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  韓愈の生涯  

1-9 自負と失意と




1-9 自負と失意と

 負け惜しみもよいが、博学鴻辞の科に及第しなければ官職にありつけず、官職にありつけなければ収入も得られないので、衣食の道が立たない。しかも三度落第した博学鴻辞の科に尻をまくった形の愈としては、生活のため、別の道を求めなければならなくなった。
 貞元十一年(七九五)、二十八歳の正月、愈は時の宰相にあてて手紙を送った(《昌黎先生集/卷16-1上宰相書》。宰相は複数制で、合議によって天下の大政をつかさどることになっており、当時は趙憬・貿耽・盧邁の三人が就任していた。愈の手紙は三人のうちの誰にあてたものか、明らかでない。あるいは同文のものを、三人のそれぞれに出したのかもしれない。以前に手紙を出したことがある点では、買耽と縁があるわけだが、そのとき袖にされているので、こんどは別の人を狙ったとも考えられる。
 手紙の中で、愈は次のように言う。そもそも君子とは、人材を育成すべき使命を持つ。ところで自分は聖人の書を読み、六経の趣旨を体して文章を書いている。貧に迫られ、時には恨みがましい、あるいは奇怪な言辞を荊して天下に知られようと求めることはあるものの(さきの怪物のたとえ話などを意識しているのであろう)、教化に惇るところは一つもない。その自分が、礼部の試験を四回受けてようやく及第し、吏部の試験を三回受けてまだ及第せす、このままでは飢え死にするほかはないので、従来の理想を棄て、農村にこもっ’て百姓仕事をしようかと思っているありさまである。これは君子にとって、惜しむべきことではないか。現在の宰相を君子と信ずるがゆえに、自分はこうして、窮状を訴えたい。
 だいたい、今の世で役人になろうと思えば、州や県から推薦をもらい、礼部と吏部で試験を受けなければならぬ。そこでは、「これを試みるに繍絵彫琢の文を以てし、これを考するに声勢の逆順・章句の短長を以てし、其の程式に中る者にして、然る後に下士の列に従ふを得」。つまり、文章が美しいかどうか、規格に合っているかどうかと、ごく形式的な点からのみ採点して、合格者がようやく下っ齢の役人に取り立ててもらえる。だから、「化俗の方・安辺の画有りと雖も、是に由りて稽しく進まずんば、万に一も得ること有らす」。

 そこで、愈は提案する。この手紙を宰相が読み、怪しからぬやつだとは言わず、天子に推薦して自分に官職を与え、かつこの手紙を天下に公表したとする。そうすれば、朝廷はほんとうに人材を求めているのだということが明らかになり、山林に埋もれていた遺賢が、統々と朝廷に出仕を求めて来るであろう。これは天下の幸いであり、自分ひとりが有利になるようにと願っているのではない。そうは言っても、自分のことをよくご存じないと思うので、これまでに作った詩文のうちから若干首を選び、一巻として別にお届けする。どうかお読みいただきたい。
 さすがに宰相あての手紙ともなれば、章舎人にあてたのとは違って、表現もていねいであり、文体も、朕文というほどではないが、調子を整えようとしたあとが見える。しかし内容は、あいかわらす大胆なものであった。

 愈は科拳を通過して役人となることをあきらめ、宰相から天子に推薦するという方式によって官職を授与してもらいたいと、直訴したのである。そこには、科挙に限らす、およそ試験制度というものの持つ欠陥が、すでに指摘されていた。
 すなわち、競争試験である以上、どうしても答案に優劣の差をつけなければならぬ。主観的な採点法であり、結局は採点者の良識に依存するといっても、それだから採点者は恣意的な評価をつつしみ、どこかに客観的な規準を置こうとつとめることになる。その結果、「声勢の逆順、章句の短長」といった、客観的には判断できるが、ごく形式的なところに規準ができ、それに違反すれば減点されることとなる。こうして、受験技術のみが発達し、天下の大才はかえって見檜てられることとなるのである。
 試験では拾い上げることのできない人材を宰相が発見し、天子に推薦せよと、愈は主張した。いちおうは筋が通っているように見えながら、これが実現すれば科挙制度の意昧がなくなることについて、愈はどれほどの認識を持っていたのであろうか。宰相が官吏の推薦権を持てば、それはそれで、弊害がいくらでも予測できる。宰相が私利私欲のため、自分の身内や子分を推薦することもあろう。また、さまざまな手段で宰相に圧力をかけ、推薦してもらおうとする者も出て来よう。意が言ったように、宰相は君子だからと、楽観してはいられないのである。それらの弊害を除去するために、公平な試験で人材を選ぼうと、科挙制度が設けられた。だから、愈の提案が実現すれば、科挙は無用のものとなり、事態は逆もどりしてしまうのである。
 愈の希望は、本人がどれほど真剣であろうとも、最初から不可能なことであった。宰相たちは、たぶん一考もしなかったであろりし、こんな要求を持ち出した男に返書を出す必要もないと考えたのであろう。手紙を送って、何かの沙汰を待ちわびる愈に、何の反応もとどかない。それでも十九日間待った彼は、とうとうしびれを切らせて、二度目の手紙を書いた《昌黎先生集/卷16-2後十九日復上書》(韓文一六、後十九日、復た上る書)。

 この前の手紙では効果がないとわかっているので、二度目の手紙では、泣訴嘆願の調子が強くなった。先ず前回の手紙をさしあげた後に御返事がいただけなかったのは、何か失礼があったのではないかと恐れているが、このまま都を離れたのでは、お叱りを受けぬよう逃亡したと見られるかもしれないため、もう一度、前回の手紙を補足する形で中し上げる、と前置きして本文に入る。
 およそ水火の難にあう者が救いを求めるときは、相于が肉親・縁者であるかどうかをたしかめる余裕はない。少なくとも自分の敵でない以上は、助けてくれと呼びかけるものである。助ける方でも、相于が肉親・縁者であるかどうかをたしかめて、手をさしのべることはない。死ねばよいというほどに憎んでいる相手でなければ、救助にあたるものである。いま、自分は水火の難にひとしい窮地に立って、救いを求めた。その声は宰相の耳にとどいたはすだ。それなのに救助してもらえない。もしも水火の難にあう人を見殺しにした者があったとしたら、宰相はその者を「仁人」と考えるだろうか。
 ここで、愈は一つの設定をする。宰相は、自分を理解してくれたのかもしれない。ただ、今は時期が悪い、もう少し待てと言われるのかもしれない。こう前提した上で、愈は反論を加える。時期とは、宰相が作り出すべきものである。身分が低い者ならばともかく、宰相ほどの地位にあれば、正しいと思ったことを実現するために、ふところ手をして時期を待つ必要はあるまい。
 たぶん愈は、これまでにも高官の家を歴訪し、あるいは手紙を書いて、「いすれそのうちに」と体よくことわられた体験を持っていたのであろう。だから、こんどは逃げロ上をさせまいと意気ごんだらしいのだが、泣訴嘆願にしては、少々相手を追いこみすぎた。ごまかしがきかないとなれば、相手としては黙殺するほかはない。結局、この手紙にも返事は来なかった。
 それでも愈は、必死であった。ここまで来て、むざむざ引きさがれるものかという執念もあったであろう。彼はさらに二十九目の後、三度目の乎紙を送る《昌黎先生集/卷16-3後二十九日復上書》(韓文一六、後二十九日、復た上る書)。その中に、初めてお手紙をさしあげてから今日まで四十目を越え、その間に二度手紙を書いたが御返事はなく、三度御門前まで出向いたが門番にことわられた、とある。本来ならば、先方が手紙を読んで、ともかくも一度会って話をしようと、日時を指定してよこし、それから屋敷に出向くのが筋である。返事がないからといって押しかけても、宰相ほどの身分の人が、気軽に会ってくれるはすはない。門前払いを食ったのは当然だが、愈にしてみれば、かさねがさね冷たい仕打ちということになるであろう。
 そこで三度目の手紙は、いきなり周公の話から始まる。周公は古代の聖人で、天子を補佐して天下を太平に導いた。悪人どもはすべて退けられ、異民族もすべて臣従し、天災も起らず、教化も行きとどいた。しかし周公は、たずねて来る士があれば、食事中だろうと入浴中だろうと、すぐ会いに出たという。賢者を失うことを恐れたためである。これが天下を治める人の心がけなのだ。
 いま、天下ははたして太平なのか。朝廷にはすべての人材が集まっているのか。すべての悪人は除去されたのか。異民族はすべて臣従しているか。天災は一つも起っていないか。教化は行きわたっているか。まさしく周公以上に賢者を求めるべき時ではないか。周公は聖人だから、真似はできないとしても、せめてその心がけを学んで、たずねて来た士を一度ぐらい引見してもよいではないか。
 ここまで書いて来て、さすがに気がひけたらしく、手紙の調子は一転する。その昔、士は天下を遊説した。周で用いられなければ魯に行き、魯で用いられなければ斉に行き、宋に行き、鄭に行った。ところが現在は天下が統一され、君主は一人しかない。ここで用いられなければ、行く先は夷狭の国しかないのである。あるいは、山林に隠れる道もあろう。しかし、「山林とは、士の独り善くし自ら養ひて、天下を憂へざる者の能く安んする所なり。如し天下を憂ふる心有らば、則ち能くせす」。自分には祖国を捨てるつもりもないし、天下を憂えるゆえに、山林に安住もできない。だからたびたびお騒がせして、御採用を願っているのだ。ここのところを、少しでもお察しいただきたい。
 たしかに、遠い春秋・戦国の昔には、士は自分の才能を認めてぐれる君主を求めて、天下を横行した。認めてもらえれば、どのような出世も可能であった。「いにしえ」に心を寄せる愈が、それを理想的なものとして頭に描いていたことは、否定できないであろう。
 だがそれは、乱世のことであった。周公の時代ほど太平ではなくとも、唐の統一帝国内にあって、春秋・戦国の例を持ち出しても時代錯誤にしかならないことは、愈自身が認識している。しかし、それでも披は、諸侯が人材を求め、一蕗二能の士が召し抱えられた古代を、今の世にも復原する道はないかと、換索していた。宰相たちにとっては、夢のような話である。たぶん、返答のしようもなかったであろう。三度目の手紙にも、とうとう返事は来なかった。
 この年、貞元十一年のい韓愈には、悪いことばかり続いた。彼か師と仰ぎ、彼を理解してくれた(と、少なくとも愈は信じていた)睦費は、宮廷内の勢力争いに敗れ、前年に宰相を解任されていたが、この年の四月、都から放逐されてしまった。また、最後まで援助をしてはくれなかったらしいが、とにかく一時はパトロンになってくれた北平王馬燧も、久しく足を病んで起てなかったのか、衰弱が加わり、絶望的な状態になった。息をひきとったのは八月である。


 五月、愈はついに帰農を決意し、都を去った。長安から東へと道をとり、撞関の関所を越えると、黄河の岸に出る。そこで休息していた時、一つの行列が通るのを見た。白い鳥と白い九官烏を一羽ずつ範に入れ、運んでいる。たずねれば、某地の長官から天子へ献上の品だという。鳥ならば羽毛の色が珍しいだけのことで天子の前にも出られるのに、人間では学問も才能も役に立たないのかと、落人同然の愈は、ひとしお深い傷心に沈んだ《昌黎先生集/卷1-1.1感二鳥賦》(韓文一、ニ鳥に感する賦)。
 このころ、韓氏の一族は郷里の南陽へ帰っていたらしい。愈も南陽に赴いて祖先の墓に参り、聡の老成にも会った。ただ、彼を育ててくれた兄嫁の鄭氏はすでに死んでいる。彼女の死は貞元九年ともいい、ちょうどこの年ともいう。彼は《昌黎先生集/卷23-12祭鄭夫人文》「鄭夫人を祭る文」(韓文二三)を書き、官位を得て家を再興し、養育の恩に報いたいと焦っていたのにと、深い嘆きを綴るのであった。

《昌黎先生集/卷十三 雜著-9畫記》

畫記
雜古今人物小畫共一卷:騎而立者五人,騎而披甲載兵立者十人,一人騎執大旗前立,騎而披甲載兵行且下牽者十八,騎且負者二人,騎執器者二人,騎擁田犬者一人,騎而牢者二人,騎而驅者三人,執羈?立者二人,騎而下倚馬臂隼而立者一人,騎而驅?者二人,徒而驅牧者二人,坐而指使者一人,甲胄手弓矢??植者七人,甲胄執幟植者十人,負者七人,偃寢休者二人,甲胄坐睡者一人,方?者一人,坐而?足者一人,寒附火者一人,雜執器物役者八人,奉壺矢者一人,舍而具食者十有一人,?且注者四人,牛牽者二人,驢驅者四人,一人杖而負者,婦人以孺子載而可見者六人,載而上下者三人,孺子戲者九人。凡人之事三十有二,為人大小百二十有三,而莫有同者焉。
古今の人物を雜ふる小畫共に一巻。
騎して立つ者五人、騎して甲を被り兵を載せて立つ者十人。
一人は騎して大旗を執って前に立つ。騎して甲を被り、兵を載せて行き且つ下り牽く者十人、
騎して負う者二人、騎して器を執る者二人、
騎して田犬を擁する者一人、騎して牽く者二人、

馬大者九匹。於馬之中,又有上者,下者、行者、牽者、?者、陸者、翹者、顧者、鳴者、寢
者、訛者、立者、人立者、?者、飲者、溲者、陟者、降者、癢磨樹者、?者、嗅者、喜相戲
者、怒相?齧者、秣者、騎者、驟者、走者、載服物者、載狐兔者。凡馬之事二十有七,為馬
大小八十有三,而莫有同者焉。

牛大小十一頭。?駝三頭,驢如?駝之數而加其一焉。隼一。犬羊狐兔麋鹿共三十。旃車三兩。
雜兵器弓矢旌旗刀劍矛循弓服矢房甲胄之屬,瓶盂?笠筐筥リ釜飲食服用之器,壺矢博奕之具,
二百五十有一。皆曲極其妙。

貞元甲戌年,餘在京師,甚無事,同居有獨孤生申叔者,始得此畫,而與餘彈棋,餘幸勝而獲
焉。意甚惜之,以為非一工人之所能運思,蓋?集?工人之所長耳,雖百金不願易也。明年出
京師,至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之。座有趙侍禦者,君子人也,見之威然,若有
感然。少而進曰:「噫!餘之手摸也,亡之且二十年矣。餘少時,常有誌乎茲事,得國本,?
人事而摸得之,遊?中而喪焉。居閑處獨,時往來餘懷也,以其始為之勞而夙好之篤也。今雖
遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」餘既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其
人物之形?與數,而時觀之,以自釋焉。


上宰相書
天下固有良時既去,而悲歌歎泣之不同,故當時則歎,已去而泣,過時而歌。
然君子居其位,則恥聞之,不在其位,則恥不能言之。其為士君子之心,不
忍聞之,與聞之而不忍棄之,則一也。夫思慮可以精安危,?驟可以負戈殳。
強勁莊勇,持久有守,臨事不亂,然而良時不與,斯不得不歎。既而信不見
任,知不見謀,周遊而?歸,風雨相半,苦其精力,良時不集,而畏事之不
成,斯不得不泣。及其田園已暮,始反?裏,白頭無成,或反自疑,斯不得
不歌。是其為人,皆有憂天下而欲用其道者也,不私其身之安佚而休者也。
既不私其身,則公於悲歌者歎泣者也,而是人豈以富貴而後天下之心哉!蛻
也歌之則已太蚤,泣之則不得不豫計,歎之則正當其時,而君子未聞。雖然,
閣下及其少壯而用之,無使後時泣歌,恥累君子,幸甚!《太元》曰:當時
則貴,已用則賤。其不可後也已矣。況當今岩無人矣,溪無人矣,佐王活人
之術,一皆以文學進。苟文學進而君子不動心,則蛻也不知其所以得罪。


後十九日復上書
二月十六日,前?貢進士韓愈,謹再拜言相公閣下。
向上書及所著文後,待命凡十有九日,不得命。恐懼不敢逃遁,不知所為。
乃復敢自納於不測之誅,以求畢其?,而請命於左右。
愈聞之,蹈水火者之求免於人也,不惟其父兄子弟之慈愛,然後呼而望之也。
將有介於其側者,雖其所憎怨,?不至乎欲其死者,則將大其聲疾呼而望其
仁之也。彼介於其側者,聞其聲而見其事,不惟其父兄子弟之慈愛,然後往
而全之也。雖有所憎怨,?不至乎欲其死者,則將狂奔盡氣,濡手足,焦毛
發,救之而不辭也。若是者何哉?其勢誠急,而其情誠可悲也。愈之強學力
行有年矣。愚不惟道之險夷,行且不息,以蹈於窮餓之水火,其既危且亟矣,
大其聲而疾呼矣,閣下其亦聞而見之矣。其將往而全之歟?抑將安而不救歟?
有來言於閣下者曰:“有觀溺於水而?於火者,有可救之道,而終莫之救也。”
閣下且以為仁人乎哉?不然,若愈者,亦君子之所宜動心者也。
或謂愈,子言則然矣,宰相則知子矣,如時不可何?愈竊謂之不知言者,誠
其材能不足當吾賢相之舉耳。若所謂時者,固在上位者之為耳,非天之所為
也。前五六年時,宰相薦聞,尚有自布衣蒙抽擢者,與今豈異時哉?且今節
度、觀察使,及防禦、營田諸小使等,尚得自舉判官,無間於已仕未仕者,
況在宰相,吾君所尊敬者,而曰不可乎?
古之進人者,或取於盜,或舉於管庫。今布衣雖賤,猶足以方於此。情隘辭
蹙,不知所裁,亦惟少垂憐焉。愈再拜。

後二十九日復上書
三月十六日,前?貢進士韓愈,謹再拜言相公閣下。
愈聞周公之為輔相,其急於見賢也,方一食三吐其哺,方一沐三捉其發。當是時,天下之賢才皆已舉用,奸邪讒佞欺負之徒皆已除去,四海皆已無虞,九夷八蠻之在荒服之外者皆已賓貢,天災時變、昆蟲草木之妖皆已銷息,天下之所謂禮樂刑政教化之具皆已修理,風俗皆已敦厚,動植之物、風雨霜露之所沾被者皆已得宜,休征嘉瑞、麟鳳龜龍之屬皆已備至,而周公以聖人之才,憑叔父之親,其所輔理承化之功又盡章章如是。其所求進見之士,豈復有賢於周公者哉?不惟不賢於周公而已,豈復有賢於時百執事者哉?豈復有所計議、能補於周公之化者哉?然而周公求之如此其急,惟恐耳目有所不聞見,思慮有所未及,以負成王托周公之意,不得於天下之心。如周公之心,設使其時輔理承化之功未盡章章如是,而非聖人之才,而無叔父之親,則將不暇食與沐矣,豈特吐哺捉發為勤而止哉?維其如是,故於今頌成王之コ,而稱周公之功不衰。
今閣下為輔相亦近耳。天下之賢才豈盡舉用?奸邪讒佞欺負之徒豈盡除去?四海豈盡無虞?九夷八蠻之在荒服之外者豈盡賓貢?天災時變、昆蟲草木之妖豈盡銷息?天下之所謂禮樂刑政教化之具豈盡修理?風俗豈盡敦厚?動植之物、風雨霜露之所沾被者豈盡得宜?休征嘉瑞、麟鳳龜龍之屬,豈盡備至?其所求進見之士,雖不足以希望盛コ,至比於百執事,豈盡出其下哉?其所稱?,豈盡無所補哉?今雖不能如周公吐哺捉發,亦宜引而進之,察其所以而去就之,不宜默默而已也。愈之待命四十余日矣。書再上,而誌不得通。足三及門,而?人辭焉。惟其昏愚不知逃遁,故復有周公之?焉。閣下其亦察之。
古之士,三月不仕則相吊,故出疆必載質,然所以重於自進者,以其於周不可則去之魯,於魯不可則去之齊,於齊不可則去之宋,之鄭,之秦,之楚也。
今天下一君,四海一國,舍乎此則夷狄矣,去父母之邦矣。故士之行道者,不得於朝,則山林而已矣。山林者,士之所獨善自養,而不憂天下者之所能安也。如有憂天下之心,則不能矣。故愈?自進而不知愧焉,書亟上,足數及門,而不知止焉。寧獨如此而已,惴惴焉惟不得出大賢之門下是懼。亦惟少垂察焉。?冒威尊,惶恐無已。愈再拜。


祭鄭夫人文
維年月日,愈謹於逆旅備時羞之奠,再拜頓首,敢昭祭於六嫂?陽鄭氏夫人之
靈。
嗚呼!天禍我家,降集百殃。我生不辰,三?而孤。蒙幼未知,鞠我者兄。
在死而生,實維嫂恩。未亂一年,兄宦王官。提攜負任,去洛居秦。念寒而衣,念饑而饗。疾疹水火,無災及身。劬勞閔閔,保此愚庸。年方及紀,薦及凶屯。兄罹讒口,承命遠遷。窮荒海隅,夭閼百年。萬裏故?,幼孤在前。相顧不歸,泣血號天。微嫂之力,化為夷蠻。水浮陸走,丹翩然。至誠感神,返葬中原。既克返葬,遭時艱難。百口偕行,避地江濆。春秋霜露,薦敬蘋?。以享韓氏之祖考,曰此韓氏之門。視餘猶子,誨化諄諄。爰來京師,年在成人。?貢於王,名乃有聞。念茲頓頑,非訓曷因。感傷懷歸,隕涕熏心。苟容躁進,不顧其躬。祿仕而還,以為家榮。奔走乞假,東西北南。孰雲此來,乃睹靈車。有誌弗及,長負殷勤。嗚呼哀哉!昔在韶州之行,受命於元兄曰:「爾幼養於嫂,喪服必以期。」今其敢忘?天實臨之。嗚呼哀哉,日月有時。歸合塋封,終天永辭。?而複蘇,伏惟尚饗。


感二鳥賦
貞元十一年,五月戊辰,愈東歸。癸酉,自潼關出息於河之陰。時始去京師,有不遇時之歎。見行有籠白烏、白??而西者,號於道曰:“某土之守某官,使使者進於天子。”東西行者皆避路,莫敢正目焉。因竊自悲,幸生天下無事時,承先人之遺業,不識干戈、耒耜、攻守、耕穫之勤,讀書著文,自七?至今,凡二十二年。其行己不敢有愧於道,其閑居思念前古當今之故,亦僅誌其一二大者焉。選舉於有司,與百十人偕進退,曾不得名薦書,齒下士於朝,以仰望天子之光明。今是鳥也,惟以羽毛之異,非有道コ智謀,承顧問,贊教化者,乃反得蒙采擢薦進,光耀如此。故為賦以自悼,且明夫遭時者,雖小善必達;不遭時者,累善無所容焉。其辭曰:
吾何歸乎!吾将既行而後思,誠不足以自存,?有食其從之。出國門而東?,觸白日之隆景;時返顧以流涕,念西路之羌永。過潼關而坐息,窺?流之奔猛;感二鳥之無知,方蒙恩而入幸;惟進退之殊異,摎]懷之耿耿;彼中心之何嘉,徒外飾焉是逞。余生命之湮阨,曾二鳥之不如;汨東西與南北,恒十年而不居;辱飽食其有數,況策名於薦書;時所好之為賢,庸有謂余之非愚。昔殷之高宗,得良弼於宵寐;孰左右者為之先,信天同而神比。及時運之未來,或兩求而莫致;雖家到而??,只以招尤而速累。蓋上天之生余,亦有期於下地;盍求配於古人,獨?悵於無位。惟得之而不能,乃鬼神之所戲;幸年?之未暮,庶無羨於斯類。


畫記〉(1)   >§1-1
(韓愈が人から画巻を手に入れて、また他人に記文して贈った画巻の詩文である。画の代わりにこの文を残したいというのである。)
雜古今人物小畫共一卷。
古今の人や物を雑えた小さな画、合わせて一巻を手に入れた。
騎而立者五人,騎而被甲戴兵立者十人
その画には馬に乗って立っている者五人、馬上に鎧を着て武器を車に載せて立っている者十人、
一人騎執大旗前立,騎而被甲載兵行且下牽者十人,
一人は馬に乗り大旗を持って前に立ち、馬に乗り鎧を着て武器を載せて歩き、そのうえ馬を降りて牽いて行く者が十人いる。
騎且負者二人,騎執器者二人,
そして馬に乗り荷物を背負う者二人、馬に乗り器物を手に持つ者二人。
騎擁田犬者一人,騎而牽者二人,
馬に乗り猟犬を抱いている者一人、馬に乗り馬を引く者二人。
負者七人,偃寢休者二人,甲冑坐睡者一人,
物を背負う者七人、横に寝て休んでいる者二人、甲胃をつけて居ねむりする竺人、
方?者一人,坐而?足者一人,寒附火者一人,
水を捗っている者が一人、腰かけて履物をぬいでいる者が一人、寒くて火の傍にいる者が一人いる。
(3)#3
雜執器物役者八人,奉壺矢者一人,
器物をさまざまに持って働いている者が八人、投げ矢の壷と矢をささげている者が一人みえる。
舍而具食者十有一人,?且注者四人,
小屋の中で食事の仕度をしている者が十一人、水を汲んで注いでいる者が四人いる。
牛牽者二人,驢驅者四人,一人杖而負者,
牛を牽く者が二人、駿馬を駆る者が四人、−人杖をつき背負っている者がいる。婦人以孺子載而可見者六人,載而上下者三人,
女の子供を引きつれ車に載せて見ることのできる者が六人、車に載せるのに上り下りする者が三人いる。
孺子戲者九人,凡人之事三十有二,
子供のたわむれ遊ぶ者が九人いて、凡そ何かをしている大人の人間様子は三十二様である。
為人大小百二十有三,而莫有同者焉。
人間は百二十三人で、同じ者がいないのである。

(1)   >§1-1
古今の人物を雜ふる小畫共に一巻。
騎して立つ者五人、騎して甲を被り兵を載せて立つ者十人。
一人は騎して大旗を執って前に立つ。騎して甲を被り、兵を載せて行き且つ下り牽く者十人、
騎して負う者二人、騎して器を執る者二人、
騎して田犬を擁する者一人、騎して牽く者二人、
#2
騎して驅る者三人,羈?【きてき】を執りて立つ者二人,
騎して下り馬に倚り隼【じゅん】を臂にして立つ者一人,騎して驅?【くしょう】する者二人,
徒して驅牧する者二人,坐して指使する者一人,
甲冑して弓矢をに手して?鉞【ふえつ】植つる者七人,甲冑して幟を執り植つる者十人,
負う者七人,偃寢して休う者二人,甲冑して坐睡する者一人,
方に?る者一人,坐して足を?する者一人,寒えて火に附く者一人,
#3
器物を雜え執て役する者八人,壺矢【こし】を奉ぐる者一人,
舍して食を具える者十有一人,?【ゆう】して且つ注ぐ者四人,
牛牽く者二人,驢 驅る者四人,一人は杖つきて負う者なり。
婦人 以孺子をて載せて見る可き者六人,載せて上下する者三人,
孺子 戲むるる者九人,凡そ人の事三十有二,
人為る大小百二十有三,而して同じき者有る莫し。


4.§2-−1
馬大者九匹,於馬之中又有上者、下者、行者、牽者、
馬の大きなものが九匹、馬の車で、また、たけの高いもの、低いもの、歩いているもの、輓いているもの、
?者、陸者、翹者、顧者、鳴者、寢者、訛者、立者、
水を渡るもの、陸にあがっていくもの、体を持ち上げようとする者、ふり返っているもの、鳴くもの、横になっているもの、動いているもの、立っているもの、
人立者,?者、飲者、溲者、陟者、降者、痒磨樹者、
人のように後脚で立つもの、草をかむもの、水を飲むもの、小便をするもの、坂をのぼるもの、降りるもの、痺いので樹に体をこすりつけるもの、
?者、嗅者、喜相戲者、怒相?齧者、秣者、騎者、
息を吐くもの、嗅いでいるもの、喜んでたわむれるもの、怒って互いに蹴り、噛み合うもの、秣を食うもの、人が乗るもの、
驟者、走者、載服物者、載狐兔者,凡馬之事,二十有七,
速足で行くもの、走るもの、服や物を載せて引くもの、狐や免を載せているものなどがあり、およそ馬の動作は二十七態、
為馬大小,八十有三,而莫有同者焉。
馬の数は大小八十三、しかも同じものは無いのである。
5. -2
牛大小十一頭,?駝三頭,驢如?駝之數而加其一焉,
牛は大小十一頭、駱駝は三頭、驢馬は駱駝の数と同じようで一頭だけ多い。
隼一,犬羊狐兔麋鹿共三十;旃車三兩,
はやぶさは一羽、犬羊、狐兎、大鹿や鹿など、合わせて三十、旗を立てた車が三両ある。
雜兵器弓矢旌旗刀劍矛楯弓服矢房甲冑之屬,
さまざまな兵器、弓矢、旌旗、刀剣、矛と楯、弓入れやえびら、よろいやかぶとの?がみえる。
?盂?笠筐筥リ釜飲食服用之器,
瓶や皿、長柄の傘や笠、竹編みの箱や円箱、脚つきの釜、飲食服や身の廻りの器壺矢博奕之具,二百五十有一;皆曲極其妙。
投げ矢と壷や双六碁などの道具など、二百五十一、皆こまごまと上手を極めて画いてある。

4.§2-−1
馬の大なる者が九匹,馬の中に於いて又た有上なる者、下なる者、行く者、牽く者、?る者、陸【あが】れる者、翹【つまだ】つ者、顧る者、鳴く者、寢る者、訛【うご】く者、立つ者、人立する者,?【か】む者、飲む者、溲【しょう】する者、陟【もぼ】る者、降る者、痒ゆくして樹に磨する者、?する者、嗅ぐ者、喜んで相い戲むるる者、怒って相い?齧【ていげつ】する者、秣【まぐさか】う者、騎る者、驟【か】くる者、走しる者、服物を載する者、狐兔【こと】を載する者,凡そ馬の事,二十有七,馬為ること大小,八十有三,而して同じき者有る莫し。
5. -2
牛大小十一頭,?駝【たくだ】三頭,驢 ?駝の數の如くにして其の一を加う,隼一,犬羊狐兔麋鹿共に三十。
旃車【せんしゃ】三兩,雜兵器 弓矢 旌旗 刀劍 矛楯 弓服 矢房 甲冑の屬,?盂【へいう】?笠 筐筥【きょうきょ】リ釜 飲食服用の器,壺矢 博奕の具,二百五十有一。
皆 曲【つぶ】さに其の妙を極む。


(6)§3-1
貞元甲戌年,余在京師甚無事。
貞元十年甲戌((794年)の年、私は長安の都にいて、甚だ閑で何もする事がなかった。
同居有獨孤生申叔者,始得其畫而與余彈棊。
同居の人に独孤生申叔という者があって、はじめてこの画を手に入れたが、それは、私との将棊の駒を弾じく遊戯をしたからであった。
余幸勝而獲焉,意甚惜之。
私は幸いに勝ってその画を得たのであるが、私は心にこの画を甚だ大切に考えたのである。
以為非一工人之所能運思。
思うには、これは一人の画工の思案をめぐらすことのできるものではなかろう。
蓋?集?工人之所長耳,雖百金不願易也。
それはたぶん多くの画工が得意なところを集めてでき上がったのに違いない、ということで、それ故、百両の金でもこの画と取りかえようとは願わなかった。
(7)-2
明年,出京師至河陽,與二三客論畫品格,因出而觀之
翌年都を出て河陽に至って、二、三の客と画の品格について論じたついでに、この画を出して見せた。
座有趙侍御者,君子人也,見之戚然若有感然。
その場に遇侍御という人がいて、学徳のある君子らしい人であった。その人がこの画を見て、悲しそうな様子で、深く心を動かすことがあるようであった。
少而進曰:「噫!余之手摸也。
しばらくして進み出ていった、ああ、私の自分の手で写したものである。
亡之且二十年矣,余少時常有志乎茲事。
この画を失ってからもう二十年になろうとしているけれど、私は若い時、常に画をかくことに志があった。
得國本,?人事而摸得之。
国の最良の画工の描いた古い手本を得て、世間の人との事がらを一切絶って、これを模写し得たのである。

(8) -3
遊?中而喪焉。
ところが後に?中に旅をした時に、これを失ってしまった。
居陌|獨,時往來余懷也,以其始為之勞而夙好之篤也
閑な暮らしで、独りでいる時など、時に私の心の中にこの画のことが往き来するのである。その始めて描いた時に苦労したのと、幼少の時の愛好が深かったためである。
今雖遇之,力不能為已,且命工人存其大都焉。」
今この画に出遭っても、力は之を写すことができないので取りあえず画工に命じてその大凡を保存させよう、とした。

余既甚愛之,又感趙君之事,因以贈之,而記其人物之形?與數,而時觀之以自釋焉。
私は前から甚だこの画を愛していたが、一方では趙君の事で心を動かされた。そのためにこれを趙君に贈り、そしてその画の内容である人や物の形状と数とを文章に記して、時折これを観て、それで以て自分の心を慰めるのである。

(6)§3-1
貞元甲戌の年,余 京師に在りて甚だ事無し,同居に獨孤生申叔という者有り。始めて其の畫を得て 而して余と棊を彈ず。
余 幸いに勝って焉を獲たり,意 甚だ之を惜む。
以為【おもえ】らく一工人の能く思いを運らす所に非らず,
蓋し?工人の長ずる所を?集【そうしゅう】するのみ,百金と雖も易うるを願わざるなり。
(7)-2
明年,京師を出でて河陽に至り,二三客と畫の品格を論じ,因りて出して之を觀【しめ】す。座に趙侍御という者有り。
君子人なり,之を見て戚然として感ずる有るが若く然り。
少して進んで曰く:「噫!余の之手ずから摸せるなり。
之を亡いて且に二十年にならんとし,余 少時常に乎茲の事に志有り。
國本を得て,人事を?ちて之を摸得たり。

(8) -3
?中【びんちゅう】に遊んで喪えり。
居閨@處獨,時に余が懷に往來するなり,其の始めて為るの勞して 夙【つと】に好むの篤きに以ってなり。
今 之に遇うと雖も,力 為すこと能わず,且く工人に命じて 其の大都【おおよそ】を存せしめんと。」

余 既に甚だ之を愛し,又た趙君の事に感じて,因りて以之を贈りて,其の人物の形?と數とを記して,時に之を觀て以て自ら釋すなり。



(この詩は、韓愈が人から画巻を手に入れて、また他人に記文して贈った画巻の詩文である。画の代わりにこの文を残したいというのである。)
時に韓愈は年28歳(795年貞元11年 )であった。画中の人や物をいちいち数え上げて描写した筆法には韓文の俳諧味が既に見える。
795年貞元11年は三度博学宏詞科を受験して落第、河陽に帰って墓参し、冬長安に戻る。



雜古今人物小畫共一卷。
古今の人物を雜ふる小畫共に一巻。
古今の人や物を雑えた小さな画、合わせて一巻を手に入れた。

騎而立者五人,騎而被甲戴兵立者十人,
騎して立つ者五人、騎して甲を被り兵を載せて立つ者十人。
その画には馬に乗って立っている者五人、馬上に鎧を着て武器を車に載せて立っている者十人、

一人騎執大旗前立,騎而被甲載兵行且下牽者十人,
一人は騎して大旗を執って前に立つ。騎して甲を被り、兵を載せて行き且つ下り牽く者十人、
一人は馬に乗り大旗を持って前に立ち、馬に乗り鎧を着て武器を載せて歩き、そのうえ馬を降りて牽いて行く者が十人いる。

騎且負者二人,騎執器者二人,
騎して負う者二人、騎して器を執る者二人、
そして馬に乗り荷物を背負う者二人、馬に乗り器物を手に持つ者二人。

騎擁田犬者一人,騎而牽者二人,
騎して田犬を擁する者一人、騎して牽く者二人、
馬に乗り猟犬を抱いている者一人、馬に乗り馬を引く者二人。


騎而驅者三人,執羈?立者二人,
騎して驅る者三人,羈?【きてき】を執りて立つ者二人,
馬に乗り、駆ける者が三人。馬のおもがいや、たづなを手に持って立っている者が二人いる。
○羈? 羈は馬頭にまとう革紐、おもがい。馬の行動を束縛する首綱。?は手綱。

騎而下倚馬臂隼而立者一人,騎而驅?者二人,
騎して下り馬に倚り隼【じゅん】を臂にして立つ者一人,騎して驅?【くしょう】する者二人,
馬から降りて、馬に寄りかかり、はやぶさを背に止まらせて立っている者が一人、馬に乗って水を駆り渡る者が二人いる。
○臂 ひじにはやぶさを止まらせる。
〇隼 はやぶさ。狩りに使う鷲の?。

徒而驅牧者二人,坐而指使者一人,
徒して驅牧する者二人,坐して指使する者一人,
徒歩で馬を駆けさせ、芻【まぐさ】をやる者が二人、坐って指し図をする者が一人いる。

甲冑手弓矢?鉞植者七人,甲冑執幟植者十人,
甲冑して弓矢をに手して?鉞【ふえつ】植つる者七人,甲冑して幟を執り植つる者十人
鎧かぶとをつけて弓矢を手にし、斧まさかりを突き立てている者が七人、甲胃を着けて幟を手にして立てている者が十人いる。
○?鉞 おのとまさかり。武器。
○植 地に立てる。

負者七人,偃寢休者二人,甲冑坐睡者一人,
負う者七人,偃寢して休う者二人,甲冑して坐睡する者一人,
物を背負う者七人、横に寝て休んでいる者二人、甲胃をつけて居ねむりする竺人、

方?者一人,坐而?足者一人,寒附火者一人,
方に?る者一人,坐して足を?する者一人,寒えて火に附く者一人,
水を捗っている者が一人、腰かけて履物をぬいでいる者が一人、寒くて火の傍にいる者が一人いる。













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紀 頌之