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5-3 送窮
第五章 中央朝廷へ復帰 5-3送窮 元和六(811)年《44歳》
5-3 送窮
元和六年(811)、愈は四十四歳。正月、「柳を結んで車と作し、草を縛って船と為し」て、「窮鬼」、すなわち貧乏神を送り出す行事をした。これは当時の年中行事の一つであって、べつに珍しいことではない。ただ、この年の彼は、行事に託して「窮鬼」と自分との架空の対話を述べた《昌黎先生集/卷36-3送窮文》を書いた。
彼によれば、窮鬼は五人いる。第一は「智窮」といい、大きな顔をするのが好きで、曲ったことを憎む。第二を「学窮」といい、いろいろな書物を読み、わかりにくいことを明らかにしようとする。第三を「文窮」といい、時代に適合しない文学を作って、自分だけ楽しんでいる。第四を「命窮」といい、顔はまずいが心は美しく、人々より後にいるのが好きで、人の先に立つことを嫌う。第五を「交窮」といい、友人に自分の真情をうちあけ、それに答えてくれると思っては、裏切られる。
これは披の「自己批判」である。この五人の貧乏神が自分に住みついているので、いつまでも富貴が得られないのだ。そこで、彼は窮鬼たちに告げる。あなたがたは近いうち、ここから出て行くそうだ。どこへ行くのか知らないが、船と車と、それに食糧を用意した。これで行く気になってくれたろうか。
しかし、五人の窮鬼はあざ笑って答える。われわれとおまえとは、四十余年のつきあいだ。われわれはいつも、おまえの行く所について行った。おまえは人々の嫌われ者だが、われわれだけは、おまえの味方であった。それを出て行けとは、誰かがわれわれのことを、おまえに潅言でもしたのか。「人の一世に生くる、其の久しきこと敷俯ベ梁只の名を立てヽ百世訟びざらしめん・小人君子は、其の心同じからす。惟時に乖けばこそ、乃ち天と通ぜん」。だから、どれほど熱心に送られようと、われわれは出て行かない。「予を信ならすと謂はば、請ふ詩書に質せ」。
この言葉を聞いた愈は、拝謝して彼らを上座に据え、送り出すのを思い止まったというのが、全文のあらましである。貧乏神との対話に託し、披はあらゆる逆境に堪えて自分の信念を守りぬこうとする決意を、年頭に当って新たにした。その決意はまた、前年に作られた「楊之早を招く」詩(韓文五)のうちの、「先王 文章を遺す綴揖するは実に余に在り」という自負ともつながるものであった。
ところが、またもや問題が起った。長安の東方にあたる華陰県の県令の柳澗という人に不正があり、その上司である華州剌史の閣済美が澗の職務執行を停止させ、かつその罪状を朝廷に報告した。
しかし、朝廷の裁決が下る前に閥は転任となり、後任の趙昌という人が到着した。その機会を利用して柳は農民を煽動し、不穏の形勢が見えた。趙は腹を立てて柳を逮抽させ、処罰してしまった。
その時、愈が華陰のあたりを通りかかった。たぶん職方員外郎の職貴上、地理調査のために出張していたのであろう。そしてこの事件を聞き、柳が実は農民の味方をする良心的な県令なのに、二代の刺史が腹を合せて柳を迫害していると思った。どれほどの証拠があってのことかはわからない。
と言うよりも、愈は綿密な調査もしないうちから、ただそう思いこんだらしいのである。今までの体験によって、披は物ごとの裏へと気をまわす癖がついていたのかもしれない。上官は下僚を迫害するという固定観念がしみこんだためもあったろう。
そうなると黙ってはいられないのが、彼の性分である。「智窮」の貧乏神は、やはり彼にとりついていた。そこで、すぐに上奏文を書き(この文章は現存しない)、柳の再審理を請願した。朝廷はそれを受理し、監察御史に調査を命じたが、結果は、柳の罪状がますます明白となったに過ぎなかった。
今に残る記録は簡単なもので、柳がどのような罪を犯したのかは明らかでない。『唐書』韓愈伝に、監察御史が調査して、柳の「臓を得たり」と書いてあるところを見ると、柳は賄賂を取っていたか、あるいは公金を横領したのかと思われる。ただ、朝廷の記録がそのまま信用はできないので、破廉恥罪と見えるのは表むきのことであり、実際は愈が思いこんだとおり、柳は農民に加担する 「進歩的な」県今だったのかもしれない。しかし、いすれにしても裁決が下っては、動かしようもなかった。柳は趙が下したのよりは一段と重い処罰を受ける。それといっしょに、よけいなことに口を出してお上を騒がせたかどで、愈も降職されることとなった。
送窮文
元和六年正月乙醜晦,主人使奴星,結柳作車,縛草為船,載?輿?,牛系軛下,引帆上檣,三揖窮鬼而告之曰:“聞子行有日矣,鄙人不敢問所途。竊具船與車,備載??。日吉時良,利行四方。子飯一盂,子啜一觴。攜朋挈儔,去故就新。駕塵?風,與電爭先。子無底滯之尤,我有資送之恩。子等有意於行乎?”
屏息潛聽,如聞音聲,若嘯若啼,??嗄嚶。毛發盡豎,竦肩縮頸,疑有而無,久乃可明。若有言者曰:“吾與子居,四十年余。子在孩提,吾不子愚。子學子耕,求官與名,惟子是從,不變於初。門神?靈,我叱我呵,包羞詭隨,誌不在他。子遷南荒,熱爍濕蒸,我非其?,百鬼欺陵。太學四年,朝齏暮鹽,惟我保汝,人皆汝嫌。自初及終,未始背汝,心無異謀,口?行語。於何聽聞,雲我當去?是必夫子信讒,有間於予也。我鬼非人,安用車船?鼻?臭香,??可捐。單獨一身,誰為朋儔?子?備知,可數已不?子能盡言,可謂聖智,情?既露,敢不回避?”
主人應之曰:“子以吾為真不知也邪?子之朋儔,非六非四,在十去五,滿七除二。各有主張,私立名字。捩手覆羹,轉喉觸諱。凡所以使吾面目可憎,語言無味者,皆子之誌也。其名曰智窮:矯矯亢亢,惡圓喜方。羞為奸欺,不忍害傷。其次名曰學窮:傲數與名,摘抉杳微,高?群言,執神之機。又其次曰文窮:不專一能,怪怪奇奇,不可時施,只以自嬉。又其次曰命窮:影與形殊,面醜心妍,利居?後,責在人先。又其次曰交窮:磨肌戛骨,吐出心肝,企足以待,置我仇冤。凡此五鬼,為吾五患。饑我寒我,興訛造?。能使我迷,人莫能間。朝悔其行,暮已復然。蠅營狗?,驅去復還。”
言未畢,五鬼相與張眼吐舌,跳踉偃仆,抵掌頓?,失笑相顧。徐謂主人曰:“子知我名,凡我所為。驅我令去,小黠大癡。人生一世,其久幾何?吾立子名,百世不磨。小人君子,其心不同。惟乖於時,乃與天通。攜持??,易一羊皮。飫於肥甘,慕彼糠糜。天下知子,誰過於予?雖遭斥逐,不忍子疏。謂予不信,請質《詩》、《書》。”
主人於是垂頭喪氣,上手稱謝,燒車與船,延之上座。
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(811)
1.辛卯年雪
2.李花,二首之一
3.李花,二首之二
4.寄盧仝【案:憲宗元六年河南令時作。】
5.酬司門盧四兄雲夫院長望秋作
6.誰氏子【案:呂Q,河南人,元和中,棄其妻,著道士服,謝母曰:「當學仙王屋山。」去數月,復出見河南少尹李素,素立之府門,使吏卒?道士服,給冠帶,送付其母。】
7.河南令舍池臺
8.送無本師歸范陽【案:賈島初為浮屠,名無本。】
9.石鼓歌【案:歐陽修《集古?》云:「石鼓文在岐陽,初不見稱於世,至唐人始盛稱之,而韋應物以為周文王之鼓,至宣王刻詩爾,韓退之直以為宣王之鼓,在今鳳翔孔子廟。鼓有十,先時散棄於野,鄭餘慶始置於廟,而亡其二。皇祐四年,向傳師求於民間,得之,十鼓乃足。」石鼓文可見者,其略曰:「我車既攻,我馬既同。」又曰:「我車既好,我馬既?。君子員獵,員獵員。麋鹿速速,君子之求。」又曰:「左驂旛旛,右驂??。秀弓時射,麋豕孔庶。」又曰:「其魚維何,維?維鯉。何以??果之,維楊與柳。」】
10.雙鳥詩
11.送陸暢歸江南【案:暢嬖董溪女。溪,丞相晉第二子,愈嘗為晉從事,故云門下士。】
12.贈張籍
13.盧郎中雲夫寄示送盤谷子詩兩章歌以和之
14.入關詠馬
15.峽石西泉【峽石寒泉】
16.池上絮【案:見《遺集》。】
17.送窮文
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