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         三国時代の詩人

三国時代の詩人



      三国時代の詩人









         三国時代の詩人



トピックス  竹林の七賢   230年頃

建安の武骨者は、竹林の七賢であるが、この7人は一緒に清談をしたのではないことは周知のことと思う。建安の思想的背景は道教にあると考えて
いる。道教と老荘思想と関係ないという学説もあるが、儒教国学から嫌気を老荘思想に映っていく時代背景に戦国時代があり、道教に老荘思想
が取り込まれ、また変化している。
詠懐詩 白眼視 阮籍 幽憤詩 ケイ康


三国時代への道
1.官渡の役(200) 曹操と袁紹の、華北支配を巡っての決戦。曹操による青州黄巾軍の接収と、199年の袁術の病死と公孫?の敗死、遼東公孫氏の袁紹への服属などによって、華北では4州を領する袁紹と、天子を擁して2州を支配する曹操の対決が不可避となった。袁紹は全軍を動員して官渡に南下し、十倍近い兵力で曹操を圧倒したが、内訌の放置と糧道の軽視で対峙数ヶ月の後に糧秣をことごとく焼かれて惨敗した。袁紹はついに再起できず、曹操はこの勝利によって華北に覇権を確立した。




2赤壁の戦い(208)   天下統一を図る曹操と、江東を死守する孫権の戦い。劉表の死亡直後に曹操に無条件降伏した荊州では、新野の劉備が降伏反対派と共に江夏に逃れ、柴桑(江西省九江市区)に拠る孫権と同盟して曹操に対抗した。
 曹操は荊州水軍を接収すると孫権に帰順を迫って赤壁(湖北省嘉魚)に布陣したが、軍中に疫病が流行して後退を図るところに火攻され、水軍の殆どを喪って撤退した。この一戦で曹操の天下統一は頓挫し、孫権の江東支配が確定し、劉備も荊州南部を獲得して三国鼎立の形勢がほぼ定まった。 一般に、赤壁の役は曹操軍の惨敗とされているが、主だった将官に戦死者はなく、帰還後ただちに銅雀台造営に着手しながらも増税もなかったことから、被害は荊州水軍に集中したものと思われる。
ID 詩人名  / 事項 よみかな 作品名
36 関羽(かんう)
(?〜219)
中国、三国時代の蜀(しょく)の武将。河東(山西省)の人。字(あざな)は雲長。張飛とともに劉備(りゅうび)を助け、赤壁の戦いに大功をたてたが、のち呉に捕らえられて死んだ。後世、軍神として各地の関帝廟(かんていびょう)に祭られた。 無  題
37 班u、  (はんしょうよ) 生没年不詳
中国・前漢成帝の愛人。成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、大后を長信宮に供養することを理由に退いた。失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い。 怨歌行   怨詩(新裂齊?素)
38 梁鴻  りょうこう 生没年不明:
後漢の人。生没年は不詳。字は伯鸞。扶風平陵(現・陝西咸陽県西北)の人。この詩のために姓名を改め、姓を運期とし、名を燿、字を侯光とする。貧しい家庭の出身である 五噫歌






3.建安文学の文学者
有名、無名を合わせ、数多くの文学者が建安の文壇に名を連ねてはいるが、中でも著名なのが、建安七子と呼ばれる文学者たちである。
孔融・陳琳・徐幹・王粲・応よう・劉驕E阮?ら七人を総称して、建安の七子と呼ぶ。それに加えて、建安文学の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹一族の曹操・曹丕・曹植の三人(三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することもある。
また、繁欽・何晏・応きょ・蔡えん・呉質といった著名文学者たちも、この建安文学に携わり、大きく貢献した文壇の一員であるとされている。 
ID 詩人名  / 事項 よみかな
39 1)孔 融 (こう ゆう) 153年 - 208年
 後漢末期の人。字は文挙。孔子20世の孫に当たる。出身地も遠祖の孔子と同じく青州魯国の曲阜県である。父は孔宙、兄は孔襃。子の名は不詳。  
40 2)陳 琳(ちん りん)   - 217年
 後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。広陵郡洪邑の出身。はじめ大将軍の何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図って諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの際、袁紹が全国に飛ばした曹操打倒の檄文を書いた。 飲馬長城窟行
易公孫?與子書
41 3)王 粲(おう さん) 177年 - 217年
後漢末の文学者・学者・政治家。字は仲宣。王?の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。子に男子二名。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王?、祖父の王暢は漢王朝において三公を務めた。文人として名を残し、建安の七子の一人に数えられる。 登樓賦
公讌詩
詠史詩
七哀詩三首
從軍詩五首
42 4)徐幹 (とかん)   - 217年
 北海郡劇県の出身。字は偉長。零落した旧家の出で、高い品行と美麗典雅な文章で知られた。建安年間に曹操に仕え、司空軍謀祭酒掾属・五官将文学に進んだ。隠士的人格者で、文質兼備であると曹丕から絶賛された。『詩品』では下品に分類される。
43 5)応楊 (おうよう)   〜217
  字は徳l。汝南郡南頓の人。応cの子。応劭の甥。学者の家の出で、曹操に召し出され、丞相掾属に任ぜられた。平原侯(曹植)の庶子を経て、五官将文学に上った。建安七子のひとり。  
44 6)劉 驕@(りゅうてい)   - 217年
  後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫、劉梁の子(あるいは孫) 贈従弟三首
45 7)阮禹 (げんう)    〜212
 陳留尉氏の出身。字は元瑜。蔡?に就いて学問を修め、曹洪の招聘を拒否して鞭打たれたこともあったが、建安初年に曹操の司空軍謀祭酒・記室となった。章表書記において陳琳と双璧と謳われたが若くして病死し、殊に曹丕に惜しまれたという。『詩品』では下品に位する。  
46 王炙(おうえん) 177〜217
後漢から魏(ぎ)にかけての文人。高平(山東省)の人。字(あざな)は仲宣。博覧多識で知られる。詩賦に長じ、建安七子の一人。「従軍詩」「七哀詩」「登楼賦」など。  従軍詩
七哀詩
登楼賦」

4.桃園の誓い
 豕県(たくけん)・楼桑村。この小さな村に、草鞋を売って生計を立てている一人の男がいた。彼の名前は劉備玄徳。漢の中山靖王・劉勝の末裔、景帝の血を引く由緒正しい人物です。彼は黄巾賊の暴挙に強い反感を抱きながらも、自分の力のなさに嘆いていた。そこに幽州の太守・劉焉(りゅうえん)が義軍募集の高札を掲げた。それは官軍(後漢王朝の軍隊)の力では、もはや黄巾賊の暴挙を抑えることができないということを意味していた。この高札を前に劉備が義軍入隊について躊躇していると、後ろから張飛と名乗る巨漢の人物が劉備の自信のなさに大喝。劉備は何かから目覚めたように、義軍への参加を決意したのです。張飛の兄貴分であった関羽と共に、劉備は彼の桃園で義兄弟の契りを結んだ。劉備が長兄、関羽が次兄、そして張飛が末弟。劉・関・張三兄弟がここで固い意志と野望で結ばれた。 


5.黄巾の乱
 中国後漢末期の西暦184年(中平1年)に太平道の教祖張角を指導者とする太平道の信者が各地で
起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。ま
た、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。後漢の衰退を招き、三国時代に移る
一つの契機となった。
蜂起
冀州鉅鹿の張角は『太平清領書』に基づく道教的な悔過による治病を行った。それをもって大衆の信心
を掌握し、政治色を濃くしていった太平道は、数十万の信徒を36個に分け、一単位を「方」とし軍事組織
化していった。 そして武装蜂起を計画した張角は、漢王朝の転覆を暗示した「蒼天已死 ?天當立 ?在甲
子 天下大吉」(『後漢書』71巻 皇甫嵩朱儁列傳 第61 皇甫嵩伝、蒼天すでに死す、黄天まさに立つ
べし。歳は甲子に在りて、天下大吉)[3]というスローガンを流布し、役所の門などに「甲子」の二文字を書
いて呼びかけた。

184年(光和7年、干支年は甲子)、先に荊・揚州で兵を集めさせていた馬元義を洛陽に送り込み、中
常侍の封?、徐奉等を内応させ3月5日に内と外から蜂起するよう約束したが、張角の弟子の唐周が宦官
達に密告したことで蜂起計画が発覚し、馬元義は車裂きにされた。事を重く見た霊帝は三公や司隸に命
じ、宮中の衛兵や民衆を調べさせ千人余りを誅殺し、張角捕縛の命を下した。

2月、事がもれた張角は予定より早く諸方に命じ一斉に蜂起し、自らを天公将軍と称し、弟の張宝、張
梁をそれぞれ地公、人公将軍とした。

3月、霊帝は何進を大将軍とし将兵を都亭に駐屯させ、八つの関に都尉を置き洛陽を守護させた。皇甫
嵩や呂強等の進言によって党錮の禁を解き、官界から追放されていた清流知識人が黄巾賊に合流する
のを防ぎ、且つこれを利用した。また宮中の倉の銭と西園の馬を出し人材を募り、盧植を張角がいる冀州
方面へ、皇甫嵩と朱儁に豫州潁川方面へと、それぞれ黄巾の勢力が強い所へ派遣した。


豫州・潁川黄巾軍
184年4月
、朱儁は潁川にて波才と激突し敗走する。

5月、皇甫嵩、朱儁は長社に篭城し、それを波才は大軍を持って包囲した。劣勢のなか、皇甫嵩は軍を
鼓舞し火計を用いて波才軍を混乱させ長社を討ってでて波才軍を敗走させた。そこにちょうど援軍に来た
曹操軍と合流しさらに戦い大いに打ち破り、追撃し陽?において波才軍を、6月に西華にて彭脱軍をそれぞ
れ壊滅し、黄巾の別働隊を破った王允と共に豫州を平定した。

荊州・南陽黄巾軍
184年3月
、荊州南陽にて張曼成率いる南陽黄巾軍が蜂起。太守・?貢を攻め殺した上、自らを「神上
使」を称し、宛に駐屯した。

6月、新しく南陽太守に任命された秦頡は張曼成を攻めこれを斬ったが、南陽黄巾軍は新たに趙弘を指
揮官に立てて盛り返し、宛城に篭った。 豫州を平定し終えた朱儁は荊州刺史・徐?、秦頡と合流し宛城
を包囲した。

8月、宛城を包囲中に何者かが朱儁更迭を進言しているという噂が流れる。この事態を受け、朱儁は急
遽攻撃を開始し趙弘を斬った。趙弘を失った黄巾軍は韓忠を代わりに立て再び宛城に篭ったが、朱儁揮
下の孫堅の活躍もあり宛城は落城した。韓忠は脱出し降伏しようとするが朱儁が受け入れず、その後打
ち破られた韓忠は秦頡に殺されてしまったため、南陽黄巾軍は新たに孫夏を立て抵抗を続けた。

10月、朱儁は激しく抵抗を続けた孫夏をついに破り南陽黄巾軍を壊滅した。

冀州・張角軍

清代の書物の黄巾の乱、劉備関羽張飛の三人
184年6月
、冀州にて黄巾軍に連戦連勝した盧植軍は、張角が広宗に篭城するとそれを包囲し攻め落
とそうとした。盧植軍は終始優勢だったが派遣されてきた小黄門・左豊に賄賂を贈らなかったため、恨まれ
讒言されて職を解かれてしまう。代わりに董卓が派遣されたが逆に黄巾軍に敗れた。

8月、霊帝は豫州を平定したあと?州東郡において卜己軍を打ち破った皇甫嵩を冀州に派遣するよう命じ
た。

10月、皇甫嵩は広宗で黄巾軍を奇襲によって破り張梁を斬った。このときすでに張角は病死していたので
その遺体を引きずり出し晒した。さらに鉅鹿太守の郭典と共に、曲陽にて張宝を打ち破りこれを斬った。こ
れにより指導者を失った黄巾族は瓦解し、黄巾の乱は収束に向かう。

その後の影響
しかしながら、張角ら幹部が死去した後も乱の根本的原因である政治腐敗による民衆への苛政が改善さ
れることはなく、黄巾軍の残党はこののちも広範な地域に跋扈し、反乱を繰り返したり、山賊行為や盗賊
行為を行っていた。これらの中で楊奉、韓暹に率いられ白波谷に拠った残党は「白波賊」と称されたが、
献帝の洛陽帰還の際に後漢に帰順し、皇帝奪還を目論む李サイ、郭らと交戦した。後に盗賊のことを
「白波」と称するのはこれによる。また、河北では張燕の黒山賊が割拠し、青州でも黄巾軍が大流行して
おり、青州の黄巾軍100万人は中国北部を大いに荒らし公孫サンに大敗する。

187年、張純が反乱を起こし青州刺史は張純討伐を命じた。討伐軍が平原を通過した時、劉子平は
劉備が武勇に優れていると述べて従事に推薦した。劉備は従軍し、田野で敵軍と戦い負傷し、死んだ真
似をして後から友人に助けられ脱出。軍功で安熹県の尉になった(魚豢「典略」)。

192年、エン州刺史の劉岱が戦死。

中 国 詩 人 と 歴 史
・元謀・藍田・北京原人

・神話伝説(三皇五帝)

・黄河・長江・遼河文明

・夏 ・殷 ・周・西周


詩經  春秋學  諸子百家
東晋
十六国
北魏
西魏
東魏
北周
北斉
唐 




 唐
 (初唐)

  (盛唐)
 (中唐) 
 (晩唐)

西夏
 
 
北元
後金

 
満洲
中華民国
中華人民共和国
台湾
黄巾軍の勢力が弱かった涼州のような地域でも後漢政府の統制が弱まったため、韓遂らが相次いで無軌道な反乱、自立、抗争を繰り返し、異民族も辺境でしばしば略奪行為をおこなった。このような治安の悪化に備えるため、主に豪族を中心にして村落共同体規模で自衛・自警のための武装を行うものが現れた。

治安の悪化に伴い、知識人を含む多くの民が難を避けて荊州・揚州・益州・交州など江南や四川の辺境地域に移住したことは、これらの地域の文化水準の向上と開発を促し、これらの地域が自立する素地をなしたことは三国時代やその後の南北朝時代の要因となった。

黄巾の乱以後、軍閥的な勢力が多数出現し、これらによる群雄割拠の様相を呈するが、これら軍閥を支えていたのは黄巾の乱により武装化した豪族たちと広汎な地域に拡散した知識人たちであった。

劉備は義兵を結成すると、直ちに劉焉のもとに駆け付けました。同じ劉一族と知った劉焉は、劉備の来訪を歓迎、義理の甥として扱いました。そうこうしている内に劉備の仕事がすぐ舞い込んできました。最初の任務は大興山に陣取る黄巾賊の退治でした。ここで劉備は関羽・張飛とともに一斉攻撃を仕掛け、敵将・程遠志を討ち取ります。その後も青州城の救援や河南の決戦などで獅子奮迅の活躍を見せ、遂には黄巾賊の副頭領である張宝を倒し、官軍を勝利に導きました。もう一人の副頭領・張梁も官軍の皇甫嵩ならびに曹操の攻撃を受けて戦死。病を患っていた張角も大いなる失望に倒れ、ここに黄巾の乱は幕を閉じました。劉備玄徳は二十三歳の若さでその名を天下に轟かせた。 


6.劉備の苦悩
 黄巾の乱を平定した官軍の将たちは、続々と都・洛陽へ凱旋し、武勲を挙げた皇甫嵩・曹操らは霊帝
より高位高官を授かりました。義軍の劉備たちには何の沙汰もありませんでした。十常侍は義軍上がりの
劉備たちに官位を与えるのを躊躇いましたが、とりあえず中山府安喜県の県尉という小さな役職を与え、
劉備はそれでも不平不満を言わずにその職を拝命し、任地へ赴きましたが、賄賂をせがまれましたが、劉
備は民が苦労して納めた税金を賄賂になど使えないと拒否、これで帝に反することになってしまった劉備
は、やむなく任地を去り、流浪の旅に出かけることになった。劉備らが旅中、突然官軍の一隊に出くわし
た。その軍を率いていたのは公孫贊(こうそんさん・北平の太守)でした。劉備とは旧知の仲で、劉備も彼
を兄貴分として慕っていた。公孫贊は劉備の不遇を哀れみ、旅先で劉備たちが倒したという盗賊が手配
中のものであったのを上手く利用し、督郵への非礼を赦免させ、平原県の県令という官職を推挙させまし
た。劉備は彼に深く感謝して別れ、直ちに任地へ赴いた。 

7.何進の優勢、十常侍の劣勢
 一方、都・洛陽ではある異変が起ころうとしていました。霊帝が危篤状態に陥ったのです。霊帝には二人
の妃がいて、名を何太后と王美人といいました。そして、その二人ともが霊帝との間に子供を持っていまし
た。しかし、自分の息子である弁皇子を次の帝に即位させたい何太后は、王美人を毒殺。その子・協皇
子を霊帝の生母に預けさせたのです。これにより宮中では、何太后の兄である何進(かしん)の権力が一
気に増し、洛陽の取締役である大将軍に抜擢されることになったのです。それはさておき、霊帝の余命はも
はやいくばくもありません。その霊帝の最後の願いが、協皇子を次の帝にすることでした。ところで十常侍
は、最近の何進の勢いが面白くありませんでした。さらに、もしも弁皇子が次期皇帝に即位すれば、何進
の権力は増大するばかりです。これを危惧した十常侍は、何としてでも何進の権威を失墜させたかったので
す。そんな最中に霊帝の危篤。十常侍はここぞとばかりに霊帝に進言しました。「協皇子を次の帝に即位
させるためには、後顧の憂いを絶つために何進の暗殺が必要です」と。霊帝には、もはやそれを画策する気
力は残されていませんでした。よって、十常侍は極秘裏に何進暗殺計画を企んだのです。しかし、この情
報はいとも容易く何進の密偵に知られ、激怒した何進は霊帝崩御と同時に十常侍および宦官誅滅を掲
げて宮廷に乗り込みました。こうして、蹇碩(けんせき)ら何進暗殺を企てた者は全員殺されました。しか
し、十常侍の一人である張譲は必死で何太后に命拾いを嘆願。何太后はこれを了承し、これ以上の殺
生は無益だと何進に忠告しました。何進はこれを承諾し、張譲は命拾いをしたのです。こうして、弁皇子を
少帝として即位させた何進は宮中の全ての権力を手に入れた。

曹操の台頭
 しばらくするとまたもや張譲らが何進の権威失墜を目論んで動き始めたのです。怒った何進は今度こそ
全員抹殺をしようと試みましたが、何太后に十常侍にはこれ以上手をかけないと約束してしまったため、各
地の豪族に使者を送り、宮廷に乗り込んで残りの十常侍を殺害するように命じたのです。しかし、その最
中に何太后が何進に話があると使者をよこしました。曹操ら配下の将は、これは十常侍の策略に違いな
いと進言しましたが、何進は十常侍をなめてかかって聞かず、結局、曹操・袁紹率いる精鋭を引き連れ
て、何進一人宮廷の中に入っていきました。当然、これは十常侍の策略でした。何進は張譲らによって謀
殺され、首は曹操らのもとに送られました。張譲は曹操らに万事終わったので、軍を撤退させるよう命令し
ました。しかし、曹操はこうなることを見越して精鋭を引き連れてきたのです。曹操は張譲の命令を無視し
て、十常侍と宦官の撲滅を今度こそ果たすよう全軍に伝え、宮廷に攻めかかりました。老若男女二千人
あまりが殺され、十常侍もことごとく討たれました。張譲は少帝と陳留王(協皇子)を連れて宮廷から逃走
しましたが、追手の攻撃を受け入水自殺。少帝と陳留王は、何進の使者から事情を聞いて西涼から上
洛してきた董卓の軍勢に警護されて、無事宮廷に帰還しました。こうして、十常侍と何進をめぐる争いに終
止符が打たれた。



ID
詩人名
よみ
生没年
作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事
  漢  〔前漢〕紀元前206年 - 8年

高帝(劉邦) かんこうそ 前247―前195 大風歌 鴻鵠歌

項羽 こうう 前232-前202 垓下歌


唐山夫人 とうざんふじん
前206頃
在世安世房中歌

虞美人 ぐびじん




朱虚侯章 しゅきょこうしょう 前200−前177 耕田歌 紫芝歌

賈誼 かぎ 前201−前169 新書 治安策

孔安国 こうあんこく  未詳 −前140



韋孟 いもう 前228-前156頃 諷諫詩


烏孫公主(細君) うそんこうしゅ 前130年-不詳 悲愁歌


枚乘 ばいじょう 未詳 -前140 雜詩九首


淮南王劉安 りゅうあん 未詳 -前140 淮南子


司馬相如 しばそうじょ 前179-前117年 封禪頌 子虚賦 上林賦
卓文君 たくぶんくん 前179-前117頃 白頭吟


劉細君 りゅうさいくん
悲愁歌
前105年烏孫に嫁す。
董仲舒 とうちゅうじょ 前176―前104 春秋繁露


司馬遷 しばせん 前145―前86 史記


武帝 (劉徹) ぶてい 前156-前87年 瓠子歌二首 秋風辭 李夫人歌 柏梁詩



落葉哀?曲 蒲梢天馬歌

東方朔 とうほうさく 前161-前87頃 誡子詩


李延年 りえんねん 前140-前87頃 歌一首


燕刺王旦 えんしおうたん 前不詳-前80年


華容夫人 かようふじん 上の妻、同時期


昭帝 しょうてい 前94-前74 淋池歌


李陵 りりょう 不詳-前74 與蘇武詩三首 別歌

霍光 かくこう 未詳 -前68



蘇武 そぶ 前142-前60 詩四首


楊ツ よう うん ? - 前54年 拊缶歌


王昭君 おう しょうくん 前1世紀頃 怨詩


班ショウ、 はん しょうよ 生没年不詳 怨歌行


劉向 りゅうこう 前77- 前 6 説苑 新序 烈女傳
趙飛燕 ちょう ひえん ? - 前1年 歸風送遠操



  新 ;   8〜23
揚雄 ようゆう 前53- 18 法言 方言 大玄經
劉キン〔音+欠〕 りゅうきん 前53―23 七略



  後漢 ;   24〜220
梁鴻 りょうこう 不詳 (後漢) 五噫歌


梁鴻妻(孟光) りょうこうつま(もうこ
う)
不詳 (後漢)



杜林 とりん 前? - 47  漆書古文尚書

馬援 ば えん  前14 - 49 武溪深行


班彪 はんぴょう  3- 54 北征賦


王充 おうじゅう 27 ‐ 90 論衡


班固 はん こ 32 - 92 寶鼎詩 漢書 兩都賦 白虎通徳論
崔いん〔馬+因〕 さいいん 未詳 - 92 七依


賈逵 かぎ 30 - 101 左氏傳解詁 国語解詁

班昭 はんしょう ? ― 116 女誡 東征賦

楊震 ようしん  54- 124 最古の部首別漢字字典『説文解字』
許慎 きょしん 58年? - 147年 説文解字


張衡 ちょうこう 78 - 139 兩都府 四愁詩

崔援 さいえん 77 - 142 座右の銘


王逸 おういつ 生没年不詳 楚辭章句


陳蕃 ちんばん 99年以前 - 168



李膺 りよう 110 - 169



李尤 りゆう 生没年不詳 九曲歌

















  後漢末から三國鼎立時代、西晉時代の詩人

 (後漢末の詩人)

何休 かきゅう 129 - 182 春秋公羊解詁



張角 ちょうかく ? - 184




蔡ヨウ さいよう 132 - 192 独断蔡中郎集



趙壹 ちょういつ 122  - 196 魯生歌・秦客詩 迅風賦・解擯賦 刺世疾邪賦 窮鳥賦

鄭玄 ていげん 127 - 200 毛詩 鄭?三礼注


趙起 ちょうき 未詳 - 201 毛詩注



孔融 こうゆう 153 - 208 建安七子



荀悦 じゅんえつ 148 - 209 申鑑



周密 しゅうみつ 175 - 210




周瑜 しゅうゆ 175-210




阮ウ〔王+禹〕 げんう 未詳- 212 建安七子



ホウ統〔广+龍〕 ほうとう 179 - 214




魯肅 ろしゅく 172 - 217




徐幹 じょかん 170 - 217 建安七子 中論 室思一首 情詩一首

王粲 おうさん 177 - 217 建安七子 登樓賦 七哀詩

陳琳 ちんりん  ? - 217 建安七子 飲馬長城窟行

應トウ〔王+易〕 おうとう(ちょう)  ? - 217 建安七子 別詩 侍五官中郎將建章臺集詩

りゅうてい  ? - 217 建安七子 贈従弟三首


關羽 かんう  ? - 219




仲長統 ちゅう ちょうとう 180 - 220 昌言



魏・武帝(曹操) ぶてい・そうそう 155 - 220 短歌行 善哉行 龜雖壽 苦寒行



薤露 土不同 萬里行 卻東西門行



ID
詩人名
よみ
生没年
作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事


  後漢 ;   24〜220

梁鴻 りょうこう 不詳 (後漢) 五噫歌




後漢の人。生没年は不詳。字は伯鸞。扶風平陵(現・陝西咸陽県西北)の人。この詩のために姓名を改め、姓を運期とし、名を燿、字を侯光とする。貧しい家庭の出身である。『五噫歌』詩は、梁鴻が洛陽に来て、北芒山に登った時の作。芒山より宮廷の栄華と庶民の貧苦をながめて作ったもの。これが、後漢の章帝にとがめられ不興を買い、姓名を改めて山東省の山に隠棲した。

梁鴻妻(孟光) りょうこうつま(もうこう) 不詳 (後漢)





後漢の梁鴻は字を伯鸞といい、扶風平陵の人である。
同県の孟家に娘がいた。肥満で醜くて色黒、力は石臼を持ち上げるほど。彼女は選り好みをして、三十歳にまでなっていた。父母が彼女に結婚の条件を聞いてみると、彼女は「梁伯鸞さんみたいな賢い人と結婚したいです」と答えた。
梁鴻はその話を聞いて、彼女を迎えた。結婚するにおよんで、彼女は初めて着飾って嫁いだ。しかし、梁鴻は七日経っても彼女を相手にしなかった。彼女は何か不調法でもしでかしたかと思い謝罪すると、梁鴻は言った。
「私は、皮衣毛衣といった粗末な着物を着て、共に深山に隠れ住むような人を妻にと望んでいた。今、貴女は綺羅の如き衣を着、化粧をしている。私が結婚したいと思った貴女ではない。」
その言葉を聞いて彼女は、「わたくしも、侘び住まい用の服を用意しておりました」そう言うと、すぐに服装を改め髪を結いなおし布衣を着て、自らすすんで働いた。
梁鴻はとても喜んで、「それでこそ本当に私の妻だ」と言い、そして字を徳曜と名つけた。彼女の姓名は「孟光」である。そして、二人は、共に霸陵山中に隠れ住んだた。

杜林 とりん 前? - 47  漆書古文尚書



杜 林(と りん、? - 47年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての政治家、学者。字は伯山。司隷扶風茂陵県(現在の陝西省咸陽市興平市)の人。父は成帝、哀帝の代の涼州刺史を務めた杜?。弟は杜成。子は杜喬。
杜林は幼くして学を好み、落ち着いて考え深かった。博学多聞にして、万事に通じた儒者と称された。最初は郡吏を務めていたが、王莽が滅亡すると、三輔に盗賊が現れたため、杜林と杜成、同郡の范逡、孟冀は、河西[1]を目指して逃れようとした。途中、数千人の盗賊に襲われ、危うく身包みを剥がれて殺されそうになったが、孟冀の必死の嘆願で、何とか命拾いしている。
隴右の隗囂が、杜林の志操と節義を普段から聞き知っていたため、これを尊重して待遇し、持書平とした。後に、杜林は病気により辞職した。隗囂は自身の声望のために、杜林を無理にでも任用しようとしたが、杜林はあくまで病状が重いと称してこれを拒否した。建武6年(30年)、弟の杜成が死去したため、杜林は喪のために三輔へ帰ろうとした。隗囂は初め許したが、後にこれを悔やみ、刺客の楊賢を派して隴?(天水郡)で待ち伏せさせ、殺害しようと図った。しかし楊賢は、弟の喪に服している杜林の姿を見ると、嘆息して任務を放棄し、逃亡した。
光武帝(劉秀)は杜林が三輔に帰還したと聞くと、ただちに侍御史として招聘した。漢の官僚たちは、杜林の徳望を敬い、京師の士大夫たちも杜林の博学ぶりを尊敬した。建武7年(31年)、朝廷で郊祀の制度について議論となり、多くの人は、周が后稷を祀ったのであるから、漢は堯を祀るべきであると主張し、光武帝もこれに従おうとした。しかし杜林は、周の勃興は后稷に縁るが、漢の勃興に堯は無関係であるとし、祖宗はこれまで通り(高祖劉邦以下を祀る)とすべきであると進言した。最終的には、杜林のこの言が容れられている。
後に、王良の後任として大司徒司直となり、范逡、趙秉、申屠剛、牛邯など有為の人材を抜擢している。建武11年(35年)、光禄勲に任命され、やはり公平な人材登用を心がけたため、多くの者が杜林の下を訪れ、その選抜を受けようとした。建武14年(38年)、大臣たちが刑罰を厳重にするよう光武帝に奏上したが、杜林は妥当ではないと進言し、光武帝もそれに従った。
東海王劉彊の王傅を経て、少府に就任し、建武22年(46年)、光禄勲に再び任じられる。この年の冬に、大司空朱浮が罪により罷免されたため、杜林が後任の大司空に任命された。その博学と文雅により、任に堪え得る者としての評価を得た。
建武23年(47年)秋8月、死去。子の杜喬は丹水県令として任用された。

馬援 ば えん  前14 - 49 武溪深行




馬 援(ば えん、紀元前14年 - 49年)は中国新末期から後漢初期の武将。字は文淵。諡は忠成。兄に馬況・馬余・馬員、その娘(馬皇后)は後漢第2代明帝の皇后となった。子孫に後漢末期・三国時代の武将の馬騰・馬超父子がいる。新末期に新城大尹(新制における漢中郡の太守のこと。王莽が改名した)とされ、新滅亡後は隴西(甘粛省)に割拠した隗囂の配下になった。隗囂は河北に勢力を持つ劉秀(光武帝)、蜀に割拠して皇帝を名乗っていた公孫述の二者を窺い、内情を調べさせるために、公孫述の同県人で旧知である馬援を蜀に使いさせた。馬援は暖かく迎えてくれると思った公孫述が、皇帝の権威と礼儀で迎えるのに幻滅し、隗囂には公孫述は「井の底の蛙」と評し、光武帝に味方するべきだと訴えた。
建武4年(28年)馬援は今度は光武帝への使者となった。光武帝は礼儀に拘らず「君は二帝の間に往来する。今、君を見て、自分が及ばざる者では無いかと恥じいる」と笑って馬援を迎える。馬援はそんなことはありませんと詫び「公孫述は旧知の我に対して戟を並べて、その後に我を進ませる。臣、遠くから来る。陛下、何ぞ刺客に非ずと知り、礼儀作法の簡易なることかくの如きや」と言えば、光武帝は「君は刺客でなく説客なるのみ」と笑う。これによって馬援は就くなら器の大きな光武帝と決め、光武帝の使者来歙と共に隴西に戻って隗囂を説得する。隗囂は長子隗恂を人質となし、再度、馬援は来歙・隗恂と共に洛陽に行き、光武帝に臣として降った。
隗囂は建武6年(30年)に光武帝と対立し、抗戦の中、建武9年(33年)に病死した。この年馬援は太中大夫を拝し、中郎将来歙の副官として諸将を監督することになった。建武11年(35年)の隗囂残党討伐に馬援は功績を挙げ、次いで来歙の推薦によって隴西太守となった。
建武12年(36年)には公孫述を滅ぼして光武帝の全国統一がなった。建武16年(40年)に交州(現在のベトナム北部)で徴姉妹が反乱を起こしたが、翌年(41年)に馬援は伏波将軍に任じられ、姉妹を討ち取って反乱を鎮圧した。
更に建武24年(48年)の武陵五渓の反乱に出陣を願い出る。この時に既に62歳であり、光武帝も「もう年なのだから」と馬援を止めたが、馬援は「私はまだ馬にも良く乗れます」と言って馬に飛び乗り、光武帝も笑って「矍鑠たるかな!この翁」と言って出陣を許した。しかしこの戦いの陣中で没した。なお、老いても元気な人を「矍鑠」と褒めるのはこの故事が由来となっている。
死後、恨みを持っていた人間からの讒言を受け、一切の官爵を剥奪されるが、その後、名誉回復がなされた

班彪 はんぴょう  3- 54 北征賦




班 彪(はん ひょう、3年 - 54年)は、後漢の歴史家。字は叔皮。祖父の班况(中国語版)は成帝の時代に越騎校尉に任じられ、父の班稚(中国語版)は哀帝の時代に広平太守に任じられた。また子に班固、班超、班昭が、孫に班勇(班超の三男)がいる。
班彪は扶風安陵(現在の陝西省咸陽市)に儒家の子として生まれ、前漢末に戦火を避け竇融の庇護を受けた。その後、光武帝による後漢政権建設に功績があったことから徐県令に任じられた。しかし間もなく病気を理由に官を辞し、その後は『史記』の補充を行い『史記後伝』65編を編集、後に子である班固による『漢書』成立の基礎を築いた。『後漢書』に列伝が掲載されている。

王充 おうじゅう 27 ‐ 90 論衡




王 充(おう じゅう、建武3年(27年) - ?90は、後漢の文人、思想家。字は仲任。会稽郡上虞の出身。旧伝などの非合理を批判し合理的なものを追求した『論衡』を著す。その著書において儒教に対しても厳しい批判を行なっていることから、北宋代以降は異端視されて省みられることがなかった。逆に1970年代の中華人民共和国での儒教批判運動の中では、孔子批判の先駆者として評価されたりもした。幼少のときから人に馬鹿にされることを嫌って子どもたちと遊ぶこともなく、8歳の頃から書館(学校)に出入りして勉強を始め、成人すると都(洛陽)に出て太学で班彪(『漢書』の著者の班固の父)に師事して学問を修めた。洛陽にいた頃は貧しくて書物を購入することができず、市場の書店で立ち読みして内容を暗記し、ついに諸子百家の学問に通じるようになったという。
学問を修めた後に郷里に戻って地方行政の下級官吏となったが、上司との意見が合わず、出世することはなかった。30歳代で官職を辞し、郷里の子弟に学問を教えながら、自身は書物・俗説の虚実を見極めようとし、著述に打ち込むようになった。「譏俗」「政務」などを著したものの満足せず、王充の目で見て合理的とはいえない讖緯説・陰陽五行説などが流行していたことを遺憾として、のちの『論衡』につながる著作を開始したとみられている。元和3年(86年)には揚州刺史の董勤に召されて60歳で治中従事史となり、仕事のために著作の意志が弱まったようだが、章和2年(88年)には辞任して隠棲することとなった。隠棲した後にも、同郷の友人の謝夷吾が和帝に上書して登用を薦めたが、王充はもはや病を得ており出仕することはなかった。この後に「養性」16編を著したというがこれも現存しておらず、あるいは『論衡』の中に収められている可能性もあるとみられている[3]。こうして『論衡』の完成に情熱を注ぎいれ、永元年間(89年 - 105年)に、病のために生涯を終えた。

班固 はん こ 32 - 92 寶鼎詩 漢書 兩都賦 白虎通徳論


班 固(はん こ、32年(建武8年) - 92年(永元4年))は、中国後漢初期の歴史家、文学者。字は孟堅。班超、班昭の兄、班勇の伯父。『漢書』の編纂者として一般に知られるが、文学者としても「両都賦」などで名高い。『後漢書』班彪列伝によると、班固は扶風安陵(現在の陝西省咸陽市)の人であり、若いころから文章に優れていた。父班彪も歴史家であり、班固に先立ってすでに『史記』の『後伝』65編を編纂していた。建武30年(54年)に父が没した後、班固はその遺志をついで歴史書を編纂していたが、「ひそかに国史を改作しようとしている」と告発されて投獄された。弟の班超が明帝に上書したところ、冤罪として班固は許され、高く評価されて蘭台令史の職につけられた。後に典校秘書に遷った。班固は『世祖本紀』(後の『東観漢記』の一部)を共同で編纂した。『漢書』はその後20年ほどかけて基本的に完成した。
章帝は文学を好み、班固は高く評価された。帝は経典の本文に関する白虎観での論争の経緯を班固に編纂させた。永元4年(92年)、竇憲が失脚すると、班固もまた竇憲一派とされてこの事件に連座して、獄死した。『漢書』の未完の部分は妹の班昭が引き継いで完成させた。

崔いん〔馬+因〕 さいいん 未詳 - 92 七依




崔イン(?−92年),字亭伯,幽州タク郡安平縣(今河北省衡水市安平縣)の人,東漢經學家、文學家。其の祖先は漢の昭帝時、幽州崔朝に從事し,崔朝は是の崔インの高祖父にあたる。崔盤の兒子。崔烈曾は後漢の太尉に任ぜられ、城門校尉等の職についている。字は亭伯。その祖父崔篆(さいてん)は王奔に寵遇されたのを恥じ、後漢に仕えず、父崔毅も隠居して仕えなかった。崔?は少時より<詩経><易経><春秋>を学び、百家の言に通じ、太学に学んで班固、傅毅らと並び称された。仕官を求めなかったが、元和(84年〜87年)中、章帝に文才を認められたのを機会に、外戚竇憲(とうけん)の知遇を受け、車騎将軍をへて、竇憲の府の掾属(じょうぞく)となった。しかし竇憲のわがままを諌めて憚らなかったので、ついに疎まれて長岑令(ちょうきんれい)にだされることとなったが、官につかず家に帰った。詩文合わせて21編の著がある。

賈逵 かぎ 30 - 101 左氏傳解詁 国語解詁 『左伝』注釈


賈 逵(か き、30年 - 101年)は、後漢時代の儒学者・天文学者。字は景伯。右扶風平陵県(現在の陝西省咸陽市秦都区)の人。
前漢の賈誼の9世の孫にあたる。父の賈徽は劉?から『春秋左氏伝』を受け『左氏条例』21篇を作り、また『国語』『周官』を習った。そのほか塗ツからは『古文尚書』を、謝曼卿から『毛詩』を受けている。賈逵は父の業をことごとく受け継ぎ、弱冠にして『春秋左氏伝』や五経本文を暗唱したという。『左伝』の古文学を主としたが、『春秋穀梁伝』五家の学(尹更始・劉向・周慶・丁姓・王彦)にも通じていた。身長8尺2寸(約195cm)で諸儒は彼を「問事不休の賈長頭」と称した。
明帝の時、朝廷が神秘主義的な予言怪異の書、讖緯を好むのを利用し、『春秋左氏伝』を讖緯で説いた。また班固とともに校書郎に任じられ共に宮中図書の校定や後漢史の整理に当たっている。章帝は儒学好きで、特に『春秋左氏伝』『古文尚書』を好み、建初元年、賈逵は北宮白虎観、南宮雲台にてこれを講じた。また今文公羊家の李育を反駁したり、『古文尚書』を『爾雅』で訓詁したり、詔勅により『今文尚書』と『古文尚書』の異同、今文三家詩(『斉詩』『魯詩』『韓詩』)と『毛詩』の異同を集めたり、『周礼解詁』も作るなど古文学の地位を高めるのに貢献した。
また天文暦学に造詣が深く、元和年間、四分暦が施行された後、詔勅により賈逵が四分暦修正のための責任者となっている。また「賈逵論暦四則」(92年)として知られる優れた暦論を遺し月の運行の遅速などを指摘している。これは『後漢書』律暦志に記載されている。
著書には『春秋左氏伝解詁』『国語解詁』を始めとする経注や詩・頌・誄など多数存在した。そのほとんどが散佚して現在に伝わらないが、清の馬国翰の『玉函山房輯佚書』や黄?の『漢学堂叢書』に集められている。また『左伝』に関する注釈の一部は清の劉文淇の『春秋左氏伝旧注疏証』に載せられている。

班昭 はんしょう ? ― 116 女誡 東征賦 続列女伝2巻


班 昭(はん しょう、45年? - 117年?)は、中国・後漢の著作家。中国初の女性歴史家。一名・姫。字は恵姫、または恵班。扶風安陵(陝西省咸陽市)の出身。歴史家・班彪の娘として生まれ、同じく歴史家・班固と、西域で活躍した武将である班超は兄である。班勇(中国語版)は甥(班超の三男)。14歳で曹世叔に嫁いだが、世叔は早くに死に、彼女の才名を聞いた和帝が召し出して宮中に入れ、後宮后妃の師範とした。人々は敬して曹大家(そうたいこ)と称した。兄の班固が『漢書』を未完成のまま亡くなったので、八表・天文志の稿を書き継いで完成させた。その他の著として、『女誡』7章、『続列女伝』2巻も彼女が選定したものと伝えられる。辞賦に長じて、父・彪の『北征賦』に対して『東征賦』を作り、『文選』に収められ、漢代女流作家の第一人者に数えられる。ほぼ安帝の時代で元初年間(114年 - 119年)に没している。享年70余という。『後漢書』にその伝がある。

楊震 ようしん  54- 124 最古の部首別漢字字典『説文解字』


楊 震(よう しん、54年 - 124年)は、後漢前期の政治家。字は伯起。楊牧・楊里・楊秉・楊譲・楊奉らの父。楊賜・楊敷(楊奉の子)の祖父。楊g・楊彪・楊衆(楊敷の子)の曾祖父。楊亮・楊修の高祖父。弘農郡華陰県(現在の陝西省華陰市)の出身。『後漢書』に伝がある。楊震は、幼くして太常の桓郁から欧陽尚書を学び、経に明るかったことから関西の孔子と賞賛された。
州郡からの誘いを断り続け、仕官せずに農耕をして暮らし、母に孝養を尽くし、弟子からの手伝いも拒絶した。
後に50歳になって初めて州郡に仕えた。大将軍のケ?は楊震の評判を聞き、茂才に推挙した。楊震は4度官職を移り、荊州刺史・東莱太守までになった。東莱の任地に赴くとき、荊州刺史時代に茂才に挙げた人物から金品をひそかに送られたが拒絶した[1]。また、東莱太守から?郡太守に転職となったときも清廉な姿勢を貫いた。
元初4年(117年)に中央に召喚されて太僕となり、のちに太常になった。儒者の人材が不足しがちであったが、陳留の名士の楊倫らを推挙し、博士の質を一新させた。
永寧元年(120年)には司徒となった。永寧2年(121年)、長く臨朝してきた太后のケ綏が死去し、ケ氏一族が粛清され安帝の親政が開始されるようになると、安帝の側近たちが勝手に振舞うようになった。あるとき、安帝の乳母の王聖の娘の伯栄が宮中で不正を働いていたため、楊震は安帝に君側の奸を除くよう勧めた。安帝は楊震の上奏を側近達に見せたため、楊震は恐れ恨まれるようになった。伯栄が劉氏の皇族と結婚しますます増長するようになると、楊震は再び上奏しこれを牽制した。安帝はこれを黙殺した。
延光2年(123年)、楊震は太尉となった。大鴻臚の耿宝(劉慶の正妻の耿姫の兄)は楊震に対し、中常侍の李閏の兄を任用するよう楊震に勧めたが、楊震は拒絶した。耿宝は楊震を説得しようとしたが、楊震は正論を吐いて堂々と拒絶したため、耿宝の恨みを買うこととなった。また、閻皇后の兄である執金吾の閻顕も縁者の抜擢を楊震に申し入れたが、同様に楊震に拒絶された。司空の劉授がこの話を聞き、すぐさま李閏の兄と閻顕の縁者を任用したため、ますます楊震は恨まれることとなった。
安帝は王聖母のために屋敷を造営し、また、取り巻きの宦官である中常侍の樊豊・江京・李閏・劉安・陳達と侍中の周広・謝渾が朝廷・宮中を暗躍するなど、安帝の側近たちの勢いはますます盛んであった。楊震はたびたび強い調子で安帝を諌めたため、安帝も楊震に不興を禁じえない心境となった。樊豊らも楊震を危険視したが、名儒であったため手を下せずにいた。ちょうど、河間の趙騰という人物が世情の乱れを憂いて安帝に諫言し、獄に下されるという事件が起きた。楊震はこれを救うため上疎したが、 安帝には聞き入れられず、趙騰は処刑された。
延光3年(124年)、安帝が東に巡狩に出た留守中に、樊豊らは詔勅を偽造して屋敷を大増築した。これを楊震の掾の高舒が見咎めて、安帝の帰還を待って樊豊らを弾劾しようとした。樊豊らは恐れおののき、ケ氏に取り立てられた過去まで持ち出して楊震を讒言し、安帝は楊震を太尉から免職とした。楊震は閉門蟄居していたが、樊豊らは大将軍の耿宝に働きかけ、楊震をさらに讒言させた。安帝は楊震に本籍の郡に戻るよう詔を出した。楊震は洛陽城内の西面にある夕陽亭で毒を仰いで「わが事は尽きた!」と叫んで、無念の自決を遂げた。享年71。
弘農太守の移良は樊豊らの意を受けて、楊震の葬儀を停止させ、棺を放置させた。さらに楊震の息子たちを庶民に落とした。後に順帝が即位すると、樊豊・江京・李閏・劉安・陳達と周広・謝渾らは誅殺されて、楊震の弟子の虞放・陳翼の働きで楊震の名誉は回復され、改葬を許され、息子たちも官職を与えられた。改葬の直前、墓に大鳥が現れたという。

許慎 きょしん 58年? - 147年?  説文解字




許 慎(きょ しん、?音: X? Shen、58年? - 147年?)は、後漢時代の儒学者・文字学者。許沖の父。最古の部首別漢字字典『説文解字』の作者として知られる。『後漢書』の記載は簡単すぎて生卒年などはわからない。厳可均は、『後漢書』南蛮西南夷列伝に「桓帝のとき(147年-167年)に尹珍が許慎と応奉に学んだ」とあることから、このころまで生きていたと考え、また『説文解字』序が書かれた100年に少なくとも30歳には達していたはずだとして、明帝の永平年間(58年-75年)の生まれと考えた。陶方gもこれに同意した。著書に『五経異義』『説文解字』『淮南鴻烈間詁』がある。『五経異義』は古文学の立場から経学を論じたものだが、後に鄭玄は『五経異義』を反駁して『駁五経異義』を著している。『説文解字』は現在に伝わっており、『淮南鴻烈間詁』も現行本『淮南子』の注21篇のうち8篇に採用されている。『五経異義』は散佚したが、清の陳寿祺によって輯佚された『五経異義疏証』がある。

張衡 ちょうこう 78 - 139 兩都賦 四愁詩 帰田賦 思玄賦


張 衡(ちょう こう、78年 - 139年)は、後漢代の政治家であった。字は平子。南陽郡西鄂県(現在の河南省南陽市臥竜区)の人。太史令や尚書などを歴任した政治家である一方で、天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家としても優れた才能を発揮した。また文人としても優れ、賦や絵画の名品を残した。西鄂県の没落した官僚の家庭に生まれた。父は早くに亡くなり、祖父張堪は蜀郡太守だったが、清廉な人柄だったため、祖父の死後張衡の家庭は貧しくなった。子供の頃から司馬相如や揚雄などの文学を好み、10歳頃には制作した詩が人の称賛を得るようになっていた。青年時代洛陽と長安に遊学し、5〜6年の歳月を過ごした。実力者からの誘いもあったが、良き師や友人を得ることに努め、特に天文・数学に詳しい崔?(中国語版)からは大きな影響を受けた。
永元14年(102年)、南陽郡守であった飽徳の主簿となった。永初元年(107年)には、洛陽を描いた「東京賦」と長安を描いた「西京賦」を著した(これらを総称して「二京賦(中国語版)」という)。永初2年(108年)には飽徳が大司農に栄転し、洛陽に戻ったが、張衡は南陽で勉学を続けた。永初5年(111年)、京官の郎中として出仕した。郎中時代に揚雄の『太玄経』に触れたことが、天文や数学の研究を始める切っ掛けとなった。元初3年(116年)、暦法機構の最高官職の太史令についた。建光2年(122年)、公車馬令に出任した。
永建3年から永和元年(128年 - 136年)の間、再び太史令を勤めた。剛直な人柄であったため、図讖や讖緯説などを厳しく批判し、順帝を取り巻く人々にうとまれた。136年には都を追われ、河間国(現在の河北省南東部)の相となった。河間国では官吏や土豪の不正を激しく取り締まったため、かえって排斥されたという。官を辞したい意向を奏上するが許されず、永和3年(138年)には尚書として呼び戻されるが、永和4年(139年)に病死した。
賦の名手であり、「二京賦」は漢代を代表する作品として知られる。「二京賦」、「帰田賦」、「南都賦」、「思玄賦」は『文選』に収録されている。晩年の「四愁詩」は最初の七言詩(中国語版)であるとされる。他の作品には「同声歌」がある。画家としても優れ、東漢六大画家の一人に数えられている

崔援 さいえん 77 - 142 座右の銘




崔援というのは、後漢の儒者であるが、血の気が多く、政争に巻き込まれ波乱に富んだ人生を送っている。若いころ、兄の崔章が村人に殺されたので、自ら刀を取ってあだ討ちし、逃亡したということからもその気性が分かろうというものである。(兄章、為州人所殺,援、手刃報仇,因亡命・会赦,帰家)
また、当時の儒者と言えば、礼に縛られた堅物との認識があるが、崔援はそういった羈絆を脱していた。それは66歳で臨終に臨んで息子達に次のように言ったことからも分かる。
『人というのは、天地の精気を受けて生まれ、死ねば骨は土に返るものだ。どこに葬っても同じだからわざわざ郷里まで運んで埋葬するなよ。また香典類は一切受け取るな。』息子達は、その遺言を忠実に守って、洛陽に埋葬した。
(年六十六・臨終,顧命子寔曰:「夫人稟天地之気以生,及其終也,帰精於天,還骨於地・何地不可臧形骸,勿帰郷里・其贈之物,羊豕之奠,一不得受・」寔奉遺令,遂留葬洛陽。)
こういったことがわざわざ書かれるとは、当時よほど人の注意を引いたということの証拠である、と私は考える。
 この崔援は文章も上手であれば、書も達筆であった。そして、当時の詩文の粋を集めた文選(巻28)に彼の『崔子玉座右銘』が載せられている。
この『座右銘』の出だしは、『無道人之短、無説己之長』(人の短を言うなかれ、己の長を説くなかれ)。
つまり、人を非難するな、自分の自慢をするな、という戒めである。よほど自制が効いていないと、どちらも私にはとても守れそうもない言葉である

王逸 おういつ 生没年不詳 楚辭章句 王逸集2巻



王逸(おう いつ、生没年不詳)は、後漢の官僚・文人。『楚辞』の注釈者として知られる。字は叔師。本貫は南郡宜城県。
元初年間、上計吏に挙げられ、校書郎となった。順帝のとき、侍中となった。『楚辞章句』を著し、当時に通行した。かれによって著された賦・誄・書・論および雑文は合わせて21篇あった。また漢詩123篇を作った。また『正部論』や『斉典』を編纂した。また文集が編纂された。
子の王延寿は字を文考といい、若くして魯国に遊んで「霊光殿賦」を作ったが、後に二十数歳で溺水死した。

陳蕃 ちんばん 99年以前 - 168年





陳 蕃(ちん はん、99年以前 - 168年)は、後漢の政治家。字は仲挙、汝南平輿(現在の河南省平輿県)の人。子に陳逸。『後漢書』に伝がある。祖父は河東太守の地位にあった。15歳のときに既に天下への志を有していた。郡に出仕し、孝廉となり、郎中になったが、母の喪のため官を退いた。喪があけると刺史の周景に別駕従事として招かれたが、周景と意見があわなかったため、受けなかった。その後の官への誘いも断った。太尉である李固からの招聘に応じ、議郎となり、楽安太守に転じた。楽安郡のある青州の刺史は李膺であり、みな李膺の前では一歩引いていたが、陳蕃だけが堂々としていた。郡に周?という高潔の士がいたが、陳蕃だけが交流することができた。南昌の太守の時に徐稚という隠士を崇敬し陳蕃はもともと賓客を好まなかったのだが徐稚のためだけに椅子一脚をあつらえ、彼が帰るとその椅子を片付けたという。また、趙宣という人物が孝で評判であったが、陳蕃は趙宣が服喪期間中に5人の子をもうけていたことを咎め、かえって罪に下した。
大将軍梁冀は陳蕃の評判を聞き、使者に詐言を用いさせて陳蕃を招こうとしたが、陳蕃は使者を笞打ちにして殺した。陳蕃は左遷されたが、まもなく尚書となった。中央でも直言を止めなかったため、豫章太守に左遷された。豫章でも高潔で人を寄せ付けない性格は変わらなかった。まもなく尚書令として中央に復帰した。その後、大鴻臚となったが、白馬令の李雲が直諫して桓帝の不興を買って誅殺されそうになると、陳蕃は李雲を弁護して免職となった。 田舎に戻っていたが、議郎として再び召しだされ、光禄勲となった。封賞の濫発や狩猟遊びの流行を厳しく諌めたが容れられなかった。五官中郎将の黄?と共に選挙を掌ったが、権力者におもねることをしなかったため、讒言を受け免職となった。尚僕射として復帰、太中大夫となり、やがて楊秉の後任の太尉となった。陳蕃は固辞したものの許されなかった。
河南尹となっていた李膺らが宦官と対立し弾圧を加えられると(党錮の禁)、陳蕃は李膺らを擁護し、諫言を続け、ついに免職された。
皇后ケ猛女が桓帝に廃位された後、陳蕃は竇妙(大将軍の竇武の娘)の出自の高さを理由に、竇妙を新たな皇后に推した。桓帝が崩御すると、陳蕃は皇太后となった竇妙に召され、太傅、録尚書事に任じられる。桓帝の後継として劉宏(霊帝)を迎え竇武と協力し政治を執った。侯覧、曹節といった宦官勢力を除こうとするが、宦官勢力の逆襲を受け竇武は誅殺され、陳蕃は仲間を80人ほど連れて抗議のため参内し宦官の王甫を罵倒しつつ捕縛された。投獄されると即刻殺害された。年齢は70を超えていたという。子の陳逸は陳蕃の友人の朱震に匿われ、後に冀州刺史王芬の霊帝廃立計画に参加している。

李膺 りよう 110 - 169





李 膺(り よう、生年不明 - 169年)は、中国の後漢時代の官僚。字は元礼。潁川郡襄城県(河南省襄城県)の人。祖父の李脩(り しゅう)は、安帝の治世、太尉。父の李益(り えき)は趙国の相であった。子は李?。生まれつき礼法にこだわらず、亢然としていて人と交際しなかったという。ただ同郡の荀淑、陳寔らを師友とした。
始め孝廉に推薦されて司徒の胡広に招かれ、試験の成績が優秀であり、青州刺史にまで昇進した。彼の指揮下の太守・県令は彼の威厳、物事を見通す能力に畏れ、多くが辞任した。
その後、再度招かれ、漁陽太守、蜀郡太守に栄転するも、母親が高齢であるといい赴任しなかった。しばらくして、護烏桓校尉になった。鮮卑族がたびたび塞に進入したが、その都度、矢や石を掻い潜り撃退した。そのため鮮卑族は彼をひどく怖れた。しかし、公務の事件で免職になり、綸氏に帰った。塾を開き教えたが、教えを請うものが常に千人あまりいた。後漢の荀爽は彼に面会しその折、彼の馭者を務め、家に帰って大喜びで「今日始めて李君の馭者になれたぞ」と言った。
永寿2年(156年)、鮮卑が再び雲中を侵略した。桓帝は李膺が有能なのを耳にして、召して度遼将軍に任じた。羌族、疏勒、亀茲ら西方の諸部族がたびたび侵略し、張掖、酒泉、雲中の諸郡の人民は苦しめられていた。膺が着くと、蛮族は攻められる前に連れ去った男女をすべて塞に送還した。これにより李膺の名は遠くまで響き渡る。
<党錮の禁>
166年、1回目の党錮の禁がおこり、成?らが殺され、李膺、杜密ら200人あまりが下獄された。太尉の陳蕃は李膺らの起訴状が三府に送られてきた時、「今、調べている人たちは、みな海内の褒め者で憂国忠義の臣。これらの者にたとえ罪があったとしても、10代後まで恩赦にあってしかるべきである。罪名がいまだ明らかになっていないのに召捕って拷問にかけることがあるか。」と言い署名しようとしなかった。帝は大いに怒って彼は免職になった。宦官の多くは、李膺らの答弁のなかで、度々宦官の子弟が引き合いに出されるので、不安になり、帝に天変を理由に赦免したほうがいいと願い出て、翌167年、放免し李膺は郷里に帰った。荀爽は李膺が高名であるので禍を招くのではないかと心配し節を屈して乱世を生き延びさせたいと思い手紙を送った。
数ヶ月して桓帝が崩御し、陳蕃が太傅になり、大将軍竇武とともに政治を取り仕切るようになると二人で協力して宦官勢力を排除しようとした。そこで多くの天下の名士を登用した。李膺は長楽少府になった。しかし168年、逆に竇武・陳蕃ら両名は殺され、李膺はまた野に下った。
169年、張倹の事件が起こり、党人が逮捕されることになり、郷里の人は李膺に「お逃げくだされ」と言ったが、彼は「君に仕えては難を辞せず、罪あっては刑を逃れぬのが臣下の節操というもの。わしはもう六十、死ぬも生きるも天命じゃ。逃げて一体どこへ行こうぞ?」と言い、詔獄へ自首した。彼は拷問にかけられ、死んだ。彼の妻子は辺境に移され、門人・下役、およびその父兄まで禁錮となった。

李尤 りゆう 生没年不詳 九曲歌




李尤(り ゆう、生没年不詳)は、後漢の官僚・文人。字は伯仁。本貫は広漢郡?県。
若くして文章で名を知られた。和帝のとき、司馬相如や揚雄の風ありとして、侍中の賈逵の推薦を受けた。東観に召し出されて、和帝の命で賦を作り、蘭台令史に任じられた。安帝のときに諫議大夫となった。安帝の命を受けて謁者僕射の劉珍らとともに『東観漢記』の編纂にあたった。後に安帝が皇太子劉保を廃位して済陰王に降格させると、李尤は上書して強く諫めた。済陰王劉保が順帝として即位すると、李尤は楽安国相となった。後に83歳で死去した。著された詩・賦・銘・誄・頌・「七嘆」・「哀典」は合わせて28篇であった。













  後漢末から三國鼎立時代、西晉時代の詩人
(後漢末の詩人)


何休 かきゅう 129 - 182 春秋公羊解詁



何 休(か きゅう、129年−182年)は後漢時代の中国の儒学者。字は邵公。任城樊(山東省)の出身。素朴で口べたであったが、六経を究めて同時代にならぶ者がなかった。郎中を拝命したが、結局は仕えなかった。北新城の長に任命され、講舎をつくり生徒百人を集めて学を講じた。陳蕃に推挙されて参政事となったが、陳蕃が党錮の禁によって処罰されたことに連座して辞職・謹慎させられた。官職に就かず自宅に軟禁されたまま17年間を費やして『春秋公羊解詁』の著述、『孝経』や『論語』の註訓に従う。党錮の禁が解けて釈放され、議郎を拝命し諫議大夫となる。
何休は、従来の『春秋』研究に対し駁論600余條を書き、公羊伝こそ『春秋』にとって唯一の解釈書であると主張した。これに対しては、『左氏』を擁護する服虔による駁論がある。何休は暦算に優れ、その師である羊弼と李育の説に則り、『左氏伝』『穀梁伝』を難じ、『公羊墨守』『左氏膏肓』『穀梁癈疾』を著す。この3つの著作には鄭玄の駁論がある。
何休は『春秋』を単なる年代記としてではなく、歴史の法則がふくまれた経典として扱い、『春秋』の解釈である『公羊伝』の研究を、経学の一部門として確立した。そこでは、董仲舒に一端が見られる「公羊傳が漢代に制作された」という説と、文化が「乱世・外平・太平」という三段階で発展するという説を強調した。清代に盛んになった公羊学で根拠とされたのは、何休が注釈をほどこした『公羊傳』である。


張角 ちょうかく ? - 184





張 角(ちょう かく、? - 184年)は、道教の一派である太平道の創始者。冀州鉅鹿郡(現在の河北省平郷県)の人。黄老を奉じて、太平道という宗教組織を率い黄巾の乱を引き起した。光和7年(184年)、人身御供を捧げて天を祭り、一斉に蜂起して州郡の役所を焼き払い、長官を殺害し集落を略奪した。張角は天公将軍と称した。しかし同年夏以降は、後漢朝廷の皇甫嵩や朱儁らの活躍もあり、急速に乱が治まっていった(詳細は黄巾の乱を参照)。張角は広宗に拠って抵抗したが、10月に広宗は陥落した。この時、張角が既に病死していたため、討伐軍は棺を暴いて遺体を刑罰に処し、斬首した首を洛陽で木に吊るした。
この後も黄巾を名乗る蜂起は各地で続いた。さらに、北宮伯玉・韓遂・張燕・張脩など黄巾以外の反乱軍も数多く蜂起し、もはや後漢朝廷の手に負えなくなった。この事件以降、後漢の権威は地に堕ちた。
やがて、黄巾兵を傘下に組み入れた曹操(後の魏)に、孫権(後の呉)・劉備(後の蜀漢)を加えた三者が鼎立する「三国時代」が到来することとなる。


蔡ヨウ さいよう 132 - 192 独断蔡中郎集



蔡 ヨウ(さい よう、132年または133年 - 192年)は、中国後漢末期の政治家・儒者・書家。字は伯?(はくかい)。?州陳留郡圉県の人。蔡叔度の子孫。父は蔡?。娘は蔡?。従弟は蔡谷。叔父は蔡質。外孫は羊徽瑜(西晋の景献皇后)・羊コ。
桓帝の時代、蔡?の鼓琴の腕前を聞いた中常侍らが、桓帝に報告して召し寄せようとした事があったが、蔡?は旅程の途中で病と称して引き返し、交際を絶って古文を研究して暮らした。建寧3年(170年)、橋玄から司徒府へ招聘された。蔡?は橋玄から甚だ敬待をうけ、やがて河平県長となった後、召されて郎中に任命され、議郎へ昇進した。
当時、儒学の経典は成立から長い年月が経っていたために正しい文章が失われ、俗世間には誤りの多い文章が流布していると見なされていた。熹平4年(175年)、蔡?は五官中郎将の堂谿典・楊賜・馬日?、議郎の張馴・韓説、太史令の単?らと共に、六経の文字を校訂するよう奏上した。結果的に霊帝から詔許が下され、この作業は蔡?の自書によって、洛陽太学門外に46枚、総字20万字に及ぶ石碑として立てられた。これは熹平石経として現在でも残石が保管されている。
熹平6年、霊帝が書画辞賦を良くする者たちを高位に就けようとすると、蔡?は政治を執らせる事に反対して、時宜に合わせ経学に通じた文武の才を用いるように上表した(陳政要七事疏)。しかしこれは省みられず、光和元年(178年)に鴻都門学が置かれる事になった。同年、宦官の専横を厳しく直諌する封事を奉ったが、これが曹節に漏洩したため宦官の恨みを買ってしまい、誣告によって家属共々朔方郡へ徒刑となった。翌年大赦を受けたが、郷里で再び宦官の親族と揉め事を起こしたため、揚州へ亡命した。滞在は12年にも及んだ。
初平3年(192年)、董卓が王允によって誅殺されると、不意の事に蔡?は慨嘆し、その顔色が変わった。それを見た王允は、蔡?に対し「董卓は国の大賊である。君は王臣となり、憤りを同じくすべきところだ。それなのに私遇を懐かしみ大節を忘れたのか。今、天が罪を誅したというのに、かえってこれを痛ましく思うとは、まさか君も董卓と同じく逆賊ではあるまいな」と叱りつけて、即刻廷尉に収監させた。蔡?は謝罪した上で、黥首(額にいれずみを入れる)・?足(あしきり)の刑によって死罪を代替し、漢史の編纂を続けさせて欲しいと頼んだ。太尉の馬日?をはじめとして士大夫の多くが王允を諌めたが、王允は「昔、武帝が司馬遷を殺さなかったばかりに、誹謗の書が世に流れる事となった。幼主の左右で佞臣に筆を執らせるべきではない。聖徳に益無く、また私がその誹謗を被る元となるだろう」と答えた[2]。その後、王允が悔いて容疑を取り下げようとしたが間に合わず、蔡?は獄死することになった。享年61[3]。紳士諸儒は涙を流さない者が無く、また北海国の鄭玄はこの報を聞き「漢世の事、誰と共に正せばよいのだ」と慨嘆した。?州の陳留では、皆画像を描いて蔡?を讃頌した。
その文芸は、詩・賦・碑・誄・銘・贊・連珠・箴・吊・論議に及び、《独断》・《勧学》・《釈誨》・《叙楽》・《女訓》・《篆芸》といった著作が知られる。他に祝文・章表・書記など、およそ104篇が世に伝えられたと『後漢書』蔡?伝は記す。蔡?が収集した漢史の史料は、李?の乱によって多くが失われた。元々は東観において、盧植・馬日?らと共に行われていたこの『漢記』の撰補は、このような戦乱と関係者の死去などのために中断されたが、建安年間に入って楊彪の手により最後の編纂が行われ、『東観漢記』として知られる事になった。
後漢末の文化人として有名な阮?・王粲・路粋などは彼の門下生である。


趙壹 ちょういつ 122  - 196 ・魯生歌
・秦客詩
迅風賦
・解擯賦
刺世疾邪賦 窮鳥賦


後漢末の官吏・文人。字は元叔。本貫は漢陽郡西県。

178年(光和元年)、漢陽郡に推挙されて上計吏の任を受けるため、洛陽に到着した。このとき趙壱ら数百人が司徒の袁逢[1]と面会して計吏の任を受けた。計吏たちはみな庭中に伏礼して仰ぎみようとしなかったが、趙壱はひとり頭を下げるだけであった。袁逢は趙壱を見て珍しく思い、側近を趙壱のところにやって「郡の計吏に過ぎない者が三公に頭を下げるだけとは、どういうことか」と責めさせた。趙壱は「むかし?食其は漢王に頭を下げて拝礼しなかった。いま三公に頭を下げるのに、何を怪しむことがあろうか」と答えた。袁逢は襟を正して堂を下り、趙壱の手を取って上座に導き、西方の事情を訊ねると大喜びして、一座の人々に「この人は漢陽の趙元叔である。朝臣にかれを超える者はいない」と紹介した。

趙壱は退出すると、公卿の中で名を託するに足る者は河南尹の羊陟しかいないと見定めて、その邸を訪れて面会を求めた。羊陟は趙壱を邸内に通すことは許したが、まだ寝床から起き出してこなかった。そこで趙壱は上堂に入りこみ、「西州に隠居するわたくしめは、羊公の立派な人柄を慕ってまいりました。いま面会することがかないますなら、すぐに死んでもかまいません」と言って号哭したため、家中は大騒ぎになった。羊陟は尋常な人物ではないと知って起き出し、趙壱と語り合った。羊陟は翌朝車騎を従えて、趙壱の名を通してやった。ときに計吏たちの多くは車馬や帷幕を飾り立てていたが、趙壱はひとり粗末な車で、そのそばに寝泊まりしていた。趙壱が羊陟の前にその車を引いていくと、羊陟は車の下に座り込んだので、そばにいた人々はみな驚いた。ふたりは夕方まで歓談し、羊陟は去るときに趙壱の手を取って、「良玉は分かたれることがない。涙と血がお互いに証明するだろう[2]」といった。羊陟は袁逢とともに趙壱を推薦した。趙壱の名は洛陽で広く知られるようになった。
趙壱は西に帰る途中、弘農郡に立ち寄って、太守の皇甫規に挨拶しようとしたが、門番が通そうとしなかったため立ち去った。門番がこのことを報告すると、皇甫規は趙壱の名声を聞き知っていたことから、謝罪の手紙を書いて追いかけさせたが、趙壱はかえりみなかった。
州郡は争って趙壱を招こうと礼を尽くし、10たび公府の辟召があったが、趙壱はいずれも就任せず、家で死去した。
かれによって著された賦・頌・箴・誄・書・論および雑文は合わせて16篇あった。また文集2巻があった。
《人物・逸話》
ひげが美しく眉は太く、身長が9尺あり、容貌魁偉な人物であった。才能をたのんで傲慢だったため、郷里の人々の排斥を受け、「解擯」を作った。後に罪に問われて、死刑に処されそうになり、友人に救われて赦免された。その恩に感謝して、「窮鳥賦」を作った。また「刺世疾邪賦」を作って、時勢への憤りを表した。


鄭玄 ていげん 127 - 200 毛詩 鄭?三礼注



鄭 玄(てい げん 127年8月29日(永建2年7月5日) - 200年(建安5年6月))は、中国後漢末期の学者。青州北海郡高密県(山東省高密市)の出身。字は康成。祖父は鄭明。父は鄭謹。子は鄭益(字は益恩)。孫は鄭小同(字は子真)。董卓が長安に遷都すると、公卿らは鄭玄を趙国の相に推挙したが、道が途絶していたため命令が鄭玄の元まで届かなかった。青州で黄巾の残党が蜂起すると、鄭玄は徐州に避難した。
晩年には朝廷に徴されて、大司農となった。ただそれは、鄭玄の本意ではなかったため、職を離れて生涯を学問の研鑚に捧げた。陶謙は鄭玄と面会し師友の礼をとった。
建安元年(196年)、鄭玄は徐州を離れ高密県に帰還した。道々で黄巾の残党数万人と遭遇したが、賊らは鄭玄を見ると皆拝礼し、またお互いに県境へ侵入しないよう約束した。その後、鄭玄は病が篤くなったため子に書をしたためた。
この頃、袁紹は冀州において版図を拡大していたが、鄭玄に使いを送り賓客として処遇しようとした。鄭玄は最も遅れてその場に現れたが、上座を与えられた。鄭玄は身長8尺で一斗の酒を飲み、眉目や容姿も優れていた。袁紹の元には豪俊な人物が大勢居り、鄭玄と大いに議論となったが、鄭玄の学識を前に皆が納得せざるを得なかった。当時、応劭が袁紹の元に居り、鄭玄に師事を願ってきたが、鄭玄は応じなかった。また袁紹が鄭玄を茂才に推挙し、左中郎将に任命させようとしたが、鄭玄は全て辞退した。やがて大司農に推薦された。この時は公車を差し向けられ、鄭玄専用の車と送迎の長吏も用意されていた。しかし鄭玄は病を理由に家に戻った。
建安5年(200年)春、夢枕に孔子が現れたため、鄭玄は自分の寿命が近い事を悟った。やがて病を得て寝たきりとなった。丁度、袁紹と曹操が官渡で争っていた時期であり、袁紹は子の袁譚に命じて鄭玄を随軍させようとしたが、応じさせる事はできなかった。鄭玄は元城県まで来たところで病が篤くなり、同年6月に死去した。74歳であった。葬儀は薄葬とするよう遺言したという。
当時の儒教のほとんどの書籍に注を作成しており、また自らも多くの著作を残した。儒学史の流れから言えば、前漢代の経学は今文学派が全盛であり、また一経を専修し、師説を継承するのを良しとした。後漢代には、古文学派が発展し、一人で複数の経典を兼修するのが常となった。
鄭玄の立場は、古文を主とし、今文・古文の諸説を統合して一家の説を形成するものであり、広く六経全般を研究した。その立場に対して批判する者もあったが、彼の経典解釈の功績は甚大であり、後世、清朝の漢学(考証学)のために重要な資料を提供する事となった。現存する『三礼注』や『毛詩鄭箋』は、それらを代表するものである。


趙起 ちょうき 未詳 - 201 毛詩注




鄭 玄(てい げん 127年8月29日(永建2年7月5日) - 200年(建安5年6月))は、中国後漢末期の学者。青州北海郡高密県(山東省高密市)の出身。字は康成。祖父は鄭明。父は鄭謹。子は鄭益(字は益恩)。孫は鄭小同(字は子真)。鄭玄は邑里の小役人に過ぎなかったが、貧窮を物ともせず学問に励んだ。役人としての仕事には熱心ではなかったので、父は怒ったが、学問を禁止する事はできなかった。22歳で太学へ進んだ。京兆の第五元先から『京氏易』・『公羊春秋』・『三統歴』・『九章算術』を学んだ。さらに東郡の張恭祖から『周官』・『礼記』・『左氏春秋』・『韓詩』・『古文尚書』の講義を受けた。鄭玄はそれだけに飽き足らず、当時一流の儒学者だった馬融の元に盧植とともに留学した。馬融はたくさんの弟子を抱えており、元々驕貴な性格でもあった。このため、鄭玄は3年間も馬融に会う事すら叶わず、その弟子から指導を受けるに甘んじた。鄭玄は日夜を通じて学問に打ち込んだ。後に馬融との対面がようやく叶った鄭玄は、馬融の質問によく答えたため、馬融から感心された。
   勉学に勤しむ事10数年、鄭玄は郷里に戻る事になった。馬融は非常にこれを惜しんだという。鄭玄は家に戻ると弟子をとって学問を指導した。貧しい生活に変わりはなかったが、ある時、東莱へ耕しに出かけると、数百から数千ほどの学生が同行してくる程であった。党錮の禁が起き、同郡の孫嵩ら40人程が禁錮処分になると、鄭玄は儒学に専念するため、門を閉ざし外出しないようになった。この頃、何休は公羊学を好み、『公羊墨守』・『左氏膏肓』・『穀梁廢疾』を著述した。鄭玄がそれらの著書に反論をしたところ、何休は鄭玄の才能に感嘆した。かつて中興の後、范升・陳元・李育・賈逵らが古今の学問について争論した事があったが、鄭玄は馬融と共に古文学の理論を深めたという。
    霊帝の末年、党錮の禁が解除されると、何進が鄭玄を招こうとした。州郡が何進の権威を楯に鄭玄を脅したため、鄭玄は止むを得ずその招きを受けた。何進が鄭玄を厚遇し丁重に扱ったが、鄭玄は一泊しただけですぐに逃走したという。この時、既に鄭玄は60歳になっていた。また、弟子の趙商ら数千人が遠方より鄭玄の元へ遥々駆け付けて来た。袁隗が鄭玄を侍中に任命させようとすると、鄭玄は父の喪を理由に辞退した。孔融は鄭玄を深く敬い屋敷を造営し、鄭玄のために高密県へ布告を出して一郷を特別に設置させたという。董卓が長安に遷都すると、公卿らは鄭玄を趙国の相に推挙したが、道が途絶していたため命令が鄭玄の元まで届かなかった。青州で黄巾の残党が蜂起すると、鄭玄は徐州に避難した。
    晩年には朝廷に徴されて、大司農となった。ただそれは、鄭玄の本意ではなかったため、職を離れて生涯を学問の研鑚に捧げた。陶謙は鄭玄と面会し師友の礼をとった。建安元年(196年)、鄭玄は徐州を離れ高密県に帰還した。道々で黄巾の残党数万人と遭遇したが、賊らは鄭玄を見ると皆拝礼し、またお互いに県境へ侵入しないよう約束した。その後、鄭玄は病が篤くなったため子に書をしたためた。この頃、袁紹は冀州において版図を拡大していたが、鄭玄に使いを送り賓客として処遇しようとした。鄭玄は最も遅れてその場に現れたが、上座を与えられた。鄭玄は身長8尺で一斗の酒を飲み、眉目や容姿も優れていた。袁紹の元には豪俊な人物が大勢居り、鄭玄と大いに議論となったが、鄭玄の学識を前に皆が納得せざるを得なかった。当時、応劭が袁紹の元に居り、鄭玄に師事を願ってきたが、鄭玄は応じなかった。また袁紹が鄭玄を茂才に推挙し、左中郎将に任命させようとしたが、鄭玄は全て辞退した。やがて大司農に推薦された。この時は公車を差し向けられ、鄭玄専用の車と送迎の長吏も用意されていた。しかし鄭玄は病を理由に家に戻った。
   建安5年(200年)春、夢枕に孔子が現れたため、鄭玄は自分の寿命が近い事を悟った。やがて病を得て寝たきりとなった。丁度、袁紹と曹操が官渡で争っていた時期であり、袁紹は子の袁譚に命じて鄭玄を随軍させようとしたが、応じさせる事はできなかった。鄭玄は元城県まで来たところで病が篤くなり、同年6月に死去した。74歳であった。葬儀は薄葬とするよう遺言したという。当時の儒教のほとんどの書籍に注を作成しており、また自らも多くの著作を残した。
鄭玄の門人で著名な者としては、?慮・王基・崔?らがいる。また、国淵や任?が幼い時、鄭玄は「2人は成長して立派な人物になるであろう」と予言し、後に的中させた。他に劉備が徐州を治めた時、門人の孫乾も仕官させている。劉備も鄭玄に教えを受け、後に家臣の諸葛亮に対し「これまで陳紀殿や鄭玄殿の所へ赴き、いつも政治について素晴らしい教えを受けていたが、大赦の話は両先生ともお話になったことがなかった。」といい、年ごとに大赦を行なっていた劉表・劉璋らを批判している。
   子は、孔融から孝廉に推挙されたが、孔融が黄巾の残党に包囲された時、その恩に報いるため援助に赴き、黄巾の残党に殺害された。子が死んだ時、子の妻は身篭っていた。生まれた孫を見た鄭玄は、その手文(手相の事か?)が自分に似ているという理由で小同と名づけた。孫は魏に仕えたが、後に司馬昭に殺害された。


孔融 こうゆう 153 - 208 建安七子




孔 融(こう ゆう、永興元年(153年) - 建安13年8月29日壬子(208年9月26日))は、中国後漢末期の政治家、儒学者。字は文挙。孔子20世の孫に当たる。孔子と同じく青州魯国曲阜県の出身である。父は孔宙。兄は孔褒。子の名は不詳。娘は羊?(羊?の父)の妻。孔融は兄が死刑に処されてから、朝廷に仕えた。一時逼塞するが、後漢の最混乱期に北海国の相となり、六年間これを勤め、劉備に上表され[3]青州刺史として黄巾の乱で荒れ果てた山東地域を支えた。王修らを推挙し、また儒学の教布に努め、大学者の鄭玄に対し子孫のとるべき礼をとり、彼のために郷(県の一つ下の行政単位)を設けて鄭公郷と命名した。これらのことは前述の『後漢書』「孔融伝」の他、『魏志』崔?伝が引く司馬彪の『続漢書』に記載されている。しかし同じ司馬彪の手による『九州春秋』では、「政務は形式的で現実味に欠けるところがあり、法網を上手く張り巡らしたが実行力に欠けた」「風変わりな者を好み、鄭玄のような学のある人物は表向き礼遇したが、共に国事を議論することはなかった」などと、両極端な評価を受けている。
徐州刺史の陶謙が亡くなるとその遺託に沿い、後任を引き受けるよう劉備を説得した。
近隣で袁紹が急速に勢力を拡大すると、袁紹の長子袁譚に攻められ、許に逃亡した。その後も朝廷に仕え、将作大匠・少府・太中大夫を歴任した。朝議の質疑応答では、いつも中心になって発言したという。孔子の子孫という立場、さらには類まれなる文才で文人サロンの中心的存在となった。後に「建安の七子」の一人に挙げられている。
直言居士な孔融は、時の権力者であった曹操と、事ある毎に対立していた。孔融は曹操の施政の中で納得いかない事があると、前例に喩えて厳しく詰った。楊彪の処刑を諫止した時のような正論も中にはあったが、当てつけがましい屁理屈が多く、曹操は日頃から孔融を嫌悪していた。曹操が南方への遠征を目前に控えた建安13年(208年)、孫権の使者に曹操を誹謗中傷する発言をしたという罪で逮捕され、妻子共々処刑された。齢56。このために孔融の子孫は途絶えた。聖人孔子の子孫を殺害したことは、後々まで曹操が非難される理由の一つとなった。
孔融と親しくしていた脂習がその処刑を聞き、駆けつけて屍を撫で「文挙殿は私を見捨てて先に死んでしまった。私も生きていて何としよう」と言った。これを聞いた曹操は激怒して脂習を捕えたが、後に赦令によって釈放した。
その後、曹丕(文帝)は深く孔融の詩文を好み、いつも嘆息して「揚雄・班固にも劣らぬ」と言った。天下に寡って、孔融の文章を届け出るものがあれば、その都度黄金や絹を褒美にやった。孔融は詩・頌・碑文・議論文・六言詩・対策文(天子の試問に答える文)・上奏・檄文・教令(下々に出す布告)など、全て二十五篇を著した。


荀悦 じゅんえつ 148 - 209 申鑑




荀 悦(じゅん えつ、148年 - 209年)は、中国後漢末の人。字は仲豫。豫州潁川郡潁陰県(現在の河南省許昌市)の人。前漢を扱った編年史『漢紀』の編者。荀ケの従兄。
父の荀倹は荀爽ら兄弟八人で「八龍」と呼ばれたが、早くに亡くなった。また荀倹の父である荀淑は大将軍梁冀に睨まれた硬骨漢である。
荀悦は12歳にして『春秋』を読む事ができた。家が貧しくて書が無かったので、人の所に行って書を一読すると、大体暗誦することができた。沈着でうるわしい容貌であり、特に著述を好んだ。
霊帝の時代は宦官が権力を握っており、多くの者が退いて隠居していた。荀悦も病と称して隠居したので彼を知る者は無く、従弟(荀倹の弟の子)の荀ケだけが彼を特に尊敬していた。
荀悦は最初に鎮東将軍曹操の幕府に招かれ、その後黄門侍郎に遷った。献帝は文学を好んだので、荀悦は荀ケや少府孔融と共に献帝に講義をした。その後、昇進を重ねて秘書監、侍中となった。当時は権力が曹操に移っており、献帝はうやうやしくしていることしかできなかった。荀悦も献帝を補佐しようと思っても謀が用いられることもなかった。そこで荀悦は『申鑒』五篇を作って献帝に献上した。献帝はそれを見て喜んだ。
献帝は班固の『漢書』が大部であり文が多すぎると考えて荀悦に『左伝』の形式で『漢紀』を作るよう命じ、荀悦は『漢紀』30篇を完成させた。『漢紀』は『左伝』と同じ編年体で前漢406年間の歴史を記したものである。
荀悦はこのほかに『崇徳』『正論』その他数十篇を著し、建安14年(209年)に62歳で死亡した。


周密 しゅうみつ 175 - 210








周瑜 しゅうゆ 175-210





周 瑜(しゅう ゆ、?音: Zh?u Yu チョウ ユ、175年 - 210年)は、中国後漢末期の武将。字は公瑾(こうきん)。渾名は周郎。揚州廬江郡舒県(現在の安徽省六安市舒城県)の人。高祖父は周栄。従祖父は周景。従父は周忠。父は周異。子は周循・周胤・周妃。妻は小喬。
建安11年(206年)、周瑜は孫瑜の軍の目付けとして山越討伐を行い、麻・保の2つの屯所を攻略して一万人余りの捕虜を得た。その後、江夏太守の黄祖が部将のケ龍を使って、孫権軍の前線基地であった柴桑を攻撃したが、周瑜はこれを迎撃、ケ龍を生け捕りにして江東に送還した。
黄祖陣営から甘寧が投降し、孫権に対し黄祖征伐を提案すると、周瑜は呂蒙とともにこれに賛同した(「甘寧伝」)。
建安13年(208年)春、孫権は江夏を討伐し、周瑜は前部大督(前線総司令)に任命された。

赤壁の戦い
建安13年(208年)9月、曹操が荊州に侵攻し劉jを降伏させた。これを受けて孫権陣営では曹操に降伏するか抵抗するかで論争が起きた。曹操は兵士数万を有しており、劉表の整備した荊州水軍も手中に治めていたため、孫権陣営では降伏論者が多数を占めていた。周瑜はその時?陽への使者に出向き呉を留守にしていたが、主戦論者の魯粛に呼ばれ急いで帰還した。周瑜は曹操を漢の賊と呼び、それへの抗戦を主張し、曹操軍が抱える数々の不利と、自軍の利を孫権に説いた。これによって孫権は曹操に対抗することを決断した。
孫権は3万の精兵を周瑜や程普らに与え、曹操から逃れてきた劉備と協力して、赤壁の地で曹操軍を迎撃させた。周瑜の予測通り、この時曹操軍は軍中に疫病を抱えており、一度の交戦で曹操軍は敗退して、長江北岸に引き揚げた。
次に周瑜らは南岸に布陣し、部将黄蓋の進言を採用して、曹操軍艦船の焼き討ちを計画した。降伏を偽装して接近に成功した黄蓋が、曹操軍の船団に火を放つと忽ち燃え広がり、岸辺の陣営に延焼した。被害が多数に及んだ曹操軍は、引き返して荊州の南郡に籠った(赤壁の戦い)。
周瑜が劉備と追走すると、曹操は曹仁と徐晃を江陵の守備に、楽進を襄陽の守備に残し、自らは北方へ撤退した(「呉主伝」)。
荊州争奪と最期
戦後、孫権は江陵に目をつける。曹仁の守りは堅かったが、周瑜は甘寧を夷陵に進撃させ、曹仁と徐晃の部隊を分断した。曹仁が夷陵に軍を送り包囲すると、呂蒙の計略を採用し、凌統だけを守備に残して軍のほとんどを甘寧の救援に引き連れ、曹仁の包囲を打ち破り甘寧を救援した。この時、曹仁は万余人の兵を失った(「甘寧伝」)。
そのまま長江の北岸に陣を据えて江陵攻撃を続行したが、この時、正面決戦の末に、周瑜は右のわき腹に流れ矢を受けて重傷を負った[2]。周瑜は重傷のまま戦に臨み、曹仁の攻撃を退け、ついに江陵から曹仁を撤退させた。周瑜は偏将軍に任命され、南郡太守の職務にあたった。さらに奉邑として下雋・漢昌・劉陽・州陵を与えられ、江陵に軍を駐屯させた。
劉備は左将軍・荊州牧として、江陵の近隣の公安に軍府を置いていた。劉備が孫権と会談するため、呉の京城に赴いていたとき、周瑜は孫権に上疏し、劉備を篭絡して劉備と関羽・張飛を分断し、両将を自ら率いると献策したが、孫権は今は曹操に対抗するため、一人でも多くの英雄が必要な時期と考え、また劉備を篭絡させることはできないだろうと判断し、周瑜の提案は却下された。
周瑜は、曹操が赤壁での疲弊から軍事行動を起こせないと判断した。その間に劉璋の支配が動揺していた益州を占領し、益州は孫瑜に任せた上で、関中の馬超と同盟を結び、自らは襄陽から曹操を攻めるという計画を立て、孫権の元に出向き、その同意を取り付けた。しかし、その遠征の準備中に巴丘にて急逝した。36歳であった。
周瑜の死は孫権を大いに嘆かせた。孫権は建業に戻ってくる周瑜の柩を蕪湖まで出迎え、葬儀の費用の一切を負担した。また、後に命令を出し、仮に周瑜と程普が勝手に奴隷を保有していたとしても、一切問題にしてはならないと言ったという。のち彼の子女らも呉の皇族と通婚関係を結んでいる。
彼の死により遠征計画も白紙に戻された。周瑜の後は魯粛が継ぎ、以降は荊州に構える劉備との共存方針が採られることになった。
黄龍元年(229年)、孫権は即位した際に「周瑜がいなければ皇帝になれなかった」と嘆いた。
赤烏2年(239年)、孫権が蕪湖で祭る廟を建てた。中国で最初の城隍廟と思われている[3]。


阮ウ〔王+禹〕 げんう 未詳- 212 建安七子




陳留尉氏の出身。字は元瑜。蔡?に就いて学問を修め、曹洪の招聘を拒否して鞭打たれたこともあったが、建安初年に曹操の司空軍謀祭酒・記室となった。章表書記において陳琳と双璧と謳われたが若くして病死し、殊に曹丕に惜しまれたという。『詩品』では下品に位する。
中国,三国時代の魏の文学者。陳留 (河南省) の人。字,元瑜。「建安七子」の一人で曹操に仕え,陳琳とともに檄 (げき) 文の起草にあたった。文章家としてすぐれるが,詩の評価は高くない。阮籍の父。


ホウ統〔广+龍〕 ほうとう 179 - 214





ホウ統(ほう とう、179年 - 214年)は、中国後漢末期の武将、政治家。劉備に仕えた。字は士元(しげん)。道号は鳳雛。謚は靖侯。荊州襄陽郡(現在の湖北省襄陽市)の出身。「臥龍(がりょう)」「伏龍(ふくりょう)」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛(ほうすう)」と称せられた。弟は?林。子は?宏。従父は?徳公。族弟はホウ山民(妻は諸葛亮の姉)ら。『?統伝』には次のような逸話がある。益州への侵攻の際、勝利に浮かれる劉備に対し「他人の国を奪って喜ぶとは、仁者の軍とは言えますまい」と、元々益州を取ることを勧めたのは?統であるにもかかわらず、痛烈に劉備を批判した。劉備は怒って?統に退席を命じたが、すぐに自分の非に気がつき戻るように言った。?統が何ごともなかったかのように席に戻ったが、劉備の方がかえって恐縮してしまい「先程の議論では私と君のどちらが間違っていたのか」と聞いた。それに対し「君臣共に間違っていたのです」と答えたので、笑い話になったという。
また?統は人物評価を好んで行なったが、その場合はいつもその人物を過大に評価していた。ある人にその理由を尋ねられた際、?統は「現在天下は乱れ、正道は衰え、善人は少なく悪人は多い。褒め過ぎるくらいの評価をして、名誉欲を満たしてやらなければ、善事を行なう者は増えないだろう。志ある者に希望を与え、努力させられるのだから、これもいいではないか」と答えている。
呉の陸績・全j・顧邵らとは懇意であり、?統は陸績を「駿馬」、顧邵を「足が遅いが力のある牛」、全jを汝南の樊子昭に例えて褒め称えた。?統が周瑜の喪の帰りは、彼らが見送りにやってきており、陸績と顧邵から別れの際に「天下が太平になったら、また四海の士を批評しましょう」と言われるなど、深い交流があった。
『三国志』において?統の伝は、法正の伝と同時に評されている。陳寿の評にいわく「?統は常に人物批評を好み、経学と策謀にすぐれ、当時、荊・楚の地域の人士から、才能に秀でた人物と謳われていた」「魏臣に当てはめると荀ケの兄弟」とあり、法正と共に曹操腹心の軍師たちに匹敵すると評価されている。


魯粛 ろしゅく 172 - 217





魯 粛(ろ しゅく、172年 - 217年)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は子敬(しけい)。徐州臨淮郡[1]東城県(現在の安徽省定遠県南東部)の出身。子は魯淑。孫は魯睦。
袁術・孫策・孫権に仕えた。赤壁の戦いでは降伏派が多い中、主戦論を唱え周瑜・孫権と共に開戦を主張した。曹操軍を退けた後は劉備陣営との連携に尽力し、周瑜の死後には孫権陣営の舵取り役として活躍した。
翻陽にいた周瑜を帰還させると、孫権は周瑜に軍の総指揮を任せ、魯粛を賛軍校尉に任命し補佐させた。赤壁戦後、曹公が敗走すると、魯粛はすぐさま一足早く帰国した。孫権は諸将を総動員して魯粛を出迎える。魯粛が門に入って拝礼しようとすると、孫権が立ち上がって彼に敬礼し、そして言った「子敬よ、孤が鞍を手に下馬して出迎えたならば、卿を充分に顕彰したといえるだろうか?」、魯粛は走り出て言った「まだまだですな。」人々にそれを聞いて愕然としない者はない。座に着いたのち、魯粛はゆっくりと鞭を挙げながら言った。「願わくば至尊よ、威徳を四海に加えて九州を総括され、よく帝業を打ち立て、改めて安車・軟輪をもって魯粛を徴されよ。そうして初めて顕彰したことになるのでございます。」、孫権は手を叩いて愉快げに笑った。
赤壁の戦いの直後、劉備は荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を曹操より奪い、武陵の公安に駐屯した。劉備は呉の京城を訪問し、荊州の督にしてほしいと孫権に求めた。これには周瑜や呂範といった人物が反対し、劉備をこのまま引き止めておくよう孫権に求めたが(「周瑜伝」、『漢晋春秋』)、魯粛は曹操という大敵に対抗するためには劉備に力を与えておくべきと考え、これに賛成した。孫権は劉備に荊州を貸し与えたという。
このような中で周瑜が死去すると、その遺言で後継役として選ばれ、奮武校尉に任命されて軍隊を取りまとめた上で、周瑜の兵士4千人ほどと所領の4県を有した。程普が南郡太守に任命される一方で、魯粛は江陵に軍を置いたが、やがて陸口に駐屯地を移した。地方でも彼の威徳は行き渡り、兵士は1万人ほどに増強された。漢昌太守・偏将軍となった。孫権は共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきた。しかし劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと思ったのでこれを断った。かつて孫権が益州に遠征しようとしたとき、劉備に阻止された。劉備自身が益州に内応に乗じた騙まし討ちを行うと、孫権は劉備の前言との違いに詐術を用いたと吐き捨てた。孫権と劉備の部下で荊州を守っていた関羽との間でも、荊州を巡って何度か紛争が起こるようになっていたが、魯粛は劉備と同盟し曹操に当たることが、劉備達には常に友好的な態度で接し、事を荒立てないようにした。
214年、皖城の戦いに参加し、やがて横江将軍に転じた。後に劉備が益州を併呑したことを知った孫権は、荊州の長沙・桂陽・零陵の返還を求めたが拒絶されたため、呂蒙に命じてこの3郡を攻略させた。劉備はこの知らせを聞くと自ら公安に出陣し、関羽にも三郡への救援を命じた。関羽が3万軍を率いて益陽に布陣すると孫権も陸口に布陣し魯粛は巴丘に布陣し、関羽と対抗した。一方呂蒙が2万軍を率いて長沙・桂陽を降伏させ、零陵の?普はいったんは降伏を拒んだもの呂蒙の計略に騙され降伏した。長沙の呉?を含む安成、攸、永新、茶陵、四県の官吏は合して山城に篭り抵抗したが、呂岱に攻められて降伏した。孫権は呂蒙を益陽に呼び寄せ、魯粛軍と兵を合わせ、益陽で関羽と対峙させた。関羽は3万人のうち、精鋭5千人を自選し、川の上流の十何里かの瀬に送り、夜に川を渡ろうとした。魯粛と諸将はこの対応を議論すると甘寧は自分の有していている三百の兵に加えあと五百人の兵士を渡してくれれば自分が対応できる。関羽は自分が咳したり唾を飲んだりするのを聞けば川を渡らないだろう。しいて川を渡れば、関羽を擒にできると主張した。魯粛は甘寧に千の兵を選び与え、甘寧は夜のうちに対岸に布陣した。関羽はこれを聞き、川を渡らず、軍営を結んだ。その土地は関羽瀬と名付けられることになった。
その後、魯粛は常に毅然とした態度で臨み、関羽を招いて会見し、おのおの兵馬は百歩後ろに控えさせ、ただ将軍だけが刀一振りを帯びて会談に臨むよう申し入れた。魯粛が関羽と会談しようとしたとき、諸将は変事が起こるのを懸念して赴くべきでないと提言した。魯粛は「荊州の土地は劉備軍が敗れて遠来し、住むところがなかった為に貸したものであり、今、益州を獲たのにもかかわらず、返還の意思は無く、ただ三郡を求めても命令にに従わないとはどういうことか」と関羽を責めた。これに対してこの会談において座っていたものの一人が「土地は徳のあるものが所有するのであり、どうして有するところが定まっていようか」と叫んだ。魯粛はこれを顔をしかめて叱責したが。関羽は「国家の事がこのような人にどうしてわかろうか」と目配せをして座から去らせた。曹操が張魯を降伏させ漢中を領有すると、劉備は益州を失うことを恐れて、孫権へ和解を申し入れてきた。要求した三郡の領有はかなわなかったものの湘水を境界線として割き、長沙・桂陽を孫権に返還し、劉備は零陵、武陵、南郡を領有することとなり形式的に和睦が回復した。
216年-217年間、長沙安成郡の長の呉?と中郎将の袁龍が関羽に呼応してよしみを通じ再び反乱を起こし、それぞれ、攸と醴陵に拠った。孫権は横江将軍の魯粛に命令し攸を討たせ、呂岱には醴陵を攻撃させた。二人は敗れて、呉?は逃亡し、袁龍は捕らえられ斬られた、反乱を平定した。
217年に46歳で死去した。孫権は哭礼し、葬儀にも直々に参加した。また諸葛亮も喪に服した。
孫権は229年に即位した時、儀礼のための祭壇に登ると群臣を振り返り、「魯粛にはこうなる事が分かっていたのだ。」と敬意を示したという。


徐幹 じょかん 170 - 217 建安七子 中論 室思一首 情詩一首


徐 幹(じょ かん、171年 - 218年)は、中国後漢末期の政治家・文人。字は偉長。青州北海郡劇県の出身。建安七子の一人。
旧家の生まれであったが家は貧しかった。しかし品行は優れ、文章も美麗典雅であった。建安年間、曹操に仕えて司空軍謀祭酒掾属・五官将文学へ昇進した。詩賦に長じ、曹丕からは「誠に頻々たる君子といえよう。その著書『中論』二十篇は、よく一家の言をなしたものであり、彼こそは不朽の人物である」とその才能を愛され、絶賛された。建安23年(218年)、華北で流行した疫病に倒れ死去した。享年48。
玉-038 室思一首一章 〔徐 幹〕 X


王粲 おうさん 177 - 217 建安七子 登樓賦 七哀詩


王 粲(おう さん、熹平6年(177年) - 建安22年1月24日(217年2月17日))は、中国後漢末期の文学者・学者・政治家。字は仲宣。?州山陽郡高平県(現在の山東省済寧市微山県)の人。曾祖父は王?(後漢の三公)。祖父は王暢(後漢の三公)。父は王謙。従兄弟は王凱。子は男子二人。文人としても名を残したため、建安の七子の一人に数えられる。
曾祖父と祖父が共に三公に至ったという名門の家に生まれた。父は何進の長史であったが、出自の卑しい何進からの縁組申し入れを拒絶したため免職にされ、まもなく病没した。董卓の遷都により、王粲は長安に移住した。幼くて容姿も貧弱だったが、大学者として有名だった蔡?から非常に目をかけられ、彼の蔵書を預かることとなった。17歳で司徒に招かれ、黄門侍郎にも任命されたが、どちらにも就任せず、戦乱打ち続く長安を離れ、流浪の末に荊州の劉表を頼った。しかし劉表は風采の上がらない王粲を尊重しなかった。
建安13年(208年)、劉表が亡くなると後継者の劉jを説得し、曹操に帰服させた。曹操から招かれて丞相掾となり、関内侯の爵位を授けられた。後に軍謀祭酒へ昇進した。
建安18年(213年)、曹操が魏公になると侍中に任命された。王粲は博学多識であり、曹操が儀礼制度を制定するときは、必ず王粲が主催した。
王粲は優れた記憶力を持つ人物で、碁盤の石が散らばっても、全て元通りに戻すことができたと言われている。生まれつき計算が得意で、算法を作ってその道理を極めた。弁論は臨機応変で、その上奏や議論の文は大臣の鍾?・王朗が筆を置き手を下せないほどだったという。
建安22年(217年)、41歳で病死した。葬儀のとき、曹丕は王粲が驢馬の鳴き声を好んでいたことから、その鳴き真似をして送ろうと提案した。このため弔問客たちは、皆一声ずつ驢馬の鳴き声の真似をしたと伝えられている。王粲の2人の子が、魏諷の乱に組し誅殺されたため、直系子孫は絶えた。一族で王粲の1世代下に当たる王業(王凱の子)が、王粲の1万巻にも及ぶ蔵書を受け継いだ。
王粲は文才に優れており、筆を取ればすぐに文章を作り上げ、手直しすることがなかった為に、人々は彼が前々から考えていたものを書いているだけだと思い込んだ。しかし実際は、それ以上不可能なほど努力していた結果だったという。六十編に近い詩・賦・論・議を著した。代表作として「登楼賦」「七哀詩」などがある。また歴史書『英雄記』も編纂している。曹植とも親交が深く、「王仲宣誄」は曹植の誄銘の中でも特に心情が溢れた名作と評される。


陳琳 ちんりん  ? - 217 建安七子 飲馬長城窟行


陳 琳(ちん りん、? - 建安22年(217年))は、中国後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。徐州広陵郡射陽県の出身。はじめ何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図り諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの前、袁紹が中原全土に配した曹操打倒の檄文を書いた。曹操は、この檄文を読み「ここに書かれた曹操という人物像を考えると、読んだわし自身も怒り心頭に発する」と評している。?城が陥落し、曹操の前に引き立てられた際、陳琳は曹操にこの檄文を読まされた。その内容は曹操のみならず、その父や祖父までをも痛烈に批判するものだったが、曹操はこの檄文を誉めた上で「なぜわしの祖父や父まで辱めたか」と尋ねた。陳琳は「引き絞った矢は射ぬわけにはいきませぬ」と答えたため、曹操から許されたという逸話がある。
その後は曹操に仕え、建安22年(217年)に疫病に罹って病死した。曹丕は彼のことを「文章は雄健だが、やや繁雑である」と評している。
唐の呉融は「陳琳墓」なる詩を作り(全唐詩巻685)、「筆先をほしいままにし自分の利益を得たが、あの世でどの面を提げて袁公にまみえるのか」と、その変節を非難している。


應トウ〔王+易〕 おうとう  ? - 217 建安七子 別詩 侍五官中郎將建章臺集詩


応トウ〔王+易〕(おうとう、? - 217年)は、中国後漢末期の政治家・文人。字は徳l。豫州汝南郡南頓県(現在の河南省周口市項城市)の人。建安七子の一人。父は応c。弟は応?。伯父は応劭。伯祖父は応奉。
曹操に召し出されて丞相掾属に任ぜられた。後に曹操の三男曹植の庶子を経て、五官中郎将文学となる。しかし217年、華北で流行した疫病により死去した。同じく建安七子である徐幹も、この疫病で死去している。


りゅうてい  ? - 217 建安七子 贈従弟三首



劉 驕iりゅう てい、? - 217年)は、中国後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。?州東平国寧陽県(現在の山東省泰安市寧陽県)の人。漢の宗族の劉梁の孫。
曹操に招かれ丞相掾属となり、五官将文学・平原侯庶子に転じて、曹操の息子の曹丕や曹植と親しく交際した。後に宴席の場で、曹丕が夫人の甄氏に命じて挨拶させた時、座中の人々が平伏する中、一人彼女を平視した。このことを聞いた曹操に不敬を問われたが、死刑を許されて懲役にされた。 世説新語によると、曹丕は「貴方は何故法を守らないのか」と問い、劉驍ヘ「法の網目が疎かでない事が理由です」と答えたという。 尚、この事件により共に曹丕の賓客として仕えていた呉質も連座し、朝歌へ左遷されている。 刑期が終わると吏に任じられた。217年に死去。
王昶伝によると、王昶は彼の人柄について「博学で高い才能を持ち、誠実な生き方をし大志を抱いていた。しかし人柄と行為に均質性がなく、自己を拘束したり遠慮したりする事が少なく、長所と短所は差し引きゼロであった。私は彼を愛し重んじるが、わが子が彼を慕う事を望まない」としている。
劉驍ヘ文才に優れ、数十篇の作品を著したという。特に五言詩は「其の五言詩の善き者、時人に妙絶す」(曹丕「呉質に与うる書」)として高く評価された。後世においても「真骨は霜を凌ぎ、高風は俗を跨ぐ」(鍾エ『詩品』)と評されるように、骨太で高邁な風格を特徴とする作風は、王粲とともに建安七子の中で最も高い評価を受けている。


關羽 かんう  ? - 219





関 羽(かん う、?音: Gu?n Y? グァン ユー、? - 建安24年12月(220年1月)[1])は、中国後漢末期の将軍。字は雲長(うんちょう)。元の字は長生。司隷河東郡解県(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)の人。子は関平・関興。孫は関統・関彝。
蜀漢の創始者である劉備に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯。諡が壮繆侯(または壮穆侯)だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた(爵諡を参照)。
悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、47人目の神とされた


仲長統 ちゅう ちょうとう 180 - 220 昌言




仲長 統(ちゅうちょう とう、181年-220年)は、中国後漢末期の人物。字は公理。?州山陽郡高平県の出身。
若い頃から学問を好み、博覧強記で文章に優れていた。二十歳過ぎの頃から青州・徐州・并州・冀州を遊学した。上党郡に疎開していて彼と出会った常林や、東海郡の繆襲など、彼と交流のあった者の多くが彼を高く評価した。繆襲は常々「仲長統は、前漢の賈誼・董仲舒・劉向・揚雄の後を継ぐに足る才能である」と称えていた。并州の高幹は各地の士を招いており、彼に付き従う者も多かった。彼の元を訪れた仲長統も歓待を受け、高幹から当時の世の事を質問された。仲長統は「貴方は雄大な志は持っていても雄大な才能は持っておらず、士を好んでいますが人を選ぶ事ができません。このことを深く戒めることです」と言った。高幹が、自負心からその言葉を受け入れることが出来なかったため、仲長統は彼の下を去った。その後、高幹は反乱を起こして敗死した。これにより并州・冀州の人々は仲長統を知るようになった。仲長統は、物事にとらわれない性格で直言を厭わず、不意に沈黙したり語り出したりしたため、彼を狂生と呼ぶ者もいた。州や郡から登用の招きがあっても、病気と称して赴かなかった。荀ケが彼の事を知り、彼を高く評価して尚書郎に推挙した。その後、参丞相軍事となり曹操に仕えた。仲長統は古の事や当時の事を論じ始めると、常に発憤し嘆息した。そこで『昌言』という三十四篇に及ぶ十余万言の書を著した。延康元年(220年)、40歳で死去した。


魏・武帝(曹操) ぶてい・そうそう 155 - 220 短歌行 善哉行 龜雖壽 苦寒行




薤露 土不同 萬里行 卻東西門行


後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。現存する彼の詩作品は多くないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。
がて、黄巾兵を傘下に組み入れた曹操(後の魏)に、孫権(後の呉)・劉備(後の蜀漢)を加えた三者が鼎立する「三国時代」が到来することとなる。









三国時代(さんごくじだい)は中国の時代区分の一つ。狭義では後漢滅亡(220年)から、広義では黄巾の乱の蜂起(184年)から[要出典]、西晋による中国再統一(280年)までを指す。229年までに魏(初代皇帝:曹丕)蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。黄巾の乱(こうきんのらん、中国語:?巾之亂)は、中国後漢末期の184年(中平1年)に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾と呼称している。「黄巾の乱」は後漢が衰退し三国時代に移る一つの契機となった。

229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立し、中国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、陳寿が著した『三国志』、明代に書かれた『三国志演義』及びさらに後世の三国時代を扱った書物によって広く知られている。

劉備が益州を奪取した後、孫権は劉備に荊州の長沙・桂陽・零陵の3郡を要求したが、劉備は涼州を手に入れてから荊州を再分割しようと答えた。そこで業を煮やした孫権は怒り、長沙・桂陽・零陵を支配するため役人を送り込んだが追い返されたので、呂蒙を派遣し、長沙・桂陽・零陵を攻略させた。そこで、劉備も大軍を送り込み、全面戦争に発展しそうになった。

215年、このような劉備と孫権の険悪な情勢の中で、曹操は漢中にいた五斗米道の張魯への攻撃を開始し降伏させた(陽平関の戦い) 。このことに危機感を抱いた劉備は魯粛の取り成しもあり、長沙・桂陽を孫権に割譲し和解した。荊州統治の係争が一応の解決を見て、孫権は10万の大軍を率いて合肥城を攻め、撤退時に張遼らの追撃を受けたが、呂蒙・凌統らが懸命に孫権を守った(合肥の戦い)。荊州を巡る一連の紛争は両者の間に大きな禍根を残すことになった。

ここで三国鼎立の形が定まった。

魏の政治魏の政治
196年、魏の基礎を作った曹操は棗祗・韓浩らの提言を採用し、屯田制を開始している。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。屯田制は当初は難航したが、次第に任峻らの尽力などにより軌道に乗った。官渡の戦いの時点では曹操軍は兵糧の確保に難航している。屯田制により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来た。魏の初代皇帝の曹丕も冀州の兵士5万戸を河南郡に移した。

曹操は降伏させた烏桓族を中国の内地に住まわせ、烏桓の兵士を軍隊に加入させた。曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。

曹操は勢力圏の境界付近に住む住民や?族を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにする為である。三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。

郷挙里選の科目の一つの孝廉には儒教知識人が主に推挙されたが、曹操勢力の幹部である荀ケ・荀攸・賈?・董昭・鍾?・華?・王朗らが孝廉に推挙されている。曹操自身も孝廉に推挙されている。川勝義雄は「荀ケの主導で、曹操の元に多くの名士(主に儒教的知識人)が集まり、やがて名士は武将を抑えて曹操政権内で大きな権力を持った。魏公国が出来た後は、政府の(文官系の)重要官職は名士によって占められた」としている。

220年、魏の皇帝の曹丕は、陳羣の意見を採用し、九品官人法という官吏登用法を始めた(従来の官吏登用法は郷挙里選が有名)。九品官人法では官僚の役職を最高一品官から最低九品官までの9等の官品に分類する。また、郡の中正官が官僚候補を評価して、一品から九品までの郷品に分類する。この郷品を元に官僚への推薦が行われ、新人官僚は最初は郷品の四品下の役職に就く。例えば郷品が二品ならば六品官が官僚としての出発点(起家官と呼ばれる)となる。その後、順調に出世していけば最終的には郷品と同じ官品まで出世し、それ以上の官品へは通常は上れない。司馬懿が魏の実権を握ると、中正官の上に、郡よりも広い地域を管轄する州大中正を導入した。魏から司馬氏の西晋へ移行したころから、郷品は本人の才能より親の郷品が大きく影響するようになり、郷品の世襲が始まり、貴族層が形成されるようになった。

曹丕は後漢における宦官の弊害を教訓とし、宦官が一定以上の官職に就けないようにした。また、外戚や皇帝の親族の弊害も考慮し皇后の政治参加を禁止するなどして一族に大権を持たせることをほとんどしなかったが、その結果司馬氏の権力に対抗できる者が居なくなり滅亡の一因となった。

呉の政治呉の政治
呉の皇帝の孫権は236年に五銖銭500枚、238年に五銖銭1000枚の価値を持つ貨幣を発行し、貨幣経済の充実に努めた。

揚州の非漢民族である山越は反逆し続け、何度も反乱を起こしてきた。呉は山越を何度も討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士としての資質の高い者を大量に徴兵した。諸葛恪や陸遜や賀斉らが山越討伐で多大な功績を挙げている。

魏のケ艾は「呉の名家・豪族はみな私兵を所有し、軍勢・勢力を頼れば、独立できる力を持っている」と述べている。

川勝義雄は「呉の将軍は親子兄弟間で兵の世襲が認められていた。この制度は世兵制と呼ばれている。呉の将軍達は世襲を許された私兵的な屯田軍を持ち、未開発地域で厳しい軍政支配を行っていた。屯田軍は土地開発(開拓)の尖兵であった」としている[11]。

蜀漢の政治蜀漢の政治
蜀(蜀漢)の初代皇帝になる劉備は、諸葛亮らに蜀の法律である蜀科を制定させ、法制度を充実させた。蜀科は厳しい内容であったが、公平であったと言われている。

劉備は劉巴の提案に従い、五銖銭100枚の価値の貨幣を作り、貨幣制度を整備した。

益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を図り塩府校尉(司塩校尉)を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。王連は司塩校尉として多大な功績を挙げた。また、殖産興業に努め、絹(錦)の生産奨励と魏呉への輸出が行われた。

諸葛亮が益州南部の雍?・高定らの反乱を平定した後、異民族の多い益州南部に租税を課した。

蜀漢は後漢の後継王朝という名目で成立したため、官制のほとんどは後漢に倣っていた[12]。そのため宦官の専横を防ぐことができず衰退の一因となった。




三国争覇三国争覇
216年、曹操は自ら軍を率いて孫権征討に赴き、翌217年、孫権は曹操に降伏した(濡須口の戦い・第二次戦役)。

219年、劉備は自ら漢中に出兵して、これに従軍した黄忠や趙雲の奮闘もあり、守将の夏侯淵を討ち漢中を奪った(定軍山の戦い)。この地を獲った劉備は漢中王を名乗る。この称号はかつて劉邦が漢中(南鄭)の地で漢王を名乗ったことに倣ったものと思われる。

荊州の劉備領を守備していたのは関羽で、その頃の関羽は荊州北部の曹操領に対して猛烈な攻撃をかけ、曹操の部将の于禁が率いる七軍を壊滅させ、樊城・襄陽を包囲した(樊城の戦い)。一時は曹操すらうろたえて遷都を考えたほどであった。そこで曹操は、孫権に長江南部の領有を認める条件で孫権と同盟を結び、孫権に劉備を攻撃するよう求めた。かねてより荊州問題で関羽に不信感を抱いており、また呂蒙の進言もあったため、孫権は荊州攻略を呂蒙に命じた。関羽は、呂蒙・陸遜の策にはまり、孫権に捕らえられて処刑され、南郡・武陵・零陵は孫権の領有するところとなった。この戦いの結果、劉備たちと対立することが確定的となったために孫権は曹操に対して形式的ではあるが、臣従した(孫権は部下の提言もあり、一時は劉備との対立をそらすため、関羽の首を曹操の元へ送ることで打倒曹操を掲げる計画を立てたが、逆に劉備の怒りを増大させることになり対立は深まった)。

220年に曹操が死に、後を継いだ曹丕はついに献帝より禅譲を受けて皇帝(文帝)となり、魏を建国した。これを聞いた劉備も対抗して221年に皇帝に即位、漢の後継者と称した(蜀(蜀漢)の創設)。

皇帝となった劉備だったが、長年の部下である関羽と魏攻略の足がかりとなる荊州を失った怒りは激しく、孫権に対する復讐戦を企図し、反対する者を遠ざけて出兵に踏み切った。蜀漢軍は最初のうちは連戦連勝であったが、呉の陸遜の策にはまり大敗(夷陵の戦い)、劉備は退却し白帝城で病死した。その後を劉禅が継ぎ、諸葛亮が丞相として蜀漢の内外政を一手に引き受けることになる。

蜀漢に大勝した呉は、長江南部の地域に確固とした基盤を築いたことから、魏に対して従属的な姿勢をとる必然性もなくなり、元号を黄武と定め、独立色を明確にした。さらに劉備亡き後の蜀と同盟し、再び魏に対抗するようになった。

魏の文帝は内政面に意を砕き、新しく九品官人法を施行した。この法は南北朝時代末期まで適用されることとなる。また、222年に魏は3方向から呉を攻め、呉を苦しめたが、疫病が流行したため退却した。

その後も文帝は、連年にわたり呉へ出兵を繰り返すも、徐盛らの奮戦により全て撃退された。226年に40歳で死去、曹叡(明帝)が後を継いだ。

蜀漢の諸葛亮は魏に対する北伐作戦を最終目標とし、そのための足場固めのために225年には南征を行い、蜀漢に反逆した雍?・高定の反乱を鎮圧した。

2年後の227年に諸葛亮は出師の表を奉り、北伐を決行した。この戦いは7年間・5度に及び、諸葛亮は魏の曹真・張?・司馬懿・郭淮らと戦い、武都・陰平の2郡を獲得し、張?を討ち取った。234年の最後の北伐の最中、陣中で諸葛亮は病に倒れ没した。その後の蜀漢は一旦は消極的な政策をとり、大規模な軍事侵攻作戦を実行しなかったが、姜維が軍権を握ると北伐を繰り返し国力を消耗した。

228年、呉の周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出した。呉の陸遜は朱桓・全jを率いて曹休と戦い、大勝した(石亭の戦い)。

呉では229年に孫権が皇帝を名乗り、一時代に1人だけの名目だった皇帝が同時に3人並ぶことになった。この時、呉と蜀漢は魏を打倒した暁の魏領分配を決めている[2]。

230年に呉は海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出したという記録があり(夷州には辿り着いたが、亶州には辿り着けなかった)、これは台湾(夷州)と沖縄諸島(亶州)ではないかと考えられているが、日本ではないかとも考えられている。

この頃、呉の呂岱は交州に出兵して、この地の独立勢力の士氏一族を滅ぼして、この地を呉の直轄とし、南海交易の利益を占めた。

234年から3年間、呉の諸葛恪・陳表・顧承らは揚州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士を6万人徴兵した。

235年、魏の幽州刺史の王雄の命令を受けた韓龍は、鮮卑族の軻比能を暗殺した。
 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/archives/49772087.html



 三国鼎立・三国争闘時代 220年 - 280年

広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から西晋による中国再統一(280年)までを指し、狭義では後漢滅亡
(220年)から晋が天下を統一した280年までを指し、最狭義では三国が鼎立した222年から蜀漢が滅亡した263年までを指
す。当項目では広義の三国時代について記載する 
 

ID
詩人名
よみ
生没年
作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事

諸葛亮 しょかつりょう 183 - 234 梁父吟 出師表



秦嘉 しんか 不明146-167活躍 贈婦詩三首井序 贈婦詩 留郡


徐叔 じょしゅく
秦嘉妻答詩一首 秦嘉の妻、夫が先立つ

蔡エン さいえん 177?−239? 胡笳十八拍 悲憤歌



宋子侯 そうしこう 未詳 董嬌?




蘇伯玉妻 そはくぎょくのつま 未詳 盤中詩http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67724365.html

竇玄妻 とうげんのつま 未詳 古怨歌http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67727247.html

繁欽 はんきん ?〜218 愁思賦 弭愁賦 定情詩二首 答繁欽書

左延年 さえんねん 220〜226年活躍 從軍行 秦女休行


焦仲卿妻 しょうちゅうきょうつま 概ね196―220頃 為焦仲卿妻作










劉勳妻王宋 りゅうくんつまおうそ 未詳 雜詩二首竝序   

甄皇后 しんこうごう 183 - 221 樂府塘上行一首      

魏・文帝(曹丕 ぶんてい 187 - 226 於清河見輓船士新婚別妻一首 又清河作一首



至廣陵於馬上作 寡婦 燕歌行



雜詩 善哉行 短歌行 芙蓉池作

曹植(陳思王) そうち(そうしょく) 192 - 232 雜詩五首 美女篇 種葛篇 棄婦篇 浮萍篇




贈王粲 上責躬 應詔詩表 公讌詩 三良詩


曹植65首訳注解説 目次 送應氏詩二首 七哀詩 贈白馬王彪
曹植詩65首訳注解説

鐘ユウ しょうゆう(よう) 151-230 『急就章』・『薦季直表』・『宣示表』/魏の政治家・武将・書家

魏・明帝 みんてい 204-239 種瓜篇 樂府二首

廬翻 ろはん 161-233 周易注



繆襲 びゅうしゅう 186年−245年 挽歌詩




何晏 かあん 190-249





王弼 おうひつ 226-249 周易注 老子注



胡昭 こしょう 179-250 軍人・政治家




司馬懿 しばい 179-251 讌飮詩 




應キョ おうきょ 190-252 風刺詩 『百一詩』の連作
 〔七賢〕 

韋誕 いたん 179-253 軍人・政治家




王肅 おうしゅく 195-256 政治家




ケイ康 けいこう 223-262 贈秀才入軍五首 与山巨源絶交書 琴賦
〔七賢〕

声無哀楽論 幽憤詩



阮籍 げんせき 210-263 詠懐詩二首


〔七賢〕

左延年 さえんねん 不明 從軍行



鐘會 しょうかい 225-264 周易無互体論道論(論理学説)


魏・元帝 ぎ・げんてい ?-265享年57






  三國時代     sangokujidai    

ID
詩人名
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作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事

諸葛亮 しょかつりょう 183 - 234 梁父吟 出師表




諸葛 亮(しょかつ りょう、?音: Zh?g? Liang ジューガー リァン、181年 - 234年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師。字は孔明(こうめい)。

司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。

妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、同母兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、同母弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕などがいる。

秦嘉 しんか 不明146-167活躍 贈婦詩三首井序 贈婦詩 留郡

徐叔 じょしゅく
秦嘉妻答詩一首 秦嘉の妻、夫が先立つ


 東漢後期の人、甘粛省の国境近くの郡の会計簿を、郡から中央に提出するのみならず,朝廷に参内して地方の政治・風俗を報告し,さらに中央の詔勅を地方に伝達する職責も兼ねている「上計」の職務についていた。夫妻の交わした書簡は秦嘉が職務で郡から京師に詣ると述べるが,これは漢の法制における上計の仕事である,と説いている。
秦嘉は,妻徐淑と詩文を応酬し夫婦ともに文学史にその名を刻む。残された作品によれば,秦嘉は郡の役人として,会計報告をするため都洛陽に出張することになった。しかし病気の妻徐淑を残して遠く去ることが中々できない。長期にわたる赴任の旅にあたり,夫婦は詩と書簡をそれぞれに贈り,互いの離れ難い思いを綴る。
 秦嘉・徐淑の詩文から浮かび上がるのは,家族の病気や出張・単身赴任の悲哀という,どこにでもある夫婦の日常である。とともに,夫と妻は対等の立場でお互いの思いを吐露する。「思う婦」から「征く夫」へという一方向ではなく,男女双方が抱く情愛や別離の不安・喪失感を詠い交わしている。その点において,夫妻の作品応酬は,漢魏にいたる文学因襲に新しい地平を開いた。
 秦嘉・徐淑の作品は,その真偽をはじめ検討すべき余地を尚残している。徐淑については別個の課題とし,ここでは,数編残る五言詩が特長的である。秦嘉の情詩は,男の恋情を詠む五言詩の登場として先駆的であるのみならず,表現の独自性においても注目しうるものである。
徐淑の書簡は,巧みな修辞や古典の引用,内面の振幅を細やかに描く表現力等,秦嘉に比べより文彩に富んでいる。類書等に掲載される伝承をみると、徐淑が,秦嘉より多いし、別集の著録と伝記および文章から見ても,これまで秦嘉より徐淑の方が注目されてきたと言えるのではなかろうか。

蔡エン さいえん 177?−239? 胡笳十八拍 悲憤歌




蔡エン〔王+炎〕(さい えん、177年(熹平6年)? - 249年(嘉平元年)?後述))は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての詩人。字は文姫、元々の字は昭姫(後述)。エン州陳留郡圉県(現在の河南省杞県)の出身。父は蔡エン。甥は羊コ。才女の誉高く、博学かつ弁術に巧みで音律に通じ、数奇な運命を辿った。

南朝宋の范曄編纂の『後漢書』列女伝は次のように記す。 蔡?は河東郡の衛仲道の妻となる[2]が、早くに先立たれたため婚家に留まらず実家に帰った。興平年間(194年-195年)、董卓の残党によって乱が起こると、蔡?は匈奴の騎馬兵に拉致され、南匈奴の劉豹に側室として留め置かれた。匈奴に12年住む間に劉豹の子を2人をもうけた。建安12年(207年)、父と親交のあった曹操は蔡?の後継ぎがいないことを惜しみ、匈奴に金や宝玉を支払って蔡?を帰国させた。帰国時に実の子を匈奴に残しており、子との別離に際しの苦痛を詩を述べた。帰国後、曹操の配慮で同郷出身の屯田都尉董祀に嫁いだ。その董祀が法を犯し死罪になるところであったが、蔡?は曹操を説得して処刑を取り止めさせた。のちに曹操の要求で失われた父の蔵書400編余りを復元した際、誤字脱字は一字もなかった。

宋子侯 そうしこう 未詳 董嬌ジョウ





宋子侯(生卒年不詳),東漢末詩人であるが、彼についての伝記は全くなく不明であるが、歌姫である妓優について詠った《董嬌饒》詩は世に広く伝っている。玉-029 董嬌饒一首 -#1〈〔宋 子侯〕〉
「董矯饒」の題名については、古来明解がない。「矯饒」は美しくなまめかしいさまであり、他本「矯?」 に作るものもあるが、今は『考異』本に従っておく。これは矯饒者を董し暁(さと)す意かともいう説もあるが、恐らくは詩中の桑摘女の呼び名であろうか。
詩はその桑摘女との問答に託して、盛年の重ねて来ないことを説いたのである。
作者宋子侯の伝は詳らかでないが、冒頭の数句が唐の劉庭芝作「代下悲白頭翁上」の本づくところとなったことは明らかである。この一篇の要旨は、花は散っても又開くが、盛年歓愛の時は再び求め難いことを、問答の語を壁用して説いたのであるが、その問答のやりとりに解し難い点がある。今『古詩賞析』の選解に本づいて述べると、初めの六句は洛陽桃李の花を写して、盛年歓愛の情を措出し、次に「不レ知」以下の四句、折枝・花落の語に盛年の歓愛は再びし難いことをいう。「請謝」以下の二句は妹子の花を損するを詰(g)り、花を以て人に比し、盛年の惜しむべき意を寓した。「高秋」以下の四句は妹子の答辞、春去り秋来って花終いに堕ち去るをのみ言って、間者の意を喩らぬが如きものあるを見て、「秋時」以下の四句を以て重ねて妹子に告げ、花は落ちてまた開く、盛年一たび去っては歓楽は永久に復し得ぬことを言って自重を促す意を含めた。終わりの四句中、「此曲」といったのは「歓楽永相忘」以上の二十句を総べていうものであるが、この四句は奏楽上のいわゆる「趨」で、詩の本文とは直接意味上の連絡はない後奏曲と称すべき部分である。

蘇伯玉妻 そはくぎょくのつま 未詳 盤中詩http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67724365.html
蘇伯玉妻 詩の本文によって姓は蘇、字は伯玉とあるも、その人の伝は明らかでない。
・盤中詩 遠行の夫に与えて、家に帰るを勧める妻の詩である。盤は大皿の類。字義に回旋の意があるから、その意を仮り、この詩を盤中に書して贈ったのである。
盤中詩
山樹高,鳥鳴悲。泉水深,鯉魚肥。 空倉雀,常苦飢。吏人婦,會夫稀。
出門望,見白衣。謂當是,而更非。 還入門,中心悲。
北上堂,西入階。急機絞,杼聲催。 長嘆息,當語誰。
君有行,妾念之。出有日,還無期。 結巾帶,長相思。君忘妾,未知之。
妾忘君,罪當治。妾有行,宜知之。 ?者金,白者玉。高者山,下者谷。
姓者蘇,字伯玉。人才多,智謀足。 家居長安身在蜀,何惜馬蹄歸不數。
羊肉千斤酒百斛,令君馬肥麥與粟。 今時人,智不足。與其書,不能讀。
當從中央周四角。

竇玄妻 とうげんのつま 未詳 古怨歌http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67727247.html

古註に「玄状貌絶異,天子使出其妻,妻以公主。妻悲怨寄書及歌玄。時人憐之。」
(玄状 貌は絶異にして,天子 使して 其の妻を出でしむ,妻するに公主を以てす。(古くからの)妻 悲しみ怨みて 書及び歌を玄に寄す。時の人 之を憐む。)
古怨歌 棄てられた妻の怨みのうた。竇玄は容貌が優れ、時の帝は(皇女を竇玄の嫁とするため)、竇玄の(古くからの)妻を離縁させた。これはその離縁された妻の怨みの歌。なお、『後漢書』で調べているが、まだ見つけていない。

古怨歌            【こえんか】
煢煢白兎,東走西顧。  煢煢【けいけい】たる  白兎,東に 走り  西に 顧【かへり】る。
衣不如新,人不如故。  衣は 新しきに 不如【しか】ず,人は 故【ふる】きに 不如【しか】ず。

繁欽 はんきん ?〜218 愁思賦 弭愁賦 定情詩一首 答繁欽書


繁欽(未詳−218)字は休伯、頴川(河南省) の人、少(おさな)くして文才機弁を以て名を得、曹操の主簿となった。詩賦を作って極めて巧麗と称せられた。曹操の主簿となる。詩賦に優れる。繁欽は建安16年正月8日に曹丕に『與魏文帝箋』を送っている。
曹丕がそれを建安17年正月に手紙を受け取った後、『答繁欽書』と返事を書いている。
玉-040 定情詩一首§1 -#1〈繁  欽〉
定情 相愛の男女両性が、その情を固める意である。
【解説】 曹子建の「洛神賦」、李善の註に繁欽の「定情詩」を引いて曰く、「何以消滯憂、足下雙?遊。」(何を以て滯憂を消し、下雙?遊するに足る。)當に在何句を知らず、下附「何以結相於、金薄畫?頭。」の次に挿入すべき 備考を識る。

左延年 さえんねん 220〜226年活躍 從軍行 秦女休行



三国時代、魏国の音樂家、詩人。活躍年次黄初年ごろ(220〜226年)

焦仲卿妻 しょうちゅうきょうつま 概ね196―220頃 為焦仲卿妻作





この詩は中国に於てほ比較的に少ない叙事詩の傑作で、古今稀に見る長篇である。問答体の長篇であるから、便宜上、篇を十三段に分けて解し、ここでの掲載は”#で示す”によって細分してすすめる。なお詩中の登場人物を表記しておく。序文にいう:後漢末の建安年間に膳江府の小役人であった焦仲卿の妻に劉氏(名は蘭芝)というものがあった。蘭芝は仲卿の母におい出された。離縁された妻・劉氏(劉蘭芝)は更なる嫁入りはしないと心に誓った。(夫の方も、必ず呼び戻すと約束した。しかし実家の方は、劉蘭芝にとって玉の輿とも謂うべき再婚を逼り、嫁入り支度も整った後、前夫に出逢って、愚痴られた。夫婦ともあの世で添い遂げようということになった。その日の夕刻、終(つい)に水に入って死んだ。
(前夫の)焦仲卿は、このことを伝え聞き、自分もまた庭樹の東南の枝に首を吊って果てた。時の人は、二人のことを傷(いた)んで詩にしたと云うことである。)とその経緯が述べられている。

後世に影響を与えた詩で、初唐、劉希夷はじめ数多くの詩人に、特に白居易の『長恨歌』の祖型になったともいわれているのである。。
為焦仲卿妻作-其一(1) 漢詩<144>古詩源 巻三 女性詩584 










劉勳妻王宋 りゅうくんつまおうそ 未詳 雜詩二首竝序        

平虜将軍・劉勲の妻。二十数年夫との間に子ができず、劉勲が山陽の司馬氏を娶ったため離縁される。
家を追い出される時の心情が『劉勲妻王氏雑詩二首』に残る。
『玉台新詠』は本人の作とするが、『芸文類聚』は曹丕の作と伝える。
『典論』自叙で、曹丕が剣術についての心得を述べている一文に、劉勲の名前が出てくる。 従軍の旅の道中、同じ宿に泊まって酒を飲んだというから、劉勲は曹丕のお取り巻きの一人 だったのだろう。劉勲と曹操は親交があったから、その息子の曹丕と親しく付き合った可能性も 充分有り得る。そうであれば、王宋と面識があってもおかしくはない。女の情怨を巧みに謳いあげる曹丕にとっては、王宋の不遇は格好のネタであっただろう。

甄皇后 しんこうごう 183 - 221 樂府塘上行一首      

中国古代の著名な美女とされる。袁熙に嫁し,後、曹丕の妻となる。当時は一夫多妻であるから側室のような立場である。魏明帝、曹叡の母である。
甄后は曹操と曹丕が争った絶世の美女
甄后は代々の官吏の家に生まれ、衰紹の次男衰照に嫁いだ絶世の美女。その美しさは河北や中原じゆうに響き渡り、曹操は早くから彼女に目をつけていたといえ衰家陣営が敗れ、その本拠地である鄭が陥落すると、曹操は取り残された彼女を手にすべく、その屋敷へと突入する。しかし、曹操を出し抜いて彼女をゲットしていた不届き者がいた。曹操の嫡男、曹丕である。曹操は「今度の戦いでいちばん得しおったのはヤツだ」との言葉とともに、曹丕が彼女を娶ることを許したという。
その後、甄后は曹丕の息子として曹叡を産み、曹丕が魏の帝位に就くとともに皇后となった。しかし、わずかその七カ月後に、曹丕から自殺を強いられることになる。曹丕の寵愛が彼女から郭后、李貴人らに移ったことに対して恨み言を言ったからというものであった。
曹操、曹丕が争った絶世の美女甄后。曹丕の弟である曹植も彼女に惹かれていたようである。しかし、さすがは当代きっての詩人だけあって、その恋慕の表現は父や兄と違い、ロマンチックである。彼は彼女をモチーフにして「洛神賦」という詩を作り、兄嫁への恋慕を昇華させたのである。
実際には曹丕が最もプライドを傷つけられること、弟の曹植と相思相愛になった事が大きな理由であろうと思う。曹植は甄后に対する愛の気持ちを詩にしている。その代表格が『洛神賦』である。
塘上行 甄后 魏詩<12-#1>玉台新詠・文選楽府 古詩源 巻五 636 

魏・文帝(曹丕 ぶんてい 187 - 226 於清河見輓船士新婚別妻一首 又清河作一首



至廣陵於馬上作 寡婦 燕歌行



雜詩 善哉行 短歌行 芙蓉池作

曹 丕(そう ひ)は、三国時代の魏の初代皇帝。父曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。
曹操と卞氏(武宣皇后)との長子として生まれ、8歳で巧みに文章を書き、騎射や剣術を得意とした。初めは庶子(実質的には三男)の一人として、わずか11歳で父の軍中に従軍していた。建安2年(197年)に曹操の正室の丁氏が養子として育て、嫡男として扱われていた異母長兄の曹昂(生母は劉氏)が宛城の戦いで戦死すると、これがきっかけで丁氏が曹操と離別する。次兄の曹鑠も程なく病死し、一介の側室でしかなかった生母の卞氏が曹操の正室として迎えられた。以後、曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになる。やがて曹丕は文武両道の素質を持った人物に成長することになった。『三国志』魏志によれば、曹丕は茂才に推挙されたが、出仕しなかった。

曹操の下で五官中郎将として副丞相となり、曹操の不在を守るようになった。 建安21年-22年(216年-217年)に通説ではこの時に弟の曹植と激しく後継争いをしたと言われる。曹操も曹丕と曹植のいずれかを後継とするか迷っていたが、最終的に賈?の献策で曹丕に確定し、217年に曹操から太子に正式に指名される。建安24年(219年)、曹操が漢中への出兵で不在の時に魏諷の反乱が起こるが、?の留守を預かっていた曹丕はこれを鎮圧する。

建安25年(220年)に父が逝去すると、魏王に即位し丞相職を受け継ぐ。魏王についたばかりの頃、臧覇の部下と30余万の青州兵は、元々曹操一代に仕えるとの約束をしていた為、青州へと帰還していった。劉備は曹操が死んだことを聞くと弔問の使者韓冉を遣わしたという。曹丕は劉備が曹操の死を利用して好を通じようということを嫌い、その使者を殺すようにと荊州刺史に命じた[3]。一方、私兵四千家あまりを統率して孟達が魏に帰伏し、大いに喜び孟達を厚遇した。当時、大勢の臣下のうちで、孟達への待遇があまりに度はずれであり、また地方の鎮めの任を任すべきでないと考えるものがあった。これを耳にすると、「私が彼の異心なきことを保証する。これも例えてみれば、蓬の茎で作った矢で蓬の原を射るようなものだ(毒を以て毒を制すの意)」といった。

その後、献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即位した。ただし、表向きは家臣たちから禅譲するように上奏し、また献帝から禅譲を申し出たのを曹丕は辞退し、家臣たちに重ねて禅譲を促されるという形を取った。2回辞退したのちに、初めて即位した。ここで後漢が滅亡し、三国時代に入ることになる。文帝は内政の諸制度を整え、父から受け継いだ国内を安定させた。特に陳羣の進言による九品官人法の制定は、後の世に長く受け継がれた。

夷陵の戦い直後に介入して、魏の主力総掛に命じて30余万の軍勢で三路から呉の背中を攻め、黄初3年(222年-223年)に始まった出兵は、曹休が呂範を破り、曹真・夏侯尚・張?らが孫盛・諸葛瑾を破り、後に曹仁・蒋済・曹休・張遼・臧覇らが最終的に大敗した。江陵城は五重六重に包囲され孤立無援となり、しかし朱然は兵を励まし、隙を窺い魏軍の二つ陣地を破った。包囲は半年に及び、曹真・夏侯尚・張?・徐晃・満寵・文聘らは朱然を攻め敗れず、また疫病が流行したため退却せざるを得なかった(222年から223年にかけての三方面での戦い)。

曹丕は賈?・辛?の進言に従わず兵を進めたが、黄初5年(224年)の出兵では、曹丕は10余万の軍勢を率いて広陵からそのまま出撃し、徐盛が長江沿岸に築いた偽の城壁に驚き、曹丕は広陵に到ると囲営を望見して愕然とし、魏の人々は偽城を恐れ、延々すること数百里で、しかも江水も盛長となり、これを見て「孫権には未だ人材が多く、攻め取るのは難しい」と感嘆し、大波が船団を覆す、戦わずして退却した。

黄初6年225年、曹丕は蒋済の忠告を受け入れなかったため再び出兵したが、10余万の軍勢で自ら親征しての広陵へと進撃。この年は寒さが厳しく長江が凍り、曹丕は「天は、南北を区切ろうとするのか」と歎じたが、自分の龍舟を動かすことができなかったので撤退した。この時、退却とそれを機と読んだ孫韶の夜襲を受けた、曹丕が大いに驚き魏軍が混乱する中、孫韶の決死隊500人が10余万の魏軍を撃破した。それに狼狽した魏軍が寿春へ敗走、曹丕の乗馬車・羽蓋と魏軍の輜重などが奪われ。

黄初7年(226年)、風邪をこじらせて肺炎に陥り、そのまま崩御した。享年40。死ぬ間際、司馬懿・曹真・陳羣・曹休に皇太子の曹叡を託した。


曹丕(清代『三国志演義』より)
治績
曹丕の統治は主に王権を重視するものであった。宦官を一定以上の官位に昇進できないようにしたのは、その端的な処置であると言える。他にも郭氏を皇后に立てる際は、皇帝を差し置いての太后への上奏を禁じ、冀州の兵士5万戸を河南郡に移した。身内にも厳しく、曹植を始めとする兄弟を僻地に遠ざけ、地力を削ぐため転封を繰り返したことで有名である。これによって必要以上に藩屏の力が衰えた。曹操死後において、曹丕が跡を継ぐと司馬懿はますます重用され、後の司馬氏の台頭を招いてしまった。魏を滅ぼした西晋の武帝司馬炎はこれに鑑みて皇族を優遇したが、今度は逆に諸王に軍事権まで与えるなど厚遇が過ぎ、八王の乱を引き起こすに至る。

外交面では年上で経験も豊富である孫権に欺され、手玉にとられている。軍事面では3度にわたり呉に出兵したが、いずれも勝利を得ることはできず、3連敗を喫している。

その一方で文化面については、自身の文学論『典論』にて、「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と文化によって国を安らげる文章経国の思想を掲げている。

曹植(陳思王) そうち(そうしょく) 192 - 232 雜詩五首 美女篇種 葛篇 棄婦篇 浮萍篇



贈王粲 上責躬 應詔詩表 公讌詩 三良詩



送應氏詩二首 七哀詩 贈白馬王彪


曹 植(そう しょく/そう ち、192年 - 232年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。魏の皇族。豫州沛国?県(現在の安徽省亳州市)の出身。陳王に封じられ、諡が思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学の三曹の一人。
生涯
曹操の五男で、生母は卞氏[2]。異母兄は曹昂・曹鑠。同母兄は曹丕(文帝)・曹彰。同母弟は曹熊。妃は崔氏(崔?の姪(兄の娘))[3]。子は曹苗・曹志。娘は曹金瓠(夭折)・曹行女(夭折)。

曹昂・曹鑠が早世すると、建安2年(197年)頃[4]に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となった。幼い頃より詩など数十万言を諳んじ、自身も詩人であった曹操に寵愛された。建安16年(211年)、平原侯(食邑5000戸)に封じられ、建安19年(214年)には臨?侯(同)に転封された。

曹植は礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛し、闊達さと奔放さを合わせ持った天才肌の貴公子であった。ただし少々それが行き過ぎてしまうこともあり、天子の専用通路を勝手に通ってしまい、曹操を激怒させてしまったこともあった(このことは相当な禍根となったようで、後々まで曹操はそれを嘆いた)。詩人としてのみならず、実際には父の遠征に従って14歳から従軍し、烏桓遠征・潼関の戦い[5]・張魯征討など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っている。戦場の空気に馴染んでいたとみられる。

この頃より詩・賦の才能がさらに高まり、さらに曹操の寵愛が深くなった。同時に曹丕との後継争いが勃発した。彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強かったが、建安22年(217年)に正式に曹丕が太子に指名されると、以降は曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになった。

建安25年(220年)に曹操が没すると側近が次々と誅殺され、黄初2年(221年)には安郷侯に転封、同年の内に?城侯に再転封、黄初3年(223年)にはさらに雍丘王(食邑2500戸)、以後浚儀王・再び雍丘王・東阿王・陳王(食邑3500戸)と、死去するまで各地を転々とさせられた。

この間、皇族として捨扶持を得るだけに飽き足らず、曹丕と曹叡(明帝)に対し幾度も政治的登用を訴える哀切な文を奉っている。特に曹叡の治世になると、親族間の交流を復することを訴える文章が増えた。太和4年(230年)に母卞氏が没し、最大の庇護者を失った。その後も鬱々とした日々を送り、太和6年(232年)11月28日、「常に汲汲として歓びなく、遂に病を発して」41歳で死去。子の曹志が後を継いだ。

曹植は中国を代表する文学者として名高いが、詩文によって評価されることをむしろ軽んじていた節がある。側近の楊修に送った手紙では「私は詩文で名を残すことが立派だとは思えない。揚雄もそう言っているではないか。男子たるものは、戦に随って武勲を挙げ、民衆を慈しんで善政を敷き、社稷に尽くしてこそ本望というものだ」と語っており、曹丕が「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」(『典論』論文より)と主張しているのとは、好対照である。


曹植(清代『三国志演義』より)
文学作品
漢詩の詩型の一つである五言詩は、後漢の頃から次第に制作されるようになるが、それらは無名の民衆や彼らに擬した文学者が、素朴な思いを詠った歌謡に過ぎなかった。しかし後漢末建安年間から、それまでの文学の主流であった辞賦に代わり、父や兄、または王粲・劉驍轤フ建安七子によって、個人の感慨や政治信条といった精神を詠うものとされるようになり、後世にわたって中国文学の主流となりうる体裁が整えられた。彼らより後に生まれた曹植は、そうした先人たちの成果を吸収し、その表現技法をさらに深化させた。

曹植の詩風は動感あふれるスケールの大きい表現が特徴的である。詠われる内容も、洛陽の貴公子の男伊達を詠う「名都篇」や、勇敢な若武者の様子を詠う「白馬篇」のように勇壮かつ華麗なもの、友人との別離を詠んだ「応氏を送る」二首や、網に捕らわれた雀を少年が救い出すという「野田黄雀行」、異母弟とともに封地へ帰還することを妨害された時に詠った「白馬王彪に贈る」、晩年の封地を転々とさせられる境遇を詠った「吁嗟篇」などのように悲壮感あふれるもの、「喜雨」・「泰山梁甫行」など庶民の喜びや悲しみに目を向けたものなど、先人よりも幅広く多様性に富んでいる。梁の鍾エは、『詩品』の中で曹植の詩を最上位の上品に列し、その中でも「陳思の文章に於けるや、人倫の周孔(周公旦・孔子)有るに譬う」と最上級の賛辞を送っている。

なお、曹丕から「七歩歩く間に詩作せよ」、と命じられて詠んだという逸話(『世説新語』文学篇より)で有名な「七歩詩(中国語版)」は、現在真作としない見方が有力である。また彼の最高傑作ともいわれる「洛神の賦」は、曹丕の妃である甄氏への恋慕から作ったという説もあるが[6]、疑わしい。

参考までに「野田黄雀行」を意訳と共に下に記す。[7]

鐘ユウ しょうゆう(よう) 151-230 『急就章』・『薦季直表』・『宣示表』/魏の政治家・武将・書家

鍾 ?(しょう よう、?音: Zh?ng Yao チョン・ヤオ、151年 - 230年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の政治家・武将・書家。字は元常。豫州潁川郡長社県(現在の河南省許昌市長葛市)の出身。

祖父は鍾皓。父は鍾迪。妻は賈氏・孫氏・張昌蒲。子は鍾毓・鍾会。娘は荀勗の母。孫は鍾駿・鍾?(「鍾会伝」)・鍾毅(「鍾会伝」)・鍾峻(「鍾会伝」)・鍾辿(「鍾会伝」)・鍾徽(王渾妻の父、『晋書』)ら。曾孫娘は鍾?(字は?、鍾徽の娘、王渾の妻)。叔父は鍾敷。従父は鍾瑾(鍾皓の兄の子)。族父は鍾瑜。弟は鍾演。従子は鍾劭(鍾演の子)。従孫(鍾演の孫)は鍾豫・鍾曄(鍾雅の父)。甥は郭援(姉の子)。『三国志』魏志「鍾?華?王朗伝」に伝がある。

『新唐書』の「宰相世系表」は、鍾?の先祖を秦末から楚漢戦争期の将軍鍾離?とする。?の次男の鍾離接が潁川郡長社県に移住して、鍾離から一字省いて鍾氏に改姓したとし、鍾接の子孫の鍾皓、孫の鍾迪、その子鍾?と列挙している。しかし、接から皓までの間に何代もの隔たりがある上、『三国志』「鍾?伝」注に所引の『先賢行状』および『後漢書』鍾皓伝では、鍾?を鍾迪の孫とするなど、「世系表」の記述と食い違っており、この系譜は信憑性に疑問がある。

曾祖父の鍾皓は荀淑や陳寔と共に、名士の代表として並び称された人物であり、李膺とも縁戚関係があった。しかし、後漢朝が宦官勢力の台頭により腐敗すると、党錮の禁により名士が弾圧され、祖父の鍾迪は仕官できなかった。

経歴
若き日
子供の時に、族父に連れられて洛陽に行ったとき人相見に出会い、出世の相と水難の相があることを告げられた。まもなく溺れそうになったため、人相見の言葉が当たっていると判断した族父が、鍾?への援助を惜しまないようになったという。
孝廉に推挙された。南陽の陰修が潁川太守であった時、荀ケ・荀攸・郭図ら多くの優れた人材を見出して評判を博したが、その中には功曹であった鍾?も含まれている(謝承『後漢書』)。
尚書郎・陽陵県令に任じられたが、病気のため退職した。その後、三公府に招聘され、廷尉正・黄門侍郎となった。

曹操に仕える
当時献帝は長安におり、李?・郭が朝政を牛耳っていたため、政治は混乱し、関東とは分断されていた。?州牧となった曹操は、長安に初めて使者を送った[1]。李?と郭がこれを訝しく思い、曹操の使者を留め置いて妨害すべきだと考えたが、鍾?が曹操のために弁護したため、使者は目的を果たすことができた。曹操はかねてより、荀ケが鍾?をよく褒めていたことを知っていたため、この話を聞き鍾?に興味を持つようになったという。
鍾?は李?らの手から献帝を守り、策略を駆使して長安を脱出するのに貢献した。御史中丞となり、侍中・尚書僕射に昇進し、以前の功績も取り上げられ東武亭侯に封じられた。

関中を統治する
献帝を迎えた曹操だったが、山東での戦乱はいまだ止まない一方で、関中には馬騰・韓遂が勢力を保っていたため、鍾?に侍中のまま司隷校尉を兼任させ、持節を与え関中方面の軍事と統治を任せた。鍾?は法令に拘束されない権限を持つようになったという。
長安に到達すると、馬騰・韓遂を説得して曹操に従わせることに成功した。馬騰・韓遂は子供を人質として朝廷に参内させた。
曹操が袁紹と黄河を挟んで争ったときは(官渡の戦い)、馬を2千余頭集めて曹操に送り軍役に立たせた。曹操は鍾?を前漢の蕭何に準えて功績を称えた。
建安7年(202年)、袁尚と手を結んだ匈奴単于(呼廚泉)が河東郡平陽で反乱を起こすと、鍾?は平陽を包囲した。このため袁尚配下の郭援(鍾?の外甥)や高幹が平陽へ救援に向かった。諸将が郭援の勢いが盛んであることを理由に撤退を主張したが、鍾?は関中の不安定な状勢を考えると撤退が難しいと説得し、また縁戚でもある郭援の性格を熟知していたことから、必ず打ち破れると鼓舞した。一方で張既に命令して、馬騰に郭援を討伐するよう説得させた。馬騰は説得に応じ、援軍として子の馬超や?徳ら一万余人を送った。鍾?は馬超・?徳とともに郭援と戦い、川を渡りきる前に攻撃して大破し、郭援を討ち取り呼廚泉を降伏させた。鍾?は、郭援を直接討ち取った?徳から首級を見せられ号泣したが、陳謝する?徳に対して「郭援は謀反人であるのだから、謝罪の必要はない」と言い、公私の別を明らかにしたという(「?徳伝」)。
河東太守を長く務めた人物に王邑がいた。鍾?が杜畿を新たな太守に任命し、王邑に印綬を渡すよう圧力をかけたが、王邑は鍾?の意に反し、直接朝廷に出向き印綬を返した。鍾?は面目を潰された形となったが、王邑の人望が厚く、朝廷に対しても功績のある人物であったため処罰を求めるわけにもいかず、代わりに自分自身への処罰を求めた。しかし、詔勅により辞任の申し出は却下された(『魏略』)。
まもなく河東の有力者である衛固が、高幹・張晟・張?と結び反乱を起こした。曹操は再び張既を用いて馬騰らを呼び集めさせた。鍾?は将軍たちを引き連れて、直ちに衛固らを鎮圧した。
長安遷都以来、洛陽の人口は激減していたが、鍾?は洛陽に関中の住民を移住させ、また犯罪者・逃亡者を住まわせることにより、洛陽の人口を回復させた。後に曹操が関中を討伐できたのは、鍾?の政策のお蔭であった。前軍師に任じられた。
建安16年(211年)、鍾?は曹操に張魯討伐の名目で、馬超ら関中の諸将に対し人質を要求するよう提案した。関中の内政を担当していた衛覬がこれを諌め、荀ケを通じて曹操に翻意を促したが、曹操は鍾?の強硬路線を採用した。結果的に馬超・韓遂らの反乱(潼関の戦い)を招いたため、死者は5桁に上ったという(「衛覬伝」が引く『魏書』)。

魏の重臣へ
曹操が魏王になると、大理となった。その法の運用振りは、王朗と並び称されたという(「王朗伝」)。また、毛?が讒言により弾劾されると、その取調べに当たっている(「毛?伝」)。あるとき曹操が、死刑の代わりに宮刑の復活を提案したところ、鍾?は死刑の代わりとして肉刑を復活させるべきと意見したが、民への影響を案じた意見が多く一時沙汰止みとなった。
太子であった曹丕とは親しく、五熟釜を貰ったり、玉?を贈ったりした仲であった(『魏略』)。孫権が臣下の礼をとり、関羽の首を送ってきたときは、手紙をやりとりし対応を相談し合ったこともあるという(『魏略』)。
相国にまで昇進したが、かつて推挙した魏諷が建安24年(219年)に反乱を起こしたため、連座により一時免職となっている。
曹丕が魏王となると再び大理となり、曹丕(文帝)が即位すると廷尉・崇高郷侯となり、やがて賈?の後任として太尉となり、平陽郷侯に転封した。この時、鍾?・華?・王朗という曹操以来の名臣が三公となっており、曹丕は「この三公は一代の偉人であり、後世でこれを継ぐことは難しいだろう」と言った。
曹丕は、以前の肉刑復活論に理解を示していたため、群臣達を集め何回か議論をさせた。しかし、戦により一時沙汰止みとなった。
曹叡(明帝)が即位すると、太傅・定陵侯となった。
太和年間に鍾?は上奏し、死刑の代替として肉刑の復活を再び主張し、足切り・鼻削ぎなどの肉刑を受けても、子が作れるとして人口減対策にもなると唱えた。しかし、王朗は肉刑の弊害(特に「肉刑が復活した」とだけ伝わった場合の呉・蜀の民に与える影響)を憂慮し「死刑そのものを減らすのが目的ならば、他の手段をとるべき」と意見を述べた。この論議には100人ほどの参加者があったが、王朗の意見を支持する者が多かった。しかし、曹叡は呉と蜀の平定が先決だとして、再び沙汰止みとした。
このころ、張氏を溺愛したため、別の側室である孫氏は嫉妬し、張氏を毒殺しようとした。鍾?はこれを咎め孫氏と離縁し、さらに張氏を愛するようになり、ついには末子となる鍾会をもうけている(「鍾会伝」が引く鍾会の自伝)。またあるとき、離縁した妻と復縁することを曹丕から命じられたため、憤激して自害しようと山椒を目一杯喰らって咽喉に支障を来し、口が利けなくなったともいう(「鍾会伝」が引く『魏氏春秋』)。後、賈氏を正室として迎えた。
太和4年(230年)、80歳で死去した。諡号は成侯。大理(廷尉)であったことの公正さが評価されたためという(『魏書』)。爵位は鍾毓が継ぎ、鍾会も魏の重臣となった。鍾毓の死後は鍾駿が跡を継いだ。
正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には鍾?も含まれている(「斉王紀」)。
景元5年(264年)に鍾会が蜀で反乱を起こし殺害されたとき、鍾毓の子のうち、鍾会に随行していた鍾?も殺害され、その他の子達(鍾毅・鍾峻・鍾辿)も皆収監された。一族はそのまま連座して処罰されるところであったが、鍾?と鍾毓の功績に免じて一部が許されている(「鍾会伝」)。

魏・明帝 めいてい 204-239 種瓜篇 樂府二首

,三国時代の魏第2代の皇帝 (在位 226〜239) 。姓名は曹叡 (そうえい) 。字は元仲。文帝の太子。黄初7 (226) 年即位。父の遺詔により曹真,曹休,司馬懿 (しばい) ,陳群が補佐した。彼は沈毅果断な人柄で,浮華の徒を退け,みずから政治を行なった。即位当初,呉と蜀が連合し魏を攻めたが,彼は司馬懿らの武将を派遣し,みずからも呉との戦いに出陣して撃退。しかし晩年には奢侈にふけり,斉王芳を養子にしたが,彼の死にあたり,芳を補佐する者をめぐり内紛があり,司馬氏専権の道を開いた。

虞 翻 ぐほん 161-233 周易注



虞 翻(ぐ ほん、 164年 - 233年)は、中国後漢末期から三国時代の学者、政治家。呉に仕えた。字は仲翔。揚州会稽郡余姚県の人。高祖父は虞光。曾祖父は虞成。祖父は虞鳳。父は虞?(字は文繍)。子は虞・虞忠・虞聳・虞?ら男子11名ほか。『三国志』呉志に伝がある。
若い頃から学問に励んでいた。ある日、兄に面会を求めた客が、虞翻の所には現れなかったため、虞翻は手紙を送り、故事を引いてその客の見る目の無さを皮肉った。その手紙の内容が非凡なものであったため、その客は非常に感心した。このことが基で、虞翻の名は世に知られるようになったという(『呉書』)。

初め会稽の王朗に仕え、功曹に任じられた。王朗が孫策と敵対し、会稽に孫策軍が迫ると、父の喪中であるにもかかわらず王朗との面会を求め、抵抗せずに避難するよう勧めた。王朗はその言葉に従わず、孫策と戦ったが敗れ、船で海上に逃げ延びた。虞翻は王朗を追いかけ、随行し守護した[1]。東部侯官の役所への保護を求めたところ、長官から拒絶された。しかし虞翻が使者に立ち説得に当ったため、入城することができた。虞翻は、虞翻の母の身を案じた王朗の勧めで、会稽へ戻ることにした[2]。

孫策に招聘され仕官に応じ[3]、引き続き会稽郡の事務を担当した。孫策は乗馬し狩猟することを趣味とした。しかし虞翻は、暗殺の危険があることを理由にそれを諌めた[4]。

虞翻は孫策の遠征に従軍し、三つの郡を制覇したという。孫策は江夏の黄祖討伐の帰りに、豫章の華?を服従させようと思ったが、兵を失うことなく降伏させようと思い、使者として虞翻を派遣した。虞翻は先に敗北した王朗と華?の状況を分析し、華?の方が不利であることを論じた上で、華?が決断しない以上これが最後の対面になるであろうと説得した。華?は虞翻が去った次の日に、孫策へ降伏の使者を送った[5]。孫策は豫章を征服すると、呉郡に帰還した。孫策は、既に張紘を使者として後漢朝廷に派遣していたが、以前の寿春での経験から、中央の者達が東方の者を軽蔑していると思っていた。そのため弁舌にすぐれた虞翻を中央に派遣しようとしたが、虞翻がそのまま孫策の補佐として留まることを申し出たため、会稽に戻らせた[6]。

虞翻はのちに孫策の幕僚から離れ、富春県長となっていた。孫策が死ぬと、役人達が葬儀に駆け付けようとしたが、虞翻は山越が不穏な動きをしているため、不測の事態に備える必要があると考え、任地において喪に服し孫策の追悼を行なった。孫ロが会稽郡を占領しようとしたときは、説得しそれを思い留まらせた(『呉書』・『会稽典録』)。

虞翻は州より茂才に推挙され、侍御史として招聘された。また曹操からも招聘を受けたが、いずれも辞退した。後を継いだ孫権に仕え、騎都尉となった。

易経を研究し、自分の注釈書を都にいる孔融に送った。孔融もまた虞翻の業績を称え手紙を送った。孫権の元に帰還していた張紘も孔融に手紙を送り、虞翻の才能を賞賛した。また、呉郡の陸氏一族であった陸績がまだ年少であったが、虞翻は彼と親しくつきあった(「陸績伝」)。

後に孫権は、虞翻があまりにも率直な発言をするところが気に入らず、また元々虞翻が協調性を欠く性格であったことから、我慢できずついに左遷して丹陽郡県に移住させた。しかし、呂蒙は虞翻の才能を惜しみ、荊州の関羽征伐に医学の心得がある虞翻を従軍させたいと思ったため、功績により復帰できるよう取り計らってやった。虞翻は呂蒙の命令で公安の士仁に降伏を勧めた。しかし面会を断られたため手紙を送り、その中で名分と実利を織り交ぜつつ、天文をも引き合いに出しながら説得した。士仁は涙を流して投降したという(「呂蒙伝」が引く『呉書』)。続いて南郡太守の糜芳をも説得し投降させた[7]。呂蒙が城外で宴席を設けようとすると、虞翻は城内で企みがあることに気づいたため、直ちに入城するよう進言した。計画は未然に阻止された。

関羽が敗走すると、孫権は虞翻に関羽の命運を占うよう命令した。虞翻は「二日以内に関羽の首が断たれるでしょう」と予言し、その通りになった。

江陵には、先に関羽に敗れ降伏していた曹操軍の于禁が、捕虜として収監されていた。孫権は于禁を丁重に処遇し、一緒に馬を揃えることを許可した。しかし虞翻は、于禁が降伏者であることを理由に非難した。後に孫権が于禁を酒宴に招いたとき、音楽を聞き涙を流した于禁の姿を見て、また罵声を浴びせた。孫権はこのことを不快に思ったという[8]。

孫権が呉王になったとき、祝いの宴会が開かれた。酒好きの孫権は自ら酒を勧めて回っていた。その際、虞翻は床に酔い潰れたように見えたため孫権が通り過ぎたところ、その後平然と席に座り直した。このことが孫権の逆鱗に触れ、孫権は酔った勢いに任せて虞翻を斬り殺そうとした。しかし曹操と孔融の例を出して斬ろうとする孫権を制止した劉基の取り成しで何とか助命された。反省した孫権は側近に対し、酒に酔ったときの殺害命令を聞かないように、と言ったという。

虞翻は于禁と同様、降伏者である糜芳を憎んでいたため[9]、船ですれ違ったときや偶然軍営の前を通りかかったときに、罵声を浴びせた。糜芳は恥じ入るばかりであったという。

虞翻は狂直(自分が正しいと思ったことを押し通す性格)で、他者への配慮に欠けるところがあり、酒の席での失敗も何度かあった。あるとき、神仙について孫権と張昭が話題にしていたのを小耳に挟み「(死すべき定めの)死人たちが神仙について語っております。(不老不死の)神仙などいるはずがないでしょうに」と告げた。孫権は以前のことも含めてついに決断し、虞翻を追放し交州に左遷した。

虞翻が交州に向かうとき、豫章郡の県の小役人であった聶友という人物が見送りに来た。虞翻が豫章太守の謝斐に手紙を送り聶友の任用を薦めたため、聶友は後に丹陽太守まで出世した(「諸葛恪伝」)。

交州では数百人の門下生を相手に光孝寺(中国語版)(広東省広州市)で学問を教えていた。『江表伝』によると、孫権は遼東遠征に失敗し多数の人命を失ったとき、虞翻のことを思い出し、交州に使者を送り消息を尋ねさせたが、既に虞翻が死去していたため、子達を呼び寄せ採り立ててやったという。

虞翻は、当時不遇であった丁覧(丁固の父)や徐陵といった人物を認め、彼等が出世できるよう取り計らってやったという。

繆襲 びゅうしゅう 186年−245年 挽歌詩




繆襲:字は熙伯。漢魏の文学者。186年(中平三年)〜245年(正始六年)。東海の人。才学があり、著述がある。

※挽歌詩:死者の柩(ひつぎ)を挽(ひ)いてゆくときの歌。死者の立場で歌う。後世の陶淵明の『挽歌詩』其一「有生必有死,早終非命促。昨暮同爲人,今旦在鬼録。魂氣散何之,枯形寄空木。嬌兒索父啼,良友撫我哭。得失不復知,是非安能覺。千秋萬歳後,誰知榮與辱。但恨在世時,飮酒不得足。」や其三「荒草何茫茫,白楊亦蕭蕭。嚴霜九月中,送我出遠郊。四面無人居,高墳正嶢。馬爲仰天鳴,風爲自蕭條。幽室一已閉,千年不復朝。千年不復朝,賢達無奈何。向來相送人,各自還其家。親戚或餘悲,他人亦已歌。死去何所道,託體同山阿。」と同じイメージになる。『文選』二十八卷「挽歌」、『古詩源』卷六「魏詩」にある。この作品は、理解のしようでは、相当強烈な内容になる。詩の後半は、人の老化を詠うものか、死後の肉体の朽滅を詠うものなのか。後者の意は後出「或いは、…」以下の部分がそうであり、恐らくそちらが原初の意ではなかろうか。我が国の『古事記』の黄泉の国での伊耶那美命(伊弉冉尊:イザナミノミコト)を聯想してしまう。

何晏 かあん 190-249





何 晏(か あん、? - 249年2月9日(正始10年1月10日))は、中国後漢末期から三国時代の魏の政治家、学者。字は平叔。祖父は何進[1]。父と子の名は不詳[2][3]。養父は曹操。彼の伝は「諸夏侯曹伝」の曹真伝付きの曹爽伝にある。祖父らが十常侍らに殺害されると、生母の尹氏が曹操の妾となったため、その関係で曹操の養子として養育され成長した(後に尹氏は曹矩を産む)。同じく養子として引き取られた秦朗がおとなしい性格であったのに対し、才気煥発であり、太子と同様の身なりをしていたという(『魏略』)。曹操にはその才能を認められ、娘の金郷公主を妻に娶るなど極めて厚遇されたが、曹丕(文帝)には憎まれ、しばらくの間、政界では活躍の場を得られず、曹叡(明帝)の時代にも上辺だけ華やかで内実に乏しい人物として、閑職にとどまっていた。何晏は文学や思想の世界に活躍の場を見出し、多数の作品や著述を残した。

権勢の座
曹叡の死後、養子で年少の曹芳(斉王)が即位すると、その後見役として曹爽が政権を握った。曹爽とかねてより親しかった何晏は、散騎常侍・尚書に任命され、一躍政権の中枢に躍り出た。曹爽を唆し、同じ後見役であった司馬懿を遠ざけさせ、吏部尚書として人事の実権を握り、多くの知人を政権に参加させている。同じ尚書であった丁謐やケ?は、共に曹爽の取り巻きグループの一人であり、当時の落書で三匹の犬に例えられたという(『魏略』)。彼等は我が儘勝手に振舞う一方で、仲間同士でも人事面で何度か対立していた。このため何晏の推薦した学者仲間の王弼は、丁謐の推す王黎のために曹爽から任用されなかった(鍾会伝の注の引く王弼伝)。

失脚
「高平陵の変」も参照
249年、病気と称して引退状態だった司馬懿が、曹爽不在の隙にクーデターを起こした。何晏を含む曹爽派の主だった人物は捕らえられ、処刑された。この曹爽らの破滅は管輅が予言していた(管輅伝)。『魏氏春秋』によると、司馬懿は最初に何晏に曹爽らの裁判を担当させた。何晏が助かりたい一心で曹爽らの裁判を厳しく行なったが、司馬懿は最後に、罪人の中に何晏の名も書き加えるよう言い放ったという。

曹爽らの一派が三族皆殺しとなったが、何晏の母である尹氏は、当時5・6歳であった孫の助命を嘆願して許されたという(『魏末伝』)。

王弼 おうひつ 226-249 周易注 老子注



王 弼(おう ひつ、226年 - 249年)は、中国三国時代の魏の学者・政治家。字は輔嗣。?州山陽郡の人。祖父は王凱。父は王業。兄は王宏。

王弼は何晏らと共に「玄学」を創始したとされている。『三国志』では鍾会の伝に付された裴松之の注に、西晋の何劭の書いた伝が引用されている。
経歴
『博物記』によると、祖父は名士としての血統と容姿の美しさを理由に、劉表に気に入られ娘婿となった人物である。また父は劉表の外孫で、王粲の子が刑死し彼の家系が断絶した後、その一万巻の蔵書を受け継いだ人物である。

王弼は幼少の頃から賢く聡明で、十数歳で『老子』を好み明晰かつ雄弁に語った。若くして傅?・裴徽・何晏に高く評価され、鍾会と並び評された。

正始年間前期、黄門侍郎の官が連続で欠員となったので、何晏は賈充・裴秀・朱整を起用し、王弼の起用も審議させた。しかし、丁謐が王黎を曹爽に推薦したので、曹爽は王黎を起用した。このため王弼は尚書郎に任命された。任命を受けた王弼は、曹爽にお人ばらいを願い出たため、曹爽も何か重要な要件があるのかと思い、側近を下がらせた。しかし王弼は道家の理論を語り合うだけで、他のことには全く触れなかった。このため曹爽は彼を軽蔑した。

王弼は浅薄であったが、穏やかな性格で酒宴を好み、音律に通じ投壺(壷の中に矢を投げ入れる遊び)が上手だった。道家の学説では何晏に及ばなかったが、何晏より優れた説も多かった。しかし、自分の得意分野においては人を嘲笑したので、当時の知識人から憎まれたという。

鍾会は王弼と仲が良く、王弼の論の高邁さに感服していた。鍾会は何晏とも交流があり、何晏の「聖人には喜怒哀楽の情が無い」という論を祖述した。王弼は何晏のこの論を批判し、「聖人は人より精神の働きに優れ、人と同じ点は五つの情(喜怒哀楽と欲または怨)にある。精神の働きが優れているからこそ、宇宙の和楽の気を体得して、無に通ずることが出来る。五つの情が同じだからこそ、哀楽の情によって外物に対応してしまうのである。だからこそ、聖人の情は外物に引きずられない点を取り上げて、外物に対応しないのだと考えるとすれば、それは間違いである。」と主張した。

王弼は『老子』・『易(周易)』の注釈を書き、『道略論』を著述した。『老子』・『易』の注釈は現存し、高く評価されている。『易』の注釈は『十三経注疏』に採用されている。

司馬懿がクーデターを起こし、曹爽・何晏を処刑すると王弼は免職となった。嘉平元年(249年)秋、癩病を患い死去した。享年24。子はなく、家は断絶した。

胡昭 こしょう 179-250 軍人・政治家




胡 昭(こ しょう、162年 - 250年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。字は孔明。豫州潁川郡の出身。魏書の管寧伝に記録があり、また皇甫謐の『高士伝』にも名が見られる。子は胡纂。

後漢末の混乱を避け各地を転々とし、袁紹や曹操の招聘を受けたが断って隠棲を続けた。最終的には故郷の陸渾の山中に居住し、農耕と読書の日々を送った。人望が篤く、村人や官吏に尊敬され、さらには関羽と呼応し反乱を起こした賊にまで敬意を払われた。魏王朝の成立後も彼に対する招聘は続いたが、最後までそれに応じなかった。死後、子が招聘に応じて郎中を拝命した。

司馬懿 しばい 179-251 讌飮詩 




司馬 懿(しば い、?音:S?-m? Yi 、179年 - 251年9月7日)は、後漢末期から三国時代曹魏にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。『三国志』では司馬宣王と表記されている。
司馬懿の現存する詩は、『晋書』に収録された「讌飲詩」一首のみである。
天地開闢 日月重光
遭遇際会 畢力遐方
将掃逋穢 還過故郷
粛清万里 総斉八荒
告成帰老 待罪舞陽
姓「司馬」名「懿」(字「仲達」)。三国志演義後半の主役の一人で諸葛孔明最大のライバル。
魏の曹操に仕えていたが、
曹操は晋書によると「人に仕える男ではない」と重用しなかったようだ。
他にも出仕の時の逸話に関しては魏略と晋書で内容が全く異なっている。

彼亡き後、曹丕に取り立てられ出世。曹叡の時代には曹真から軍権を引き継ぎ、北伐と言う名の孔明の侵略から国を守りきった。
その後政局の腐敗に陥った魏を立て直すため、クーデターを起こして政権を奪った。

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」ということわざにもなったが、仲達本人は「生きてる人間の腹なら読めようもあるが、死んでる人間の腹など誰にも読めようか。笑いたい奴には笑わせておけ!」と豪快に許したとか。
つまり、孔明をもってしても仲達の守りを完全に打ち破ることはできなかったのである。

應キョ おうきょ 190-252 風刺詩 『百一詩』の連作
 〔七賢〕 

 字は休l。汝南郡南頓の人。楊の弟にあたる。散騎常侍・侍中を経て、大将軍・曹爽の長史となった。時政を諷刺した「百一詩」は世上の評判を取った。嘉平二年(250)、再び侍中となった。
三國時曹魏文學家。字休l。汝南(今屬河南)人,應?之弟。博學好作文,善於書記。文帝、明帝時,?官散騎常侍。曹芳即位,遷侍中、大將軍長史。當時大將軍曹爽擅權,舉措失當,應?曾作《百一詩》諷勸。“百一”的意思,據《文選》李善注引原詩序載,當時有人對曹爽?:“公今聞周公巍巍之稱,安知百慮有一失乎”;張方賢《楚國先賢傳》則以為,由於詩有一百零一篇而得名。前?當近是。今存《百一詩》共8首,多數似非完篇。又有《雜詩》3首,亦屬《百一詩》之類。其中,《文選》所?一首為全篇,其主旨為“下流不可處,君子慎厥初”

韋誕 いたん 179-253 軍人・政治家




韋 誕(い たん、181年 - 253年)は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての人物。字は仲将。司隷京兆尹杜陵県の出身。父は韋端。兄は韋康。

父は後漢の大臣である太僕であり、孔融は父韋端に「先日は韋康がやってきました。淵才は卓越しており、雅かつ弘毅で、今世の優れた器です。昨日は韋誕がやってきました。性格は穏やかで誠実であり文章に優れていて、家を保つ主となるでしょう。あなたのような親からこのような二つの宝石が出るとは、まことに目ずらしく貴いことです。」という手紙を送っている。この手紙が中国のことわざの「老蚌生珠」(どぶ貝から真珠、普通の親から優れた息子が生まれること)となった。

建安年間に上計吏として官吏についた後、特別に郎中に任ぜられた。太和年間に武都太守となり、書に巧みであったため、正始年間に侍中に遷った。その後、中書監となり光禄大夫となった。嘉平五年(253年)に75歳で没した。

韋誕は書に優れており、草書をよくしたため「草聖」と呼ばれたが、一方で楷書もよくした。魏王朝の宝器の銘題は、全て韋誕が書いたと伝えられる。また宮殿の扁額もしばしば書いている。『世説新語』には宮殿を造営した際、梯子に登って扁額を書かされた話が紹介されているが、同注に引く『四体書勢』には、現代の高層ビルの窓拭きゴンドラの如く、縄を付けた籠に載せられ、地上約60mの高さまで引き上げられて、扁額を書かされたという信じ難い話が紹介されている。韋誕は恐怖のせいで髪も髭も白くなってしまい、子孫には決して書道を学ばないよう書き残したとされる。

文章にも巧みであり、属辞の技法をよくしたという。

王肅 おうしゅく 195-256 政治家




王 粛(おう しゅく、195年 - 256年)は、中国三国時代の政治家。魏に仕えた。字は子雍。徐州東海郡?県(現在の山東省臨沂市?城県)の人。父は王朗。子は王ツ・王恂・王虔・王ト・王隆・王元姫(司馬昭妻)。従兄弟は王詳。曾孫は王雅。外孫は司馬炎(西晋の武帝)。『三国志』魏志王朗伝に記述がある。

経歴
父が後漢の会稽太守を務めていた時、会稽で生まれたという(蜀志「許靖伝」が引く王朗の手紙)。

18歳の時、荊州の宋忠のもとで揚雄の『太玄経』を読み、それについての解釈を作った。

黄初年間に散騎侍郎となり、229年に散騎常侍に任命された。230年、曹真が蜀征伐に出兵していたが、王粛は道の険阻さと補給の困難さを理由に、撤兵を進言した。既に死去した大臣達のために喪を発し、宗廟を祭ることを上奏し、聞き入れられた。また、官職整理と古代儀礼の復活を具申した。

青龍年間に、山陽公(後漢の献帝)が没した。山陽公は王者の礼で葬られることになったが、その諡が問題になった。王粛は「皇帝」の「皇」と「帝」の呼称のうち、「皇」の方がやや軽い別称だとして、山陽公の諡に皇の字を用いるべきと提言した。しかし曹叡(明帝)はこれを聞き入れず、山陽公に孝献皇帝と諡した。

常侍の身分で秘書監を務める立場となり、崇文観祭酒を兼任した。景初年間、曹叡が宮殿造営に熱中すると、政治が弛緩し民は疲弊した。王粛は上奏し、政治の引き締めと経費節減を求めた。

曹叡が、前漢と後漢の事例を引いて問うと、王粛は的確な返答をし、帝王としての心構えを曹叡に示した。

240年、広平太守となったが、召し返され議郎に任じられた。しばらくして侍中となり、太常に昇進した。当時、曹爽が朝廷の実権を握り、何晏などの側近達が政治をほしいままにしていたが、王粛は何晏達を激しく憎悪し、あるとき蒋済と桓範に対しその不満をぶちまけた。それを耳にした曹爽は王粛達に対する警戒を強めたという。まもなく、宗廟の祭祀についての問題で免職となった。後に光禄勲として復帰した。

司馬師の時代、武器庫の屋根に二匹の魚が上る事件があった。ある者がこれを吉兆と判断したが、王粛は辺境での変事を意味する凶兆と判断した。まもなく東関での敗戦報告があった。

河南尹に転任し、後に持節兼太常となった。254年、司馬師が曹芳(斉王)を廃位すると、新帝として曹髦(高貴郷公)が擁立されることになり、王粛が迎えの使者を務めた。この年に白気(彗星またはオーロラ)が天空を横切る事件が発生した。司馬師が王粛にその理由を尋ねたところ、王粛は「東南で動乱が勃発するでしょうが、徳により人心を安定させれば、反乱はたちまち平定されるでしょう」と応えた。255年、?丘倹・文欽が揚州で反乱を起こした。司馬師に対策を尋ねられると、王粛はかつての関羽敗退例を引き、反乱軍の将兵の家族を確保し、反乱軍の進出を阻止すれば、彼らはやがて自壊するだろうと述べた。司馬師はそれに従ったため、反乱を鎮めることができた(?丘倹・文欽の乱)。

王粛は中領軍に昇進し、散騎常侍を加わえられた。領邑は300戸増え、あわせて2200戸を領した。

256年に死去し、衛将軍を追贈され、景侯と謚された。子の王ツが後を継いだ。王ツには跡継ぎがいなかったため、一度直系は断絶した。263年、王恂が採り立てられ、蘭領侯とされた。禅譲により晋が興り、五等爵の制度が定められると、王粛の生前の功績が評価され、王恂が永県の子爵とされた。『晋諸公賛』によると、王恂には8人の兄弟がおり、その内の王虔と王トの2人は出世し高官に昇ったという。

礼制について鄭玄の説に反対し、鄭玄説を擁護する王基などと議論した(「王基伝」)。そのとき、孔子と弟子たちの言行録である『孔子家語』に注を施し、これを根拠にしたという。なお、この『孔子家語』は王粛の偽作ともいわれ、また一から捏造したのではなく、元来あったものを王粛が改竄したともいわれている。渡邉義浩は、曹魏の禅譲正当化の根拠となった鄭玄説を否定することによって、司馬氏の簒奪を正当化する狙いがあったのではと推定している。

西晋では王粛説が羽振りを利かせたが、以降は鄭玄説が再び有力となった。近年、王粛説の再評価もされつつある。

ケイ康 けいこう 223-262 贈秀才入軍五首 与山巨源絶交書 琴賦
〔七賢〕

声無哀楽論 幽憤詩



? 康(けい こう、224年 - 262年あるいは263年)は、中国三国時代の魏の文人。字は叔夜。豫州?国?県(現在の安徽省淮北市?渓県)の人。竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人。父は?昭。兄は?喜。子は?紹・女子一人。

経歴
曹操の曾孫娘の長楽亭主(曹林の孫娘)を妻とし[1]、魏の宗室の姻戚として中散大夫に任じられたので、?中散とも呼ばれる。

非凡な才能と風采を持ち、日頃から妄りに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり、鍛鉄をしたりするなどの行動を通して、老荘思想に没頭した。気心の知れた少数の人々と、清談と呼ばれる哲学論議を交わし名利を求めなかった。友人の山濤が自分の後任に?康を吏部郎に推薦した時には、「与山巨源絶交書」(『文選』所収)と書いて彼との絶交を申し渡した上で、それまで通りの生活を送った。ただし死の直前、子の?紹を山濤に託しているように、この絶交書は文字通りのものではなく、自らの生き方を表明するために書かれたものであった。

?康の親友であった呂安は、兄の呂巽が自分の妻と私通した事で諍いを起こし、兄を告発しようとした。ところが、身の危険を感じた呂巽によって先に親不孝の罪で訴えられた[2]。この時、?康は呂安を弁護しようとした。しかし鍾会は以前から?康に怨恨があったため、この機会に?康と呂安の言動を風俗を乱す行ないだとして、司馬昭に讒言した。このため、山濤の吏部郎への推薦を断った事と、呂安を弁護する姿勢が罪状に挙げられ、?康と呂安は死罪となった[3]。

当時、汲郡に孫登という道士がいた。?康は山に薬草を採りに行った時に知り合い、彼の元に3年通っていた。しかし、孫登が一言も口を利こうとしなかったため、?康は別れ際に「先生[4]、まだ口を利いてはいただけないのでしょうか」と尋ねた。そのため孫登は、初めて口を開き「あなたは多才だが見識が乏しい。今の世の中では難を免れるのは難しいぞ」と言った[5]。結局、?康は死刑という難を免れる事ができなかった。

?康は「琴(きん)」を演奏する事を好んでおり、ある時に見知らぬ人物から「広陵散」と呼ばれる琴の曲を学び得意としていたが、誰にもそれを教えなかった。刑の直前にこの曲を演奏し「広陵散、今に於いて絶ゆ」と言い残し処刑されたという[6]。「声無哀楽論」・「琴賦」を著すなど、音楽理論に精通していた。

著作は他に「養生論」・「釈私論」があり、詩は「幽憤詩」・「贈秀才入軍五首」などの四言詩に優れていた。

阮籍 げんせき 210-263 詠懷詩二首 二首其二 白眼視
〔七賢〕

阮 籍(げん せき、210年(建安15年) - 263年(景元4年))は、中国三国時代の思想家。字は嗣宗。?州陳留郡尉氏県の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は阮?(建安七子の一人)。兄は阮熙。子は阮渾。甥は阮咸(竹林の七賢の一人)。

人物
魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み清談を行ない、礼教を無視した行動をしたと言われている。俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対した。

はじめ蒋済が召し出そうとするも応じず、蒋済の怒りを買ったが、親類に説得されたためやむなく仕官した。しかし病気のため辞職した。曹爽に参軍として召し出されたが、これも病気を理由に辞職した。司馬懿がクーデターを起こして実権を握ると従事中郎に任じられたが、ただ給料分の働きをするだけだった。歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になり、竹林の七賢の一人の劉伶と酒を飲んでいたといわれる。そのため阮歩兵と呼ばれることもあった。

当時の礼法では、喪中には酒や肉を断つ義務があったが、母の葬儀の日にも大酒を飲んで肉を食い、母の棺と別れた後、もうだめだと言って血を吐いて倒れた。何曾が司馬昭に対し、礼に反する阮籍を左遷するよう言上したが、司馬昭は阮籍がやせ衰えているのを見て不問に付した。司馬昭の幕僚となっていたが、いつも酔っぱらっていた。鍾会は彼を陥れようと、何回か時事問題を問いかけたが、いつも抽象的で難解な返事ばかりだったため、失言を得られなかった。司馬昭が息子(司馬炎)の嫁に、彼の娘をもらおうと使者を送ると、それを察したのか、彼は60日間酔っぱらい続けた。このため使者は用件を言い出せず、諦めて帰った。

また、あてもなく馬車を駆って遠出するのが好きで、行き止まりにあうと慟哭して帰った。

『晋書』によると、阮籍は世の人を救う志を持っていた。しかし当時、司馬氏による帝位簒奪が進む中、政争で命を落とす者が相次いでいた。竹林の七賢の一人で、阮籍と仲のよかった?康もまた、鍾会に陥れられ殺された。そのこともあって、阮籍は政争に関与せず、酒浸りの生活をする道を選んだという。司馬昭はそんな阮籍を「至慎(もっとも慎み深い)」と評した。

263年、蜀漢征伐の途上で司馬昭を晋公に封じる詔勅が下された。司馬昭が型の通り辞退したため、封爵を勧める勧進文が司空の鄭沖らにより提出された。この時、鄭沖は阮籍に勧進文の草稿を命じた。阮籍はそれに従い草稿を提出した[1]。阮籍はその年の冬に亡くなった。

老荘思想を理想とし、その著作の『大人先生伝』・『達荘論』に老荘思想が十分に見て取れる。詩では「詠懐詩」82首が有名で、陶淵明の「飲酒」・李白の「古風」など、五言詩の連作の先駆けである。深い思索に基づき格調高く、全編が人間社会の悲哀に満ちている。また、琴をよく弾いた。

白眼視
阮籍は、青眼と白眼を使い分けることができたという。礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては白眼で対応し、気に入った人物に対しては青眼で対応したという。阮籍が喪に服していた時、?喜は礼法に則り弔問した。すると阮籍が白眼視したので、?喜は怒って帰ってしまった。弟の?康がそれを聞き、酒と琴を持って阮籍の家を訪れると、阮籍は喜んで青眼で迎えたという。

転じて、気に入らない人物を冷遇することを、白眼視という。一方で彼は時事を評論せず、人の過ちを決して口にしない極めて慎重な人物であったという

左延年 さえんねん 不明 從軍行



左延年,三國時期魏國音樂家、詩人。活躍于?初年間(220〜226年)
中文名稱:左延年   職    業:音樂家、詩人  性    別:男
國    籍: 魏國
人物簡介
以能創新曲得寵,多改舊曲,後為協律中郎將。曹魏袁叡太和年間(227―232)將杜?所傳雅樂四曲中的《?虞》、《伐檀》、《文王》等三首,“更自作聲節,其名雖存,而聲實異。”在音樂方面的成就稍遜于杜?。今存詩三首。

鐘會 しょうかい 225-264 周易無互体論道論(論理学説)


司馬昭は鍾会とともに、蜀の国力が衰えたので制圧できると考え、蜀漢の地形を調査し状勢を検分していた。262年、鍾会は鎮西将軍・仮節・都督関中諸軍事に任命された。

263年、司馬昭の命でケ艾らと共に蜀征伐に出陣した。鍾会は胡烈らを先鋒とし関城(陽安関)を降した。鍾会は田章らに剣閣の西を通り江油へ出る道を取らせ、田章は江油の手前で蜀軍の伏兵三部隊を撃破した。その後、田章はケ艾の指揮下に入り、先鋒に命じられた。ケ艾が綿竹で諸葛瞻らを討ち取ると、劉禅はケ艾に降伏した。劉禅が降伏した後、鍾会は魏兵らに略奪を許さず、蜀の官僚達と友好的に接し、姜維と親交を深めた。鍾会は蜀漢征伐の功績により司徒に任じられ、爵位も県侯に昇進し、一万戸を加増された。

一方でこの蜀漢征伐時に、桟道が崩れたことを理由に許儀を処刑し、さらに諸葛緒が怯んで前進しないと密告し、諸葛緒の兵権を取り上げ配下の兵を自分のものにしている。また諸葛亮の墓の祭祀を行なわせている。

文学者として
鍾会は『易に互体なし』という論文や、才能と本性の同異についての論文を書いた。鍾会の死後に、鍾会の家から、鍾会が書いたと思われる『道論』と名づけられた20編の文章が見つかったが、内容は「道家」の説でなく「形名家(論理学派)」の説であった。

鍾会は王弼と仲が良く、王弼の論の高邁さに感服していた。鍾会は何晏とも交流があり、何晏の「聖人には喜怒哀楽の情が無い」という論を祖述した。ちなみに王弼は何晏の論を批判している。

『三国志』魏書三小帝紀の注に引く『晋書公賛』によれば、曹髦はいつも司馬望・王沈・裴秀・鍾会らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いていたとある。

魏・元帝 ぎ・げんてい ?-265享年257





曹 奐(そう かん)は、三国時代の魏の第5代皇帝。諡号は元帝。武帝曹操の孫にあたる。

生涯
燕王曹宇の末子として生まれる。甘露3年(258年)に常道郷公に封じられた。

甘露5年(260年)、先代皇帝の曹髦が司馬昭の専横に憤り、司馬昭を取り除こうとしたが、逆に殺害されてしまったため、その後継として即位した。実態は司馬昭の傀儡に過ぎなかった。

景元元年(260年)、司馬昭を相国にしようとしたが、司馬昭に固辞された。実父の曹宇が「臣」と称して上表したので、曹奐は直ちに詔勅を下し先例を調査した上で、特別待遇を認めた。

景元4年(263年)、ケ艾・鍾会が蜀漢を攻めてこれを滅ぼした(蜀漢の滅亡)。

咸熙元年(264年)、司馬昭を晋公から晋王とした。

咸熙2年(265年)8月、司馬昭が死去し司馬炎が晋王を継いだ。同年12月、20歳の曹奐は司馬炎に禅譲し、魏は5代45年で滅亡して晋に替わった。司馬懿の弟の司馬孚は退位した曹奐の手を取り、涙を流しつつ、今後も魏の臣下であると述べた。退位後は陳留王に封じられ、?に移り住んだ。

八王の乱の最中の太安元年(302年)に57歳で死去した。

現在の河北省に曹奐の墓が現存している。











ID 詩人名  / 事項 よみかな 作品名
51 曹丕・文帝(そうひ・ぶんてい) 187〜226
三国時代の魏(ぎ)の初代皇帝。在位220〜26。曹操の長子。字(あざな)は子桓(しかん)。諡号(しごう)、文帝。廟号は世祖。父を継いで魏王となり、後漢の献帝の禅譲によって帝位につき、洛陽を都と定め、国号を魏と号した。九品中正法を施行。詩文を好み、楽府にすぐれた。著「典論」など。 寡婦 ・典論
・画餅 ・燕歌行
・善哉行 
・王は驢鳴を好めり
52 曹植(そうしょく) [192〜232]
中国、三国時代の魏(ぎ)の詩人。字(あざな)は子建。曹操の第3子。陳王に封ぜられたので、陳思王とも呼ばれる。五言詩にすぐれた。そうち。建安体、七歩(しちほ)の才



七歩詩 ・怨詩行  ・野田黄雀行  ・贈白馬王彪  ・左顧右眄   七哀詩
53 繁欽(はんきん)  
 (?〜建安23年(218年)。字は休伯。潁川(許昌)の人。曹操の主簿となる。詩賦に優れる。繁欽は建安16年正月8日に曹丕に『與魏文帝箋』を送っている。
曹丕がそれを建安17年正月に手紙を受け取った後、『答繁欽書』と返事を書いている。
 愁思賦・弭愁賦  定情詩   答繁欽書
54 蔡えん(さいえん) 177年- 239年
 後漢末から魏初の詩人。字は文姫、または昭姫。陳留圉(現在の河南省杞県)出身。父は蔡?。才女のほまれ高く音律に通じ、また数奇な運命でも知られる。
 河東の衛仲道の妻となるが死別。195年(興平2年)、董卓の残党によって乱が起こると、実家に帰っていた蔡?は匈奴の騎馬兵に拉致され、ついには南匈奴の左賢王劉豹に側室として留め置かれることになった。そこで左賢王との間に二子をもうけた。12年後の207年、蔡?の後継者が居ないことを惜しんだ曹操が、身代金として財宝を支払うことによって帰国した(その際、子供を匈奴に残している)。その後、同郷出身の董祀に嫁いだ。また、失われた父の蔵書のうち蔡?の暗記していたものを復元した。陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓があり、付近には記念館が建っている。
 現存する詩として、自らの波乱の人生をつづった『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の二首が伝わっているが、『胡笳十八拍』については後世の産物だという説もある。
蔡?の人生を題材にした作品に、北京の頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』、郭沫若の戯曲などがある。
悲憤詩
胡笳十八拍
55 繆襲(きょうしゅう) 186年〜245年
字は熙伯。漢魏の文学者。186年(中平三年)〜245年(正始六年)。東海の人。才学があり、著述がある。※挽歌詩:死者の柩(ひつぎ)を挽(ひ)いてゆくときの歌。死者の立場で歌う。
 
230頃 竹林の七賢  3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した
1)阮籍(げんせき) 2)けい康(けいこう) 山濤(さんとう) 4)劉伶(りゅうれい) 5)阮咸(げんかん) 6)向秀(しょうしゅう) 7)王戎(おうじゅう)
56 応きょ(おうきょ)
190〜252
  字は休l。汝南郡南頓の人。楊の弟にあたる。散騎常侍・侍中を経て、大将軍・曹爽の長史となった。時政を諷刺した「百一詩」は世上の評判を取った。嘉平二年(250)、再び侍中となった。  
61 1)阮籍(げんせき) 210〜263
三国時代の魏の思想家・文人。陳留(河南省)の人。字(あざな)は嗣宗。竹林の七賢の一人。酒を好み、礼法を無視し、俗人を白眼視した故事で有名。老荘の学を好み、「達荘論」「大人先生伝」を著した。 詠懷詩  
白眼視
62 2)けい康(けいこう) (223〜262)
字は叔夜。?郡の人。?昭の子。河内郡山陽に住んだ。竹林に入り、清談にふけった。あるとき訪ねてきた鍾会に挨拶せず、まともに相手をしなかったので恨まれた。官は中散大夫に上った。呂安の罪に連座して、刑死した。竹林七賢のひとり。『養生論』、『釈仏論』、『声無哀楽論』。  幽憤詩・贈秀才入軍五首・呉謡 ・呂安題鳳
63 3)山濤(さんとう) (205〜283)
字は巨源。河内郡懐県の人。山曜の子。幼くして孤児となり、貧乏であった。老荘を好み、阮籍・?康らと交わった。四十を過ぎてはじめて官界に入り、始辟郡主簿に任ぜられた。曹爽と司馬氏の争いが起こると難を避けて身を隠した。のち司馬師のもとに出仕した。晋に入ると、新沓伯に封ぜられ、吏部尚書・太子少傅・冀州刺史を歴任した。尚書右僕射・侍中に上った。竹林七賢のひとり。『山濤集』。  『山濤集』
64 4)劉伶(りゅうれい) (211〜300)
  またの名は霊。字は伯倫。沛国の人。晋の建威参軍となったが、飲酒癖が激しく、放言を好んだ。阮籍・?康らと交わった。竹林七賢のひとり。「酒徳頌」。  酒徳頌 ・劉伶
戒酒  ・屋室を
[巾軍]衣と為す
65 5)阮咸(げんかん) (210〜263)
字は嗣宗。陳留郡尉氏の人。阮?の子。はじめ蒋済が招いて、尚書郎となり、曹爽の下で参軍となったが、病気を理由に郷里に帰った。次いで司馬懿が招いて従事中郎に取り立てた。酒を飲む便宜のために、求めて歩兵校尉に移った。読書・山行に親しみ、形式的な礼法に反対した。方外の人には青眼をもって、俗人に対しては白眼をもって接したという。司馬昭がかばい続けたので寿命を全うした。竹林七賢のひとり。「詠懐詩」などの詩も残した。『阮歩兵集』。 詠懐詩
66 6) 向秀(しょうしゅう) (227〜272)
字は子期。河内郡懐県の人。老荘を好み、自然と名教の統一を、儒道合一を主張した。『荘子』の注をなした。?康・呂安と交友した。?康・呂安が殺されると、迫られて洛陽に入った。官は黄門侍郎・散騎常侍にいたった。のちに「思旧賦」を作って?康・呂安を悼んだ。竹林七賢のひとり。  思旧賦
67 7)王戎(おうじゅう) 234〜305
字は濬冲。琅邪郡臨沂の人。王渾の子。王衍の従兄にあたる。相国掾から豫州刺史に累進した。征呉戦に参加し、投降者の招撫にあたった。呉が平定されると、安豊県侯に封ぜられた。尚書左僕射に上り、吏部を宰領した。司徒にまで上った。顕官にありながら談論にふけり、晋朝の危機にありながら政務に関心を持たなかった。性至孝、蓄財を楽しみ、倹嗇であったという。竹林七賢のひとり。 此必苦李









司馬氏の台頭
呉軍を撃退し諸葛亮の北伐を防いだ魏の司馬懿は、その軍功と権力から
周囲に警戒されるようになる。この時期に遼東には公孫氏勢力が独立して
いたが、呉と結んで魏に対抗するようなそぶりを見せたために魏の中央は司
馬懿に対して討伐を命じ、238年、これを滅ぼした。その翌年の239年、倭
の卑弥呼の特使が魏に訪れた(魏志倭人伝)。また、魏は遼東を完全に支
配下に置くことで東の高句麗と国境を接するようになり、のちの244年には武
将・?丘倹が高句麗首都を陥落させている。

239年、曹叡は早世し、養子の曹芳が魏の皇帝となった。曹叡は死去する
に際して司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託したが、後に司馬懿は曹
爽とその取り巻きに権力を奪われ、閑職へと追いやられた。これに対して司
馬懿は249年に息子の司馬師らと共にクーデターを起こして曹爽一派を殺
害し、権力を掌握した(高平陵の変)。完全に魏を牛耳った司馬懿だが、旧
主の曹操に倣って帝位の簒奪は行わないまま251年に死去した。

その後の権力は司馬師に受け継がれ、司馬師が死ぬと司馬昭に受け継が
れる。この間、255年の?丘倹の乱(?丘倹・文欽の乱)や257年の諸葛誕の
反乱(諸葛誕の乱)などの司馬氏支配の魏中央政府への反乱が何度か
起きるが、司馬氏に対する有効な打撃力とはなり得ず、鎮圧されていった。
諸葛誕の反乱は、魏軍26万と諸葛誕・呉軍20万が1年にわたり激突した大
戦であった。

呉では、孫権が皇太子の孫和と孫和の弟の孫覇の両人をほぼ同等に処遇
したため、立太子を期待する孫覇派と廃太子を防ごうとする孫和派の対立
を招いた。孫権が決断を欠いたため、対立は泥沼化し、吾粲が処刑され、
陸遜が憤死するなど、国力を衰退させた。この問題は、250年、孫和が廃
太子され、七男の孫亮を皇太子に立てることで決着した。孫覇は自害を命
じられ、多くの孫和派と孫覇派の人物が誅殺されたり、追放された(二宮事
件)。

252年に孫権は死去し、孫亮が10歳で皇帝となると、太傅・大将軍の諸葛
恪が呉の政権を握った。諸葛恪は252年に孫権の死後を狙って侵攻してき
た魏の胡遵・諸葛誕に大勝して声望を得るが、翌年の魏への侵攻は失敗
に終わり、疫病で多くの兵士が亡くなった。これで落ちた声望を回復するため
に国内の豪族勢力を押さえ込んで中央集権を志すが、これに不満を持った
皇族の孫峻によるクーデターが起き、諸葛恪は殺され、孫峻が丞相となり呉
の政権を握った。

孫峻は自分の権勢のためだけに独裁政治を行った。256年に孫峻が病死す
ると、孫峻の従弟の孫?が権力を握り、孫峻同様の独裁政治を行った。257
年、魏で諸葛誕の反乱が起きると、諸葛誕と手を結んで魏を攻めるが、失
敗に終わった。孫?の影響力が低下したことを見た孫亮は孫?の排除を図る
が、逆に孫?により廃位され、孫権の六男の孫休が代わりに擁立され皇帝と
なった。孫休は孫?がクーデターを計画していると聞くと、張布・丁奉らと対策
を練り、孫?を捕らえ、処刑した。

蜀漢では、255年に姜維が魏を攻めて魏の雍州刺史の王経に大勝したが、
256年の段谷の戦いで大敗し、蜀漢の国力を疲弊させた。258年以降、蜀
漢では宦官の黄皓が政治を乱し、皇帝の劉禅は遊び呆けていた。蜀漢を
滅ぼす機会と見た司馬昭は鍾会・ケ艾ら20万の軍勢を派遣して、263年に
成都を開城させ蜀を滅ぼした(蜀漢の滅亡)。

264年、鍾会が姜維と共に益州で独立しようと反乱を起こしたが、失敗し、
混乱の中で鍾会・ケ艾ら魏将や姜維ら蜀将が討たれた。この混乱に乗じて
呉の歩協・陸抗らが羅憲が守る永安城を攻めたが、羅憲は永安城を堅守
し、魏の胡烈が羅憲の援軍に派遣されると、呉軍は撤退した。

蜀の滅亡後に魏に降伏した霍弋は南中都督に任じられ、呉の交州の交阯
郡・九真郡・日南郡を制圧した。


西晋による中国統一
司馬昭は265年に死去し、息子の司馬炎(武帝)が後を継ぐ。司馬炎は魏の曹奐からの禅譲を受けて、魏が滅び、西晋が建国された。その後、司馬炎はしばらくは内部を固めることに時間をかけた。

264年、呉の皇帝の孫休が病死し、孫晧が皇帝に即位したが、暴政を行い、呉の政治は乱れた。

270年、鮮卑の禿髪樹機能らが西晋に反乱を起こし、西晋の秦州刺史・胡烈や涼州刺史・牽弘を討ち取った。禿髪樹機能の反乱は羌族ら他の民族も参加する大規模なものだったが、277年、西晋の司馬駿・文鴦が禿髪樹機能を降伏させた。279年、禿髪樹機能は再び西晋に反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の馬隆に滅ぼされた。

271年、呉の虞・陶?らは交州の西晋軍を破り、交阯郡・九真郡・日南郡を制圧した。

272年、歩闡が呉に背き、西晋に寝返ったが、呉の陸抗がこの反乱を鎮圧した(西陵の戦い)。

279年、西晋の司馬炎は呉に出兵し、280年に呉を滅ぼし、ついに中国統一を実現した。ここをもって三国時代は終わった。

統一後の武帝はまったく堕落し、女色に耽って政治を省みず、上級官僚の間では現実の政治を無視した清談が流行した。さらに武帝は、地方分権を図り一族を地方の王として任命し、大きな権力を与えたため、死後には後継者恵帝が無能なために后一族らと司馬一族による権力争い(八王の乱)が起こった。この乱で国力を消耗した晋は劉淵による漢(前趙)の建国とその侵攻によって晋は統一から30年で崩壊し(永嘉の乱)、再び中国は分裂状態に逆戻りすることとなった。



(晉、しん、265年 -420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建業。宋により滅ぼされた。

 西暦301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌、)であったことからこの名がある。


265〜420
西晋 265年 - 316年
東晋 316〜420
五胡十六国
 一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。




 西晋 265年 - 316年  





























































































































































  晉 : 266〜316
120 裴秀はいしゅう224-271禹貢地域圖     
121          
121 韋昭いしょう ? -273國語注     
122 傳玄ふげん217-278和班氏詩一首     
123 皇甫諡こうほじ215-282帝王世紀     
124 山濤さんとう205-283『山濤集』  〔七賢〕  
125          
126 杜預とよ222-284破竹の勢い     
127 陸壽りくじゅ不明三国志を完成させる。    
128 李密りみつ224-287陳情表     
129 荀メじゅんそう ? -294      
130 劉怜りゅうれい211-300酒徳頌戒酒[巾軍]衣と為す〔七賢〕  
131 張華ちょうか247-300博物志     
132 潘岳はんがく247-300西征賦愁興賦    
133 束ルそくせき262-300補亡詩六首     
134          
135 張翰(張季鷹)ちょうかn生没年不詳雜詩     
136 策靖さくせい239年 - 303年索子草書状出師頌月儀帖  
137 陸機りくき261-303豪士賦歎逝賦    
138 陸雲りくうん262-303西征賦登臺賦    
139 王戎おうじゅう234-305三都賦此必苦李 〔七賢〕  
140 阮咸げんかん不詳 (210〜263)詠懐詩  〔七賢〕  
141 向秀こうしゅう不詳 (227〜272)思旧賦難?叔夜養生論 〔七賢〕  
142 張協ちょうきょう ? - 307現存僅13首。詠史詩1首遊仙詩1首雜詩11首
143 左思さし250-305詠懐詩招隠詩嬌女詩三都賦齊都賦 
144 張載ちょうさい280〜289活躍贈司隸傅鹹詩劍閣銘瓜賦   
145 左貴嬪さきひん(?〜300)花瓶  左思の妹(左芬)  
146 孫楚そんそ不詳 - 293年寄暢散懐    
147 司馬懿しばい ? -306讌飲詩     
148 王衍おうえん256-311      
149 潘尼はんに ? -311      
150 郭象かくしょう ? -311老子注     

六朝期の詩人六朝期の詩人
五胡十
六国 
301頃〜
439




南北朝
420〜
589

東晋 317〜
420
元帝 王羲之 陶淵明(陶潜) 僧肇 傳玄 石宗
420〜
479
謝霊運 顔 延之 謝恵連 謝宣遠 劉鑠

永明体
北魏 386〜
535
鮑照 鮑令渾 江淹 范嘩 



420〜
479
謝兆 任 ム 沈約 王融
斛律金 鍾エ 江淹 竟陵王蕭子良 范雲

502〜557 蕭衍・梁武帝 梁の簡文帝 范雲 何遜 王籍
王褒 徐 陵 萸信 陸垂 蕭チン


557〜589 陳後主 陰鏗





581〜
618
楊 素  薛道衡 観徳王・楊雄








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