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5-2 河南県令
第五章 中央朝廷へ復帰5-2河南県令 元和四(809)年〜元和五(810)年《42〜43歳》 ………… 121
5-2 河南県令
元和四年(809)、愈は四十二歳。六月、都官員外郎に転じ、やはり東都の勤務を命ぜられた。これは刑部に属する職で、家財没収の判決を受けた罪人があった場合、その執行を担当し、没収したものを(罪人の家族も、没収して奴隷とすることがある)管理する。
そしてまた、祠部の事務をとることも命ぜられた。祠部は礼部に属し、祭祀・易占および宗教を管理する職である。ところが、ここで問題が起った。仏教の寺院および道教の道観を監督・管理するのも祠部の職掌の一つなのだが、現実にはその事務を宦官が担当していたのである。当時の宦官は皇帝の側近に奉仕する地位を利用して政治に介入しており、場合によっては宰相以上の権力を持っていた。それが寺院や道観を自分たちの支配下においたのは、僧侶や道士と結託することによって、いろいろと役得があったためらしい。これには祠部の役人たちも手がつけられずにいたのだか、愈は例によって勇敢に、というよりも向う見ずに、正面から祠部の職権をふりかざし、宦官を一切の寺院および道観からしめ出す処置をとった。
虎の愕にさわるようなものであった。むろん宦官たちが黙っているはすはなく、手をつくして愈の過失を探し出し、失脚させようとする。愈はたまりかねて、この問題を都宮の同僚と合議の上で最終的に決定したいと願い出た。制度上、意の処置は正しかったわけで、彼一人が憎まれるのは損だと考えたのであろう。しかし、その合議に参加し、愈の捲添えを食って宦官からにらまれようと思う者が、あるはすはない。愈はどこまでも孤立無援であった。
洛陽で最高の官職は、皇帝の代理として東都を統括する東都留守であった。この時、東都留守をつとめていた鄭余慶は、愈がかつて四門博士であった時期にも、やはりその直属上官である国子祭洒をつとめた人物である。昔のよしみに希望をかけ、愈はこの人に手紙を送った《昌黎先生集/卷15-9上鄭尚書相公?》。それには、自分は毎日宦官を敵にまわしており、相手は自分に何か彰はないかと狙って「悪言晋辞、公牒に狼茸たり」といったありさまだと述べ、自分の立場を察してほしいと訴えてあった。
しかし、鄭余慶も宦宮を敵にまわしてまで、愈をかばってやろうとはしなかったらしい。翌元和五年(810)、四十三歳になった愈は、河南県令に転任を命ぜられた。当時の洛陽は、地方行政の上では河南県と洛陽県の二県から成り、それぞれを県令が支配した。二県をあわせた行政単位が河南府であり、その長官を河南府尹という。さらにその上に、東都留守がいるわけである。
愈が河南県今に転勤させられたのは、左遷ではない。身分上は、この方が都官員外郎よりも格が上なのである。ただ、洛陽動務とはいえ朝廷の役人だった者が、地方官に転出させられたことになる。どうやら宦官の顔も立てながら、べつに処分すべき罪状もない愈に対しても不満を持たせないような、微温的な処置の感じがする。
しかし愈は、行くさきざきで問題を起す男であった。当時、河北・河南一帯の節度使はみな河南県に屋敷を持っていたが、そこで勝乎に家来を召し抱えるのを慣例とした。節度使は自分の部下に限って人事権を持っており、そのおかげで愈も幕僚の職にありついたのだから、これに文句が言えた義理ではない。ただ、幕府の構成員ならばともかく、私宅の家臣まで自由に採用されると、その中にお尋ね者などが含まれることもある。つまり節度使の屋敷内は一種の治外法権になって、県令はもとより、朝廷でも手が出せない。
河南県令になった愈は、それに手を出そうとした。節度使の家臣でも、法にそむいた者は摘発する方針をとったのである。これも県令の職権に属することだから、制度上はさしつかえがない。しかし、驚いたのは河南府尹や東都留守である。節度使を怒らせたら、武力を持つ相手だけに、何をされるかわからない。事件が発生すれば、責任は県令だけでなく、その上司にも波及する。そこで彼らは、愈に摘発の中止を命じた。
しかし、河南府からの使者がこの事件を長安の朝廷に報告したとき、憲宗は「韓愈は我を助くる者なり」と言って喜んだと伝えられる。外では節度使、内では宦官が実権を握っているのに対して、皇帝を頂点とする朝廷の官僚組織を正しく機能させ、唐帝室の権威を取りもどしたいのが、憲宗の悲願であった。そして儒家の道を守る愈も、同じ思いを抱いている。君臣の心はこの点で通じあったわけだが、もちろんそれだけで、節度使の実権が弱められるものではなかった。
節度使の部下たちの軍紀は、相当に乱れていたらしい。後に述べる鄭余慶あての手紙の中で、愈はこの実情を報告し、「坊市に坐して餅を売り、又軍人と称す」る者もあると言っている。町の市場に露店を出している餅屋が、軍人だと自称しているというのである。商人が節度使の募僚につけ届けでもして、名前だけ軍籍に入れてもらえば、軍人と称することも可能であるし、あるいはほんものの軍人がアルバイトに餅を売ったのかもしれない。軍籍に名があれば軍隊の管理と保護を受けるので、県令の取締りからはのがれることができたのである。
愈は、またしても向う見ずに、この餅星を逮捕した。もちろん軍隊からは抗議が来る。披はまた東都留守鄭余慶に手紙を送り、自分の立場を弁明した《昌黎先生集/卷15-9上鄭尚書相公?》余慶はその時にはもう、たびたび問題を起すこの部下を、手におえぬ男と見放していたようである。それが愈にも推測できたらしく、披は手紙の終りを、次のように結んだ。
自分は当世風の働きをする才能のない男で、役人生活がだんだんと楽しくなくなってきた。一つでも名の残る仕事ができたら、辞職して引きこもりたい。官職から去ることに、何の未練もありはしない。ただ、あなたが自分のことを少しでも思ってくださるとすれば、自分勝乎な行動は慎むベきであろう。「官を去るも官を守るも、惟今日の指揮のみ」。
このまま勤務するのも辞職も、お指図のままにいたしますというのである。官職を賭した悲壮な決意のようにも見えるが、彼としては、どこへ行っても障害だらけの役人生活に、またしても見切りをつけたい気分になっていたのかもしれない。
しかし、免職にはならなかったばかりか、彼は職方員外郎に転任を命ぜられ、朝廷の役人に返り咲くこととなった。しかも、今度は長安の勤務である。職方は兵部に所属し、国土防衛のための地図を作製したり、要塞を設置・管理したりすることを担当する。意が適任であったかどうかはわからないが、宦官や節度使の勢力を恐れぬ勇敢な男を憲宗が頼もしく思ったところから、長安へ呼びもどす処置がとられたのではないかと思われる。
上鄭尚書相公?
愈?:伏蒙仁恩,猥賜示問,感戴戰悚,若無所容措。
然尚有厥誠,須盡露於左右者,敢避其煩黷,懷不滿
之意於受恩之地哉!愈幸甚,三得為屬吏,朝夕不離
門下,出入五年。竊自計較,受與報不宜在門下諸從
事後,故事有當言,未?敢不言,有不便於己,輒吐
私情,閣下所宜憐也。分司郎官職事,惟祠部為煩且
重。愈獨判二年,日與宦者為敵,相伺候罪過,惡言
詈辭,狼藉公牒,不敢為恥,實慮陷禍。故前者懷?,
乞與諸郎官更判,意雖甚專,事似率爾,言語精神,
不能自明,不蒙察允,遽以慚歸,?俛日日,遂逾累
旬,私圖其宜,敢以病告。?鳩平均,歌於《國風》;
從事獨賢,《雅》以怨刺。伏惟俯加憐察。幸甚,幸
甚!愈再拜。
上留守鄭相公?
愈?:愈為相公官屬五年,辱知辱愛。伏念曾無絲毫
事為報答效,日夜思慮謀畫,以為事大君子當以道,
不宜?且求容ス。故於事未嘗敢疑惑,宜行則行,宜
止則止。受容受察,不復進謝,自以為如此真得事大
君子之道。今雖蒙沙汰為縣,固猶在相公治下,未同
去離門墻為故吏,為形跡嫌疑,改前所為,以自疏外
於大君子,固當不待煩?於左右而後察也。
人有告人辱罵其妹與妻,為其長者得不追而問之乎?
追而不至,為其長者得不怒而杖之乎?坐軍營,操兵
守禦,為留守,出入前後驅從者,此真為軍人矣;坐
坊市賣餅,又稱軍人,則誰非軍人也!愚以為此必奸
人以錢財賂將吏,盜相公文牒,竊註名姓於軍籍中,
以陵駕府縣。此固相公所欲去,奉法吏所當嫉,雖捕
系杖之,未過也。
昨聞相公追捕所告受辱罵者,愚以為大君子為政,當
有權變。始似小異,要歸於正耳。軍吏紛紛入見告屈,
為其長者,安得不小致為之之意乎?未敢以此仰疑大
君子。及見諸從事?,則與小人所望信者少似乖?;
雖然,豈敢生疑於萬一?必諸從事與諸將吏未能去朋
黨心,蓋覆??,不以真情?白露左右。小人受私恩
良久,安敢閉蓄以為私恨,不一二陳道!伏惟相公憐
察,幸甚,幸甚!
愈無適時才用,漸不喜為吏,得一事為名,可自罷去,
不啻如棄涕唾,無一分顧藉心。顧失大君子纖芥意,
如丘山重。守官去官,惟今日指揮。愈惶懼再拜。
(809)
1.和虞部盧四【案:汀。】酬翰林錢七【案:徽。】赤藤杖歌【案:元和四年分司東都作。】
2.送侯參謀赴河中幕【案:侯繼時從王諤辟。】
3.送李?【案:?娶愈兄?之女,與愈善,楊於陵為廣州刺史,表?佐其府。】
(810)
1.新竹
2.?菊
3.東都遇春
4.感春,五首之一【案:分司東都作。】
5.感春,五首之二【案:分司東都作。】
6.感春,五首之三【案:分司東都作。】
7.感春,五首之四【案:分司東都作。】
8.感春,五首之五【案:分司東都作。】
9.燕河南府秀才得生字
10.送石洪處士赴河陽幕得起字【案:洪字濬川,洛陽人。元和五年,烏重裔為河陽節度使,辟為參謀。】
11.送湖南李正字歸【送李礎判官歸湖南】
12.招楊之罘【案:之罘,憲宗元和十一年進士,愈為河南令,之罘自中山來,相從問學,惜其歸,以詩招之。】
13.月蝕詩效玉川子作【月蝕詩刪玉川子作】【案:憲宗元和五年,時為河南令。】
14.學諸進士作精衛銜石填海
15.送鄭十校理得洛字【案:鄭餘慶子瀚,本名涵,以文宗邸時名同,改名瀚。貞元十年進士,長安尉、集賢校理,愈以元和四年六月為都官員外郎、分司東都,涵求告來寧,愈於其行,作詩井序以送之。】【案:從《文集》?入。】
16.同竇【案:牟。】韋【案:執中。】尋劉尊師不遇【案:以同尋師三字為韻,愈分得尋字。】【案:見《外集》。】【案:見《遺集》。】
17.送石処士序
18.送温処士序
19.河府南同官記
20.上鄭尚書相公?
21.上留守鄭相公?
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