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    女性詩人一覧

女性詩人 一覧



時  代
 女性詩人名
生歿年



戦国


時代

韓憑の妻何氏  



 



 


杞梁の妻

杞梁の妻となった孟姜女のこと。
孟姜女

民間説話中の人物。秦の始皇帝時代の女
性の名。
虞美人 ? - 前202年
秦末から楚漢戦争期にかけての女性。
貧女(秦韜玉)




 





 




 


漢 代 唐山夫人
安世房中歌十七首

卓文君



細 君



班捷l




徐淑



後 漢 蔡文姫



甄皇后



丁イの妻



六 朝 羅 敷



木 蘭



劉令コン



胡太后



馮小憐



桃葉



蘇小小



衛敬喩の妻王氏



千金公主



侯夫人



呉絳仙



徐賢妃



上官婉兒



楊貴妃



江采蘋



宋若憲



武則天



紅葉と絋衣



 @韓氏と顧況



 A于祐と韓翠蘋



 B絋衣の故事



李 冶



  陸羽



  咬然



魚玄機



  温璋



  森鴎外の魚玄機



南海の女子



晁 采



蒋 蘊



薛 媛



陳玉蘭



張揆の妻侯氏



裴羽仙



歩非烟



劉 雲



張 餤



薛 濤



劉采春



關 胖胖



太原の妓



韋應物の女



灼 灼



徐月英



杜秋娘



五代・後
蜀・前蜀
花蘂夫人




黄崇カ



宋 代 李清照




朱淑眞




嚴 蕊



管道昇




 



















秦末




? - 紀元前1










































































 
  戚夫人 
漢  ? - 紀元前194年?)は、秦末から前漢初期の人物。高祖劉邦の側室で、劉如意の生母。一説によると名は懿。上体を後ろに大きく反らす楚舞を得意とし、劉邦とは遠征中に碁を打ったともいわれる。定陶(現在の山東省?沢市定陶区)の人で、紀元前208年頃、楚漢戦争中に劉邦に見初められ、その寵愛を一身に受け、劉如意を生む。その影響で、代王、次いで趙王に封建された息子・如意も有力な皇太子候補と目されるようになる。さらに彼女は、劉邦(高祖)が親征を行うたびにこれにしたがい、如意を皇太子に立てるようにたびたび懇望した。

寵愛する戚夫人の懇望に加えて、皇太子に立てていた劉盈に対して父である劉邦自身がその資質にかねてから疑問と不安を抱いていたこと、さらに仁弱な盈とは対照的に如意が活発な子供であったことから、劉邦も徐々に盈を廃嫡して如意を立てることを考え始める。

しかし、劉邦が皇太子の交代を重臣たちに諮ったものの、重臣たちはことごとく反対した。さらに、劉邦の信任が厚い張良の助言を受けた盈が、かつて高祖が招聘に失敗した有名な学者たち(商山四皓)を自らの元に招いたことが決定打となり、劉邦は盈を皇太子にとどめることを決め、如意は趙王のままとされた。

このことから、戚夫人母子は盈の生母である呂雉に憎まれることとなり、紀元前195年に劉邦が死去して盈(恵帝)が即位すると、皇太后となった呂雉による報復が始まる。

  趙飛燕 …………………………  198
  竇玄の妻 ………………………  200
  王肅の妻謝氏 …………………  201
  宜芬公主 ………………………  203
  崔 氏 …………………………  206
  郭紹蘭 …………………………  207
  王霞卿 …………………………  208
玉 簫 …………………………  209
顔初元 …………………………  212
周仲美 …………………………  213
梁意娘 …………………………  215
宣和の女子 ……………………  218
唐 氏 …………………………  220
賈雲華 …………………………  224
王 氏 …………………………  226
楚 娘 …………………………  228








1 楊容華

 彼女は初唐の文壇四傑(王勃、廬照鄰、駱賓王、楊烱)の一人であった楊烱の姪であり、幼い時から詩文をよくした。ある時、楊烱は友人に容華が作った「鏡に向って朝の化粧をする」と題する詩を吟じたところ、その友から激賞された。ついで、楊烱は自分の詩数十首を吟じたところ、友は最初の詩に及ばないといったので、楊烱は冷や汗をかいた。この聡明な才女は女性たちのため大いに気を吐いたのであるが、残念なことに現在まで伝わっているのは僅かに次の一首だけである。
この「新妝詩」と題する詩は、当時の人々が争って伝誦したといわれる。
新汝詩    
啼鳥驚眠罷,房?乘曉開。鳳釵金作縷,鸞鏡玉為台。
妝似臨池出,人疑向月來。自憐終不見,欲去復裴回
啼く鳥に驚きて眠ること罷み、房?は曉に乗じて開く。
鳳の釵は 金もて縷と作し、鸞の鏡は 玉もて台を為る。
汝は池(仙界にある瑶池)に臨んで出づるが似く、人は月に向かって来るかと疑う。
自ら憐れむ 終に見えざるを、去らんと欲して復た裴回(徘徊)す。

2牛應貞

 父は牛粛(開元年間(713-741)の岳州剌史)、官僚の家の出身である。幼い時から驚くほど聡明であり、聴いたことはすぐ覚えた。披女は「賦」と「頌」という二つの文体がたいへん得意で、著書に『遺芳集』がある。彼女の「魍魎 影に問う賦」はたいへん有名である。彼女の死後、宋若昭が『牛応貞伝』を書いた。
才女牛応貞は博識多才で、十三歳でもう儒教経典、諸子百家、歴史書など数百巻、仏教経典二百巻を朗読できた。彼女は、「学問は、六芸(詩・書・礼・楽・易・春秋の六つの経書)全般にわたり、文章は諸子百家を兼ね、道家の秘言を?い、釈部(仏教)の幽旨を采る」といわれ、儒仏道の三教に通じないところは無かった。彼女はまた夢の中で古代の哲学者の王弼、鄭玄、王衍らと名理(名と本質)を論じ、文章について語り合った。彼女の有名な著作「魍魎 影に問う賦」は、文学作品であると同時に哲学書でもあった。この作品は『荘子』の魍魎(霊魂)が影を責める話に基づいて、霊魂と影の問答に仮託して深遠な哲理を追究したものであり、女性が哲学を論じた、じつに稀な著作である(宋若昭『牛応貞伝』)。


3. 関図の妹

関図の妹は惜しいことに名も作品も伝わっていないが、一説によると彼女の文学、書簡は人の心を強くうったという。関図はかつて同僚に慨嘆して「わが家には一人の進士がいるが、残念なことには自分の髪に櫛も入れない女であることだ」といった(尉遅枢『南楚新聞』)。これによっても彼女がたいへんな才女であったことは疑いない。

4. 武則天の時、七歳でよく詩をつくる少女

武則天は特に宮廷に招いて、披女に「兄弟を送別する」詩を作るよう命じた。するとすぐに、次の詩を作った。
送兄詩
別路雲初起,離亭葉正飛。
所嗟人雁異,不作一行歸。
別路 雲 初めて起こり、離亭 葉 正に飛ぶ。
嗟く所 人は雁と異なり、一たび行きて帰るを作さず。(七歳女子「兄を送る」)

5. 晁采

 大暦年間の人といわれる。美しくて聡明、もの静かで文章も非常に上手であり、終日詩を吟詠していた。彼女は隣に住む書生文茂と愛しあい、常に詩をやりとりして愛情を伝えあった。彼女は、美しい言葉が珠玉のように連なり、節回しが人の心を打った、十八首の「子夜歌」を世に残した。たとえば、その十八首の一首に次のという恋歌がある。ものがある。
夜歌十八首之二
夜夜不成寐,?枕啼終夕;
郎不信儂時,但看枕上迹。
夜夜 寐ることを成さざる,?枕して 終夕 啼く;
郎が儂を信じざる時なれば,但看よ 枕上の迹を。
夜ごと眠れないのは、もちろん恋するあなたを思っているからで。起きる気にもなれないので終日枕を涙で濡らしている。もちろん恋するあなたが傍にいない事が、約億の日が過ぎても帰ってこないことで、あなたのことが信じられなくなっているときだから、不安で仕方なく、思い出しては涙を流すのです、だから、見てほしい、この涙の跡がしっかり残っているこの枕を。
子夜歌十八首之十八
儂贈緑絹衣,郎遺玉鉤子;
郎欲系?心,依思著郎体。
儂は緑の絹衣を贈り、郎は玉の鉤子(玉の飾り物)を遺る。
即ち(郎は?)われの心を繋がんと欲し、儂は郎の体に著かんと思う。

6. 范陽の盧氏の母王氏

 八百十二字の天宝回文詩を作った。文字と文字がめくるめくようにからみ合い、韻はよく調和し典雅であった。この詩は玄宗の時代、東平太守によって朝廷に献上されたものである(『全唐文』巻三五七、高適「東平の薛太守の為めに王氏の瑞詩を進むる表」)。

 唐代の文士の妻は、その多くが家庭における夫の詩文の友であり、常に夫唱婦随の楽しみをもっていた。7.大詩人元槇の先妻韋氏、8.後妻となった裴氏は共に才女であり、夫と詩詞のやりとりをしていた。「大暦の十才千」の一人であった9.吉中孚の妻張氏も閨門の才女であった。
また夫に代って詩文をつくる女性もいた。たとえば、10.進士孟昌期の妻孫氏は常に夫に代って詩の唱酬をしていた。11.進士殷保晦の妻はいつも夫に代って文書を書いた。この二人の夫人は「賢内助」(内助の功)と称するに足る人物であった。
 才女、才婦たちは、詩文や賦頌を作ることで自分の哀しみや苦しみを解消したり、また自分の気持を慰めたりしただけではない。常に聡明さと才知を用いて詩文を作っては自分の愛情や憎悪を表現し、胸にたまった不平をはきだし、甚だしくは自分の運命にさえ抗ったのである。文学や詩詞はこれらか弱き女性が于にした一つの武器となった。