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1. 紀元前
元謀
  藍田 北京原人 
神話伝説

 
黄河
  長江文明 三堆  長江下流域    北方草原

夏   前2205〜前1766  (三皇五帝) 


夏(か、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃)は、史書に記された中国最古の王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には、初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続き殷に滅ぼされたと記録されている。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘によりその資料の量的変化を待って実在したことが明らかになる。

夏王朝の始祖となる禹は、五帝の一人??の孫である。帝堯の時代に、禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められた[要出典]。2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという。
舜は人望の高かった禹を後継者と考えていた。舜の崩御後3年の喪に服した禹は、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかった為に禹が帝位に即位し、陽城(現在の登封市)に都城を定めた。禹は姓は?(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。
禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。 『竹書紀年』に依れば、45年間帝であったという。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴い益による朝政の補佐が行われた。

殷   前1020〜前770


殷代(いんだい、?音: Y?n dai)とも。紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、古代中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして建立したとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、?音: Sh?ng)、商朝、殷商とも呼ばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)

西周  前1020〜前770
周(しゅう、?音: Zh?u、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。
東周 前770〜(前221)

春秋 前770〜(前403)



戦国 前403〜前221


   周の平王は西方の犬戎に追われ、前七七〇年、洛邑に遷都した。以後を東周ともいう。東周は、春秋時代と戦国時代に分けられる。
 春秋時代は下剋上の時代で、周の封建制が崩れ、斉の桓公・宋の襄公・晋の文公・秦の穆公・楚の荘王ら(春秋の五覇)が興亡を繰り返した。魯では孔子が生まれ、中国思想家の祖となった。この時代の戦乱に由来する故事は多く、斉の宰相管仲の「管鮑の交はり」、越王勾践と呉王夫差の「臥薪嘗胆」「会稽の恥」などが有名である。
 前四〇三年、晋が韓・魏・趙に分立し、戦国時代となった。戦国の七雄(秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙)の抗争の時代で、蘇秦は合従策で秦に対抗する六国同盟を結ばせるが、秦に仕える張儀の連衡策で同盟を破られた。「鶏鳴狗盗」の孟嘗君、「完璧」や「刎頸の交はり」の廉頗・藺相如もこの時代の人である。また、この時代は諸子百家の活躍の時代でもあった。
戦国時代は前三二一年、秦の始皇帝の天下統一によって終わった。

秦  前221〜前206


始皇帝は郡県制を採用し、度量衡などの制度・文物を統一、中央集権国家を建設した。また法
家の思想を重んじて儒家を弾圧し、宰相李斯の考えにより焚書・坑儒(民間の書物を焼き、法家
以外の学者を穴に埋めた)を行い思想の統一を図った。前二〇九年、「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を
知らんや」「王侯将相寧くんぞ種有らんや」の話で有名な陳勝・呉広の乱が起こり、前二〇六年秦
は滅亡した。


前漢 紀元前206年 - 8年






東周  前770〜(前221)
周12代幽王の時代、申から迎えていた皇后を廃し別の皇后たてたため、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、太子は西の携王と争って打ち勝ち、東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ移った。ここからは東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行した。


春秋時代 前770〜(前403)
紀元前770年、周の幽王が犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した紀元前403年までである。

   諸子百家

諸子









孔子 老子 荘子 墨子 孟子 荀子 韓非子 孫子 列子 楊朱












百家








陰陽家 儒家 墨家 法家 名家 道家 縦横家 雑家

農家 小説家 兵家







 孔子  孟子 

      ■ 前481年 魯の哀公14年。「春秋」。
      ■ 前479年 孔子歿、「易・書・詩・春秋」「論語」編纂。
      ■ 前473年 越王勾踐は「呉越の戦い」で呉王夫差を破り、覇者となる。  西施ものがたりと李白関連詩
               范蠡  西施
      ■ 前463年 魯の哀公の27年、「春秋左氏傳」。」
      ■ 前433年 曾参(曾子前550〜433。「孝經」「大学」。
      ■ 前431年 子思(前492〜431)、「中庸」。
      ■ 前403年 晉分裂。戦国七雄の時代に移行。


戦国時代 前403〜前221
中国史において、紀元前770年に周が都を洛邑(成周)へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代である。東周時代(とうしゅうじだい)と称されることもある。紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦国時代と分けることが多い。



屈原  宋玉  伯夷  荊軻 

楚辞 九歌 屈原
   
      ■ 前361年 秦、商鞅を用いて富国強兵をはかる。「商子」
      ■ 前299年 屈原、汨羅に投身。「離騒」「九歌」「漁夫辭
      ■ 前289年 「孟子」「荘子」







秦      前221〜前206
周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在し、紀元前221年に中国を統一し、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 -紀元前206年)を秦代と呼ぶ。国姓は?(えい)。統一時の首都は咸陽。
         
万里の長城増築 
長安郊外の驪山のふもとに建立されている始皇帝像


鴻門の会 咸陽占領に関して項羽と劉邦の咸陽城外講和会議。懐王はかって咸陽を陥落させた者を関中王とすると宣していた。咸陽を開城させた劉邦は項羽の接近に対して関門を閉じた。交戦直前、張良・項伯の周旋で鴻門での和睦となる。途中、項羽の軍師の范増は劉邦暗殺を謀ったが、項伯・樊?・張良の機転で果たせず、散会後に項羽を「豎子、ともに図るに足りず」と罵り、これが後の項羽と范増の不和の最初になった。


始皇帝 万里の長城増築   
 万里の長城關221所    項籍(項羽) 

      虞美人

劉邦と項羽、女性の見地から

(1)中国史・女性論 《項羽と虞美人》i紀頌之の漢詩ブログ10252
(2)中国史・女性論 《項羽と虞美人》2.項梁と項羽の挙兵
(3)中国史・女性論 《項羽と虞美人》3.劉邦の人となり 紀頌之の漢詩ブログ10266
(4)中国史・女性論 《項羽と虞美人》4.鴻門の会 ブログ10273
(5)中国史・女性論 《項羽と虞美人》5.楚・漢の抗争 漢詩ブログ10287
(6)中国史・女性論 §-2 垓下の戦い 1. 垓下の詩  -@
(7)中国史・女性論 §-2 垓下の戦い 1. 垓下の詩  -A
(8)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》2. 虞美人について
(9)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》3. 項羽の最後
(10)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》4. 項羽の死にざま
(11)中国史・女性論 《§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》ブログ10336
(U-1)中国史・女性論 《U漢の高祖をめぐる二人の女性》1.)大風の歌と鴻鵠の歌漢詩ブログ10343
(U-2)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》2.)高祖と戚夫人ブログ10350
(U-3)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》3.)呂后のまきかえし紀頌之の漢詩ブログ10357
(U-4)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着
(U-5)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》5.)威夫人の末路 ブログ10378
(U-6)中国史・女性論 《§-2 政権を手中にした呂太后》1.)呂太后の専権ブログ10385
(U-7)中国史・女性論 《§-2 政権を手中にした呂太后》2.)劉氏への迫害と呂氏の専横
(U-8)中国史・女性論 《§-2 政権を手中にした呂太后》3.)無為の政治
(U-9)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》1.)家柄・性格の相違
(U-10)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》2.)?殺と「法三章」
(U-11)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》3.)漢中放棄と懐王の弑殺
(U-12)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》4.)将に将たるの器
(U-13)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》5.)劉氏政権の強化と保持
(U-14)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》6.)死に望んで
ID
詩人名
よみ
生没年
作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事


大夫鐘 たいふしょう 前520年ごろ 祝越王辭



呂尚(太公望) ろしょう(たいこうぼう 前11世紀ごろ 六韜



管仲 かんちゅう 前720-前645 管子



鮑叔 ほうしゅく 管仲と同時代




單襄公 ぜんじょうこう 前?年 - 前587年 国語


老子 ろうし 前6世紀頃



顔回 がんかい  483確認




仲由(子路) ちゅうゆう(しろ)  480確認




孔子 こうし 前551〜479 論語 「易・書・詩・春秋」

列子 れっし 前400の前後70年在世 列子



荘子 そうし 前369頃 - 前286頃 荘子



孟子 もうし 前372年 -前289年 『孟子』(もうじ)



墨子 ぼくし 前470〜前390頃? 墨子十大主張



荀子 じゅんし 前4世紀末 荀子



楊朱 よう しゅ 前370頃? - 前319頃? 為我説(自愛説)


屈原 くつげん 前340頃〜前278年 離騒 九歌 天問九章

伯夷 はくい 未詳  采薇歌



宋玉 そうぎょく 未詳 九弁・楚辞章句 高唐賦 神女賦 対楚王問

韓非子 かんびし 前280年? - 前233年 韓非子



荊軻 けいか 未詳-前227 易水歌



李斯 りし 前284年−前208年 小篆



















    



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秦  前221〜前206


前漢 紀元前206年 - 8年


     新   8年 〜 23年

後漢   25年 〜 220年



 魏 220 - 265  呉 222 - 280  蜀 221 - 263

 

2.前漢から三国時代

詩経・楚辞・古詩について 作者とその詩
■前漢   前202〜 8
秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられた。長安を都とした。7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡、その後漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。
王昭君ものがたり  王昭君   高祖(劉邦)   枚乘   東方朔   漢-武帝(劉徹)   劉細君  
 李陵      蘇武 
 漢の無名氏(1) 古詩十九首        漢の無名氏(2) 西門行・東門行

■新     8〜 23
前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に在る)に封じられたことにより国号を新とした。
                    卓文君    楊雄     班彪


■後漢   25〜220
漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢と紛らわしいので、現在では東漢と言うことが多くなってきた(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。

■  80年 班固(32 - 92)「漢書」

■  90年 王充(27-90)「論衡」

■ 101年 賈逵(30-101)「左氏傳解詁」「国語解詁

■ 116年 班昭(未詳班固の妹) 「女誡」班固の「東征賦」の加筆。

■ 139年 張衡(78-139)「兩京賦」、天文歴算、地震計発明。

■ 142年 崔援(77-142)「座右銘」

■ 145年 王逸(90-145)「楚辭章句」

■ 175年 蔡ヨウ(132-192)嘉平石經、「独断」「蔡中郎集」

■ 182年 何休(129-182)「春秋公羊解詁」

■ 184年 張角(?-184) ら黄巾賊により、”黄巾の乱” おこり、群雄割拠して天下衰乱。
              建安の七子

有名、無名を合わせ、数多くの文学者が建安の文壇に名を連ねてはいるが、中でも著名なのが建安七子と呼ばれる文学者たちである。
孔融・陳琳・徐幹・王粲・応チョウ・劉驕E阮ウら七人を総称して、建安の七子と呼ぶ。
それに加えて、建安文学の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹一族の曹操・曹丕・曹植の3人(三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することもある。

また、繁欽・路粋・何晏・応?・蔡?・呉質といった著名文学者たちも、この建安文学に携わり、大きく貢献した文壇の一員であるとされている。

官渡の役 (200)

官渡の戦いは、中国後漢末期の200年に官渡に於いて曹操と袁紹との間で行われた戦い。赤壁の戦い・夷陵の戦いと共に『三国志』の時代の流れを決定付ける重要な戦いと見做される。 狭義では戦役終盤に官渡で行われた戦いのみを指すが、広義では袁紹と曹操の一連の抗争を含む大きな戦役を指す。


■ 209年 荀悦(148-209)「申鑑」前漢を扱った編年史『漢紀』の編者。荀悦は『漢紀』30篇を完成させた。
『漢紀』は『左伝』と同じ編年体で前漢406年間の歴史を記したものである。

■ 212年 阮禹(? -212)建安七士の一人。字(あざな)は元瑜。蔡?の弟子。河南陳留の人。曹操に仕え、官は司空軍謀祭酒。文事をつかさどり、戦事の檄文(げきぶん)を作った

■ 216年 曹操、魏王を稱す。

■ 217年 徐幹(170-217)「中論」。2巻後漢末期の政治家・文人。 字は偉長。 青州北海郡劇県の出身。 建安七子の一人。


王粲(177-217)字を仲宣といい、山陽郡高平県の人である。 曾祖父の王襲、祖父の王暢はどちらも漢代に三公となった。


陳琳( -217)陳 琳は、中国後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。徐州広陵郡射陽県の出身。 はじめ何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図り諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの前、袁紹が中原全土に配した曹操打倒の檄文を書いた。


應チョウ〔王+易〕( -217)応チョウは、中国後漢末期の政治家・文人。字は徳l。豫州汝南郡南頓県の人。建安七子の一人。父は応c。弟は応?。伯父は応劭。伯祖父は応奉。 曹操に召し出されて丞相掾属に任ぜられた。後に曹操の三男曹植の庶子を経て、五官中郎将文学となる。しかし217年、華北で流行した疫病により死去した


( -217)劉 驍ヘ、中国後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。?州東平国寧陽県(現在の山東省泰安市寧陽県)の人。漢の宗族の劉梁の孫。

■ 219年 劉備、漢中王を称す。

■ 220年 曹操歿。魏王曹丕獻帝を廃止、文帝につく。漢滅亡。

■ 221年 劉備、蜀漢の昭烈帝となる。

■ 229年 孫権、大帝となる。此の年から、265年まで、三國鼎立となり、戦乱は続く。老荘的隠遁思想が大流行し、「清談の風」が起こる。

         


       
              
      ■ 000年 
      ■ 101年 



 李延年   張 角   蔡 邑   趙 壹   禰 衡   関 羽    班u、    梁 鴻 
        黄巾の乱
   022 高帝 かんこうそ 前247―前195
023 項羽 こうう 前232-前202
024 虞美人  ぐびじん 未詳   (項羽と同時期)
025 唐山夫人 とうざんふじん 前206頃 在世
026 朱虚侯章 しゅきょこうしょう 前200−前177
027  孔安国 こうあんこく 未詳 - 前140
028  賈誼 かぎ 未詳 - 前140
029  韋孟 いもう 前228−前156
030  烏孫公主(劉細君) うそんこうしゅ 前130 ‐ 不詳
031  枚乘 ばいじょう 未詳 -前140
032 淮南王劉安 わいなんおう・りゅうあん  未詳 -前140
033 司馬相如 しばそうじょ 前179年-前117年
034 卓文君 たくぶんくん 前179頃-前117頃
035 劉細君 りゅうさいくん 前105年烏孫に嫁す。
036 董仲舒 とうちゅうじょ 前176―前104
037 司馬遷 しばせん 前145―前86
038 武帝 (劉徹) ぶてい 前156-前87年
039 東方朔 とうほうさく 前161頃-前87頃
040 李延年 りえんねん 前140頃-前87頃
041 燕刺王旦 えんしおうたん 前不詳-前80年
042 華容夫人 かようふじん 上の妻、同時期
043 昭帝 しょうてい 前94-前74
044 李陵 りりょう 前 不詳-前74
045 霍光 かくこう  未詳 -前68
046 蘇武 そぶ 前142-前60
047 楊ツ よう うん ? - 前54年
048 王昭君 おう しょうくん 前1世紀頃
049 班ショウ、 はん しょうよ 生没年不詳
050 劉向 りゅうこう 前77- 前 6
051 趙飛燕 ちょう ひえん ? - 前1年
 

s-01 揚雄

s-02 劉欽

  


gk-001 梁鴻 りょうこう 不詳 後漢
gk-00 馬援 ば えん 前14 - 49
gk-00 班固 はん こ 32 - 92
gk-00 張衡 ちょう こう 78 - 139
gk-00 李尤 り ゆう 生没年不詳

gk-00



gk-00 蔡ヨウ さいよう 133-192
gk-00 秦嘉 しんか   147頃在世
gk-00 孔融 こうゆう 153-208
gk-00 辛延年 しんえんねん  不詳 後漢で活躍
gk-00 宋子侯 そうしこう  不明
gk-00 蘇伯玉妻   そはくぎょくつま  不明
gk-00 竇玄妻 とうげんのつま  後漢に在世
gk-00 蔡エン(蔡文姫) さいえん 162-239
gk-00 諸葛亮 しょかつりょう 181-234


  



三国時代への道
1.
官渡の役 (200) 
2.
赤壁の戦い(208)
3.
建安文学の文学者
4.
桃園の誓い
5.
黄巾の乱の終焉
6.
劉備の苦悩
7.
何進の優勢、十常侍の劣勢
8.
曹操の台頭



三国時代  184〜229
黄巾の乱の蜂起(184年)から西晋による中国再統一(280年)までを指す。229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立。 三県鼎立
■魏     220年 - 265年)
中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』『三国志演義』など)などで伝わり、日本でも魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られている。

■呉    222年 - 280年)
三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉、東呉とも呼ばれる。222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である

■蜀     221年 - 263年
中国の三国時代に劉備が巴蜀の地(益州)に建てた国。蜀は魏、呉と共に三国時代を形成した一国である。巴蜀(現在の四川省・湖北省一帯)を領土とし、成都を都に定めた。実際には魏の文帝曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、漢の正統を継ぐものとしたため漢が正式な国号である。

 



  上記とともに 三曹七賢






 (竹林の七賢)
3世紀の中国・魏の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した、下記の七人の称。 阮籍 ケイ康 山濤 劉伶 阮咸 向秀 王戎 阮籍が指導的存在である。その自由奔放な言動は『世説新語』に記されており、後世の人々から敬愛されている。

 
 



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3.晋、東晋、五胡十六国、南北朝から隋の中国統一

晋     265年 - 420年
司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。


69 70 73 74 75 76 77
      張華 張協 潘岳 左思 陸機 陸雲 潘尼

郭璞 劉焜








■東晋   317年 - 420年
中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。

五胡十六国時代 304年の漢(前趙)の興起から439年の北魏による華北の統一までを指す。五胡十六国は、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。なお十六国とは北魏末期の史官崔鴻が私撰した『十六国春秋』にもとづくものであり、実際の国数は16国を超える。後漢末期から北方遊牧民族の華北移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したために力をつけ、永嘉の乱として爆発させた。



 元帝(東晋)  王羲之  陶淵明(陶潜)  僧肇 


南北朝  420589
宋420年の建国から589年隋による統一までの時代
(420〜479)南北朝時代の南朝の王朝。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓から劉宋とも呼ばれる。
(479〜502)南北朝時代に江南に存在した国。南朝の一つ。北朝の北斉や春秋戦国時代の斉などと区別するために南斉(なんせい)あるいは蕭斉(しょうせい)とも呼ばれる。
(502〜557)南北朝時代に江南に存在した王朝。
陳(557〜589)南北朝時代に江南に存在した国。南朝の最後の王朝。
■北魏  386〜535
この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。
西魏(535〜556)北朝の国の一つ。函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の呼び名。本来の国号はみな魏である。それぞれが魏(北魏)の正統を自認していた。
東魏(534〜550)北朝の国の一つ。函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の呼び名。「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏である。
北周(556〜581)鮮卑の宇文氏によって建てられた国。国号は単に周であるが、紀元前11世紀の周と区別するために北周と呼ぶ。
北斉(550〜577)高氏によって建てられた国。国号は単に斉であるが、春秋戦国時代や南朝の斉などと区別するために北斉・高斉と呼ぶ。
南北朝
北魏〜陳

386〜589
傅 玄(傳
 休奕)
孫楚


















王 籍 陸垂 蕭陳





謝霊運  顔延之  鮑 照    謝 兆   蘇小小  鮑令暉  孔稚珪  任 ム  刑 邵  沈 約 斛律金  王  融  鍾 エ  蕭衍梁武帝  何 遜  范 雲      
 
六朝期の詩人六朝期の詩人
五胡十六
国 
301頃〜
439




南北朝
420〜
589

東晋 317〜
420
元帝 王羲之 陶淵明(陶潜) 僧肇 傳玄 石宗
420〜
479
謝霊運 顔 延之 謝恵連 謝宣遠 劉鑠

永明体
北魏 386〜
535
鮑照 鮑令渾 江淹 范嘩 



420〜
479
謝兆 任 ム 沈約 王融
斛律金 鍾エ 江淹 竟陵王蕭子良 范雲

502〜557 蕭衍・梁武帝 梁の簡文帝 范雲 何遜 王籍
王褒 徐 陵 萸信 陸垂 蕭チン


557〜589 陳後主 陰鏗





581〜
618
楊 素  薛道衡 観徳王・楊雄










■隋    581〜618
文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。しかし、後継の煬帝は、江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために、民衆の負担が増大した。このため農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。


 楊素  薛道衡  観徳王・楊雄 

4.江淹
  江 淹(こう えん、444年 - 505年)は、中国南北朝時代の文学者。 字は文通。 本貫は済陽郡考城県(現在の河南省商丘市民権県)。下級士族の出身だったが,文才と機敏で慎重な処世により,南朝の宋・斉・梁3朝に仕えて,高官の地位に達した。詩人としては,沈約(しんやく)とともに梁初を代表する。ことに模擬の詩を得意とし,歴代の著名な詩人の作風を巧みに模した〈雑体詩〉30首は,《文選(もんぜん)》にも収められてよく知られる。ほかに感傷的な美文〈別賦〉〈恨賦〉も彼の文学の一面を示す。《江淹集》9巻はほぼ原形のまま伝わる。
竟陵王蕭子良
蕭 子良(しょう しりょう、460年 - 494年)は、中国南朝の斉の武帝の第2子である。字は雲英。文宣と諡される。竟陵王に封ぜられ、浄住子と称した。南斉代第一の文人であり、経典や史書、老荘にも通じてしたが、仏典を最も好んで、文恵太子らと共に仏教教理に通暁していた。永明中(483年 - 493年)に司徒・尚書令に任ぜられると、鶏籠山の邸に移り、当時一流の文人らを鶏籠山の西邸に招いた。中でも著名な蕭衍・沈約・謝眺・王融・蕭深・范雲・任ム・陸?の8人は、「竟陵八友」と称せられる。

常に邸内で斎戒し、朝臣や衆僧を集めた。また、一生涯にわたって厳重に斎戒を守ることを誓願して「浄住子」と自称した。邸内には、古物を蒐集して、広く天下の文章の集録を行なったため、「道俗の盛んなること、江左に未だあらざるところ」と評せられた。文人学者らには『四部要略』1000巻を抄録させ、名僧たちには『経唄新声』を撰述させた。

また、竟陵王自身の仏教信仰を記した書物として『浄住子浄住法門』がある。









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4.唐  - 初唐、盛唐、中唐、晩唐

■唐    618〜907   唐 初唐・盛唐・中唐・晩唐
  李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。なお、690年に武則天により唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述されることが通例である
 唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。一般に、唐の歴史を初唐、盛唐、中唐、晩唐の4期に細分して通観する。

初唐 618年〜712までの約100年。 初唐の詩人たち


 前代の六朝時代の余風を受け、繊細で華麗な詩風を身上とする修辞主義的な詩風が主流である。宮廷の詩壇における皇帝との唱和詩がこの時期の中心的作品となっている。代表的詩人には「初唐の四傑」と呼ばれる、@王勃・A楊炯・B盧照鄰・C駱賓王のほか、近体詩の型式を完成させた武則天期の沈?期・宋之問などがいる。さらにこうした六朝の遺風を批判し、詩歌の復古を提唱して次代の盛唐の先駆的存在となった陳子昂が現れた。


○ 初唐の詩人たち

 
  魏徴  上官儀  王勃  盧照鄰  駱賓王  劉廷芝・劉希夷 楊炯 陳子昴 上官婉兒  宋之問  沈栓期
  

盛唐  712〜765 玄宗皇帝の時代 盛唐の詩人たち


  唐代の最盛期を反映し、多くの優れた詩人を輩出した時期である。修辞と内容が調和した詩風は、それまでの中国詩歌の到達点を示している。代表的詩人には、中国詩歌史上でも最高の存在とされる李白と杜甫を頂点として、王維孟浩然岑参高適王昌齢などがいる。 


○ 盛唐の詩人たち


 張若虚 包融 王翰 蘇廷 僧一行 張説 張九齢 賀知章 張旭 王之渙 孟浩然 李祈  楊貴妃 王維  李白 諸光羲 崔敏童 王昌齢 嚴武 高適 裴迪 荊叔 賈至 崔敏童 崔國輔 杜甫岑參 常建 張敬忠 崔惠童 樓穎 皎然 薛業 顔眞卿


中唐  766〜835  中唐の詩人たち 


 中唐期では、平易な表現を重んじた白居易・元槇らの「元白体」が現れた一方、個性的で難解な表現を愛用する韓愈・李賀などの一派も存在するなど、詩風は前代よりも多様化する傾向を見せ、それぞれが多彩な性格を持つ詩壇を形成した。また韓愈・柳宗元らにより、六朝以来主流となっていた「四六駢儷体」と呼ばれる修辞主義的な文体を改め、漢代以前の達意を重んじる文体を範とする、新たな文体の創出が提唱された(「古文復興運動」)。韓愈らの試みは次の宋代の文学者に引き継がれ、後世、彼ら古文運動の主導者を「唐宋八大家」と総称する。


○ 中唐の詩人たち



 
 張謂   錢起  靈一  朱放   劉長卿   戴叔倫  司空曙  楊巨源  耿夷   陸羽   顧況   盧綸   孟郊   武元衡  崔護  李賀 權コ輿  柳宗元 李益 元槇 白居易・白楽天 劉禹錫 韓愈 張継 張籍 韋應物  賈島  李紳  李渉・李渤   薛瑩   薛濤


晩唐  836〜907 晩唐の詩人たち


 晩唐は繊細で感傷的な詩風が主流となる。代表的な詩人として杜牧・李商隠・温庭均・韋荘・韓癒がいる。さらには王朝の衰退に伴う社会の動乱を憂え、詩歌による社会改革を訴えた皮日休・陸亀蒙などの詩人も現れている。


○ 晩唐の詩人たち



牛嬌  杜牧  張湖  許渾  李商隠  温庭均  陸龜蒙  皮日休  鄭畋  黄巣  劉綺莊  唐彦謙  趙瑕  陳陶  張喬  于武陵  高胼  聶夷中  曹松  魚玄機  杜荀鶴  羅隱  韋荘  秦韜玉  汪遵  

  ●唐時代の詩人初唐の詩人盛唐の詩人中唐の詩人晩唐の詩人

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5.五代十国 -北宋南宋


五代十国  唐の滅亡から宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した五つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。

  ●五代十国、宋、元、明、清、近現代の詩人たち

南宋1127年 - 1279年

  
  岳飛  呂祖謙  張蝕  陸象山  朱熹(朱子)  陸游  唐婉  辛棄疾  戴復古  周密  陳亮      杜秉  張元幹  張孝祥  眞山民  楊萬里  劉克莊  文天祥  謝枋得

■宋   960〜1279年   北宋の詩人
 王朝の興亡と民族の盛衰に伴い、祖国と自民族を想い、壮懐を詩詞句に託した作品が、数多く生まれ、現在に残されています。
      とりわけ、宋代では北方に非漢民族の国家・遼(契丹)、西夏が興り、華北を脅かし、さらに遼の滅亡の後は、女真(後の満州民族)の金が興り、華北を抑え、やがて、靖康之変の後は、漢民族の国家・宋は江南半壁に追いやられた事実があります。(北宋地図) 特に靖康之変後、江南の宋(南宋)は、中原の奪回を目指し、金と、やがては元と抗争し、詞の世界では燃え上がり、媾和に際しては、民族意識が強く盛り上がりました</FONT>
   ・北宋  960〜1127  ・遼 916~1125  ・西夏 1038〜1227
   ・南宋 1127〜1279  ・金 1115〜1234

北宋 960〜1127
  林逋  蘇舜欽  柳永  晏殊  欧陽脩  曾鞏  司馬光  王安石  蘇洵  富弼(ふひつ  蘇軾(蘇東坡)  蘇轍  宋江  孫覿  張元幹

     南宋 1127〜1279






■ 金  1115年 -1234年     金・元時代以降の詩人

(きん1115年 -1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国北半分を支配した女真族の王朝。
国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。
金は北宋を滅ぼしたが、中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点をあきらかにした。太宗は過度の負担を避けるため、華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にしようとした。太宗ははじめ宋の宰相であった張邦昌を皇帝に据え、国号を楚とさせた。しかし張邦昌は金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の趙構(高宗)を皇帝位につける運動に加わった。
その後、趙構らは南に逃れ、南方の北宋残存勢力を糾合して南宋を立てた。金はこれに対する懲罰を名目として再度の南征を開始し、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦った。
金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力後退の末、1142年に両国の間で最初の和約が結ばれた(紹興の和議)。この和約は宋は金に対して臣下の礼をとり、歳幣を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であったが、中国の二分化を元による統一まで継続することとなる。

       元好問


■元   1271〜1368年    金・元時代以降の詩人
元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配し、その後は北へ逃れ、遊牧政権としては最終的には1635年まで存続したモンゴル人王朝であり、モンゴル帝国の皇帝直轄世襲領である。元朝(げんちょう)とも言う。正式の国号は大元(だいげん)。
     中国王朝としての元は、北宋崩壊(1127年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 -1644年)が中国統治を引き継ぐ。ただし、後述するように、元は制度や政治運営の特徴において、モンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家特有の性格が強く、用語上でモンゴル帝国が伝統的な中国王朝の類型に変化したものであるというような誤解を避けるために、遊牧民の国を指すウルスという語を用いて特に大元ウルスと呼ぶべきであるとする意見もある。

馬致遠      
  

■明   1368〜1664年    金・元時代以降の詩人
明(みん) 1368年 -1644年  明朝ともいい、中国の歴代王朝の一つ。大明と号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。元に対し、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。万里の長城以南の中国は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が初めて、唯一である。

  太祖・朱元璋  高 啓  于 謙  方孝孺  文 嘉  王陽明  海瑞  劉基
 

■清   1636〜1912年    金・元時代以降の詩人
 このサイトでは特に唐・宋時代を中心に詩詠句を見ていきます。できるだけ、階級論争に触れないことを前提に詩人の背景、思想、等、従来の考え方と対比して行こうと思います。したがって、元以降の歴史的記述は少ないことをお許し願います。


 呉偉業  顧炎武  和申  洪秀全  譚嗣同  張之洞  黄遵憲  孫 文  梁啓超  秋 瑾   魯迅   老舎    毛沢東
 




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紀 頌之