60.01 |
馬存 (まーそん) |
9世紀−940年 |
馬存(9世紀−940年),馬は、楚の武穆王、馬を殷の弟であり,馬元の第三子である。 馬存が跟を馬に隨て殷征討す,官は永州刺史に至る。開平年間,靜江軍節度使李瓊の死後,馬は殷に命じ馬は桂州の事を存知し,後に、馬は殷に天策府に開くにあたり來り,以て馬存、右相為る。永順軍節度使に領し,馬は殷に之の女を送って馬氏は嶺南南漢に到る。
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長淮謡
燕子亭
浩浩歌 |
601 |
林逋 (りんぽ) |
967年 - 1028年 |
宋代の詩人。字は君復。 杭州銭塘(浙江省)の出身。若くして父を失い、刻苦して独学する。恬淡な性格で衣食の不
足もいっこうに気にとめず、西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。真宗はその名を聞いて粟帛
を賜い、役人に時折見回るよう命じた。薛映・李及が杭州にいたときは彼らと終日政談し、妻子をもたず、庭に梅を植え鶴を飼
い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。行書が巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。一生仕えず盧のそばに墓を造り、
「司馬相如のように封禪の書を遺稿として用意してはいない
|
山園小梅
梅花
秋江寫望 |
602 |
蘇舜欽(そ しゅんきん、1008年-1048年)1008- 1048 |
1008- 1048 |
北宋時代の政治家・文学者。字は子美。銅山(河北省)の出身。参知政事であった蘇易簡の孫でもある。若い頃から世を慷
慨し、軍事論を好み大志があった。初めは父の推挙により太廟齋郎に任命され、景祐年間(1034年-1038年)に進士に合格
し、知長垣県をへて大理評事となった。康定年間(1040年-1041年)、河東に地震があったときに蘇舜欽は上疏し当時の政治
の欠陥を論じて范仲淹に認められ、集賢校理となり進奏院を監督し、時の宰相・杜衍の娘を娶るまでになった。多くの学者が
修飾の多い美文を書いていた中で、河南の穆修とともに古体による詩を書き、欧陽修の賞賛を得た。草書にも優れていたとい
う。
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初晴遊滄浪亭
秋宿虎丘寺數夕執中以詩賜因次元韻
送李生
中秋夜呉江亭上対月懐前宰?子野及寄君謨蔡大 |
603 |
柳永 (りゅうえい) |
987〜1053 |
崇安(福建)出身。字は耆卿、原名は三変。景祐元年(1034)の進士で、屯田員外郎となった。詞の作者として当時から著名
で、艶詞が多く鄙俗と評されるが、叙情に優れ、従来の短篇詞主体に対して長篇詞を好み、詞史に新生面を与えた。
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八聲甘州 |
604 |
晏殊 |
991〜1055 |
撫州臨川(江西)の出身。字は同叔。景徳初期の進士で、真宗・仁宗に仕えて軍事・財政改革を進め、1040年に宰相とさ
れた。学校再興など人材育成にもつとめ、門下からは范仲淹らを輩出し、韓g・富弼らを推挙した。文章に優れ、詞の大家とし
ても知られた。
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浣溪沙
寓意 |
605 |
欧陽脩 (おうようしゅう) B |
1007〜1072 |
廬陵(江西)出身。字は永叔、諡号は文忠。苦学して進士に第一甲で及第し、1043年に知諫院とされ、この時に『朋党論』
を著した。以後、同修起居注・知制誥と累進したが、杜衍・韓g・范仲淹・富弼らの左遷を極諫した為に地方に出され、12年
後に翰林学士に復した。1060年に地方官から枢密副使に復して参知政事に進み、濮議では台諫側の司馬光らと対立した。
史学に通じ、神宗期に新法に反対して致仕を許されると潁州に隠棲し、六一居士と称して『新唐書』『新五代史』を著した。
周・漢以後の金石文を注解した『集古録』を著して金石学の祖とされ、又た韓愈の文章を高く評価して古文復興にも尽くした。
唐宋八大家の1人とされる。
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日本刀歌
蝶戀花
豊楽亭遊春
廬山高、贈同年劉中允帰南康
明妃曲和王介甫
晩泊岳陽
別 徐 |
605.5 |
張載 (張孟陽) |
ちょうさい (ちょうもうよう) |
1020-1077 |
張載(ちょう・さい、天禧4年(1020年) - 熙寧10年11月18日(1077年12月6日))は中国・北宋時代の儒学者。字は子
厚、横渠先生と称された。宋学において、いわゆる「気の哲学」(唯物論)を創始したことで知られる。
陝西省関中の出身。1057年に38歳で進士に合格して、河北・陝西・甘粛などの地方官を歴任し、1069年50歳の冬に朝廷
に召されたが、王安石の新法に反対し、翌年病気を理由に帰郷、読書と思索に没頭した。1077年にも朝廷に召されたが志を
得ず、その年の冬に辞職し、帰郷の途次に亡くなった。
「天地のために心を立て、生民のために道を立て、去聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」という語で察せられるよ
うに、豪傑の性質を持つ。若い頃は兵法を好み、政治に情熱を燃やしたが、范仲淹に諭され『中庸』を授けられたのをきっかけ
に儒者に転じた。仏教・老荘の教えに一時心酔したが、1056年に国都・開封で甥にあたる程氏兄弟(程・程頤)と出会い、
儒者としての自信を確立したという。それまで虎の皮に座って『易』の講義をしていたのが、二程氏の『易』論を聴いて感服し、潔
く虎皮を撤去して、門人たちを二程氏に師事させたという逸話がある。
張載は『易』『中庸』に依拠し、万物の生成を陰陽二気の集散によって説明し、「太虚」をその本体とした。太虚は無形であり、
気は有形だがこの両者は一物両体、太虚即気という緊密な関係にあるという気一元の哲学を樹立した。太虚と気による二元
論は周敦頤より発展しているが、「太虚」説は宋学の主流とはならなかった。ただし、王陽明や王夫之、日本の大塩平八郎には
大きな影響を与えている。
人間性を「気質の性」と「天地の性」の両面から考えることを提唱し、道徳の淵源は太虚=天地の性にあると説き、気質を浄化
して天地の性に帰ることを勧めた。「心が性と情を統べる」という見解は、後の朱熹によって二程にも勝るとされている。個人修養
と社会生活における「礼」の重要性を強調し、仏・道の二教を排斥し儒教の独立性を明確にしようと努めた。
主著として『正蒙』『西銘』『東銘』『経学理窟』『易説』などのほか若干の詩文と語録があり、『張氏全書』に一括して収められ
ている。
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<文選>
擬四愁詩
《張氏全書》
『正蒙』
『西銘』
『東銘』
『経学理窟』
『易説』 |
606 |
曾鞏 F |
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1019〜1083 |
建昌南豊(江西)の出身。字は子固、号は南豊先生。太学時代に欧陽脩に認められ、嘉祐2年(1057)に進士に及第すると
実録編纂官などを務めた後、地方官を歴任した。王安石と親交があったが、新法実施には反対し、1082年に中書舎人となっ
た。唐宋八大家の1人。
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虞美人草
西樓 |
607 |
司馬光 |
1019〜1086 |
司馬光 1019〜1086
陝州夏県(山西)の出身。字は君実。宝元元年(1038)の進士で、濮議では名分を重んじて皇伯論を主張した。神宗が即位
すると翰林学士・御史中丞となったが、新法に反対して地方に転出し、後に勅命で『資治通鑑』を編集した。哲宗が即位すると
皇太后の庇護を得て尚書左僕射に復し、すべての新法を廃して社会を混乱させた末、在任8ヶ月で病死して温国公を追贈さ
れた。後に元佑党人として官位を剥奪され、北宋末に名誉が回復された。
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居洛初夏作 |
608 |
王安石 G |
1021〜1086 |
北宋の政治家・詩人・文章家。字は介甫、号は半山。撫州臨川(江西省撫州市)の人。新法党の領袖。神宗の政治顧問
となり、制置三司条例司を設置して新法を実施し、政治改革に乗り出す。文章家としても有名で、仁宗に上奏した「万言書」
は名文として称えられ、唐宋八大家の一人に数えられる。また詩人としても有名である。儒教史上、新学(荊公新学)の創始
者であり、『周礼』『詩経』『書経』に対する注釈書『三経新義』を作り、学官に立てた。
王安石は若手の官僚を集めて制置三司条例司という組織を作り、改革を推し進めた。1070年(熙寧5年)には首席宰相とな
り、本格的に改革を始める。新法の具体的な内容に関しては新法・旧法の争いを参照のこと。王安石の新法の特徴は大商
人・大地主達の利益を制限して中小の農民・商人たちの保護をすると同時に、その制度の中で政府も利益を上げるというところ
にある。
1074年(熙寧7年)に河北で大旱魃が起こったことを「これは新法に対する天の怒りである。」と上奏され、これに乗った皇太后
高氏・宦官・官僚の強い反対により神宗も王安石を解任せざるを得なくなり、王安石は地方へと左遷された。新法派には王安
石以外には人材を欠いており、王安石の後を継いで新法を推し進めていた呂恵卿などは権力欲が強く、新法派内部での分裂
を招いた。
王安石は文学者としても優れており、その作品は『臨川集』にまとめられている。散文家としては「唐宋八大家」の一人に数えら
れ、代表作としては前述の「万言書」や「孟嘗君伝を読む」などがあげられる。
詩人としては用語・構成ともに入念に考え抜かれ、典故を巧みに用いた知的で精緻な作風が特徴である。特に七言絶句は北
宋第一とされ、欧陽脩や蘇軾のような旧法党の人々からも高い評価を得ていた。また先人の詩句を集め、そのイメージを受け
継いだり変化させたりすることによって新しい詩を作るという手法(集句)に強い関心を示したが、これは黄庭堅に代表される江西
詩派の主張する「換骨奪胎法」にと受け継がれることになった。
なお、「紅一点」の由来として王安石の作とされる詩が挙げられる。すなわち、 「石榴」の「万緑叢中一点紅 、人を動かす春色
は須く多かるべからず」という句である。もっとも、現行本の『臨川集』には確認できず、一説には唐人の作ともされる。また、漢字
の由来を述べた大著『字説』を著した。
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梅花
北山
泊船瓜洲
鍾山即事
夏日即事
桂枝香
新花
江上
北陂杏花
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609 |
蘇洵(そじゅん) C |
1009〜1066 |
眉州眉山(四川)の出身。字は明允、号は老泉。晩学で科挙には失敗したが、読書に励んで論文を著し、欧陽脩に認めら
れて諸文士と交流した。議論文を得意とし、『太常因革礼』編纂に参加し、完成直後に歿した。唐宋八大家の1人。北宋時代
の中国の文人で、唐宋八大家の一人。蘇軾・蘇轍の父。字は明允。老翁井という泉のそばに亭を結んだことから老泉と称され
た。
その文章は真率にして気骨あり、先秦の風があるとも慕われ、一時は学者の模範とされた。経書を論ずるときも自己の常識から
出発し、ことさらに聖人と覇者の区別をたてようとしなかった。「書論」では、周の武王が聖人ではなかったことを論じたように、儒家
の因習を顧みなかった大胆さは、実用を重んじた欧陽脩や王安石も及ばなかったところである。なお、蘇洵は王安石が新法を
実施するより以前に死去しているが、蘇洵の『弁姦論』が新法・旧法の争いの時代に「姦」が王安石のことであるとされて有名に
なった。
政治面では、宋が契丹(遼)に歳幣を送って平和を購っていた習慣を姑息と判断し、内政を引き締め兵の規律を確立し、国家
の安泰をはかるべきであると考えていた。
|
『嘉祐集』15巻(『三蘇全集』本では20巻)
『諡法』3巻
『蘇老泉全集』20巻 |
610 |
富弼(ふひつ) |
未詳〜1083 |
富 弼(ふ ひつ、1004年 - 1083年)は、北宋の政治家、官僚。字は彦国。仁宗の代では韓g・范仲淹・文彦博・欧陽脩とと
もに名臣と呼ばれた。河南府の出身。若い時から学問に熱心なところから范仲淹に見いだされて次第に昇進し、慶暦2年
(1042年)に知制誥となる[1]。その年に契丹の蕭英・劉六符が瓦橋関の南の地を割譲するよう求めてきた際、契丹に赴き割
地を拒否し、さらに交戦の危機を脱することに成功した。翌年に枢密副使に任命されるが、人の中傷により河北宣撫使に降等
された[1]。その後、京東路安撫使として治績を上げて仁宗の信任を得て、至和2年(1055年)には宣徽南院使・判并州・同
中書門下平章事・集賢殿大学士を拝命し、文彦博とともに政務を統括した。
仁宗の没後に英宗が即位すると、召されて枢密使とされ鄭国公に封ぜられた。熙寧年間には左僕射・門下侍郎・同中書門下
平章事に任じられたが、王安石が神宗の信任を受け改革を断行していた時代であり、急激な改革には反対であった富弼は王
安石と合わず退職を求め、左僕射・判汝州をへて、司空を拝命し韓国公に封じられてから一切の政務から離れ、洛陽で暮らす
ことにした。80歳で没す。太尉を追贈され、諡は文忠とする。
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611 |
蘇軾(蘇東坡) D |
1036〜1101 |
眉州眉山の出身。字は子膽、号は東坡。蘇洵の子、蘇轍の兄。嘉祐2年(1057)の進士。夙に将来を嘱望され、英宗期に
判登聞鼓院、直史館とされたが、神宗期に新法に猛反対して杭州通判など地方官を歴任し、1079年には詩文中で時政を誹
謗したとして黄州に配流された。元佑年間には翰林学士・侍読とされ、募役法の廃止に反対して知杭州に転出し、1092年に
礼部尚書に復したが、紹聖以降は恵州ついで瓊州(海南島)に流され、常州で客死した。
文人としても著名で、父・弟とともに“三蘇”と称され、“大蘇”とも呼ばれた。線の太い詩は宋
代文学の最高峰とされ、『赤壁賦』は黄州配流時に創られた傑作。唐宋八大家の1人。
眉州眉山(四川省眉山市東坡区)の出身である[2]。嘉祐2年(1057年)22歳のときに弟・蘇轍とともに進士となる[2]。このとき
の科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない達意の文章の
み合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾、蘇轍、曽鞏の3名のみ合格した[1]。合格後、地方官を歴任し、英宗
の時に中央に入る。しかし次代の神宗の時代になると、唐末五代の混乱後の国政の立て直しの必要性が切実になってきた
[3]。その改革の旗手が王安石であり、改革のために「新法」と呼ばれる様々な施策が練られた[3]。具体的には『周礼』に説か
れる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく天子の公民とする斉民思想に基づき、均輸法・市易法・募役法・農田水利
法などの経済政策や、科挙改革や学校制度整備などの教育政策が行われた[3]。蘇軾は、欧陽脩・司馬光らとともにこれに反
対したため[4]、2度にわたり流罪を被り辺鄙な土地へ名ばかりの官名を与えられて追放された[2]。最初の追放は元豊2年
(1079年)蘇軾44歳で湖州の知事時代である[2]。国政誹謗の罪を着せられて逮捕され、厳しい取り調べを受ける事になる。
この時、御史台の取り調べの際に蘇軾が残した供述書は、後に「烏台詩案」と呼ばれ、問題とされた蘇軾の作品への彼自身の
解釈が述べられている。この「烏台詩案」を書き残した時は死を覚悟していたが、神宗の特別の取り計らいで黄州(湖北省黄州
区)へ左遷となった[2]。 左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。黄州での生活は足かけ5年にも及び、経
済的にも自ら鋤を執って荒地を開墾するほどの苦難の生活だったが、このため彼の文学は一段と大きく成長した[2]。流罪という
挫折経験を、感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、たくましく乗り越えようと努め
た[2]。平生の深い沈思の結果が、彼に現実を超越した聡明な人生哲学をもたらした[2]。この黄州時代の最大の傑作が『赤壁
賦』である。赤壁は、三国時代の有名な古戦場であり、西暦208年、呉と蜀の連合軍が、圧倒的な数を誇る魏の水軍を破っ
たことで知られる[2]。ただし合戦のあった赤壁は、黄州から長江を遡った南岸の嘉魚県の西にあり、蘇軾が読んだ赤壁は実際の
古戦場ではない。史跡を蘇軾が取り違えたのではなく、古くからそこを合戦の場だとする民間伝承があったと思われる[2]。
元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位すると、幼い哲宗に代わって宣仁太后の垂簾朝政が8年間続く。彼女の後
押しも有って旧法党の官僚は要職に就き、元豊9年(1086年)には司馬光は宰相となる。蘇軾も同時期に名誉を回復され50歳
で中央の官界に復帰し、翰林学士などを経て、礼部尚書まで昇進した。[5]。新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬
光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争し、次第に旧法派
の内部の分裂が見られるようになる。司馬光の死後は対立が先鋭化し、蘇軾、蘇轍兄弟を中心にした蜀党と、程頤、程兄
弟の洛党の二つの派閥が党争を起こす事になる。その後は紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷さ
れ、恵州(現在の広東省)に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された[5]。66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即
位するにおよび、新旧両党の融和が図られると、ようやく許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去
した。
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@浣溪沙
A和孔密州五絶 東欄梨花
B春夜
C題西林壁
D飮湖上初晴後雨
E澄邁驛通潮閣
F六月二十七日望湖樓醉書
G和陶飮酒
H念奴嬌
I江城子(密州出猟)
J水調歌頭
K水調歌頭
L江城子(乙卯正月二十日夜記夢)
M食猪肉
澄邁驛通潮閣二首
和陶飮酒
|
612 |
蘇轍 E |
1039〜1112 |
字は子由、号は潁浜。蘇軾の弟。嘉祐2年(1057)の進士。新法の実施時には三司条令司の書記とされたが、青苗法に反
対して河南推官に遷され、蘇軾に連坐して南方に流された。元佑年間に右司諫から吏部尚書、門下侍郎と進んで新法派を
排斥したが、紹聖以降は広南に左遷され、後に河南許州に隠棲した。兄に劣らぬ直言家だったが、旧法派の主流とは距離を
措いて部分的に新法を認め、役法・西夏対策などにも見識を有した。文人としても兄と並んで知られ、“小蘇”と
呼ばれた。唐宋八大家の1人。
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李公麟山荘図 |
613 |
宋江 |
生没年不詳 |
宋 江(そう こう、Song Ji?ng、生没年不詳)は、北宋末の1121年に現在の山東省近辺で反乱を起こした人物。四大叛徒の
一人。また、その反乱事件に題材にした小説で中国の四大奇書の一つである『水滸伝』では主人公となっている。綽名は呼保
義(こほうぎ)。
14世紀に編纂された『宋史』によれば、宋江の率いる反乱軍は河朔(黄河北岸)に興り、1121年に淮南の諸地方を荒らした
後、官軍の追討を受けて京東(北宋の首都開封の東、現在の山東省西部)、江北(長江北岸)を転戦し十郡を攻略した。宋
江の勢いを恐れた北宋朝廷は、侯蒙の建策に従って宋江の罪を赦して将軍に取り立て同時期に江南を席巻していた方臘の乱
の反乱軍を討伐させようとしたが、侯蒙の死によって実現しなかった。その後、山東半島の海州に侵攻したところで知州の張叔
夜に敗れ、降伏した。
『水滸伝』作中の宋江は、字は公明で、あだ名は及時雨(きゅうじう)、呼保義(こほうぎ)という。天魁星の生まれ変わりで、天
魁星・呼保義の宋江、あるいは山東の及時雨と呼ばれる。梁山泊の好漢百八人中の序列第一位の好漢。
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西江月 |
614 |
李師師 |
生没年不詳 |
李 師師(り しし)は、北宋末期の美妓。徽宗の妃嬪。
染匠の王寅の娘。母は難産のため死去し、父も早くに亡くし、養祖母の姓である李姓を称した。開封の名妓として知られ、崔
念奴と共に最優秀な女性歌手として評価された。秦観、周邦彦らの詩人とことごとく知り合った。その後、趙元奴などと共に徽宗
の寵姫となって、多くの財帛を賞賜された。反乱軍の首領宋江も、徽宗から招安のため李師師に賄賂を贈った。瀛国夫人を授
され、才人にいたった。
欽宗が皇帝に即位すると、軍費のため李師師の財帛は全て没収された。靖康元年(1126年)、金軍が開封を陥落させた際、
李師師は混乱により行方不明となった。変装して逃亡したと考えるのが通説であるが、自殺したあるいは出家したとも言われた。
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615 |
孫覿(そんてき) |
1081〜1169年 |
北宋時代(960〜1127)に活躍。幼くして蘇軾に才能を見出されたといわれる。
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再宿楓橋 |
616 |
張元幹 |
1091〜不明 |
両宋期の豪放な作風の詞人(1091年〜不明)字は仲宗、号は葦川居士。長楽(現福建内)の人。対金主戦論者で、媾
和に反対し、やがて退けられる。
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石州慢 |
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陳師道 (ちんしどう) |
1053-1102 |
陳師道(ちん しどう、1053年[1](皇祐5年) - 1102年1月19日(建中靖国元年12月29日))は中国・北宋の詩人・政治家。彭城(現在の江蘇省徐州市)の出身。字は履常、無己。号は後山居士。
曾鞏に見いだされ、蘇軾に教えを受け、蘇門六君子のひとりとされる。新法に反対していたため満足に職を得られず貧窮し、妻子を郷里に預けて離ればなれに生活しなければならないほどであった。
徐州教授・太常博士を歴任し、秘書省正字で生涯を終えた。野外で行われる冬至の祭礼に出席する際、新法派の親戚に防寒用の衣服を借りることを拒否したため体調を崩し、病状が悪化した結果のことという。著書に『後山集』・『後山詩話』・『後山談叢』などがある。
詩風
その詩風は江西詩派のものとされ、黄庭堅と並称される。杜甫の作風を手本とする江西詩派のなかでも陳師道は特にその傾向が強い。苦吟するタイプで、家の中にこもって蒲団をかぶりながら詩作するので家人が避けるほどだったというが、その詩は技巧に凝りすぎずにほどよく情感が表現されている。
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除夜対酒贈少章
春懐示鄰里
示三子
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秦観 (しんかん) |
1049-1100 |
秦観(しん かん、1049年(皇祐元年) - 1100年(元符3年))は中国・北宋の詩人・政治家。字は少游。太虚。号は淮海居士。揚州高郵(江蘇省高郵市)出身。
蘇軾の門下であり、蘇門四学士のひとり。1085年(元豊8年)の進士。太常博士、国史館編修になったが、紹聖年間(1094年-1098年)に入ると新法派によって中央から退けられた。杭州通判を皮切りに雷州や?州などに左遷され、召還をうけて帰途にあった藤州(広西チワン族自治区藤県)で生涯を終えた。
詩風を一言で表現すると繊細であり、女性の様な弱々しさとの評がある。また、詞においては男女間の機微を詠った作品が多い。
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牽牛花
春日四首
秋日三首
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黄庭堅 (こうていきん) |
1045ー1105 |
黄庭堅(1045ー1105)は洪州分寧(江西省修水県)の人。神宗が即位した治平四年(1067)に二十三歳で進士に及第、流入して地方官を転々とします。大名府(河北省大名県)の国子監教授のとき蘇軾に詩を送って激賞されました。
哲宗の即位後、都に召されて秘書省校書郎になり、神宗実録院検討官・集賢校理、ついで著作佐郎にすすみます。元祐三年(1088)には蘇軾、晁補之(ちょうほし)とともに科挙の試験官を務めますが、そのご母の喪に服するために帰郷します。
紹聖二年(1095)、除服して都にもどるときには哲宗の親政になっていました。新法党が起用され、黄庭堅は神宗実録のなかで新法を非難したと弾劾され、?州(四川省?陵県)別駕に貶謫されます。ついで黔州(四川省彭水県)安置、戒州(四川省宜賓市)に移されます。徽宗が即位した元符三年(1100)にいったん赦されますがすぐに宜州(広西壮族自治区宜山県)に再貶され、任地へ着いて四年後の崇寧四年(1105)に亡くなりました。享年六一歳です。
詩題の「分寧」(ぶんねい)は作者の故郷。元豊六年(1083)、三十九歳のときに故郷を訪ね、発つときの作とされています。「杜澗叟」(とかんそう)は名を槃(はん)といい、故郷の友人です。「陽関」は王維の詩「元二の西安に使するを送る」(ティェンタオの自由訳漢詩131、2008.11.13のブログ参照)のことで、送別の宴でこの詩が詠われたのでしょう。「旌陽」は分寧東郊の山の名で故郷というにひとしく、「一釣舟」はみずからを釣舟に喩えるものです。後半は送別会で大いに酔ったことを詠い、酒好きのおれのことを「風月」(清風と明月)が代わって心配していてくれるととぼけてみせます。
黄庭堅は詩作に際して「換骨奪胎」「点鉄成金」(鉄に工夫を加えて黄金にする事)などの技法を主張し、先人の詩句や詩境を自覚的に活用することを重視しました。たとえば二句目の「燈火 旌陽 一釣舟」は王維の「元二の西安に使するを送る」の二句目「客舎 青青 柳色新たなり」を換骨奪胎したものでしょう。この技法は後世に広く影響をあたえ、北宋末から南宋にかけて流行しました。そのながれを黄庭堅の故郷の名をとって「広西詩派」と称します。
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雨中登岳陽楼望君山二首
夜発分寧寄杜澗叟
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米フツ |
(べい ふつ) |
1051-1107 |
皇祐3年(1051年) - 大観元年(1107年))は、中国の北宋末の文学者・書家・画家・収蔵家・鑑賞家であり、特に書画の専門家として活躍した。
初名は黻。字は元章(げんしょう)。官職によって南宮(なんぐう)、住拠によって海嶽(かいがく)と呼ばれ、号は襄陽漫仕(じょうようまんし)・海嶽外史(かいがくがいし)・鹿門居士(ろくもんこじ)などがあり、室名を宝晋斎といった。子の米友仁に対して大米と呼ぶ。襄州襄陽県の人で、後に潤州(現在の江蘇省鎮江市)に居を定めた。
『蜀素帖』(部分)米フツ書
書においては蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに宋の四大家と称されるが、米?は4人の中で最も書技に精通しているとの評がある。他の3人はエリート政治家として活躍したが、米?は書画の分野のみで活躍した専門家であった。彼の題跋は今日でも王羲之や唐人の真跡を研究する上で最も重要な参考資料になっており、その鑑識眼は中国史上最高ともいうべきものである。画においては米法山水の創始者として知られ、多くの人に模倣された。また、従来、専門家が行っていた篆刻を作家自ら始めた人物とも目されている。
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寄薛郎中紹彭
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晁補之 |
ちょうほし |
1053年−1110年 |
北宋時代の中国の文章家。字は無咎、帰來子と号する。蘇軾・蘇轍兄弟に学び、秦観・黄庭堅・張耒と共に「蘇門四学士」と称された。
済州鉅野(山東省巨野県)の出身。聡明で記憶力がよく、文章がうまいところから王安国にその才能を認められる。17歳の時に父に連れられ杭州に行き、銭塘の風物を詩に詠じ、蘇軾に見いだされ広く知られるようになる。郷試・会試ともに第一位で、元豊2年(1079年)に進士となる。神宗の時代に北京国子監教授となる。元祐元年(1086年)に太学正、著作佐郎となる。紹聖元年(1094年)に知斉州となり、『神宗実録』を編修したが、間違った記述をしたという理由で応天府(現在の河南省商丘市)、ついで亳州(安徽省亳州市)の通判に左遷され、哲宗の代の元符2年(1099年)にはさらに監処州(浙江省麗水市)に赴任する途中、喪(丁憂)に服し、信州(江西省上饒市)の酒税となる。徽宗の代に召されて吏部外郎・礼部員外郎中・国子編修実録検討官を拝命する。ついで河中府・湖州・密州・果州をへて、鴻慶宮の主管になる。大観年間の末に知達州・知泗州となり、まもなく没する。任城呂村に葬られた。高宗の代の建炎4年(1130年)、龍図閣直学士を贈られた。
陶淵明の人となりを慕い、故郷に帰來園を作り帰來子と称する。従弟の晁謙之が編んだ『?肋集』が残されている。楚の詞論にもっとも通じ、屈原と宋玉以来の賦を集め『変離騒』などの書を編纂した。
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贈文潜甥楊克一学文興可画竹求詩 |
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張耒 |
(ちょう らい) |
1054―1114 |
1054年 - 1114年)は、北宋時代・中国の文人。字は文潜。
楚州淮陰(現在の江蘇省淮安市)に生まれる。遊学中に蘇轍に学び、兄の蘇軾に認められてその門人となり、のち晁補之(ちょうほし)、秦観、黄庭堅とともに、蘇門四学士の1人に数えられる。神宗の熙寧六年(1073年)に進士に合格し、臨淮県の主簿・寿安県の尉・咸平県の丞を歴任。中央に推挙され大学録となり、元祐元年(1086年)、哲宗の代に秘書省正字・著作佐郎に任命される。やがて著作郎と史院検討官を兼任し、その8年後に起居舎人に抜擢された。紹聖元年(1094年)には龍図閣直学士・潤州知事だったが、新法・旧法の争い(党争)に巻き込まれ、旧法党として宣州知事・監黄州酒税に左遷された。徽宗が即位すると黄州通判となり、中央に復帰して太常少卿となり、潁州・汝州の知事を歴任。崇寧元年(1102年)、またしても党争のために罷免され、陳州に隠退して多くの門人を指導し、宛丘先生と呼ばれた。
排老論者であり、かつて「老子議」を発表して老子の説を批判したことがある。筆力は雄健であり、特に騒体の作に優れ、蘇軾(1037-1101)・蘇轍(1039-1112)にその才を称された。蘇兄弟や黄庭堅・晁補之が相次いで没した後には大家の名をほしいままにした。常に文を作るには理を以て主とすべきと唱え、明確な文章を目指した。晩年は白居易の平淡な楽府体に学んだ。
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田家
海州道中
輸麥行
柯山集 全50巻 |
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王禹稱 |
おううしょう |
954年 - 1001年 |
宋代中国の官吏・文人。字は元之。黄州と呼ばれる。済州鉅野(現在の山東省巨野県)の農家出身。太平興国8年(983年)に進士となり成武主簿に任命され、知長州県を経て大理評事に改められる。端拱元年(988年)に太宗から召されて右拾遺に抜擢され、翌年には左司諫・知制誥・判大理寺事に進むが、後に商州団練副使に左遷される。淳化4年(993年)に再度召されて左正言となるがその剛直にすぎるところを譴責される。累進して礼部員外郎・知制誥、至道元年(995年)には翰林学士・知審官院となる。ところが誹謗されて工部郎中知?州・知揚州に左遷され、真宗が即位した後に知制誥に復帰、咸平元年(998年)に『太祖実録』を編修、同年に黄州へ左遷された。その3年後に?州へ赴任してまもなく、48歳で没する。
直言直行を自分の任務とこころえ、そのためにしばしば昇進の機会を逸した。9歳の頃から文章に長じ、古文運動を起こす。欧陽脩は王元之を追慕し、「書王元之画像側」という詩で顕彰している。?懿行によると、王元之はかつて李継遷の制誥文の草稿を作ってやったので、継遷から潤筆として馬50匹を贈られたが、元之はそれを受け取らなかった、という逸話がある。
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村行
對雪
春日雜興
日長簡仲鹹
著書
『小畜集』『小畜集外集』
『集議』
『五代史闕文』 |
622 |
魏野 (魏仲先) |
ぎや (ぎちゅうせん) |
960−1019 |
字は仲先。もと蜀(四川省) の人であったが、陝州(河南省)に移り住み、聞達を求めず、東郊の自然を愛して、そのあたりを楽天洞と名づけ、草堂を築いて、草堂居士と号し、「草堂集」を著わした。真宗の大中祥符の初め、遼の使者が来朝したとき、「わが国では、草堂某の上帙は手に入れているが、下秩がぜひ欲しい」と申し出たので、詔にょってそれが遼国に贈られたという話がある。そんなわけでこれも隠士の李?といっしょに、朝廷に出仕するように推薦されたが、魏野は「願はくぼ?畝を守り、永く帝力を荷はん」と上書してことわったので、真宗は県の役人にだいじに絶えず世話をするようにと特に命じた。こうして一生を布衣でおくり、真宗天ニ三午、六十歳で、没した。死後、秘書省著作郡の位階が贈られた。
その詩は、いわゆる晩唐体で、賈島を学び、その生き方と同じように超俗の気韻にあふれたものであった。死後は林逋(和靖)ほどには喧伝されなかったけれども、生存中の評判は林適よりもはるかに上であった。
「草堂集」は、そのままの形では伝わらず、没後編纂された「鉅鹿東観集」十巻が今日に伝わっている。
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書三門羽化院琳師房
登原州城呈張貴従事
書逸人兪大中屋壁
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李涜 (李長源) |
りとく (りちょうげん) |
未詳 |
李瑩の子。あざなは長源。淳淡好古、博学であったが仕官を求めず、書画の聚集と酒を愛し、中条山に往来して、幽跡のとこ
ろに仮住居していた。真宗の招きに、足が悪いといって応ぜず、「代代儒墨の家で、世を避けて静かに修養につとめたい」と答え
た。死期を知ると、父の集七十篇と書画を子供たちにわたし、酒をのんで死んだ。
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水調歌頭 |
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楊億(楊大年) |
ようおく(ようたいねん) |
974-1020 |
字は大年。建州滴城(福建省)の人。太祖の開宝七年に生まれた。七歳で文を書き、十一歳で文名が郡に伝わり、太宗は招
いて詩賦を作らせ、秘書省正字を授け、のちに進士及第の資格を与え、光緑寺丞にすすめた。太宗の没後、銭若水に詔が下
って「太宗実録」を編修せしめられたとき、若水は億を推薦し、八十巻の実録のうち五十六巻は億が独りで起草した。真宗の世
になる之、二部侍郡にすすみ、簡体字±となり、詔をぅけて御実の匹釈を書き、史程の熔摂を兼ねた。天ニ七年、 四十七歳
をもって没し、文とおくりなされた。
名節をたっとび、後進を導き、典章制度に通じ、その文は雄健、かつて王欽若らと、勅を奉じて「冊府元亀」一千巻を編纂した。
詩文集に、「括蒼」・「武夷新集」・「頴陰」・「韓城」・「退居」・「汝陽」・「蓬山」・「冠鰲」などの諸集あわせて一九四巻の著が
あったが、今は 「武夷新集」 二〇巻のみが伝わっている。その真宗の景徳中に史館にあって、銭惟演・劉?らと酬唱した五七
言律詩二百四十七章を「西崑酬唱集」と名づけたので、彼を中心にした宮廷詩人のグループの詩風を「西昆体」とよび、一世
を風靡した。
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漢武 |
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劉均 (劉子儀) |
りゅういん (りゅうしぎ) |
971-1031 |
字は子儀。大名(河北省)の人。生卒年不明。真宗の大中群符の末ごろ在世。進士にあげられ、館陶県の尉をしていたが、
楊億に才をみとめられて、大理評事をもって秘閣の校理となり、「図経」および「冊府元亀」の編修に加わり、左正言に進み、史
館に直し、「起居注」の筆をとり、累遷して翰林学士となった。かつて宰相の丁謂をやめさせる詔の起草を命じられて書いたが、
俄かにまたそのまま相位にとどめられることになって、その詔の起草をさらに命じられると、それをこばんで、地方へ出ることを希望
し、廬州(江西省)の知となった。その後召されて翰林学士承旨となったが、ふたたび廬州に出て、その地で没した。文章は、対
偶をこのみ、もっとも詩に工みで、李商隠・唐彦謙をたっとび、いわゆる西崑派の磨きのかかった詩を作り、「楊劉」と並称された。
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舘中新蝉 |
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寇準 (寇平仲) |
こうじゅん (こうへいちゅう) |
961-1023 |
あざなは平仲。華州下?(陝西省)の人。太祖の建隆二年に生まれ、仁宗の天聖元年(即位の第一年)に六十三歳で没し
た。
若くして英邁、「春秋」三伝に通じ、十九歳で進士に及第。大理評事、成安(河南省)県の知をふり出しに枢密院直学士に至
る。殿中で上奏中、帝が怒って座を起とうとすると、御衣をつかんで座にもどしたこともあり、太宗は、唐の魏徴に此したという。真
宗の景徳元年、同中書門下平章事(宰相)となったが、たまたま遼草の侵入があると、動揺する衆議を圧えて、帝の親征を求
め、?州の大勝を博した。王欽若の謀略にかかり宰相をやめたが、天ニの初め、ふたたび宰相に復活し、莱国公に封ぜられた。
しかし今度は丁謂の構えるところとなり、雷州(広東省)の司戸参軍に流され、衡州(湖南省)の司馬に移り、その地で没くなっ
た。仁宗のとき、忠愍とおくりなされた。
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春日登樓懐歸
夏日 |
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藩ろう〔門+良〕はんろう |
未詳 |
あざなは、わからない。逍遥子と号した。大名(河北省)の人。かつて洛陽(河南省)で売薬を業としていたが、太宗のとき(976-
997)王継恩の推薦にょって、召されて試験をうけ、進士及第の資格を与えられた。しかし狂妄なところがあるというので、その詔
書(特別資格証明書)を取りあげられ、その後法にふれる点があって亡命し、真宗のとき(998-1022)捕えられ、罪を許されて、
徐州(安徽省)の参軍(軍記)になったが、また法にふれて、ついに泗水(江蘇省北部)のほとりで没くなった。生卒、享年すべて
不明。
宋初の晩唐派詩人の一人として、冠準・王裔侶・林逋・柳開らと親しく交わり、名は高く、後に蘇軾は、「曼卿(石延年)子美
(蘇舜欽)の下に在らず」といい、劉敗は「劉長卿に減ぜす」とまで褒めあげている。
「逍遥集」一巻がある。
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宿靈隠寺 |
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范仲淹 (范希文) |
はんちゅうえん (はんきぶん) |
989―1052 |
字は希文。蘇州呉県(江蘇省)の人。二歳で父を亡い、母は再嫁。生長して母と別れ、親戚の家に寄寓して、刻苦勉励。大
中祥符の進士となり、晏殊に認められて、秘閣校理となる。つねに感激して天下の事を論じ奮って身を顧みず、その後の士大
夫の気節を尚ぶ風気は、彼によって始まるといわれている。仁宗の朝に、支部員外郎をもって開封府の権知となったが、呂夷簡
にさからってやめ、饒州(江蘇省)の知となった。西北で元昊の叛乱が起こると、竜図閣直学士に抜擢せられて夏竦の副として陝
西の経略に従事すること数年、号令は厳明、士卒を愛撫したので、羌人は彼を「竜図老子」と呼び、また西夏の国人も「小指
老子の胸中には、おのずから数万の甲兵あり」といって、侵入しないように戒めたという。やがて枢密副使から参知政事に進み、
内外からその政事に期待を抱かれたが、堕落した官吏をきびしく取締まったため、訝みきらう者があらわれ、河東陝西の宣撫使
に出された。その後戸部侍郎にもどり、青州(山東省)の知に出たが、病気を以て薪州(安徽省)への転任を希望し、その地に
行き着かぬうちに没した。時に六十四歳、仁宗の皇祐四年で、文正とおくりなされた。
著に、「花文正公集」二十巻、別集四巻、尺腰五巻のほか、政府奏議などがある。本葉には、詩賦二六八首、雑文一六五
篇を収めている。
北宋一代の清廉剛直の政事家で、詩人としての名は、それにおおわれているが、その詩は国士としての気概に富み、治乱に関
するものが多い。文章では、「岳陽楼の記」が名文として人口に膾炙している。
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贈釣者
漁家傲?秋思
蘇幕遮
漁家傲
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梅堯臣 (梅聖兪) |
ばいぎょうしん (ばいせいゆ) |
1002 ―1060 |
字は聖兪。宣州宣城(安徽省)の人。真宗の咸平五年に生まれ、父(梅詢)の蔭をもって大願の斎郎となり、河南の主簿を振りだしに、県令・監税・筌書をへて、鎮安(陝西省)の判官と、地方の職を転々としていたが、詩名ははやくより聞こえ、河南にいたとき王晦叔は彼の詩を見て、「二百年この作なし」と激賞した。銭惟演に愛され、仁宗の朝に入って、進士出身の資格を与えられたが、別にそれで報いられるところもなかった。ついで学士の趙概ら十餘人が連署して推薦したので、はじめて国子監直講となり、やっと中央の官僚となれた。そして最後は、尚書屯田都官員外郎で終わり、仁宗の嘉祐五年、五十九歳で没している。
その著には、「宛陵集」六十巻附一巻(「宋史」の本伝は四十巻という)のほか、「毛詩小伝」二十巻および「唐載記」二十六巻がある。「唐書」の編纂にも加わったが、その完成を見ないうちに没している。
一生を通じて官歴は決して恵まれなかったが、その詩名は高く、司馬光・蘇軾・王安石らの名士とも交わって尊敬をうけ、もっとも欧陽修から敬愛された。その初期の詩は、清淡な趣を主として詠じ、「もっぱら葦蘇州(唐の自然詩人)に学ぶ」といわれたが、欧陽修と詩交が増すとともに、その影響をうけて韓愈(退之)の詩格を学ぶようになり、「古健奇秀」といった味を出すようになった。欧は、かつて彼を孟郊に比し、「郊死して、聖愈その蔵を発く」といい、また「近ごろの詩は、もっとも古硬」と評している。そこで「宋詩鈔」も、「初めは清麗・閑肆・平淡をなすを喜びしが、久しうして則ち涵演深遠、まま また琢剥以って怪巧を出す」に至ったという。蘇舜欽と並んで、世に蘇梅といわれ、欧陽修の羽翼として、宋詩に新しい道を開拓した功は、高く評価され、元の?嘯は、「浮靡の習を、崑体極弊の際に去り、古淡の道を諸大家の未だ起らざるの先に存す」といい、劉克荘は、「聖露出でてより、然る後、桑濮の淫哇やや息み、風雅の気脈また続く」といい、葉變は、「宋詩一代の面目を開くものは、梅尭臣・蘇子美より始まる」と、口を揃えてその宋詩のいわば開山祖師であることを強調している。 |
雑詩
魯山山行
小村
范饒州坐中客語食河豚魚
傷白鷄
河南張 |