず。
京師に來朝すとも、陛下容れて 之れに接するに,
宣政【せんせい】に一見し,禮賓【れいひん】を一設し,衣一襲を賜い,衛って之れを境に出たに過ぎず,?を惑するは令めざるなり。

『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文) (13)#9-1
夫佛本夷狄之人,與中國言語不通,
衣服殊制,口不言先王之法言,
身不服先王之法服,
不知君臣之義、父子之情。

(下し文) (13)#9-1
夫れ佛は本夷狄【いてき】の人なり,中國と言語通ぜず。
衣服 制を殊にし,口に先王の法言を言わず。
身に先王の法服を服せず。
君臣の義、父子の情を知らず。

(現代語訳)
一体、仏陀はもともと異民族の人である。中国と言語が通じていないのだ。
衣服も作り方が異なり、口に先王の礼法の言説をいいわしないのだ。
身に先王の制定した服を着けず、
君臣の道である義理、父子の間の情愛を知らない。

(訳注) (13)#9-1
夫佛本夷狄之人,與中國言語不通,
一体、仏陀はもともと異民族の人である。中国と言語が通じていないのだ。
○夷狄 東夷・北狄、異民族のこと。釈迦は印度人であることをいう。

衣服殊制,口不言先王之法言,
衣服も作り方が異なり、口に先王の礼法の言説をいいわしないのだ。
○法言 礼法上の言説。

身不服先王之法服,
身に先王の制定した服を着けず、
○法服 法制上定められた服。天子、卿、大夫、士、庶それぞれ身分上定まった服。

不知君臣之義、父子之情。
君臣の道である義理、父子の間の情愛を知らない。







(14)#9-2
假如其身至今尚在,奉其國命,
たといその身が今に至るまでまだ生きていて、その国王の命を受けて
來朝京師;陛下容而接之,
都長安に来てお目見えしても、陛下は受け入れてもてなしてくれるのに、
不過宣政一見,禮賓一設,
宣政殿で一度会見され、礼賓殿でひとたび賜宴を設けられるもので、
賜衣一襲,衛而出之於境,不令惑?也。
衣服ひとかさねを賜り、護衛してこれを国境から出しておやりになるだけで、これを礼拝して民衆をまどわせるようなことはなさらないであろう。

(13)#9-1
夫れ佛は本【もとも】と夷狄【いてき】の人なり,中國と言語通ぜず。
衣服 制を殊にし,口に先王の法言を言わず。
身に先王の法服を服せず。
君臣の義、父子の情を知らず。
(14)#9-2
假如【たとい】其の身今に至るまで尚お在り,其の國命を奉ず。
京師に來朝すとも、陛下容れて 之れに接するに,
宣政【せんせい】に一見し,禮賓【れいひん】を一設し,衣一襲を賜い,衛って之れを境に出たに過ぎず,?を惑するは令めざるなり。


『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文) (14)#9-2
假如其身至今尚在,奉其國命,
來朝京師;陛下容而接之,
不過宣政一見,禮賓一設,
賜衣一襲,衛而出之於境,不令惑?也。

(下し文) (14)#9-2
假如【たとい】其の身今に至るまで尚お在り,其の國命を奉ず。
京師に來朝すとも、陛下容れて 之れに接するに,
宣政【せんせい】に一見し,禮賓【れいひん】を一設し,衣一襲を賜い,衛って之れを境に出たに過ぎず,?を惑するは令めざるなり。

(現代語訳)
たといその身が今に至るまでまだ生きていて、その国王の命を受けて
都長安に来てお目見えしても、陛下は受け入れてもてなしてくれるのに、
宣政殿で一度会見され、礼賓殿でひとたび賜宴を設けられるもので、
衣服ひとかさねを賜り、護衛してこれを国境から出しておやりになるだけで、これを礼拝して民衆をまどわせるようなことはなさらないであろう。


(訳注) (14)#9-2
假如其身至今尚在,奉其國命,
たといその身が今に至るまでまだ生きていて、その国王の命を受けて
○假如 かりにもし。たとひ。

來朝京師;陛下容而接之,
都長安に来てお目見えしても、陛下は受け入れてもてなしてくれるのに、

不過宣政一見,禮賓一設,
宣政殿で一度会見され、礼賓殿でひとたび賜宴を設けられるもので、
○宜政 宣政殿、殿名、外国使臣の謁見するところ。
○礼賓 礼賓殿、外国人に接待饗宴を賜う殿名。

賜衣一襲,衛而出之於境,不令惑?也。
衣服ひとかさねを賜り、護衛してこれを国境から出しておやりになるだけで、これを礼拝して民衆をまどわせるようなことはなさらないであろう。
〇一襲 衣服ひとかさね。
○境 国境。







(15)#10-1
況其身死已久,枯朽之骨,
まして釈迦の身は死んで随分久しときがたっている。その枯れ朽ちた骨なのである。
凶穢之餘,豈宜令入宮禁?
不吉なけがれたものの残余である仏舎利などを、どうして宮城に入れてよろしいであろうか。
孔子曰:「敬鬼神而遠之。」
孔子は言っている、「神や死者の霊魂は敬ってあなどらず、遠ざかってけがさないようにすることだ」と。
古之諸侯行吊於其國,
古代の諸侯は自分の国の中で弔問をする場合にも、
尚令巫祝先以桃?祓除不祥,然後進吊。
やはり巫(みこ)や祝(かんなぎ)に命じて、その前に、桃や?(葦の穂)を持って、不吉を祓い除かせて、そのあとで進んで弔ったのである。
(16)#10-2
今無故取朽穢之物,親臨觀之,
巫祝不先,桃?不用。
群臣不言其非,
禦史不舉其失,臣實恥之。


『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文)
(15)#10-1
況んや其の身死して已に久し,枯朽【こきゅう】の骨,
凶穢【きょうあい】の餘,豈に宜しく宮禁に入ら令む?
孔子曰く:「鬼神を敬し之に遠ざかる。」と。
古の諸侯、吊を其の國に行うや,
尚お巫祝をして先づ桃?【とうれつ】を以って不祥を祓除【ばつじょ】せ令め,然る後に進み吊す。

(下し文)(佛骨を論ずる表)
(15)#10-1
況其身死已久,枯朽之骨,
凶穢之餘,豈宜令入宮禁?
孔子曰:「敬鬼神而遠之。」
古之諸侯行吊於其國,
尚令巫祝先以桃?祓除不祥,然後進吊。

(現代語訳)
まして釈迦の身は死んで随分久しときがたっている。その枯れ朽ちた骨なのである。
不吉なけがれたものの残余である仏舎利などを、どうして宮城に入れてよろしいであろうか。
孔子は言っている、「神や死者の霊魂は敬ってあなどらず、遠ざかってけがさないようにすることだ」と。
古代の諸侯は自分の国の中で弔問をする場合にも、
やはり巫(みこ)や祝(かんなぎ)に命じて、その前に、桃や?(葦の穂)を持って、不吉を祓い除かせて、そのあとで進んで弔ったのである。

(訳注)(15)#10-1
況其身死已久,枯朽之骨,
まして釈迦の身は死んで随分久しときがたっている。その枯れ朽ちた骨なのである。

凶穢之餘,豈宜令入宮禁?
不吉なけがれたものの残余である仏舎利などを、どうして宮城に入れてよろしいであろうか。
○凶穢之餘 不吉でけがれた残余のもの、それが仏骨なのである。韓愈は車かを崇める皇帝が短命であることで穢れたものであるというのである。

孔子曰:「敬鬼神而遠之。」
孔子は言っている、「神や死者の霊魂は敬ってあなどらず、遠ざかってけがさないようにすることだ」と。
○孔子日 『論語』?也篇に「樊遅知を問ふ。孔子曰く、民の義を務め、鬼神を敬して之に遠ざかる。知と謂ふべし」とある。神や人の亡魂などは、人力以上のものであるから、敬いはするが、馴れ近づいて汚していけないという意味。

古之諸侯行吊於其國,
古代の諸侯は自分の国の中で弔問をする場合にも、
○古之諸侯 『礼記』檀弓篇に「君、臣の喪に臨むに、巫祝桃?戈を執るを以てす」とある。

尚令巫祝先以桃?祓除不祥,然後進吊。
やはり巫(みこ)や祝(かんなぎ)に命じて、その前に、桃や?(葦の穂)を持って、不吉を祓い除かせて、そのあとで進んで弔ったのである。
○桃? 桃の木は鬼が畏れるもの、?すなわち葦の穂の箒は、不祥を払う。この二つを持って先に立つ。








(16)#10-2
今無故取朽穢之物,親臨觀之,
今は故なくして朽ち穢れた仏骨を取られ、天子みずからその場に行って御覧になった。
巫祝不先,桃?不用。
巫や祝【かんなぎ】が先に立っているものの、桃の木や葦の穂を用いて祓いをしないのだ。
群臣不言其非,
群臣はそれがよくないとも言はず、
禦史不舉其失,臣實恥之。
御史もその過ちを取り挙げて責めもしない。私はまことにこれを恥ずかしく思うのである。


『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文)
(16)#10-2
今無故取朽穢之物,親臨觀之,
巫祝不先,桃?不用。
群臣不言其非,
禦史不舉其失,臣實恥之。

(下し文) (佛骨を論ずる表)
(16)#10-2
今故く無して朽穢【きゅうあい】の物を取り,親臨して之を觀る,
巫祝【ふしゅく】先んぜず,桃?【とうれつ】用いず。
群臣 其の非を言わず,
禦史 其の失を舉げず,臣 實【まこと】に之を恥づ。

(現代語訳)
今は故なくして朽ち穢れた仏骨を取られ、天子みずからその場に行って御覧になった。
巫や祝【かんなぎ】が先に立っているものの、桃の木や葦の穂を用いて祓いをしないのだ。
群臣はそれがよくないとも言はず、
御史もその過ちを取り挙げて責めもしない。私はまことにこれを恥ずかしく思うのである。

(訳注)
(16)#10-2
今無故取朽穢之物,親臨觀之,
今は故なくして朽ち穢れた仏骨を取られ、天子みずからその場に行って御覧になった。

巫祝不先,桃?不用。
巫や祝【かんなぎ】が先に立っているものの、桃の木や葦の穂を用いて祓いをしないのだ。
○桃? 桃の木は鬼が畏れるもの、?すなわち葦の穂の箒は、不祥を払う。この二つを持って先に立つ

群臣不言其非,
群臣はそれがよくないとも言はず、

禦史不舉其失,臣實恥之。
御史もその過ちを取り挙げて責めもしない。私はまことにこれを恥ずかしく思うのである。
○御史 官吏の欠点を弾劾(琶(罪過を攻撃する)する役。群臣が天子の迷信を諌めないのを責めるべきであるのに取りあげない。御史台(ぎょしだい)は、中国歴史上の官署の一つである。秦、漢の時代にあっては、御史が監察事務の任にあたった。御史の執務する役所を御史府といい、蘭台、憲台とも称した。南朝の梁、陳や北魏、東魏、西魏、北斉の時代に御史台と称された。







(17)#11-1
乞以此骨付之有司,投諸水火,
どうかこんな骨は役人に下げ渡されることです、そしてこれを水か火に投げ捨てることです。
永?根本,斷天下之疑,?後代之惑。
これから先、永く仏教がひろく通ずることの根本を絶つこと、天下に欺瞞がひろがることを断絶すること、そして、後世に疑惑が伝わらぬように断つことなのです。
使天下之人,知大聖人之所作為,
天下の人々をして大聖人天子のなされる所は、世の常の人々をはるかに凌いでいるということを知らしめるのです。
出於尋常萬萬也。
天子が上に出ること万々倍の常識であることを知らしめて頂きたい。
豈不盛哉!豈不快哉!
これは何と立派なことではないか。何と心よいことではないか。
(18)#11-2
佛如有靈,能作禍祟,
凡有殃咎,宜加臣身。
上天鑒臨,臣不怨悔。
無任感激懇悃之至,謹奉表以聞。
臣某誠惶誠恐。



『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文) (17)#11-1
乞以此骨付之有司,投諸水火,
永?根本,斷天下之疑,?後代之惑。
使天下之人,知大聖人之所作為,
出於尋常萬萬也。
豈不盛哉!豈不快哉!

(下し文) (佛骨を論ずる表)
(17)#11-1
乞以此骨付之有司,投諸水火,
永?根本,斷天下之疑,?後代之惑。
使天下之人,知大聖人之所作為,
出於尋常萬萬也。
豈不盛哉!豈不快哉!

(現代語訳)
どうかこんな骨は役人に下げ渡されることです、そしてこれを水か火に投げ捨てることです。
これから先、永く仏教がひろく通ずることの根本を絶つこと、天下に欺瞞がひろがることを断絶すること、そして、後世に疑惑が伝わらぬように断つことなのです。
天下の人々をして大聖人天子のなされる所は、世の常の人々をはるかに凌いでいるということを知らしめるのです。
天子が上に出ること万々倍の常識であることを知らしめて頂きたい。
これは何と立派なことではないか。何と心よいことではないか。


(訳注) (17)#11-1
乞以此骨付之有司,投諸水火,
どうかこんな骨は役人に下げ渡されることです、そしてこれを水か火に投げ捨てることです。

永?根本,斷天下之疑,?後代之惑。
これから先、永く仏教がひろく通ずることの根本を絶つこと、天下に欺瞞がひろがることを断絶すること、そして、後世に疑惑が伝わらぬように断つことなのです。
○根本 仏教流伝の根源。

使天下之人,知大聖人之所作為,
天下の人々をして大聖人天子のなされる所は、世の常の人々をはるかに凌いでいるということを知らしめるのです。
○大聖人 天子を指す。

出於尋常萬萬也。
天子が上に出ること万々倍の常識であることを知らしめて頂きたい。
○万万 大きいこと。万倍。

豈不盛哉!豈不快哉!
これは何と立派なことではないか。何と心よいことではないか。








18《論佛骨表》(18)#11-2韓愈(韓退之) U中唐詩 <901>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3489韓愈詩-227-18


(17)#11-1
乞以此骨付之有司,投諸水火,
どうかこんな骨は役人に下げ渡されることです、そしてこれを水か火に投げ捨てることです。
永?根本,斷天下之疑,?後代之惑。
これから先、永く仏教がひろく通ずることの根本を絶つこと、天下に欺瞞がひろがることを断絶すること、そして、後世に疑惑が伝わらぬように断つことなのです。
使天下之人,知大聖人之所作為,
天下の人々をして大聖人天子のなされる所は、世の常の人々をはるかに凌いでいるということを知らしめるのです。
出於尋常萬萬也。
天子が上に出ること万々倍の常識であることを知らしめて頂きたい。
豈不盛哉!豈不快哉!
これは何と立派なことではないか。何と心よいことではないか。
(18)#11-2
佛如有靈,能作禍祟,
仏がもし霊力があって、禍やたたりをなすことができるならそうなさればよい。
凡有殃咎,宜加臣身。
およそわざわいがあるということでおとがめがあるならば、私のこの身にお加えなさるがよろしい。
上天鑒臨,臣不怨悔。
上天の神も上からこのわたしを見下ろしておられる。私は臣下として首をはねられても怨んだり悔いたりはいたしません。
無任感激懇悃之至,謹奉表以聞。
私は感激とねんごろなまごころの至りに堪えられないので、謹んでこの上表文を奉り申し上げる、
臣某誠惶誠恐。
誠に申し訳なく誠心誠意申し上げる次第である。


『論佛骨表』 現代語訳と訳註
(本文) (18)#11-2
佛如有靈,能作禍祟,
凡有殃咎,宜加臣身。
上天鑒臨,臣不怨悔。
無任感激懇悃之至,謹奉表以聞。
臣某誠惶誠恐。

(下し文)(佛骨を論ずる表)
(18)#11-2
佛如有靈,能作禍祟,
凡有殃咎,宜加臣身。
上天鑒臨,臣不怨悔。
無任感激懇悃之至,謹奉表以聞。
臣某誠惶誠恐。

(現代語訳)
仏がもし霊力があって、禍やたたりをなすことができるならそうなさればよい。
およそわざわいがあるということでおとがめがあるならば、私のこの身にお加えなさるがよろしい。
上天の神も上からこのわたしを見下ろしておられる。私は臣下として首をはねられても怨んだり悔いたりはいたしません。
私は感激とねんごろなまごころの至りに堪えられないので、謹んでこの上表文を奉り申し上げる、
誠に申し訳なく誠心誠意申し上げる次第である。

(訳注) (18)#11-2
佛如有靈,能作禍祟,
仏がもし霊力があって、禍やたたりをなすことができるならそうなさればよい。
○有霊 霊力がある。ふしぎな力がある。
○禍祟 わぎわいとたたり。

凡有殃咎,宜加臣身。
およそわざわいがあるということでおとがめがあるならば、私のこの身にお加えなさるがよろしい。
○殃咎 とがめ。わざわい。

上天鑒臨,臣不怨悔。
上天の神も上からこのわたしを見下ろしておられる。私は臣下として首をはねられても怨んだり悔いたりはいたしません。
○鑒臨 上から照らしのぞむ。

無任感激懇悃之至,謹奉表以聞。
私は感激とねんごろなまごころの至りに堪えられないので、謹んでこの上表文を奉り申し上げる、
○懇悃 ねんごろなまこと。悃はまごころ。
○以聞 申し上げる。上表文につける常用形式語。「いぷん」と読む。

臣某誠惶誠恐。
誠に申し訳なく誠心誠意申し上げる次第である。



論佛骨表(2)#1
臣某言:伏以佛者,夷狄之一法耳,自後漢時流入中國,上古未嘗有也。
《論佛骨表》(1)元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <884>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3404韓愈詩-227-1
(3)#2
昔者?帝在位百年,年百一十?;
少昊在位八十年,年百?;
??在位七十九年,年九十八?;
帝?在位七十年,年百五?;
帝堯在位九十八年,年百一十八?;
帝舜及禹,年皆百?。此時天下太平,
百姓安樂壽考,然而中國未有佛也。
《論佛骨表》(2)元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <885>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3409韓愈詩-227-2
《論佛骨表》(3)元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <886>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3414韓愈詩-227-3
#3
其後,殷湯亦年百?,湯孫太戊在位七十五年,武丁在位五十九年,書史不言其年壽所極,推其年數,蓋亦?不減百?,周文王年九十七?,武王年九十三?,穆王在位百年。此時佛法亦未入中國,非因事佛而致然也。
《論佛骨表》(4)元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <887>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3419韓愈詩-227-4
#4
漢明帝時,始有佛法,明帝在位,才十八年耳。其後亂亡相繼,運祚不長。宋、齊、梁、陳、元魏以下,事佛漸謹,年代尤促。惟梁武帝在位四十八年,前後三度舍身施佛,宗廟之祭,不用牲牢,晝日一食,止於菜果。其後竟為侯景所逼,餓死台城,國亦尋滅。事佛求福,乃更得禍。由此觀之,佛不足事,亦可知矣。
《論佛骨表》(5)元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <888>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3424韓愈詩-227-5
《論佛骨表》(6)元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <889>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3429韓愈詩-227-6ー#4−2
#5
高祖始受隋禪,則議除之。當時群臣材識不遠,不能深知先王之道、古今之宜,推闡聖明,以救斯弊,其事遂止。臣常恨焉。
《論佛骨表》(7)元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <890>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3434韓愈詩-227-7
#6
伏惟睿聖文武皇帝陛下,神聖英武,數千百年已來,未有倫比。即位之初,即不許度人為僧尼、道士,又不許創立寺觀。臣?以為高祖之誌,必行於陛下之手,今縱未能即行,豈可恣之轉令盛也!
《論佛骨表》(8)元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <891>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3439韓愈詩-227-8
《論佛骨表》(9) #7元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <892>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3444韓愈詩-227-9
#7
今聞陛下令群僧迎佛骨於鳳翔,禦樓以觀,舁入大?,又令諸寺遞迎供養。臣雖至愚,必知陛下不惑於佛,作此崇奉,以祈福祥也。直以年豐人樂,徇人之心,為京都士庶設詭異之觀,戲玩之具耳。安有聖明若此,而肯信此等事哉!
《論佛骨表》(10)元和十四年韓愈(韓退之) U中唐詩 <893>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3449韓愈詩-227-10
#8然百姓愚冥,易惑難曉,苟見陛下如此,將謂真心事佛。皆云:「天子大聖,猶一心敬信;百姓何人,豈合更惜身命!」焚頂燒指,百十為群,解衣散錢,自朝至暮,轉相?效。惟恐後時,老少奔波,棄其業次。若不即加禁遏,更?諸寺,必有斷臂臠身,以為供養者。傷風敗俗,傳笑四方,非細事也。
《論佛骨表》(11)韓愈(韓退之) U中唐詩 <894>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3454韓愈詩-227-11
《論佛骨表》(12)#8-2韓愈(韓退之) U中唐詩 <895>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3459韓愈詩-227-12
#9
夫佛本夷狄之人,與中國言語不通,衣服殊制,口不言先王之法言,身不服先王之法服,不知君臣之義、父子之情。假如其身至今尚在,奉其國命,來朝京師;陛下容而接之,不過宣政一見,禮賓一設,賜衣一襲,衛而出之於境,不令惑?也。
《論佛骨表》(13)韓愈(韓退之) U中唐詩 <896>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3464韓愈詩-227-13
《論佛骨表》(14)#9-2韓愈(韓退之) U中唐詩 <897>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3469韓愈詩-227-14
#10
況其身死已久,枯朽之骨,凶穢之餘,豈宜令入宮禁?
孔子曰:「敬鬼神而遠之。」古之諸侯行吊於其國,尚令巫祝先以桃?祓除不祥,然後進吊。今無故取朽穢之物,親臨觀之,巫祝不先,桃?不用。群臣不言其非,禦史不舉其失,臣實恥之。
《論佛骨表》(15)#10-1韓愈(韓退之) U中唐詩 <898>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3474韓愈詩-227-15
#11
乞以此骨付之有司,投諸水火,永?根本,斷天下之疑,?後代之惑。使天下之人,知大聖人之所作為,出於尋常萬萬也。豈不盛哉!豈不快哉!佛如有靈,能作禍祟,凡有殃咎,宜加臣身。上天鑒臨,臣不怨悔。無任感激懇悃之至,謹奉表以聞。
臣某誠惶誠恐。







   ページの先頭へ  


15の漢詩総合サイト
















漢文委員会


紀 頌之