紀頌之の韓愈詩文研究のサイト


  韓愈の生涯  

2-2 再び幕僚生活



2-2再び幕僚生活 貞元一六(800)年《33歳〉 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
75
800年貞元16年33歳  初句  
《昌黎先生集/卷2-3幽懷》 幽懷不能寫,
《昌黎先生集/卷2-6歸彭城》 天下兵又動,
《昌黎先生集/卷3-1-2河之水二首寄子?老成其一》 河之水,
《昌黎先生集/卷3-1-1河之水二首寄子?老成其二》 河之水,
《昌黎先生集/卷7-2送僧澄觀》【案:李?泗州普光王寺碑。僧伽者,龍朔中西來,嘗縱觀臨淮,發念置寺,既成,中宗賜名普光王寺,以景龍四年三月二日示滅於京,後澄觀建僧伽塔於泗州。】 浮屠西來何施為,
《外集•卷1-3海水》【海水詩】【案:見《外集》。】 海水非不廣,
《昌黎先生集/卷15-1與孟東野書》 與足下?久矣,


2-2 再び幕僚生活


 明ければ貞元十六年(800)、愈は三十三歳。前年の暮から張建封の命令で久しぶりに都へ行き、用務をすませて、この春、徐州に帰った。
 このころの愈か書いたものには、かなり絶望の色が濃い。張建封の待遇が思ったほどには良くなかったためか、それとも注州以来、政治の実態に触れて、単純な理想論ではとても解決のしようがない現実の複雑さと醜さに愛想をつかしたためか。ただ、疑う余地がないのは、彼の議論好きな性格が周囲の人々と衝突を起しやすかったことである。
 前年の九月、張建封の幕下に入ったばかりの愈は、ほどなく建封に手紙を送り、幕府の規則に文句をつけている《昌黎先生集/卷17-1上張仆射書》(張僕射に上る書)。愈の言うところによれば、次のとおりである。
 愈が任命を受けた翌目、幕府に顔を出すと、小役人が来て、役所の規則及び慣例十数ぉ条を示した。蓼僚の仕事はどこでも同じようなものだが、執務の細則は節度使が定めるので、募府によって相違が生ずるのは当然である。新任の募僚に規則と慣例を示すのも当然の手続きで、それに文句をつける筋はないはずだが、就任早々、うるさい規則を見せつけられたのが、先す愈の疳にさわったらしい。
 しかもその規則の中の一条は、断じて承服しかねるものであった。九月から翌年の二月の末までは、毎目早朝に出勤し、夜になってから退庁すべきこと、勤務時間内は病気または事故の場合を除き、役所の外に出ることを許さない、というのである。これを見せられたときは、新任のことでもあり、黙ってお受けしたが、どう考えてみても不服でならない。そこで、この手紙を書いた。
 だいたい、あなたが私を採用してくれたのは、早朝に出勤し、夜になって退庁することができる男と考えたためか。ほかに、もっと取り梢があると思ったからではないのか。ほかに取り梢があるのなら、なにも早朝に出勤し、夜に退庁せすとも、任務は果たせるはすである。およそ上に立つ人が下の者を使うときには、才能と性格を考え、できないことは強制しないかわりに、できることを十分に遂行させるよう配慮すべきである。自分はこんな規則を守ることができないし、守れと強制されれば、「必す狂疾を発せん」。
 だから、自分に対しては、寅の刻(だいたい午前四時)に出勤、辰の刻の終り(午前九時)にいったん退庁、中の刻(午後四時)にまた出勤、酉の刻の終り(午後七時)に退庁という方式を認めてほしいそうすれば、あなたは「士を待つに礼を以てする」ことになるし、自分はそれほどの上宮を選んで仕えたことになる。単にあなたが自分の窮状を憐れみ、自分は俸禄が欲しいゆえに、主従の関係が結ばれたということにはならない。あなたと自分とは、知己の関係で強く結ばれたといえるのだ。
 この手紙の言うところは、いちおうは尤もである。意が認めてほしいと要求した勤務時間は、当時の朝廷の百官のそれとほぼ一致しており、べつに不当ではない。たぶん、董晋の募府の勤務時間もこうだったのであろう。早朝から夜まで役所に縛りつけておこうとする張建封の規則の方が、無茶だったのである。
 それにしても、就任早々、服務規定に文句をっけるとは、見上げた度胸であった。ただし、注意しておいてよいのは、愈の要求がこの規則の改正にあったのではなく、自分だけは特別扱いにしてくれというにあった点である。ほかの幕僚と共同で勤務時間短縮の運動を起せば、反乱と解釈されてもしかたのない時代なので、個別に要求を出すほかはなかったともいえるが、意の意識にあったのは、おそらくそのことではあるまい。平凡な幕僚は、服務規定をまじめに守っていればよいのだ。
自分はもっと大きな使命を持っており、それが建封の役にも立つのだから、特別の待遇をしてくれというのが、本音であったと見られる。
 特別扱いにはしない、それがいやなら辞職しろと建封に言われればおしまいになるはすの要求で、ずいぶん大胆なことをしたようだが、愈の方にも計算はあったらしい。前からの知りあいでもあり、このくらいのことを言っても怒られることはないと、見通しか立っていたようなのである。手紙の中にも、現代の高官の中で、こんなことが言えるのはあなただけであり、また、あなたにこんなことが言えるのは自分だけだという宇句かある。事実、建封がただちに愈の要求を承認したかどうかはわからないが、少なくとも意が怒られもせす、解任もされなかったのは、たしかである。しかし、そうなれば一方で、仲間の募僚たちの意に対する風当りが強くなることは、覚悟しなければならない。
 沢州にいたころ(あるいはもう少し遅く、この徐州時代かもしれない)、弟子の張籍が愈に手紙をよこし、先生は人と議論をするときにあとへ引こうとしない、どうも負けずぎらいなように見えるが、少し注意なさったがよいといさめた。愈はそれに答えて《昌黎先生集/卷14-12重答張籍書》に言う。たしかに、自分には御忠告のような点がある。だが、それは
「抑も己の勝つを好むに非ざるなり。己の道の勝つを好むなり。己の道の勝つを好むに非ざるなり。己の道は乃ち夫子・孟祠・揚雄の伝へし所の道なり。若し勝たずんば、以て道と為すこと無し」。

 身分からいえば、節度使の一幕僚にすぎない。それが孔子以来の「道」を一人で背負ったような顔をしているのである。本人には、もちろんそれだけの自信があったのだが、他人にとっては、おそらくつきあいにくい男だったであろう。
 だから張建封の募下では、まともに披の相手をする者がなくなったに相違ない。それが披には不満である。この時期の詩《昌黎先生集/卷3-5忽忽》に言う。
忽忽
忽忽乎余未知生之為樂也,願?去而無因。
安得長?大翼如雲生我身,乘風振奮出六合,?浮塵。
死生哀樂兩相棄,是非得失付閑人。(韓文三、忽忽)
忽忽【こつこつ】
忽忽乎【こ】 として 余 未だ生の樂みと爲なすところを知らざる也り,脱去せんと願うに因【よ】し 無し。
安【いづく】んぞ 長?【ちょうかく】大翼を得て 雲の如く 我が身に生【は】やさん。
風に乘り 振奮して 六合【りくごう】を出いで,浮塵を絶たん。
死生 哀樂【あいらく】 兩【ふたつ】ながら 相い棄て,是非 得失は關lに付す。

 「忽忽として」世に楽しみを持たない以上、山林にひそむか、神仙の世界にでもあこがれるか、いずれにしても現世からの逃避を考えるのが通常である。この詩にも、多少そちらへの志向は見えるが、彼は孔子・孟子の「道」を継ぐことを自任しており、その立場からすれば、世を棄てることは自殺行為にひとしい。披の気持の中には、何やら櫃屈したものが生じていた。
 この年の三月、彼は親亥の孟郊(東野)にあてて手紙を書いた《昌黎先生集/卷15-1與孟東野書》(孟東野に与ふる書)。の中で、君と久しく会えないので淋しいと述べた後、「吾これを言ふも聴く者は誰そや。吾これを唱ふも和する者は誰そや。言、聴かるる無きなり。唱、和する者無きなり。独り行きて従無きなり。
是非、与に同にする所無きなり」と、孤独の嘆きを訴える。そして防州の乱以来、張建封に引きとめられて幕僚となり、「黙然として此に在る」近況を述べてから、「今年の秋に到らば、聊か復た辞し去らん。江湖は余の楽しみなり。足下と終らば幸ひならん」と告げる。幕僚生活をやめ、町に隠れて、君と一生を送りたいと言うのである。
 さらにこの年、彼は早世した従児の非の娘を、弟子の李翻に嫁がせたことが、同じ于紙の中に見える。このころ、彼が養っていた一家は三十人というが、妻子と家つきの下僕などを合せても三十人とは多すぎるので、貪の娘のような、身寄りのない一族の者をも抱えていたのであろう。自分が兄嫁の鄭氏に養われたありがたさを、肝に銘じていたのかもしれぬ。
 そこで、たぶんそのころのことと思われるが、李翔から都へ出るようにとすすめる手紙が来た。愈はその返書に《昌黎先生集/卷16-11與李?書》(李?に与ふる書)、いちおう惑謝の言葉を述べてから、次のように言う。 自分の家はもともと貧乏な上に、災難にあって(注州の乱をさす)、資産らしいものもなくなった。
しかも一家は三十人もいる。これを見捨てて、単身で上京することはできない。三十人も連れて上京することは、なおさらできない。しかも、自分が都へ出ることで何かのプーフスが得られると、君は考えているのだろうか。自分はかつて、ハ、九年も都の生活を送ったことがある。そのころは生活費もなく、毎日他人の援助を受けては、どうやら歳月を過ごしていた。その時は夢中であったが、今にして思えば、昔の古傷のような感じがする。あのころとくらべれば、自分も年をとった。また同じ痛みを味わうのはやりきれない。都には自分を理解してくれる人は少ないし、理解した上で愛してくれる人は、なおさら少ない。君だけはたしかに自分を愛してくれるが、「今、天下の人、式の如き者有らんか、尭舜より已来、士に不遇なる者有らんや。無きなり」。
 このように暗い思いを抱きながら、愈はその「江湖の楽しみ」を実現すべく、秋をも待たすに、五月、徐州を去る。李翔と、やはり門下に入っていたらしい王涯・侯喜が供をした。行く先は、とりあえず洛陽である。
 徐州の近くに、十四年前意と交際があった李平という人の家があった。一行はそこに立ち寄り、旧交を温めたが、そのとき意の書き残した文(韓文外集四、李生の壁に題す)に、「余、徐州より髭けられ、将に西のかた洛陽に居らんとす」という句がある。ここから見ると、徐州を去ったのは辞職ではなく、首になったためのようである。ちょうどその五月、張建封は病気のため重態に陥った。
だから、平素は建封が昔のよしみで、愈が何を言おうと大目に見ていたのに、この際とばかり、仲間の幕僚たちが愈をいじめ、いびり出したという推定が成立するであろう。
 そして愈が去った後、建封は死に、お定まりの後任争いで戦闘が起る。いびり出されたのがかえって幸いになり、愈は兵乱をまぬがれて、一家ともども洛陽に着いた。ただし、身分はまた失業者にもどったわけである。



上張仆射書
九月一日,愈再拜:受牒之明日,在使院中,有小吏持院中故事節目十餘事來示愈。
其中不可者,有自九月至明年二月之終,皆晨入夜歸,非有疾病事故,輒不許出。
當時以初受命,不敢言,古人有言曰:人各有能有不能。若此者,非愈之所能也。
抑而行之,必發狂疾,上無以承事於公,忘其將所以報コ者;下無以自立,喪失其
所以為心。夫如是,則安得而不言?
凡執事之擇於愈者,非為其能晨入夜歸也,必將有以取之。苟有以取之,雖不晨入
而夜歸,其所取者猶在也。下之事上,不一其事;上之使下,不一其事。量力而仕
之,度才而處之,其所不能,不強使為,是故為下者不獲罪於上,為上者不得怨於
下矣。孟子有云:今之諸侯無大相過者,以其皆「好臣其所教,而不好臣其所受教」,
今之時,與孟子之時又加遠矣,皆好其聞命而奔走者,不好其直己而行道者。聞命
而奔走者,好利者也;直己而行道者,好義者也。未有好利而愛其君者,未有好義
而忘其君者。今之王公大人,惟執事可以聞此言,惟愈於執事也可以此言進。愈蒙
幸於執事,其所從舊矣。若ェ假之,使不失其性,加待之,使足以為名,寅而入,
盡辰而退;申而入,終酉而退,率以為常,亦不廢事。天下之人聞執事之於愈如是
也,必皆曰:執事之好士也如此,執事之待士以禮如此,執事之使人不枉其性而能
有容如此,執事之欲成人之名如此,執事之厚於故舊如此。又將曰:韓愈之識其所
依歸也如此,韓愈之不諂屈於富貴之人如此,韓愈之賢能使其主待之以禮如此,則
死於執事之門無悔也。若使隨行而入,逐隊而趨,言不敢盡其誠,道有所屈於己;
天下之人聞執事之於愈如此,皆曰:執事之用韓愈,哀其窮,收之而已耳;韓愈之
事執事,不以道,利之而已耳。苟如是,雖日受千金之賜,一?九遷其官,感恩則
有之矣,將以稱於天下曰知己知己則未也。
伏惟哀其所不足,矜其愚,不?其罪,察其辭而垂仁采納焉。愈恐懼再拜。


重答張籍書
吾子不以愈無似,意欲推而納諸聖賢之域,拂其邪心,搗エ所未高,謂愈之質有可以至於道者,
浚其源,導其所歸,?其根,將食其實。此盛コ者之所辭讓,況於愈者哉?抑其中有宜複者,
故不可遂已。
昔者聖人之作《春秋》也,既深其文辭矣,然猶不敢公傳道之,口授弟子,至於後世,然後其
書出焉。其所以慮患之道微也。今夫二氏之所宗而事之者,下及公卿輔相,吾豈敢昌言排之哉?
擇其可語者誨之,猶時與吾悖,其聲??。若遂成其書,則見而怒之者必多矣,必且以我為狂
為惑。其身之不能恤,書於吾何有?夫子,聖人也,且曰:「自吾得子路,而惡聲不入於耳。」
其餘輔而相者周天下,猶且?糧於陳,畏於匡,毀於叔孫,奔走於齊、魯、宋、衛之郊。其道
雖尊,其窮也亦甚矣!ョ其徒相與守之,卒有立於天下。向使獨言之而獨書之,其存也可冀乎?
今夫二氏行乎中土也,蓋六百年有餘矣。其植根固,其流波漫,非所以朝令而夕禁也。自文王
沒,武王、周公、成康相與守之,禮樂皆在。及乎夫子,未久也;自夫子而及乎孟子,未久也;
自孟子而及乎揚雄,亦未久也。然猶其勤若此,其困若此,而後能有所立,吾其可易而為之哉!
其為也易,則其傳也不遠,故餘所以不敢也。然觀古人,得其時行其道,則無所為書。書者,
皆所為不行乎今而行乎後世者也。今吾之得吾誌、失吾誌未可知,俟五六十為之未失也。天不
欲使茲人有知乎,則吾之命不可期;如使茲人有知乎,非我其誰哉?其行道,其為書,其化今,
其傳後,必有在矣。吾子其何遽戚戚於吾所為哉!
前書謂我與人商論不能下氣,若好勝者然。雖誠有之,抑非好己勝也,好己之道勝也;非好己之
道勝也,己之道乃夫子、孟子、揚雄所傳之道也。若不勝,則無以為道。吾豈敢避是名哉!夫子
之言曰:「吾與回言終日,不違如愚。」則其與?人辯也有矣。駁雜之譏,前書盡之,吾子其複
之。昔者夫子猶有所戲,《詩》不云乎:「善戲謔兮,不為虐兮。」《記》曰「張而不弛,文武
不能也」,惡害於道哉?吾子其未之思乎!孟君將有所適,思與吾子別,庶幾一來。愈再拜。



忽忽
忽忽乎余未知生之為樂也,願?去而無因。
安得長?大翼如雲生我身,乘風振奮出六合,?浮塵。
死生哀樂兩相棄,是非得失付閑人。



與孟東野書
與足下別久矣,以吾心之思足下,知足下懸懸於吾也。各以事牽,不可合並,其
於人人,非足下之為見,而日與之處,足下知吾心樂否也。吾言之而聽者誰歟?
吾倡之而和者誰歟?言無聽也,倡無和也,獨行而無徒也,是非無所與同也,足
下知吾心樂否也。足下才高氣清,行古道,處今世,無田而衣食,事親左右無違,
足下之用心勤矣,足下之處身勞且苦矣。混混與世相濁,獨其心追古人而從之,
足下之道,其使吾悲也。去年春,??州之亂,幸不死,無所於歸,遂來於此。
主人與吾有故,哀其窮,居吾於符離?上。及秋,將辭去,因被留以職事,默默
在此,行一年矣。到今年秋,聊複辭去,江湖餘樂也,與足下終,幸矣!李習之
娶吾亡兄之女,期在後月,朝夕當來此。張籍在和州居喪,家甚貧。恐足下不知,
故具此白,冀足下一來相視也。自彼至此雖遠,要皆舟行可至,速圖之,吾之望
也。春且盡,時氣向熱,惟侍奉吉慶。愈眼疾比劇,甚無聊,不複一一。愈再拜。



與李?書
使至,辱足下書。歡愧來並,不容於心。嗟乎,子之言意皆是也!仆雖巧?,
何能逃其責邪?然皆子之愛我多,重我厚。不酌時人待我之情,而以子之待我
之意,使我望於時人也。
仆之家本窮空,重遇攻劫,衣服無所得,養生之具無所有,家累僅三十口,攜
此將安所歸托乎?舍之入京,不可也;挈之而行,不可也。足下將安以為我謀
哉?此一事耳。足下謂我入京城有所益乎?仆之有子,猶有不知者,時人能知
我哉?持仆所守,驅而使奔走伺候公卿間,開口論議,其安能有以合乎?仆在
京城八九年,無所取資,日求於人,以度時月。當時行之不覺也,今而思之,
如痛定之人思當痛之時,不知何能自處也。今年加長矣,復驅之使就其故地,
是亦難矣!
所貴乎京師者,不以明天子在上,賢公卿在下,布衣韋帶之士,談道義者多乎?
以仆遑遑於其中,能上聞而下達乎?其知我者固少,知而相愛不相忌者又加少。
?無所資,外無所從,終安所為乎?
嗟乎!子之責我誠是也,愛我誠多也,今天下之人,有如子者乎?自堯舜已來,
士有不遇者乎,無也?子獨安能使我潔清不?,而處其所可樂哉?非不願為子
之所雲者,力不足,勢不便故也。仆於此豈以為大相知乎?累累隨行,役役逐
隊,饑而食,飽而嬉者也。其所以止而不去者,以其心誠有愛於仆也。然所愛
於我者少,不知我者猶多,吾豈樂於此乎哉?將亦有所病而求息於此也。




   ページの先頭へ  


15の漢詩総合サイト
















漢文委員会


紀 頌之